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「最終的に、2つに絞られた形になりましたよ」
編集長はそう言って、2冊の企画書をデスクの上にパサリと放り出した。
「1つは藤井さんが出した企画。もう1つは、外部ライターの企画―――週末に、ちょっと気合を入れて作る料理、といったコラムなので、社会部は“実用的でいい”とこっちを推してるんですよ」
「…そうですか」
とりあえずは、候補の片方として残ったことに、蕾夏はほっと安堵の息をついた。が、その表情は、安堵とは程遠い、不安に翳った表情のままだ。
瑞樹と蕾夏にとって、今回の企画は、ある意味「イチかバチかの勝負」のようなものだ。
セットで売れ、と時田は言ったが、セットで売って失敗した場合、セットでの仕事はほぼ絶望的になる。少なくとも、ここ“A-Life”では。特に、杉山のような批判的な立場の人間がいる以上、これだけ2人1組を印象付けてしまった今では、この企画が没になれば、蕾夏の記事への写真として瑞樹の名前は挙げ難いだろう。勿論、瑞樹と決めたとおり、今後もチャンスさえあれば何度だってチャレンジするつもりでいるが…後になればなるほど、やり難くなるのは間違いない。
実用的―――確かに、その部分は反論できない。女性誌だけに、料理の方がうけるかもしれない。一体どうやって、2つの企画から1つを選ぶのだろう―――蕾夏は、思わず唇を噛んだ。
「まあ、そう心配せずに」
不安そうな蕾夏の表情に、編集長は肘掛付きの椅子に腰を下ろしながら、困ったような苦笑を浮かべた。
「もう一方の企画を持ち込んだライターさんは、社会部の杉山君の知り合いなんですよ。だから余計、肩入れをしている部分もあるんだろうと思います。それに、料理コラムは比較的無難な企画ですし。安全策を取りたいタイプには、大当たりはしないだろうけど大ポカもしないだろう、ということで“とりあえず感”があるんでしょう」
「…はあ」
「もっとも僕自身は、安全策には、あまり興味がありませんけどね」
そう言った編集長は、珍しく強気にニヤリと笑った。
「週末に料理がしたいなら、その手のOL向きの本が大量に出回ってます。うちが扱ったところで、今更目新しくも何ともない。僕は、“A-Life”らしい個性のある記事を追求してますから、多少マニアックであっても、他が絶対やらない企画を優先したい方なんですよ。瀬谷君のコラムも、普通は女性誌では扱わない題材だからこそ賛成したんです」
瀬谷が始めた半ページコラムは、ニュースに登場する造語や新語を分かりやすく説明したコラムである。忙しさにかまけて新聞を読まない世代を狙った企画だと、瀬谷は言っていた。
確かに、ビジネス雑誌などには比較的ありがちだが、女性誌では珍しい企画かもしれない。瀬谷はベテランだから、誰も異論はなかったんだろうな、と漠然と考えていた蕾夏は、編集長なりの計算があって決定したのだと知り、ちょっと恥ずかしくなった。
「その点、藤井さんの企画も、僕は大いに興味があります。今時の若い女性の一体何割が、ふと立ち止まって日常を眺め返すことがあるんだろう、なんて思うとね―――そういう、心のゆとりのある生活が、いわゆる“A-Life”だと思いますから」
「―――ありがとうございます」
1人でも認めてくれる人がいたのなら、少しは救われる。社交辞令かもしれないが、蕾夏は素直に頭を下げた。
「とはいえ、編集長権限で決める訳にもいきませんし、“A-Life”らしい個性、なんて理屈で反対派が納得するとも思えません。特に、藤井さんの企画は、写真と文章で一対―――記事の形となって初めて、味わいなんかが分かるものですから、言葉や見本写真だけでは、魅力を伝えきれないかもしれません。そこで―――…」
言葉を一旦切った編集長は、少し身を乗り出すようにして、ここからが本題、という顔をした。
「いささか乱暴ではありますが、勝負に出ていただくことになりました」
「勝負?」
「1本、実際に記事を書いてもらって、社内のDTPで印刷したものを、関係者全員で検討する、ということです。勿論、写真付きの、紙面と同じレイアウトで」
「―――…」
「反対派が納得すれば、即、GOサインです。そのまま、新連載第1回の記事に回します」
そのまま、記事に―――…。
緊張に、前で組み合わせた手に、力が入る。でも、不快な緊張ではない。武者震いに近い震えを、体の奥底に感じる―――とうとう、趣味や自己満足のためじゃなく、誰かに伝えるために、記事を作ることができるのだから。
戦いの舞台にすら立たせてもらえないのが、一番悔しい。リングが用意された分、希望は持てる。案外自分は、好戦的な人間かもしれない――― 一気に落ち込んだ気持ちが持ち直すのを感じ、蕾夏は思わず苦笑した。
「どうです? やってみますか」
「はい。勿論、やります。お願いします」
「藤井さんなら、そう来ると思ってました」
にんまりと笑う編集長に合わせて、蕾夏もニッと笑ってみせた。
「それで、提出期限は、いつですか?」
「ちょうど1ヵ月後、来月の16日です。これから月末まで、本来の記事の納期で忙しいでしょうし、実際、掲載される号の納期はもっと先ですからね。今回は、検討のための時間が必要なので、ギリギリ待って1ヵ月後です」
1ヵ月後…通常業務以外の時間でやるならば、“余裕”とは言えない時間だ。
唇を、一度きつく引き結び、蕾夏は深々と頭を下げた。
「わかりました―――よろしくお願いします」
***
昼休み、屋上に出た蕾夏は、フェンスにもたれて空を見上げ、大きく息をついた。
見上げた先にある空は、ぬけるような透明な青だった。4月も半ば―――春真っ只中にありながら、その空は、初夏を思わせる色をしている。光の眩しさに目を細め、手のひらで陽射しを遮った。
―――瑞樹、今って休憩中かな。
陽射しを遮ったため、ちょうど目の前にかざされることとなった腕時計に目が行く。
一刻も早く、結果を瑞樹に知らせたいし、できれば今夜にでも会って今後のスケジュールを確認しておきたい。会えるかどうか電話してみようかな…と思いながらも、蕾夏は、少し不安げに眉根を寄せていた。
瑞樹が神戸に行ってから、今日でちょうど1週間。
表面上、瑞樹は、何も変わらない。けれど、蕾夏は、何ら語ろうとしない瑞樹の変化に、既に気づいていた。
この1週間、瑞樹は、休みをとらずに働いているのだ。1週間前は、そんな予定など入っていなかったのに。
昨日も、日曜だというのに午後から遠方の撮影に出かけ、東京に戻ったのは明け方だった。今朝、出勤前にあった電話での瑞樹の声は、疲労困憊といった感じだった。
突如仕事のオファーが増えた、という訳ではない。瑞樹自ら、普段なら絶対受けないような仕事を受けている…いや、取りに行っているのだ。つまりは、最近、断ったり向こうも遠慮することが多くなりつつあった仕事―――“I:M”の仕事だ。
時田に「遠慮なく断れ」と言われたこともあり、瑞樹も最近では3回に1回は断るようになった。それでも、蕾夏からすれば、この仕事って瑞樹にとってプラスなの? と疑問に思う部分の多い仕事だ。その思いは瑞樹も同じようなので、そのうち“3回に1回”が“2回に1回”になり、やがては縁が切れる日が来る仕事だろうな、と漠然と思っていた。
なのに―――この1週間の瑞樹は、まるで別人だ。
昨日の仕事だって、土曜の夜、いきなり飛び込んできた無茶な仕事だというのに、瑞樹は二つ返事で引き受けてしまった。その電話の様子を目の前で見ていた蕾夏は「そんな無茶な」と憤慨したが、瑞樹は嫌な顔ひとつしなかった。
瑞樹が最近おかしい理由は、想像がつく。
何か、あったのだ―――神戸で。
「…なんでだろ」
思わず、呟く。
瑞樹が話してくれるまで、待たなくてはならない。今までだって、そうしてきた。だから、話してくれないことに、苛立ちはするが不安は覚えない。だったら何故…こんなに、不安なのだろう?
…いや、違う。
本当は、分かっている。この不安の理由。
日頃なら、可能な限り蕾夏との時間を作ろうとする瑞樹が、2人の休みが重なった日曜日に、あんなごり押しの仕事をあっさり引き受けた。
平日、全く会えなかったのに、やっと会えた土曜の夜も終電で帰ってしまった。翌日の仕事が入ったとはいえ、午後からの仕事なら、普段なら翌朝の始発で帰るのに。
避けられている―――多分。その理由は、分からないけれど。
はぁっ、と大きなため息をついた蕾夏は、足元に視線を落とした。
「ダメだなぁ…」
こんなことで、いちいち動揺して、不安がって。
単なる気のせいかもしれないし、もし避けているのだとしても、それは神戸であったらしい“何か”を、蕾夏に問い詰められるのを懸念してかもしれないし。第一、まだ、たった1週間だ。いくらなんでもマイナス思考すぎると、自分でも思う。
―――やっぱり、電話してみようかな。
鬱々としている自分なんて、大嫌いだ。蕾夏は、薄手のジャケットのポケットに手を入れ、意を決したように携帯電話を取り出した。
***
「え、ライブ?」
事務所への階段を上がりながら、桜庭は、肩と耳で挟んだ携帯を、さらに耳に押し付けた。
『そう、ライブ。だから、今夜は夕飯食ってくから、サキの手料理は別の日にしてくれ』
「なによ、それぇ…。人がどんだけメニューに頭悩ませたと思ってんの?」
思わず、ムッとしてしまう。勿論、ヒロに頼まれた訳でも何でもないが、珍しく手の込んだものを振舞ってやりたい、と張り切っていたというのに。
そんな桜庭の憤慨などどこ吹く風で、携帯から聞こえるヒロの声は、いつになく楽しげだった。
『だから、最初に謝ったじゃん。仕方ないだろ。急にチケット2枚も貰っちまったんだからさ』
「2枚? 何、ヒロが1人で行く訳じゃないの?」
『ああ』
「…誰と行くのよ」
『今やってる仕事の関係者で、最近知り合った奴』
「…ふぅん」
あたしを誘う、っていう案は、微塵も思いつかないわけね―――と言いたかったが、ヒロに鬱陶しいと思われるのが嫌で、なんとか抑えた。その代わり、桜庭の眉間に、深い皺が刻まれた。
『じゃな。休憩終わるから、切るぞ』
「あ、ヒロっ」
そして、一方的に、電話は切れた。
―――あたしって、何なんだろ。
階段の中ほどで立ち止まり、すっかり大人しくなった携帯を見下ろし、ため息をひとつつく。
でも、ヒロを怒る権利など、自分にはないのだ。ヒロは桜庭の恋人ではないし、2人の間に恋愛感情はない。あるとしたら、それは“情”―――元家族としての、体の関係を持った男女としての、それぞれの“情”だ。
それでも…時々、思う。あたしは一体、あんたの何なの? と。
そして、そのままの言葉を、自分自身に問いかける――― 一体ヒロは、あたしの何なんだろう、と。
残り数段を、少々やけっぱち気味に上った桜庭は、憮然とした表情のまま、事務所のドアを開けた。
「おはようございまーす…」
既に時間は昼過ぎだが、そんな挨拶で桜庭が事務所に入ると、ちょうど席を立ったところらしい川上も、
「あ、おはよ、桜庭さん」
と返してきた。その顔は、何故かホッとしたような笑顔だ。
「ちょうど良かったわー。桜庭さん、ちょっと留守番しててもらってもいい?」
「え?」
「今日、朝一番で取材先を回ってきたものだから、お弁当を作ってきてないのよ。ぱぱっと外で食べてきちゃうから、その間、事務所お願いしたいの。成田さんもいるけど、ほら―――この状態だし」
そう言って川上が指差す方を見た桜庭は、ちょっと意外な光景に、少し目を丸くした。
事務所の隅っこの席に座った瑞樹は、椅子を極限まで引き、そこに脚を組んで座ったまま、壁に頭をくっつけて眠っていたのだ。
「…何しに来たの、こいつ」
「徹夜明けみたいよ。“I:M”の仕事で、日曜日だってのにロケ撮影だったんですって」
「へーえ…働き者」
「じゃあ、あと、お願いね」
ランチタイムに間に合わせたいのか、川上は慌しくそう言って、さっさと事務所を出て行った。バタン! と結構な音をたててドアが閉まったが、それでも壁際で居眠り中の男はピクリとも動かなかった。
―――すっごい、熟睡状態。
たった1日の徹夜でここまでグロッキー状態になるとは…。案外スタミナのない奴、と、桜庭は冷ややかに瑞樹の寝顔を一瞥し、荷物を床に置いた。
この後、雑誌の打ち合わせが控えている桜庭は、すぐにその準備に取り掛かろうとした。
筆記具や資料、ミニアルバムなどを鞄から取り出し、さっそく机の上に広げる。が…、背後で寝ている瑞樹が、どうにも気になって仕方ない。集中しようと思ったが、3分しかもたなかった。
「……」
手にしていたボールペンを置き、チラリ、と肩越し背後の様子を窺う。
瑞樹は、さっき見た時の姿勢から、1ミリも動いていなかった。腕組みし、左に大きく傾いて、頭を壁で支えているような状態―――寝息すら感じさせない。よくて瞑想中、下手したら死んでるんじゃないかと思うほどだ。
考えてみたら、瑞樹の寝姿をじっくり観察するなんて機会、二度とないかもしれない。椅子をくるりと回した桜庭は、瑞樹の机に頬杖をついて、その寝顔をじっと見つめた。
まず思ったのが、寝てると、意外に子供っぽい顔なんだな、ということ。
ヒロもそうだ。起きてる時は、不良に絡まれそうな位目つきが悪いし、ギロリと睨むと桜庭も萎縮してしまうのだが…寝てる時のヒロは、初めて会った中3の頃とまるで変わらない、小学校高学年で成長がストップしたみたいな子供っぽさがあるのだ。ヒロとの共通項を見つけて、ちょっとだけ親しみが湧いた。
―――それにしても…寝てるだけの癖に、ムカつく位に色気ある奴だよなぁ、こいつ…。
ぼんやりと、そんなことを思う。
目元に僅かにかかる前髪とか、軽く結ばれた程よい厚みの唇とか、無造作に開けられた襟元から見える首筋とか―――人間を被写体としない桜庭でも、その造形が“女にとってセクシーで魅惑的”であることは分かる。こいつのブロマイドとか作ったら、結構売れるかな…なんてことを考えて、思わず笑ってしまった。
―――こんなのと付き合ってるんだよね…、あの子は。
大きく開け放たれた窓の傍で、作業台にもたれ、真剣な表情で資料に見入っていた、蕾夏の姿―――光の中に溶けていきそうな白い肌と、艶やかな黒い髪を、何故か思い出す。
あんな子に、この男は一体どんな風にキスをするんだろう―――ふと、そんなことが頭を掠めた途端、桜庭の胸に、異様な不快感がこみ上げてきた。
…何、バカなこと考えてんだろ。あたし。
一瞬、想像してしまった映像を無理矢理頭からたたき出すべく、ぶんぶんと頭を振る。目の前に無防備に晒された唇や首筋に、柄にもなく顔が熱くなるのを感じた。
どうにも、この男には、いつもペースを乱されてしまう。こんな所で寝るな、と理不尽な文句を心の中で吐き出しながら、桜庭は手を伸ばし、瑞樹のシャツの襟元を掻き合わせようとした。
途端。
それまでピクリとも動かなかった瑞樹の瞼が、動いた。
桜庭の手が襟をつまんだ瞬間―――まるで、何かのスイッチが入ったかのように、瑞樹の目が突然開いたのだ。
「―――…ッ!」
目を見開いた瑞樹が、発作でも起こしたように、鋭く息を吸い込む。パン! という音を立てて、桜庭の手が瑞樹に跳ね除けられた。
「イッ…!」
跳ね除けられる時、爪でも当たったのだろう。桜庭の手の甲に、軽い痛みが走った。反射的に手を引っ込め、痛んだ手を庇うように自らの手を胸に抱いた桜庭は、一体何が起こったのかわからず、びっくり顔で瑞樹の顔を凝視した。
瑞樹は、桜庭を見てはいなかった。
どこか、別のところ―――何もない空間を、見開いた目で見つめたまま、シャツの胸元をギュッと握り締めている。その肩は、乱れる呼吸を整えようとしているかのように、何度も大きく上下した。
「な…っ、なんなの?」
文句を言う声が、裏返ってしまう。その、我ながらおかしな甲高い声に、瑞樹の目が、ゆっくりと桜庭の方に向けられた。
そして、桜庭の姿を捉えると同時に―――その眉が、僅かにひそめられた。
「―――なんであんたが、ここにいるんだ…?」
「な…なんで、って! ここ、事務所じゃないの! あたしがいたっていいでしょ!?」
桜庭の当たり前すぎる抗議の意味を噛み締めているかのように、瑞樹は暫し、桜庭の顔を見上げたまま、動かなかった。
そして―――ここがどこで、自分が誰で、目の前で怒ってるのが誰かを正しく理解したのか、瑞樹は大きく息を吐き出して、胸元を握っていた手で前髪をぐしゃりと掻き上げた。
「―――勝手に、触るな」
瑞樹がやっと桜庭に言ったのは、そんな一言だった。
まるで桜庭がいけないとでも言わんばかりの理不尽な言い草に、桜庭の眉が一気につり上がった。
「ちょ…っ、何よそれっ! 人の手、怪我する勢いで払いのけておいて、口から出てくるのはそんなセリフ!?」
「……」
「大体、ここは仕事する場でしょうがっ! そんなところで眠りこけてるあんたがいけないんじゃない!? あんまりだらしない格好で寝てるから、こっちは親切で服を直してやろうと―――」
「桜庭」
低く桜庭を制した瑞樹は、ゆらりと頭を起こし、桜庭を威圧感のある目で睨みつけた。
「二度と、勝手に、触るな」
「……」
―――何なのよ。
腹がたつ。けれど、それ以上に、困惑する。思わず眉を寄せる桜庭だったが、ふいに、振り払われた手を瑞樹に取られ、心臓が止まりそうになった。
「な、なにっ!?」
ドギマギしながら、また裏返った声で叫ぶ桜庭に、瑞樹は、手の甲を軽く一瞥し、
「―――大丈夫、傷にはなってない」
と呟き、あっさり手を離した。
「この位で、いちいちギャーギャー騒ぐんじゃねぇよ。寝起きの耳に突き刺さるんだよ、その声」
「―――…」
迷惑、という顔でそう言った瑞樹は、桜庭越しにFAXの方を見、そこに数枚のFAXが届いているのを見ると、ガタリと席を立った。どうやら、元々FAXが届くのを待っているうちに眠ってしまったらしい。
―――…何、なのよ…。
心臓が、うるさい。その心臓を抑えるように、離された手を胸に押し付ける。
なんで、こんなこと位で、嫌になるほど動揺してしまうんだろう? 何なの―――自分自身に苛立ち、桜庭はギリリと唇を噛んだ。
FAXを確認に行く瑞樹の背中を見送っていた桜庭の耳に、ふいに、携帯の着信音が響いた。
ハッと我に返り、音のした方に目をやる。そこには、珍しく机の上に放り出されていた、瑞樹の携帯電話があった。それを見た途端―――「ごめん」の一言も言わない男に対する仕返しが、桜庭の頭に浮かんだ。
着信音に、瑞樹が振り返るのを、背中で感じる。内心ほくそえみながら、桜庭は素早く携帯を取り上げ、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
『―――…』
電話の向こうで、誰かが息を呑む気配。それと同時に、
「! おいっ!」
瑞樹のギョッとしたような声が、背後から飛んできた。慌ててる慌ててる―――ザマミロ、と、桜庭の口の端がつり上がった。
「もしもーし? どなたさまですかー?」
息を呑んだままの電話相手が可哀想なので、上機嫌の桜庭がそう話を向ける。すると、携帯からは、聞き覚えのある心地よいトーンの声が返ってきた。
『…あの…、すみません、そちらは成田さんの携帯電話でしょうか』
「……っ」
―――あの子、だ。
「桜庭! 貴様何てことすんだよっ!」
FAXを掴んで、大急ぎで戻ってきた瑞樹が、そう怒鳴りながら携帯を桜庭から奪い返した。電話の声に、一瞬固まってしまったせいで、桜庭はさしたる抵抗もできず、携帯を手放してしまった。
携帯を取り戻した瑞樹は、FAXの束で桜庭の頭をバサッと叩きながら、携帯を耳に当てた。
「もしもし。……ああ、俺。悪い、どっかの馬鹿が悪ふざけしただけだから」
“馬鹿”の部分で、瑞樹の鋭い視線が、斜め上から突き刺さった。
「え? 今は、事務所。―――ああ、別に。ちょっときつい物言いしたから、その腹いせだろ。だから、気にすんなよ。……オーケー。それで? どうした?」
FAXされた紙を机の上に放り出した瑞樹は、桜庭の目の前を通り過ぎ、足早に事務所を出て行った。パタン、とドアが閉まると同時に、事務所には、桜庭1人が取り残された。
胸の辺りが、ざわついた。
イライラする。神経が逆撫でされる。ここは、時田事務所は、桜庭や瑞樹の場所だ。彼女は、部外者だ。そんな彼女に、この場所を踏み荒らされた―――なんだかそんな風に感じて、不愉快だ。
分かっている。そんな風に思うのが理不尽であること位、十分分かっている。なのに…たまらなく、不愉快だ。憎悪さえ感じるほどに。
到底、心穏やかに仕事に専念できる状態ではない。舌打ちした桜庭は、一旦広げた資料類を再び鞄に詰め込み、席を蹴った。
ドアを開けると、ドアの脇の壁にもたれていた瑞樹が、驚いたようにこちらを見るのが分かった。が、桜庭は、瑞樹の存在を無視して、さっさと廊下を歩き去った。
心が、ささくれ立っていた。
この苛立ちが、何なのか―――本当はその正体を本能的に察しつつあったが、桜庭はあえて、それに気づかないフリをした。
***
髪をひと房、軽く引っ張られて、我に返った。
「……」
数度、瞬きを繰り返し、焦点を瑞樹の顔に合わせた。それまでどこを見ていたのか、自分でもよく分からないが。
「…お前、おかしすぎ」
少し怒ったような顔でそう言って、瑞樹は蕾夏の髪をくるりと指に絡めた。目の前のカウンターの向こう側にあるサイフォンで、コーヒーが沸いている。鼻をくすぐる香りに、いかに自分がぼんやりしていたかを実感し、蕾夏は気まずそうに目を逸らした。
「もしかして、機嫌悪い?」
「―――そんな風に見える?」
「結構な。夕飯食ってる時から、ずっとそんな感じだった」
「…別に、そんなことないよ」
もし、そう見えるなら―――それは、怒っているのではなく、落ち込んでいるのだ。
カウンター席に並んでいるので、前を向いていれば、横顔しか見られずに済む。随分冷めてしまったカプチーノを口に運びながら、蕾夏は視線をカウンターの上に落とした。
「桜庭のことなら、気にするなよ。あの女、非常識なとこがあるから」
「…うん。気にしてない」
「それが、気にしてない顔か? 変な誤解とか、絶対やめろよな。よりによって桜庭となんて」
「分かってる。別に、誤解なんてしてないよ」
「絶対だな?」
「うん。だから―――もうその話、やめて。あんまり引っ張られると、逆に…」
逆に、やましいことでもあるのか、勘繰りたくなるじゃない。
「逆に、何だよ」
口には出さなかったけれど、ニュアンスは伝わってしまったらしい。不愉快そうに眉をひそめる瑞樹に、蕾夏は苦笑を返し、小さく首を振った。
「…ううん。なんでもない。も、やめよ?」
「やめらんねーのは、お前の様子がおかしいからだ」
「ごめん。でも、ほんと、ただ疲れてるだけなの。だから…やめよう。ね?」
蕾夏の言葉を信じたのか信じてないのか、瑞樹は肩を竦め、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「…そろそろ、閉店だな。出るか」
壁にかかった時計を見て、閉店時間が迫っていることに気づいた瑞樹は、そう言って席を立った。ちょうどカプチーノを飲み終えた蕾夏も、席を立ち、カウンターに出していたコラムの資料をバッグにしまった。
「締め切りまであと1ヶ月あるから―――具体的に取材場所絞るのは、こんどの土日のどっちかでいいよね」
「俺は、それでいい。実際の取材に出られるのは―――やっぱ、5月に入ってからか」
「うん。連休前が、特集記事の締め切りだから。ゴールデン・ウィークにかかっちゃうかなぁ…。どうせ両親揃って、どっかに旅行行くんだろうとは思うから、帰らなくても機嫌は損ねないだろうけど」
「…ほんとに仲いいよな、お前んとこ」
ふっ、と笑った瑞樹は、蕾夏の先に立ってレジに向かった。その背中を追いながら、話が本題に戻ったことに、蕾夏は密かに安堵した。
きっと、説明しても、瑞樹には分からないだろう。
昼間、瑞樹にかけた筈の電話に桜庭が出た時―――瑞樹と電話を代わるまでの数十秒、蕾夏がどんなことを感じていたのか。
明らかに、瑞樹を困らせて楽しんでいるらしい、桜庭の声。その背後に聞こえる、憤慨したような瑞樹の怒鳴り声―――見えない受話器の向こうの様子が、容易に目に浮かんだ。目に浮かんで…蕾夏の胸を、締め付けた。
恐らくは瑞樹が懸念しているであろうような誤解は、蕾夏は一切していない。桜庭の方は、もしかしたら…瑞樹に何がしかの感情を抱いているのかもしれないが、瑞樹は桜庭にそういう意味での関心はないだろう。それは、全く疑っていない。
けれど―――受話器から聞こえた、怒りを剥き出しにした瑞樹の怒鳴り声が、蕾夏は何故か、羨ましかった。
傍目にも、本人達にも“仕事仲間の悪ふざけに憤慨する瑞樹”以外の何者でもないその光景に、蕾夏は嫉妬に近い感情を覚えたのだ。
奏が日本に来てからの瑞樹は、それまで以上に、蕾夏に優しいから。
常に、蕾夏の精神状態を優先して、自分の抱える問題については何も話してはくれないから。
だから、怒りであれ何であれ、感情をストレートにぶつけてもらえる桜庭が、羨ましかった。たとえそれが、瑞樹が桜庭を重要視していないことの表れだとしても。失うのが怖くないから、歯に衣着せない言い方ができるに過ぎないのだとしても。
今だけは、瑞樹にとってのそういう存在になりたい。
どんなに重要じゃない立場におかれてもいいから、瑞樹が神戸で背負ってきてしまったらしい“何か”を、早くぶつけて欲しい。
―――でないと…瑞樹、倒れちゃうよ、そのうち。
一見、普段とは変わらない瑞樹の横顔を見上げ、蕾夏は無意識のうちに眉をひそめた。
「…瑞樹」
店を出て、並んで歩き出しながら、蕾夏はぽつりと呟くように、瑞樹の名を呼んだ。
「ん?」
「土曜日も思ったけど―――ちょっと、寝不足な顔」
「……」
瑞樹の目が、こちらに向けられる。
落ちてきた視線は、さして動揺もしていなかった。が―――不意打ちされたかのように、ほんの少しだけ目が丸くなっていた。
今日、瑞樹と会うまでの間も、顔を見てからも、ずっと考えていた。瑞樹が、蕾夏を避け気味な理由を。
そして、蕾夏にだけは分かる瑞樹の睡眠不足気味の目を思い出した時―――たったひとつ、理由が思いついた。
もしかしたら瑞樹は、神戸以来、悪夢にうなされているのではないだろうか。それも、これまでにない程、酷い悪夢に。
そんな状態の自分を見せて、蕾夏に心配させたくないから―――だから、家に呼ぼうともしないし、訪ねてきても終電で帰ってしまうのではないだろうか?
「何か、あった?」
―――話して。
神戸から戻ってきて以来、これが初めてのアプローチ。
真っ直ぐに見つめる蕾夏に、瑞樹は薄く微笑み、ゆるく首を振った。
「…いや、別に」
「ほんとに?」
「お前が心配するようなことは、何もない。寝不足はほんとだけど、仕事の疲れが溜まってるだけだろ」
「…そう」
―――まだ…無理なのかもしれない。
瑞樹の目の色を見て、そう感じた。こんな頑なな目を瑞樹がするのは、それがあの人へと―――倖へと繋がっている時だけだから。
軽く唇を噛んだ蕾夏は、瑞樹の手をそっと取った。
「…ねえ。木曜日の、打ち合わせだけど」
「“Clump Clan”のショーの?」
突如変わった話題に不思議そうな顔をする瑞樹に、蕾夏はしっかりと頷いた。
今度の木曜日、6月頭に行われるショーの第1回目の打ち合わせがある。約束の時間が蕾夏の仕事のコアタイム外だったので、蕾夏も出勤スケジュールを調整して、“A-Life”で仕事をしたその足で打ち合わせに合流することにしている。一番重要だったポスター撮影は終わったが、ショーの撮影など初経験の瑞樹にとっては、今度の仕事も重要で難しい仕事だ。
「その打ち合わせの前の晩―――私、瑞樹のとこ、行ってもいい?」
「は?」
なんだそりゃ、と眉をひそめる瑞樹に、蕾夏はくすっと笑って応えた。
「
「―――もしかして、俺のこと心配して言ってるか、それ」
「…も、ちょっとだけ、あるかな」
勿論、瑞樹のことを心配してが、全体の9割だけれど―――蕾夏が、小首を傾げるようにして答えると、瑞樹は苦笑し、蕾夏の手を握り返してきた。
「…サンキュ」
「じゃ、いい?」
「ああ。でも―――俺んとこじゃなく、お前んとこな」
「? どうして?」
「最近、マジで仕事だらけで、家がメチャクチャだから」
「…ふーん。いいけど」
嘘だろうな、と思う。どんなに仕事が忙しくても、あのシンプルすぎる部屋がメチャクチャな状態だったことなど、これまで一度もない。はたから家具の中に納まっているものが多く、外に出ている小物類が少ない部屋なのだから。
部屋に呼べない“何か”があるのかもしれない。それは、かなり気になるけれど―――この場で問い詰めるのは、やめておいた。自分の部屋であれどこであれ、この前の土曜のように避けられた訳ではない。それで十分だ。
もう少し―――もう少しだけ、がんばってみよう。
瑞樹だっていつも、ギリギリまで待ってくれた。どんなに見ているのが辛くても、話したくなるその時まで…。
「―――蕾夏」
暫し、手を繋いだまま、黙って歩き続けていたが―――唐突に、瑞樹が、蕾夏の名を呼んだ。
その声が、さきほどまでとは違う色をしている気がして、思わず蕾夏は足を止めた。
瑞樹も、足を止め、蕾夏を見下ろす。
その目は、どことなく思いつめたような―――でも、躊躇いを含んだ目だった。
「なに?」
不思議そうに蕾夏が訊ねると、瑞樹の瞳が、迷うように揺れた。
繋いだ手に、僅かに力がこもる。軽く痛みを覚えた蕾夏だったが、それより、瑞樹が何を言おうとしているのかの方が気になった。
「…お前さ」
「…うん?」
「前に、神戸で、あの女に会った時―――…」
その続きを、待ったけれど。
言葉を切った瑞樹の瞳が、何かを訴えるように、けれど何かを堪えるように、蕾夏の目をじっと見つめる。そして―――迷いに揺れていた目は、やがて落ち着きを取り戻し、静かに細められた。
「―――いや。なんでもない」
「……」
「…蕾夏」
繋がれた手が、微かに、引かれた。
唐突に唇に落ちてきたキスは、触れるだけの―――切ない色をしたキスだった。
「…蕾夏しか、いらない」
「…瑞樹…」
「他は、何も、いらない」
―――何を抱えてしまったの? 瑞樹…。
一緒に抱えられない、抱えさせてもらえない、今の自分が、蕾夏はどうしようもなく悲しかった。
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