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― Triangle -2- ―

 

 走り出してしまえば、余計なことを考えている暇などなさそうだった。

 「日曜日にこんなもん見せられると、なんかこう、だるーい感じになるよねぇ…」
 「…見せてんの、黒川さんでしょうが」
 「あ、そうか。そうよねぇ」
 ―――そうよねぇ、って顔か?
 いい歳の中年なのだから、ミスマッチは当然だ。気色わりぃからやめろ、と言いたくなるのを、奏はギリギリのところで我慢した。
 黒川が、ゲイでもバイでもないのにいきなり異様なおネエ言葉を使う時は、実は凄く気を遣っている時なのだ―――と、黒川の事務所スタッフから聞いたことがある。元々、性格がラテン系というかカーニバル系なので、場が盛り下がると盛り上げようとしてハイテンションになるのだが、その性格が「どうやら相手が落ち込んでいるらしい時」にも発揮されるのだ。
 そして、事実、今日の奏は、かなりのローテンション。
 昨日、日本に来て、思いがけず2人に会って―――昨日の今日だ。ハイになれる筈もない。
 「まあ、とにかく、食べながら軽く見ておいて」
 ちょうどピザが運ばれてきたこともあり、黒川はそう言って、自らピザに手を伸ばした。奏も、黒川が促すのに従い、受け取ったコピーを片手にコーラの入ったグラスに手をかけた。

 それにしても―――予想以上に、忙しくなりそうだ。
 明日はショーに出る他のモデル達との顔合わせ、その翌日はポスター撮影の打ち合わせ―――以降、来月7日のポスター撮影までの2週間強、ポスター用の衣装のサイズ調整やらの本業(モデル)としての仕事が続く。
 しかも、自分がモデルを務める一方で、メイクとコーディネートを担当する黒川のアシスタント業もある。自分で自分が身につける靴などの選定を黒川と一緒にやる訳だ。勿論、黒川の仕事は“Clump Clan”だけではないので、それ以外でも鞄持ちよろしく黒川にくっついて行かねばならない。
 忙しい方が、かえっていいかもしれない―――その方が、余計なことを考えず、やるべきことに没頭できる。奏は、心の中でそう呟き、小さなため息をついた。

 更に、ポスター撮影より先の予定などにも目を通していた奏だったが。
 「―――あ、黒川さん」
 「ん?」
 「この、“講座”ってやつ」
 奏はスケジュール表を黒川に見せ、4月の黒川のスケジュール欄に、週に2度のペースで書かれた2文字を指さした。前から、日本に行ったら週2でメイク講座開講することになってるから、とは黒川から聞いていたが、その詳細は知らなかったのだ。
 「これって、一般向け?」
 「何だい、一般向けって」
 「ほら、一般女性向けに、綺麗に見せるためのメイク講座とか、あるでしょう」
 「あー、そういう意味ね。そういうのだったら、そんなに頻繁にやらないよ。その講座は、一応、未来のメイクアップ・アーティストを目指す人向けの、集中講座。全8回、1ヶ月で集中的にやるってわけ」
 「へーえ…」
 プロの卵向けの講座―――奏は、再びスケジュール表を自分の方に向け、少し眉を寄せるようにしてそれを睨んだ。
 モデルを辞めた後の身の振り方を考えるようになった時、奏は最初、どこかロンドンのプロ養成スクールに入ろうと考えていた。が、ちょうどそのタイミングで黒川からありがたい申し出があり、結局、メイク技術の専門講座などは、まだ未体験のままである。
 黒川のアシスタントのようなことをする中で、黒川のメイク技術は見ているし、たまに、スタッフの女の子を練習台にして、紅筆などを持たせてもらうこともある。けれど…やはり、基礎がないというのは、致命的な気がした。
 「…オレも受けようかな、これ…」
 奏がポツリと呟くと、黒川は、少し驚いた顔をした。
 「でも、結構高いよ? 僕の講座」
 それはそうだろう。黒川は、海外で成功している数少ないメイクアップ・アーティストの一人なのだから。覚悟済みだった奏は、黒川に苦笑を返した。
 「大丈夫。専門学校行く気でいた金が、そのままあるんで。あ…でも、講座の定員が一杯だったら、もう無理か」
 「いや、ま、それは、僕の裁量で1人や2人の調整はきくんだけどね」
 そう答えながらも、黒川は依然、驚いたような顔をしたままだ。何をそんなに驚いているのか分からず、奏は眉をひそめた。
 「オレ、何か変なこと言ったかな」
 「―――いや…、その、本気なんだなぁ、と思って」
 「え?」
 「こう言っちゃなんだけど、一宮君が、そこまで本気で僕みたいな裏方の仕事をする気でいるとは、正直思ってなかったんだよね」
 ハハハ、と困ったような笑い方をしてそう言う黒川に、さすがに奏もムッとした顔をした。
 「…何気に酷いこと言いますね、先生」
 「参ったなぁ、別に(けな)した訳じゃないよ? ただ、僕は、昔の一宮君を知ってるからね」
 「昔の、オレ?」
 「以前の一宮君は、モデルの仕事以外には興味なさそうだったし、興味持ったとしても一時的なことって言うか…“今が楽しければそれでいい”って感じだったからさ。スポット浴びて舞台に立ってるのが天職みたいなタイプだから、裏方に興味持ったのも“若いから色々やってみたい”っていう程度だと思ってたんだよ」
 「……」

 確かに…そういうタイプの人間だった。
 モデルをやってることに疑問なんて感じなかったし、ましてや、辞めた後のことなど一切考えていなかった。“Frosty Beauty”の仮面を被ることに嫌気はさしていたが、あえてその仮面を壊そうとも思わなかった。これが自分の仕事なんだから、そうするのが当然―――モデル事務所との契約を切ることも、ありのままの自分を売り込むことも、頭の片隅にすらなかった。

 あの2人が、奏を変えた。
 自分達の望む世界を、ただひたすら、真っ直ぐに追いかける―――そんな2人を見て、自分ももう一度、何かを追いかけたい気分になったのだ。

***

 翌日、奏は、ショーモデル達との顔合わせのため、初めて“Clump Clan”を訪れた。
 銀座に建築中の自社ビルはまだ窓ガラスも入っていない状態なので、呼び出された先は青山にある仮事務所だった。仮とはいえ、日本進出の足がかりを作るため、2年以上前からここで活動を続けていたので、洒落たガラス張りのビルを2階分使用するほどの規模だ。

 「えー、今回のメインモデルを務めてくれる、一宮 奏君です。ポスターおよびショーの中心を受け持ちます」
 「よろしくお願いします」
 担当者の紹介を受け、奏は立ち上がり、一礼した。
 ―――視線が痛いなぁ…久々に。
 居並ぶ10名弱のモデル達を前に、ここ何年か感じたことのない視線が全身にびしびし浴びせられるのを感じ、奏は軽い武者震いに襲われた。
 本国(イギリス)では、そこそこ名前も顔も売れたモデルである奏は、モデル達の間でも当然顔が知られていた。ショーモデルに転向してから暫くは、こういう値踏みするような視線に晒され続けたが、最近ではそんなこともなくなっていたのだ。
 モデル達からすれば、あまり面白くない話だろう。名の知れたブランドの、国内初の大勝負のショーだ。その中心モデルが、よその国から来たモデルだなんて―――スーパーモデルクラスに有名なら納得もするだろうが、奏はそこまで有名ではない。誰だよこいつ、という視線を浴びせられるのは当然かもしれない。

 集められたモデルは、奏の他に、男女各4名。一般客も自由に見られるショーを意識しているからだろう、面白い位に、身長がバラバラだ。それぞれの紹介を経て、全員揃った写真をデジカメで撮影され、1人1人の全身写真も撮られた。
 「一宮君と誰を組ませるかが問題ですねぇ」
 会社側の担当者が、計9名の男女を見渡しながら、黒川とボソボソと相談しているのが耳に入り、奏は改めて、一面鏡張りになっている壁に目を向けた。
 「―――…」
 まだ写真を撮られているモデルあり、パンフレットを見るのに没頭しているモデルあり―――全員、思い思いの方向を向いているモデル達が、鏡に映っている。その中に、奏自身も映っていた。
 そして、自分だけが、異色だった。
 ロンドンで生粋の白人に囲まれていると、むしろ日本人の血を強く感じるほどだったが…ここでは、その逆。イギリスでは1人だけアジアだった自分が、ここでは1人だけヨーロッパだ。他の仕事なら、それもさした問題ではないだろうが―――モデルという容姿を売る仕事では、その異色さが目につく。
 ―――そもそも、白人と黄色人種のハーフだと、黄色人種の遺伝子の方が濃く出るのが普通だろ? なんでオレらだけ、白人寄りなんだよ?
 優性遺伝・劣勢遺伝の摂理を覆している自分の容貌を改めて見て、これもあの厚かましくてしつこい性格のサラ・ヴィットの遺伝子の成せる業かもな、と皮肉っぽく笑った。
 「佐倉君」
 ふいに上がった大きな声に、鏡に見入っていた奏は、はっとして顔を上げた。
 佐倉、って誰だっけ、と視線を巡らすと、壁にもたれてスポーツドリンクを飲んでいた女性が「はい」と返事をした。栗色の洒落たショートヘアに、あっさりしたカットソーと、細身のジーンズ。すっきりと切れ長な目元と細く長い首が印象的な、どことなく中性的な美人だ。4人いる女性モデルの中でも一番落ち着いていて、自己紹介の時に、キャリアありそうだな、と奏が思った人物だった。
 「ちょっと、一宮君と並んでみてくれるかな」
 「はい」
 ペットボトルを傍らのテーブルに置いた佐倉は、ツカツカと奏の方に歩み寄った。10センチほどのヒールを履いているが、並んでみると奏より背が低い。この感じだと、167、8といったところだろうか。
 2人並んだ姿を、鏡でちらっと確認する。背丈のバランスは悪くない。比較的細身の奏だが、佐倉もかなりのスレンダーなので、どちらが体格で見劣りする、といったこともない。顔立ちは、明らかに奏の方が派手だが、アジアンビューティーといった顔の佐倉と並ぶと、その両極端な顔がいいコントラストになっているように見えた。
 「どうです?」
 担当者がぼそっと黒川に意見を求めると、顎に手を当てた黒川も小刻みに頷いた。
 「ああ、いいんじゃないですか?」
 「ですね。じゃあ、男女で組む時は、一宮君は佐倉君と組んでもらうから」
 あっさり、決定。
 「よろしく」
 奏がそう挨拶して手を差し出すと、
 「よろしくね」
 佐倉もニッ、と笑い、差し出された手とがっちり握手をした。

***

 彼女は、“佐倉みなみ”という名だった。
 「キミって、どこの人? 当然だけど、生粋の日本人じゃないわよね」
 顔合わせ後、ちょっとお茶でもどう? という言葉に何となく乗ってみた奏に、まず浴びせられた質問が、それだった。
 つい、不愉快さを顔に出してしまったらしい。その質問に対する奏の反応を見て、佐倉は悪びれない笑い方をして、軽く手を振った。
 「あー、別に、嫌味を言いたいとか苛めたいとか、そういうんじゃないのよ。単純な疑問。最初見た時、明らかにネイティブな日本語と外見のギャップに、ちょっと驚いたから」
 さばさばした口調でそう言われると、不思議と不愉快な気分がスッと消えていった。自分が日本語を喋るのは当然だと思っていた奏だったが、言われてみれば確かに、あまりにも白人寄りなこの外見から日本語が飛び出すと、事情を知らない人間は驚くのかもしれない。
 「一応、国籍はイギリス。だから“イギリス人”てことになるけど―――血筋で言えば、ハーフ…かな。日本人とイギリス人の」
 「へーえ、劣性遺伝が頑張ってるのねぇ、キミの場合。でも、その日本語は? 黒川さんの話じゃ、ずっとロンドンでモデルやってたそうだけど―――家では日本語で過ごしてるの?」
 「ああ、まあ。母親が日本人だし、父親も―――…」
 半分日本人だから、と言いかけて、慌てて口を閉ざした。しまった。それだと自分は日本人4分の3というクォーターになってしまう。いくら劣勢遺伝が頑張ってる血筋とはいえ、さすがにその血が4分の1だとは信じてもらえないだろう。
 勿論、佐倉が一宮家の複雑な事情に介入することはないだろうから、つい事実を―――時田とサラが実の親であることを前提にした事実を話してしまったが、今の自分を形成したのは、淳也と千里が作った家庭だ。その2つの事実を統合させようとすると、時々こうしてボロが出てきてしまう。
 「…父親も、日本が長かったから、日本語に苦労しないし。子供の頃は、家族全員、日本にいたから、オレなんかは英語より日本語の方が得意なくらい」
 なんとかそう、言葉を続けた。嘘ではないから、佐倉も納得したようだ。
 「長いの、この業界」
 コーヒーカップを傾けながら言う佐倉に、奏もコーラの中の氷をストローでつつきながら、少し首を傾げた。
 「うーん…どうだろう。17の時、スカウトされてからだから―――8年か。佐倉さんは?」
 「あたし? あたしは長いわよ。高1の時にデビューで、今年、30になるんだから」
 「てことは…うわ、じゅ、14年!? すげー…」
 「凄いでしょー。でもね、ほんとは去年一杯で引退予定だったのよね」
 満足げに笑った佐倉は、そう言ってコーヒーをくいっとあおり、カップをカチャリと置いた。
 「昔から、引退後はモデル事務所を起こそう、って決めてたからね。実際、事務所開設のために、去年の末あたりから動いてるの。目ぼしい後輩スカウトしたり、事務所物件探したりね」
 「へぇ…。なのに、なんでまたモデルの仕事に?」
 当然の奏の質問に、佐倉は目をキラリと光らせると、
 「ふふふふふふ」
 と、意味深な笑い方をした。その怪しい空気に、思わず、座ったまま後退ってしまう。
 「な…なんだよ、その笑い方…」
 「だぁって、ねぇ。苦節10年、ついにこの時が来たのか、と思うと、もっと大声で笑ってやりたくなるじゃない?」
 「???」
 「あたしが今回のオファーを受けたのはね。カメラマンが、あの成田だって聞いたから」
 瑞樹の名が出て、奏の心臓が、軽く跳ねた。
 「―――成田の、知り合い?」
 恐る恐る、奏が訊ねる。すると、佐倉の方も、少し驚いたような顔をした。
 「何、キミこそ、成田の知り合い?」
 「あ…ああ、一応。その―――オレ、時田郁夫の甥だから」
 「あらま、そうなの?」
 「そう。向こうで、郁の仕事にくっついてくるあいつらと、何度も顔合わせてたし、それに…あいつらが下宿してたとこ、オレの実家だし」
 「へーええぇ。じゃあ成田、キミには頭が上がらないんじゃない?」
 感心したような、面白がってるような声でそう言う佐倉に、奏は、引き攣った笑顔しか返せなかった。頭が上がらないのは、むしろ自分の方なのだから。
 「あの、それより、佐倉さんの方は…? もしかして、成田の知り合いってことは、蕾夏のことも―――…」
 「らいか? ああ、あの成田の写真のモデルやってる子? 会ったことあるけど、ほとんど話してないなぁ」
 「…あ、そう」
 思わず、良かった、という顔をしてしまった奏だったが、その微妙な変化を佐倉が見逃す筈もない。意味あり気に片眉を上げると、面白そうに口の端を吊り上げた。
 「―――ふぅん…なーんか理由(わけ)ありそうじゃない」
 「…ワケなんて、ないって」
 「そーお? ま、キミがそう言うなら、そういうことにしといてもいいけど」
 なんなんだ、この女。
 平然とした顔を一応保ってはいるが、鼓動は変に速まっている。首筋に伝いそうになる冷や汗を誤魔化すべく、奏は務めて自然さを装いつつ、コーラをずずず、と啜った。
 「それより―――佐倉さんは、成田とはどういう関係なんだよ」
 憮然とした顔で奏が話を元に戻すと、楽しそうな様子の佐倉は、くすくすと笑った。
 「んー、まあ、詳細は成田自身から聞いた方がいいんじゃない?」
 「は?」
 「成田に会ったら、言っといて。“6月のショーのモデルの中に、佐倉みなみって奴がいる”って。あいつ、きっと、すっごーーーーく嫌そうな顔するから」

***

 翌日のポスター撮影の打ち合わせ前、その通り瑞樹に言ってみた。
 途端、瑞樹の手から資料が落ちた。
 「―――もう1回、確認するけど。マジで、“佐倉みなみ”か?」
 「マジで、佐倉みなみ」
 「……最悪」
 はあぁ、と大きなため息をついた瑞樹は、低くそう呟くと、苛立ったように髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。ずるずると椅子に深く沈みこむ様子からも、佐倉がショーに出ることを瑞樹が「勘弁してくれ」と思っていることは間違いなさそうだ。
 「…なあ、あの女、何者? 結局、最後まで教えてもらえなかったけど」
 そろそろ、“Clump Clan”の担当者も会議室に来る筈だ。入り口のドアを気にしながら、奏は僅かに声をひそめ、瑞樹に訊ねた。
 その問いに、まだ立ち直れない様子の瑞樹は、目だけを奏の方に向け、忌々しそうに答えた。
 「―――大学の先輩。執念深くて、計算高くて、利用できるもんは何でも利用する女だから、お前も気をつけろよ」
 「ま…また、すげー言われようだな。何の因縁があるんだよ?」
 「大した因縁じゃねぇよ」
 「けど佐倉さん、“苦節10年、ついにこの時が来た”とか言ってたけど」
 「10年も引きずるのは、あの女位のもんだぜ。自分をモデルにして写真を撮れ、って言うのを丁重にお断りしただけなのに」
 「丁重に」
 「“ヴォーグの表紙飾るモデルになったら、考えてやる”ってな」
 ―――それのどこが丁重なんだよ。
 10年前と言えば、佐倉は大学2年、瑞樹は大学1年―――佐倉はプロのモデルだが、瑞樹は素人カメラマンだった筈だ。佐倉のプライドの高そうな顔を思い出し、何故佐倉がこの話にいまだにこだわっているのか、なんとなく分かった気がした。
 才能に惚れ込んだからこそ、撮って欲しかった。だからこそ、引きずっている―――そう思い当たった時、1人の女の顔が思い浮かんだ。

 ―――そうか。
 あの人、サラ・ヴィットに似てるんだ。顔じゃなく、醸し出すムードとかが。

 …確かに、注意しておいた方がいいかもしれない。したたかな女社長の豪腕振りを思い出し、奏は密かに肝に銘じた。
 「いやいや、お待たせしました」
 肝に銘じたところで、唐突にドアが開き、“Clump Clan”の担当者と広告代理店の担当者が入ってきた。
 そのことで、佐倉に関する話はお開きになった。

 

 「えー、今回のコンセプトは“冒険”でして―――お手元のレジュメのとおり、“Clump Clan”の日本進出自体を“冒険”と位置づけた部分もありますし、単調になりがちな仕事やオフタイムをちょっとした冒険に変える、といった意味も含ませています。そこで、次のページの絵コンテを―――…」

 広告代理店側の説明に従い、ページをめくる。パラパラという音が、会議室の中に響く。
 打ち合わせは、淡々と進んでいた。
 瑞樹と代理店や美術担当者は、既に何度か打ち合わせを重ねていたらしく、細かな撮影スケジュールなども出来上がっている。結構凝った背景セットを組むらしく、その製作途中の写真などが添付されているが、大半は確認作業と言った方が早い。奏も意見を求められたが、不満を持つような部分は全くなかった。

 「…というわけで、概略はご説明しましたが―――何かご意見は?」
 撮影スケジュールを説明し終わった広告代理店の担当者が、そう言って場内を見渡した。
 “Clump Clan”側も、代理店側も、特に何もないようで互いに小さく頷きあっている。奏も、特に何もないので黙っていたのだが。
 「すみません。1点だけ、いいですか」
 ふいに、瑞樹が軽く手を挙げ、お開きになりそうな打ち合わせに待ったをかけた。
 打ち合わせ中、ほとんど口を挟まなかった瑞樹の突然の挙手に、議事進行役をしていた担当者も、少し戸惑ったような顔をした。が、肝心の撮影を担当する瑞樹の意見をスルーできる筈もない。
 「は、はあ…どうぞ」
 担当者が促すと、瑞樹はほんの僅かに笑みを返し、机の上に広げていた資料をトントン、と纏めて揃えた。
 「実は、撮影当日のことなんですが―――実際の撮影の間は、できれば、撮影に携わる人間以外、スタジオ外に出ていただきたいんです」
 「……はぁ?」
 担当者が、あからさまなほど、驚いた顔をした。
 それは、席についている瑞樹以外の人間全員にとっても同様のことで、誰もが目を丸くし、瑞樹の方を凝視していた。勿論、奏も、突然の話にギョッとしたように目を見張ってしまった。
 「あ、あの、それは…撮影に携わる人間、というと」
 「カメラマンと被写体、それとアシスタントだけです」
 「アシスタントは、えーと…成田さんは確か、特定のアシスタントは雇ってらっしゃらなかったと思いますが―――となると、使用する“STUDIO ACTS”のスタジオマンですか」
 「いや。今回の撮影には、個人的なアシスタントが同行することになってます。撮影準備はスタジオマンにも頼みますが、撮影助手は同行アシスタントに任せる予定です」
 「しかし―――…」
 3人以外は外に出ろ、という話は、そう簡単に飲める話ではない。広告代理店の人間も、“Clump Clan”の人間も、みな俄かに難しい表情になった。

 ただ、奏だけは。
 奏1人だけは、瑞樹の言う意味を理解して―――膝の上の拳を、ぎゅっと握り締めていた。

 ―――本気かよ…?

 唇が、震える。
 瑞樹は、奏の撮影に、蕾夏を連れてくる気でいる―――何故そんなことをしようとするのか、奏には、どうしても納得がいかなかった。

***

 結局、瑞樹が提示した意見は、“Clump Clan”側で検討することになった。
 「ご依頼いただくきっかけになった、あの“VITT”のポスター。あれも、3人だけで撮ったものです。あのクオリティを求めるなら、できる限り同じ環境で撮影をさせていただきたい。それだけです」
 瑞樹にそうキッパリと言われると、無下に一蹴する訳にもいかなかったのだ。

 「…どういうつもりだよ」
 “Clump Clan”の入ったビルを出ると同時に、奏は低くそう言い、瑞樹を睨んだ。
 動揺を隠し切れない奏とは対照的に、瑞樹の表情は平静そのものだ。何考えてんだ、と、その涼しい表情に余計苛立つ。
 「あれ、蕾夏のことだろ? 本気で連れてくる気なのか?」
 「―――あんな場所で、冗談言う訳ねーだろ」
 ふっ、と笑った瑞樹は、デイパックを肩に掛け直し、先に立って歩き出した。
 「…蕾夏も承知してるのかよ、その話」
 瑞樹を追うように歩き出しながら、奏が訊ねる。蕾夏、という名前を瑞樹の前で口にするだけで、なんとも言えない気まずさを感じるというのに―――“VITT”の時の撮影の再現よろしく、蕾夏を現場に連れてくるなんて。正気の沙汰とは思えなかった。
 「第一あいつ、郁のアシスタントやってた、って言ったって、実際には“アシスタントのアシスタント”状態だっただろ? 務まるのかよ、撮影助手なんて」
 「―――確かに、ベテランのスタジオマンよりは圧倒的に経験不足だろうけどな。少なくとも俺にとっては、蕾夏以上のアシスタントはいない。他の奴らじゃ察してくれない部分、呼吸で読み取ってくれるからな」
 「…それは、そうかもしれないけど…」
 「俺達は、ベストを尽くしたいだけだ」
 奏を振り返るようにして立ち止まった瑞樹は、既に笑みを消していた。奏も思わず背筋を伸ばしたくなるような、真剣な視線を、奏に向けている。
 「俺は、蕾夏がいた方がいい写真が撮れるし、蕾夏も、俺の仕事に加わりたいといつも思ってる。だからそうするだけだ。…心配するな。蕾夏は、大丈夫だから」

 大丈夫―――…。
 ……本当に?
 この間、蕾夏の目が一瞬見せた、心の乱れ。あれが、単なる気のせいだとは、到底思えない。“信用してる”、“大丈夫”―――その言葉を鵜呑みにできるほど、奏はおめでたく出来ていない。

 「…蕾夏じゃなく、成田は、大丈夫なのかよ」
 一旦逸らした視線を、瑞樹に戻す。奏は、ごくりと唾を飲み込み、本音の一部を曝け出した。抱える後悔も、切望も、葛藤も、全部曝け出しなさい―――千里の言葉に、背中を押されるように。
 「オレ、まだ蕾夏のこと、忘れられずにいる」
 「……」
 「振られたし、絶対に許されない罪も犯した。こんな気持ち、さっさと捨ててしまえれば楽なんだろうけど―――後悔しても、後悔しても、あいつのこと忘れられない。だから、もし、ほんの少しでもチャンスが転がってれば―――それが、蕾夏を傷つけずに済む方法なら、オレ、あんたの気持ち無視してでも、蕾夏を手に入れようとすると思う」
 脚が、震えそうになる。
 それを何とか堪えながらの奏の言葉に、瑞樹はさほど表情を変えなかった。ただ静かに、じっと奏の目を見据えていた。奏が、いまだに蕾夏を想っていること位、瑞樹にはとうにお見通しだったのだろう。
 「そんなオレを、大事な恋人に会わせていいのかよ? 信用してる、ったって、限度があるだろ。そこまで呑気に信用していいのかよ?」

 半分は、はったりだ。そんなチャンスが転がってるとは思えないし、万が一あっても、“あの日”のことを思い出した途端、きっと自分は手も足も出せなくなるに違いない―――蕾夏を奪うことは不可能だと、奏自身が一番よく分かっていた。
 それでも、確かめずにはいられなかった。
 なんでこんな風に、奏と蕾夏を、平然と会わせようとするのか―――その裏にある、瑞樹の本音を。

 半ば睨むように、瑞樹の顔を凝視し続ける奏に、瑞樹は暫し、何も返さなかった。が、やがて、ため息混じりの笑いを漏らすと、瑞樹は前髪をぐしゃっと掻き上げた。
 予想に反した瑞樹の反応に、奏は戸惑ったように眉をひそめた。
 「な…なんだよ」
 「―――いや、別に」
 「気になんだよ、そういうの。はっきり言えよっ」
 むきになったように奏が問い詰めると、瑞樹は更に小さく笑い、顔を上げた。
 「それ、二度目のそれ、“宣戦布告”って取っていい訳?」
 「……っ」
 聞き覚えのあるセリフに、奏の顔に、一気に血が上った。
 母校のバスケットコートで、奏が瑞樹に突きつけた挑戦状―――“5本ずつシュートして、もしオレが勝ったら、この後2、3時間、あいつ貸して”。それに対して、瑞樹は同じことを言ったのだ。“それ、宣戦布告って取っていい訳?”、と。
 「ま、何度目だろうが、言うことは同じだけどな」
 ニヤリと笑った瑞樹は、挑戦的に奏を見据えた。
 「売られた喧嘩は買ってやる。ただし―――あいつ傷つけたら、俺に殺される覚悟しとけよ」
 「―――そんな真似、する訳ないだろ」
 「…だよな」
 「……」
 「信用してる」
 瑞樹は、この前言った言葉を、もう一度繰り返した。
 「お前は、後悔してる。だから二度とやらないと―――蕾夏を傷つける真似だけはしないと、信じてる。お前が蕾夏に惚れてるって言うんなら、気の済むように想いの丈を訴えるなり何なりすればいい。俺は、蕾夏が傷つかずにいてくれれば、それでいい」

 “信用している”。
 その言葉が、更に重みを持って、奏の胸の中にストンと収まった。
 決して、口先だけで言ってる訳じゃない。瑞樹は、全部見抜いた上で―――奏の葛藤も、後悔も、己に対する不安も、全てを理解した上で、“信じるから答えを出せ”と言ってるのだと、今の言葉で分かった。

 どうしても手に入らない存在へのもどかしさに、どんなに頭に血が上り、自制心を失ったとしても―――もうお前は、あんなバカな真似はしない。理性が渇望に打ち勝って、きっと蕾夏を傷つけずに済む。
 その位お前の罪悪感と後悔が深いことを、俺は分かっているから。
 だから、“信じろ”―――自分を。

 “信用している”という言葉の、その真の意味は―――結局、“己を信じろ”ということだったのだと、やっと気づいた。
 気づいたら―――自分以上に自分の本性を見抜いている瑞樹に対して、なんだか悔しい気分になった。
 「…すっげー自信」
 バツが悪そうに、地面に転がってた石を蹴飛ばした奏は、少し不貞腐れたように呟いた。
 「オレがどうアプローチしようが、蕾夏がオレに靡く訳がない、って思ってんだ? あんたは」
 「―――バカ」
 奏の卑屈になったような言葉に、瑞樹は挑発するような笑いを見せ、奏の頭を軽く小突いた。
 「勝つ自信がなけりゃ、売られた喧嘩を買う訳ねーだろ」
 「―――…」

 …やっぱり、いちいち、(かん)に障る奴。

 行くぞ、と、奏を待たずして歩き出す瑞樹の背中を、奏は思い切り睨みつけた。けれど―――瑞樹の自信を覆すだけの材料を見つけることはできなかった。

 何故なら、蕾夏が瑞樹を見る時の目を、奏はよく知っているから。
 日頃の蕾夏からは想像もつかないほど、愛しさや情熱をストレートに表した、真っ直ぐな視線―――奏の心を抉ったあの視線は、1年経った今も、どうしても忘れられない。

 きっと瑞樹は、奏を信じるのの何十倍、何百倍の重さで、蕾夏を信じているのだろう―――何があっても決して、自分以外の男の手には落ちない、と。
 そしてその自信は、紛れもない事実だ。

 蕾夏は、瑞樹以外の男のものにはならない―――その事実に、奏は、敗北感と安堵感が入り混じったような、複雑な思いを抱いた。


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