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いつの間に眠ってしまっていたのか―――気づいたら、朝だった。
「…い…ってー…」
どうやら、床に座ってベッドにもたれたまま、首をガクンと前に倒して眠っていたらしい。背後のベッドに肘をついた瑞樹は、ギプスでもはめられたみたいに固まっている首に、思わず顔を顰めた。
今、何時だろう―――首を押さえて背後を振り返る。ベッドサイドに置かれた本棚の上の目覚まし時計は、午前6時を指していた。
3月も、今週いっぱいで終わり―――カーテンの隙間から差し込む明け方の光は、1ヶ月前よりも随分と明るい。その光を受けて、棚の上に置かれたテラリウムが鈍く光っている。時計からテラリウムに目を移した瑞樹は、僅かに微笑んだ。
家族には、常に負い目があった。
嘘をついている、真実を隠そうとして母の片棒を担いでいる―――そんな後ろめたさがあったから、父の誕生日祝いも、海晴へのクリスマスプレゼントも、何か家族らしいことをしなくては、という妙な打算が働いていた。勿論、喜んで欲しいという気持ちもあったが…笑顔を返された時、感じるのは喜びではなく、安堵だった。
あのテラリウムを買った時が、純粋に、喜ぶ顔が見たい、と思った初めての経験だったかもしれない。
蕾夏が偶然、下宿先の近所の花屋で目を留めた、サボテンのテラリウム。あれをもし買ったら―――誕生日祝いに、黙って枕元に置いておいたら、蕾夏はどんな顔をするだろう? …そんな風に思いながら、蕾夏には黙ってあのテラリウムを買った時の気分は、今でもよく覚えている。
さすがに、泣かれた上に、初めて蕾夏の方からキスをされたのには正直驚いたが―――嬉しそうな蕾夏の顔を見た時感じたのは、安堵でも何でもなく、ただひたすらに“幸せ”だった。
これをロンドンに置いていくしかないと分かった時、蕾夏は残念そうに眉を寄せ、その夜、こっそり1人で泣いていた。
荷物として預けるのは危険だし、手荷物にしようにも、他に手荷物として機内に持ち込むものの多すぎた2人なので、こういう選択になるのは仕方ないことだ。それは十分分かっていても、蕾夏にとっては手放し難いものだったのだ。
見かねて、「奏のために、置いてってやれば?」と提案したのは、瑞樹の方だった。その一言で、蕾夏はやっと、置いていく決意ができたのだが―――この前のあの泣きそうな位に嬉しそうな笑みを見ると、やはり心残りはあったのだと分かる。
今、こうして再び蕾夏の手元に戻ってきたテラリウムを見ていて―――感じているのはやっぱり、“幸せ”なのかもしれない。
眠気をはらうように髪をぐしゃっと掻き混ぜた瑞樹は、蕾夏の方に目を向けた。
パソコンの前に陣取っていた蕾夏は、テーブルの僅かな空きスペースに突っ伏して眠っていた。その傍らに、瑞樹が意識を手放す前には無かったものが置かれているのに気づき、瑞樹は思わず、それを手に取った。
クリップで留められた、A4サイズの紙、数枚―――週末に迫った、企画コラムのプレゼン用の資料だ。
「―――…んー…」
微かに腕に当たっていた資料が動いたせいか、直後、蕾夏が目を覚ました。
「いま、なんじー…?」
「…6時。もう少し寝てろよ」
「…うー…、いい。おきるー…」
そう言うと蕾夏は、ゆらりと体を起こし、まだ開ききらない目を眠そうに擦った。
「俺って、何時に寝たんだろ…」
「んー…? 多分、私が眠っちゃう30分位前だと思うよ? ベッドに寝てもらおうかと思ったけど、なんか気持ちよさそうに寝てるから、そのままにしちゃった。大丈夫だった?」
「大丈夫。それより、蕾夏―――…」
やっと目を開けた蕾夏の目の前に、資料をかざしてみせる。
何度か目を瞬いた蕾夏は、それが資料だと分かると、瑞樹に向かって笑みを返した。
「プリントアウトしたところで、さすがに疲れて眠っちゃった。…瑞樹の方は?」
「俺も、終わった。お前に言うつもりだったのに、終わった途端、ダウンしたらしい」
苦笑した瑞樹は、細かなナンバリングを終えたフィルムと写真の束を指差した。
暫し、2人して無言で、顔を見合わせる。
やがて、瑞樹と蕾夏の顔に、なんとも言えないニンマリ笑いが浮かんだ。
「お疲れさまっ」
「お疲れ」
自分達の健闘をたたえて、2人はハイタッチの要領で互いの手のひらをパン! と合わせた。
***
「だめだめ。ショーは夜なんだよ? そんな白い色目にしたら、強烈なライトで顔の造作が飛んじゃうだろう?」
「…ハイ」
「ちーがーうー。何を聞いてたんだい? オークル10番だけじゃ顔色がくすむよ。ピンク系もうちょい混ぜて」
「…ハイ」
「おいおい、君、一人暮らししてたんだろう? アイロンかけずに服着てたのかい? そんなかけ方じゃ、肩がきちんと決まらないよ?」
「……ハイ」
「あ、これ終わったら、青山店の陳列見直しがあるから」
「……」
もう、返事する気力もなくなりつつある。
今までは“お客様”扱いされてたんだな、と強く実感した奏は、床に散らばったアクセサリーや靴を、ため息とともに衣装ケースに収め続けた。
日本に来て10日弱。黒川のアシスタントまがいとして一緒に行動しているが、“Clump
Clan”での仕事が終わったらロンドンに帰ってしまうせいか、まさに分刻みの仕事振りに、さすがの奏も驚かされた。
ロンドンでは、未来のスタイリストを目指すスタッフ数名が、アイロンかけやら簡単な直しなどを手伝っていた。奏がさせてもらえたのは、そういった仕事の見学と、荷物運びが大半。メイクも、口紅と眉だけは徹底的に教えてもらって手伝えたが、基礎メイクやチークといった部分は絶対やらせてもらえなかった。
でも、日本には、店舗スタッフと事務所スタッフはいるが、そういう現場スタッフがいない。奏だけだ。
―――安易に引き受け過ぎたかもなぁ…。
本業も持ってるのに、と一瞬後悔しそうになるが。
『ホントにねぇ、あの郁夫が、ああも人遣いが荒いとは思わなかったわよぉ? 瑞樹も蕾夏も、毎日夕飯の時点で眠そうにしてるもの。午前様になる日も結構あるし―――ロンドンに来て痩せられたりしたら、食事全般預かってる身としては焦るわよ』
2人がロンドンにいた頃に千里が漏らした言葉を思い出し、首を軽く振った。
あの2人は、仕事のない時間も、時田を納得させる写真を撮るべくロンドン中を歩き回っていたと聞く。本気でこの道を目指そうとしている以上、あの2人に負ける訳にはいかない。
「一宮君」
全ての小物類をケースに収め終わると、既に身支度を整えた黒川が声をかけてきた。
何ですか、まだオレは出かける支度できてないから出られないっすよ、という顔を向ける奏に、黒川は苦笑のような笑みを返した。
「急に厳しくなって面食らってるんじゃない?」
「…そんなことも、ないですけど」
―――多少、面食らってる部分も、あるにはあるけれど。
「君が興味程度でやりたがってるなら別だけど、どうやら本気みたいだから、あえて手加減せずスパルタ教育してるんだよ。別に、こき使ってる訳じゃないからね」
「ああ…はい。それは、分かってます」
「うん、分かってるなら、いいよ。君、センスがいいから、技術さえしっかり身につけば、メイクとしてもスタイリストとしても一人前になれる素質あるよ」
「……」
―――こういうセリフで、すぐこういう顔になっちまうから、累から言われるんだよな。“少し優しくされると尻尾振って懐く、寂しがりやの犬みたいだ”って。
無意識のうちに、照れたような笑い顔になる自分を感じながら、累のお決まりのセリフを思い出して、内心自分を叱咤する。
けれど、その表情の変化は止められなかったらしく、黒川は奏の顔を見て、思わず吹き出した。
「あははははは、一宮君て、案外分かりやすい顔してるねぇ。モデルの一宮 奏とはホント、正反対の素顔を持ってるなぁ」
「…悪かったですね」
「じゃあ、早く支度しておいで。僕は先に下おりてるから」
そう言って、ドアを開けかけた黒川だったが。
「あ、そうそう。もしスタイリストの方でやっていく気があるなら、破れた箇所を補修する位の裁縫は出来るようになっておいた方がいいよ。今度、自前の裁縫セットでも用意しといて」
「―――…」
ボタンの付け直しがせいぜいの奏は、その言葉に、笑顔を引き攣らせてしまった。
***
その日の午後は、“Clump Clan”側と黒川の打ち合わせだった。
「一宮さんがそこに座ってるの、なんとも微妙な感じですね…」
黒川の隣の席で、カラーチャートなどを取り出している奏を見て、黒川と奏のちょうど中間位の年齢らしい担当者は、複雑な表情をした。
“黒川の臨時アシスタント・一宮 奏”としては、これが初めての打ち合わせだ。担当者の言葉も無理のないことだ。
「一宮君には、モデル代表としても意見を述べてもらうんで」
「ああ、それはいいかも知れませんね」
―――って言っても、打ち合わせの大半が“女性ものの小物について”なんだけどな。
意見なんて出せるのかよ、と、疑問に思う奏だったのだが―――…。
「重い重い。あそこのジュエリーは、デカくて重いんですよ。モデル仲間の間ではめちゃくちゃ不評で、ウォーキングで一回りすると体重が1キロ減るとか言われてるんですから」
「あー、ここのピンヒール、バランスが変なのか、足場悪いとすぐスリップするらしいですよ。野外ステージで転んだ仲間がいたから、やめた方がいいんじゃないですか」
―――意外にできるじゃん、オレ。
カレンを始めとする懇意にしていたモデル仲間から聞いた愚痴が、こんな所で役に立つとは思わなかった。
奏からすれば、黒川ほどの人物が何故こういう悪評を知らないのか不思議な位だ。でも―――知らなくて、当然なのかもしれない。
たとえネックレスが首がもげそうな位に重くても、たとえヒールがぐらぐらするシロモノでも、それを見せずに優雅にターンして見せるのがプロのモデルだ。黒川がビッグネームなだけに、多少気に食わなくても文句を言うことはないだろう。なにせ、スタイリストという仕事は、モデルの選定にも携わる立場なのだから。
「うーん、やっぱり、一宮君みたいな立場の人が加わると、本音が聞けていいなぁ」
次々と決まっていく事項をメモしながら、黒川はほくほく顔である。
「モデルさん達、よっぽどの不具合がない限り、本音を語ってくれないんだよねぇ。その点、一宮君は半分スタイリストのアシスタントでもあるから、忌憚ない意見を述べてくれるから、連れてきて正解だったよ」
「…もし、このメーカーからの依頼があっても、オレが貶したなんてバラさないで下さいよ?」
自分のクライアントになる可能性もあるのだ。ちょっと焦って奏が付け加えると、黒川は面白そうに笑って「分かった分かった」と言った。
途中から、打ち合わせの場は“Clump Clan 銀座店”に移った。
店舗の建築はほぼ終わり、現在は外壁の塗装や内装にかかっている。この日は、オープニングイベントを取り仕切るプロモーション会社の人間も下見をしているらしく、工事関係者、“Clump
Clan”の人間、プロデュース会社の人間の3種類が、工事中の空間に入り乱れていた。
「6月1日は、店舗の地下と2階を楽屋代わりに使って、ランウェイがこの1階店舗内から始まる趣向になってます」
「へーえ…」
ガラスをふんだんに盛り込んだ1階店舗は、天井も相当高い。ここにライトを置いて、店内から外の会場を照らすような感じになるんだろうな、と想像し、奏は楽しげに口の端を吊り上げた。
奏がショーモデルにこだわるのは、こういう現場が好きだからだ。
勿論、雑誌やポスターも嫌いではない。でも、スポットライトを浴びてランウェイを歩くのは、なんとも言えない高揚感がある。デザイナー、メイクやヘアメイク、スタイリスト、アートディレクター…そういう裏方や、音響や照明といった会場側の裏方の力が、自分達の背中を押して、舞台の中央に押し出してくれる。その演出がはまって、客が拍手喝采してくれたなら、それまでどんなに苦労があろうとも、その一瞬で忘れることができる。
―――なんだかんだ言っても、好きなんだよな、この仕事。
自分の限界を感じた時、潔く辞めることができるだろうか?
…いや。一抹の不安はあるものの―――きっと、大丈夫。“ショーの現場の担い手”でいたいのならば、何もモデルに固執する必要はないのだから。
自らも店舗を構える黒川は、有名ブランドの新店舗に色々と興味深そうだ。担当者と話しながら勝手に2階へと上がってしまったので、奏は一旦、店の外に出ることにした。
背後からは、内装工事のドリルの音などが聞こえる。ちょっと疲れを覚えた奏は、無意識のうちに、上着のポケットに手を突っ込んだ。
そして、目的の物が指に触れないのに気づいた瞬間、思わず舌打ちしてしまった。
―――そうだ、切らしてたんだった。
自販機で買うしかないか、と思ったが、ここは銀座だ。昔、東京に暮らしていたとはいえ、こんな場所に来る年齢ではなかったので、土地勘はゼロ―――ただ、なんとなくイメージで“銀座=高級な大人の街”と認識していたので、こんな所に自販機なんて野暮ったいものは無い気がする。
吸えないと思うと、余計吸いたくなる。イライラと髪を掻き毟った奏は、それでも、どこかにないかな、と視線を周囲に巡らせた。
すると、自販機ではなく、別の物に目が留まった。
店舗の横側の外壁にもたれている男だ。
男は、奏以上に背が高かった。
ツンツンと逆立てたような短い髪は、ヘアマニキュアでも使っているのか、少し緑がかった黒髪。ここからでは左側しか見えないが、銀色のピアスを2つしている。黒いTシャツといい、黒の革パンツといい、編み上げの革靴といい―――ブリティッシュ・ロックのバンドでもやってそうな姿だ。
いや、服装や容姿はどうでもいい。
問題なのは―――彼が、煙草をくわえている、ということ。
「あのー、すみません」
歩み寄り、声をかけてみた。
しかし、あらぬ方向を見ている彼が、奏に気づく素振りは全くない。仕方なく、彼の顔が向いてる側に回りこんだ。
「あのー」
顔を合わせた途端―――相手はギョッとしたような顔になり、奏は、彼が振り向かなかった理由を瞬時に理解した。
男の両耳には、インナータイプのヘッドフォンが着けられていたのだ。
声が聞こえていないらしい男に向かって、奏は身振り手振りで「ヘッドフォンを外してくれ」と訴えた。が、男は何故か、困ったような迷惑そうな顔で、奏を避けるようにそっぽを向こうとした。ご丁寧に、両手の人差し指で、バツマークまで作ってみせている。
なんでそう避けるんだよ、と怪訝に思った奏は、思い切って、彼の左耳のヘッドフォンをおもむろに奪い取った。
「お、おい―――…!」
抗議するように眉を上げる男に、奏は憮然とした表情で、一言言い放った。
「煙草、1本もらいたいんだけど」
「―――…」
男の抗議の表情が、瞬間、ぽかんとした顔になる。
たっぷり30秒、奏の顔を無言のままじっと見ていた男は、やがて我に返ると、奏の様子を窺うように眉をひそめた。
「―――何、だって?」
怪訝顔の男に、
「煙草が切れたから、1本もらいたいんだけど」
奏も怪訝顔で返した。
彼が何をそんなに唖然としているのか―――奏には、その理由がさっぱり分からなかったのだ。
***
「…いい加減、笑うのやめろよ」
丸々1分間、ゲラゲラ笑い転げた奏に、彼はムッとしたようにそう言い、軽く睨んだ。
「わ、悪い悪い。くくく…さ、さすがにそこまで露骨に間違う奴、今まで1人もいなかったもんだから…」
『随分、日本語上手いんだな。あんまり流暢なんで、驚いた』
言われた意味が分からず、暫しキョトンとしていた奏だったが、その意味を理解した途端、もう笑いが止まらなかった。
つまり―――目の前の男は、奏を純粋な白人だと―――英語とかフランス語を話す外国人だと思ったのだ。迷惑そうにバツ印を作っていたのは、「俺は英語は喋れない」という意味だったらしい。
確かに、日本語を理解できるかどうかを訝る人間は、これまでにも2、3人いた。見る人が見れば、アジアの血がちゃんと流れていることが分かる顔なのだが、あまりに白人寄りな奏の顔に、“ハーフ”という単語が頭に浮かばないのだろう。
でも、目の前の男ほど、頭から外国人と決めてかかる奴は、これが初めてだ。多分、日頃から、外国からの観光客などに道を訊かれたら、ああやって「英語ダメ」というサインで逃げてるのだろう。
ようやく笑いの収まりつつある奏の目の前に、煙草とライターが差し出された。
「Thanks」
わざとらしく、いかにも英語という発音で礼を述べた奏は、ありがたくそれを受け取った。
「あー…、でも、“外国人”てのは間違いじゃないな。オレ、国籍はイギリスだから」
煙草を1本だけ拝借し、口にくわえながら奏がそんなことを言うと、所在なげに煙草を返してもらうのを待ってた男が、その話に乗ってきた。
「のわりに、随分流暢だな」
「両親、日本人とイギリス人だけど、2人とも日本語喋るから。家では日本語だし、一時期、日本にも住んでた。バイリンガルだけど、日本語の方が得意なんだ」
「へえ…。その風貌だと、妙だな」
しげしげと奏の顔を見つめる男の方は、白人的要素がほとんどない顔立ちだった。顎のラインなどはシャープで、切れ長の目も鋭角的。服装もそうだが、やっぱりロック・バンドに1人はいそうなタイプだ。
「ここの関係者か?」
奏が煙草に火をつけ終わるのを待って、男が、目線だけで工事中の建物を指し示した。
「“Clump Clan”の? いや、そういう訳じゃないけど」
「工事関係…には見えないな」
「勿論。ここの従業員ではないけど、オープニングイベントなんかの関係者ではあるな」
奏が煙草とライターを重ねて差し出しながらそう答えると、男はそれを受け取り、再び壁にもたれかかった。行き掛かり上、奏もその隣にもたれかかった。
「てことは、あれだな。モデルだろ」
「ハハ…、当たり。と言っても、モデル兼スタイリスト助手だけど」
「はぁ? モデルが他の仕事兼務するのか?」
「将来、そっち方面目指してるから」
「へーえ…」
「あんたは? やっぱり、工事関係者には見えないけど」
革のパンツや編み上げ靴を目で指し示しながらそう言うと、煙草をくわえた彼は、当たり前だろとでも言う風に、僅かに苦笑した。
「俺は、プロデュース会社の人間」
「プロデュース…って、あの、オープニングイベントの?」
「そう。あんたが舞台の上で歩く時、俺がプロデュースした音楽で歩く訳だ」
「てことは、音楽監督?」
風貌にぴったりな担当だ。興味を覚えて、奏が少し目を輝かせると、男は今度こそはっきりと苦笑した。
「そんな立派な肩書きじゃねえよ。肩書きは音響担当責任者。当日は、ミキサーの前にへばりつく役目」
「ああ! だから、それ」
納得したように、奏は彼の耳元に視線をやった。左耳は外されているが、右耳にはまだヘッドフォンが着けられている。
男も、奏が何に納得したのか分かったらしく、ニッと笑って外れたヘッドフォンを摘んでみせた。
「現在、選曲中」
「ふーん…。いいよなぁ…。オレも自分で曲選びしてみたいって思う時あるんだよな。センスない奴が担当すると、ランウェイの上でコケそうになることもあるし」
「今ならリクエスト、受け付けるけど」
「え、マジ?」
「マジ」
「じゃ、パンクロックか、メタルで」
モロに好みのジャンルを奏が告げると、男はがっくりと肩を落とした。
「…あんたが良くても、他の連中がコケるぜ、それ」
「…だよな」
「こんなのは?」
男はそう言って、摘んでいたヘッドフォンの片側を、奏の耳元に近づけた。
シャカシャカという音が、次第に近づく。そして、それが音楽として形を成した時―――聞こえてきたのは、ノリのいい、アップテンポのロックだった。
「ボン・ジョヴィ?」
「お、正解」
「日本にいた頃流行ってたし、イギリス戻ってからも“クロス・ロード”とか聴いてた。ファンとまでいかないけど、かなり好きなバンドかな」
「泥臭さがいいよな」
「ギターがカウボーイっぽいよなぁ、確かに」
どうやら好みが近いらしいと気づき、2人はなんとなく、互いの顔を見てほくそえんだ。
「おおーい、一宮くーん」
意気投合しかけたところで、黒川の呼ぶ声が邪魔をした。
煙草を指で挟み、身を乗り出して店舗の入り口の方を振り返ると、黒川がガラス扉から上半身を乗り出し、親指で背後を指していた。
「ちょっと来てくれないかなー」
「すみません、煙草吸い終わったら、行きますから」
残り少ない煙草を奏が掲げて見せると、黒川は、指でOKマークを作り、店の中へと引っ込んだ。こりゃ何か仕事がらみのことがあったんだな、と思った奏は、元の姿勢に戻りつつ、煙草を口にくわえた。
彼の方は、ちょうど煙草を吸い終わったところらしい。傍にあった、工事関係者用の臨時灰皿に、煙草の吸殻を押し付けているところだった。
「一宮、って、芸名?」
「いや、本名。あんまり呼ばれ慣れてないから、ちょっと気恥ずかしいけど」
「呼ばれ慣れてない、って言っても、本名だろ?」
「普段、名前の方で呼ばれてるから。名前覚えてくれるんなら、下の名前で覚えてくれよ」
「何て名前?」
一応、また会った時、名前を呼ぶ気ではいてくれるらしい。
―――だから、こういう場面でまた尻尾振って喜んじまうから、累にからかわれるんだよな…。
どうにも、この性格は治らないらしい。内心苦笑しつつ、奏は煙を吐き出し、彼の方に目をやった。
「奏。演奏の、奏って字」
ある意味、彼の職業とも無関係ではない名前に、彼は微かな笑みを浮かべた。
「ロマンチックな名前だな」
「あんたは? 次会った時、何て呼べばいい?」
煙草を灰皿でもみ消す奏に、彼は、顔立ちによく似合う不器用な笑い方をして、こう答えた。
「俺は、“ヒロ”でいい。みんな、そう呼ぶから」
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