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その日の上空は、ほぼ快晴だった。
比較的順調なフライトを終えたジェット機は、最後に一度、ガクン、という衝撃を伴い、無事成田空港に降り立った。
「あなたの隣の席になって、ラッキーだったわ。10時間以上のフライトが、全然苦痛じゃなかったもの」
偶然隣に乗り合わせた女は、席を立つ時、酷く名残惜しそうな顔をしてそう言った。
ロンドンへは、女の優雅な一人旅だったらしい。きっと、自分自身にかける金には、糸目をつけないタイプなのだろう。美しく整えられた女の10本の爪から、彼女の生活ぶりが想像できる。
「ねえ。この後って、どうするの?」
「知り合いの所に挨拶に行くけど」
「都内?」
「そう」
「だったら、その後にでも、どこかで落ち合わない。久々の東京じゃ、おいしいくて手ごろなディナーのある店も分からないでしょ?」
「あー…、悪いけど、そのディナーを一緒する予定があるんだ」
嘘八百だが、こういう時は嘘も方便だ。営業用の笑顔を自然に作り、済まなそうに断る。
女の方も、嘘であることは察しているだろう。でも、食い下がるような真似はせず、残念そうな笑みを返してみせる余裕がある。きっと、年下の男を食事に誘うのも、これが初めてではないのだろう。
「そう。残念。でも、楽しかったわ。またどこかで会えるといいわね」
「オレも楽しかったよ」
差し出された右手を、奏は、笑顔で握り返した。
…実際には。
フライトの間、彼女のゴージャスな指先を見ながら奏が思い浮かべていたのは、短く綺麗に切り揃えられた、桜色した爪だった。
何の飾り気もない、指輪ひとつない、白い手―――また思い出してしまい、奏はそれを振り払うように、軽く頭を振った。
「―――…っいしょ、っと」
大振りなボストンバッグを、しっかりと肩に掛け直す。後ろから来る客に急かされるように、奏は歩き出した。
2001年、3月―――奏は、彼らの住む国に、降り立った。
***
入国審査が終わり、さてタクシーを使うか電車を使うか、と悩んでいた奏だったが。
「―――…っ」
到着した家族や友人を出迎える人々の群れの中、見知った顔を見つけた瞬間―――心臓が、止まりそうになった。
奏の視線に気づいたのか、誰かを探すように視線を彷徨わせていた彼の目が、奏を捉える。
目にかかった前髪を鬱陶しそうに掻き上げた彼は、真っ直ぐに奏を見据えた。その距離、およそ10メートル―――けれど奏は、その独特なダークグレーをした瞳に、その場に立ち竦んだまま、声も出せずにいた。
何故、彼がここにいるのだろう?
確かに、飛行機の便名はメールで連絡した。特に意味があった訳ではなく、事務的な連絡のつもりで。当然、何かを期待した訳では―――例えば迎えに来てもらうとか、そういった類のことを期待して送った訳ではない。あえて言うなら…「もうチケットを取ったぞ、後には引き返せないぞ」という意思表示のようなつもりだったのだ。
なのに…まさか、こんな風に、空港で出迎えるなんて。
顔を合わせるのは、せいぜい、週明けの打ち合わせの日だろうと思っていたのに―――不意打ちもいいところだ。
奏の動揺を見て取ったのだろう。彼の口の端が、苦笑したように上がる。まるで動けずにいる奏に、しょうがない奴、という顔をすると、彼は自ら奏のもとに歩み寄った。
確か、奏の方が彼より少しだけ背が高い筈。なのに、威圧されて、飲まれてしまっているのは、何故か奏の方だった。ごくん、と唾を飲み込み、思わず身構えてしまう。
「―――なんて顔してんだよ」
そう言って、額をコツンと小突かれた奏は、一気にバツが悪くなった。が、あえて視線を逸らすことだけはしなかった。それは卑怯だと―――男らしくないと思ったから。
「…まさか、あんたが来るとは、思ってなかったから」
酷く、ぎこちない口調になってしまったかもしれないけれど―――なんとかそう、口にする。奏のその言葉を聞いて、彼はふっと笑った。
「俺達がそっちに行った時は、時田さんが迎えに来てくれてたからな」
「……」
「今回は、お前がおのぼりさんだろ」
ぽん、と奏の肩を叩くと、彼は踵を返し、先に立って歩き出した。
いまいち、彼の意図が分からないが―――他に成す術もなく、奏は彼の後に続いた。
空港を1歩外に出て、まず感じたのが、暖かさだった。
出発時のロンドンは底冷えしていて、フード付きのジャケットの襟元を引っ張り上げたくなるほどだった。でも、今頬を撫でていく風は、間違いなく春を思わせる風だ。
「あったかいんだな、こっちは」
思わず口元を綻ばせて奏が言うと、先を歩く瑞樹は、奏を振り返って微かに笑みを見せた。
「あと10日もすれば、四国じゃ桜の開花だからな」
「ふーん…」
相槌を打ちながら、周囲を見渡す。どうやら瑞樹は、駐車場に向かっているらしい。
―――オレがこの後、どこ行く気なのか、知ってんのかな…こいつ。
一向に行き先を訊く様子のない瑞樹に、首を傾げずにはいられない。いや…知っているからこそ、わざわざ空港まで来たのかもしれないのだけれど。
暫く、無言で歩き続ける。
やがて、瑞樹は1台の車の前で足を止めた。車高の高い軽自動車―――物は沢山積めそうだが、デザイン的には、どう考えても瑞樹に似合うとは思えない車だ。
「あんたの車?」
「いや、借り物」
「…だろうな」
「ツーシーターだから、荷物、後ろに置けよ」
ドアを開けながら、瑞樹はそう言って、座席の後ろを目で指し示した。
確かに、この車は後部座席がなく、その分、荷物が積み込めるようになっているようだ。ハッチバックという仕様から考えても、主に荷物を運ぶことを目的として作られた車なのかもしれない。そう言えば、似たような形の車で生花を運んでいる花屋を、パリで見かけた気がする。
荷台を覗き込むと、照明などの撮影機材が積まれていた。
「もしかして、これから撮影?」
「逆だ。撮影帰り。お前送ったら、その足でスタジオに返さないとまずい」
なるほど。納得した奏は、助手席に滑り込むと、振り返って手にしていたボストンバッグを荷台に置こうとした。
が―――中に入っているもののことを考え、やめた。
「? 置いていいぜ? 余裕あるから」
バッグを膝に抱く奏を見て、運転席に座った瑞樹が、不思議そうな顔をした。ずり落ちてしまわないよう、更にバッグを抱き寄せた奏は、そんな瑞樹に曖昧な笑みを返した。
「いや―――壊れもんだから、念のため、持っておく」
その説明に、瑞樹はそれ以上突っ込む様子も見せず、無言でキーを挿し込んだ。
***
道は、比較的空いていた。この分なら、1時間半位で着く、と瑞樹は言った。
「それでも、電車の方が速いだろうけどな」
窓を開けているので、車内に入り込む風のせいで、瑞樹の声が聞き取り難い。けれど、あまりの風の心地よさに、窓を閉める気にはなれなかった。
「だったら、なんで迎えに来てくれたんだよ?」
「単なる気まぐれ」
「…あっそ」
随分と効果的な気まぐれもあったものだ。思わぬ先制パンチを受け、こっちは慌てふためいた姿を晒すしかなかったのだから。
少し落ち着いてくると、面白くない、負けた、という気分が頭を
その視線に気づいたのか、瑞樹は、一瞬だけ奏の方に目を向けた。
「吸いたいなら、ご自由に」
「え? あ―――サンキュ」
一瞬、何のことか分からなかったが、それが煙草を指しているのだと理解した奏は、ジャケットのポケットに押し込んであった煙草をごそごそと引っ張り出した。
「いる?」
1本、口にくわえながら奏が訊ねると、瑞樹は少し考えるような目つきをし、無言で左手を奏の方に差し出した。
ロンドンにいる間、煙草を吸っている姿など見た覚えがない。彼らが住む部屋にも、灰皿の類はなかったように思う。社交辞令までに訊いたつもりだった奏は、差し出された手に煙草を1本渡しながら、意外な反応に少々驚いていた。
自分の煙草に火をつけたライターを、瑞樹にも手渡しする。視線を前に向けたまま、瑞樹はそれを受け取り、煙草に火をつけた。
「あんた、前から煙草吸ったっけ」
再び無言で突っ返されたライターを受け取りながら、奏は疑問をぶつけた。すると瑞樹は、煙を吐き出しながら、少し眩しそうに目を細めた。
「昔は、結構吸ってたぜ。今は、運転の時限定」
「…変わってんなぁ…。普通、1回でも吸っちまうと、喫煙習慣が戻っちまうもんじゃない?」
「特別、依存するほどに好きだった訳じゃないんだろ、きっと。けど、運転の時だけは止められねーよなぁ…」
「なんで運転の時だけ?」
「渋滞はするし動けねーしで、イライラして手持ち無沙汰になるから」
「ああ…、郁も、よく言ってた。東京の首都高速は、巨大駐車場だって」
叔父の時田がよく愚痴っていたことを思い出し、奏は思わず笑った。
そして―――当たり前みたいに笑みを漏らした自分に気づき、すぐにその笑いを飲み込んだ。
バカか。何いい気になってるんだ?
自分の立場も忘れて、まるで友達にでも会ったように笑ってしまう自分に、腹が立つ。
あれほど後悔し、もう死んでしまいたいほどに落ち込んだというのに…少し優しい顔をされると、あっさり甘えてしまうなんて。
小さくため息をついた奏は、灰皿に灰を落としながら、運転席に座る瑞樹の様子を窺った。
くわえ煙草で前を見据える横顔は、不思議な位、静かだ。何を考えているのだろう―――その横顔からは、のんびりとドライブを楽しんででもいるような空気しか感じられない。
―――それにしても…相変わらず、目を惹く奴だよなぁ…。
再び煙草をくわえた奏の眉が、僅かに顰められる。
後続車を確認するようにバックミラーに視線を流す。風に乱される髪が時々邪魔になるらしく、煙草を挟んだままの手で無造作に掻き上げる―――そうした動作の1つ1つが、なんだか異様にさまになって見えて、なんとなく悔しい。
今、こうして2人並んでいるのを他人が見たら、真っ先に目が行くのは、多分奏の方だろう。明らかに白人の血を引いた、けれどどことなく東アジア系が混じっていることが分かる、エキゾチックな顔立ち―――恋愛を意識するようになってこのかた、相手に不自由したことはない。思いあがるつもりはないが、顔かたちには恵まれている方だろうな、という自負はある。
けれど―――最終的に魅せられてしまう相手は、きっと、瑞樹の方だろう。
濡れたような艶を持つ目も、意外に子供っぽさを残した唇も、どこか陰を帯びたムードも―――酷く、人を惹きつける。本人に、その意図はないのに。
「―――何だよ」
視線に気づいた瑞樹が、訝しげに眉をひそめ、目だけを奏の方に向けた。
「何だよ、って、何だよ」
「俺の顔に何かついてるか、って意味」
「…別に。暇だから、顔見てただけだって」
まさか、彼女もこの男の持つ独特のオーラにノックダウンされたのだろうか、なんてことを考えていたとは、到底言えない。ちょっと不貞腐れたような顔を作って、奏は気まずそうに視線を逸らした。
「それより―――1つ、成田に確認したいんだけど」
「何を」
「今日のオレの行き先、誰から聞いた?」
車に乗った瞬間から、どうにもそこが解せなかった。何故なら、今日の予定については、瑞樹へ出したメールでは一切触れなかったのだから。
きっと千里が気を回して連絡でもしたのだろう、と推理した奏だったが、瑞樹から返ってきた答えは、意外なものだった。
「俺は、蕾夏から聞いた」
「―――え?」
「で、蕾夏は、佐伯編集長から聞いた」
そう言った瑞樹は、奏の方を見て、ニッと笑った。
「淳也さんからの頼まれ物らしいな。淳也さんとこに蕾夏が下宿してたのを知ってるんだから、お前が届け物しに来るぞ、って話すのは、極自然だろ?」
「……」
言われてみれば、その通りだった。父と佐伯編集長は、古くからの友人だ。一宮一家が日本にいた頃は、家族ぐるみでの付き合いもあったほどだ。その家族に混じって生活していた蕾夏が目の前にいるのだから、「明日、奏君が来るんですよ」と話すのは当たり前かもしれない。
「…念のため言っとくけど…オレはただ、頼まれた書類、届けに行くだけだから」
言い訳がましくなってしまうのが嫌だったが、変な心配はさせたくない。奏は、きっぱりとした口調でそう言った。
「あいつに会う気、全然ないから。そりゃ…そのうち、会いたいとは思ってるけど―――会うなら、あんたが一緒の時にする。だから、心配すんなよ」
「―――心配してんのは、お前の方だろ」
低い笑いを含んだ声でそう言った瑞樹は、半分ほどの長さになった煙草を摘むと、灰皿の中に押し付けた。
「今のあいつは、もうお前に会っても、動揺したりお前を避けたりしねーよ。だから、そう身構えるな」
「……」
―――そんなこと、言われても。
そうですか、と言える訳がない。自分が2人に与えた痛みを思えば…平然と会うなんて、許される筈もないのだから。
胸の奥が、ちりちりと、棘でも刺さったように痛む。その痛みに顔を歪めた奏は、苛立ったように煙草を灰皿に投げ捨てた。
そんな奏を一瞥した瑞樹は、ポンポン、と宥めるように奏の頭を軽く叩くと、
「着いたら起こすから、寝とけ。寝不足の顔してる」
とだけ言った。
寝不足の顔をしている―――…。
ロンドンを発つ前の晩は、事実、ほとんど眠れなかった。フライト中も、あの女の相手をしてたせいで、全然寝ていない。確かに寝不足だ。
―――眠れるかな…。
それでも、シートに深くもたれた奏は、少しでも眠るべく、ゆっくりと目を閉じた。
***
結局、あっけなく眠りに落ちた奏は、目的地に着いて瑞樹に起こされて、初めて目を覚ました。
「…サンキュ。すげー助かった」
これ以上ない位気まずい思いをしながら、奏はボストンバッグを引きずり出し、瑞樹にボソボソと礼を言った。
「火曜日の打ち合わせ、成田も出るんだろ? その時にでもまた」
「…そうだな」
運転席側の窓枠に腕を乗せ、顔を少しだけ覗かせている瑞樹は、奏の言葉に僅かに笑みを見せると、ふいに、Gパンのポケットから、何かを取り出した。
出てきたのは、四つ折された、白い紙。瑞樹は、それを無言で、奏に差し出した。
「……?」
「どうせこっちで、携帯持たされるんだろ」
携帯?
確かに、黒川からも“Clump Clan”側からも、そう言われている。身分証明書などが全てイギリスである奏が個人的に買うのでは手続きが煩雑になりそうなので、黒川が、事務所スタッフ用の携帯として購入すると言っていた。それと、このメモと、何の関係があるのだろう?
不思議に思いながら紙を開いた奏は、そこに書かれているものを見て、目を丸くした。
書かれていたのは、明らかに、携帯の電話番号―――しかも、2つ。
「上が、俺。下が蕾夏。携帯手に入れたら、連絡してこい。どっちでもいいから」
「―――…」
声が、出なかった。
信じられない、という目で、メモと瑞樹の顔とを、何度も見比べる。何故、こんなものが渡せるのか―――瑞樹の真意が、分からない。瑞樹ならば当然、奏と蕾夏の接点は、可能な限り持たせないようにするだろうと思っていたのに…。
「…オレに、こんなもん渡して、いいのかよ」
なんとか出てきた声は、少し掠れてしまっていた。
眉根を寄せて、奏がやっとそう訊ねると、瑞樹は微かに笑い返した。ただし―――目は、ほとんど笑っていなかった。
「お前は、死ぬほど後悔してるだろ―――あの時のことを」
「……」
死ぬほど、後悔してるから。
だから絶対に、蕾夏を傷つけるような真似はしない。そんなことをすれば―――今度こそ、自己嫌悪のあまり、どうにかなってしまうから。
「信用してる」
笑いを消した瑞樹は、短くそう、告げた。
喉が、カラカラに渇く。それをなんとか唾で湿した奏は、喘ぐようにやっと口を開いた。
「―――当たり前だろ…」
その返答を聞いた瑞樹は、ニヤリと不敵に笑うと、再びキーを回し、エンジンをスタートさせた。
別れの言葉もなく、目の前を走り去る車を見送りながら、奏は思わず、手の中のメモをぎゅっと握りしめていた。
***
父に「佐伯さんに至急渡したい資料があるから」とA4サイズの茶封筒を託された時、正直、参ったなぁ、と奏は思った。
文字が小さく、とてもFAXできるシロモノではない上、スキャンするのもどうか、というほど細かい内容なので、実物を渡したい、という父の気持ちは分かる。エアメールで出すよりも、明日日本に旅立つ息子に託した方が早く到着する、という考えも当然だと思う。
がしかし―――行き先が、あの“A-Life”。その1点のみに、奏はどうしても乗り気になれなかった。
もし、来日初日に、いきなり蕾夏と顔を合わせる羽目になったら―――その結果、一番恐れている蕾夏の表情を目の当たりにすることになったら―――この先3ヶ月、到底、耐えられない。嫌われ、避けられ、怯えられることは覚悟済みとはいえ、さすがに“初日からいきなり”はキツすぎる。奏は、かなり渋った。
それでも引き受けたのは―――ある意味、一番恐れている事態とは、表裏一体な、1つの希望。
もし、ほんの少しでも、蕾夏の姿を見ることが出来たら―――蕾夏には気づかれることなく、遠くからその姿を、ちょっとだけでも見ることができたら―――その考えが頭によぎった瞬間、奏は、反射的に「分かった」と答えてしまっていた。
勿論、大馬鹿野郎、と、自らの馬鹿さ加減に呆れ、後で頭を抱えてしまったのだが―――…。
―――でも、結局、編集部の外にある応接室に通されたんじゃあ、期待も不安も無用だったんだな。
編集部内の様子などまるで見えない部屋に通され、奏は、半分ホッとし、半分残念に思った。
「それにしても、久しぶりですね」
応接室で、奏の向い側に座った男は、温和な声でそう言って懐かしそうに微笑んだ。
「弟の累君には、仕事の関係で去年会いましたけどね。奏君の方は、ロンドンに発つ時に空港へ見送りに行って以来だから―――もう、10年近く会ってなかったんだなぁ…」
「累と同じ顔だから、違和感はないでしょう?」
一卵性双生児なのだから、基本的に顔の造作はほぼ同じの筈だ。苦笑しながら奏が言うと、少し首を傾げるようにした佐伯編集長は、低く唸った。
「うーん…それでも、こう、持ってる雰囲気が、君たち2人はまるで違いますからね」
「ハハ…、確かに」
累は“優しくて大人しい”と言われ続け、奏は“熱くなりやすくてやんちゃ”と言われ続けている。何故同じ顔なのに中身がこうも正反対なんだ、と本人達も不思議に思っているほどなので、やはり周囲にも、同じ顔が全く違った印象に見えるのかもしれない。
それではさっそく、頼まれた資料を―――と奏が封筒を取り出そうとしたところで、ドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
誰だか分かっているらしく、佐伯がそう声を掛けると、
「失礼します」
声が、返ってきた。
その声を聞いて。
奏の全身に、一気に鳥肌が立った。
―――この…声…。
ガチャリ、と音を立てて、ドアが開く。
振り返る自分の動きが、なんだか機械仕掛けの人形のように感じる。奏がぎこちなく首を回すのとほぼ同時に、声の主が、応接室の内側へと入ってきた。
まず最初に目に入ったのは、コーヒーカップが2客乗ったお盆を持った、白い手だった。
飾り気のない、桜貝を思わせる小さな爪―――フライトの間ずっと思い出していたものが、蘇って、すぐ目の前にあった。
そのまま、視線を、上へと移動させる。シンプルな白いブラウスと、その襟元や肩にかかる、絹糸のような黒く長い髪が目に入り―――最後に、静かな笑みを湛えた彼女の顔が、目に入った。
―――…蕾夏……。
動けない。
瞬きすら、できない。呼吸も、鼓動も、全て止まってしまったかのように―――動けない。あまりにも、突然すぎて。
息をつめ、言葉を失ったまま固まっている奏を見て、蕾夏はくすっと笑った。が、奏には何も言わず、佐伯へと目を向けた。
「コーヒー、お持ちしました」
「ああ、ありがとう」
軽く会釈した蕾夏は、応接セットの横に進み出ると、てきぱきとした手つきでコーヒーをテーブルの上に並べた。目の前できびきびと動く手を、奏は、半ば呆然としたまま見ているしかなかった。
「普段、藤井さんにはお茶出しはお願いしてないんですけどね。奏君と会うのも久しぶりだろうと思ったので、特別にお願いしたんですよ」
何も知らない佐伯は、ニコニコと笑顔でそんな事を言ったが、奏はその内容に、背筋が凍る思いをした。何て余計なことを―――来客が奏だからこそ、蕾夏にお茶出しなどさせてはいけないのに。
けれど…こうして見る限り、蕾夏が無理をしたり動揺を抑えたりしている様子は、全く見られない。瑞樹がそうだったように、極自然に―――奏が来たのなら、こうして自分達が出迎えるのが当然だ、とでも思ってるみたいに、驚くほど自然に振舞っている。
もう、2人の間では、すっかり過去のことになっているのだろうか?
奏が罪悪感に駆られ、いつまで経っても忘れられずにいられるほど、彼らはあの事件にこだわってはいない…ということなのだろうか? あれからまだ、1年経っていないのに?
最後に、ペットシュガーの入ったカップをテーブルの中央に置き、蕾夏は奏の方に向き直った。
「奏君」
掛けられた声に、奏は、反射的に顔を上げた。
蕾夏は、ロンドンでもよく見せた、柔らかな笑みを浮かべていた。軽く頭を傾ける動作に合わせて、黒髪が、はらりと肩を滑って落ちる。
「元気そうで、良かった」
「……」
その笑顔が、その落ち着いた声が、あまりにも完璧に“いつもの藤井蕾夏”だったから。
言わずにはいられなかった。一番伝えたかった、ここに来た理由を。
「―――会いたかった」
その一言に、蕾夏の瞳が、僅かに揺れた。
ほんの一瞬見せた“本当の藤井蕾夏”の顔に―――奏の胸は、ズキリと痛みを訴えた。
***
宿泊先である長期滞在型のホテルに到着した頃には、奏は疲労困憊状態になっていた。
鍵を開け、転がり込むように部屋の中に入った奏は、ボストンバッグを床に置くと、即座にベッドの上に倒れこんだ。
「―――…はぁ…」
疲れた。
まさか、到着早々、2人共に会う羽目になるとは―――ロンドンを発つ時には、想像だにしていなかった。1日目から、ちょっと刺激が強すぎるのではないだろうか。
ベッドの上で大の字になり、目を閉じる。
今日1日、起きたことを思い起こそうとするが、なんだか実感がなかった。
瑞樹と再会し、蕾夏と再会し―――けれど、それらの時間の大半の記憶が曖昧だ。いかに自分の精神状態が目一杯だったのかが分かる。
はっきりとリアルに実感できたのは、2つだけ。
“信用している”―――そう言った時の瑞樹の声と目。そして、“会いたかった”と奏が言った時、蕾夏が見せた、戸惑ったような、どう反応すればいいか分からず途方に暮れたような目だ。
暫し、そのままじっとしていた奏だったが、ふとボストンバッグの存在を思い出して、目を開けた。
グルリと部屋を見渡すと、ちょうど窓際に、ほど良い高さの丸テーブルが置かれていた。よっ、と弾みをつけて起き上がった奏は、床に置いたボストンバッグを持ち上げ、それをテーブルの脇に置かれた椅子の上に乗せた。
慎重にファスナーを開け、中の様子を確認する。なるべく丁寧に扱ったつもりだが、無事に運べたかどうか心配だった。でも―――中から現れた“それ”は、ボストンバッグに詰めた時と、ほとんど変わらない様子だった。
奏は、ホッと息をつき、慎重に“それ”をボストンバッグから取り出し、テーブルの上に乗せた。そして、安全のため、周囲を覆っておいたエアパックを丁寧に取り除いた。
彼らがいなくなってからの日々を、共に過ごして来た、サボテンのテラリウム。
どうしても置いてくる気になれなくて―――けれど、荷物として送ってしまうのも躊躇われて、手荷物として半ば強引に持ってきてしまったのだ。
こんなバッグの中に押し込められて、長い時間、さぞ窮屈だったろう。ごめんな―――と心の中で呟いた奏は、手前に植えられた一番小さなサボテンを、軽く指でつついた。途端、チクリ、という小さな痛みが指先に走った。
痛んだ指を口の中に含みながら、奏は、出発前に千里から言われた言葉を、思い出していた。
『いい? 2つのことだけ、肝に銘じておきなさい。1つは、蕾夏の言う“大丈夫”を、絶対鵜呑みにしないこと。そしてもう1つ―――蕾夏に許しを請うことより、瑞樹の信頼を得ることを考えなさい』
あの2人の傍にいたいと思うのなら、自分を誤魔化したり、嘘をついたり、卑屈になって捻くれたりしては駄目。あんたが抱える後悔も、切望も、葛藤も、全部あの2人に曝け出しなさい。
正直であれば、2人もきっと、受け入れてくれる。
それが、どんな形になるかは、私にも分からないけれど―――きっと瑞樹が、その道を教えてくれる。彼は、人の弱さを、誰よりもよく理解してる人だから。
“お前は、死ぬほど後悔してるだろ―――あの時のことを”。
「…ああ。後悔してるさ」
何も制裁を加えられていないから、余計に。何の償いも出来ていないから、余計に。
あの2人の傍に、ほんの少しで構わないから、居場所が欲しい。それを許してもらえるように、信頼を勝ち取りたい。
その気持ちは、こんなにも強いのに―――ふと気を抜いた瞬間、体中を支配するのは、耐え難いほどの渇望。
―――会いたかった…。
会いたくて会いたくて仕方なかった人に、やっと、会えた。
そして―――彼女は、手を伸ばせば届くほどの距離で、微笑んでいた。
痛んだ指先を、手のひらの中へと押し込み、拳に力をこめる。唇を噛んだ奏は、襲い来るものに、じっと耐えていた。
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