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― 邂逅 -1- ―

 

 「―――…まぁた、そういう顔」
 「……え、」
 ハッ、と我に返った奏の額を、佐倉が容赦なく指で弾いた。
 「いてっ」
 「仕事中でしょうが。集中なさい」
 仕事中、と言っても、待ち時間だ。少しぐらいぼーっとしててもしょうがないだろ、と奏は佐倉を軽く睨んだ。

 ポスター撮影が終わって、既に5日。“Clump Clan”での仕事は、本格的に、6月のショーの準備へと入っていた。
 今日は、靴や衣装のフィッティングのために、スケジュールの合ったモデルが集まっている。体型にピッタリになるよう、イージーオーダーの形で衣装を作るので、その作業に入る前の型紙状態を、再度モデル本人に身につけてもらって、チェックをするのだ。既製品を着せられるショーもある中、随分と手間暇かけるブランドだ。
 奏も佐倉も、ショーの中心メンバーなので、一番最初にフィッティング作業が終わってしまった。
 だから、現在、2人揃って靴のフィッティングが始まるのを待っている状態である。暇だからこそぼーっとしていたというのに―――仕事に不真面目なような言われ方をして、奏は少し、憮然とした顔になった。

 しかし、そんな奏の顔を見ても、佐倉は呆れた表情のまま肩を竦めた。
 「そりゃ、待ち時間だけどね。そこまで意識飛ばしちゃうのはどうかと思うわよ?」
 「え?」
 「それ。氷、そろそろ全部融ける頃だと思うけど」
 「……」
 佐倉がそう言って目で指し示したのは、奏が手にしている紙コップだった。一緒に自販機で買ったアイスコーヒーを、佐倉は既に飲み干している一方、奏は買った時とほぼ同じ量で、氷だけがほとんど融けてしまっている状態―――氷が水になる時間位は、意識を飛ばしていた、ということだろう。
 バツが悪くなった奏は、面白がっているような佐倉の視線を避けつつ、薄まってしまったアイスコーヒーを飲んだ。当たり前だが、あまりおいしくない。
 「キミの意識は、どこに飛んで行っちゃってたんでしょーね? 単なる仕事疲れとも思えないけど?」
 「…単なる仕事疲れだよ。本業にプラスして、黒川さんの仕事先にせっせとついてって、しかも黒川さんの養成講座も受講してるんだから、疲れて当然だろ?」
 「でも、結局、全ての行動が黒川さんと一致してる訳だから、年齢の分、黒川さんの方がもっと疲れててしかるべきよねぇ? 元気そうじゃない、あの人」
 「……」
 いや、そもそも黒川と比較するのは、ちょっと無理がある。体力のある奏から見ても、彼のバイタリティは化け物レベルだから。でも―――佐倉の言うとおり。黒川の化け物加減を差し引いても、奏の注意力散漫は、仕事疲れでは片付けられないだろう。
 「なぁるほど、ねぇ。何やら理由(わけ)ありの様子じゃない? よければお姉さんが相談に乗ってあげよっか?」
 「…なんで佐倉さんに。第一、悩んでる訳じゃないのに“相談”なんて」
 「おや。悩み事じゃないわけ? あたしはてっきり、恋愛の悩みか将来の悩みだと思ったのに」
 はい、そのとおりです。
 …なんて言える筈もない。厳密に言うと少し違うが、突き詰めると結局は、今、奏が思いを馳せていたものは、その2つへと繋がることだったから。
 「ざーんねん。違いますー」
 「ふーん…。ま、いいけど。それより一宮君、今日ってこの後、予定ある?」
 「は? いや、ないけど」
 「じゃ、よければ、食事でも一緒にどう?」
 唐突な話に、思わず目を丸くする。そんな奏に、佐倉はニッと笑い、首を傾けるような仕草をした。
 「終わる頃にはディナー・タイムでしょ。どうやらキミは悩みがある訳じゃないらしいけど、あたしはちょっと、キミに相談事があるのよね」
 「佐倉さんが、オレに?」
 初対面の時を合わせてもまだ3回ほどしか会っていないのに、相談事とは不思議な話だ。
 でも、不思議な話だから、逆に興味が湧く。ひとまず誘いを受けようかな、と奏が思いかけた時。
 「一宮さん!」
 急に、第三者の声が割って入り、奏も佐倉も、声のする方に視線をやった。
 声の主は、先日終わったポスター撮りの際にも同席していた、広告代理店の担当者だった。モデルにとっては大事な客だ。2人揃って彼に向き直り、どうも、と頭を下げると、ニコニコ顔でこちらに歩いてきた担当者も、軽く頭を下げた。
 「良かった、まだフィッティングが終わってなかったんですね。帰ってしまう前に捕まえたかったから、焦っちゃいましたよ」
 「はい? あの、オレに会うために、わざわざここまで?」
 「ええ。あの―――よろしかったら、フィッティングが終わったら、軽く食事でもしながらお話がしたいんですが」
 「……」
 ―――なんか知らないけど、やたらモテるな、今日は。
 当然、仕事相手を優先しなければいけないのだが、佐倉の相談事もちょっと気になる。困ったようにチラリと佐倉の方を見る奏に、佐倉は苦笑を返し、その肩をぽん、と叩いた。
 「じゃあ、あたしは明日にさせてもらうわ。遠慮せず、ビジネスディナーしてらっしゃいな」
 「えっ…。ありゃりゃ、もしかしてお二人さん、デートの約束でもしてましたか? まずかったなぁ」
 慌てる担当者に、佐倉は豪快に笑ってかぶりを振った。
 「やーねぇ。デートならもっと、相手を選ぶわよ。あははははは」
 ―――どういう意味だよ。
 その言葉に、奏はムッとしたように眉を上げ、担当者は引き攣った笑顔で固まった。

***

 「え、ポートフォリオを、ですか?」
 食べ慣れない刺身をつついていた奏は、担当者の言葉をかなり意外に思い、つい聞き直してしまった。
 社交辞令かと思ったら、そうではなかったらしい。担当者の顔は、笑顔ではあるが、しっかりと広告マンの顔になっているから。
 「ええ。できれば、1冊、預からせて欲しいんです。“Clump Clan”の仕事では、一宮さんの起用も成田さんの起用も、あちら側から指定されてきたものなので、こちらは一宮さんのポートフォリオをいただいてないんです」
 ポートフォリオ―――いわゆる写真見本帳は、広告代理店などに配っておいて、起用モデルの選考の際に使ってもらうものだ。確かに今回は、“Clump Clan”側には社内企画会議に諮ってもらうためポートフォリオを渡したが、代理店には渡していない。
 「渡すのは構わないですけど…なんで、今更?」
 もう仕事の半分は終わったし、もう半分も現在順調に進行中だ。ポートフォリオなど、今更出番はない。担当者の真意が分からず、奏は疑問をそのままぶつけた。
 すると担当者は、ハハハ、と笑って頭を掻いた。
 「いや、まあ、今回の仕事に関して言えば“今更”なんですが―――僕が一宮さんの写真をいただいておきたい理由は、今回のことに関してではなく、今後のことに関してですよ」
 「今後?」
 「さっき聞いたお話じゃ、黒川先生のもとで修行もされてるようですから、“Clump Clan”が終わるまでは手一杯の状態だろうと思いますが…終わったら、一宮さんにぴったりな案件があれば、是非選考対象にさせていただきたいんですよ」
 「……えっ」
 「拝見しましたよ。この前、成田さんが撮影した写真。いやー、3人だけで撮らせて欲しい、って言われた時には、正直、相当面食らったんですけどね。クライアントさんも驚いてましたよ。他の写真と随分違うんで。一宮さんのクールそうな外見にこだわり過ぎてたんですね、我々は。さすがに、一度コンビを組んだ経験があるだけのことはありますねぇ。クライアントさんも、どうやら、自由に撮ってもらった方の写真も、メインの1枚として大々的に露出させるよう、方針転換したらしいですよ」
 「―――…」
 動揺を隠したくても、やはり上手くいかない。奏の瞳は、落ち着きを失いつつあった。
 何故なら、さっき、仕事中にぼんやりと思いを馳せていたのは、まさにそのこと―――瑞樹が撮った、自分の写真のことだから。

 写真を見せられて、再認識した。
 瑞樹が引き出す“一宮 奏”は、なんて正直で、真っ直ぐで、無防備なんだろう―――まるで人形のように、365日変わらない微笑を湛えていたあの頃の奏と同一人物とは、到底思えない。2人がいなくなった後も、それなりに自分を表に出してカメラの前に立ってきたつもりではいたが、同じ笑顔でも、根底の部分で全く違っているように思える。
 奏の感情に、瑞樹の視線がシンクロする―――あの瞬間の、たまらない充実感。それがもう一度感じたくて、欲しくて、ここまで来た。
 そして、望みどおりそれを実感できた今、襲い来るものは、またしても“もう一度”という想い。あの瞬間が、もう一度欲しい。3人で、同じ舞台の上、対等な立場で立っていられる、あの瞬間が。

 「本当は、既に、是非一宮さんにお願いしたい案件があったりするんですけどね。“Clump Clan”と同じく、ファッションブランドからの案件なので、ちょっと今お願いするのはタイミングが…」
 「…はあ…」
 「ですが、今回のことで一宮さんのことを知ったクライアントが手を挙げる可能性は、十分あると思ってるんです。僕1人が納得しててもしょうがないので、一応、資料をいただいておいて、ですね」
 「あの、ちょっと待って下さい」
 1人でどんどん説明を進めてしまう担当者に、奏はなんとか口を挟んだ。
 「ありがたい話なんですけど―――それに、ポートフォリオを渡すこと自体は、全く問題ないんですが―――その、渡しても無駄になると思うんで」
 「え?」
 「…オレは、今は仕事で日本に来てますが、本来はロンドンを拠点に活動してるんで」
 少し言い難そうに奏が言うと、担当者の眉が、少しがっかりしたように下がった。
 「じゃあ、今回の仕事が終わったら、帰国しちゃうんですか」
 「その予定で来てます」
 「そうかぁ…。無理もないですよね。海外で活躍してるのに、わざわざ日本に拠点を移す理由もないでしょうから。でも、惜しいなぁ。今回のポスター、絶対に当たると思うのに」
 「……」

 これまでも、海外のショーに参加するため、1週間ほど海外に滞在、なんてことはざらにあった。さるデザイナーの専属として半年契約した時は、途中何度もロンドンに戻りはしたが半年間の大半を海外で過ごした。でも、いずれの場合も、仕事が終わればイギリスに帰った。当たり前だ。奏はイギリス人で、イギリスに住んでいるのだから。
 だから今回も、これが終わったら帰ると決めていた、というより、何も考えていなかった。仕事が終われば帰るのが当たり前―――考える必要すらない。
 …なのに。
 広告代理店の担当者が示した、1つの可能性。それが、言い出した当の本人が諦めてもなお奏の頭から離れないのは、何故だろう?
 これを機に、日本に活動拠点を移す―――そうか、そういう選択肢もあるのか、と目が覚めたような気がするのは、一体何故なのだろう…。
 いや…、本当は分かっている。今まで思いつかなかったその選択肢に、何故自分がこうも魅力を感じているのか―――その、理由は。

 甘美すぎる、選択肢だ。
 けれど、その一方で―――絶望的に残酷な、選択肢でもある。

 「…あの、」
 完全に望みを断つだけの潔さは、今の奏にはなかった。ため息をついてビールをあおる担当者に、奏は結局、こんな曖昧な言葉を付け加えていた。
 「ポートフォリオだけは、渡しておきます。是非オレを、と言ってくれるクライアントがいれば―――ロンドンに戻っても、日本にいても、できるだけ、請けたいですから」


 代理店の担当者と別れた後、瑞樹が奏の立場ならどうするのかが気になり、思わず携帯に電話した。
 が、仕事中なのか―――留守番電話センターの事務的な声が返ってくるばかりだった。
 残念に思い、そして…少し、ホッとした。

***

 「―――なあ。ちょっと、訊いていい?」
 CDショップで新譜を漁りながら、奏は、ちょっと躊躇った後、そう切り出した。
 ブリティッシュ・ロックのコーナーで、ちょうど気になる1枚を抜き出したところだった隣の男は、奏の方に顔を向け、僅かに眉をひそめた。
 「いいけど? 何?」
 そう言返したこの男は、今日で会うのは3回目の、ヒロである。

 初対面の時、音楽の趣味が合うらしい、とお互い気づいた2人だったが、ヒロはショーのプロデュースをする側、奏はショーに出演する側―――ショー直前にでもならないと、また会う機会はないだろうな、と奏は思っていた。
 が、再会は、思いがけない形で、先週訪れた。
 ポスター撮影を週末に控えた、先週火曜日。奏は、黒川のプロ養成講座を初めて受講するためにとあるビルを訪れたのだが、その途中で、突如、ヒロに呼び止められたのだ。
 なんでこんな所で、とお互い驚いたのだが、謎はすぐ解けた。ヒロの会社が、黒川が講座を開いているビルの、隣の隣に建つビルに入っているのだ。
 その時は時間もなかったので、当たり障りのない会話をほんの少し交わした後、じゃ今度昼飯でも食おうぜ、ということになった。で…今日がその、約束の日。近所のファーストフード店で軽く昼食をとった後、CDショップで洋楽などのCDを漁っている訳だ。

 昼食の間中、奏もヒロも、プライベートなことはほとんど話さなかった。
 話したことといえば、音楽のこと―――学生時代に何を聴いた、とか、誰の影響でロックを聴くようになったか、とか。せっかく“奏”という名前なんだから、と、昔は楽器のひとつもやってみたいとチャレンジしたこともある、と言う奏に対し、自分はドラムやギターならそこそこ経験している、なんてことをヒロが答えたりもした。
 それと、仕事のこと。ヒロからすると、モデルという仕事はまるっきり理解の外にある仕事らしく、結構儲かるのか、とか、女のモデルみたいにエステに通ったりするもんなのか、とか、色々興味深そうに訊いてきた。奏も、自分が将来裏方の仕事を目指していることもあり、イベントやショーの裏話は、どんな内容でも聞いていて面白かった。
 なんとなく、気の合う奴―――それが、ヒロに対する奏の、奏に対するヒロの印象。
 だから、ちょっと、訊いてみたくなった。

 「ヒロがこれまでに惚れた女でさ。いまだに忘れられない女って、いる?」
 「…はぁ?」
 突拍子もない質問に、ヒロは、少々調子の外れたような声を上げた。…まあ、無理もないだろう。そんな声を上げたくなるほど、何故そんなことを訊くんだ、という質問だろうから。
 それでもヒロは、難しい顔で天井を仰ぐと、一応、これまでにそんな相手がいたかどうかを考えてくれたらしい。
 「俺は、そこまで女に執着しないからなぁ…。第一、1人の女に縛られて生きるのは、なんか面倒だし。今まで、遊びで付き合った女はいるけど、いわゆる“彼女”だって断言できる関係だった奴もいないし」
 「…なんか、去年までのオレ見てるみたいだな」
 その時気が合った女と、その時を最大限楽しめればそれでいい。顔が好みで、できることなら体も好みであれば、心なんて別段伴う必要もない―――そんなセリフを吐いたのは、たった1年前だ。蕾夏に向かって、わけ知り顔で随分とえげつない事を言った自分を思い出し、奏は思わず苦笑した。
 すると、その笑いの意味を理解したらしいヒロは、軽く眉を上げ、納得したように頷いた。
 「なんだよ。要するに、お前にそういう“忘れられない女”がいる、ってことか」
 「…まあ、そんなとこ。っていっても、付き合ってた彼女じゃなく、その―――こっちの片想いな上に、向こうには恋人、いるんだけど…」
 「はーん…横恋慕、ってやつか。面倒な…。もしかして告白しようか迷ってるとか、そういう話?」
 「…いや。もう伝えて、玉砕してる」
 しかも、考え得る限り、最低最悪の方法で。
 心の中で付け加えた言葉に、奏は知らず、自嘲の笑みで口元を歪めてしまった。
 「なんだ、玉砕済みかよ。なら、終わりだろ? さっさと次に行けば?」
 「…終わらないから、困ってる」
 「は?」
 「望みはゼロだって分かってるのに…終わらないんだよな。会いたくてたまらなくなったら、飛んでって会うことができる、そういう距離にいたい―――そう思うオレって、変かな」
 「……」
 奏の言葉に、ヒロは、驚いたような、ちょっと呆れたような、複雑な顔をしていた。が、やがて、その表情を緩めると、ほんの僅かにだが、微笑んだ。
 「真っ直ぐな奴なんだな、奏は」
 「……えっ」
 「羨ましいよ。俺は、とてもじゃないけど、そんな心境になれない。惚れた女が、他の男と幸せそうにしてる姿なんて、想像するだけで虫唾が走る。女の噂も聞こえなきゃ影も形も見えない、地球の裏側にでも行くね」
 「……」
 確かに―――そういうものかもしれない。
 事実、奏だって、瑞樹と蕾夏の仲の良さを、平静な気持ちで見ている訳ではないのだ。見せつけられるたび、再認識させられるたび―――心臓は引き絞られ、ギリギリ痛みを訴えている。こんなものを見る位なら、ロンドンで鬱々と暮らしていた方が良かったかもしれない…そう、思うほどに。
 でも。
 「…オレの場合、相手の男も、彼女と変わらない位、好きだからな」

 むしろ、仕事のことに焦点を絞るならば―――瑞樹がいるからこそ、迷うのだ。

 もし、日本に活動拠点を移したならば…もしかしたら、また何かの現場で、あの2人と一緒に仕事ができるかもしれない。そんな夢を、つい、見てしまうのだ。

***

 その日の夜。
 前日の約束どおりディナーを共にした佐倉は、あの広告代理店の担当者が何の用だったのかを、しきりに訊いてきた。そして、奏がそのあらましを説明すると、ますます興味津々の様子になった。
 「あそこは、日本じゃ5本の指に入る大手代理店よ。無茶な仕事の進め方もしないし」
 「…と、オレも思う。今回の仕事の進め方見てると、随分ゆとり取ってるよなー、と思うし。向こう(イギリス)のクライアントでも、ここまでじっくり仕事させてくれるとこ、少ないと思う」
 「いいところに認めてもらえて、良かったじゃないの」
 「…なあ。佐倉さんなら、どうする? 参考までに聞かせてよ」
 「どうする、って?」
 「日本か、イギリスか、って話」
 奏の言葉に、佐倉はカクテルグラスを手に取りながら、いまいちよく分からない、という顔をして首を傾げた。確かに、奏が置かれた立場を知らなければ、よく分からなくて当然だ。
 「あのさ。オレ、向こうじゃそこそこ顔の知れたモデルではあるけど―――フリーになってから、あんまり、仕事が取れないんだ」
 「あらら…、そうなの?」
 「契約してたモデル事務所、喧嘩別れに近い状態で契約をこっちから切ったから。結構な大手だったし、育ててやった恩も忘れて、とか思ってるらしい。オレが売り込みかけたとこの仕事、悉く、そこに潰されてる。多分…オレのことも潰す気なんだと、オレも周りも思ってる」
 「…うーん、それは、まずったわねぇ」
 佐倉はそう言って、綺麗な形の眉をひそめた。この業界が長い佐倉だから、モデル事務所と揉め事を起こしたモデルの末路も、大体想像がついているのだろう。
 「一宮君、モデル1本で、タレント業みたいなものは一切しなかった、って言ってたじゃない? そっちの分野にも手を出して、圧倒的知名度を手に入れてれば別なんだろうけど…ショーモデルを中心に活動してるモデルなんて、切ろうと思えば簡単だものね。そうやって消えてった先輩も実際いたし」
 「いくら仕事を続けたいからって、今もモデル以外の活動は考えてないよ」
 「分かってる。あたしもそうだったから。幾多の誘いを断り続けて、最後までモデル業1本で通したのが、あたしの誇りだもの」
 ニッと笑う佐倉に、奏も一瞬だけ、口の端を上げた。
 「とにかく―――そういう事情もあって、今回の仕事、受けたんだ。勿論、これ終わったら、また向こうに戻るつもりでいたけど…事態は、あんまり変わらないと思う。あと2年位で、モデル引退して、メイクかスタイリストの仕事に移行する気ではいるけど…2年間、思うように仕事ができない状態が続くと思うと、さすがにちょっと、辛いもんがあるんだ」
 「でしょうねぇ…」
 「…日本なら、まだ十分、続けられるのかもしれない」
 テーブルの上で組んだ手を、無意識のうちに、組みなおす。落ち着かない―――心が乱れている証拠だ。
 「“Clump Clan”の仕事は、インパクトのある大きな仕事だと思う。オレ自身の、いい宣伝にもなる。これをきっかけに、仕事が舞い込む可能性はあると思うんだ。実際、代理店がさっそく声かけてきたし…ここには、邪魔するエージェントもいないし」
 「そうねぇ…。一宮君みたいなタイプのモデル、あんまりいないしね」
 うんうん、と頷いた佐倉は、続いて、当然のようにこう提案した。
 「だったら、日本に移り住んじゃえば? モデルの仕事続ける間だけでも」
 「……っ」
 びくん、と心臓が跳ねる。
 奏の瞳が、ぐらりと揺れた。甘美すぎる提案―――けれど、残酷すぎる提案だ。
 「日本の代理店がいくら一宮君を気に入ってても、旅費かけて呼ぶほどプッシュしてくれるかどうかは、微妙なんじゃない? ロンドンにいてもいい事ないんなら、いっそ2年に限定して、日本に来りゃいいのに。キミなら、言葉の壁もないし、子供の頃には日本にいたんだから、文化的に戸惑うことも少ないでしょうが」
 「……」
 奏にだって、分かっている。それが、モデルとしての残りの時間を有意義に過ごすためには、外すことのできない選択肢であることは。
 なのに、複雑な表情のまま返す言葉もなく俯いてしまう奏を見て、佐倉は訝しげに眉を上げた。
 奏の額や頬にかかる、金色に近いブラウンの髪を、暫しじっと見つめ続けた佐倉は、やがて表情を綻ばせ、奏の頭を軽く小突いた。
 「そんな、追い詰められた顔、しなさんな」
 「…別に…」
 「日本に、いたい?」
 佐倉の言葉に促されるように目を上げた奏は、目だけで、はっきりと頷いた。
 「でも―――日本にいるのが、辛い?」
 「……」
 「質問の仕方を変えるなら―――成田たちの傍にいるのが、辛い?」
 「―――なんで…」
 「別に、不思議がることじゃないでしょ。男が、女の名前が出て動揺するのは、その女との間に何かあった時―――キミも、藤井さんの名前が出て、凄く動揺した顔してた。あたしが成田の知り合いだってこと聞いた時もね。…藤井さんが、好きなんでしょ。ついでに、成田のことも」
 「―――…」
 「分かるわよ」
 同情したような目になった佐倉は、奏の髪を、くしゃくしゃと撫でた。
 「痛いほど、分かるわよ―――あたしも、よく似た境遇だから」
 「えっ」
 目を丸くする奏に、佐倉は、どこか寂しげな苦笑を口元に浮かべた。
 「あたしも、同じ。絶対に手に入らない奴に、もう4年近く片想い―――なのに、その気持ちを押し隠して、彼とその彼女の傍にい続けてるの。彼だけじゃなく、彼女のことも、凄く凄く愛してるから」
 「…佐倉さんが?」
 「意外?」
 「…ちょっと」
 「あはは、自分でもちょっと、意外。もう恋なんてまっぴら、男なんていらない―――そう思って生きてきたのに、今更、なんてね」
 そう呟く佐倉の目には、見覚えがあった。
 いや、見覚え、というのとは、ちょっと違う。実際に見たしたことはないが―――多分、奏自身も、こんな目をしてるのではないか、と思う。
 「…佐倉さんは、傍にいて、辛くないのかよ」
 「辛いと思う時も、たまにはあるわよ。でも、あの2人が、あたしを無視して全然違うところ行っちゃうよりはマシ…かな。どんな形でも、関わっていたいって思うから」
 「自分にチャンスがなくても?」
 「―――成田に、取って代わりたいって思ってるの?」
 佐倉の問いに、頷くことも、首を振ることもできなかった。
 そんなつもりは、これっぽっちもない。けれど、万が一、そうなれる可能性がどこかに転がっていたら―――自分は一体、どうするだろう? 蕾夏を抱きしめることができる立場になれる可能性が、ほんの僅かでもあったら…それに目を瞑って通り過ぎることは、到底できない気がする。
 「あたしは、自分が彼女の立場になりたいとか、そういうことは微塵も思ってないわよ?」
 「……」
 「彼も、彼女も、いろいろ辛い思いをいっぱいしてきた人だから…2人でいて幸せそうにしてるのが、あたしも、嬉しい。あの2人がお互いを必要としているのが分かるから―――あたしも純粋に、あの2人の幸せを祈る気分になれる」
 「…どうやれば、そういう境地になれるのかな」
 「自分の立ち位置を見つければ、そうなれるわよ」
 「立ち位置?」
 「あたしの場合、2人が、あたしを“頼りになる良き友人”として大事に思ってくれてるのが分かるから、平気なんだと思う。相談に乗ったり、ぐじぐじ悩んでる背中を叩いてみたり、他の人なら“大きなお世話”って言いそうな位、世話焼いてみたり―――そういうことしても、あの2人は、感謝はしても鬱陶しがらないの。この自分の立ち位置が心地よいから、それ以外の関係はあたしも望まない」

 自分の立ち位置―――心地よいと思える場所。
 撮影の時、一瞬、見つけた気がした。あの場では、罪悪感も断ちがたい想いも、全て忘れることができた。1つの仕事を完成させるために、お互いが必要としあっていたから。
 あんな瞬間が日常的になれば、きっと楽に生きられるだろう。でも…2人に対して拭いがたい罪を犯した自分が、仕事以外で彼らに必要とされる場面が、一体どれだけあるというのだろう?

 今更のように、後悔で胸が潰れそうになる。
 何故、あんなことをしてしまったのだろう―――あのことさえなければ、こんな風にがんじがらめになって生きることはなかっただろうに。

 「…なんだか、複雑そうだけど」
 再び視線を落としてしまう奏に、佐倉はくすっと笑い、奏の頬に手をかけて顔を上げさせた。そのはずみで、奏の目に浮かび始めていた涙が、1粒、こぼれ落ちた。
 「そうやって素直に涙が流せる男、あたしは嫌いじゃないわよ? 思わずヨシヨシしてやりたくなるから」
 「…ガキ扱いするなよな」
 「バカねぇ。ガキじゃないのに泣くことができるからこそ、魅力的なんじゃないの」
 「…そういうもん?」
 「そういうもんよ」

 ただし、そういう奴を恋人にするほど、酔狂じゃないけどね。
 とサラリと付け加えた佐倉に、奏は、泣き笑いのような笑いを返すしかなかった。

***

 柄にもなく、正体を失くすほど、酔っ払ったと思う。
 佐倉が言っていた“相談事”とは、結局何だったのか―――それを思い起こす余裕もないほどに。
 酔い乗じて、かなり際どい部分も話してしまったような気がする。…といっても、自分が蕾夏にしたことなど、たとえ酔っていても告白できる訳がないが。
 多分…佐倉の持つ雰囲気が実の母に近いことと、話を聞く態度がどこか育ての母とも通じているように感じたせいだろう。早い話、奏にとって、佐倉は甘えやすかったのだ。
 酔い醒ましのつもりで連れて行かれた佐倉の部屋でも、その甘えやすさに、酔いを醒ますどころか、もっと酔っ払ってしまった。

 「失恋したら、即、次にいける奴が羨ましいよなー。オレは全然ダメ。手に届く範囲にいたら、またとんでもない真似しそうで怖い。なんかなー、腹立つよなー、自分で自分に。こんなに煩悩多くて、お前、まともに生きていけんの? って時々自分を殴り倒したくなるよ」
 「いいのいいの。若いんだから、思う存分葛藤なさい。あたしですら、まだ悟りきってない部分がいっぱいあるんだから、5つも若いキミが悟りを開いたりしたら、あたしが困るわよ」
 「あーあ…なんであんなこと、しちまったんだろー…」
 「何だか知らないけど、若気の至りでしょうよ」
 「なんだよ。全部若さのせい? ちくしょー、早く歳とりたい」
 「はいはい。50位になりゃ、煩悩も半分位に減ってるでしょうよ、きっと」
 「ゼロになりたい」
 「あはは…無理でしょ、その性格じゃ」
 「…帰りたくない」
 「ロンドンに?」
 「…違う。今住んでるとこ。帰っても1人だと思うと、帰りたくない」
 「……」
 感情のコントロールが、効かない。
 泣きたくないのに、涙が出てくる。無理してはしゃいだ後に、どうしようもなく落ち込む。アルコールの回った頭は、妙に熱くて溶けてしまいそうなのに、どこか一ヶ所だけが―――頭の芯の辺りだけが、場違いなほどに冷静で、醒めきっていた。
 「…寂しい…」
 「……」
 「こんなに欲しいのに…手も足も出ない。なんで他の女じゃダメなんだろ―――こんなに、寂しいのに…」
 「…それだけ、魅せられちゃったのよ。絶対手に入らない“天使”に」
 「……」
 「あたしも…そういう“天使”に魅せられた女だからね。寂しくて、泣きたくなる時も、やっぱりある。そういう時は、思う存分泣けばいいじゃない」
 髪を撫でる手が、優しかった。
 たとえ一時でも、全てを委ねてしまいたいほどに―――優しかった。
 「少し位、自分を許してやってもいいんじゃない?」

 その言葉は―――まるで魔法の呪文みたいに、疼く胸の痛みを癒してくれた。

***

 微かな煙草の香りで、目が覚めた。
 自分の煙草とは違う、辛味のある香り―――メンソール系だな、と頭の片隅で思いながら、奏は重い瞼を上げた。
 「おや。起こしちゃった?」
 「……」
 視線の先には、キャミソールにイージーパンツという脱力しきった格好をした、佐倉がいた。化粧っけのないその顔は、あれだけ飲んだ筈なのに、少しもそれを引きずっていない。どうやら、かなり酒には強い口らしい。
 「…今、何時…?」
 「明け方の5時、ってとこかな。始発も動き出す頃だから、そろそろ起きた方がいいんじゃないの」
 「…うー…」
 頭が、ぼんやりする。
 幸い二日酔いにはなっていないようだが、やっぱり胃がムカムカする。
 「…帰りたくねー…。ここ、居心地いいから、住まわせてもらおっかなー…」
 冗談で奏がそんなことを言うと、ベッドに腰を下ろした佐倉は、そっけない口調で答えた。
 「居つく気なら、掃除洗濯、徹底的にやらせるわよ」
 「―――鬼」
 「なんとでも。言ったでしょ? 天使に恋してる男を飼うほど、あたしは酔狂じゃないって」
 “飼う”―――まさに、佐倉にかかると、そんな感じだ。

 酔ってはいたけれど、昨日の夜のことは、ほぼ全部覚えている。
 別に、佐倉に特別な感情があった訳じゃないし、それは佐倉も同じ。2人して、目の前にいる相手じゃない奴に、心をまるごと奪われているから。かといって、欲求不満だった訳でもないし、酒に酔って理性の箍が外れてしまった訳でもない。
 寂しいから、誰かに抱きしめられたかっただけ―――こうして抱き合いたい相手はいるけれど、そうすることができない寂しさに、つい人肌の温かさに逃げてしまっただけだ。
 何故、恋愛感情もなく抱き合うのか…かつて、その理由を奏に説いたのは、カレンだった。あれから1年経つが、まるで進歩の無い自分に、思わず自嘲の笑みが漏れた。

 「…あんたってさ。いつも、こんなことしてる訳?」
 ぐしゃっと髪を掻き混ぜながら、少し眉をひそめて佐倉を流し見る。男の影が微塵も存在しないこの部屋に、他の男が“飼われて”いる様子はないが、終始佐倉ペースだった昨日を思い出すと、気に入った男の1人や2人をここに出入りさせていてもおかしくない、と奏は思った。
 が、佐倉はその言葉に、ムッとしたように片眉を上げた。
 「あのねぇ。バカにしないでくれる? 少なくとも、恋愛の絡まない男と寝たのは、昨日が初めてなんだから」
 「…の割に、やたら平然としてない?」
 「それはキミもなんじゃない?」
 「…ごめん」
 自分の方は、正直言って、こういうのは慣れている。攻撃したつもりがあっさり反撃され、奏は居心地悪そうに首を竦めた。
 「昨日のことは、あたしもちょっと、精神的にキテる時だったから、気にしないで」
 「…キテたとは、知らなかった」
 「プライベートのいざこざを、仕事や友人関係に持ち込むほど、未熟じゃないつもりだから」
 「でも…」
 気を遣わせないように強がっているのだとしたら―――そう思って奏が眉をひそめると、佐倉は苦笑した。
 「こういうシチュエーションでもあたしが平然としていられるのは、これまでの恋愛のせいよ。男と付き合っても、1週間が限度。色恋沙汰より、仕事の方が好き―――男に縛られて生きるのはまっぴら御免なの。家政婦代わりをしてくれる可愛い子がいりゃ、喜んで飼っちゃうけどね。少なくともキミはそのタイプじゃないし、飼われる立場に安穏としてられるタイプでもない。…でしょ?」
 「…確かに」
 「甘えるのは、昨日みたいに、ギリギリになった時限りにしときなさい。あまり尻尾振って懐いてくれちゃうと、それ相応の扱いになっちゃうわよ?」
 「…遠慮しときマス」
 大人しく従う奏に、佐倉はふふふ、と笑い、その額をコツンと弾いた。
 ―――やっぱり、ちょっとサラに似てるよなぁ…この人の性格。
 瑞樹の言うとおり、手ごわい相手かもしれない。弱みを見せまくったのは失敗だったかな、と、心の隅でちょっとだけ後悔した。

 「…ねえ、一宮君」
 ふーっ、と煙を吐き出しながら、佐倉は、少し声のトーンを変えた。
 その声音が、それまでのじゃれあった悪友同士のようなものではなく、どことなくビジネスライクなきりっとしたものを含んでいるような気がして―――奏は、中途半端に起こしていた体をしっかり起こした。
 「何?」
 「昨日の話の続き。…っていうか、元々、あたしがキミに相談しようと思ってたことなんだけど」
 「うん…?」
 枕もとの灰皿で煙草をもみ消した佐倉は、きちんと奏に向き直り、真剣な表情で口を開いた。
 「もしもキミが、こっちで本格的にモデルとしてやってく気があるなら―――あたしの事務所と、契約しない?」
 「―――…えっ」
 思わぬ言葉に、奏の目が丸くなった。
 佐倉の事務所―――つまり、佐倉がモデルを引退し、間もなく開設するという、佐倉本人のモデル事務所だ。
 「あたしは、あたしの事務所を、金になるなら芸能人の真似ごとをさせるような事務所にするつもりはないの。モデル1本できっちり食べていけるモデルを育てるのが目標―――キミの場合、もう育てるってレベルにはないけれど、コネのないここでやっていくには、うちよりキミに向いてる事務所はないと思う。こっちも優秀なモデルは喉から手が出るほど欲しい―――あたし達、ギヴ・アンド・テイクでやっていける関係にあるのよ」
 「……」
 「残り、2年。キミが“こっちに来て良かった”って思える仕事、約束する」
 佐倉の目が、真剣みを増した。僅かに身を乗り出した佐倉は、しっかりと奏を見据えた。
 「もし、日本でやっていく決心がついたら―――あたしと、組ませて」


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