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― Triangle -3- ―

 

 「そっか…保留になったんだ」
 瑞樹から今日の打ち合わせの結果を聞いた蕾夏は、受話器を握り締めたまま、小さくため息をついた。
 『一蹴された訳じゃねーんだから、そんな落ち込んだ声出すなよ』
 「…ん、分かってる。難航することは、最初から覚悟の上だもんね」
 “VITT”の時、時田が出したこの要求をクライアントがあっさり飲んだのは、それが「時田郁夫の依頼」だからだろう。業界での時田のステイタスが高い証拠だ。
 それでも―――できることなら、3人だけにして欲しい。
 “VITT”の撮影は、事件からそう経っていない時期で、まだ蕾夏も耳の聞こえない状態だった。奏と一緒に仕事をすることに、瑞樹も蕾夏も、言葉にはできない不安を抱えていた。そしてそれは、奏も同じだった筈だ。
 多分、第三者がそこに居たら、あんな風には撮れなかっただろう―――瑞樹は、後でそう言っていた。第三者が居たら口にできないことも、当事者達だけだったから口にできた。気まずい思いもしたし、マイナスな感情もお互いに随分と見せてしまったが―――他人の目を気にして、それを表に出してはいけない、と自らに課す必要はなかった。だからこそ、あの写真が撮れたのだ。
 今も、3人の関係は微妙だ。お互い、どう接していいか分からず、戸惑っている。
 だから、あの時同様、3人だけで撮影に臨みたい。他人の視線に気を遣うことなく、撮影だけにエネルギーを使いたい―――それは、2人にとっての切実な望みだ。
 「…ねぇ」
 『ん?』
 「もしも、“やっぱりそんな我侭は聞けません”てことになったら、どうする?」
 『珍しくネガティブだな』
 「…だって…」
 『―――駄目だった時は駄目だった時なりに、ベストを尽くせばいいだろ』
 そう言う瑞樹の声は、不思議な位、静かだった。
 奏のメールを受けた時、動揺していたのはむしろ瑞樹の方だったのに―――実際に奏が来てみたら、思いのほか瑞樹が落ち着いているので、少々驚いてしまう。今となっては、むしろ蕾夏の方が動揺している位だろう。
 「…なんか、瑞樹、随分悟ってるね」
 思わず蕾夏がそう言うと、電話の向こうの瑞樹は、短く苦笑を返した。
 『ほんとは、会うたび、不安になる。俺を怒らせたらまた痛めつけられるんじゃないか、って、奏が怯えてる気がして』
 「……」
 『でも―――俺が悟った顔してないと、あいつ、余計動揺するだろ。ま…、ガキの頃から、平気な振りすんのは慣れてるからな』
 その言葉に、蕾夏の眉が、悲しげに寄せられた。
 人生の大半を、平気な顔という仮面を被って生きてきた瑞樹の言葉だから―――つらい。蕾夏ですら一瞬騙されてしまうほど、平気な振りに長けてしまっている、そんな瑞樹が。
 『お前の方は、大丈夫か』
 蕾夏の感傷をよそに、瑞樹の方が蕾夏を心配してきた。大丈夫? 無理してない? と言いたいのは、むしろこちらの方なのに―――そう考え、蕾夏は苦笑した。
 「ん…、瑞樹と同じかも。私も、本当は、不安。…奏君を追い詰めちゃったら、また怖い思いする羽目になるんじゃないか、って。奏君に、不安そうな顔とか、ぎこちない顔しか見せられない気がして…会うのが、怖くなる」
 『…そうか』
 「多分ね、一度ちゃんと顔を合わせて話をすれば平気になると思うんだけど…それまでの間が、結構、つらいよね」
 なまじ、一瞬だけ、会ってしまっているだけに。
 “会いたかった”―――突然ぶつけられた、あの頃と全然変わらない目を見てしまっただけに、自信が揺らぐ。この前までは「大丈夫」と思っていたのに。
 『あいつ、まだ吹っ切れてはないけど―――蕾夏が心配してる点については、安心していいぜ』
 「……えっ」
 『俺が挑発してみても、悔しそうにはするけど、前みたいに食らいついてこねーし』
 「ちょ、挑発っ!? 一体何したの!?」
 『それは、秘密』
 「な…何でもいいけど、奏君のこと、あんまり追い詰めないでよ?」
 『その辺はわきまえてるって』
 慌てふためく蕾夏に、瑞樹は意味深な笑いを漏らした。
 『ガキの頃から、自信ありげな顔すんのも上手かったからな、俺』

***

 「―――こら、藤井」
 昨日の電話を思い出しつつ、ついぼーっとしていた蕾夏は、後頭部を丸めた資料で叩かれて、はっと我に返った。
 慌てて顔を上げると、憮然とした表情の瀬谷が立っていた。編集長に呼ばれてミーティングルームに行っていた筈だが、いつの間にか戻ってきていたらしい。
 「再校正は終わったのか? 締め切りが迫っているのに、そんなにぼーっとした顔をしてる暇があるとはね」
 「す…っすみませんっ」
 「先月、誤字が3つも見つかったんだろう? ケアレスミスで、ライターって職業に対する評判を落として欲しくないね」
 ―――うわー…、機嫌悪いー…。
 いつも皮肉屋で機嫌の悪そうな瀬谷だが、今日は特別にご機嫌斜めな様子だ。逆らわないようにしよう、と思いつつ、蕾夏は首を竦めた。
 忌々しそうに自分の席についた瀬谷は、大きなため息をひとつつくと、ギィギィと椅子を軋ませながら瞑想よろしく目を閉じてしまった。編集長に難しい仕事でも言い渡されたのだろうか。まさかとは思うが、記事のことで何か―――…。
 「―――蘇芳せなが、来ているんだ」
 瀬谷の不機嫌の原因を考えていた蕾夏は、突如発せられた一言に、驚いて瀬谷の方に向き直った。
 「蘇芳さんが…?」
 「ああ。今、それで編集長に呼ばれてたんだ」
 「打ち合わせ、ですか」
 「いや、2回分、纏めて納稿しに来たらしい。僕は、紹介したよしみで呼ばれたんだよ。全く…僕は文芸担当でも何でもないんだから、呼ぶ必要はないのに」
 「……」
 蘇芳せなが、ここに来ている―――…。
 蕾夏は無意識のうちに、視線をミーティングルームのドアに向けた。さっきまでは「誰か来客かな」程度にしか思わなかったが…そこに蘇芳がいると思うと、知らず、体が緊張で少し強張る。
 瀬谷を傷つけ、呪縛で絡め取っていた女―――瀬谷は、どんな気持ちで顔を合わせたのだろう?
 そして蘇芳は―――瀬谷の顔を見て、どんな表情をしたのだろう?
 「…瀬谷さん」
 蕾夏の硬い声に、瞑想状態の瀬谷も目を開け、なんだ、という顔で蕾夏の方を向いた。
 「私、蘇芳さんと話がしたいんですけど―――駄目ですか?」
 「話?」
 瀬谷の顔が、露骨に警戒した顔になった。
 「藤井が蘇芳に、何の話があるんだ?」
 「いえ、話したい訳じゃないんです。逆に…話を、聞きたいんです」
 「蘇芳に?」
 「はい」
 「何を聞こうっていうんだ。僕らの話に、第三者が首を突っ込む気でいるんなら、止めてほしいね」
 「…そんなんじゃ、ありません」
 瀬谷がそう言うのももっともだ。自分だって、自分の問題に首を突っ込まれるのは嫌いだ。蕾夏は苦笑し、軽く首を振った。
 「聞きたいんです。蘇芳さんが―――“加害者”の立場の人間から、これまで、どんな気持ちで生きてきたのかを」
 「……」
 それを聞いて、何かを感じたのだろう。瀬谷の警戒した顔が、考え込むような表情に変わる。
 蕾夏が、何かトラブルを抱えていることには、瀬谷も感づいている。ただ、それとこれとが、どう繋がるかは、いまいち想像ができないようだ。眉根を寄せた瀬谷は、厳しい表情で、腕組みした腕を人差し指でトントンと叩きながら、考えを巡らせた。

 ちょうどその時、ミーティングルームのドアが、ガチャリと開いた。瀬谷も蕾夏も、その音に、思わずそちらに目を向けた。
 ドアの向こうから現れたのは、編集長と、1人の女性だった。
 身長は、蕾夏といい勝負か少し低い位。髪を丁寧に結い上げた彼女は、決して美人ではないが、知的ですっきりとした外見を持った女性だった。著者近影の写真より好ましく見えるのは、写真では陰鬱そうな暗い表情をしていた彼女が、作り笑いと分かるレベルとは言え、一応笑顔を見せているからだろう。
 あれが―――蘇芳せな。
 瀬谷の話を聞いて以来、もっと野心家であることが顔に出ている女性かと想像していたが―――遠目に見る限り、実際の彼女は、むしろ大人しくて自己主張の弱い人物に見えた。

 『蘇芳せな、っていうペンネーム。せな、という名前は、学生時代はさんずいの瀬に、奈良の奈、って書いてたんだ。僕の苗字と彼女の名前、両方から1字ずつ取ってね。…そういう、ロマンチストな奴だった』

 ああ、そうかもしれない―――瀬谷の隣にいる彼女の姿を想像して、蕾夏はなんとなく納得した。蘇芳せなは既に結婚している筈だが、その夫がどんな人であっても、きっと瀬谷ほどには彼女には似合わないだろう。

 「じゃあ、失礼します」と編集長に挨拶をした彼女は、入り口の方へと歩いてきた。2人して、その姿をつい目で追ってしまう。
 表面上、穏やかな笑みを絶やさずにいたが、途中、瀬谷の方にチラリと向けられた目は、やはり笑ってはいない。瀬谷の方も、少々複雑な表情をしていたが―――何かを思い切ったのか、ガタリと席を立った。
 「藤井も来い」
 「えっ…、あ、はいっ」
 既に歩き出しながら言われた一言に、蕾夏も慌てて立ち上がり、瀬谷の後を追った。
 その様子は、蘇芳の方からも見えていたらしく、少し目を丸くした蘇芳は、入り口のドアを開ける一歩手前で立ち止まった。
 「蘇芳さん」
 彼女に歩み寄り、開口一番、瀬谷が口にしたのが、その他人行儀な呼び方だった。
 瀬谷を見上げる蘇芳の目が、一瞬、ぐらりと揺れる。けれど、再会以来、常にペンネームで呼ばれていたのだろう。さほどショックを受けたような顔も見せず、蘇芳は瀬谷と蕾夏の方に向き直った。
 「編集長との話は?」
 「ええ、もう終わりました。さっきはごめんなさい、お仕事中にお邪魔する羽目になって」
 「いや。―――ちょっと、紹介したい人がいるんだ」
 「え……」
 蘇芳の表情が、何故か強張る。
 自然、蘇芳の目は蕾夏に向けられた。蘇芳の表情の意味が分からない蕾夏は、どうリアクションすべきか迷いつつ、とりあえずいつも通りの笑みを作っておいた。
 「彼女、藤井蕾夏さん。僕と同じ、ここの専属ライターなんだ」
 「専属ライター…」
 「前に、言っただろう? 僕に君の本を貸してくれた人だ」
 「―――ああ…! あの!」
 どうやら瀬谷は、蘇芳にある程度、蕾夏のことを話していたらしい。蘇芳の表情が、パッと明るくなった。
 「はじめまして。蘇芳せなです」
 ニッコリと微笑む彼女に、蕾夏も笑みを返し、会釈した。
 「はじめまして―――藤井蕾夏です」

***

 「ごめんなさいね」
 隣のビルにある喫茶店に入って、互いに飲み物を注文し終えた時、蘇芳は何故かそう言った。
 ライターになってどの位なの? お仕事楽しい? などと質問されながらここまで来た蕾夏は、突然投げつけられた謝罪の言葉に、キョトンと目を丸くした。
 「あの…何のことですか?」
 「さっき。ちょっと変な態度とっちゃったでしょう? あなたの方向いた時」
 「…ああ…」
 先ほどの、蘇芳の強張った顔を思い出し、あれのことか、と蕾夏も納得した。謝るということは、そんな自分に、蘇芳自身も気づいていたのだろう。
 その理由を、訊ねてもいいものだろうか―――蕾夏が迷いながら無言のまま蘇芳の顔を見つめていると、蘇芳は僅かに苦笑した。
 「―――彼に、恋人を紹介されるのかと思ったのよ」
 「…えっ」
 「話を聞いた時、後輩のライターさんが女性だなんて、全然思ってなかったし。…わざわざ呼び止めてまで紹介する位だから、きっと結婚する相手なんだろうな、と思って、ちょっと緊張しちゃったのよ。ああ、とうとうその瞬間が来るのか―――って思って」
 「……」
 随分、勝手なことを言うものだ。蕾夏は、蘇芳のあまりに自己中心的な発言に、返す言葉を失った。
 「呆れた?」
 返事をしない蕾夏に、蘇芳は、どことなく痛々しい表情を浮かべ、訊ねた。ええ呆れました、などと言える筈もなく、蕾夏はその問いにも答えられなかった。
 「彼から、聞いてるのよね。わたし達のこと」
 「…はい」
 「全部?」
 「…蘇芳さんのデビュー作が受賞した経緯とか、その後のことは、ある程度。それと―――結婚を考えてた相手だった、ってことも、一応聞いてます」
 「―――あんな真似をした癖に、しかも自分は結婚して子供も生まれて幸せな生活を送ってるのに、彼が結婚するのが辛いなんて馬鹿じゃないの、って思う?」
 「……」
 「…そうよね。そう思うのが当然だわ」
 長いため息をついた蘇芳は、テーブルの上に組んだ自分の手に視線を落とした。

 ちょうどそこに注文した飲み物が運ばれてきたので、お互い、暫し無言になった。
 コーヒーをかき混ぜながら、アイスティーにガムシロップを入れる蘇芳の手元を、チラリと垣間見る。その時になって、蕾夏は気づいた―――普通は左手の薬指にすべき指輪を、蘇芳は何故か、右手の薬指にしている、ということに。

 「…4作目の“罪人の肖像”を読んで、蘇芳さんに直接、お話を聞きたいって思ってたんです」
 思い切って蕾夏が切り出すと、蘇芳はストローを摘んだまま、軽く首を傾げた。
 「わたしに?」
 「はい。…あの話って、瀬谷さんと蘇芳さんのことを題材に書いたものですよね?」
 「ええ」
 「蘇芳さんは―――あれから今まで、どんな日々を過ごしてきたんですか?」
 「……」
 「“罪人の肖像”の主人公は、謝罪する間もなく他界してしまった恋人のことを、悔やんで、悔やんで―――あれ以上の作品を描くことができずに挫折しながら、この苦しみが彼女を裏切った自分に与えられた罰なんだ、と、その後も絵を描き続けましたけど…蘇芳さんは、どんな気持ちだったんですか?」
 「…何故、そんなことを知りたいの?」
 何故―――…。
 一瞬、答えに躊躇する。この表現を、蘇芳がどう感じるか―――蘇芳の性格を知らないだけに、読みきれない。でも、自分の感じたままを口にすることにした。
 「―――誰かを深く傷つけた側の―――“加害者”の気持ちが、知りたいからです」
 「……」
 「知って…理解したいからです」

 奏が、この1年あまり、何を考えていたのかを。
 そして―――佐野があの後、何を考えて生きてきたのかを。
 知ってどうなるのか、と言われると、上手く答えられない。けれど―――知ることが、自分を絡め取っている呪縛から解放される手がかりになる気がする。奏と顔を合わせる前に、その手がかりが欲しいと思ったのだ。

 蘇芳は、暫し黙ったまま、蕾夏の目を真正面から見据えていた。が、やがて、アイスティーを一口飲むと、小さなため息をついた。
 「…あれから8年―――わたしが考えていた事は、ただ1つ。“あの時、あの原稿を持って行かなければ”―――その後悔だけ」
 ため息と共に吐き出すように告げられた言葉は、酷く疲れていて、少女っぽさの残る外見とは反対に、年齢より老けていた。
 「受賞した時、事実を告白して賞を辞退する、って選択肢は、なかったんですか?」
 「…無理だったの。社会人になったばかりで、応募した事実すら忘れて必死に仕事に慣れようとしてた頃だったから、テレビも新聞も見てなくて―――受賞翌日、実家の両親からの電話で初めて受賞を知ったのよ。でもその時には、もうマスコミに知れ渡ってて…カメラとマイクに囲まれて、何も言えなかった。“違うんです、あれはわたしだけの作品じゃない、智哉さんのアイディアをわたしが勝手に借りてしまったものだから”―――そんなこと、とても言えなかった」
 確かに…自分が同じ立場にいきなり立たされたら、気の利いたコメントの1つも口にはできないような気がする。ましてや、罪の告白をカメラやマイクに向かってするなんて、到底無理だろう。
 「物事が動き始めたら…もう、止められなかった。わたしには“期待の新人女流作家”っていう肩書きを背負ってしまって、授賞式やインタビュー、雑誌への掲載、ハードカバーの出版―――その都度、告白することは考えたわ。智哉さんにも謝りたかったし、どうすればいいか相談したかったけど…電話も会うことも拒否された。去年、連載の話の電話をもらうまでの8年間、彼の声すら聞くことができなかったの」
 「…瀬谷さんらしいですね」
 中途半端が嫌いな瀬谷らしい、頑なで徹底した態度だ。そう思い、蕾夏が口にした言葉に、蘇芳も微かに笑った。
 「そうね―――智哉さんらしいわね、確かに」
 「それで…どうしたんですか?」
 「…考えたの」
 蘇芳は、一旦言葉を切り、言葉を選ぶかのように無言で一点を見つめた。
 「何度も告白しようとしたけど―――そのたびに、考えたの。今ここでわたしが告白したら、どうなるんだろう…って。わたしが責められるのは構わない。自分の犯した罪だから、そうされるのは当然だもの。でも―――当然、智哉さんにも取材の手は及ぶだろうし、彼もスキャンダルの的になる。そうなれば、彼がいずれ作家として大成しようとしているなら、わたしの告白が逆に悪影響になるかもしれない―――そう考えて、告白すべきじゃない、って思ったの。いくら“軽い気持ちでした”って言っても、もう遅い―――受賞前に取り消す以外、方法はなかったのよ。あの作品が賞を取ってしまった段階で、もう嘘をつき通す以外、道はなかったの」
 「でも…それじゃあ、瀬谷さんが…」
 「…ええ、そうよね。智哉さんは、わたしに裏切られたまま。わたしが犯した罪は、償われる機会がないまま、8年経っちゃった…」
 似合わない皮肉めいた笑みを口元に浮かべた蘇芳は、後悔を滲ませた表情で唇を噛み、うなだれた。
 「…償う機会があれば、まだ良かったかもしれない…」
 「……」
 「彼は、わたしを責めなかった。あれは不正を働いた作品だ、と訴えることもしなかった。だからわたしは、8年経っても“加害者”のまま―――罪ってね、償うことで救われることもあるのよ」

 償うことで、救われることもある―――…。

 犯罪を働いておいて、涼しい顔で逃げおおせている人間も大勢いる。そういう人は、きっと、罪を償うことなんて死んでも嫌だと思っているだろう。
 でも、蘇芳のような人は―――ちょっとした出来心が、あっという間に取り返すことのできない大きな罪へと膨れ上がってしまい、その事実の大きさに慄いているような人は、違う。心の内に秘め続けなくてはいけない罪悪感に、押しつぶされてしまう。これが一生続くのなら、いっそ罪を糾弾されて償う方が何倍も何十倍もマシだと感じるだろう。
 罪を償うことで、救われる―――その心境は、蕾夏にも分かる気がした。
 自らも、佐野を斬りつけ、大きな傷を負わせたという罪を背負っている、蕾夏だから。

 「…ねえ。これ、気づいた?」
 そう言うと、蘇芳は、自分の右手を蕾夏に差し出した。
 薬指にプラチナの指輪が光る、蘇芳の右手―――さっき、蕾夏も奇妙に思ったものだ。
 「ええ…さっき、気づきました。なんで右手なんだろう、って。…結婚指輪ですよね」
 「そう。でもね―――これは、わたしの弱さと罪深さのしるしなの」
 「え?」
 「今の主人は、わたしが2作目を出版した頃、知り合った人なの。あの作品は―――受賞作に続く2作目ってことで、出る前から凄く期待されて、注目されてた。でも…智哉さんの持つ奇抜なトリックアイディアも、格調の高い文章を書く力も、あの頃のわたしには全然ないものだった。案の定、出版された途端、ありとあらゆる批評家が酷評したわ。…智哉さんの雑誌以外はね」
 「……」
 「…苦しかった。苦しくて、苦しくて、智哉さんが書く一言一言が胸に突き刺さって―――あまりに苦しかったから、その時、優しく手を差し伸べてくれる今の主人に、つい寄りかかってしまったの」
 蘇芳の目に、ふいに、涙が浮かんだ。
 「愛なんて、全然感じてなかった。最低な話だけど…わたしには、愛した人は、後にも先にも智哉さんだけ―――ただ、苦しさと寂しさを癒したかっただけ…それだけだったのに…その優しさにずるずると甘え続けるうちに、逃げられなくなっちゃったの」
 「情が湧いた…ってこと、ですか?」
 「いいえ。もっと最低」
 「…じゃあ…」
 「…妊娠したのに、中絶する勇気すらなかったから」
 「……」
 「周りは、幸せな結婚をしたと思ってる。でもわたし、一度だって幸せだと思えなかった。自分の馬鹿さ加減と卑劣さに、毎日毎日、後悔してる。子供は可愛いと思うし、夫を嫌いな訳でもないけれど…毎晩のように、智哉さんの夢を見るの。あのことがある前の――― 一番、幸せだった頃のことを」
 「…そう、ですか…」
 「永遠に、罰を与えられながら生きていくんだな、と思ってる」
 瞬きをすると同時に、涙が、蘇芳の手の甲に落ちた。
 「智哉さんより夫や子供を愛せれば、そう思わずにいられたかもしれない。でも…どんなに努力しても駄目。こんな風にしか生きられないのは、わたしが幸せになっちゃいけない人間だからだ、って…そう、思ってる。償うことが出来ない分、こうして罰を与えられるんだわ」
 「―――…悲しいですね」

 気の毒だとか、身勝手だとか、そう思う以上に―――悲しい。そう思った。
 そんな風にしか生きられない蘇芳は、悲しい人間だ。瀬谷を好奇の目に晒すよりはましだったかもしれないが、それでも…もっと他に、方法はなかったのだろうか。
 …いや。第三者には、何とでも言える。
 瀬谷と蘇芳の間には、こういう答えしかなかったのだろう。それが、互いを縛り続ける呪縛であっても―――謝罪するにも、許すにも、もう時間が経ちすぎている。言葉を交わすことなく過ぎた8年が、その機会を完全に奪ってしまったから。

 蕾夏と、佐野のように。
 そして―――瑞樹と、倖のように。

 「…いつか、蘇芳さんが救われる日って、来ると思いますか?」
 蕾夏の問いに、蘇芳は指で涙を拭い、小さく息をついた。
 「そうね―――もしもいつか、“わたしの作品”を、智哉さんが心から褒めてくれる日が来たら―――少しは、救われるかも。あんな卑劣な行為で世に出たことが、完全には無駄にならずに済むから」
 「…書き続けるんですね」
 “罪人の肖像”の、主人公のように。
 自身の力が、真に認められる、その日まで。
 「ええ―――書き続けるわ。どんなに恥ずかしくて、逃げ出したくても…彼を傷つけて、苦しめて、それだけで終わらせたりしない。そのために、今も書いてるし、これからも書き続ける―――自分だけの力でね」

 そう答えた蘇芳の表情は、痛々しいけれど―――強い意志を秘めた、力強い表情だった。

***

 ―――奏君も、償えないことに苦しんでるのかな…蘇芳さんみたいに。

 ベッドの上、クッションを抱いた蕾夏は、蘇芳の話に思いを馳せていた。

 奏は、罪を犯して平然と暮らせるタイプの人間ではない。罪を罪と感じ、苦しみ、自分を責め、のた打ち回るタイプだ。あのメールの文章や、瑞樹から聞いた話からすると、今も罪悪感に苦しめられているだろう。
 蕾夏に対する罪悪感が、奏を縛り付けている―――そう考えると、なんとかしなくては、と思う。自分自身、佐野が与えた呪縛に縛られているからこそ、なおさらに。誰かを縛るなんて、絶対に嫌だ。
 でも、許したフりなんて出来ないし、許したと言ったところで、奏もそれを信じないだろう。ロンドンで奏と話した時、既にそれは確認済みだ。傷が小さくなっていくまで、痛みを抱えていくしかない―――それは、蕾夏も奏も同じだ。

 不安だけれど―――近づきすぎると奏を傷つけそうだし、遠ざかろうとすれば奏を追い詰めてしまいそうで、不安だけれど。
 会って、話をしなくてはならない。新しい関係を―――3人で、過去のわだかまりに囚われずに作ることができる、そんな関係を築くために。

 意を決した蕾夏は、クッションをポンと放り出し、ベッドから下りた。
 まだ瑞樹は、仕事中だろう。遅くなると前もって聞いている。蕾夏は、テーブルの上に置いてあった携帯電話を手に取ると、あまり得意ではないメールを、いまだ慣れない手つきで打った。


 『金曜日、時間作れる? もしスケジュールが合うようなら、会いたいの―――“3人”で』


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