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明日から4月という、土曜日。
蕾夏は、2人の今後を左右するかもしれない日を迎えていた。
―――今頃、緊張しまくってんだろうな…。
壁に掛かっている時計を確認した瑞樹は、資料やカメラを鞄に収めながら、思わず苦笑いした。
月末恒例、“A-Life”の企画会議は、午後からと聞いている。結構度胸のある蕾夏だが、ある意味、今後の自分達の活動の行方にも大いに係わり合いのある内容だけに、平常心でいられないのは当然だ。まだ会議まで随分時間があるが、それでも緊張しているに違いない。
蕾夏の、飛行機に乗る前の真っ青な顔を思い出すと、少々気の毒になる。とはいえ―――こればかりは、いくら一緒に戦ってやりたくても無理な相談だ。
こちらも、これから3月最後の戦闘開始。
カメラバッグを掴んだ瑞樹は、ガタンと音を立てて席を立った。
「じゃあ、行ってきます」
窓際の席に座る川上にそう言うと、いつも丁寧な挨拶の川上は、珍しく上の空な返事を返した。
「はーい…行ってらっしゃい」
川上の手元を見ると、育児関係の本や病院関係の本が積みあがっている。ライターでもある川上なので、多分、担当記事の締め切りが迫っているのに原稿が上がらない状態なのだろう。締め切り直前の蕾夏も、あんな感じだから。
邪魔をしないよう、なるべく音を立てずに事務所を出る。そして、出たところで―――いきなり、思わぬ人物に出くわした。
「あ、お疲れ様」
「……」
何かの鍵をクルクル指で回しながら歩いてきたのは、桜庭だった。まだ午前中だが、その様子は撮影帰りといった感じだ。もしかしたら、泊りがけの撮影にでも出ていたのかもしれない。
「…ああ、お疲れ」
捕まると話がしつこくて長い桜庭だ。当たり障りなくスルーした方が無難だと考え、瑞樹は、挨拶をしながら桜庭の横を通り過ぎようとしたのだが。
「あれ? ねぇ、もしかして今から撮影?」
桜庭の方が、一瞬、早かった。迷惑そうに眉根を寄せた瑞樹は、早く立ち去りたいというムード全開で、とにかく簡潔に答えた。
「ああ」
「あ、もしかして、この前事務所で香盤表作ってた、アレ?」
「そう、それ」
「ふぅん。月末も月末、ほんとに最後の日だったのか。スタジオ?」
「いや、ロケ」
「へー。天気いいし、ロケ日和じゃない。どこよ。都内?」
「…まあな」
「あたしは北陸でロケだったんだ。夜の撮影だったから、終電気にせず自由に動けるように車で行ったんだけどさ、ホテルとるのも面倒だから、車の中で仮眠して、今戻ってきたとこ。道が空いてるから、帰りなんてドライブ気分で」
「―――おい」
思いっきり迷惑顔の瑞樹が、桜庭の言葉を遮る。
「今、世間話してるほど暇じゃねーんだけど」
眼光鋭く放たれた一言に、桜庭の機嫌よさげな笑みが引き攣る。
「…あ、ごめん」
「じゃ」
やっと解放された、と息をつき、歩き出しかけた瑞樹だったが―――そんな瑞樹を、桜庭が背後から呼び止めた。
「ねえ!」
「……」
―――暇じゃねーって言ってるだろ。
こめかみの辺りが痛くなってくる。でも、無視するにはあまりに距離が近すぎたので、仕方なく振り返った。
「なに」
「あの、さ。あたし、さっきも言ったけど、車で来てるんだ」
「それで?」
早く言え、という顔で瑞樹が先を促すと、少し迷ったような顔をした後、桜庭は思いがけぬことを言い出した。
「この前、ヒロのことで愚痴聞いてもらったし、ロケで機材多そうだし―――御礼兼ねて、ロケ現場まで送らせてよ」
***
「お手元の資料はカラーコピーで、発色がよく分からないと思いますが、別途ポケットアルバムを3冊用意したので、それを参考にして下さい」
SE時代、ユーザー講習会の講師をしたりした経験から、人前で話すのに慣れていない訳ではない。けれどさすがに、今回ばかりは、肩に力が入ってしまう。
ズラリ居並ぶ面々は、佐伯編集長を始め、各部門の編集者と、瀬谷。一番視線が鋭いのが、何故か瀬谷だったりする。お手並み拝見とばかりの微かな笑みを浮かべて、腕組みしてふんぞり返っている。そもそも瀬谷は、プレゼンの準備段階からずっと、蕾夏が頭を抱えるたびにああいう笑いを見せていたのだ。
―――どーせ瀬谷さん好みの企画じゃないですよーだ。
心の中で瀬谷に向けてだけあかんべーをしてみせる。実を言えば、瀬谷のニヤニヤ笑いに反発することで、“反藤井派”である一部の編集者らの視線を極力気にしないようにしているのだが―――…。
密かに深呼吸を2度繰り返した蕾夏は、編集長の方を確認した後、意を決して口を開いた。
「タイトルは“カメラとさんぽ。”、キーワードは“日常の中の新発見”―――特別な観光地ではなく、普通の人が暮らしている場所で見つけた“新発見”を、毎月、地名と共に紹介するコラムです」
まずは、資料1ページ目冒頭に、少し大きめのフォントで印刷された部分を説明した。
「カメラ片手に、いつも見慣れた町を散歩して、ちょっと素敵なもの、面白いものを見つけた―――そんな感じをイメージしてます。テーマに挙げる対象は、建物だったり、町の佇まいだったり、そこに住む人だったり、懐かしい物だったり…特に1つのジャンルに固定するつもりはありません。とにかく、その町の雰囲気を伝えるにふさわしい“モノ”であれば、それを写真と共に掲載して、日頃気づかずにいる自分の住む町の面白さや味わいを、読者の皆さんに伝えられたら、と思います」
「つまり、あれだろう? マニアックな紀行もののご当地版。漁港とか旅して、そこの漁師さんとのふれあいみたいなのを、ポラロイド写真と一緒に載せてるやつ」
やはりと言うか、何と言うか、まず最初に突っ込みを入れてきたのは、“反藤井派”の中心人物、社会部編集の杉山だった。
「ポラロイドの余白んとこに、サインペンで手書きでコメント入れてたりするよなぁ。タレントとかもよくやってるけど、ちょっとうちの読者層には子供っぽい演出と映るんじゃないか?」
「いえ、そういう演出は微塵も考えていませんし、記事の内容もそういうありきたりの物にする気はありません」
皮肉めいた杉山の言葉に、蕾夏は動揺することなく、きっぱりと言い放った。
「紙面の、最低でも4分の1―――できれば半分程度を、写真で占めるつもりです。勿論、ポラロイドではありません。お手元の資料の写真を見ていただければ、分かると思いますが」
それを聞いて、杉山のみならず、他の参加者の表情が変わった。
「資料2ページ目のカラーコピーが、掲載する写真の例です。サイズは未定ですが、1枚もしくは2枚程度にするつもりです。あ、写真の右上に振られた番号は、アルバムの写真の左側に振られてる番号と同じです。4ページ目からのコラム例は、その写真の中から、最後の2枚をテーマに私が書いたものです。写真のサイズによって、最大掲載文字数が変わりますが、それについては、5ページ目の表を見ていただければ…」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。そりゃ君はカメラマンのアシスタント経験があったらしいけど…要するに、撮ることに関しては素人だろう? そんな素人写真を、紙面の半分? さすがにそれは…」
サブカルチャー部の編集が慌てたようにそう言う。蕾夏はそれに、苦笑を返した。
「ええ、素人写真なら、無茶な話だと思います。でも、今回の企画では、プロのカメラマンさんの同行を既にお願いしてるんです」
「プロのカメラマン?」
「“A-Life”とも契約してる、フリーカメラマンの成田さんです」
「……」
「お手元の資料の写真も、成田さんの作品です。先日、神保町の古書街界隈をお願いして撮ってもらったんです」
それを聞いて、全員、写真をまじまじと見始めた。
その写真は、3月のはじめ頃、瑞樹と一緒に古本屋街をぐるりと歩いて回った時の写真だった。
特に古書街に思いいれがあった訳ではない。ただ、納得してもらうには、会議に参加する人間が日頃当たり前のように通り過ぎている場所がいいと思ったのだ。
2人で散々頭を悩ませて選び出したのは、裏通りにある古い喫茶店、本についた埃をはたきでパタパタとはらっている初老の本屋の店主、店先でたいやきを頬張る大学生、真剣な眼差しで本の修理をする古本屋さん、古びた漫画を手に嬉しそうにはしゃぎながら帰っていく小学生3人の後姿のシルエット―――丸々1日歩いて、2人が見つけた“神田の景色”だった。
ライカM4で撮られたそれらの写真は、どこか懐かしくて、暖かい色をしていた。そう―――あの“
「成田さんは、去年“
「…ははあ、なるほどね」
まだ他の参加者が写真を吟味している間に、あざ笑うような声を上げたのは、やっぱり杉山だった。
「成田さんて、君と同じ、時田先生のアシスタントやってた人だろう? いわば君にとっては古巣の仲間、って訳だ。なるほどねぇ…」
含みを持たせた言い回しに、言いたいことがあるならはっきり言えば? と蕾夏は眉をひそめた。勿論、彼が何を言いたいか位、重々承知しているが。
「何をおっしゃりたいのか分かりませんが、私が成田さんにお願いしたのは“元同僚”だからじゃありません」
「ほーお。それじゃあ、何だい? 僕には“元同僚”同士の仕事の斡旋にしか見えないけどねぇ」
ここから先は、あまり声高に言いたくはない部分だ。でも、曝け出さなくては、理解してもらえないだろう。蕾夏は、一度唇を引き結び、杉山を見据えた。
「成田さんとは、時田先生のもとで仕事をする以前から、個人的な友達でした。彼の写真撮影にも何度も立ち会ってきています。特に、2人とも古い町が好きで―――そういう場所で、私が“新発見”するものと、彼が“新発見”するものが非常に似通っていることに気づいたんです。早い話、私と成田さんは、風景や物に対する感性がとても近いんです」
「……」
蕾夏の勢いに押され、杉山は驚いた顔で言葉を失っている。その3つ隣の席に座る瀬谷が、意味ありげな表情でこちらを見ているのが―――そしてその理由もなんとなく見当がつくのが冷や汗ものだが、ここで勢いを止める訳にはいかない。
「成田さんの“新発見”を言葉にできる人間がいるなら、それは私だけだと思います。同じように、私の“新発見”を目に見える絵にできるのは、やっぱり成田さんだけだと思います。私は、今回のコラムを単なる私の感想文にする気はありません。写真と文章、両方から読者の方に“私達が発見したその町”を感じ取ってもらえる記事にしたいんです」
「し…しかし、外部のカメラマンに委託するってのは、ちょっと―――現在連載中の“映画の中のクラシック”だって、使ってる写真はCDやビデオのジャケットのスキャンだし、それ以外でも、コラムもので写真を使う場合は、大抵はライター本人かうちの小松が撮った写真を小さめに使う程度だろう? それを、かなりの大きさのものを、しかも委託となると…」
杉山とは別の編集者が、チラチラと編集長の顔を盗み見しながら、歯切れ悪くそう言った。
その視線を感じてか、編集長はにこりと微笑んだ。
「予算なら、外部ライター2名に支払っていた金額がほぼ丸ごと浮きますよ。ただ―――浮いた金額全てを成田さんに回す訳にはいかないので、とてもペイできる金額にはならないと思いますが」
「それで構いません」
「しかし、藤井さんはよくても、成田さんにとっては相当の赤字になりますよ?」
「それは、成田さんも承知の上です」
その代わり、蕾夏の休日と瑞樹の撮影が重なった時は、可能な限り撮影に同行しよう、と2人の間では決まっている。
蕾夏の仕事のために瑞樹がちょっとマイナスを被る分、蕾夏も休日をちょっとだけ瑞樹の仕事のために削る―――それでバランスが取れる。もっとも、瑞樹にしろ蕾夏にしろ、そのマイナス部分をさしてマイナスとは感じていないし、そうすることのその先にある未来を考えたなら、もっと重い代償を払うことだって厭わないと、本気で思っているのだ。
「“A-Life”のコンセプトは、ワンランク上の生活を提案し応援する、ですよね。勿論、旅や映画も心を豊かにするけど、ありふれた日常の中にある風景の中にも、心を豊かにしてくれる物がある―――特別なことをしなくたって、ちょっといつもよりゆっくり歩いたり、日頃前しか見ないで歩いているのを、ちょっとよそ見しながら歩いてみる…そんな簡単なことで、ほんの少しだけど、毎日が楽しくなる。そんな提案のつもりで、どうしてもやってみたいんです」
「……」
「今の私が出せるのは、これが全てです。勿論、是非やりたい企画を温めていらっしゃる方々もいらっしゃると思いますので、十分吟味していただいて構いません」
一気にそう言いきった蕾夏は、1歩後ろに下がり、深々と頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
***
「ふーん……」
緊張の時間が終わり、半ば脱力状態で席に戻ってきた蕾夏に、先に席についていた瀬谷が、意味深な視線を送ってきた。
「―――何ですか、“ふーん”、って」
「いや? 別に?」
「言いたいことあるなら、はっきり言ってもらった方がいいんですけど」
「言ってもいいなら、言うけどね」
「…いえ、やめといて下さい」
瀬谷は結構、鋭い人間なのだ。他の人が「ああ、仕事仲間を必死にプッシュしてるなぁ」と思うだけのことを、きっと彼は別の部分に結びつけたに違いない。具体的にはそう―――首筋に見つけられてしまった、不用意なキスマークとか。
やめといて下さい、という返事は、瀬谷の推測を肯定してしまったようなものだ。ちょっと後悔した顔を見せる蕾夏に、瀬谷は笑いを噛み殺した。
「一時期、女どもが騒いでた人だろう? また随分と苦労の多そうな相手を選んだな、藤井」
「…余計なお世話です。第一、今回の企画とそのことに、何も関係はないですから。そこを勘違いされると迷惑です」
「見縊ってるね。疑ってかかってる連中は大勢いそうだけど、少なくとも僕自身は、藤井の訴えてたことは理解したさ。この資料を見せられれば、認めざるを得ないだろ? 2人で1セットだって」
瀬谷はそう言って、手元の資料を指で弾いた。
2人で1セット―――1人でも理解してもらえたなら、発表した意味はあったのかもしれない。蕾夏はそう思い、微かに微笑んだ。
蕾夏のプレゼンに対する答えは、まだ保留中である。
難航することは予想していたので、蕾夏はその結果に落胆はしていない。このチャンスを生かしたいと思っているのは、なにも蕾夏1人だけではないのだ。懇意にしている外部ライターに書かせたいと思っている編集者だっているのだし、自分自身がこの機会にページを担当してみたいと思っている編集者もいる。蕾夏がどんなに名企画を提案しても、絶対にクレームが入るのは覚悟済みだ。
でも―――杉山のような連中の反応は、ある意味予想通りすぎて、ちょっと悲しい。
蕾夏1人でも胡散臭い目で見ている連中なので、それが、同じく時田郁夫の息がかかっている瑞樹も、となると、余計拒絶したい気分になるらしい。瀬谷のようにあっさり認めてくれる人がいる一方で、彼らは、蕾夏が何を言おうと「とにかく気に入らない」という姿勢を貫いている。
現在、ミーティングルームでは、企画会議に続いて編集者会議が行われている。当然、企画コラムのことも議題に上がっている筈だ。
「瀬谷さんは、あの企画、通ると思いますか?」
不安になり、蕾夏がそう訊ねると、瀬谷は軽く肩を竦めた。
「さあね。企画がどうこう、というより、藤井とか成田さんの存在そのものに否定的な連中だから、もうひと波乱あるかもしれないな」
「…ですよね」
今、やれる限りのことは、全てやったと思う。
では、もうひと波乱起きた時――― 一体、どう対応すればいいのだろう? やれる限りのことはやった今、これ以上に何か出来ることなどあるのだろうか?
そんな不安に、蕾夏は知らず、眉根を寄せていた。
***
何であんなことを提案したのか、正直なところ、自分でもよく分からない。
この前、プライベートなことを一方的にぶちまけてしまったことに対する、負い目のようなものがあったのかもしれないし、それ以外の理由があったのかもしれないし。実は理由なんて何もなくて、ただ単にそんな気分になっただけ、という答えも、気分屋な自分なだけにあり得る気がする。
でも、背中を押された一番の理由は、自分でも分かっている。
こいつの撮影現場を見てみたい。そんな、単純な好奇心だ。
「おや、アシスタントの方ですか?」
広告代理店の担当者が、所在なげにうろついている桜庭を見て訊ねると、
「ただの見学者です」
瑞樹は、そっけない口調でそう答えた。
ロケ現場は、オフィス街にある洒落たカフェだった。
車内でも瑞樹はひたすら無口で、開け放った窓に頬杖をついてぼーっと外ばかり眺めているので、どういう仕事なのか探りを入れることすらできなかった。が、現場に到着し、スタッフ達とのやりとりを盗み聞きしていたら、今日の撮影の概要がほぼ掴めた。
商材は、とあるメーカーのノートパソコン。今日撮影するのは、そのパンフレットに使用するイメージカットらしい。土曜日を撮影日にしたのも、土曜休みの会社が多い界隈にあるこのカフェが、隔週土曜日に休んでいるためだ。
モデルは男女2名。どちらも日本人ではなく、白人だ。いずれも20代半ば頃と思われる容姿で、いかにもビジネスマン、ワーキングウーマンといった服装で身を固めている。
なんだって日本語OSの搭載されたノートパソコンを外国人が使ってるんだ、と嫌味も言いたくなるが、イメージカットとなれば、見映えやムードでモデルを選ぶこともあるのだろう。
もう帰れ、と瑞樹は言ったが、桜庭は半ば強引にロケ現場に居座った。冗談ではない。現場を見るのが目的だというのに、ただの荷物運びで終わらされては意味がないではないか。
機材に触るな、他のスタッフの邪魔になることはするな、視界に入る場所にいるな、撮影中は一切声も音も立てるな―――以上が、瑞樹から言い渡されたこと。あたしは幼稚園生か、と突っ込みを入れたくなるほどの邪魔者扱いに思わずムッとする桜庭だったが、昔、撮影現場に友達が遊びに来た時、自分も口調は違えどもほぼ同じことを言ったのを思い出し、やむなく口を噤んだ。
―――しっかし…よく動くなー…。
撮影前の準備段階で、精力的にあちこち歩き回る瑞樹を眺め、そう思う。
モデルの立ち位置に立って、隣のビルからの反射光が眩しくないか確認したり、出張アシスタントの手が回らないと見ると、自分で他の機材の調整をしたり、パーマセルを自分で床に貼ったり―――途中から見ていたら、誰が今日のカメラマンなんだか分からないほど、あちこち動き回っている。
『プライド低くて結構だよ。俺は、撮影現場そのものが好きなんだ。カメラ持たせてもらえなくてもな』
以前、溝口に頼まれて、他のカメラマンのアシスタントを買って出た瑞樹が、嘲笑する桜庭に放った言葉を思い出す。
本当に、現場が好きなんだな―――時折、笑みさえ見せながらアシスタントと一緒に準備を進める瑞樹を見て、そう実感した。
指示にしても、かなり手短で的確だ。きっと、頭の中に完成イメージがくっきりと浮かび上がっていて、それとの誤差を瞬時に判断する能力があるのだろう。
―――なんか、悔しい。
ずっと“気に食わない奴”であった男が、思いのほか撮影を楽しんでいる上に想像より優秀ときては、悔しくなろうというものだ。以前よりは親しみを覚えるようにはなったものの―――やっぱり瑞樹は、桜庭にとって“一番面白くない相手”だ。
先に撮影に入ったのは、女性モデルの方だった。
窓際の席に脚を組んで腰掛け、頬杖をついて商品であるパソコンを使っている、という、よく見るタイプの構図らしい。緩やかなウェーブを描くブラウンの髪の上に、布製のロールアップスクリーンで弱められた午後の光が落ちている。一見、キツそうなイメージのモデルは、光のせいか幾分柔らかな印象に映っていた。
「じゃ、本番いきます」
瑞樹が、直前まで覗いていたファインダーから目を外してそう言うと、場の空気がピンと張り詰めた。つい日頃の撮影を思い出し、桜庭まで肩に力が入った。
さて、どんな感じの撮影になるのか―――興味津々で見守る桜庭だったが、瑞樹は、すぐには撮影に入らなかった。
緊張をほぐすためなのか、視線を床に落とし、目を閉じて息を小さく吐き出す。
顔を上げ、ガラス窓の向こうの空にチラリと目をやった後、瑞樹がじっと見つめたのは…何故か、何もない場所だった。
瑞樹から見ると、右手側、斜め後ろ5メートル辺り―――今は、機材の都合上、テーブルや椅子も片付けられている。その、何もない空間を、瑞樹は、心を落ち着かせるかのように、じっと見つめていた。
―――なんで、あの場所を?
疑問に思った桜庭だったが、瑞樹は、ほどなく視線を前に戻してしまった。
「じゃあ、さっき言ったとおりにお願いします」
瑞樹が日本語でそう言うと、モデルはニコリと笑って「ハイ」と返事した。どうやら、日本語の分かるモデルだったらしい。
モデルをリラックスさせるためか、ほんの微かに笑みを返した瑞樹だったが、直後、表情を一気に引き締めると、三脚に固定したカメラを手にし、ファインダーを覗きこんだ。と同時に、モデルも視線をパソコン画面に移した。
モデルの姿勢や表情が自然になった頃合を見計らい、シャッターが切られる。
服装からして、きっと仕事で使うデータなどを読んでいるような設定をイメージしていたのだが、モデルの表情は穏やかだった。でも、「いかにも仕事中」な表情をしていたら、このモデルの場合、かなり近寄り難い、冷たい印象になっただろう。上手いモデルだなぁ、と、モデル慣れしない桜庭は少し感心した。
撮影がスタートして5分ほどした時。
「今、どの辺?」
ファインダーを覗きこんだまま、瑞樹が謎の言葉を口にした。それに答えたのは、何故かモデルだった。
「1月12日を読み始めたところです」
「了解」
瑞樹は短くそう答えると、ファインダーから目を外し、カメラを三脚から外した。どうやら、この先は手持ちで撮る気らしい。
―――っていうか、1月12日って、何???
どうやら、彼女が見ているパソコン画面は、電源が入っていない状態でも、仕事の資料が映し出されている訳でもなく、何か別のものが表示されているらしい。そう言えばさっきから、タッチパッドの上に置かれた彼女の手は、実際に何か作業をしているかのように時折右に左に動いている。
手持ちに切り替えた瑞樹は、さっきの立ち位置とは微妙に違った場所に移動すると、邪魔になった前髪を乱暴な仕草で掻き上げた。
ファインダーに目を戻す前に、一度、被写体を見据える。桜庭の位置からでも一瞬確認することができたその目を見て―――桜庭は、瞬間、ドキリとして体を強張らせた。
射竦められる―――身動きさえ、できなくなる。
あの目で見据えられたら、心の奥まで一瞬で見透かされような…そんな、鋭くて、有無を言わせない目。獲物を捕らえ、絶対に逃がすまいとする、まるでハンターみたいな目だった。
ごくり、と唾を飲み込んだ桜庭は、無意識のうちに、自分のシャツの胸元を握り締めた。再びカメラを構え、思いのままの角度からシャッターを切り始める瑞樹を見つめる間、瞬きすら忘れてしまった。
何を読んでいたのか、モデルが、仕事も忘れてしまったかのような可笑しそうな笑顔を見せる。その瞬間を捉えて、今までで一番多くシャッターが切られた。
「ご、ごめんなさい、とても普通の顔していられないわ」
笑いを抑えようと肩を震わすモデルに、
「それでオッケー」
瑞樹は、満足そうにそう言って、カメラを構えたまま口の端を吊り上げた。
―――悔しい。
なんだろう、この悔しさ。
同じカメラマンとして負けたとか、そういう悔しさじゃない。でも…呼吸もできない悔しさを感じる。胸元を掴む手が、思わず震える。
多分、一番悔しいのは、やたら速まってしまった、この鼓動。
あの目を見た瞬間から、頬が熱い。どきどきして、心臓が苦しい。そんな感覚、ここ暫くすっかり忘れてた。まるで遠い昔、片想いしてた相手の笑顔を遠くから眺めた時に感じたような―――そんな息苦しさを覚えてしまったことが、どうしようもなく悔しい。
―――バカじゃないの? よりによって、あいつ見てこんな風になるなんて。
あり得ない自分の反応に、冷笑を浴びせかける。
頭が、グラグラする。そう言えば、昨日は寒い車内で仮眠をとっただけだった。平気なつもりでも、風邪でもひいてしまったのかもしれない。
桜庭は、撮影の様子から視線を外し、なんとなく、さっき瑞樹が見つめていた辺りに目をやった。瑞樹の斜め右後ろ5メートル…何もない、その空間に。
…何故だろう?
桜庭の目には、そこに、誰かの姿が一瞬だけ見えた。
そう、瑞樹を“親友”と呼んだあの人が、そこに佇み、微笑を浮かべて瑞樹を見守っているのが、見えた気がしたのだ。
***
最終カットを撮り終えた瑞樹は、スタッフ一同に挨拶をした後、胸ポケットに入れた携帯電話を開いた。
―――あいつ、上手くやれたかな。
会議はもう終わっている時間の筈だ。しかし、メールも、着信履歴もなし―――もしかしたら、会議が難航しているのかもしれない。
どっちにしても、今夜会えば、詳しい話が聞ける筈だ。小さくため息をついた瑞樹は、無造作に携帯をポケットの中に放り込んだ。
「成田」
急に背後から声をかけられ、瑞樹は、それまで完全に忘れていた存在を思い出した。
振り向くと、少し疲れた様子の桜庭が立っていた。
「お疲れ。順調に進んだみたいじゃん」
「ああ…まあな」
一応笑顔を浮かべてそう言う桜庭は、異様に気だるそうな表情をしていた。常にエネルギーが有り余っているタイプの桜庭の珍しい顔に違和感を覚えたが、指摘するほどのことでもないと思い、あえてその点には触れるのをやめた。
「ねえ、1つ訊きたいんだけどさ―――さっきの女のモデル、何見てたの? パソコンで」
「え?」
「途中、大笑いしてたじゃない」
「ああ―――あれは、結構有名な日記サイト」
「日記サイト?」
「1月13日に、爆笑モノのネタがあったから、ダウンロードして、俺が入れといた。あのモデル、放っとくと、どんどん表情が硬くなるタイプらしいから」
「あー、ハハハハ、なるほどね。上手い手考えるもんだなぁ、やるじゃん」
ハハハハ、という笑いも、どう考えてもうつろで、力がない。それに、足元がなんだかグラついているし、顔も微妙に赤い気がする。
「…おい。大丈夫か?」
さすがに異変を感じ、瑞樹が眉根を寄せて訊ねると。
「なにが? あたしなら全然へーき―――…」
言いかけて―――膝の力がいきなり抜け、桜庭はその場にガクンと座りこんだ。
「お、おい…!」
「―――ハハ…、へーきじゃ、ないね、これじゃ…」
視界のはるか下から返ってきた笑い声も、やっぱり力の抜けた、答えるのがやっと、という笑いだった。
―――ちょっと待て。
あんた、車で来てんだろ。一体どうする気だよ?
「ご…ごめん、成田。悪いけど、病院まで連れてってー…」
「―――…」
―――とことん、迷惑な女…。
ただでさえ、撮影直後で疲れてるというのに―――瑞樹は桜庭を見下ろし、大きなため息をついた。
***
着信音に液晶画面を見ると、電話の主は、瑞樹だった。
ちょうど、撮影が終わった頃合だ。蕾夏は、立ち上がりながら携帯を手に取り、ドアの方へと向かいつつ通話ボタンを押した。
「はい」
『蕾夏? 俺』
「うん。お疲れ様」
チラリと背後を伺うと、社会部の編集者と何やら話し込んでいる瀬谷が見えた。電話などしているところを見られたら、またこれ幸いとからかわれるに決まっている。タイミングよかったな、と、蕾夏はホッと息をついた。
「撮影、無事終わった?」
『ああ。撮影は、結構上手くいった』
「“は”?」
『ちょっと面倒なことになってな』
忌々しそうな口調の瑞樹に、首を傾げる。ガラス張りのドアを開けつつ、蕾夏は眉をひそめた。
「どうかしたの?」
『実は今日、桜庭が撮影見学に無理やり押しかけやがって』
「…って、あの桜庭さん?」
プロがプロの現場を見学に行くなんて、ちょっと驚きだ。しかも桜庭は、瑞樹に対して批判的で、あまり良く思っている素振りはなさそうだという話なのに。
『そう。あの桜庭。車で来てるから送る、って、半ば強引にロケ先まで来たんだ』
「へえ…」
『しかも、現場で倒れて、歩くのも無理な状態ときてる』
「えっ! だ、大丈夫なの? 風邪か何か?」
『わかんねー。とりあえず今、病院に連れてきてる』
「今、病院なの? 大丈夫なの、携帯なんか使って」
『診察中だから、その間に病院の外出てかけてんだよ』
「あ、そっか…」
時計を見ると、既に夕方6時―――ギリギリ、受付時間には間に合ったということらしい。他人事ながら、蕾夏はほっと胸を撫で下ろした。
『車も放置できねーから、事務所戻って、桜庭送って―――待ち合わせには、間違いなく遅刻だな』
「ん…、仕方ないよ。適当に時間潰すから、気にしないで」
『俺んとこやめて、お前の部屋にするか? それなら、好きな時間に帰っておけるだろ』
明日は2人とも休みなので、今日は待ち合わせして外食をした後、瑞樹の部屋で会議の結果などについてゆっくり話す予定にしていたのだ。でも確かに、瑞樹が何時になるか分からないのなら、中に入れない瑞樹の部屋より、自分の部屋の方がいいのかもしれない。
「うん、じゃあ、私のとこに予定変更ね。夕飯、どうする? 家で食べたい?」
『いや、駅前のあの店でいい。部屋行ってから、一緒に食べに出ればいいだろ』
最近、蕾夏が乗り降りする駅の近所に出来た洒落たレストランバーが、結構おいしくてリーズナブルだったのだ。前回行った時、あのフードメニューも試してみたかった、と互いに言っていたのを思い出し、蕾夏はくすっと笑った。
「そうだね。じゃ、今度こそ“海老と水菜のアジアンサラダ”頼もっと」
『ハハ…。じゃ、なるべく急いで行く。会議の話、ゆっくり聞かせろよ』
「うん。じゃね」
電話を切った蕾夏は、なんとなく、通話時間だけが表示された液晶画面をぼんやり眺めた。
そして、バックライトが消えると同時に、小さなため息をひとつつき、廊下の壁にコツン、と頭をつけてもたれた。
―――駄目だなぁ…。桜庭さん、病気なのに。
瑞樹はよく、「お前、あっさりしすぎ。もっと気を揉むとか嫉妬するとかしろ」などと蕾夏に言うが、蕾夏自身は、結構自分のことを気を揉んだり嫉妬しやすい性格だと思っている。
瑞樹が仕事で関わった女性モデルを褒めたりすると、ちょっと面白くない気分になることもある。そういったモデル達から言い寄られるシーンも多いだろうと考えると、相手が明らかに自分より容姿に優れているだけに、気を揉まないと言ったら嘘になる。勿論、瑞樹がそういう女性はまるで好みじゃないのは知っていても、だ。
そしてもっと気を揉むのは―――複雑な生い立ちや、家族に問題を抱えている相手。
あの舞をついつい意識してしまったのだって、彼女の容姿のせいではなく、彼女が家庭的に恵まれなかったせいだ。蕾夏が気にするたび、瑞樹が「そういう問題じゃない」と言ってくれるので、最近はあまり気にすることもなくなったが―――それでも、やっぱり意識せずにはいられない。
どういう裏事情があるのか知らないが、瑞樹が「他人事じゃない話」と表現するような事情を、桜庭は抱えているらしい。そのことが、ちょっとばかり蕾夏の気持ちを乱れさせる。
相手は今、病気でぐったりしてるというのに―――心が狭いなぁ、と、蕾夏は空いている手で、自分の頭を軽く小突いた。
ともかく、当初約束した待ち合わせ時間まで時間を潰す必要はなくなった訳だ。
「…帰ろっかな」
ポツリと蕾夏が呟いた時。
いきなり、手の中の携帯電話は、軽快なメロディを奏でた。
まさに、体を起こそうとしたその瞬間だったので、ビックリした蕾夏は、思わず携帯を落としてしまいそうになった。手からスルリと抜け落ちそうになった携帯を捕まえ、ドギマギしながら液晶画面を確認する。
そして、そこに表示された名前を見て―――蕾夏の目が、更に大きく見開かれた。
そこには“Sou”という字と―――奏の携帯番号が表示されていたのだ。
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