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― その先にあるもの -3- ―

 

 『奏君とお花見に行ってきます。瑞樹が来るまでには家に帰ってる筈だから、心配しないでね』

 誰もいない事務所で、携帯に残されたメールを見た瑞樹は、その内容に思わず眉を寄せてしまった。
 確かに、約束の時間に間に合いそうになくなったのは、瑞樹側の事情だ。不可抗力だし、ほったらかして帰りたい気持ちで一杯だが、それでも自分から言い出したことだから、言い訳はしない。
 ―――でも、だからって何でこういう展開になるんだ?
 それは、奏を信じるとか信じないとかいう以前の、本能的な不愉快さ。自分の恋人と恋人に断ちがたい恋愛感情を抱いている奴が2人きりで会うのを、何とも思わない人間などいない筈だ。
 それにしても、何故こういうことになったのだろう? 時間を潰す必要はないのだし、たとえあったとしても、蕾夏が奏に電話するとも思えない。かといって、奏が暇を持て余して蕾夏に電話するなど、もっとあり得ない話だ。
 となると、考えられるのは、ただ1つ。
 瑞樹は、病院の中と運転中は、携帯の電源を切っていた。奏は多分、その間に瑞樹に電話をかけてきたのだ。そして、どうしても繋がらないから、意を決して蕾夏に電話した―――そういうことだろう。
 「…ったく…」
 つくづく、迷惑な奴。
 下に停めてある車の中にいる奴に向かって毒づいた瑞樹は、素早く返信メールを打ち、撮影のために持ち出した機材をさっさと片付けると、川上が残しているかもしれない伝言のたぐいの確認もパスして、足早に事務所を後にした。
 事務所の鍵を警備員室に返し、ビルの前に停車中の車に乗り込む。車の持ち主は、後部座席でウトウトしているようだ。病院でもらった薬が、やっと効いてきたらしい。
 このまま道端に放置してしまいたい気分に駆られるが、かろうじて理性で押し止める。
 「おい、桜庭」
 「…んー…なに」
 「なに、じゃねぇよ。住んでるとこ教えろ」
 「…ええー? 何ー?」
 薬のせいで朦朧としているらしく、返事がさっぱり要領を得ない。舌打ちした瑞樹は、桜庭の横に転がっている鞄を掴み、無断で中身を漁った。
 探り当てた免許証で住所を確認すると、一応、瑞樹がいつも使う路線とも接続している私鉄の沿線だった。ホッと息をつき、瑞樹は忌々しい思いでキーを差し込んだ。
 「ごーめんー…。今度おごる」
 エンジンをスタートさせる音に混じって、後ろから桜庭がそんなことを言った。
 必要なことには答えない癖に、どうでもいいことだけは喋る天邪鬼な口らしい。病人じゃなかったら、本気で殴りそうになるところだ。もっとも、熱で朦朧としているから、そういう妙な口になるのだろうが。
 「…いらねーよ。迷惑だ」
 「何、それぇ…。忙しない奴ぅ。可愛い彼女のための時間が30分1時間削られるのが、そんなに惜しい訳ぇ? どーせ結婚する位の仲なんでしょお? 一生一緒にいるんじゃん。そんなに生き急いで何になんの? ケチー、成田のケチー」
 「うるさい。気が散る」
 眉間に皺を寄せ、いささか乱暴にアクセルを踏む。ガクン、と病人に優しくないスタートを切った車は、制限速度ギリギリで走り出した。


***


 『今、事務所。速攻で桜庭送ってくる。俺より遅く家に着いたらどうなるか覚悟してろ』

 ―――どういう覚悟をしろって言うんだろ…?
 30分遅れで返ってきたメールを見て、蕾夏は軽く眉を上げた。
 でも、まあ―――“やめとけ、何考えてんだ”というメールが返ってこなかっただけでも、マシかもしれない。もっとも、本心ではそう書きたいのを、そう書いたら奏を信じていないみたいで嫌だ、と思って抑えたのかもしれないが。

 「蕾夏」
 携帯を閉じかけた途端、頭上から声がした。
 ビックリして顔を上げると、そこには、どことなく不安げな顔をした奏が立っていた。
 「あ…ああ、奏君!」
 「ごめん、オレから誘っておいて、5分も遅刻して」
 「ううん、いいよ。私も時間ギリギリに着いたんだし」
 少し動揺しながらも、笑顔を返した蕾夏は、携帯をバッグの中に押し込んだ。恐らく、携帯の液晶画面に見入っている姿も遠くから確認していたのだろう。奏は、しまわれる携帯を目で追いながら、僅かに眉をひそめた。
 「…もしかして、成田から?」
 「うん。今から仕事仲間の人を、家まで送るんだって」
 この後瑞樹と会う約束があることは、奏には電話で話した時に伝えてある。そして、体調不良で倒れた仲間を送らなくてはならないから、当初の予定より2時間ばかり遅くなりそうだ、ということも。
 奏の目を見れば、瑞樹のメールの内容について不安を覚えていることは明らかだ。蕾夏は、安心させるように笑みを見せた。
 「メールは、それだけ。だから、そんな心配そうな顔しないで」
 「―――別に、心配なんか…」
 反論しかけて、自分の表情の変化を自覚してしまったのだろう。少し顔を赤らめた奏は、気まずそうに目をそむけ、言葉を濁してしまった。そんな様子に、蕾夏はつい、くすっと笑ってしまった。

 ―――そう言えば…私、最初の頃奏君のこと、佐野君にちょっと似てる、って思ったんだったよな…。
 ロンドンで初めて会った時。そして、撮影現場で言い争いになって、平手打ちされた時。奏を、怖いと思った。どこか、何かが、佐野と似ている気がして。
 そしてある意味、その予感は当たりでもあったのだが―――ある意味、まるで外れてもいた。素顔の奏は、寂しがりやで甘えん坊で、嘘のつけない正直な人間だ。
 佐野本人も、案外、そうだったのではないか―――蕾夏は最近、そんなことを思う。
 蕾夏の知る佐野は、決して本心を見せない、頑なな人物だった。ただ、時折見せる憤りの目のあまりの激しさに、漠然とした不安を抱いてしまう…そういう人だった。でも、あれが佐野の素顔だと、誰が言えるだろう? 奏だって最初見せていた顔と今の顔は随分違うし、もっと言うならば―――瑞樹だって、他の人にとっては、佐野同様「何を考えているか分からない、近寄り難い人」かもしれないのだから。

 “もしも”、という言葉は、嫌いだ。
 けれど、“もしも”―――もしも、あの頃の自分が、もう少し大人ならば。
 瑞樹の抱える傷を共に抱える決意が出来た時や、奏の謝罪を受け入れて冷静に“その先”を見据えることが出来た時のように―――いや、その半分でもいいから、佐野の素顔を垣間見ることができる位に、大人だったならば…。
 そう、考えかけて、蕾夏は苦笑とともに、小さく首を振った。

 あのことがなければ、きっと、瑞樹と出会うことも、互いの痛みを分かち合うこともなかった。
 そう思えば―――“もしも”なんて、いらない。

 「蕾夏…? どうかした?」
 怪訝そうな奏の声に、蕾夏はハッとして我に返った。
 しまった。いつの間にか、考え事に嵌り込んでしまっていたらしい。慌てて笑顔になった蕾夏は、咄嗟に今思いを巡らせていたことを、頭の中から追い出した。
 「ご、ごめん。あはは、ちょっと仕事のことで頭が一杯になってて」
 「ふーん…忙しいんだ」
 「結構ね。…あ、そうだ。ご飯は付き合えないけど、奏君、おなか空かない? 大丈夫?」
 「大丈夫。たまたま仕事先で、サンドイッチ食ったから」
 「そっか。じゃ、飲み物だけ買ってこよっか。公園までちょっと歩くから、喉渇くよ、きっと」
 歩き出しながら蕾夏がそう言うと、奏は、どこか戸惑ったような笑みを返し、一歩踏み出した。


***


 現実に蕾夏の隣を歩いていながら、奏は、あり得ない想像の世界にでも迷い込んだような気分を覚えていた。

 ちょっと仕事でへこむ事があった上に、今夜の予定までが突然キャンセルになったのが、そもそものきっかけ。
 今回の仕事が終わった後について、ちょっと瑞樹の意見も聞いてみたいし、現場で見るメイクやスタイリストについての意見も聞いてみたい。元々、飲んで騒ぐ気でいたから、このまま仮住まいに帰る気にもなれなかった奏は、迷いつつも瑞樹に電話した。そして3回ほどかけて―――さっぱり繋がらない電話に、とうとう諦めた。
 その後、蕾夏に電話をかけてしまったのは、単なる気の迷い―――というか、声でも聞けば、今日1日分のイライラも少しは紛れるかな、という、その程度の出来心でかけただけだった。
 なのに。
 『ああ、瑞樹、今仕事仲間の人に付き添って病院行ってるんだって。今夜会う予定してたから、約束より遅くなる、って、ちょうど今電話があったところなの。車も運転するらしいから、暫く繋がらないと思うよ? 運転中は電源切るようにしてるみたいだから』
 そんな話を聞かされて、じゃああいつとの待ち合わせまで、蕾夏も手持ち無沙汰なのかな、なんて考えた瞬間、反射的に言ってしまった。
 『あの…じゃあ、もし蕾夏が暇なら、夜桜見物に行かない? オレ、日本行ったら花見してみたいな、と思ってたけど、まだ一度もしてないんだよな』


 「仕事、どんな感じ?」
 途中の自販機で飲み物を買い込み、ほど良いテンポで歩きながら、蕾夏が訊ねる。
 「モデルとクロカワ・ケンジの助手の二足のわらじじゃ、結構大変でしょ」
 「あー、うん…想像ほど、甘くはなかった。今までは荷物運び程度で済んでた部分あるけど、アイロンかけさせられたり、借り物の靴の裏にテープ貼ったり―――腐るほど見てきたことでも、実際、自分がやるとなると、結構難しくて」
 「へーえ…、奏君がアイロンかけ、かぁ…」
 「知ってる? アイロングローブっていう、鍋つかみみたいな奴を手にはめて、こうやってアイロンかけるんだって」
 そう言って、コーヒー缶を掴んだ手をアイロングローブをはめた手に見立て、空いている手でアイロンをかける真似をしてみせると、蕾夏が可笑しそうにくすくす笑った。
 「似合わないね」
 「…自分でも、そう思うけどさ。結構持ち物多いんだよなー。小型のアイロンとか、スチーマーとか、裁縫セットとか」
 「裁縫セット?」
 「着た後、見映えがいいように、ちょっとつまんだり丈を詰めて仮縫いしたり。そういうのに使うらしい」
 「あはははは、奏君が針仕事してる姿も、やっぱり似合わないよねぇ」
 「じゃあ、紅筆握ったり、化粧パフで人の顔はたいてる姿は?」
 「うーん…微妙かなー…」
 「…あっそ」
 「それに、奏君自身がかなりの美人さんだから、モデルさんが拗ねちゃって、メイクの注文とかでゴネそう」
 「……」
 何の気なしに蕾夏が言った一言に、奏は一瞬、足を止めそうになった。
 ―――相変わらず、こいつって…。
 偶然なのかもしれないが、今日、奏がへこんでしまった一因であることと恐ろしいほどにリンクする言葉だ。今日、アシスタントとして黒川に同行した仕事先で、蕾夏のセリフと似通った事件が起きたのだ。

 今日の仕事は、モデル数名の衣装を用意し、全員にメイクを施す、という仕事だった。多忙だった黒川は、口紅とアイブロウを奏に任せた。
 その際、一番の大物モデルが「あなた、完全な裏方さんじゃないでしょ。身のこなしが綺麗だし、外見に気を遣ってる商売してるな、って感じだもの」などと言って、奏がモデルであることを言い当てたのだ。
 何がそんなにお気に召したのか、大物モデルは、奏の目や髪を褒め、フリーならうちの事務所紹介するわよ、とお誘いまでかけてきた。勿論、やんわり断った奏だったが―――このやり取りが気に食わなかった人間が、他のモデルの中にいた。その大物モデルを、まるで神様みたいに崇め奉っている、同じ事務所所属の若手モデルだった。
 指定された色を施しても「なによ、この色っ! あたしに全然似合わないじゃないっ。やりなおして!」とヒステリックに叫び、結局、同じ色目で黒川がメイクを仕上げて、ようやく彼女の癇癪は収まった。
 彼女が、所属モデルの中でも少々地味めであることと、背がモデルとしては若干低めであることをコンプレックスにしていることは、仕事が終わった後、他のモデルから聞かされた。
 白人モデルの中に混じると特別派手でも華やかでもない顔だから、これまでそうした経験がなかっただけで、確かに同じアジア系のモデルは「一宮は特別だから」と冷たい目で見ることもたびたびあった。が、それは男性モデルの話だ。
 異性である女性に外見を嫉妬される、というのも、男としては微妙な気分なのだが―――実際そういうことがあるのだと、今日初めて知った。

 あいも変わらず、鋭いところを突いてくる奴だな―――と、空恐ろしい気持ちで蕾夏の横顔を眺める奏だが、当の蕾夏はまるでそのことには気づいていないようだった。
 「ショーに出るモデルさん達と、その後会ったりした?」
 「いや、まだ。あー、でも、ショーの裏方の人とは偶然会ったな」
 「裏方?」
 「音楽担当の人。オレと音楽趣味が似通ってるみたいで、気さくで気が合ったんだよな。バックミュージックって、ステージ上でのテンションに結構影響あるから、ああいう人でラッキーだったかも」
 「あ、もしかして、今日突然約束キャンセルした人って、その人?」
 「まさか。ちょっとしか話してないし、そんなに早く親しくなるわけないだろ。今日キャンセルしてきたのは、中学の時の同級生」
 苦笑混じりの奏の言葉に、蕾夏は驚いたように目を丸くして、奏を見上げてきた。
 「え…っ、奏君、中学の頃の同級生と、今も交流あるの?」
 「いや、その…、交流っつっても、クリスマスカード送ったり、近況報告の手紙を交換したりする程度だから。それに、人数も2人だけだし」
 「すごーい…。イギリスに戻ってから、日本に来るのってこれが初めてなんでしょう? そんなに長く離れてても、会う約束できるなんて、凄い」
 「…かなぁ?」
 思わず、首を傾げる。
 奏から言わせれば、クリスマスカードにしろ今回の飲み会のセッティングにしろ、そんなに深い意味合いのあるものではない、と思っている。一種の社交辞令―――日本人が得意な、お中元やお歳暮、盆暮れ正月の挨拶、そういったものの延長線上にあるのが、そうした細く長い付き合いなのではないだろうか。
 「ね、その人達とは、もう会った? それとも今日が再会の日だったの?」
 「1人とは、もう会った。すんげー変わってて、びっくりした。ガキの頃は“家業なんて継がない”って断言してたくせに、ちゃっかり継ぐことになってたりして―――あいつが“先生”って呼ばれる職業に就くなんて、オレが縫い物してるよりもっと妙だよ」
 「学校の先生?」
 「いや、産婦人科医。…同じ医者でも、この分野だけはぜってーヤダ、って拒否してたのに…。“お前も何かあったらうち使えよ”って言われても、あいつが本格的に継いだら、危なくて任せられないよなぁ」
 「あはははは、第一、産婦人科医じゃ、奏君がお世話になる可能性はないもんねぇ」
 「……」
 “何かあったら”の中身が、奏自身ではなく、奏の彼女とか女友達とか結婚相手とか、そういう類の女性であることに、蕾夏は考えが及んでいないようだ。訂正しようと思ったが、さすがに言い難い内容なので、やめておいた。

 「ふーん…そっかぁ…」
 蕾夏相手では少々際どすぎる路線だった話題に焦る奏だが、それにも気づかない蕾夏は、小声でなにやら呟き、手にしたウーロン茶をコクリと飲みこんだ。そして、ほっ、と小さく息をつくと、どこか寂しげな笑みを浮かべて、奏を見上げた。
 「すごいね、奏君は」
 「え?」
 「羨ましい。どこにでも柔軟に順応できる力があって」
 「……?」

 ―――どういう意味だ?
 蕾夏の言葉と表情の意味が分からず、思わず眉をひそめたが。
 「あ、ほら! あの公園が、さっき言ったとこ」
 奏が口を開くより先に、蕾夏が、交差点の向かい側を指差して、笑顔でそう言ったので、奏は蕾夏に、その意味を問うことができなかった。

***

 蕾夏お薦めの夜桜スポットは、いわゆる花見スポットとして有名な公園ではなかった。
 あまり知る人が少ないのか、花見シーズン恒例のブルーシート持参の花見客は、ほとんどいない。いても少人数で、のんびりと花見を楽しんでいる感じだ。
 「もしかして、穴場?」
 ちょっと夜桜に見惚れながら訊ねると、蕾夏は、どことなく自慢げな調子で答えた。
 「割合、まだ知られてない所なの。おととしの今頃も、瑞樹と一緒に桜を撮りに来たけど、昼間もやっぱりお客さんが少なかったみたい。地元の人が大事にしてる公園、て感じでしょ」
 「うん…確かに」
 本数はあまり多くないから、圧巻、といった迫力はない。が、数十本の桜の木は、夜桜見物できるようちゃんとライトアップされているし、どの桜も、相当の樹齢なのではないかと、思わせる重厚な趣のある桜の木ばかりだ。この桜を愛する地元の人々が、大事に守ってきた桜―――そんな感じがする。

 それから暫く、2人は、時折飲みかけの缶コーヒーやウーロン茶を口に運びながら、桜並木をぶらぶらと歩いた。
 夜桜見物は、実は、これが初めての奏だった。日本にいた頃は、そんな風流な真似をする年齢ではなかったし、花見と言ったら桜の木の下で宴会、というイメージばかりで、こんな風に食べるでも歌うでも騒ぐでもなく、ただ静かに桜を眺めるなんてことは、考えたことすらなかったのだ。
 初めて見る夜桜は、昼間見るより、どことなく儚げだ。
 満開を僅かに過ぎているのか、あちらこちらで、花びらがヒラヒラと舞い散っている。その様子が余計、儚げな感じがするのかもしれない。
 ―――夜桜って、なんだか、やたらこいつに似合うよな…。
 チラリと、隣を歩く蕾夏を見下ろす。
 “和”を強く連想させる黒髪や白い肌のせいだろうか。蕾夏には、妙に桜が似合う。けれどそれは、昼見るような、春を象徴する桜の姿ではない。あくまで、夜桜―――薄闇の中、ふわりと浮かび上がる、凛とした静けさを持った桜の木だ。

 「…桜はね、私にとって、特別な木なの」
 奏の視線を感じたかのように、それまで黙っていた蕾夏が、唐突に口を開いた。
 「アメリカにいた頃、私の一番の友達が、プライマリースクールの門の脇に植えられてた、桜の木だったの」
 そう言えば蕾夏も、ある一時期、母国を離れて海外で生活していたのだと聞いた。千里からそれを聞いた時はあまり気に留めなかったが、それは奏との共通項でもあることに気づき、ちょっと嬉しくなったのだった。
 「アメリカには、いつ頃?」
 「5歳から13歳まで」
 「へえ…。でも、そんな小さい頃からだったら、普通、日本人学校に入れるんじゃない?」
 「ん…、それも考えたみたいだけどね。せっかくアメリカに住んでいるのなら、アメリカの人々と深く交わって、広い考え方を身につけた方がいい、って判断したみたい。実際、行って良かったと思ってる」
 微笑んでそう言った蕾夏だったが、直後、表情を少し曇らせ、視線を逸らした。
 「…みんな、優しかった。日本人だからって私を差別することもなかったし、仲のいい友達もできた。でも、ね。いつも、思ってた―――ああ、ここは、私の居場所じゃないんだなぁ、って」
 「…なんで?」
 「彼らの目が、そう言ってたから」
 蕾夏は、どこか自嘲気味にそう言うと、くすっと笑って、足を止めた。
 一際見事な枝振りを見せる、どっしりとした桜の木―――蕾夏は、その幹にもたれかかり、桜の花を見上げた。
 「表面上は親しくしてるし、きっと本心から私を友達だと思ってくれていたんだろうけど―――ふとした瞬間にね、見つけちゃうの。“この子は自分達とは違う”って言ってる、あの子達の目に。“何故蕾夏の目や髪は黒いの?”って訊ねてきた子も、もう二度と訊くことはなかったけど…どこかで一線引かれてる感じがいつもあって、やっぱり、心から友達だと言いきる自信はなかった。ただの被害妄想かもしれないけど―――いつも、どこかしら、寂しかったの」
 その気持ちは、奏にも少し、分かる気がした。
 “ガイジン”と言って自分達を苛めた連中は、あまりにもあからさまだから除外するとして―――それ以外のクラスメイトも、奏や累を“外国人”と見ていた。単一民族の日本だから余計、そう思うのかもしれない。異質な人間、自分達とは別物の人間―――そう認識して線引きしているのを、奏も無意識のうちに感じ取っていた。
 でも、それはイギリスにいても同じだ。イギリス人と日本人の間に生まれた自分達は、日本でも、イギリスでも、異質な物にしかなれないらしい。
 「だからね。桜の木は、特別だった。日本を象徴する花でしょ? ああ、仲間がここにいる―――そう思って、いつも励まされてたの。だから、桜の木は、今も私にとって特別な木なの」
 「…そうなんだ…」

 『すごいね、奏君は。羨ましい。どこにでも柔軟に順応できる力があって』

 さっきの言葉の意味が、なんとなく分かった。
 きっと蕾夏には、アメリカ時代の友達で、今も細々とでも交流が続いている人が、1人もいないのだろう。
 同じ疎外感を味わっていても、奏はあまり気にしなかったし、累がいるから別にオーバーに考える必要もなかった。でも蕾夏は―――思いのほか人見知りをする蕾夏は、そんな小さな疎外感から、自ら一線を引いてしまったのかもしれない。たとえ周囲が、蕾夏のテリトリーに入り込もうと懸命になっていたとしても。

 繊細な感性故に、周囲を拒絶する―――なんだかそれは、瑞樹にも共通している気がした。
 もしかして―――蕾夏にとっては、仲間と称することができるのも、瑞樹ただ1人なのだろうか?
 そう考えた途端、常にちくちくと痛みを覚えている胸が、かつてのようにズキリと激しく痛んだ。

 「奏君も、久々に日本に来て、辛かったり戸惑ったりすることがあるかもしれないけど」
 体を起こした蕾夏は、そう言って桜の木の幹に片手をピタリと押し付けて、奏に笑みを返した。
 「そういう時は、こういう大きな木にくっつくと、エネルギー貰えるよ、きっと」
 「エネルギー…?」
 「木ってね、凄くエネルギー持ってるの。子供の頃から、よくこういう木に抱きついて、エネルギー分けてもらってたから。辛い時も、そのエネルギーで1人で乗り切ることが出来たから」
 その瞬間―――奏の脳裏に、あの写真が思い浮かんだ。
 時田賞を取った、瑞樹の写真―――原生林の中、大木に耳を寄せ、じっと耳をすましている、蕾夏の写真を。
 「私も、今、結構正念場に来てるから―――久々にエネルギー、分けてもらおうかなぁ…」
 そう言って微笑む蕾夏は、再び、桜の花を仰ぎ見る。両手のひらを、まるで桜の木の体温を感じ取ろうとするかのように、ぴったりと幹に押し当てて。

 風が吹き、はらはらと舞い落ちる花びらの中。
 憧れを滲ませた目で、うっとりと桜を見上げる蕾夏が、本当にどこかに消えてしまような気がして。

 奏は、思わず、手を伸ばした。


***


 微かな揺れを感じながら、切れ切れの夢を、ずっと見ていた。

 『咲子。あなたの弟になる子よ』
 母がそう紹介した、1人の少年。
 初めて顔を合わせた時の、所在なげな、どこか戸惑ったようなヒロの顔。初々しかったよなぁ、なんて思って、桜庭は夢の中でクスクス笑っていた。

 「おい」
 その夢を、遮るように。
 「―――おい。いい加減、起きろ」
 酷く不機嫌な声が、何度か浴びせられた。
 だるい頭を少しだけ動かし、目を開ける。ほとんど真っ暗に近い中、街灯の光が射し込んだ車内に、見覚えのある顔を見つけた桜庭は、これまでの経緯をやっと少しだけ思い出した。
 「…ここ、どこ…」
 「あんたの家の駐車場」
 憮然とした声に、目を動かし、窓の外を見る。そこには確かに、桜庭と母が住む借家の窓が見えた。前の住人が、駐車場に面した窓枠を茶色に塗り替えてしまったので、すぐ分かるのだ。
 「こっから先は、1人で何とかしろ」
 「……」
 「じゃな。お大事に」
 何か急ぎの用でもあるのか、瑞樹は、桜庭の返事も待たず、運転席のドアを開けてしまった。
 「…成田…」
 お礼位、言わなくては。そう思って、桜庭は何とか瑞樹を呼び止めた。
 既にドアから外へと出ようとしていた瑞樹は、その声に、一応動きを止めてくれた。
 「なんだよ」
 「…ごめん。迷惑かけたよね」
 「ああ。迷惑だった」
 ぐさり。
 病人相手に、もうちょっと言いようがないのだろうか。ちょっと気分が楽になっていたのに、今の一言で熱がもっと上がりそうだ。
 「車中泊すんな、とは言わねーけど、もうちょい自己管理しろ。“これだから女は”って言われたくねーんなら、言われる隙なんか見せるな」
 「……」
 「じゃ」

 バタン、とドアが閉まる音がして、車の中に、静寂が訪れた。

 …何故だろう。
 随分と酷い言われ方をした筈なのに―――桜庭にはそれが、桜庭のことを思っての言葉に聞こえた。

 ―――熱のせいかな。
 …きっと、そうだね。

 もう少し、こうしていよう―――桜庭は目を閉じ、車の後部座席に、深々と頭を沈み込ませた。
 そして再び訪れた眠りの中…桜庭が夢に見たのは、何故か、ヒロのことではなく、瑞樹のことだった。


***


 思わず抱きしめた瞬間、腕の中の華奢な肩が、大きく跳ねた。

 「―――…っ」
 息を呑むのを、感じる。それまでの柔らかなムードが、一瞬にして強張り、張り詰めていくのを感じる。その変遷をダイレクトに腕に感じた奏は、無意識にとってしまった行動を激しく後悔した。
 「ご…ごめんっ」
 後悔、しているのに…離すことが、出来ない。
 「ごめん―――こうしてる、だけだから」
 「……」
 「3分で、いいから―――このままで、いさせて」
 奏の願いに、蕾夏は、いいよ、とも言わない代わりに、拒絶もしない。何かに耐えるように、じっと奏に抱きしめられたままになっている。
 いいのだろうか―――そう思いながら、もう少しだけ強く、抱きしめる。ほんの少しの時間だけだから、と、祈るような思いで心の中で繰り返しながら。

 ロンドンにいる時、この腕に抱けたなら、と夢見ていたものが、腕の中にある。
 それは、とても幸せな現実で―――同時に、残酷な現実だった。
 こんなことをして、何になるのだろう? 自分で自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。結局は手放すしかないものなのに―――こんなことしても、蕾夏との距離が縮まるどころか、余計広がるだけなのに―――…。
 手放した時の喪失感を味わうために、抱きしめているようなものだ。馬鹿な奴―――自分に対する憤りに、唇を噛んだ。

 ふいに、蕾夏の体が、微かに震え始めた。
 それは、本当に小さな震え―――何かに怯えているかのように、肩が、小刻みに震えている。
 「…蕾夏…?」
 声をかけてみたが、蕾夏は返事をしなかった。ただ、全身を緊張に強張らせ、震えている。
 ―――怯えられている。そう、悟った。
 怯えられて、当然だ。いかに蕾夏が親しげな態度を見せてくれていたとしても、自分は、蕾夏にとっては、恐怖の記憶に他ならないのだから。
 「…ご…めん…」
 「……」
 「ごめん―――こんな真似、するつもりじゃなかった。ごめん」
 もう、抱きしめるどころか、触れるのも許されない気がした。掠れる声で謝罪を繰り返した奏は、恐る恐る腕を解き、後退った。
 泣いているのではないか、と思われた蕾夏は、泣いてはいなかった。ただ俯き、自らの片腕を抱いて、震えていた。
 そして、自分を心配げに、苦しげに見つめる奏の方へと顔を向け、青ざめた顔で、小さく首を振った。
 「…ち…ちがう、の」
 「―――え?」
 「ごめんね。奏君の、せいじゃない」
 「……」
 「奏君、の…せいじゃ、ない、の…」

 ―――オレのせいじゃ、ない?
 そんな青ざめた顔して、唇まで震えてるのに―――オレのせいじゃ、ないって?

 そんな筈ないだろう、と眉をひそめる奏に、蕾夏は再度、首を振った。そして、思いがけないことを奏に告げた。
 「私―――誰に対しても、こうだから」
 「…えっ?」
 「駄目、なの。男の人に、触れられるのが―――怖くて、怖くて、駄目なの」
 「―――…」
 「ごめんね、奏君」
 そう言って、蕾夏は悲しげに、目を細めた。
 「奏君のせいじゃないのに…こんな態度しかとれなくて、ごめんなさい」

 わけがわからないが、蕾夏が嘘を言っているとも思えない。蕾夏は本当に―――奏以外の男性であっても、触れられるのが駄目らしい。
 そう言えば…瑞樹も、言っていた。蕾夏が耳が聞こえなくなったのは奏のせいじゃない、元々持っていた傷が、奏をきっかけにして開いてしまっただけだ、と。
 それは、つまり―――…。

 「…私、そろそろ、帰るね」
 奏の考えを遮るように、蕾夏がそう言った。
 「瑞樹との約束の時間、迫ってるから。…夜桜、一緒に見られて、楽しかった。ありがとね」
 「そんなこと…」
 怖い思いを、させたのに―――苦しげに眉を寄せた奏は、慌てて首を振った。
 そんな奏に、蕾夏は、ニコリと微笑みかけた。驚くほど自然に―――まるで、そうすることに慣れているかのように。
 奏が苦しそうな顔をすればするほど、蕾夏も苦しむ気がした。だから奏は、強張ってしまいそうになる顔で、無理矢理笑顔を作ってみせた。
 「…オレの方こそ、ありがとう」
 「じゃあ、おやすみなさい」
 「…うん。おやすみ」

 くるりと踵を返した蕾夏は、さっきまでの震えていた姿が嘘みたいに、足早に遠ざかっていく。
 その背中を少し眺めていた奏だったが、大きく息を吐き出し、自らも踵を返そうとした。
 が、しかし―――10メートルほど離れた所で、蕾夏は何故かピタリと足を止め、そして奏の方に再び向き直った。
 「―――奏君!」
 「……っ」
 動かしかけた足を止め、奏は息を詰めた。
 一体何だ? と一瞬緊張する奏に、蕾夏は、さっきまでのことが全部嘘だったみたいな笑顔で、こう叫んだ。
 「来週末の撮影、頑張ろうね!」
 「―――…」
 「絶対、絶対―――前回よりいい写真、撮ろうね!」

 3人で、最高の作品を―――…。
 その言葉を、再び噛み締めた奏は、やっと自然な、心からの笑みを蕾夏に返すことができた。


***


 蕾夏が部屋に帰り着いて間もなく、呼び鈴が鳴った。
 ―――うわ、ギリギリセーフ。
 冷や汗が、背中を伝う。桜庭の家がどこだったのか知らないが、予想以上の早さだ。
 ぱたぱたと走り寄り、玄関を開ける。そこには、ちょっと疲れた顔をした瑞樹が、憮然とした様子で立っていた。
 「…お疲れ様」
 「…疲れた」
 当然だろう。撮影だけでも疲れているだろうに、その上、このアクシデントだ。うんざり顔の瑞樹に苦笑しながら、蕾夏は瑞樹を部屋に招きいれた。
 「桜庭さん、大丈夫だった?」
 背後を横切る瑞樹を返り見つつ、蕾夏はそう訊ね、冷蔵庫へと向かった。
 「あー…、一応な。やっぱり風邪だったらしい。38度超えてたぜ、熱」
 「うわ…、それは辛いなぁ。でも、瑞樹がいる時でよかったね」
 「…お前な。自分の男が他の女に使われたってのに、そんな平然とした顔すんな」
 「あはは、ごめん」
 ―――ほんとは、全然、平気なんかじゃないんだけどね。
 電話を受けた時の、あのなんとも言えない気分を思い出し、心の中でだけ肩を竦める。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した蕾夏は、自分も喉がかなり渇いていることに気づき、グラスを2つ用意した。
 「―――お前の方は、どうだった?」
 ミネラルウォーターの蓋を捻ったところで、瑞樹が訊ねた。
 一瞬―――反応してしまいそうになった。けれど、キリリ、と蓋を捻じ切りながら、何気ない調子で返す。
 「どう、って?」
 「…誤魔化すな。奏のことだよ」
 「……」

 ―――本当は。
 まだ、震えが、体の奥底に残っている。
 フラッシュバックを起こすのではないか、と、あの間、ずっと怖かった。奏に対する恐怖より、佐野の記憶に対する恐怖より、あんな状態の自分を人前に晒す、その可能性の方が怖かった。
 何度も何度も、傷つけてきたから。
 好きだと言ってくれる人を―――この手で、傷つけてきたから。

 背後から伸びた手が、ミネラルウォーターのボトルを掴む。
 蕾夏からそっと取り上げたそれを、瑞樹はシンクの上にトン、と置いた。
 「…お前ってほんと、俺に嘘つくのが、とことん下手だな」
 笑いを含まない声が、耳元で呟く。肩に置かれた手が、蕾夏を自分の方に向き直らせた。
 見上げた先にある瑞樹の目は、怒ってはいなかった。ただただ―――不安がっていた。
 「何が、あった」
 「―――何も、なかったよ」
 「……」
 「ちょっとだけ、抱きしめられただけ。でも―――大丈夫。何も、なかったから」
 「―――…」
 「…ごめん…。もう二度と、自分を試すような真似、しない」

 瑞樹には、きっとバレてる。何故自分が、奏の誘いに応じたのか。
 自分自身で、確かめたかったのだ。もう大丈夫だと―――奏は、怖くない。友人として冷静に付き合っていくことができる、と断言する、自分の自信のほどを。
 でも、思い知ったのは―――いまだ変わらない奏の気持ちの大きさと、自分の脆さだ。

 「―――…バカ」
 くしゃっ、と髪を撫でた瑞樹は、安堵のためか、大きく息を吐き出した。そして、その存在を確かめるように、蕾夏の唇に唇を重ねた。
 微かな、触れるだけのキスを繰り返していくうちに、物足りなくなる。抱き寄せる力が強くなるのと、耐えられず瑞樹のシャツを縋るように握りしめるのは、ほぼ同時だっただろう。何かに急かされるように、苦しい位のキスをした。

 ―――不思議。
 瑞樹に触れられるのは、怖くない。
 この人だけは、傷つけずに済む―――手を取り合っていられるのは、瑞樹だけ。こんなに私を必要としてくれて、こんなに私が必要としている人は…瑞樹だけ。

 一瞬、唇が離れた時に合わさった視線に、魅せられる。
 カメラを向けられた時に感じる、あのゾクリとする感触―――心臓が止まりそうになって、息もできなくなる。
 「…瑞樹の目って、綺麗…」
 何故か、そんなことを口にしていた。それに苦笑した瑞樹の唇が、バカ、と、声もなく動いた。
 バカ、と言った筈の唇が、耳や首筋を辿る。その熱さが愛しいと思える自分が、なんだか凄く嬉しかった。頬をくすぐる髪を指で梳いた蕾夏は、この感覚に酔うように、そっと目を閉じた。


 ―――瑞樹が、好き。
 泣きたい位に、瑞樹が好き。

 だから、絶対に―――1人には、しないで。


 今までも思ってきたこと。
 けれど、何故か―――この日蕾夏は、そんな言葉を、心の中でずっと繰り返していた。


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