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― Triangle -4- ―

 

 お一人様ですか、と言う店員に、先に連れの者が来てますので、と断った奏は、広い店内をぐるりと見渡した。
 そして、一番奥の席に陣取っている2人を見つけ、少し緊張した面持ちで歩き出した。

 4人掛けの広いテーブルを占拠している瑞樹と蕾夏は、写真やらA4サイズの紙やらをテーブル一杯に広げ、何やら話し込んでいた。例の“写真集”でも作っているのかと一瞬思った奏だが、その割に2人の表情がそういうムードではないことに首を傾げてしまう。
 ―――相変わらず、一緒にいても、色気を感じさせない奴らだよなー…。
 ぼんやり、そんなことを思う。
 ロンドンにいた頃、撮影現場で会う2人は、信頼しあっている息の合った仕事仲間、という感じだった。キスシーンを目撃してしまっては、さすがに2人が恋仲なのだと認めざるを得なかったのだが、もし見ていなければ、2人の仲には気づかずに終わっていたかもしれない―――そう思うほどに2人は、他人の前では“恋人の顔”をほとんど見せない。
 今、視線の先にいる2人の様子にしても、周囲の人間は絶対、あの2人は仕事の打ち合わせ中だな、と思っているだろう。こんな時間に、しかも居酒屋で打ち合わせというのも、ちょっと妙な話だが。
 「…何やってんだよ、2人とも」
 奏が声をかけると、2人同時に顔を上げ、奏の方を仰ぎ見た。
 「遅かったな」
 実は15分も遅刻したのだが、そう言う瑞樹の表情は、別段怒っている風でもない。ちょっとホッとしながらテーブルの上に視線を移した奏だったが、そこに広げられているものの詳細を見て、思わず目を丸くしてしまった。
 「ちょ…っ、マジで仕事してたのかよ!」
 瑞樹と蕾夏、どちらの仕事のためのものか分からないが、散らばっているA4の紙の内容は、どう見ても一種の企画書だ。丁寧にタイプ打ちされたものに、容赦なく赤で訂正が大量に入れられている。見れば、蕾夏の手には赤ペンが握られている。さっきから2人で話し込んでいたのは、この企画書の内容についてだったらしい。
 呆れかえる奏に、ペンのキャップを閉めた蕾夏が、クスクス笑った。
 「来週末、私がプレゼンやる企画案なの。写真を瑞樹に担当してもらう企画だから、今、最後の詰めに入ってるとこ」
 「奏がなかなか来ねーから、結構進んだよな」
 ふっと笑った瑞樹が放った一言に、奏もむっとしたように眉を上げた。
 「…来ない方が良かったみたいだな。仕事の途中なら、もうちょい時間潰して来ようか?」
 「バカ。マジになるな」
 ―――ああ、調子狂う。
 まあ座れ、というゼスチャーを見せる瑞樹を横睨みし、奏は、奥に詰めた瑞樹の隣に腰を下ろした。そうしている間にも、蕾夏は、広げていた資料の類をてきぱきと片付けていく。

 …本当に、調子が狂う。
 “3人で飲みに行くぞ”と瑞樹から連絡があった時は、どんな顔して会えばいいんだ、と慌てふためき、昨日の夜なんてあまり眠れなかったというのに―――当の2人は、この態度。あまりに自然すぎて、気抜けしてしまう。勿論、気まずそうな態度をとられたら、それはそれで胃が痛い展開なのだが。

 なんだか、肩透かしを食らったような気分になりながら、奏は注文を取りに来た店員に、いつも頼むカクテルより強めのものを頼んだ。
 少し位酔っ払わないと、神経が持たない―――そう思ったのだ。

***

 「へーえ…黒川さんの集中講座かぁ。プロ目指してる人向けの講座ってことは、専門学校で習うレベルはある程度クリアしてるのが条件なんじゃない?」
 「ああ…まあ、確かに。オレ、黒川さん手伝ってメイクやってみたりしてた程度だから、正直な話、講義についていけるのか、あんまり自信ない」
 「え、もう実際にメイクとかやってるの?」
 「手伝い程度だけ。重要な部分はやらせてもらえないから、口紅塗ったり、ライン描いたりがほとんどだけど」
 「すごーい」
 「想像つかねー…、奏が人の顔化粧してる姿」
 「あはは、ほんとだよね」

 なんでオレ、こんな風に、普通に会話してるんだろう―――今後のスケジュールなどを話のネタにしつつ、奏は、自分自身に呆れていた。
 あまりに自然だと、忘れてしまいそうになる。自分の置かれた立場―――2人にとっての、一宮 奏という存在の意味を。瑞樹や蕾夏の言葉に、思わず素の笑顔で応えてしまうたび、奏は「何を調子づいてるんだ」と自戒した。
 『痛みと折り合いをつけながら、生きてくしかないの。目に見えない位に小さな欠片になるまで―――私も、奏君も』
 罵倒され、平手打ちされる覚悟で謝罪しに行った時、蕾夏に言われた言葉が、常に頭の片隅を支配している。
 謝罪は、罪を犯した人間として当然のこと。教会で懺悔するのだって、自己救済のためだ。そうしたからといって犯した罪が綺麗さっぱり消える筈もない。それからの日々も、謝罪や懺悔をした分、ちょっとだけ軽くなった心の重荷を抱えて、ずっと生きていかなくてはならない。
 罪は、犯したが最後―――消したくても消せないもの。

 「…奏君? どうかした?」
 蕾夏の声に、奏は慌てて顔を上げた。知らないうちに、ぼんやりしてしまっていたらしい。
 「い、いや、何でもない」
 斜め前に座る蕾夏のキョトンとした目に、ドギマギする。隣に座る瑞樹の視線も感じたが、そちらを見る勇気はなかった。せっかく和やかなムードだったのに、ぶち壊したくない。奏は、とにかく何か話題を振ろうと考えを巡らせた。
 「そ、そう言えば―――最近、累と連絡って取ってる?」
 「累君? 今年は、お正月にメールが来た位かな。瑞樹は?」
 「俺んとこも、同じ。どうせカレンの話を持ち出されるのを心配して、メール回数減らしてるんだろ」
 「そうそう。累君とカレン、仲良くやってる?」
 「エージェント契約切ってからあんまりカレンとは会わないけど、累を見る限り、上手くいってるんじゃないかな。何かあるたび、“どうすりゃいいんだよー”ってオレに泣きついてくるけど、オレから見たらただのノロケだし」
 「そりゃ凄い。あの累が、奏相手にのろけられるようになったとはな」
 「本人は、マジで困り果てて相談してるだけなんだけど。―――あ、そうだ。累って言えば、投稿小説だけど」
 ロンドンを経つ直前のことを思い出し、奏が何気なくその話題を口にすると、突如、瑞樹と蕾夏の顔が引き攣った。
 「…投稿小説って、あれ? なんとかって雑誌に投稿する、って累君が言ってた…」
 「…落ちたんだろ? 去年、蕾夏んとこにそんな手紙が来てた」
 「ああ…、うん、そうだけど」
 何故こんなに警戒した顔になるのか、さっぱり分からない。なにせ累は、小説に関しては徹底した秘密主義で、奏は勿論のこと、母も父もカレンも一度も読んだことがないのだから。
 「確かに落ちたけど、またチャレンジするって言って、書き始めたんだ。で、オレが日本来る前、成田や蕾夏に“近いうちチェックをお願いすると思うから、よろしく伝えといて”って言われたの、今思い出した。あんた達、累の小説のチェック係なんてやってたんだ?」
 「―――…」
 一気に、瑞樹と蕾夏の表情が曇る。げんなりした顔の2人は、困ったように互いの顔を見合わせた。
 「…私達にチェックを頼むってことは…また、アレだよね?」
 「…だろうな。懲りない奴…」
 「???」
 さっぱり話の見えない奏は、怪訝そうな顔をするしかない。一応、文章を書くプロである累なのだから、そんなに救いようのない小説を書くとは思えないのだが…。
 2人が揃ってこんな顔をするほど、凄まじい小説なのだろうか。そう思って、奏が訊ねようとした時―――ふいに、やたら近い距離から、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
 何の特徴もない着信音は、数日前、黒川から渡された奏の携帯電話の着信音と聞き分けできなかった。自分の携帯か、と慌ててポケットを探った奏だったが、奏が携帯を取り出すより早く、瑞樹が自分の携帯を取り出した。
 瑞樹の手の中の携帯は、震えながら着信音を繰り返していた。誰からの電話なのかを確認した瑞樹は、僅かに眉を寄せ、即座に通話ボタンを押した。
 「―――はい」
 電話に出ながら、瑞樹は奏に目配せし、席を空けろ、と無言のうちに言ってきた。どうやら、電話をするために、店の外に出るつもりらしい。
 「―――ああ、……ああ、ちょっと待て。今、居酒屋にいるんだ。外に出るから」
 そう言いながら奏が空けた席から体を滑らせた瑞樹は、蕾夏の方をチラリと見て、店の入り口の方を指差した。
 「誰?」
 と、口の動きだけで蕾夏が訊ねると、
 「みはる」
 と、瑞樹の唇が動いた。ああ、と納得したように頷いた蕾夏は、どういう理由か、僅かに表情を曇らせて「よろしく伝えてね」と小声で返した。
 ―――誰だよ、“みはる”って。
 足早に去っていく瑞樹を見送りながら、奏は思わず眉をひそめた。女の名前であることは間違いないだろう。ロンドンでのモデル達のあしらい方から見るに、蕾夏以外の女に電話番号を教えるような不用意な真似はしない奴、と奏は思っていたので、瑞樹に電話してくる女、という段階でちょっと信じられないが、その相手を蕾夏も知っているらしいことの方が、余計興味を惹いた。
 「なあ」
 瑞樹の姿がレジ奥のドアの向こうに消えるのを待って、奏は蕾夏の方を流し見た。
 「“みはる”って、何者?」
 「え?」
 「あの電話の相手。どう考えても女だろ?」
 奏の言葉に、不思議そうに目を丸くした蕾夏だったが、やがて奏の言わんとしているところを理解したのか、可笑しそうに笑った。
 「あはははは…、そっか、そう思うのも無理ないよね」
 「? なんだよ。まさか、“みはる”って名前、男でもあり得るとか?」
 「ううん、海晴さんは、確かに女の人だよ」
 「……?」
 よく意味が分からない。クエッションマークだらけの顔で奏がぽかんとしていると、蕾夏は短く息をつき、奏を宥めるように答えた。
 「あのね。海晴さんは、瑞樹の妹なの」
 「―――いもうと?」
 予想外の答えだった。というか―――奏にとって、瑞樹という存在は、何故か「家族」の匂いを感じさせない存在だったから。
 「あいつ、妹なんていたんだ…」
 「変? 瑞樹に妹、って」
 「…なんか、ピンとこないよな。あいつって、家族とかきょうだいとか、そういう匂いのしない奴だから」
 奏が、感じたままそう言うと、蕾夏の顔から突如、笑みが消えた。
 その唐突な変化に、奏の方も身構える。何かまずいことでも言ってしまったのだろうか―――焦りが、急激にこみ上げてきた。
 「わ、悪い。…オレ、何か変なこと言った?」
 恐る恐る訊ねると、蕾夏は曖昧な笑みを浮かべ、小さく首を振った。
 「…ううん、何でもないの。瑞樹って、中身に比べて外見はかなりクールだから、そういう風に見えるのかな、ってちょっと思っただけ」
 「……」
 今、蕾夏が見せた表情は、そういう類の表情ではなかったように思う。納得はいかないが、蕾夏がこの件を詳しく語りたくないのは感じられたので、奏はそれ以上訊くのはやめておいた。
 「ええと…よく、電話かかってくんの? 妹から」
 「うん、最近ね」
 「へーえ…あの歳になっても、妹と仲いいんだな」
 「え?」
 「気軽に携帯に電話してくるほど、仲いいんだろ? 妹と」
 「―――…」
 蕾夏の瞳が、迷うように揺れた。
 また何か地雷を踏んでしまったのだろうか、と緊張する奏に、蕾夏は、暫し迷うように視線を逸らしていた。が、やがて、意を決したかのように、奏の目を見つめた。
 「…海晴さんから頻繁に電話が来るのは、ちょっと事情があるの」
 「事情?」
 「海晴さんのお父さんが、くも膜下出血で倒れて、もう1ヶ月以上、意識が回復しないの」
 「……え?」
 「去年、お母さんが亡くなったばかりだから、精神的に参っちゃってて―――心細くなると、瑞樹に電話してくるみたい」
 「それって―――…」
 目を見開いた奏は、思わず身を乗り出した。
 「ま、待てよ。てことは、成田の父親が意識不明だってこと!?」
 至極当然のことを奏が言うと、蕾夏は複雑な表情で、微かに首を振った。
 「ううん。“海晴さんのお父さん”って言ったでしょ? 瑞樹と海晴さんのお父さんは、赤の他人なの」
 「…それって、どういう…」
 「…瑞樹のご両親、子供の頃に離婚したの。瑞樹はお父さんに、海晴さんはお母さんに引き取られて―――お母さんは再婚して。意識不明になってるのは、その再婚相手」
 「……」
 思ってもみなかった話に、奏は、言葉を失った。
 奏の両親は、あの年齢になってもまだ見ているこっちが恥ずかしくなるほど仲がいいし、実の親である時田やサラも、結局のところお互い以上の存在は見つけられず、今も双方独身だ。複雑な事情を抱えているとはいえ、家庭に不安を感じたことなど、奏も累も一度もない。
 だから、親の再婚相手というのがどういう存在か、実感としては理解できないけれど―――瑞樹にとっては、やっぱり複雑な感情を抱く相手だろう。
 その相手が死に直面していて、そのことにうろたえる妹を、瑞樹は励ましている―――きっと、心中割り切れない思いがあるに違いない。
 大変なんだな、と言おうとした奏だったが、そこでふと、蕾夏の言葉であっさり聞き流した部分を思い出した。
 「なあ―――今、“母親も去年亡くなった”って言ったよな?」
 「…うん」
 「いつ? 帰国してから?」
 「…ううん。去年の、5月」
 「……」
 「千里さん達には、なんでお葬式に間に合うように帰らなかったんだ、って言われると思ったから、黙ってたの。だから、言わないでね」
 ―――去年の、5月。
 その時間的符合に、背筋が凍った。何故ならその時期は、ちょうど“あのこと”のせいで、蕾夏が聴力を失い、瑞樹が必死に付き添っていた頃だから。
 カメラマンとしての足がかりを掴むため―――ただそれだけの理由で、母親の葬儀を無視するなんて、あり得るだろうか? 既に大きな仕事は終わっていたのだろうし、帰ろうと思えば帰れた筈だ。それをあえて帰らずにいたのは―――やはり、よほどの理由があったとしか思えない。そして、瑞樹にとって、蕾夏以上に大きな問題など無いようにしか思えない。
 まさか、自分が犯した罪のせいで、実の親の葬式にも出られなかったのだろうか―――そう思うと、足まで震えてくる。奏は、言葉を失ったまま、蕾夏の顔を凝視するしかなかった。
 凍りついたような表情でピクリとも動かない奏の様子に、蕾夏も、奏の考えを察したらしい。慌てたように、付け加えた。
 「あ…、あの、違うから。お葬式に出なかったのは、私のせいでも奏君のせいでもない、瑞樹自身の選択で、最初からそう決めてたことなの」
 「…けど…実の母親なんだろ?」
 「……」
 「オレにとってのサラとは違う―――離婚したっていっても、正真正銘、産んで育ててくれた、本物の母親だろ? よほど理由がないと、そんな…」
 蕾夏が気を遣っている気がして、そう言い募る。そんな奏に、蕾夏は、困ったような、どこか悲しそうな顔をした。
 はぁ、とため息をついて、蕾夏がうつむく。そのまま、少しの間じっとしていた蕾夏は、ゆっくりと顔を上げると、奏を真っ直ぐに見つめた。

 「…奏君」
 「……」
 「瑞樹戻ってくる前に、奏君に言っておきたいことがあるの」
 「……なに、を」
 「―――私達ね。それぞれ、もう関係を修復しようもない相手が、1人ずつ、いるの」
 「……え?」
 「ずっとずっと前に、忘れたいのに忘れられないような思いをさせられた人。その後の人生を支配してきた―――ううん、今も、支配し続けてる人。あのことがなかったら、って、今も思う。でも…今から新しい関係を築こうにも、もう築く手段も見つからないような人が―――瑞樹にも、私にも、いるの」

 蕾夏が何を意図してそんなことを言うのか、奏には分からなかった。
 ただ、思い出したのは、2つのこと―――蕾夏が奏のことを「ちょっと怖い」と言っていた時、名前は忘れたが、誰かと少し似ているから、と言っていたこと。そしてもう1つは、“あの日”、「瑞樹のような恵まれた人間に、人の“心”なんて分かるのか」といきり立つ奏に、蕾夏が叫んだ一言。

 『奏君に何が分かるの!? 知りもしないで、瑞樹を悪く言わないでよ―――…!』

 あの時感じた、心臓を抉られるような痛みを再び感じ、奏は無意識のうちに顔を歪めた。
 でも―――蕾夏が、あんな場面でも奏に憤り、瑞樹を擁護するためにああ叫ばずにはいられなかったほどに、瑞樹には何か、深い事情があるのかもしれない。意図が分からないなりにも奏は、蕾夏の言う“誰か”が確かに存在するのを感じた。

 「私達は、奏君とは、そういう関係になりたくない」
 きっぱりとした口調でそう言い、蕾夏は、厳しい顔を、少しだけ柔らかい表情に変えた。
 「勿論、あのことは忘れられないし、仕方なかったよね、なんて言葉も、まだ言えない。…瑞樹も、奏君に対するわだかまりは、まだ払拭できてないと思う。でも―――奏君と私達の関係を、それだけの関係のままにする気はないの」
 「……」
 「新しい関係、作っていこう?」
 微かな笑みが、蕾夏の口元に浮かんだ。
 「奏君と私、奏君と瑞樹じゃなく―――“私達”2人と、奏君の関係」
 「…どういう…意味、だよ」
 「いい仕事がしたいの」
 「仕事?」
 「そう。今度のポスター撮影―――奏君を、瑞樹が撮って、私がそのアシスタントをして。“VITT”の時を凌ぐ位、いい作品が作りたいの。その瞬間だけは、世界中の誰より信頼しあって、同じ目標を3人で目指して―――そのためなら、“あのこと”なんて頭の中から消えちゃう位。もしそういう仕事が3人で出来たら―――その先に、私達と奏君の新しい関係が見えてくると思う」

 奏の目が、動揺にぐらつく。
 2人対自分の、新しい関係―――それは、魅力的な響きだった。
 2人の間に割って入ることなく、2人の傍に、自分の居場所を見つけられる関係―――奏が、ここまで探しにきた関係は、まさにそれなのだから。

 「いちいち気にするな、なんて言わない。私だって、ちょっとしたことで戸惑ったり、不安に思ったりすることはあるから。でも―――仕事に関してだけは、“あのこと”は、忘れよう?」
 「…蕾夏は、できる自信、ある?」
 眉をひそめ、奏が不安げにそう言うと、蕾夏はくすっと笑ってみせた。
 「…できるよ、絶対に。被写体としての一宮 奏は、最高の素材だと思ってるもん―――私も、瑞樹も」
 「……」
 「“VITT”の時以上の写真、絶対に撮ろうね」

 

 話が終わって間もなく、瑞樹は携帯片手に、席に戻ってきた。
 奏が海晴の父親の容態を訊ねると、瑞樹は驚いた顔で奏を見、続いて蕾夏の方を軽く睨んだ。
 「…お前、喋っちまったのかよ」
 「当たり障りのない範囲内で」
 「撮影近いのに、余計な心配かけるだろ」
 「だって瑞樹、言ってたじゃない? 奏君に話した方がいい、って私が思ったことなら、瑞樹のことであっても話して構わない、って。海晴さんが、瑞樹の新しい恋人なんかと間違えられても、瑞樹は構わないの?」
 ニッと笑って言い放つ蕾夏を、瑞樹は呆れ顔でその頭を小突き、
 「だからって、話の範囲を広げすぎ」
 と愚痴った。
 その様子がちょっと面白くて、つい声を殺してしまった奏に、瑞樹は小さなため息を一つついた。
 「―――まだ意識不明が続いてるけど、俺にとっては、赤の他人だからな。撮影には支障をきたさないって保証するから、心配すんな」
 「…分かってる。オレ、黒川さん達に余計なことは絶対喋らないから、信用しろよ」


 1つのプロジェクトの成功を目指して協力しあう、仕事仲間。
 そういう居場所も、悪くないかもしれない―――奏はそんなことを思い、少しだけ安堵した。

***

 それぞれの仕事の近況などを話し合い、料理も飲み物もあらかた平らげてしまい、いよいよお開きとなった時。
 奏の目の前に、中ぶりな紙袋が、無造作に突き出された。
 「―――?」
 瑞樹が差し出した袋の意味が分からず、そのまま袋を見つめる。
 「何、これ」
 「お前に、俺達からの来日祝い」
 「来日祝い?」
 「中身、見てみて」
 蕾夏にそう促され、奏は紙袋を受け取り、その中を覗いてみた。
 そして、そこにあるものを確認して――― 一瞬、ドキリとした。
 入っていたのは、両手で包みこめるほどの大きさの、サボテンの鉢だった。
 蕾夏が置いていったあのテラリウムよりは相当小ぶりだが、一応、丸いサボテンと細長いサボテンの寄せ植えになっている。
 「ここ来る前にね、瑞樹と2人で選んだの」
 サボテンを凝視したままの奏に、蕾夏が楽しげに説明した。
 「ほら、私達、奏君にサボテンのテラリウムを置いていったでしょ。ホテルって、凄く殺風景じゃない? だから、あんなのが部屋に1つあったらいいだろうなー、と思ったの。奏君がどの位可愛がってくれてたか分からないけど―――毎日見てた物なら、馴染みがあって、外国生活でもホッとするかもしれないと思って」
 「あのサイズにしようかと思ったけど、持って帰るにも日本に残して行くにも、あのでかさじゃ不便だからな」

 今、自分が感じているものは、きっと2人には分からないだろう。
 2人がいなくなってからの日々、唯一彼らの痕跡だったあの寄せ植えに、自分がどれほど救われていたか―――きっと、2人には、分からないだろう。
 身の内が、震えそうになる。こんなもの貰う資格、オレにあるんだろうか―――そう思いながらも、嬉しいという気持ちを押さえつけるのは難しかった。

 「…サンキュー…。すっげー、嬉しい」
 紙袋の手提げをぎゅっと握り締め、目線を下にしたまま、そう言う。
 その直後、あることをふいに思いつき―――奏は顔を上げ、2人の顔を交互に見つめた。
 「あの―――ちょっと遠回りになるけど、さ。オレの泊まってるホテルの下まで、一緒に来てくれるかな」

 

 一旦、エレベーターの中に消えた奏が再び戻ってきた時、1階ロビーで待っていた瑞樹と蕾夏は、奏が持っているものを見て、目を丸くした。
 「何? その、結婚式の引き出物が入ってそうな袋」
 奏が提げている濃紺の大きな紙袋を興味深そうに見つめる蕾夏に、奏は意味深に笑ってみせ、その紙袋を2人の目の前に突きつけた。
 「これ、あんた達に返す」
 「え?」
 見るからに重そうな袋は、瑞樹が受け取った。怪訝そうな顔の2人だったが、その紙袋の中身を確かめた途端、驚きに表情を変えた。
 「これ―――…」
 「…そう。あんた達が置いてった、テラリウム。ちゃんと検疫受けて、手荷物で持ってきた」
 「お前―――あのボストンバッグの中身、もしかしてこれかよ」
 やたら重そうなのに、決して荷台に置こうとしなかったボストンバッグを思い出し、瑞樹が少し呆れた声を上げた。まあ…確かに、呆れられても仕方ないだろう。洋服の類は一切航空便で先に送ってしまい、実際に手荷物として持ち込んだのは、実はこのテラリウム1つだけだったのだから。
 「置いてくるに忍びなくて、ちょっと無理して持ってきたけど―――あの鉢植え、貰ったから。ロンドンで買ったテラリウムなら、ロンドン滞在の記念みたいなものだろ? だから、あんた達に返す」
 「―――…」

 このテラリウムを、2人のうちどちらが、どういう経緯で買ったのか、奏は知らない。千里や淳也も、気がついたらそこにあった、と言っていた。
 でも、半年もの時間を共に過ごした思い出の品だ。本当なら日本に持ち帰りたかったに違いない。名残惜しい気はするが、やはりこれは2人に返すべきだと―――今日、寄せ植えを貰った時、そう思ったのだ。

 ロンドンでの思い出のテラリウムを前に、瑞樹も蕾夏も、何故か無言だった。何かの感慨に浸るように、言葉もなく、じっとテラリウムを見つめていた。
 あっさり受け取って終わりだろう、と考えていた奏は、その2人の様子に、少し首を傾げた。
 「な…何だよ? どうかしたのかよ?」
 今日はなんだか、地雷を踏んでばかりいる1日だったので、途端に不安になる。様子を窺うように奏が訊ねると、瑞樹は顔を上げ、奏に苦笑を返した。
 「いや、なんでもない」
 「…だったら、もっとあっさりしたリアクションにしろよ」
 つい、抗議するような口調になってしまう。不安から、心臓が知らずドキドキと速くなっていた。
 「蕾夏」
 まだテラリウムに見入っている蕾夏の髪をくしゃっと掻き混ぜ、瑞樹が声をかける。
 数度瞬きを繰り返した蕾夏は、それでようやく顔を上げ、奏の方に目を向けた。
 その、目を見て。
 奏は、速まっていた鼓動がドキンと音を立てて止まるのを感じた。

 以前と変わらない、黒曜石みたいな真っ黒な瞳が、僅かに潤んでいる。
 蕾夏の口元が、ふわりと微笑んだ―――まるで、淡い色をした可憐な花が花開く瞬間のように。

 「―――…ありがと…」
 「……」
 「ありがとう、奏君。ほんとはこれ、凄く…凄く、大切なものだったの。持ってきてくれて、嬉しい」

 ゾクリと、全身に震えが走る。なんとか作った笑顔は、多分、酷くぎこちない笑顔だっただろう。
 「い…いや、礼を言われるほどのことじゃないし」
 なるべくさりげない口調を装ってそう言った奏は、震えに耐えるように、下ろした両手でジーンズをぎゅっと掴んだ。
 再びうるさく鳴りだした鼓動を感じながら、チラリと瑞樹の方を見遣ると、奏の動揺を見て取った瑞樹が、からかっているとも取れるし余裕の態度とも取れる笑いを返した。多分…自分が女であれば、その視線にグラリとくるだろう、という、妙な艶を伴った目を僅かに細めて。

 ―――何故、目の前にいるこの女ばかりが、こんなに自分を惹きつけるのだろう。
 何故、そんな彼女の相手が、よりによって目の前にいるこの男なのだろう。
 何故、自分は―――そんな2人に潔く背を向けることができないのだろう―――…。

 「じゃ、俺達、帰るから」
 瑞樹に言われ、奏は、なんとか普通の笑みを返した。
 「ごめん、わざわざこんな所にまで来てもらって」
 「こんなもんを1万キロも運んできたんだから、ハイヤーでも頼んで丁重に送り迎えしてもいい位だろ」
 「…心にも思ってない癖に」
 奏の憎まれ口に、瑞樹はちょっと笑って、蕾夏の肩をポンと叩いた。
 「行くぞ」
 「うん。おやすみ、奏君」
 「―――…おやすみ」


 一応、自動ドアの外まで2人を見送った奏は、そのまま暫し、2人の様子を眺めていた。
 すると、重たいから、と瑞樹が持っていた紙袋を、蕾夏は半ば強引に奪い取っていた。
 「…知らねーからな。途中でコケて、器が真っ二つに割れても」
 「ひっどい。そんなに非力じゃないもん」
 「足元ふらついてんじゃん」
 「久々にお酒飲んだから、ちょっと酔っ払ってるだけですっ」
 「10分でギブアップに、500円」
 「家までちゃんと持ち帰るに、1000円!」
 微かに聞こえる2人の会話に、思わず吹き出してしまう。…素に戻っても、やっぱりどこか、甘い恋人同士の顔とは違う。

 「…2人と、オレとで作る、新しい関係―――か…」

 調和のとれた、トライアングル。
 三角形は、一番バランスの取れた形だと、誰かが言っていた。
 今はまだ、アンバランスもいいところ―――自分だけが、行き場所を失って、ぐらついている。


 ―――遠くで、傍にいない苦しさに耐えるのと、近くで、手に入らないものの存在に苦しむのと、どっちが正しい選択なんだろう?
 その答えは―――まだまだ、遠そうだ。


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