←BACKInfinity World TOPNEXT→




― 邂逅 -3- ―

 

 ―――足音が、聞こえる。

 封印を解かれた悪夢が、ひたひたと近づいてくる足音―――繰り返し、繰り返し、繰り返し。


***


 暗闇で目を開けた瑞樹は、一瞬、ここがどこか分からずに、身動きできずにいた。

 暗さに慣れてくると、ぼんやりと、辺りの様子が分かってくる。見覚えのある窓、見覚えのある本棚―――ああ、そうか、蕾夏の部屋か。そう納得した途端、体の力が抜けた。
 はあ、と大きく息をついた瑞樹は、ほんの少しだけ体を起こし、暫し、何を見るでもなくぼんやりとしていた。
 こんな風に、夢も見ずに熟睡するのは、一体いつ振りだろう? 少なくとも、1週間以上振りなのは間違いない。仕事を詰め込めるだけ詰め込んで、何も考える隙間がないようにしてもなお、体は疲れているのに眠れない―――この1週間は、そんな日の連続だったから。
 そんな自分を見せたくなくて―――ようやく訪れた眠りすら襲い来る悪夢に妨害されてしまう自分を見せて心配させたくなくて、わざと背を向けてしまったけれど。
 ―――つくづく、単純な奴…。
 あっさり眠りに落ちてしまった自分に苦笑しつつ、瑞樹は、少し体をずらして、隣に丸まっている蕾夏を見下ろした。
 瑞樹とは反対方向を向いた蕾夏の顔は、髪が邪魔して、あまり表情が見えない。頬にかかる髪を指で掃うと、子供かと思えるほどあどけない寝顔が覗いた。起こしてしまったかと心配したが、動かない瞼を見る限り、よく眠っているらしい。
 普段の笑顔でも、怒った顔でも、泣いてる時の顔でも―――蕾夏の表情はどれも好きだけれど、眠っている顔は、小さい子猫や雛が理屈なしに愛らしい存在であるのと同じで、理屈なしに“可愛い”と思う。口元をほころばせた瑞樹は、蕾夏の髪に指を絡めながら、暫くその寝顔を眺めることにした。


 こんな穏やかな空気に身を委ねていると、忘れてしまいそうになる。
 心ならずも解いてしまった、封印された過去―――結局、あの1ページを読んだだけで、それ以上は読むことができなかった、古い日記のことを。
 実を言えば、あの言葉を、100パーセント信じた訳ではなかった。
 日記に真実が書いてあるとは限らない。現実逃避から、真相とは別のものを書く場合だってあるだろう。しかも母の場合、普段から支離滅裂なことばかりしていた人なのだから、動揺のあまりおかしな事を書くことがあっても当然のように思える。あれは、思わぬ行動に出てしまった自分に、過剰なヒロイズムを感じて書いてしまった、全くの創作―――そう考えることもできるのだ。
 それでも、100パーセント、ジョークとして片付けられない、その理由(わけ)は…最後の、1行。

 『おかあさん―――私をゆるして  おねがい』

 …何故、母親に謝罪しているのだろう?
 創作だとしたら、一体どういう設定の物語を頭の中に描いていたのだろう?
 母親―――瑞樹にとっては、この世で最も理解不能な存在。母にとっての母とは、どういう人だったのだろう? 創作だったにせよ、ここに“おかあさん”と出てくる、その裏にある意味が、どうしても気になる。

 『神様。

  一度でも人の命を奪った人間は、平気でまた同じことをしてしまうのでしょうか?

  だから、私は、実の子をこの手にかけようとしてしまったんでしょうか?』

 ―――もしも、事実なら。
 本当に、過去に、誰かの命をその手で奪っていたのだとしたら。
 一体、誰を? あの言葉どおりだとしたら…母親を? だとしたら、何故?
 そのことと、自分が殺されかけたことと、どんな因果関係がある? そして、この手に残るあの日の感触―――人の命を奪う瞬間の、リアルな感触は―――…。


 「―――眠れないの…?」
 突然、眠っている筈の蕾夏が、囁くようにそう言った。
 驚きに、思わず息を呑む。指に髪を絡めたまま固まる瑞樹の目の前で、閉じていた目がゆっくりと開いた。
 カーテン越しの遠い街灯と月明かり以外ない暗闇の中、僅かに体を捩って瑞樹の方を向いた蕾夏は、緩慢な瞬きを2度3度繰り返すと、ふわりと静かに微笑んだ。それは、たった今目を覚ました、という表情とは思えなかった。
 「…人が悪いな。いつから?」
 「瑞樹が起きる、ちょっと前。またすぐ眠っちゃうかな、と思ったから、邪魔しないように寝てるフリしたの」
 悪戯が上手くいったいたずらっ子のように、小さな声をたてて笑う蕾夏に、瑞樹も苦笑するしかなかった。
 「さっきまで…よく、眠ってたよね」
 「…ああ。今日も、ギリギリまで仕事だったからな。電気消した途端、ノックダウン」
 「―――良かった」
 少し安堵したようにそう言うと、蕾夏はそっと手を伸ばして、瑞樹の髪を指で梳いた。
 眠り入る寸前の、微かな記憶の中―――同じ感触を、なんとなく覚えている。宥めるように、安心させるように、緩やかに髪の上を滑る指先の感触。そう…、疲れていたのもあったが、その感触に緊張の糸が切れて、眠りに落ちてしまったのだ。
 「…ごめん」
 「? 何が?」
 「心配かけて」
 「……」
 「俺の態度がおかしいって、お前が心配してるの、分かってた。…守るなんて言っておいて、逆に心配させてるんじゃ、世話ねーよな」
 「…私は十分、守ってもらってるよ」
 蕾夏の目が、少し悲しげな色に変わる。
 「だから私も、瑞樹の支えになりたいのに」
 「―――なってるだろ、十分」
 「…でも、言ってもらえない。神戸で、何が、あったのか」

 神戸で、何が、あったか。
 それは―――…。

 何が、あった?
 何もなかった…それも、真実だ。古びた日記2冊を手に入れて、暴く必要もない秘密を暴き、勝手に推理を巡らせ、考えてもしょうがないことを悟っただけ。
 父は母の過去を知らない。出会うまでの20年あまりをどう生きてきたのかも―――どこから来たのかも、全く知らない。それでも愛していると…どこの誰だか分からない女を、彼女が彼女である、ただそれだけ愛していると言って、結婚したのだ。だったら、それでいい。それ以上の何を知る必要があるだろう?

 たとえ、この体に“人殺し”の血が流れているのだとしても。
 抑えがたい怒りに、我を忘れて、自らも人の命を奪おうとした―――それが、あの女から受け継いだものだったとしても。
 それが、何だと言うのだろう? 読みさえしなければ、一生分からなかったことなのに。

 「約束―――覚えてる?」
 僅かに迷いを見せる瑞樹を真っ直ぐに見つめ、蕾夏は、真剣な表情で続けた。
 「一緒に抱えていく、って―――1人じゃ苦しいことも、2人で抱えていこう…死ぬまで、一生、2人で抱えていこう、って。約束したよね」
 「……」
 「私…まだ、もう少し抱えるだけの余裕、残してるよ?」
 「蕾夏……」
 「…重たいよりも、抱えきれずに苦しんでる瑞樹見る方が、つらい。だから―――話せる時が来たら、絶対、」
 たまらない気持ちに、瑞樹は、蕾夏の髪を絡めていた指を解き、蕾夏の唇に指先を押し当てた。
 黙って―――その合図に、蕾夏が言葉を飲み込む。その戸惑ったような表情に、瑞樹はズキリと胸が痛むのを堪えて、静かな微笑を返した。
 「…心配、するな」
 「……」
 「本当に苦しければ、お前に話してた。話すほどのことじゃないから、話さなかっただけだ」
 「…本当に?」
 蕾夏が納得していないのは、その目を見れば分かる。問いかけるような目で、闇の中、瑞樹の表情を読もうとするように、じっと瑞樹を見つめ続けている。
 「…ああ。信じろ。…もう、心配いらないから」
 「……」
 最後に、信用させるように微笑んだ瑞樹は、蕾夏の体を抱き寄せると、そのまま目を閉じた。
 「…も少し、眠りたい…」
 「…うん…」
 眠る方が大事だと思ったのだろう。腕の中の重みが、自然、寄り添った。


 ―――温かい。
 今まで、凍りついていた全てを融かしてきた体温―――心地よくて、眠りに誘われる。

 これさえあれば、他は、どうでもいい。
 蕾夏さえいれば―――抱きしめることのできる温かさがあれば、他は、何もいらない。
 母が過去に何をしようと、自分のルーツがどこにあろうと、蕾夏さえ傍にいてくれれば…もう、いい。いらない。どんな秘密も。

 忘れてしまえばいい。
 もうあの女は、この世にいない―――封印は、封印のまま、閉じ込めてしまえばいい。


 そうして瑞樹は、あの2冊の日記のことを、記憶の奥底に閉じ込めることにした。
 蕾夏さえいれば、後はどうでもいい―――そう、信じて。


***


 何故か、気が急いていた。
 そう言えば、昨日もそうだった。何してんだか―――駆け上がるように階段を上がる自分の脚に、桜庭は呆れた気分になった。
 謝らなくてはいけないことが、あるからだ。
 ちょっとした悪ふざけ、ちょっとした仕返し、あの時はそう思ったけれど、冷静になって考えてみれば、かなりとんでもない事をしてしまった自覚はある。謝らなくちゃ、そう思うからこそ、気が急くのだ。早くこの罪悪感から解放されたいから。
 きっと、そうだ。
 …うん。絶対に。
 何を自分で自分を納得させているんだろう? …その答えは、もう知っているけれど、桜庭はあくまで、自分がおかしいのは“罪悪感のせい”で通した。そう思わなくては―――惨めになるのが、よく分かっているから。

 少し呼吸を整え、事務所のドアノブに手をかけた。
 いや。
 手をかけようとした―――が、その刹那、ドアが内側から開いた。
 「!!」
 ガチャッ、と音を立ててドアが開き、そこから出てきた人物を見て―――桜庭の心臓は、間違いなく1回、止まった。
 おとといも昨日も、桜庭が来た時間帯にはいなかった。
 今日も可能性低いかもな、と半分思ってたのに…なんてタイミング。いきなり、目的の当人に出くわすなんて。
 「あ…、お、おはよ」
 裏返ったような妙な声で桜庭が挨拶すると、斜め上から見下ろす男が、怪訝そうに眉をひそめた。
 「…もう、昼過ぎだけど」
 「―――…」
 「お疲れ」
 そっけなくそう言った瑞樹は、桜庭の横をすり抜けようとした。どうやら、これから仕事に出向くところらしい。
 そうか、今って昼過ぎだから“おはよう”は変だよな―――などと、回らない頭でどうでもいいことに納得していた桜庭は、瑞樹と肩がぶつかったことでハッと我に返り、慌てて瑞樹のシャツの背中を掴んだ。
 「ちょ…っ、ちょっと、待って!」
 結構な勢いで出て行こうとしていた瑞樹は、いきなりシャツを掴まれ、バランスを崩しかけた。慌てて体勢を立て直し、振り返ったその顔は、顔一面“迷惑”という文字で染め上げたような表情をしていた。
 「…なに」
 「あの―――こ、この前! この前、ごめん」
 「は?」
 「ほら、あの…彼女からの、電話」
 「……」
 瑞樹の眉が、何のことだっけ、という風に顰められる。え、本気で忘れたの? と桜庭が驚きかけたところで、思い出したのか、瑞樹の顔がちょっと不機嫌になった。
 「ああ、あれか」
 「修羅場とかに、ならなかった?」
 自分が“彼女”の立場なら、確実に修羅場だ。そう思って桜庭がそう言うと、瑞樹はあっさりと、
 「いや、別に」
 と答えた。
 「けど、二度とやるな」
 「……」
 「じゃ」
 「ま、待ってよっ!」
 用は済んだな、とでも言わんばかりに、即座に立ち去ろうとする瑞樹を、桜庭はもう1回引き戻した。
 振り返った瑞樹の顔が、ますます不機嫌になっていく。
 「…なんだよ」
 ああ、なんでこうなるかな、と自己嫌悪に陥りながらも、実のところ、何故もう1回引き戻したのか、桜庭自身もその理由がよく分かっていなかった。
 「あの、だから―――そう、前に熱出した時に迷惑かけた分と、この前の悪ふざけの分。まだ、あんたに借りを返してないからっ」
 「借り?」
 「だから、今日、仕事あがった後にでも―――何か、奢らせてくれない?」
 かなり勇気を出して言った言葉だが、返ってきた言葉は、やっぱりそっけなかった。
 「返せなんて言ったか?」
 「…でも…あ、あたしも今日、ぱーっと飲みたい気分だし」
 「飲むなら、他の奴当たれよ」
 「他?」
 「ちょうどいいんじゃねーの、“元・弟”とか」
 「……」
 「それとも」
 “元・弟”の一言に、迂闊にも大きな動揺を見せて固まる桜庭に、瑞樹はふっと笑い、軽く首を傾けた。
 「まさかあんた、“元・弟”から俺に乗り換える気?」
 「―――…っ!」
 一気に、顔が赤くなった気がした。
 「な、な、な、何をっ」
 しどろもどろになる桜庭を見て、瑞樹は勝利を確信したのか、余裕の笑みを返した。
 「違うんなら、しつこく誘うな。飲みたい相手なら、こっちは間に合ってるから」
 「……」
 「じゃ」
 言葉を失う桜庭を残し、瑞樹はデイパックを肩に掛け直し、踵を返して歩き去ってしまった。その背中を見送りながら、桜庭の握り締めた拳がふるふると震えた。
 ―――やっぱり、嫌な奴だ、あいつって…!
 自分が女にとってどういう存在か、30年近く生きてきたのであれば十分知っているだろうに―――魅惑的な笑みで惹きつけておいて、最後の最後に奈落の底に突き落とす。あれを計算でやっているのなら、最低最悪の悪魔だ。

 …そう。
 計算で、やっているのであれば。
 違うのであれば―――救いようのない、鈍感だ。
 自分の挑戦的な笑みが女の目にどう映るのか、目の前に立つ女がどの程度思いつめているのか―――何一つ正しく認識できない、質の悪い男だ。

 「…おーい、咲子ちゃん」
 瑞樹が去った方向を見つめていた桜庭は、突如、背後から名を呼ばれ、我に返った。
 中途半端に開けていたドアから、いつからそこにいたのか、溝口が顔を覗かせていた。その手には、自分が撮った写真が掲載されているのか、丸めたスポーツ誌が握られている。
 そう言えば、おとといも昨日も、瑞樹には会わなかったが溝口には会っていた。律儀にこの事務所を拠点として使っているのは、桜庭も含めたこの3人プラス2、3人なのだから、当然と言えば当然なのだが。
 「…何よ」
 物言いたげな溝口の顔に、桜庭は眉間に皺を寄せ、低く呟いた。大体、咲子ちゃん、なんて呼び方、日頃はしない癖に―――今の瑞樹とのやりとりを見るか聞くかされていたのは、ほぼ間違いない。
 溝口は、いつもどおり、おどけたムードを醸し出してはいたが、その表情はおどけていなかった。苦笑のような、困ったような笑いを見せ、丸めた雑誌で肩をトントンと叩いて。
 「いや、俺は桜庭にそーゆー相手ができたこと自体は、めでたいと思うけどさ」
 「…何よ、そういう相手、って」
 「言わせたい? 聞きたいって顔でもなさそーだけど?」
 「……」
 「あいつは、ダメだろ」
 溝口の眉が、気遣わしげに寄せられる。
 「傷の浅いうちに諦めた方が、桜庭のためだと思うけどねぇ、俺は」
 「―――そんなんじゃ、ないわよ」

 そんなんじゃ―――…。

 無意識のうちに、階段の方を、振り返る。
 天使に魅せられた男―――他の女には動揺の欠片も見せないその男は、誰かを思い出させる。
 もう何年も何年も、その心の隙間に入り込みたくて仕方ない男―――“元・弟”を。

 …あたしは、成田にヒロを重ねてるんだろうか。
 それとも―――成田瑞樹自身に、魅せられてしまったんだろうか。

 その答えがどちらでも、待っている未来は、惨めであることに変わりはない―――桜庭は、そう思い、唇を噛んだ。


***


 「…何、緊張した顔してんだよ」
 「…緊張してるからに決まってるじゃない」
 酷く張り詰めた表情で隣に座る蕾夏に、瑞樹は、資料を会議机の上に広げながら苦笑した。
 “A-Life”での仕事を終えて、猛ダッシュで打ち合わせが行われる会場に駆けつけた蕾夏は、まだ少し顔が赤い。なんでも、退社直前に、先輩ライターに呼び止められて、記事について色々突っ込まれてしまったらしい。焦りながら来たので、打ち合わせ直前になっても、まだ落ち着かない状態だ。
 「でも、イベント・プロデュース会社って、こうやって見ると普通の会社なんだね」
 緊張を解くためか、ほっと息をつき、蕾夏は周囲を見回しながらそう言った。
 2人が通されたのは、いわゆるミーティングルームというやつで、小ぶりな会議机がコの字形に並べられ、ホワイトボードやOHPなどが揃えられている。ここだけ見て「普通の会社」なのは当然だが、途中通ってきた廊下や事務所内も「普通の会社」だ。
 「…っつーか、どういう会社を想像してんだ、お前は」
 「うーん…イベントとかで使う機材とかセットとか小道具とかがあるだろうから、巨大倉庫みたいなのを想像してた」
 「…そんなとこで打ち合わせやったら、落ち着かねーだろ」
 「…だよねぇ。なんか、変な感じ。こんな小さな所で、大きなイベントとかコンサートの企画が練られてるなんて」
 とはいえ、都心のかなりいい立地に、これだけ大きなビルの2階から4階までをぶち抜きで借りられるのだから、この手の会社としては大きいのではないだろうか。でも、蕾夏の言うイメージ的な“大きさ”のギャップは分かる気がするので、瑞樹は「そうだな」と相槌を打っておいた。
 「ねえ、瑞樹」
 「ん?」
 「私、ただ聞いてるだけでいいのかな」
 「あー…、まあ、とりあえずそれでいいだろ。当日同行する助手、ってことで、顔繋ぎしとくのが目的なんだから」
 「そ、か。良かった…。この手の打ち合わせって、時田さんの時も未経験だから、どうすればいいのか分からないんだもの」
 力ない笑いを見せる蕾夏に、
 「俺だって未経験だから、正直、どうすりゃいいか分からねーし」
 瑞樹も、力なく笑ってそう返した。
 「ま、始まってみりゃ、何とかなるってことで」
 「だよね。あー、緊張するなぁ…」
 ―――こんだけ緊張した顔してる割に、いざとなると、俺でも口出しできねー位のプレゼンをやったりするんだよな、こいつ。
 例のコラム企画のプレゼンの時、前日、瑞樹を前にその予行演習をやった蕾夏を思い出し、肩を竦める。見た目に騙されてた連中は、さぞかしびっくりしたことだろう。あんぐり口を開けてる名前も顔も知らない“反藤井派”の連中を想像すると、ちょっと笑えた。
 「…何」
 瑞樹の不穏な空気を察し、蕾夏が横目で軽く睨んだ。
 「いや、別に」
 ちょっと笑った瑞樹は、おもむろに、机の下で蕾夏の手を取り、その指に自分の指を絡めた。
 「―――これでちょっとは、落ち着くだろ」
 「……っ」
 飛行機に乗る前などに、よくこうして指を繋いだ。それを思い出し、蕾夏の頬が僅かに染まった。
 「だ…、大丈夫。いい。人、来るから」
 「じゃ、来るまで」
 「……」
 観念して、蕾夏も躊躇いがちに指を絡めた、その時―――ガチャッ、と音がして、ミーティングルームのドアが開いた。
 「お待たせしました」
 「―――…!」
 いきなり現れた打ち合わせのメンバーに、2人して、慌てて指を解いて前に向き直った。
 向こうから見える筈もないが、さすがにドギマギする。が、どちらも、平然とした顔を作ることには長けている。動揺を一瞬で隠すと、瑞樹と蕾夏は瞬時にビジネス用の顔に切り替えた。


 「アイ・ピー・アクトの尾崎と申します。今回の責任者です」
 「演出の川谷です」
 「当日の照明を担当する岩佐です。よろしく」
 年代層もバラバラな男3人は、そう言って瑞樹と蕾夏に名刺を差し出した。紹介を省いた川谷と岩佐も、この会社―――アイ・ピー・アクトの人間らしい。イベント企画会社という業種のせいか、最も年輩で現場の人間ではないらしい尾崎以外、2人ともラフな私服姿だ。
 「成田瑞樹です。彼女は、当日、アシストに回る藤井です」
 「藤井蕾夏です。あいにく、名刺は作っておりませんので…」
 勿論、“A-Life”の名刺なら持っているが、それを出す訳にもいかない。助手という立場なら必要もないだろう、と今回は見送ったが、今後こういう事が度々あるなら、瑞樹のアシスタントとしての名刺も作っておいた方がいいのかもしれない…と蕾夏は思った。

 コの字形に組まれた3台の机の、ちょうど角に当たる部分に4人が腰を下ろし、打ち合わせはスタートとなった。
 「当日の舞台の見取り図は、お手元の資料のとおりです」
 イメージ画に添付する形で渡された見取り図を指し、演出の川谷が説明を始めた。
 「今回の舞台は、店舗の入り口を完全にオープンにして、店舗内の地下と2階を楽屋として利用して、店舗内から店舗の外へと花道が組まれる形になっています。最終的にモデルやデザイナー陣が勢ぞろいするのは、店舗の前、ということになります。花道の幅と長さはそこに書かれたとおりですが―――現地へ行けば分かると思いますが、歩道の幅では収まりきらない長さになっています」
 「…ということは、車道も封鎖、ですか」
 「ええ。ただし、場所が場所、時間帯が時間帯なんで、全車線の半分だけの封鎖になりますが。それと、テレビ局の取材―――まあ、主に女性ターゲットのワイドショー系列ですが―――そういうのが入りますから、この辺りはそういったカメラやレポーターが陣取ると思います」
 そう言って、川谷は、比較的歩道に近い辺りに丸を打ち、斜線を引いた。
 「観客は、どの辺りに?」
 「花道の周囲全般です。この、花道の行き止まりでモデルがターンすることになりますから、この辺りが一番人気はあると思いますが―――花道の高さは約1メートルですから、カメラも1メートル程度の台を使っての撮影なら、観客に視界を邪魔されずに撮影できると思います」
 「…なるほど」
 ファッションショーなど、奏が出演したものをロンドンで1回見た程度だが―――こうした巨大イベントの場合、観客が押し合いになるような事はないのだろうか。観客の波に巻き込まれて、脚立がグラグラ揺れる様を想像して、瑞樹はちょっと眉をひそめた。
 「照明は、どういった配置で?」
 「ああ、それは、岩佐の方から説明を」
 「はい」
 川谷からバトンタッチして、照明の岩佐が見取り図へと赤ペンを伸ばした。
 「当日のショーは、オープニングが午後6時、ファッションショー自体は午後6時半スタートですから、6月頭という時期を考えると、かなり薄暗くなっていると思います。照明は、こことここと…ここと。花道を挟むように、計6ヶ所です」
 「足りますか、それで」
 「1ヶ所につき、相当数のライトが点いてますから」
 撮影には、照明が一番重要だ。が、説明されても、どの程度の光なのか、さっぱりイメージできない。
 「…すみませんが、リハとか、そういうのにお邪魔させてもらっても…」
 「ああ、ええ、それは勿論。見ていただかないと無理だと思いますよ」
 ごもっともです、と岩佐は瑞樹に苦笑を返した。
 「光の強さが言葉や数字では分からないでしょうし―――それに、バックミュージックに合わせて、照明の色もいろいろ変わるんで」
 「え?」
 瑞樹と蕾夏の声が、ダブった。
 あまりに同じタイミングだったので、思わず、互いの顔を、一瞬見合わせる。が、それどころじゃない、とすぐに我に返り、2人して岩佐の方に視線を戻した。
 「照明の色が、変わる?」
 瑞樹が眉をひそめつつ聞き返すと、岩佐は、涼しい顔で頷いた。
 「ええ。今のところ、5色予定しています。もっとも、2色を合わせたりするので、パターンは10通り以上になると思いますが…。静かな音楽の時はブルー系、エネルギッシュな音楽の時は赤系やオレンジ系―――舞台上の衣装に合わせて、照明も音楽も変わるんです。実際のショーの進行も、音楽が指揮者代わりになってるようなものですから」
 ―――色変わったら、同じライトの数でも、写りが全然違うだろ。
 撮り難いこと、間違いなし。でも、確かに、奏が出ていたショーも、照明の色がめまぐるしく変わっていたように思うから、これが業界標準なのかもしれない。少々、頭が痛くなった。
 「…その、照明変わるパターンっていうのは、もう決まってるんですか」
 「いえ、まだです。音楽が先なので―――そっか、音楽にも話、聞いた方がいいですよね」
 ねえ? という目で、岩佐が隣の尾崎と川谷に同意を求める。2人も、そうだな、と頷いた。
 「じゃあ、音楽担当の者も呼んできます。ちょっと待ってて下さいね」
 3人の中では、年齢的には一番若いらしい川谷が、ガタンと席を立ち、ドアを開けた。
 「おーい! 誰か、ヒロ呼んできて!」
 事務所内の誰かに川谷が叫んだ声に、瑞樹は、おや、と思い、少し目を見開いた。

 ―――ヒロ…?
 ここに来る直前、桜庭の顔を見たばかりなので、妙な符合に、ちょっと驚く。
 とは言え、そう珍しい呼び名でもない。実際、瑞樹だって、高校の同級生に“ヒロ”と呼ばれている奴が2人もいた。なんだか知らないが、最近、この名前に縁があるな…と思っただけで、さして深く考えもしなかった。

 席を立った川谷が戻ってきて、椅子に腰を下ろして間もなく、一旦閉じたドアが、コンコン、と2回ノックされた。
 「はーい、開いてるよー」
 改めて資料に目を落としていた尾崎が、ドアの方も見ずに答える。そして―――ドアが、ガチャリと開いた。

 現れたのは、これまでで一番若い男だった。
 白の半袖Tシャツの袖を肩の上までまくり上げ、穿き古した細身のジーンズを穿いた彼は、瑞樹よりまだ背が高いように見える。切れ長の鋭い目と、逆立てたような短い黒髪―――そうしたディテールを確認した瑞樹は、何故か、妙な違和感を感じた。

 何故、なのか。
 会ったことが、ある―――いや、会ったことなどないのに、会ったことがある気がする。

 これは―――…。

 「失礼します―――…」
 無愛想そうな男は、そう言って、軽く頭を下げた。
 そして、視線を、見慣れない来客2人に移した途端―――その表情が、凍りついた。

 そして。
 それと同時に―――隣に座る蕾夏の椅子が、ガタッ、と音をたてた。

 「――――――……」

 素早く、視線を蕾夏の方へ走らせる。
 蕾夏の表情も、彼同様、凍り付いていた。
 突然現れた男の顔を凝視したまま―――血の気を失っていた。
 それを見た瞬間―――瑞樹も、確信した。

 これは。

 これは―――……。

 「ああ、仕事中、悪いね」
 何も気づかない尾崎は、笑顔でそう言い、さも当たり前そうに紹介した。


 「成田さん、藤井さん。彼が―――今回の音楽をプロデュースする、佐野博武です」


←BACKInfinity World TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22