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― ヒロ -2- ―

 

 『何故か桜庭にとっ捕まった。これから飲みに行くけど、絶対時間までに切り上げて、連絡入れる』

 メールを送信して、数分後。手元の携帯が、メール着信を知らせて震えた。

 『私も予定よりちょっと遅くなりそうだから、気にしなくていいよ。飲んでる最中だと悪いから、連絡はメールで入れるね』

 ―――バカ、ちょっと位、心配しろ。
 他の女と飲むと言っているのだから、止めないまでも、少し位拗ねてもよさそうなものだが―――それどころか、邪魔してはいけないと気を遣っているのだから、苦笑するしかない。

 「何、この後の予定って、デート?」
 携帯電話を閉じた途端、向かいの席の桜庭が、いきなりそう突っ込んできた。メールを受けた時の表情が、無意識のうちに和んでしまっていたらしい。
 「いや、仕事」
 愛想なく答えた瑞樹は、ただし相手は蕾夏だけどな、と心の中でだけ付け加えておいた。
 「…嘘っぽいなぁ…。第一、夜の9時過ぎから仕事なんて、そんなのあり?」
 「フリーランスは、24時間営業だろ」
 実際、嘘をついている訳ではない。
 この後、蕾夏と会う約束があるが、その内容は間違いなく“仕事”なのだから。


 時田がロンドンへ戻ってから、ほぼ1週間。瑞樹と蕾夏の最大の課題は、“カラーページ1ページ分のコラム企画案”だった。
 あるテーマに基づき、瑞樹が写真を撮り、それに蕾夏がコラムを添える―――そのスタイルは既に決まっていたが、肝心のテーマが、なかなか絞り込めない。1週間経った今も、まだ足踏み状態だ。
 企画案提出まで、まだ3週間以上あるが―――今週末には、奏が日本に来る。蕾夏は“花とくらす”の締め切りが近づいてくるし、瑞樹も来週からはもっと忙しくなる。だから、奏が来る前に、ある程度アイディアを固めておきたい…2人とも、そう思っている。今日会う約束も、お互いに資料を持ち寄ってアイディアを詰めるためなのだ。

 今日は、瑞樹より蕾夏の方が仕事の上がりが遅くなることはあらかじめ分かっていたので、約束の9時まで本屋で資料でも漁って時間を潰すか、と考えていた。
 それが―――まさか、桜庭と飲むことになるとは。
 一緒に飲んで、楽しい相手とは思えない。同じ暇つぶしなら、本屋の方がマシだと、今でも思う。これが、今日じゃなければ―――桜庭が蕾夏と仕事をした日でなければ、即座に断っていただろう。
 ―――何の話がしたいのか知らねーけど、万が一蕾夏絡みだったら、断って陰湿に引きずられるより、OKして聞いといた方が得策だな。
 というのが、瑞樹の考え。
 どのみち暇つぶしの必要があったのだし、もし蕾夏の話じゃなければ適当に流せばいいか。そう割り切った瑞樹は、あえて桜庭の誘いに応じたのだ。


 注文したものが運ばれてくるまでの間、桜庭は、当たり障りのない話をしていた。
 溝口が、仕事上での後輩を時田事務所の仲間に引き入れようとしているらしい、とか、この店の割引クーポンが家にあるのに、あいにく今日は持ってきてなくて残念だ、とか―――そして、やっと本題に入ったのは、酒とつまみがほぼ揃った時だった。

 「ところでさ。さっき、妹がいるって言ってたけど…」
 ビールの入ったグラスを置くと、桜庭は、少し普段とは違うトーンの声音で話し始めた。
 「一旦離れ離れになっても、やっぱり妹って、妹?」
 「は?」
 「妹だった頃なら話せたことが話せなくなったとか、妹だった時は信用できたものが今は信用できないとか…そういうの、ない?」
 なんだそりゃ、という顔をした瑞樹は、桜庭の質問の意図がよく分からず、内心、首を傾げた。
 家族の話をするのは、あまり好きではない。とはいえ、適当に流すには、あまりにも桜庭の表情が真剣すぎた。僅かに眉をひそめた瑞樹は、仕方なく、事実のみ話すことにした。
 「…特に、これといっては、なかったな」
 「ほんとに?」
 「っつーか、いくらきょうだいでも、話せねーこと位あるだろ。離れてようが、離れてなかろうが」
 少なくとも自分は、話せないことだらけだった。そして、あの頃話せなかったことは…今も、海晴には話せないことだ。表面上、普段通りの無表情を貫きながら、瑞樹は心の中でだけ自嘲の笑みを漏らした。
 「そ、か…。あたしが“きょうだい”に幻想抱き過ぎなのかな…」
 意外にも瑞樹の言葉に異議を唱えなかった桜庭は、そう言ってテーブルに頬杖をついた。
 暫し、間が空く。そして桜庭は、視線を落としたまま、呟くように口を開いた。
 「―――あたしにもさ、弟がいたんだ」
 「過去形か」
 「そ。今は、もう弟じゃない。あたし達の場合…元々、血が繋がってなかったから」
 はっ、と短く息を吐き出した桜庭は、忌々しげにグラスを掴むと、ビールを一気に半分ほども流し込んだ。自棄酒じみた飲みっぷりだが、そうしないと話せないような気分らしい。

 そして桜庭は、“元・弟”について語り始めた。

***

 「この前、時田さん来た時、言ったでしょ。あたしが高1の時、母親が再婚したって。…本当はあたし、嫌だったけど、父親が死んだのが9つの時だったから、いい加減死んだ父親に義理立てするのを強いるのもまずいのかな、って思って、一応賛成したんだ。それに、相手の人、有名な会社のお偉いさんだったし―――生活が少しでも楽になるんなら、それもいいかな、って。…その、再婚相手の連れ子が、1つ年下の、ヒロだったのよ」
 なるほど―――それで、血が繋がらない“元・弟”な訳だ。なかなか複雑な関係だな、と瑞樹は眉をひそめた。
 「いきなり、そんなデカい弟できて、ちょっと戸惑ったけどね。でも…あたしが6つの時に、母さんが男の子流産したから、さ。…その子が生まれてれば、あたしには弟がいた筈なんだ。だから、弟ができるのは、ちょっと嬉しかったんだ。だから、ヒロとは、本当のきょうだいみたいに仲良くしよう、って思ってた」
 「仲良く、っつっても…中3と高1じゃ、本当のきょうだいでも、そうそう仲良くはしねーんじゃねぇの」
 「だろうけど―――多分、寂しかったんだと思う。父さん死んでからずっと、女2人で、どことなく心細かったからね。単純に、男の人が家にいてくれるのが嬉しかった部分もある」
 「…桜庭らしからぬ話だな」
 皮肉っぽい笑いを浮かべて瑞樹がそう言うと、
 「まだ可愛い女子高生だったのよ」
 桜庭は、ムッとしたように眉を上げ、軽く瑞樹を睨んだ。瑞樹としても、別に茶々をいれるつもりはないので、肩を竦め、話の先を促した。
 「…ヒロは、正直言って“可愛い弟”ってタイプじゃなかった。並んでるとあたしよりヒロの方が大人に見えたし―――あんまり、愛想ないし。でも、家族が増えたことは、ヒロなりに喜んでたみたい。さすがに“姉さん”なんて呼ぶのは気恥ずかしいみたいで、あたしのことは“サキ”って呼んでくれた。仲良く、ってほどじゃないけど、そこそこいい“きょうだい”してたと思うよ、自分ではね」
 そこまで言うと、桜庭は、ちょっと明るい笑いを見せた。
 「あたしが、高校の写真部で撮った写真を、母さん以外で初めて褒めてくれたのも、ヒロだったんだ。再婚したのが1年の夏で、それから暫くして文化祭の話があってね。母さんが仕事帰りに買ってきた赤い薔薇の花―――花瓶に活けといたやつをさ、そのために撮ったのよ。それ見てヒロが“サキ、才能あるじゃん”って。嬉しかったなぁ…ヒロに褒めてもらえて。あの時初めて、あたし、将来はこの道に進もう、って思ったんだ」
 「去年の、あの薔薇の写真も、そのせいか」
 “想い”をテーマにした写真展に桜庭が出した写真は、真っ黒な背景に、真紅の薔薇1輪だった。それを思い出して瑞樹がそう言うと、桜庭は、一瞬顔を引き攣らせ、それから薄く笑った。
 「まあ…ね。高校の時に撮ったのは、もっと明るい写真だったけどさ」
 「ふーん…」
 「…上手くいってると、思ったんだよね。その頃は」
 桜庭の目が、ふいに、翳った。
 「―――再婚して、半年経った頃、かな。…なんか、急に、ヒロが冷たくなったんだ」
 「急に?」
 「そう、急に。高校受験の真っ最中だったから、そのせいかな、と思ってたんだけど―――受験終わって、高校に入学しても、全然態度が変わらないから、あたし、思わず怒鳴っちゃって…喧嘩になっちゃったんだよね。何か気に障ることをあたしがしたのか、何か不満があるなら話してくれればいいのに、って。家族なんだから、隠し事はよそうよ、って。…そしたら、ヒロに言われた。“お前らは家族なんかじゃない、早くこの家から出ていけ”って」
 「……」
 「ショックで―――ヒロのこと、憎いって思った。あたしは、新しい家族を大事にしようと頑張ってんのに、あんたは何なのよ、って…最初、そこそこ上手くいってると思ってただけに、裏切られた気分だった。その日から…口、きけなくなった。ヒロとは」
 それは…いくらなんでも、理解しがたい豹変ぶりだ。全く理由がない筈がない。
 「心当たり、ないのかよ」
 「なかった。全然」
 「そうは言うけど、あんた、物言いがきついからな」
 「…それは、最初、思った。自分でも気づかないうちに、ヒロが傷つくようなこと言ったのかな、って。でも―――いくら考えても、分からなかったんだ、ほんとに。だからあたしは、ヒロが冷たくなった理由は、家の外にあるって思ってたんだ。…あの日、までは」

 言葉が、途切れる。
 桜庭の顔からは、皮肉めいた笑いも、素直な笑いも、一切消えていた。陰鬱な空気に、なんとなく嫌な予感を、瑞樹は覚えた。

 「…ちょうど、再婚して、1年かな。あたしが高2の夏休み―――偶然、夜中に起きて、見ちゃったんだ」
 「…何を」
 「―――あの人が、母さんのこと、殴ってるとこ」
 「……」
 「…初めてじゃなかったんだってこと、離婚した後で知った。母さん、ある程度責任ある仕事に就いてたから、再婚後も仕事辞めなかったんだけど…その辺も、気に食わなかったみたい、あの人は。その年の初め頃から、ちょっとしたことで叩かれたり怒鳴られたりすることがあったんだって」
 その年の、初め頃から―――…。
 符合する時期に、瑞樹は息を飲んだ。ヒロが冷たくなった時期は、高校受験の真っ只中ごろ―――それはつまり、その年の始めごろではないだろうか?
 「あたし…全然知らなかった。あの人、無口で、ちょっと気難しいところはあったけど、普段は凄く静かで穏やかな人に見えたから。それにあたし、学校のことや友達との付き合いで精一杯で…母さんが、仕事のない日曜日でも綺麗に化粧してる理由、深く考えてもみなかった。まさか―――まさか、殴られた痕を隠すためだなんて…」
 「……」
 「結局、驚いて、夫婦喧嘩に乱入して―――あたしも、殴られた。母さんも、さすがに娘にまで手を挙げる旦那には愛想が尽きたらしくて、あたし連れて家を出たんだ。揉めたけど、あの人も裁判までする気はなかったみたいで…双方、何も要求しないし、何も支払わない、って条件で、無事離婚した。…結局は、たった1年の“家族”だったんだ」
 「…そう、か…」
 「―――全部が終わってから、初めて、気づいた。ヒロは、全部知ってたんじゃないか、って」
 瑞樹が考え付いた仮説に、当時の桜庭も行き着いていたらしい。そのことを語る桜庭の目は、酷く苦しそうだった。
 「あたしが何も気づいてなかった頃…ヒロは、自分の父親が新しい母親に暴力振るってるんだ、ってことに気づいてたのかもしれない―――その矛先が、いずれあたしにも向くって、分かってたのかもしれない。だから、傷の浅いうちに逃がしてやらなきゃ…そう思って、わざとあたしに冷たい態度を取ったのかもしれない。不器用な子だから、そんな方法しか思いつかなかったのかも―――って。そう思ったら、もうどうしようもなくて、あたし―――必死に調べて、ヒロの母親を見つけ出したの」
 「母親?」
 「ヒロのとこは、死別じゃなくて、離婚だったんだ。ヒロの母親は、あの人と離婚して、その当時、もう別の人と結婚してた。子供もいて―――突然訪ねてきたあたしのこと、凄く迷惑そうにしてた。でも、納得いかないから、なんとか訊き出したんだ。なんで離婚することになったのか」

 更なる嫌な予感が、瑞樹を襲った。
 それは、自分自身の傷とも重なる、予感―――その予感に、思わず、膝の上の握り拳に力を入れた。

 「その人から聞いた話で、全部、分かった。…あの人、昔から、仕事で上手くいかないことがあると、家族に手を挙げる人だったんだって。ヒロが、まだ小さい頃から―――もう、何度も何度も、ヒロのこと、殴ってたんだって」
 「―――…」
 「最初は母親も庇ってたらしいけど、一度、入院するほどの怪我を負わされてからは、自分が殴られるのが一番怖くなって、ヒロが殴られても、見て見ぬフリするようになってたみたい。…結局、他の男の人に逃げ場を求めて、ヒロが10歳の時、家を出たんだって。その頃には、ヒロも結構大きくなってて、あの人もあんまり殴ったりできなくなってたらしいけど…今更、やり直す気にはなれなかった、って言ってた。…酷いと思わない? 実の母親なのにさ」

 ―――酷い、けれど。
 そんなもんだ、という気持ちが、瑞樹の中にはある。
 この世にいる親という生き物が、全員、自分の痛みより子供の痛みを優先するのであれば、捨て子も虐待も子殺しもない筈だ。でも、そんな話は、掃いて捨てるほど、いくらでもある―――自分のために子供を犠牲にする親も、結構な数、いるのだ。
 ヒロの両親のように。
 …瑞樹自身の、母親のように。

 憤りが、胸を刺す。
 自分の怒りを、抵抗できない小さな子供にぶつける親に対しても。そんな子供を、保身のために見捨てる親に対しても。
 ―――その両方を1人でやってた“あの女”って、かなり特殊なケースかもしれないな。
 幼い瑞樹に手を挙げた上、保身のために瑞樹に秘密を強要し、最終的にはその命まで奪おうとした女を思い出し、瑞樹は皮肉めいた笑いを口元に浮かべた。

 「成田? 何、どうかした?」
 その笑いに気づき、桜庭が眉をひそめる。何の関係もない桜庭にまで気づかれてしまうような自分に、余計、苦笑が増す。
 「―――別に。プライベートなことだ、気にするな」
 桜庭には、分からなくていい。
 これは、自分1人で抱えていく筈だった重荷だ。
 そして今は―――2人で死ぬまで抱えていこうと、そう約束してくれた人がいる。それだけで、十分。誰にも分かってもらう必要はない。
 「それより…その弟、その後、どうなったんだよ」
 自分の領域に踏み込まれるのは嫌だった。瑞樹は、入り口に手を掛けようとする桜庭を手っ取り早く追い払うと、話を進めさせた。
 桜庭にとっても、瑞樹が見せた珍しい顔より、ヒロの問題の方が重要だったらしい。瑞樹の一言に、あっさり再び、視線をテーブルの上に落とした。
 「…ヒロの母親に会って話を聞いた後、元の家に行ってみたけど―――家、売りに出されてた。近所の人の話だと、離婚してすぐ、あの人、海外赴任になったらしくて。ヒロがそれについていったのかどうかは、分からないけど」
 「ついて行くとは、思えねーけど」
 「…だよね。あたしも、そう思う。でも…どっちにしても、ヒロの行き先は分かんなかった。本当は、謝りたかったけど―――姉貴ぶっていた割に、ヒロの過去のこと、何一つ気づけなかった上に、一方的にヒロを責めちゃったことを、謝りたかったんだけど…後悔しながら、もう仕方ないのかも、って諦めてた。暫くは」
 「暫くは?」
 「偶然、再会できたのよ。大人になったヒロに。離婚から6年も経って―――あたしも、ヒロも、社会人になってからね」
 それを聞いて、桜庭の最初の質問の意味が、おぼろげながら理解できた。
 “一旦離れ離れになっても、やっぱり妹って、妹?”―――桜庭も、離れ離れになった“元・弟”と、数年ぶりに再会する経験をした訳だ。
 「で、今は?」
 「…ん、まあ、時々会ってる。でも…ヒロの母親に会ったこととかは、結局言えないままでいる。なんていうか…ヒロが、あたしや母さんには触れて欲しくなかった部分なんじゃないかと思って。あたしも、そういう負い目あるから、なんか前みたいな感じになれないし…ヒロも、どっかよそよそしい気する」
 「まあ…そんなもんだよな」
 無理もないだろう、と瑞樹が相槌を打つと、目を上げた桜庭は、僅かに眉根を寄せた。
 「でも、成田と成田の妹は、十数年ぶりに会っても、きょうだいとして接することができたって言ってたじゃない」
 「俺と桜庭んとことじゃ、事情が違うだろ。桜庭と弟は、ある程度成長してから、しかも1年間だけの関係だったんだから」
 下手をすれば、桜庭がヒロを“弟”と思うほど、ヒロは桜庭を“姉”とは思っていなかった可能性もある。生まれた時から12年間、ずっと一緒に育った海晴と同じには考えられないのは、当たり前だ。
 「あたしは、ヒロと、また昔みたいな関係に戻りたいんだけどな…」
 はーっ、と大きくため息をついた桜庭は、苛立ったように、おつまみのピスタチオナッツを剥き始めた。
 「昔みたいな関係って、何だよ」
 「だから、きょうだいみたいな関係。信頼しあって、人には言えないことも打ち明けられるような関係。…もっとも、昔も、本当のきょうだいの境地には、まだなれなかったんだけど」
 「―――そういう関係なら、別に、きょうだいである必要、ないんじゃねぇの?」
 瑞樹がそう言うと、桜庭のナッツを剥く手が止まった。
 再び目を上げた桜庭は、何故か、どこか動揺したような顔をしていた。
 「…どういう、意味?」
 「だから―――きょうだいとか家族じゃなくても、色々あるだろ。友達とか、恋人とか」
 「……」
 「あんたとヒロは、どっちみち、本当のきょうだいじゃないんだし―――“きょうだい”にこだわる必要なんて、あるか?」
 「―――…」

 桜庭の目が、更に動揺の色を増す。瞳をぐらつかせた桜庭は、気まずそうに視線を逸らすと、手元に目を落としてしまった。
 長い長い、沈黙の末。
 桜庭は、やっと、呟いた。

 「―――…自分でも、分からない」
 「……」
 「分からないけど…姉であることを中途半端で投げ出しちゃったから、その時点に戻りたいのかもしれない。誰にも心を開かないヒロでも、家族になら、心開いてくれるんじゃないか、って部分もあるだろうし…」
 「―――家族に与えられた傷だからって、家族に癒せる訳じゃないと、俺は思うぜ」
 瑞樹がそう言うと、桜庭は、少し驚いたように顔を上げた。
 「家族の話だからこそ…家族には、話せない、って心理もあるからな。…ヒロも、もしかしたら、家族に救いは求めてないかもしれない―――あんたが“姉”にこだわるほどには、な」

 瑞樹が、海晴には、何も話せなかったように。
 そんな瑞樹が、怯え、震え、悪夢にうなされ続けている自分を、唯一曝け出すことができた相手が、幸せな家庭に生まれ、両親からの愛情を疑ったこともないような、赤の他人―――蕾夏だったように。

 けれど、それを桜庭に説明する気などない。
 いまいち要領を得ない顔をしている桜庭に、瑞樹は、微かな微笑だけを返した。

***

 「瑞樹っ」
 ビルの外壁にもたれて、ぼんやり夜空を見上げていた瑞樹は、自分を呼ぶ声に、はっと我に返った。
 シンプルなスーツに身を包んだ蕾夏が、ちょうどビルから出てきたところだった。そういえば、前にもこうやって、蕾夏の会社の下で蕾夏が出てくるのを待ったことが何度かあったな―――と思い出し、瑞樹はくすっと笑った。
 「お待たせ。思ったより連絡来るのが早くて、ビックリしちゃった」
 駆け寄ってきた蕾夏は、屈託なくそう言って笑った。確かに。予定を変更して飲みに行った割には、本来の待ち合わせ時間より若干早い時間で落ち合うことになったのだから。
 「桜庭相手だからな。向こうの話が終われば、あとは大して話すこともねーから、とっととお開きにしてきた」
 「酷いなぁ…。こういう時こそ、仲間との親交を深めるために、がんがん飲んだりするんじゃないの? 桜庭さんも結構飲めるタイプなんでしょ?」
 「…おい。お前な、ちっとは心配するとか、拗ねるとかしてみせろよ」
 「あははは」
 ―――まあ、相手が桜庭じゃあ、この反応も当たり前か。
 蕾夏が心配するような相手じゃないのは、日頃、瑞樹が電話で愚痴っている内容からも明らかだろう。微塵も心配をしていないのだとしたら、それはそれでちょっと寂しいものがあるが、あの桜庭相手で変な勘繰りをされるのは、もっと嫌かもしれない。
 「で―――どうだった? 日頃から嫌味ばっかり言い合ってる桜庭さんと、2人きりで飲んだ感想は」
 少しいたずらっぽく目を輝かせる蕾夏に、瑞樹も冗談で返そうとして。
 咄嗟に、返せなかった。
 「―――…」
 ここ2時間のことを思い出すと…どうしても、桜庭に聞かされたヒロの話が、脳裏に浮かんできてしまうから。
 理不尽な暴力に晒され、頼るべき相手に見捨てられたヒロに―――幼い日に置き去りにしてきた自分を、重ねずにはいられないから。
 「? どうかしたの? 瑞―――…」

 それは、酷く発作的なものだった。
 不思議そうな顔をする蕾夏を引き寄せて―――無意識のうちに、その唇を奪っていた。

 ビルの壁に強引に押し付け、更に口づけを深くする。何か足りないものを必死に補おうとするかのように。場所が場所だけに、蕾夏が驚き、慌てふためいているのが分かったが、止められなかった。
 苦しくて。
 たった1人、消しきれない記憶に苛まれながら、孤独と戦っていた自分を思い出すのは、苦しくて。
 必死の思いで手に入れた存在―――それが、今もちゃんと腕の中にあるのだという実感を、確かめずにはいられなくて。

 唇が離れた僅かの隙に、戸惑ったような蕾夏の手が、それ以上のキスを遮るように瑞樹の口元に寄せられた。
 「―――…っ、み、ずき…?」
 「……何」
 「どうしたの?」
 「―――別に」
 僅かに頬を染めた蕾夏の様子に、少しだけ、荒れていた心、凪いだ。
 「ちょっと桜庭から、他人事じゃない話を聞かされて、ブルーになってただけ」
 「……え?」
 「蕾夏」
 キスを制している蕾夏の手をさり気なくどけた瑞樹は、蕾夏の耳元に唇を寄せた。
 「今日、そっち行ってもいい?」
 「……っ」
 わざわざ訊くのがどういう時か、蕾夏ももう十分よく知っている。途端、落ち着きがなくなる蕾夏の様子に、瑞樹も内心苦笑した。
 「で、でも、明日って、仕事…」
 「…別に、構わない」


 こんな時、あと少しの時間が、耐えられなくなる。
 6月になったら―――2人とも納得して決めたことが、耐えられなくなる。ひとりに、なりたくない―――たった一晩でも。

 ヒロにも、蕾夏のような相手がいればいいのに―――意識のどこかで、瑞樹はそう思った。
 家族とか、恋人とか、友達とか―――定義は、何でもいい。ただこうして抱きしめていれば、過去のどんな孤独でも癒される…そんな相手を、ヒロも早く見つければいいのに。そう、願わずにはいられなかった。


***


 ぶらぶらと歩く桜庭の足は、自然、ヒロの住むアパートに向いていた。
 今夜は母も、会社の同僚との付き合いがあると言っていた。かなり遅くなるのは間違いない。お互い、午前様も当たり前な仕事なので、問題はないだろう。第一 ―――母は、何も言うまい。桜庭の行き先が、ヒロの所であるならば。

 まだ帰ってないかな、と思ったが、ヒロの部屋には、既に灯りが点いていた。
 このところ、都内での仕事に落ち着いているからだろうか。在宅の確率が、前より随分高くなった。その分…こうして、ついヒロの部屋を訪ねてしまう回数も、自然、増えてしまう。
 いいことなのか、いけないことなのか…自分でも、よく分からない。
 …いや。分かっている。いいことの筈がない、と。

 ドアをノックすると、まもなく、内側からドアが開いた。
 「こんばんは」
 桜庭がにっ、と笑って言うと、皮ジャンにGパンという服装のヒロは、少し驚いたような顔で出迎えた。
 「…タイミングいいな、サキ」
 「何、帰ってきたばっかだった?」
 「つい5分前。下にあったバイク、まだ温かかっただろ」
 「あ、ごめん。全然確認してなかった」
 今日は若干冷え込んでいたから、部屋の中も少し寒い。ヒロも、そのせいで、皮ジャンを脱いでいない状態だったらしい。

 まあ上がれよ、と促され、桜庭は慣れた部屋に足を踏み入れた。
 「何か飲む?」
 ちょうどビールを冷蔵庫から出したところだったらしく、シンクの上には、まだ水滴の浮いていないビールの缶が1つ、置かれていた。
 「あー…、いい。実は、ちょっと飲んできたんだ。アルコールはもういいや」
 「じゃ、適当なもん飲めよ」
 「うん」
 ちょっと、なんて言ったが、実は結構飲んでしまっている。今、一番飲みたいのは、水だ。桜庭は、荷物を床に置くと、グラスを1つ取り出して、水を1杯汲んだ。

 色の少ない食器類。桜庭が置いたままの位置に置かれた調味料類。壁に貼られた名前の分からないバンドのポスター。相変わらず床に散らばっている雑誌―――…。
 見事なまでに、桜庭以外の女の気配を感じさせない、ヒロの部屋。
 ヒロは、決してモテない方ではない。きょうだいであった1年間にも、ヒロが同じ学校の生徒らしき少女と歩いている姿を、何度か目撃した。しかも、その相手は毎回違っていたように思う。最近はどうだか分からないが、時折、女性ものの香水の匂いがするところをみると、特定ではないが、それなりに女性との付き合いがあるのだろう。
 けれどヒロは、誰にとっての“特別”にもならない。
 そして誰一人、自分にとっての“特別”にはしない。
 この部屋に足を踏み入れられるのは、桜庭だけ―――それは多分、“元・姉”の特権なのだろうと、桜庭は思っている。

 ―――いや。本当に、そうだろうか?
 単に自分が、ずけずけと押し入ってしまったから、今更追い出すこともできずに、なし崩しに受け入れてるだけなんじゃないだろうか。そう考えると、桜庭は複雑な心境になる。

 「…ヒロ、夕飯、食べた?」
 グラス半分、水を飲んだところで、桜庭はグラスをシンクの上に置き、ヒロを振り返った。
 そして、ヒロの様子を確認して、言葉を飲み込んだ。
 何かの葉書を手にして、ヒロは眉を顰めていた。不愉快そうな、苛立ったような表情―――ヒロが普段よく見せる表情の、拡大バージョン。
 「…何、それ」
 「―――別に」
 びっ、と音がして、葉書は真っ二つに引き裂かれた。
 「面白くもない手紙」
 「…あの人から?」
 「―――…」
 葉書をぽいと投げ捨てたヒロは、眉を顰めたまま、桜庭の方を向いた。
 「誰から、だって?」
 「……」
 「言ったよな。干渉すんな、って。サキもサキのお袋も、俺の家族じゃないだろ」
 「…いいじゃん。少し位、干渉したって」
 わざと、挑発するように、そう言う。
 ヒロが怒るのが分かってるのに―――食ってかからずにはいられない、歪んだ関係。


 先に、こんな関係に陥ったのは、桜庭の方だ。
 間違ってた―――馬鹿だった、本当に。なんで、素直に“弟”を受け入れられなかったんだろう? 誰よりも家族を求めていたのは、桜庭自身だった筈なのに。

 『ヒロ、今日、学校帰りに一緒に歩いてた子、誰?』

 …訊いたりしなきゃ、よかったのに。

 『あたしとは口をききもしない癖に、あの子には笑ったりするの? あたしより、あの子の方が信用できるの!?』

 …馬鹿だった。本当に。
 自分達のために、わざと冷たい態度を取っていたヒロの気持ちに気づくこともなく、家族という立場も忘れて、見ず知らずの女の子に嫉妬して、腹を立てて。
 気づかなかった―――姉として、必死にその信頼を勝ち取ろうとした日々の中、1つ年下のこの男に、別の意味を求め始めてた、自分自身に。


 「―――なんだ。そういうことかよ」
 皮肉めいた笑いを浮かべたヒロの手が、乱暴に桜庭の腕を引っ張った。
 「昔からそうだよな、サキは」
 ―――どうせ、そうよ。
 あたしは、昔から、こんな奴だった。
 「構って欲しいんなら、最初からそう言えよ―――ややこしい女だな」


 床に組み伏せられ、愛情なんて欠片もない唇を感じながら、桜庭は、これまでのこと全てを後悔していた。
 両親が離婚する前、ヒロに“姉”以外の顔を見せてしまったこと。再会した時、その顔をどうしても拭い去ることができなかったこと。そしてとうとう―――お互い、自棄になっていた時に、越えるべきじゃなかった一線を越えてしまったこと。
 今、ヒロと桜庭は、お互い合意があれば、当たり前のようにこうして肌を合わせる。
 けれど、そこに愛なんて微塵もない。家族としての愛も、男女としての愛も―――何ひとつ、ないのだ。

 ―――成田が知ったら…軽蔑するね、きっと。
 あたしが“姉”にこだわってるのは、もう絶対、そこには戻れないからだなんて。

 瑞樹には、最後まで言えなかった。自分とヒロが、男女の関係にあることを。家族として信用して欲しい、と口にしながら、こんな関係に陥ってしまった自分達のことを。
 瑞樹に軽蔑されることが、怖かった訳じゃない。ただ…理解してもらえないと思っただけだ。蕾夏のことを「恋人」と言いながら「親友」とも呼ぶ、あの男には。

 ―――所詮、血が繋がってない男と女の関係なんて、こういう末路を辿るんだ。
 人間同士としての信頼なんて、欲の前には、何の価値も力もない―――親友? 馬鹿言ってるんじゃないわよ。男女の友情なんて言ってる奴は、自分の中の欲に目を塞いでるだけ。理性の(たが)が外れれば、あっけなくこんな関係に陥ってしまう。
 今、こうしてヒロの傍にいる理由も、もう自分でも、よく分からなくなってる。ヒロの孤独を理解してやれなかった償いをしたいのか、単に手に入れかけた家族を失いたくないだけなのか、ヒロの恋人になりたいだけなのか。
 それとも―――ただ単に、寂しさを、紛らせたいだけなのか。


 ぼんやりとした視界の隅に、投げ出された雑誌の表紙が、目に入る。
 古い号数の、“フォト・ファインダー”―――まだ捨ててないんだ、そう思ったら、胸が痛かった。
 ヒロは、二度と、自分の写真を褒めてくれない。なのに…そんなヒロが、唯一、執着した写真。「これ、いらないんなら、俺にくれよ」―――そう言って、桜庭から譲り受けた写真。

 「ヒロ―――…」
 ただ本能のまま、ヒロの背に腕を回し、首元に顔を埋めながら。
 何度も何度も、ヒロの名前を呼びながら。
 桜庭は、ずっと、嫉妬していた。

 ヒロが執着する写真のモデルである蕾夏の、まるで少女のような、儚げで清楚な容姿にも。
 そんな蕾夏を、実物以上に儚げな、まるで天使のような存在としてカメラに収め、桜庭の大事な場所を掻っ攫ってしまった、瑞樹の才能にも。

 そして何より―――桜庭には絶対得ることの出来ない関係を築いている、あの2人そのものに―――桜庭は、激しく、嫉妬していた。


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