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海晴から連絡が入ったのは、“Clump Clan”のポスター撮影を翌日に控えた、金曜日だった。
『―――お昼に、息をひきとったの』
「…そうか」
瑞樹の声の僅かな変化に、電話の内容を察したのだろう。明日の撮影に備えて瑞樹の部屋に来ていた蕾夏も、飲み物を用意する手を止め、振り返った。
問いかけるような蕾夏の目に、瑞樹は無言のまま、ゆるく首を横に振る。別段、瑞樹にとっては悲しい知らせでも何でもないが、やはり人の死は重いものだ。蕾夏の目も、悲しげな色に変わった。
「ともかく―――大変だったな。大丈夫か?」
『うん…なんとか』
海晴の声は、疲れ果てていた。
窪塚の意識不明状態が1ヶ月に達した段階で、もう回復の見込みはないだろうと覚悟を決めていた。資産家の窪塚なので、その死後に処理すべき問題は山ほどある。会社の問題、残された遺産の問題など、いつでもきちんと対応できるよう、海晴とその夫は、弁護士に相談して準備や調査を進めていたらしい。
2人揃って、窪塚とは血縁ではない。当然、親戚筋から色々文句が出るだろう。海晴は何も言わなかったが、きっと準備段階でも口を挟んでくる親戚はいたに違いない。海晴の声の疲れ具合は、単に義父の死によるものとは思えないムードだった。
「今、どこだ?」
『…お
「でも、通夜とか葬式は、九州の実家でやるんだろ?」
『ううん。どっちも、神戸でやるの。親戚は大反対してるけど―――生前からの、お義父さんの望みだから。“自分は窪塚の墓に入るしかないから、倖と同じ墓には入れない。けど、せめて死ぬ時だけは、倖に見送って欲しいもんだ”って。お母さんのお葬式の時、そう言ってたの。…まさか、こんな早くに、その遺言を守る羽目になるとは思わなかったけど』
「……」
改めて、不思議に思う。
母は何故、死を目前にして、窪塚と離婚したのだろう? しかも、他のどこでもなく神戸に移り住み、そこに自分で墓を立ててしまったのだろう?
結婚生活の長さという点では、父も窪塚も、ほぼ互角だ。窪塚からすれば、納得がいかないことだっただろう。変な女に惚れちまって、気の毒な奴―――ただ1度だけ話をした中年の男を脳裏に思い浮かべ、瑞樹は小さくため息をついた。
『とにかく、明日がお通夜で、明後日が告別式。今晩中に主人も来てくれるし、会社の関係者は私達の味方だから…心配、しないで』
「…そっち、行ってやりたいけど、明日は大事な仕事だし。それに、親戚がいるんじゃ…」
『……うん』
海晴の声が、少し心細げになった。子供の頃の泣きそうな顔が目に浮かぶ。
でも、仕方ない。瑞樹は窪塚家の親族からすれば、赤の他人。いくら窪塚家を継いだ海晴の兄でも―――いや、そう知ってしまえばなおさらに、こんな時に姿を見せれば、親族の神経を逆撫でするだけだ。
「いつまで、そっちいるんだ?」
『まだ…暫くは。この家の荷物をあっちに運んだりとか…いろいろ、あるから。告別式終わったら、お父さんとこに泊めてもらうの』
「―――分かった。なら、月曜に、なんとか時間作る」
『…ホント?』
「ああ」
確か、予定変更できそうな打ち合わせが1本入っているだけだった筈だよな…と、スケジュール表の月曜の欄を思い出しながら、瑞樹は頷いた。
「でも、忘れるなよ、海晴―――お前よりきっと、婿養子の立場の方が、もっと辛い筈だ」
『―――…うん…そうだよね』
そう言って、海晴は、今までより少しだけシャンとした声を返した。
『がんばらないとね。彼もいるし―――晃も、いるんだし』
やや重い気分で電話を切ると、コーヒーの入ったマグカップを2つ持った蕾夏が、瑞樹の隣にストン、と腰を下ろした。
「とうとう、目を開けることなく、逝っちゃったんだね…」
「…そうだな」
差し出されたマグカップを受け取り、口に運ぶ。中身は、瑞樹の好みに合わせてアメリカン気味のブラックだった。ほど良い苦味が口の中に広がり、疲れた神経がじんわりと和らぐのを感じた。
蕾夏の方は、ミルクと砂糖を適量加えた、胃に優しいタイプ。マグカップを両手で包み込むようにしてそれをコクンと飲み込んだ蕾夏は、瑞樹の顔を覗き込むようにした。
「…ねえ」
「ん?」
「一発ぶん殴ってやる機会がなくなっちゃって、残念?」
「…ハ…、そこまで思うほど、思い入れのある相手じゃねーよ」
確かに、とっとと死んでしまえ、と思っている訳じゃない、と言いたくてそんな事も言ったが、窪塚を殴り倒してやりたい、と思ったことは、昔も今も一度もない。父の側に立っている分、腹立たしくて大嫌いな男だったが、正直、どうでもいい男だった。あの男がいようがいまいが、母の自分達に対する態度は、あまり大差はなかったと思うから。
「変な言い方だけど―――今はむしろ、ホッとしてる」
母も、窪塚も、もうこの世にはいない。
それは、瑞樹にとって、どうでもいい事であると同時に、どこかしら肩の荷が下りたような気分になれる事実だった。
***
スタジオに入った奏は、目の前に広がる光景に、思わずひゅう、と口笛を吹いてしまった。
「―――すっげー…」
製作途中の写真は、打ち合わせの時に見せてもらっていたが―――これは、予想以上にリアルだ。
本当に倉庫街かどこかから盗んできたんじゃないのか、と言いたくなる木箱。ニューヨークの裏路地にでもありそうな、落書きの入ったコンクリートの壁。勿論、極々薄い壁だが、一応本物のようだ。地面も、本物の石や砂を混ぜて散らばらせてある。錆びかけた階段まであるのだから、お見事としか言いようがない。
他にもこまごまとしたディテールが施したセットが、スタジオ全体に作られていた。これなら、そっくりな場所を見つけてロケをした方が手っ取り早いのではないだろうか、と言いたくなる規模だ。
勿論、そうしなかった理由は、打ち合わせ時に説明済みだ。今回の撮影では、俯瞰図のようなアングルが―――かなり高い位置から見下ろして撮る構図が1種類あるのだ。ついでに、同様に俯瞰図での白背景の撮影も1種類予定されている。機材の移動を考えると、セットにして両方スタジオで撮った方がいい、ということになったらしい。
成金ブランドめ―――このセットの値段と自分の契約金、どちらが高いのだろう、と思った奏は、3種類のポスターとパンフレットのためにこの会社が費やす金額の総額を想像して身震いしてしまった。
既にスタジオ入りしていた人々の声に適当に対応しながら、奏は、瑞樹と蕾夏の姿を探した。
蕾夏の方は、セット脇の照明の周りで、スタジオマンと一緒に何やらやっていた。照明の調節に四苦八苦しているらしい。が、瑞樹の姿が見当たらない。
「もうちょい、スポット右に寄せて」
その時、頭上から瑞樹の声が降ってきた。
驚いて声の方向を見上げると、奏の身長を超える高さにある撮影台の上に、瑞樹がいた。1カット目は、このセットの俯瞰図での撮影なので、撮影位置から指示を出していたらしい。
あそこから、あの目に見下ろされるのか―――なんだか、自分の見えない部分を全て見通されそうな気がして、奏はごくりと唾を飲み込んだ。
「こんな感じで、どうですかー」
スタジオマンが瑞樹を仰ぎ見て言うと、撮影台から腕が伸びてきて、OKサインを作ってみせた。
「一応もう1回、測っといて。OKなら、ポラ撮りいくから」
「分かりましたー」
掛け声と同時に、2人いるスタジオマンの片方が、スポットメーターを持ってセットの中に走りこんだ。もう1人のスタジオマンはコード類を邪魔にならないよう整理し始め、蕾夏はホッとしたような顔でその場を離れた。そして―――撮影台の脇に立つ奏に気づき、足を止めた。
「―――…」
あれ以来、蕾夏に会うのは、これが初めてだ。
1週間前のことが脳裏を過ぎり、妙な焦りが胃の辺りからせり上がる。奏は、本番前の緊張以上の緊張で脚が震えそうになるのを、なんとか堪えた。
そんな奏とは対照的に、蕾夏は落ち着いて、ふわりと微笑んだ。
「おはよ、奏君」
「…おはよう」
「“VITT”のスーツも似合ってたけど、ここの服も似合ってるね」
奏の頭のてっぺんからつま先までを軽く眺め、蕾夏がそう言って褒めた。
「…着やすさで言ったら、オレなんかは、断然こっち派なんだけど」
“VITT”のスーツが完全にフォーマル仕様のドレススーツなのに対して、“Clump
Clan”のスーツは、ちょっとオシャレな、若者向けのビジネススーツだ。動きやすさでは、全く比較にならない。ストレートに褒められて気恥ずかしい気分の奏は、スーツを身に纏った両腕や両足を動かしてみせ、微かな笑いを蕾夏に返した。
「それにしても、すっごいセットになったねー。資料で見せてもらった製作途中の写真では、まだ壁しかなかったから分からなかったけど―――あの外階段とか古びた窓ガラスなんて、どっかから壁ごと引っ張ってきたんじゃないの、って疑いたくならない?」
「うん。オレもびっくりした」
―――良かった。あんまり気にしてないみたいで。
そつない返事を返しつつ、奏は内心、ホッと胸を撫で下ろしていた。
なんであんな馬鹿な真似をしてしまったのだろう、と、ここ数日は自己嫌悪のあまり食欲もなくしていた奏だった。あんなことするんじゃなかった、と後悔しながら、油断すればすぐに抱きしめた時の感触を思い起こしてしまう自分が、余計情けなくて―――実を言えば、眠りも相当浅かった。
今日、かろうじて寝不足の顔を見せずに済んだのは、ひとえに、仕事に対する責任感と、蕾夏が言った言葉のせいだ。
“いい写真を撮ろう”―――今の、3人共通の、たった1つの想い。これのために、今抱えている罪悪感も後悔も、今日1日だけは忘れよう、と自分に言い聞かせたのだ。
「どう? 調子は」
まだ少し硬さの残る奏の様子に、蕾夏が気遣うように訊ねる。
こういう時、なんだかんだ言ってもやっぱり2つ年上なんだよな、と思う。いや…年齢の問題ではなく、人生経験の違いなのかもしれないが―――蕾夏の方が、常に冷静だ。
「…久々によく眠れたし、ホテルの周り軽く走ってきたから、ほぼベスト」
「そ。良かった」
「なんだ、来てたのか」
その時、蕾夏とのやりとりに気づいたのか、頭上から、瑞樹がひょいと顔を覗かせた。
台についた梯子を使うことなく、その端を掴んで軽々と下に飛び降りた瑞樹は、乱れた髪を無造作に掻き上げた。
「蕾夏、デジカメの画像、ADに確認とって」
どうやら、最終OKの出たライトの状態を、上からデジカメで撮影していたらしい。コンパクトなデジカメを瑞樹から受け取った蕾夏は、わかった、と言ってアートディレクターの方へと小走りに走っていった。
その後姿を2人して目で追う。が、やがて瑞樹の目が、奏の方に向けられた。
「……」
―――うわ、ヤバ…。
蕾夏本人に会うより、こっちの方が断然、威圧感があって緊張する。一旦落ち着きかけた心臓が、また少し鼓動を速めた。
「…あ…あの、成田、」
この前はごめん。
そう言おうとする奏を、瑞樹は手で制し、いきなりゴツン、と頭を軽く小突いた。
「イテっ!」
「―――馬鹿。文句言えた立場か?」
呆れ顔の瑞樹は、じんじんする頭を押さえる奏に、そっけない言葉を返した。
でも、表情や口調から、本気でぶん殴りたいような怒りを覚えている訳ではないことが、奏にも感じ取れる。むしろ、気まずさを払拭するために、わざと瑞樹の方から仕掛けてきたのだと、本能的に分かった。
「…ごめん」
「次、やったら、2発な」
「…もう、やんないって。もう懲りた」
まだ、腕に残っている。恐怖に耐えるように小刻みに震えていた、蕾夏の感触が。あんな風に追い詰められた蕾夏の姿を見る位なら、どんなに苦しくても、離れて見ている方がマシだ。
「でも、よければ1つ、教えてくれよ」
「何を」
「あいつ、なんであんただけ、大丈夫なんだ?」
誰に対してもこうだから、と蕾夏は言っていた。
けれど、瑞樹とは恋人同士だし、ロンドンで同じ部屋で生活していた2人の関係が、手を繋ぐとこ止まりとは到底思えない。つまりそれは―――誰に対しても怯える蕾夏が、何故か、瑞樹だけは大丈夫だ、ということで…。
何か理由があるに違いない、と思って訊ねたが、瑞樹はそっけなく肩を竦めた。
「さあな」
「さあな、って…変だろ、あんただけなんて」
「俺達にも分かんねー。俺も、蕾夏以外の女、駄目だしな」
「…えっ」
思わぬ話に、思わず目を見張る。が、瑞樹の方は、涼しい顔だ。
「気色悪いんだよな。女に触られると。昔は、女に襲われると、その後気分悪すぎて吐くことあったし」
「……」
「まだ修行が足りなかったからな、あの頃は。良かったな。お前、特異体質じゃなくて」
「―――…」
…マジ?
唖然としてしまう奏だったが、瑞樹の無表情は、嘘を言っているとは到底思えなかった。
「成田さーん! チェックお願いしまーす!」
スポットメーターで露出を測っていたスタジオマンが、瑞樹を呼んだ。
それに手を挙げて応えた瑞樹は、ぽん、と奏の肩を叩き、耳元で囁いた。僅かに、笑いを含んだ声で。
「バカ、いちいち真に受けんな」
「……」
「じゃな」
―――だから、こいつは嫌いだ。
一瞬でも信じてしまった自分が馬鹿だった。悠々と歩き去る瑞樹の後姿を睨みながら、奏は心の中でバカヤロウを3回繰り返した。
…でも。
本当に、奏をからかったに過ぎないのだろうか?
ふと、思い出す。ロンドンでの、ちょっとした一場面。
カレンがふざけて瑞樹にキスをした時―――確かに瑞樹は怒っていたが、その反応は…怒っている、というよりも、嫌悪感を露わにしている、といった方が適当だった気がする。
モデルに取り囲まれた時も、さりげなく触れようとする手を、平然とした顔で払いのけていた。いくら好きじゃない女相手でも、あそこまでするのは、ちょっと露骨すぎて、今思うと不自然な気がする…。
―――まさか、な。
心に引っかかるものを感じつつも、奏は、今のは単に奏の緊張を解くために瑞樹が仕掛けたジョークだと―――そう思うことにした。
***
以前、瑞樹が出していた「3人以外、スタジオの外に出ていて欲しい」という要望は、検討された結果、基本的に却下となった。
ただ、一部だけは、認められた。
『固定視点で撮る俯瞰撮影は、セット撮影・ホリゾント撮影両方ともポスターの基本デザイン案なので、全員立ち合わせてもらいます。ですが、モデルを自由に動かしてのセット撮影は、3人だけでやっていただいて構いません』
つまり、モデルを自由に動かして撮影したものは、基本デザイン案がいまいちだった時のための予備、という部分がある訳だ。
予備分しか任せきることはできませんよ、と言われた気がして、奏としてはいささか不服なのだが、瑞樹は平然と「それで構いません」と言った。3人だけで、ということにこだわっていた瑞樹だけに、そのことを不思議に思って奏が訊ねると、瑞樹はニヤリと笑って答えた。
『案は、あくまで案だろ。そんなもん、最終的にひっくり返せばいい』
―――なるほど。
実際に撮影に入って、何故瑞樹が高い位置からの固定撮影に執着を見せなかったのか、その理由が奏にも分かった。
「視線、外すなよ」
はるか頭上から、瑞樹がファインダー越しにそう言う。奏は手を挙げ、指でOKマークを作った。
さっきまでセットの中央に立っていた奏は、今は階段の3段目に腰掛けている。その分、撮影台も照明も、微妙に移動している。首を傾け、頭上のカメラを半ば睨むほどの勢いで奏が見据えると、直後、立て続けにシャッターが切られた。
撮影台の梯子に乗る形で撮影補助をしている蕾夏は、そのシャッター音を数えているらしく、瑞樹が撮り終えたフィルムを取り出すより早く、替えのフィルムを差し出していた。ぽーん、と撮影済みのフィルムが放り投げられると、それをキャッチして、撮影メモを挟んで輪ゴムで留めたりしていた。
淡々と、粛々と、撮影は進行する。
―――だから、か。
フィルム交換の合間に、チラリと壁際に目をやる。
衣装の崩れに気を配る黒川を始め、アートディレクターや“Clump
Clan”側の担当者、代理店の担当者等々がずらりと並んでいる。いずれも真剣な表情だが、概ねここまでの撮影に不満はなさそうだ。
当然だ。
撮るべき角度から、撮るべき姿を、撮るべき手順で撮っている。計算し尽されたアングル―――絵コンテがそのまま写真になるようなものだ。そこには、瑞樹の写真テクニックと、奏のモデルとしてのテクニック、スタジオマン達の照明テクニックだけが必要。奏の素を引き出し、自由な位置から最高のショットを見つける必要はないのだ。
だから瑞樹は、自由に動かせる撮影だけにこだわったのだ。そこさえ3人だけで自由に撮らせてもらえるなら、と。
「おい、集中しろよ」
少し不機嫌そうな瑞樹の声に、壁際に目をやっていた奏は、ハッとして視線を戻した。
ファインダーから目を外していた瑞樹は、軽く目を眇め、片眉を上げた。
「プロだろ。もっと撮る気にさせてみせろよ」
「―――あいにく、こんな階段に座ってカメラを睨んだ経験がないんでね。何考えてカメラを睨もうか、迷ってんだよ」
挑発されると、つい攻撃的になってしまう―――奏の悪い癖だ。
勿論、それを承知で瑞樹は挑発するのだが、それに気づけるほど、奏はまだ瑞樹の魂胆を見抜いてはいない。挑戦的な笑みを浮かべた瑞樹は、素早くカメラを構え、シャッターを切った。
結果―――少し拗ねたような表情をした、少年ぽさを残した“素顔の一宮 奏”が、そこに焼き付けられた。
***
「本当に大丈夫ですね? 今回のコンセプトは“冒険”ですよ。その点、問題ないですね?」
広告代理店の担当が、しつこい位に念を押す。
「クライアントの希望する路線は、絶対外しません」
「でしたら、いいんですが…。確かに、成田さんと一宮さんの呼吸は合っているようですし…」
きっぱり言い切る瑞樹に、担当者は、すぐ傍で新たに着替えた衣装を黒川にチェックされている奏をチラリと見た。
上部から見下ろしての撮影時、瑞樹が奏に放った挑発の言葉が、担当者としては結構衝撃だったのだろう。奏を見る担当者の目は、モデルが気を悪くしていないか、ショックを受けて萎縮してないか、と気遣っている目だった。
問題なし、という笑顔をニッコリと返す奏に、担当者も何も言えなくなったらしい。まだ半信半疑という顔をしながらも、仕方なく現場を後にした。この間に隣のスタジオの準備をしているスタジオマンの様子を見に行くのだろう。
「―――あんた、この先、あの代理店からの仕事、来なくなるんじゃない」
扉が閉まるのを確認してから、奏が、少し呆れた口調で言うと、フィルムをセットしていた瑞樹は、目だけ上げて微かな笑みを返した。それを見ていた蕾夏は、撮影メモを記入する手を止め、くすっと笑った。
「結果よければ全てよし、だよね」
「そういうこと」
「…自信家コンビ」
そう揶揄する奏の口調は、あまり強くはならなかった。瑞樹や蕾夏がそう言う理由を、奏自身、身を持って分かっているから。
“VITT”の2度目の撮影の時の写真、そしてフリーになるに当たって撮ってもらったポートフォリオの写真―――自分も知らなかった自分が、そこにはいた。ちょっと気恥ずかしい位に普段の自分だけれど…体温までも感じそうなほどに、生き生きとした自分が。
多分、この2人が、誰よりも素の自分を引き出してくれる―――何故なのかは、分からないけれど。
―――なんでなんだろうな、ほんとに。
瑞樹にだけ触れることができる蕾夏にしろ、蕾夏以外の女に嫌悪感を露わにする瑞樹にしろ―――2人といると素顔を隠しきれなくなる自分にしろ。
「あまり時間がない。さっさと撮るぞ」
レンズを付け替えるカチャッという音と同時に、休憩モードに入っていた瑞樹を取り巻く空気が、一瞬にして変わる。奏も表情を引き締め、セットの中央に戻った。
奏と向かい合って立つ瑞樹の、右斜め後ろ、5メートルほど―――撮影メモの挟まったバインダーを持った蕾夏は、当然のように、そこに収まった。
それは確かに、あの日…“VITT”の撮影の時、蕾夏が立っていた位置だった。
スタジオの天井を仰いだ瑞樹は、目を閉じ、大きく深呼吸した。そして、息を吐き出し終わると同時に、蕾夏の方に視線を向けた。そこに蕾夏がいるのを確認するかのように。
目が合って、蕾夏がふわりと微笑み、小さく頷く。それに、僅かな笑みを返した瑞樹は、改めて奏の方に向き直った。
「準備は?」
「…いつでもご自由に」
その返事に、瑞樹は視線を鋭くすると、素早くカメラを構えた。
何をさせられるのやら―――不安と期待が半々の状態で、瑞樹の指示を待った奏だったが。
―――おい…これ、ほんとに許可取ってんのかよ…!?
「俺を信じろ。ちゃんとADに確認してる」
「絶対だな!? オレは責任とらないからな!?」
疑いの眼差し100パーセントで奏が怒鳴ると、瑞樹はカメラを構えたまま、手だけで「さっさとやれ」と命令した。
あーあ、オレ知らねー、と心の中で自棄気味に呟いた奏は、手渡された白いチョークを握り直し、セットのコンクリート壁に大胆に文字を書き始めた。書くのは、一応、クライアントに気を遣って、メーカー名である“Clump
Clan”だ。
さっきから、いろんな事をさせられた。
いきなりサッカーボールを蕾夏から投げられ、それでリフティングをやれ、と言われたり。
階段の手すりの上に上手いこと立てるかやってみろ、とか。
挙句に、最上段から飛び降りろ、とか。
その都度「はぁ!?」と言う奏だったが、リフティングは、試しにやった蕾夏が5回でボールをあらぬ方向に飛ばしてしまったのに気を良くし、馬鹿なことに30回もやってしまった。
手すりの上には、立つことはできなかったが、一応手で手すりを握った状態でながしゃがんでいられるようにはなった。蕾夏の前で無様な真似はしたくない、と、やたらムキになってしまった結果だ。
そして、最上段から飛び降りるのは、何故か5回もやらされた。ただ繰り返せば済むことなのに、何故か奏は、飛ぶたびに「前回より遠くに飛んでやる」と躍起になり、5回目に見事最高記録をたたき出した。
そう―――なんだかんだ言って、結局全部やらされてしまい、気づけば、全部楽しんでしまっている自分がいるのだ。
巨大な“C”を書いたところで、一旦、手を止める。
「うっわー…、ほんとに書いちまったよ…。ほんとに大丈夫か? これ」
「心配すんな。1文字書いたら、2文字も10文字も同じだ。どんどん書け」
「……」
これで、肝が据わった気がする。
気づけば奏は、子供の頃、大人には内緒で学校の下駄箱に思い切り落書きをした時の気分を、再び味わっていた。嬉々として、セットの壁一杯に文字を書いていた。
自由に動き回る瑞樹が、右から、左から、奏の表情を切り取るように、何度もシャッターを切る。
そして、奏は気づいた。瑞樹がシャッターを切る瞬間は、ちょうど、奏が「これってガキの頃よくやった落書きの気分だよなぁ」と思って、ちょっと楽しい気分になった瞬間と重なる、と。
それは、リフティングの時も、階段の時も、同じだった。楽しい、ワクワクする―――そう感じた瞬間、シャッターが切られる。
シンクロする。
奏の感じているものと、瑞樹が切り取りたいものが。
それは、“冒険”というコンセプトに、ダイレクトに繋がるもの―――いくつになっても、男が“冒険”という言葉に感じずにはいられない、この心躍るような気分だ。
撮影の間中、奏は、すっかり素の状態で、何度も笑い転げた。
調子に乗りすぎたかな、と、はっと我に返った時、なんとなく蕾夏の表情を伺うと、蕾夏は必ず笑みを返してくれた。上手くいってるよ、大丈夫―――そんな感じの笑みを。
そして、「視線、こっち」と瑞樹に言われ、カメラに視線を向けた時―――必ず襲う、ゾクリとくる高揚感。ファインダー越しの視線に、捉えられる。神経の糸がピンと張り詰め、一瞬にして、意識が集中する。
観客の中へとランスルーを飛び出していく時感じる、あの高揚感と、どこか似た空間。全てが、吹き飛ぶ。それまでの悩みも、わだかまりも、憤りも、罪悪感も。
これが、欲しかったもの。
もう一度―――遠い距離を越えてでも、もう一度だけ、体験したかったもの。
―――やっぱり、ここまで来たのは、間違いじゃなかった。
この日奏は、日本に来て初めて―――やっとそう、思うことができた。
***
スタジオのラウンジで、精魂尽き果てている瑞樹を見つけ、蕾夏はくすっと笑い、足音を忍ばせて近づいた。
丸いテーブルの上に突っ伏している瑞樹の頬に、そっとウーロン茶の缶を押し付ける。と、それまでぐったりしていた瑞樹が、いきなり跳ね起きた。
「!! っつめてーよっ!」
「あはははは」
楽しげに笑う蕾夏を軽く睨み、ウーロン茶の缶を奪い取った瑞樹だったが、以前、自分も何度か同じことを蕾夏にしたことを思い出したのだろう。やがて、その顔に苦笑が浮かんだ。
蕾夏も、瑞樹の向かい側の席に着く。2人して、ほぼ同時に、ウーロン茶のプルトップを引いて、3口ほど、一気に飲んだ。
既に代理店や“Clump Clan”の人間は帰ってしまい、スタジオに居残っているのは、自分達だけだ。後片付けも終わり、スタジオは閑散としている。
静かになると、やっと疲れや感慨が襲ってくる。それを噛み締めるように、2人ははーっ、と息をついた。
「疲れたねー…」
「…まあな」
「でも、充実してたよね」
でしょ? という目で蕾夏が言うと、瑞樹も小さく笑った。
「かなりな」
「どんな感じに撮れたかなぁ…。やっぱりあの手持ちで撮ったセット撮りが楽しみだよなー…」
自分に何ができた訳でもないけれど―――楽しかった。
瑞樹も、奏も、楽しそうだった。どちらも、プロとしての緊張感は勿論あったが、それでも―――楽しそうだった。奏と再会してから1ヶ月弱、こんな風に素になって楽しめたのは、これが初めてだ。
帰って行く時の奏の笑顔も、初めて、何のわだかまりもない、素になった奏の笑顔だった。「やっぱ、成田に頼んでよかった」―――そう言われた時、やっぱり受けてよかった、と蕾夏も思った。半分、蕾夏が「受けてあげれば?」と言ったことで決まったような仕事だから、余計に。
「…お疲れ様」
いろんな意味合いを込めて、心から、そう言う。
瑞樹も、それに応え、静かに笑った。含まれるいろんな意味合いが、分かるから。
「撮影中は、全部忘れてた」
「…うん」
「奏とのことも―――窪塚のことも」
「…そう。よかった」
撮影前日の夜の、突然の電話。さすがに心配だったが―――そんなこと忘れる位、集中していたのだろう。
「ま、あとは、月曜に神戸行ってくれば、一休みだな」
はぁ、とため息をつく瑞樹に、蕾夏は、僅かに眉をひそめた。
「疲れてて大変だろうけど、やっぱり、明日行ってあげる訳にはいかない?」
「ああ。行ってやりたいけど、親戚がうろうろしてる所に行くのは、まずいだろ」
「…そうだよね。海晴さんもご主人も、立場的に微妙だし…」
その辺りの複雑さは、実感としては分からなくても、知識レベルでなんとなく察せられる。どちらも“義理の子供”―――その2人が、窪塚家を継ぐ立場なのだから、微妙なのは当然だ。
「ねえ、瑞樹」
「ん?」
「私も、神戸について行きたいけど…ダメ?」
蕾夏の問いかけに、ウーロン茶を飲んでいた瑞樹は、少し不思議そうな顔をした。
「なんで?」
「うん。なんて言うか―――…」
上手く、言えないのだけれど。
きっとまだ窪塚の死を色濃く引きずっている海晴に会う、瑞樹。できることなら―――瑞樹の傍にいてあげたい。その死を、悼むことも皮肉ることもできない、瑞樹だからこそ。
上手く説明できず、困ったように眉を寄せる蕾夏に、瑞樹は僅かに苦笑し、その髪をくしゃっと撫でた。
「俺が心配だから、って?」
「…そこまでは、言わないけど…」
「心配するな」
蕾夏を宥めるように、瑞樹はゆっくりと、そう言った。
「大丈夫―――窪塚の死を悲しんでるフリなんて、するつもりねーし」
「…うん」
「海晴が悲しむのを、止める気もない。ただ、あいつが安心して泣ける場所、作ってくるだけだ。…だから、俺は大丈夫」
「……うん……」
―――でも、瑞樹。
なんで、なのかな―――私、会社休んででも、瑞樹についていかなきゃ、って…そう、思ったの。
どうしてなんだろう?
…自分でも、分からないけど。
髪を撫でる手のひらの温かさに目を閉じながらも、蕾夏は、自分でも分からないこの小さな不安を、どうしても消し去ることができなかった。
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