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― Diary 〜封印〜 -2- ―

 

 久々に会う海晴は、随分とやつれてしまっていた。

 告別式が終わったと言っても、まだその翌日―――着ているのは、かろうじて喪服ではないものの、いよいよ春本番を迎えたこの時期にしては重々しすぎる黒の上下だった。
 柔らかいセミロングの髪を一つに束ねたその姿は、母と瓜二つながら正反対な明るさを見せていた去年の再会時より、なんだか一回り小さな体になったように見える。

 「…悪かった。遅くなって」
 瑞樹がぽん、と海晴の頭に手を置くと、それまで何かを我慢しているようだった海晴の顔が、突然歪んだ。
 「―――お兄ちゃん…」
 緊張の糸が緩んだように、海晴の大きな目から涙がこぼれ落ちた。
 泣き虫の海晴が泣くのを我慢している時、どんな顔をするのかは、小さい頃からよく知っている。ぽんぽん、と背中を叩いてやったら、昔同様、海晴は瑞樹の胸元に額を押し付けて、声を殺して泣き出した。
 この涙は、何の涙なんだろう―――宥めるように背中を叩きながら、ふと思う。
 人生の半分を“父”と呼んで過ごした人の死を悼んでなのか、それとも…これから背負わなくてはならないものの重圧のためなのか。どちらだったにしても、瑞樹には分かってやることのできない気持ちだろう。
 暫く、同じ間隔で背中をゆっくり叩いていてやると、だんだんと海晴の様子も落ち着いてきた。
 「大丈夫か?」
 「…うん」
 返ってきた声は、まだ少し涙を含んではいたが、しゃくりあげるような状態ではなくなっていた。
 「そりゃ良かった。そろそろ人目が気になりだしたからな」
 少しからかい気味に瑞樹が言うと、はっ、と顔を上げた海晴は、慌てたように周囲を見回した。
 ここは、ホテルのロビー。事情を知らない一般客には、2人がきょうだいであることも、海晴が喪中であることも分からないだろう。なんなのあの女の人、という視線を向けている客を1名発見してしまい、海晴の顔が赤くなった。
 「ご…っ、ごめんね、お兄ちゃん」
 「いや」
 恥ずかしそうにする海晴の様子に、この一言でかなり気分が紛れたらしいことを感じ取り、瑞樹は一安心してソファに腰掛けた。海晴もそれに倣い、瑞樹の向かい側のソファに腰を下ろした。

 席につくと海晴は、ちょうど通りかかったホテルの従業員に「コーヒー2つ」と注文した。どうやら、このホテルは、ロビーがそのまま宿泊者のラウンジを兼ねているらしい。
 「旦那は、どうしたんだ?」
 何から話せばいいか分からず、瑞樹はひとまず、この場にいる筈の海晴の夫が見当たらないこと訊ねた。
 海晴の夫は、窪塚亡き今は、窪塚の家を継ぐ家長だ。窪塚が死去した当日には神戸入りし、疲れている海晴と交代して遺体に付き添った。おかげで、始終気を張っていた海晴は、父の家でやっと休息をとることができたのだと聞いた。
 夫が来てからの土日は、通夜、葬儀と続いたので、夫妻は窪塚が神戸で借りていた家に寝泊りした。が、今日からは、その家にある荷物の引き払い等あるので、市内のこのホテルに2人して移ったらしい。勿論、後から連れてこられた息子の晃も一緒に。
 そういう経緯を、あらかじめ今朝の電話で聞いていたので、てっきり夫も一緒にいるものと思ったのに―――その姿は、どこにも見当たらない。不思議そうにする瑞樹に、ハンカチで涙を押さえていた海晴は、僅かに苦笑を返した。
 「うん…、まだ親戚が2人、居残ってるの。お義父(とう)さんの妹夫婦で、お骨と一緒に長崎に戻りたいから、って。親戚筋では唯一、私達に理解のある人達なの。今、その人達と今後のことを話してる最中で、終わり次第下りてくるって。…あ、お兄ちゃんのことは、その2人にも話してあるから、心配しないで。2人きりで話をしやすいように、晃のことも見ててくれてるし」
 「…そうか…」
 当面、味方はその妹夫婦だけらしい。金持ちってのも大変だな、と、瑞樹はため息をついた。
 海晴を手放すことを考えた頃は、瑞樹もまだ子供で、そこまで考えが回らなかった。窪塚本人に関しては、大切な跡取りなのだし、母にそっくりな女の子であれば大事にするだろうと―――少なくとも、恋敵である父と瓜二つな自分よりは受け入れやすいに違いない、と考える余裕はあったが、その親戚のことまで考えるのは、いかに早熟だった瑞樹でも無理だった。
 「ごめんな、海晴」
 「え? どうして?」
 「お前にこんな思いさせるなら、俺がこっちに来りゃ良かったかもしれない」
 「…やだ。重役室の椅子にふんぞり返ってるお兄ちゃんなんて、似合わない」
 海晴は、少しおどけたようにそう言い、くすっ、と小さく笑ってこう続けた。
 「確かに大変だけど…この先のことは、大丈夫。私は1人じゃないもの」

 暫し、会話が途切れた。
 途切れている間に、コーヒーが運ばれてきた。一口、口に運んでみたら、さすが高級ホテルだけのことはある。ブラックのままでも結構うまい。そのまま、ブラックコーヒーを飲む瑞樹の向かい側で、海晴は、瑞樹なら気分が悪くなるであろうほどの砂糖とミルクをコーヒーに入れ、スプーンでかき回していた。
 「…なんか、私って、思ったより薄情ね…」
 甘いコーヒーを一口飲んだ海晴は、突如、そんなことを呟いてため息をついた。
 「窪塚のお父さんが息をひきとった時…“悲しい”よりも、“やっと終わった”って方が強かったの」
 「……」
 「目も覚まさない、容態の変化もない―――そんな状態がずっと続いて、会社の人に任せきりにする訳にもいかなくて、長崎と神戸を行ったり来たり…それが、2ヶ月でしょ? どっちでもいいから、早く答えを出してくれ、って…その答えが“死”でもいいから、って、本気で思ってたの。13年も一緒にいた人なのに―――涙は出てきたけど、その何パーセントが純粋な悲しさだったか、自分でも自信ない」
 「…薄情な訳じゃない。頑張りすぎて、疲れてただけだろ」
 「…うん…」
 「だから、自分を責めるな」
 瑞樹の言葉に、海晴は小さく「ありがと」と答えて微笑んだ。が、その表情は、あまり明るくはならなかった。
 「―――昨日までは、バタバタしてたり気を遣わなきゃいけない事が多かったりで、あんまり考える暇がなかったんだけど…昨日の夜、家族3人で寝てたらね。なんか、色々考えちゃったの」
 「何を?」
 「…お父さんとお母さんが離婚してから、今までのこと」
 「……」
 「私の人生の中で、一番幸せだったのって、晃が生まれた瞬間を除けばやっぱりお兄ちゃんと一緒にいた頃だったけど―――2番目に幸せだったのは、多分…離婚してから再婚するまでの間、お母さんと2人きりで暮らした時期だったかもしれない」
 ちょっと、意外な話だった。瑞樹は、コーヒーカップを置き、少し目を丸くした。
 「意外?」
 「…少し、な」
 「…いっぱい、喧嘩した。私とお母さんてね、顔も似てるけど、我が強いところとか、頭にくるとヒステリックになるとことか…なんか、嫌なところばっかり似てるの。だから、おんなじところで、喧嘩してばっかり。で、喧嘩するたび、“もうイヤ、お兄ちゃんとお父さんのところに帰る”って、私がダダこねて―――そこまで言うと、お母さん、黙っちゃうの」
 「……」
 「あの頃、窪塚のお父さんともあまり会えなかったみたいで、だから余計、お母さんが不安定になっちゃったんだと思うけど―――その分、お母さんとの距離が、凄く近かった。あの頃の生活があったから、私、それまで何とも思うことができなかったお母さんを、“結構好き”って思えたのかもしれない」
 「…へえ…」

 瑞樹の知らない、母の顔だ。
 窪塚とあまり会えなかった、というのは、分かる気がする。死んだ途端この騒ぎになるような親族だ。子持ちの女との結婚には、強硬な反対意見があっただろう。それをなんとか説得するために、窪塚が奔走していたであろうことは想像に難くない。離婚後、すぐ再婚するだろうと思われた母が、2年あまりも再婚しなかったのは、それだけ時間がかかったせいだろうから。

 あの女も、逃げ道がなくなれば―――向き合い、意見をぶつけ合わなければ、生活が成り立たない状況に追い込まれれば、ちゃんと子供と向き合うこともできたらしい。
 ならば―――自分がいなければ、母は、もっと早く、海晴と向き合うようになっていたのだろうか?
 自分が、母の言うがままに秘密を守り、母が放り出したものをカバーしようとしたせいで、母は向き合うべき現実から逃避し続けたのだろうか?
 その可能性に初めて行き当たって、瑞樹は、なんとも複雑な心境に陥った。だとしたら…自分のした事は、一体、何だったのだろう?

 「あの2年間があったから、分かるのかな…」
 瑞樹の複雑な心境を知らない海晴が、ぽつりと、そう続ける。
 一瞬、引きずり込まれたくない所へと意識が向きかけていた瑞樹は、その声に引き戻され、気持ちを切り替えるように脚を組み替えた。
 「分かる、って、何が」
 「お母さんが、最後に神戸に戻った理由。…お母さん、やっぱり、お父さんが一番好きだったんだと思う。だから、最後はお父さんの近くにいたい、って思ったんじゃないかな」
 「……」
 「…可哀想な人…窪塚のお父さんって。あんなに優しくしてくれた人なのに―――最後の最後、選んでもらえないなんて」
 少し掠れた声でそう言った海晴は、悲しげに眉を寄せ、俯いた。
 「…可哀想…あんなに大切に育てた娘なのに、最後まで、実の父親以上の存在とは、思ってもらえないなんて…」
 「海晴……」
 「私…もっともっと、感謝の言葉、言っておけばよかった。お世話になりました、でも何でもいいから―――お義父さんが、引き取ってよかった、って思える位に、もっとちゃんと…」
 「…もう、よせよ―――…」
 また泣き出しそうになる海晴の様子に、瑞樹は困ったようにそう言い、向かい側の席で俯く頭を撫でた。

 正直、母が一体何を考えていたのか、その辺は、瑞樹には全く分からない。
 でも、海晴が窪塚を“可哀想”と言うのは、なんとなく理解できる。
 そうは言っても、勿論、瑞樹の本音は“自業自得”だ。窪塚は、少なくとも、母が父と結婚していることを承知の上で、母と不倫をしていたのだ。子供がいるとは知らなかったらしいが、だからと言って罪が軽くなる訳ではない。しかも大馬鹿なことに、転勤先にまで追いかけてきた。瑞樹に言わせれば“馬鹿もここまでいくと救いようがない”だ。
 でも―――そこまでするほど、あんな女に執着し続けるしかなかった窪塚を、瑞樹も“可哀想な奴”だと思う。
 最終的に、父も、窪塚も選ぶことができなかった母。とうとう父が見切りをつけ、離婚という決断をするまで―――いや、多分、その決断を突きつけた後も―――やっぱり1人を選べなかった母。窪塚と結婚しても、それは窪塚を選んだからではないだろう。父との結婚が、父を選んだことにはならなかったのと同様に。
 窪塚は、死の間際、どんなことを思っていただろう?
 離婚したとはいえ、愛した女と結婚し、その女そっくりの海晴に家を継がせることができて、満足だっただろうか。
 それとも―――自分の人生は何だったのだろう、と、虚しさを覚えていただろうか。

 ―――やっぱり、最後に1度だけ、目を開けて欲しかったかもしれないな。
 窪塚が何を思っていたか、聞いてみたかった。聞いて、どうなる訳でもないが―――なんとなく、聞いてみたかった、と瑞樹は思った。

***

 再び泣きだしてしまった海晴が、やっと落ち着きを取り戻した頃。
 「海晴」
 よく響く低い声が、少し離れた所から海晴を呼んだ。
 顔を上げると、どこかで見たような男がこちらに歩み寄るところだった。どこかで見た―――そう、海晴から届いた、結婚報告の葉書に印刷されていた写真で、だ。
 ほとんど黒に近い色合いのスーツに身を包んだ彼が、海晴の夫であり、晃の父親だ。実際に会うのは初めてなので、反射的に、瑞樹は席を立った。
 「あ…、誠司さん」
 少し赤い目をした海晴が、彼に向かって微かな笑みを返す。
 「話、終わったの?」
 「ああ、一応ね」
 座っている海晴の肩に手を置いた彼は、改めて瑞樹の方に向き直り、数秒、じっと瑞樹の顔を見つめた。そして、瑞樹とほぼ同じ位の大きさの手を差し出した。
 「はじめまして―――窪塚誠司です」
 「成田瑞樹です」
 差し出した手を握る。肉厚な、がっしりした手だった。体格もしっかりしていて、いかにも傘下に数社を抱える企業の重役といった感じだ。確か瑞樹より1つ年上なだけと聞いているが、顔立ちは若いながらも、もっと年上の風格がある。
 「お兄さんには、もっと早くご挨拶したかったんですが、なかなか機会がなくて、こんなに時間が経ってからになってしまいました。申し訳ない」
 「いや―――挨拶をしなかったのは、こちらも同じですから」
 年上から“兄”と言われるのも、どうにも奇妙な感じだ。瑞樹は、曖昧な笑みを誠司に返した。
 「お兄さんとは、十分話せた?」
 握手を解くと同時に誠司が訊ねると、海晴は少し首を傾げるような仕草をした。
 「十分かどうか…。ね、お兄ちゃん、まだまだ時間あるでしょ? 窪塚のお父さんのことは別として、誠司さんも一緒に、ゆっくり話したいの。晃の顔も見せたいし…。いい?」
 もとより、そのつもりでいた瑞樹は、すっかり子供の頃に戻ったような海晴の口調に苦笑しながら頷いてみせた。一方の誠司は、そんな海晴を、少し目を丸くして見下ろしていたが、すぐに普通の表情に戻って、海晴の肩を軽く叩いた。
 「海晴。晃がちょっとぐずってて、蓉子さん達がてこずってるんだ。ちょっと、行って宥めてあげた方がいいと思うよ」
 「えっ、そうなの? じゃあ…」
 慌てて席を立った海晴は、初対面の兄と夫を2人きり残すことに、ちょっと躊躇いがあったのだろう。困ったような顔で、2人の顔を見比べた。
 「ええと…、2人で、お話しててもらっても、いい? 宥めついでに、晃を連れてくるから」
 「僕は構わないよ」
 即答する誠司と一緒に、瑞樹も「行ってこい」という笑みを返した。それにホッと安堵した笑みを見せた海晴は、バッグを掴み、早足でエレベーターホールへと歩き去った。

 立ち去る海晴の背中を見送った誠司は、その姿が壁の向こうに消えると、海晴が座っていた席に腰を下ろした。そして、ホテルの従業員を呼んで、アイスコーヒーを注文した。
 「…なんていうか…お兄さんには、初めて会った気がしませんね」
 注文を終え、ほっと一息ついた様子の誠司が、瑞樹の顔を改めて見て、そんなことを言った。
 「付き合っている頃から、海晴にさんざんノロケ話を聞かされ続けてましたから」
 「…ノロケ話…」
 一体あいつ、どんな話をしたんだ? と瑞樹が眉をひそめると、誠司は付け加えるように、
 「あ、いや、勿論、子供の頃の話です。面倒見のいいお兄さんだった、と、同じエピソードを何回も聞かされたんで」
 「―――…」
 同じ話を何度も嬉しそうに話すのも、海晴の幼い頃からの癖だ。さっぱり成長してねーな、と、瑞樹は苦笑いを噛み殺した。
 「それに、顔がお父さんとよく似ているから、余計初対面のような気がしないんでしょうね」
 続けて誠司が言った一言に、瑞樹は苦笑を引っ込めた。“お父さん”―――海晴と話していると、それがどっちを指すのか、一瞬判断に迷う時があるのだ。
 「“お父さん”ってのは、うちの父のことですか」
 「え? ああ、勿論そうです」
 「―――そうか。葬儀の時に、会ってるか…」
 父は、海晴達の結婚式には出席していない。窪塚の手前、前夫が出る訳にはいかなかったのだ。じゃあどこで会ったんだろう、と考えたが…そういえば、母の葬儀で顔を合わせている筈だ。
 瑞樹が呟いた言葉に、誠司は頷き、付け加えた。
 「それと―――実は、結婚を決めた時、社長や奥さんには内緒で、2人でお父さんに会いに行ったんです。それまで海晴も、手紙だけはやりとりがあったそうで、どうしても会わせたい、と強く希望したので」
 「…そうだったんですか」
 あまり詳しいことを父が言わなかったのは、瑞樹の気持ちを考えてのことなのだろう。親以上に海晴を大事にしていた瑞樹を差し置いて、自分だけが会ったとは言い難かったのに違いない。
 それにしても―――変な感じだ。
 海晴の実父を“お父さん”と呼ぶのはいいとして…現在の戸籍上の父親を“社長”、その妻であり実の母親を“奥さん”と呼ぶとは。
 「その、“社長”とか“奥さん”てのは、いつもの呼び方ですか」
 思わず訊ねると、誠司はハッとした表情になり、困ったような笑い方をした。
 「すみません。つい、癖で」
 「いや、俺は、構いませんが」
 「…僕は元々、窪塚商事の社員でしたから―――海晴とも、極ありきたりな社内恋愛で知り合ったので、どうしても窪塚社長は“社長”、海晴のお母さんのことは“奥さん”と呼んでしまうんです。本来なら“お義父さん”、“お義母(かあ)さん”と呼ぶべきなんでしょうが…」
 それは―――無理からぬことだろう。海晴と結婚する、ということは、窪塚グループと結婚することなのだから。
 自分の知らない所での、妹の日常―――それが、このエピソードの中に垣間見えた気がする。
 でも、さっきの2人の仲睦まじい様子から、海晴の言った“大丈夫。私は1人じゃないもの”という言葉が、単なる気休めでないことがよく分かる。いい男を選んだんだな―――瑞樹は、責任感も実行力も抜きん出ているらしい目の前の男の様子に、心の中でほっと安堵した。
 「でも―――お兄さんに来ていただいて、本当に良かったです」
 運ばれてきたアイスコーヒーに手を伸ばしながら、誠司は、苦笑のようなものを浮かべつつ、そう言った。
 「僕は、海晴の夫であるのと同時に、窪塚グループを束ねる立場の人間ですから。奥…お義母さんが亡くなった時は、ずっと海晴を支えてやることができたんですが、今回はさすがに、家族より会社や社員を優先しなければならない場面を多くて…海晴は、辛かったと思います」
 「…それは、仕方ないと思いますが…」
 「ええ。海晴も、その点は理解してくれます。だから、何の心配もなく甘えられるお兄さんが来てくれて、本当に良かったと思ってるんです。あんな子供みたいな海晴の顔、久々に見ました」
 そう言うと、誠司は少し姿勢を正し、頭を下げた。
 「ありがとうございました―――本当に」
 「いや…、別に、頭下げられるようなことじゃないんで」
 生真面目なのか、それとも十分に海晴のフォローをしてやれない罪悪感のせいなのか、そう言ってもなかなか頭を上げない誠司に、さすがの瑞樹も困った。
 ―――頼むから、夫婦揃って周囲の注目集めるような真似するの、やめてくれよな。
 海晴が泣いた時同様、何事だろう、という目で従業員がチラチラこちらを見るのが気になり、瑞樹は心の中で愚痴った。

 やがて顔を上げた誠司は、少し肩の荷が下りたような様子で、アイスコーヒーを一気に半分ほどまで飲んだが。
 「…あ、そうだ。忘れるところでした」
 一息ついたところで、突然何かを思い出したらしい。そう言って、床に置いていたビジネスバッグを手にした。
 ビジネスバッグの存在には、誠司が現れた時から気づいていた。仕事でもないのに、と奇妙に思ったが、プライベートな時間の少ない立場なので、日頃からスーツにビジネスバッグが彼のスタイルなのかもしれない。
 「お兄さんがいらっしゃったら渡さなくてはいけない物があったんです。海晴が来ると、また話に夢中で忘れそうなんで、今のうちにお渡ししておきます」
 「俺に?」
 「ええ」
 中に詰まっている書類やら何やらを掻き分け、誠司が取り出したのは―――随分と分厚い本のようなもの2冊、だった。
 「これを、お兄さんに」
 「…これは…?」
 「奥さんの―――お義母さんの、日記だそうです」
 「―――…」

 思わず、息を呑んだ。

 テーブルの上に置かれた、2冊の日記。
 1冊は赤い布張りで、共布のベルトがついていて、鍵がついている。その鍵の曇り具合や、色あせてくたびれてしまった表紙の色から、こちらは相当古いものだと分かる。
 もう1冊は、ビニール張りの、比較的新しいもの―――金色の文字で“Diary”と入っている、市販のやつだ。こちらには、鍵がない。

 母が―――あの母が、日記をつけていたなんて、考えてもみなかった。
 そして、それを、こんな形で知ることになるなんて―――瑞樹に想像できるはずもなかった。

 「…なんで、俺に?」
 上手く、声が出てこなかった。瑞樹がなんとかそう訊ねると、誠司は記憶を辿るように、少し視線を浮かせながら説明し出した。
 「きっかけは、奥さんの離婚騒動なんです。離婚して長崎の家を出、神戸の病院に入る際、奥さんは当座の着替えや金目のもの以外、全部窪塚の家に置いていかれて、“要らないものがあれば処分していい、思い出になるものがあれば形見として自由に分けて欲しい”とおっしゃってました。ですから、海晴は奥さんが気に入っていたイヤリングを、社長は結婚以来のアルバムを受け継いで、僕は部外者なので、と辞退しました」
 「…窪塚、さん、は、アルバムだけを?」
 ぎこちなく“さん”をつけて、訊ねる。普通ならば、結婚指輪などを記念に取っておくのではないだろうか?
 すると誠司は、複雑な表情で、首を振った。
 「僕も不思議に思ったんですが…社長と奥さんは、結婚指輪は作らなかったそうです」
 「……」
 「こんなことなら作るべきだった、と残念そうにおっしゃってました。…まあ、そういうことで、各人思い出の品を受け取って、その場は終わったんですが―――奥様が亡くなった後、病室に残された荷物があって。それが、着替えと、現金の入った財布と、印鑑と通帳。それと、この日記2冊だったんです」
 誠司の視線が日記に向けられるのを追うように、瑞樹も視線を日記に向ける。明らかに年代が離れすぎている2冊―――印鑑や通帳同様に、母が死の直前まで手元から離さなかったものだ。
 「実は、処分して構わない、と言われた中にも、日記はいくつかあったんです。それは、社長が“読みたい”とおっしゃるのを、海晴が有無を言わせず処分してしまったので、もう今はありません。そのことを覚えていたので、余計…何故2冊だけ、と不思議だったんですが…1冊は、現在進行形でつけている最中の日記だと後で分かったので理解できましたけど、その赤い方は、いまだに何故奥さんが手元に置きたがったのか、その理由は分からないんです」
 「……」
 「社長は、海晴より先にこれを見つけて―――自分が手元に置きたい、と言って、海晴に知らせることなく持ち帰られました。で…その、新しい方は、鍵が無いので、開いてみたようです。社長の話では、日記…というより、何かを思った日に気まぐれに書いているものらしく、日付をチェックしてみたら、亡くなられる2年ほど前から息をひきとる数日前までのことが綴られていたそうです。社長は、最初の数ページだけ読んだ、とおっしゃってました。…酷く、憔悴されてました。多分、読みたくないようなことが書かれていたのでしょう」
 「…じゃあ、どちらも大半を読んでない、ってことですか」
 「ええ、多分」
 死ぬ2年ほど前から―――となれば、海晴が結婚した頃から死ぬまでのことが、あの紺色の日記に書かれていた、ということ。最初の数ページの頃は、まだ窪塚とは別れていなかった筈だ。それでショックを受けるということは…もしかしたら、離婚の理由でも書かれていたのかもしれない。
 「結局社長は、日記を2冊とも、僕に託されました。手元にあると、奥さんの秘密をもっと暴かずにはいられなくなる―――そうすれば、もっと傷つく。だからお前が預かっててくれ…と。で、最後に、本当についでのように付け加えたんです」
 「…何、て」
 「もし自分に何かあった時は、これを、お兄さんに渡してあげて欲しい―――と」
 「……」
 「多感な時期に、母親を奪う形になったことを、社長はずっと気にかけていたようです。この日記を読んで、生前の奥さんの面影だけでも伝えられたら…そう思った、と言ってました。できることなら自分の手で渡したいが、せめて奥さんの一回忌が終わってからにしたいから―――それまで預かってくれ、と言っていたのが、そのまま僕の手元に残されたんです」

 全てを言い終え、ほっと息をついた誠司は、再度、2冊の日記を手にとって、それを瑞樹に差し出した。
 「どうぞ、お兄さんが持っていって下さい―――もしかしたら奥さんも、生き別れることになったあなたに、これを託したかったのかもしれませんから」

***

 「―――…ああ…、うん、明日の始発で帰る。…いや、大丈夫。打ち合わせは午後からだから。そっちは? ……そう。大変だな。無茶すんなよ。……ああ。…じゃ、おやすみ」

 蕾夏への電話を終え、ベランダから部屋の中に戻った瑞樹は、台所に行って水を1杯、グラスに注いだ。
 「電話、終わったのか」
 瑞樹がグラスをあおっているところに、風呂上りの父がやってきて、同じようにグラスに水を注いだ。
 「ああ、終わった」
 「ふぅん…。順調に交際が進んでるようで、何より」
 「…余計なお世話」
 ―――ったく、帰るたびに、これだからな。
 息子の恋愛というシチュエーションが、面白くてしょうがないらしい。父は、事ある毎に、蕾夏との仲をからかってみせるのだ。自分にからかわれるネタがないからといって、安心しておちょくっているらしい。いずれ父に恋人でもできた暁には、絶対にこのお礼をしてやる―――と、瑞樹は密かに復讐を誓っているのだが。
 グラスをあおる父の横顔を、なんとなく眺める。自分にプラス20歳したような顔を見ていたら、ふいに、昼間の誠司との会話を思い出した。
 「…なあ、親父」
 「ん?」
 「親父って、あの女から、何か形見みたいなもん、貰った?」
 瑞樹の質問に、グラスを置いた父は、少し驚いたような顔をして、瑞樹の顔を凝視した。
 「…珍しいな、瑞樹がそんなことを訊くなんて。どうしたんだ?」
 「いや、別に。…窪塚が死んで、その形見分けの話を聞かされたから、なんとなく」
 「なるほど」
 納得したように笑った父は、グラスを水でゆすぎながら、何気ない調子で答えた。
 「―――倖からは、結婚指輪を貰った」
 「……え?」
 「倖が、神戸の病院に入院するために来た日―――付き添ったのは、俺だけだったらね。無事入院したのを見届けて、いざ帰る段になって、突然渡されたよ。“これを形見に取っておいて”って」
 「……」
 「意外か?」
 複雑な表情をしている瑞樹に、父は微かな笑顔で、そう言った。瑞樹は、何とも返せなかった。
 「…俺は、単純な人間だからな。それで、十分だって思った。窪塚さんが何を残してもらったのか知らないけど―――倖と2人で生活切り詰めて買った指輪だ。それが残れば、十分だよ」

 父と母の馴れ初めは、同じバイト先で働いていたことだと聞いた。
 当時、父は大学の2年生。母は父と同い年だが、英語の専門学校を卒業し、父のバイト先で既に正社員として働いていた。母は事務で、父も事務のバイトで入ったのだが、工学部という名前のイメージが災いしたのか、母が「それならコンピュータとかいうの、分かるでしょ?」と言ったせいで、電算室に回されてしまったのだという。これがきっかけで、父はコンピュータにのめりこみ、その道の職業に就くことになった。
 父が4年生になって間もない頃、母の妊娠が発覚した。急遽、学生結婚とあいなった2人は、当然極貧生活だ。瑞樹が生まれるのと父の卒研が重なって、それは凄まじい状態だったそうだ。

 物語が、そこで終わっていれば、一昔前のフォークソングの歌詞みたいな話だ。
 瑞樹が生まれ、父は外資系のコンピュータ会社に就職し―――若い夫婦と小さな子供、3人で、小さいながらも楽しい家庭を築きました。そんな締めくくりになれば、それは幸せな逸話となっただろう。
 でも、その先に待っていたのは―――ただの、悪夢だ。
 仕事でくたくたの体を引きずって、泣き叫んで抵抗する母を、カウンセラーの所へと連れて行く。それを何度も繰り返して―――繰り返すたびに、母は狡猾になっていく。途中から父が母の幼児虐待に気づけなくなったのは、母がそれをひた隠す術を身につけたからに過ぎない。
 そして、やっとその悪夢が終わったと思ったら―――窪塚という、新たな“秘密”が生まれた。それが、瑞樹の知る夫婦の姿だ。

 「…親父は、幸せだった? あの女と結婚して」
 感慨深げな父の表情に、思わず訊ねる。
 救いの手を、差し伸べて、差し伸べて―――そして最後は、裏切られて。それでも父は、幸せだったのだろうか? こんな顔ができるほどに?
 「―――当時幸せだった、っていうより、今、幸せを感じる…かな」
 父は、少し考えた末、そう言った。
 「当時も、それなりに幸せだった。倖と一緒にいることが、俺の幸せの基本だから。しかも、子供が生まれてからは、そこに“子供が元気でいること”が加わるからな」
 「…とりあえず、どっちも無駄な位に丈夫には育ったぜ」
 「ハハ…、そういう意味では、大満足だ。まあ、夫婦としては、破綻してしまったし、その時は恨めしい気持ちもあったけど―――いつも、倖も、苦しそうだったから」
 「……」
 「苦しそうなのを、助けることができないのが、一番苦しかったから―――最後に指輪を残してくれた瞬間が、一番、幸せだったな」
 「…なんで?」
 「俺だけじゃなかったんだ、って確認できたから」
 そう言って、父は、なんとも言えない笑みを浮かべた。
 「別れても、どこかで繋がってるって―――やっぱり俺達は運命で繋がり続けてる、そう漠然と感じてたのは、俺だけじゃなく倖もだったことが、分かったから」

***

 手にした針金を、サイドテーブルの上に投げ出したら、チャリン、という軽い音がした。
 骨の折れる作業が終わり、ため息をついた瑞樹は、客間のベッドの上に置いた2冊の日記を、複雑な思いで眺めた。
 紺色の表紙の方は、台所から拝借したビニール袋に丁寧に入れ、テープで封をした。母と窪塚のゴタゴタは、とりあえず読む気がしないし、あまり興味がない。気になるとすれば、母が何故墓の場所を神戸にしたのか、だが―――それは、ひとまず保留することにした。
 問題は、この赤い日記のほう。
 鍵は、苦労はしたものの、なんとか針金で開けられた。が、中身はまだ確認していない。
 書きかけの日記と違い、こちらは意図的に―――処分することも人に託すこともできずに、母の意志で手元に置いた日記だ。古さからいっても、相当な年数が経っている。そう…瑞樹達が子供の頃の日記であっても、おかしくない位に。


 『瑞樹は、何も悪くない。瑞樹が受けた傷は、やっぱり理不尽な傷で、瑞樹には何一つ落ち度なんてない―――その事実は、お母さんの話を聞く前も後も、変わらないから。…だから、何がなんでも伝えなきゃ、とは思わない』

 …読んで、どうなる?
 母が封じ込めた“何か”を、今更暴いて、どうしようというのだろう?
 抱え込んで、抱え込んで…父にすらそれを明かすことなく逝った、その秘密。それが、ここに書かれているという保証は、どこにもない。もし書かれていたところで、“瑞樹に非はない”と蕾夏が言うのであれば、それ以上の何が必要だというのだろう?

 虐待は、この際、どうでもいい。
 子供が生まれたばかりの大変な時に、それまで一緒にいる時間が比較的長かった父が、社会人となって勤めに出た。それで精神のバランスを崩して…そこから、もう歯止めが利かなくなった。そんな説明がつくのだし、父もそう考えているようだから。
 知りたいのは―――あの日のこと。
 何故母は、自分の命を奪おうとしたのか。母にそこまでさせたのは、一体なんだったのか。秘密を守るために、そこまでするような女だったのか―――それが、知りたいだけ。
 知りたくもない、とずっと言ってきたし、それは嘘じゃなかった。第一、母も窪塚も他界した今、それを知ったところで、どうなるものでもない。

 けれど―――…。


 唇をきつく引き結んだ瑞樹は、意を決して、赤い古びた日記を手に取った。
 パラパラとめくると、古い紙独特の埃っぽい匂いが広がり、思わず顔を顰めた。総ページ数は、一体どのくらいあるのだろう? B5サイズのそれは、手のひらにずっしりくるほど、重かった。
 中身を読まずにパラパラとさせた限りでは、途中、数ページずつ空白ページがあるようだった。多分、長期にわたって書かない時期が、何度かあったのだろう。計画性があるとは言い難い女だったので、それも当たり前のように思えた。
 が、日記の最後の方は、ちょっと異様だった。
 大体、全体の4分の3ほどまで来たところだろうか。何か書いてあるらしい黒っぽいページが数ページ続いた後―――そこから先は、延々、白紙ページが続いていた。
 もしかして、ここまで書いたところで、この日記に飽きて、新しい1冊を購入したのだろうか? そう思うほど、そこから先に続く白紙ページは長かった。
 だが―――最後の最後、おしまいから2枚目のページに、突如、また黒い文字が並んでいるのが、一瞬見えた。
 最後までめくり終えてしまった瑞樹は、慌ててその手を止め、めくってしまった紙を戻した。
 そして、その一番上に書いてある日付を見て―――心臓が、ドクン、と音をたてた。

 『7月16日(水)』

 「―――…」
 あの日、だった。
 瑞樹が8歳の、あの日―――車にはねられ、ぐったりする海晴の手を握りながら、必死に母に助けを求めた、あの日。自分達きょうだいが、母に見殺しにされ、挙句にその手で命を奪われかけた、あの日。7月16日…日付も、曜日も、はっきり覚えていた。
 何年、とは書いていないが…直感的に、それがあの日のことだと分かった。81年7月16日―――特別なことがあった日だからこそ、母は日記を綴ったに違いない。
 ごくり、と唾を飲み込んだ瑞樹は、視線をゆっくりと、下に移した。読みたいような、読みたくないような、複雑な気持ちで。

 

 『私は今日、罪を犯した。

  今までも、たくさんの罪を犯してきたけれど
  今日犯した罪は、もう一生、償うことができないと思う。

  まだ、手が震えてる。
  怖くて、書くことすらできない。なんであんなことをしたんだろう? なんで、私は、

  神様はどうして、私みたいな人間を作ったんだろう?
  私なんて、この世に生まれなければ、

  私がいなければ、瑞樹だって、

  死にたい。
  死にたい。
  死にたい。
  瑞樹と一緒に死んでしまえたら、どんなに良かっただろう。

  苦しい。
  もうだめかもしれない。
  でも、ダメ、もし話したら、もう一樹と一緒にいられなくなる。
  ここまで隠し通したのに、今更話したら、    ダメ、話せない。
  一樹と離れるのだけは、絶対にイヤ。お願い、瑞樹、許して。


  まだ てが ふるえてる。
  どうしよう あしたが くるのが こわい。
  なんであんなことができるの。わたしのこどもなのに。
  やっぱり、
  わたしは―――…』

 

 混乱した日記をそこまで読んだ瑞樹は、数行空いた下にある、次の行に目を移した。

 そして。

 その内容に―――世界が、一瞬にして、凍りついた。

 

 

 『神様。

  一度でも人の命を奪った人間は、平気でまた同じことをしてしまうのでしょうか?

  だから、私は、実の子をこの手にかけようとしてしまったんでしょうか?

  ごめんなさい
  ごめんなさい
  ごめんなさい
  ごめんなさい


  おかあさん―――私をゆるして  おねがい 』


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