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その瞬間―――世界は、真っ白になった。
脳裏に蘇ったのは、風に揺れる、満開の桜の枝々。
卒業式の日、人の気配がなくなった中庭の桜の下で、最後に見た15歳の“彼”の姿。
驚きに強張ったその顔は、あの日見た顔と、怖い位にそっくり同じだった。僅かに丸くなった目も、不自然にきつく結ばれた唇も…十数年の年月が経っている筈なのに。
唇が、震える。
冷や汗が、背中を伝う。
フラッシュバックを起こす直前みたいに、鼓動が乱れ、思考が乱れる。机の下で握りこぶしに力を込めると、切り揃えた筈の爪が手のひらに食い込んだ。
―――佐野、君…。
単純な名前を心の中で呟くのに、酷く時間がかかった。
何故、という疑問は、不思議と浮かんでこない。偶然…いや、運命だったんだな、と、頭の中の僅かに冷静さを保っている部分で感じる。仕組む理由もなければ、仕組んでできることでもない。佐野にとってもこれは、予想外の展開―――それは、佐野の強張った顔を見れば分かる。
…平静を、保たなくては。
さらに手のひらをぎゅっと握り締める。
冷静に、冷静に…他の人達におかしく思われないように。そして何より、佐野本人に、この動揺や混乱を悟られないように。
「彼が、今回の音楽をプロデュースする、佐野博武です」
尾崎の紹介に、凍り付いていた佐野の目が、僅かに動いた。
ここがどこで、今がどういう場面なのかを、やっと思い出したらしい。かつて同様の、不機嫌そうな無愛想な表情に戻ると、佐野は軽く頭を下げた。
「…音響の、佐野です」
それを受けて、隣に座る瑞樹も、会釈程度に頭を下げた。
「カメラマンの、成田です。彼女は当日のアシスタントです」
「…よろしく、お願いします」
瑞樹が蕾夏の名前を言わなかったのは、わざとなのかもしれない。蕾夏も、あえて名乗らないままに頭を下げた。
2人が再び顔を上げると、佐野は、瑞樹の方の顔をじっと見据えた。が、瑞樹の表情が一切変化を見せなかったせいか、すぐに視線を逸らし、後ろ手でドアを閉めた。
佐野は、席に着くつもりはないらしく、ドアが閉まると同時に、演出の川谷の方へと歩み寄った。
「何っすか」
「ああ、うん、“Clump Clan”の選曲の方だけど。今のところ、どの程度進んでる?」
川谷が、ペンでトントンと机を叩きながら訊ねると、佐野は、少し眉を顰めるようにして答えた。
「曲はほぼ固まったけど、向こうのデザイナーがタイムテーブル変更するって言って、まだ最終版持ってきてないんで…」
「あー! そういや、そーだったわ。28着の予定が30着になるから、テンポ速めるって話だったよなぁ…。今、お前んとこ来てるのって、どうなってる?」
どうやら、担当レベルと総指揮をする演出との間で、情報がバラけてしまっていたらしい。川谷は、難しい顔をして身を乗り出し、佐野の手元の資料を覗き込んだ。
佐野と川谷が互いの資料の確認をしているその隙に、蕾夏はそっと、瑞樹の方を見た。
すると瑞樹も、ほぼ同じタイミングで蕾夏の方を見た。
―――…瑞樹…。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
きっと、動揺を隠し切れない、助けを求めるような目を向けてしまったのだろう。それに応える瑞樹の表情が、辛そうに僅かに歪んだ。
次の瞬間、膝の上にある蕾夏の握りこぶしを、瑞樹の片手が包んだ。
一度、強い力で、握られる。その痛みに、頭のどこかが冷水を浴びせられたみたいに、醒めた。息を呑む蕾夏の目の前で、瑞樹の唇が、声もなく言葉を紡いだ。
『信じろ』
―――信じろ?
誰を? 瑞樹を? 佐野君を?
…違う。
“私を”、だ。
『俺が唯一、親友と認めた“女”だぞ。最強の女でなくてどうするよ』
目を閉じ、瑞樹と“親友”になった時の、瑞樹のセリフを思い浮かべる。
―――大丈夫。
瑞樹が、親友と認めてくれた位なんだから。大丈夫…この位で取り乱すほど、私は弱くない。
混乱しきった頭の中がすーっと静まっていった。スルリ、と、手を包んでいたぬくもりが離れていくのを感じた蕾夏は、一度、大きく深呼吸をすると、瑞樹が視線を戻すのと同時に前に向き直った。
「土曜日に最終版貰うことになってるから、来週の水曜か木曜には、いけると思います」
色々と確認し終わり、佐野がそう川谷に言うと、それまで黙っていた照明の岩佐も、
「ああ、んじゃ、オレ日曜に出るから、照明パターンと合わせてやっちまおう」
と、自分の手帳を確認しながら何度か頷いて言った。
「てことで、照明が決まるのは、来週の木曜辺りですね。成田さん、その時、改めて確認ってことでいいですか?」
岩佐にそう問われた瑞樹は、資料の端にサラサラとメモを取りながら、
「じゃあ、木曜日に、改めて伺います」
とあっさり答えた。そして、視線を佐野の方に移すと、ついでのように、こう付け加えた。
「それと―――音楽が全体の進行役となるんだったら、できれば、曲目リストとデモテープもいただきたいんですが。構いませんか」
「……」
瑞樹と佐野の視線がぶつかる。
佐野の表情は、硬かった。何を考えているのか、あの剃刀の刃のような目で、瑞樹を真っ直ぐに見据えている。
一方の瑞樹は、余裕ありげだった。静かな表情で、佐野の返答を待っている。
けれど…蕾夏には、感じ取れる。
戦闘モードに入った時の瑞樹独特の、相手を高い位置から見下ろすような、威圧的な空気―――微かな笑みすら浮かべて、相手につけいる隙を与えない。お前ごときに心を乱されるほど、こっちは小さな人間ではない―――言外にそう言い放っているオーラを、はっきりと感じる。
それは、ほんの僅かな沈黙―――蕾夏以外、不審に思うこともないほど、僅かな時間だった。けれど、その沈黙の中に、一言では言い尽くせない攻防があるのが分かり、蕾夏の肩に、不自然に力が入った。
「―――最終的なミックスができあがるのは、5月の半ばになってからですけど」
「構いません。知らない曲があったら、次何が来るのか分からなくて不便だから、全部の曲を知っておきたいだけです」
「…それなら…次の時にでも、MDで」
少々ぶっきらぼうに佐野が言うと、瑞樹は静かに口の端を上げた。
「お願いします」
「…俺、他の仕事を抜けてきたんで。特にもう無ければ、戻りたいんですけど」
所在なげに資料を握り直した佐野は、横目で、責任者である尾崎の方をチラリと見た。尾崎も、特にそれ以上の用事はなかったらしく、あっさり答えた。
「ああ、うん。もういい」
「じゃあ―――失礼します」
そう言った佐野は、軽く頭を下げ、踵を返した。
ドアを開け、ミーティングルームを出た佐野の目が、ドアを閉める直前、一瞬、蕾夏の方を見た。
「―――…」
考えの読めない視線を受け止め、思わず、唾を飲み込む。その視線が、何かを言ってくるのではないか、と身構えたが、佐野はすぐに視線を落とし、ドアを閉めた。
パタン、とドアが閉まると同時に、蕾夏の体から力が抜けた。
認めたくはないけれど―――手足が、小刻みに震えていた。
***
打ち合わせが終わり、ビルを出た時には、太陽がかなり傾いていた。
瑞樹は、隣のビルとの間の路地に蕾夏を押し込むと、自販機で買ってきたウーロン茶の冷たい缶を、無言で突きつけた。
「―――…あ…りがと…」
受け取ろうとするのに、手が震える。
外に出たら余計、体の芯から震えが走った。缶に触れた指先は、そのまま、缶を握ることなく縮こまった。
「…焦るな。落ち着くまで、動く気ねーから」
「…うん…」
情けない―――…。
佐野と目が合っただけなのに、こんな風に取り乱して、その場を離れてもまだ震えているなんて。落ち込んだように視線を落とした蕾夏は、震えの止まらない手を、もう一方の手で抱くようにして、唇を噛んだ。
浅すぎる深呼吸を、何度も繰り返す。大きく吸って、肺が空っぽになるまで吐いて―――体の芯の震えも、呼吸と一緒に吐き出そうとするかのように。それでも、震えは収まらなかった。
あまりにも、急すぎて。
心構えもなく、いきなり再会して…不意打ちを食らった自分が、ここまで弱いとは知らなかった。あれから十数年経っているというのに…まるで、1年も経っていないような自分の反応に、戸惑いさえ覚える。
そして、何より辛いのは―――そんな、動揺しきった自分を、瑞樹に晒してしまったこと。
佐野という存在に、やりきれない憤りと苦痛を覚えている瑞樹。会ったこともない佐野を、蕾夏を奪おうとする彼を、その手にかける夢を見るという瑞樹。…できることなら、瑞樹の前では、佐野の顔を見ても平然と笑う位のことをしたかった。私はもう何とも思っていない、佐野なんてどうでもいい、そういう顔をしたかった。なのに―――…。
ふいに、耳元で、プルトップを引く音がした。
少し後、瑞樹の手が、蕾夏の顎を捉えた。軽く上を向かせた瑞樹は、まだ震えている蕾夏の唇に、自分の唇を軽く押し付けた。
「―――…っ」
僅かに開いた唇から、冷たいウーロン茶が流れ込む。突然の冷たさに驚きながらも、蕾夏はそれを素直に飲み込んだ。
喉を通る冷たさに、オーバーヒートしそうだった体までが冷やされていく。更に2度、同じことを繰り返されて、蕾夏はやっと落ち着きを取り戻した。
「…大丈夫か?」
唇が触れるほどの距離で、瑞樹が、そう言って少し眉を寄せる。はあ、と息をつき、蕾夏は小さく頷いた。
それを確認すると、瑞樹は、蕾夏の手を取って缶をしっかりと握らせた。冷たい缶の感触が心地よく手のひらに吸い付く。今度は、震えることなく握れたことに、蕾夏はほっと安堵した。
夕方のビルの谷間を、風が吹きぬける。
缶についた水滴で濡れた手が、風に冷やされ、体温が奪われる。温度が下がるに従い、頭の中も次第にクリアになっていった。
受け取った缶を両手で包み、大人しく口に運ぶと、蕾夏は残りの半分近くまでを一気にあおった。そこまでしてやっと、声の出る状態になった。
「…情けない、ね。私…」
「……」
「もう、27だよ? あれから、もう13年も経ってるのに―――バカ、みたい」
「…そんな風に言ったら、俺の方が、よっぽどバカだろ」
「瑞樹は、バカなんかじゃないよ」
「もう28だぜ? 殺されかけてから、20年経ってる―――救いようのないバカだと、自分でも思う」
「それは―――…」
瑞樹の抱える傷と自分のそれとでは、深さも質も、全く違う。少なくとも蕾夏は、そう思っている。
瑞樹の中に巣食っているものは、たった1度のトラウマではない。長い年月をかけて―――そう、それは、瑞樹が物心つく前からずっと、10年以上の歳月の中で、瑞樹を侵していったものだ。時間が経ったからといって、消えるものではない。それはもう、瑞樹の全身の奥底にまで、まるで生まれ持ったもののように、深く根ざしてしまっているのだから。
「…それは、違うよ。瑞樹は…強いよ。ちゃんと、自分の傷と向き合って、戦ってるもの」
戦って―――ちゃんと、打ち勝ってるもの。
ズキン、と、胸が痛んだ。
“話すほどのことじゃないから、話さなかっただけ”―――そう言って微笑んだ瑞樹を思い出して、胸が、痛む。
その程度のこととは、蕾夏には思えなかった。仕事に没頭して、クタクタになるまで働いて働いて―――そうしなくては眠れないほどの“何か”を抱えたとしか、蕾夏には思えなかった。自分が支えなくては、半分でも肩代わりしてやらなくては、瑞樹が潰れてしまうと…そう思ったのに。
大丈夫だと、瑞樹は言った。自分1人で何とかなるレベルだと、蕾夏を苦しめるほどのことじゃないと、差し出された手に背を向けた。
実際…何とかなるのかも、しれない。蕾夏1人が瑞樹を心配しているだけで、その気になれば1人で解決できるだけの力を、瑞樹は持っているのかもしれない。
というよりも―――こんなに弱い自分が、瑞樹を助けよう、なんて考えること自体、おこがましい気がしてきた。
助けるどころか、動揺した顔を見せて、かえって瑞樹を苦しめて―――何があっても、絶対に傷つけたくない人なのに。
「…バカ。俺が強い訳ないだろ」
俯く蕾夏の頭をコツン、と小突いた瑞樹は、自嘲気味にそう言って苦笑した。
「お前こそ…よく、がんばったよ。突然で、パニックになっただろうに」
「……」
「―――今日限りにしとけよ」
少し低い声で告げられた言葉に、蕾夏はハッとして、顔を上げた。
どういう意味、と問うような目で瑞樹を見つめると、瑞樹は、少し辛そうに目を眇め、蕾夏の頭を軽く撫でた。
「どのみち、これからの打ち合わせは、スケジュールが合わねーし。お前みたいに小柄なのが、観客が押し合いしてる現場に出るのは、俺も心配だし」
「…だから…ショーの時のアシスタントをやるな、ってこと…?」
「…理由は、それだけじゃない」
「……」
「たとえ、あいつが何もしてこなくても―――お前をあいつに会わせるのは、やっぱり、嫌だ」
「…次は私、平然とした顔で挨拶する位の余裕、絶対あるよ?」
次の機会があれば、その位、簡単にやってのける気でいた。
うろたえ、顔色を変えて、佐野に自分の傷を見せるのは、絶対嫌だ。13年もあの男に囚われていたのだと、本人に気づかせるのだけは死んでも嫌だ。次は、絶対に―――どんなに取り乱していても、笑顔を作って「久しぶり、元気そうだね」と言ってみせる自信が、蕾夏にはあった。
いや…、自信は、正直、ない。でも、そうしてみせる。自分のプライドのためと、瑞樹を傷つけないためであれば―――死に物狂いでやってみせる、と、蕾夏は決意していた。
「だから、打ち合わせは別としても―――アシスタントは、させてよ。私、これから先も、瑞樹の助手はできる限り自分がやりたいんだし…っ」
「…蕾夏…」
食い下がる蕾夏に、瑞樹は困ったような、辛そうな顔をした。
「奏だけならまだしも、佐野までいる現場に、俺がお前を連れて行ける訳、ないだろ?」
「……」
「頼む―――今回だけは、諦めてくれ」
「…イヤ。絶対、行く」
「蕾夏、」
「私の心配なんて、しないで!」
瑞樹の胸を押して距離をとった蕾夏は、この1週間に溜まっていたものをぶつけるように、瑞樹に向かって叫んだ。
「私は“最強の女”なんでしょう!? 奏君だって、なんとかなったんだもの。佐野君だって、なんとかしてみせる―――私自身が、なんとかしてみせる。だから、私と佐野君のことで、瑞樹が気を遣ったりしないで…!」
「…らい…か」
突然の剣幕に驚いたように、瑞樹は、呆然とした顔をしていた。
きっと、こういう言葉も、瑞樹を傷つけるんだろう―――頭の片隅で、そのことはちゃんと理解しているのに、止められなかった。涙が滲んでくるのが、止められないように。
「13年も前のことのために、たかだか1時間2時間、平気な顔してられないほど、私は弱くない―――佐野君なんて忘れた顔して、平然と仕事をこなしてみせる。そういうことを理由にして、瑞樹の傍にいられない方が、私には痛いよ。瑞樹こそ―――瑞樹の方こそ、佐野君と冷静に向き合えない理由、抱えてるのに…!」
「……」
「瑞樹だって、神戸で抱えてきたもの、1人で解決しようとしてるじゃない! 私が支えてあげたくても、私が奏君のことで目一杯になってるって気を遣って、話してくれなかったじゃない! だから、私も1人でなんとかする! だ…から…っ!」
ぶつけた言葉は、最後まで口にできなかった。
缶を握った手首を、掴まれる。そのまま、隣のビルの壁に押し付けられた蕾夏は、強引に唇を奪われた。
冷まされていた熱が、別の熱さを伴って、襲ってくる。
有無を言わせず求めてくる唇に、無我夢中で応える。それは、あの日―――誰にも話したことのなかった過去を吐露した時、初めて交わしたくちづけに、よく似ていた。狂気という色で彩られた、混乱したくちづけ―――痛みを、互いに分け合うかのように。
―――痛い。
気が違いそうに、痛い。
情けなくなる位弱い自分も、瑞樹に寄りかかってもらえない自分も、いまだ佐野の呪縛に囚われたままの自分も―――痛い、痛い、胸が痛くて痛くて、死んでしまいそう。
でも、こうしていると、瑞樹の痛みも、一緒に流れ込んでくる。分かってもらえない痛み、自分の弱さに対する痛み、どうすればいいか分からない、混乱した痛み―――分け合って、増幅して、半減して、余計混乱する。
苦しさに、缶が蕾夏の手を離れ、地面に落ちた。
カラン! という鋭い音に、唇が離れる。同時に息をついた2人の目が、至近距離でぶつかった。
涙で霞んだ視界の中、瑞樹の目は、僅かに揺れていた。辛そうに、苦しそうに歪んだ目元に、また胸が痛んだ。
「…違う…」
「……」
「お前に言えないのは、お前のためとか、そんなことより―――お前に話すことで、“それ”と向き合うだけの勇気が、俺にないからだ」
「…瑞樹…」
「…俺は、そんなに強くもなければ、そんなに立派でもない―――…」
掠れた声でそう言うと、瑞樹は、縋るように蕾夏の首元に顔を埋めた。
「―――欲しい」
「……」
「…待てない…」
「…うん」
それは―――助けを求める、悲痛な叫びに聞こえた。
***
こんな所に、自分の意思で来たのは、初めてだった。
でも、どうでも良かった。
早く―――1秒でも早く、2人きりにならなくては、死んでしまいそうだったから。苦しくて、苦しくて、苦しくて。
慣れない扉を抜けて、その扉が閉まると同時に、ギリギリで保っていたものが、切れた気がした。
安っぽいインテリアを茶化す余裕も、自分達にはあまりに不似合いなこの場所に戸惑う暇も、2人にはなかった。急かされるように、どちらからともなく、さっきの続きのキスをした。
お前は一体何をしてるんだ、と、僅かに残った冷静な自分が嘲笑う。
こんなになるまで囚われている、その感情は何だ? 例え未遂であっても、最初に蕾夏に触れた相手であるあいつに対する対抗心か。それとも、今も解けない呪縛で蕾夏を捕え続けているあいつに対する嫉妬か。
―――うるさい。
指摘されたくもない部分ばかり指摘するもう1人の自分を、瑞樹は苛立ちのままに、斬り捨てた。
これは狂気だと、自分でも分かっている。手に入れながら、まだ足りないと飢えに苦しむ…そんな自分が恐ろしいとずっと思っていたけれど―――もう、いい。狂うのであれば、狂ってしまえばいい。
あれが佐野だと、そう認識した瞬間。
瑞樹の脳裏をよぎったのは、あの悪夢―――この手で佐野を絞め殺す、これ以上ない悪夢だった。
自分の中に、瞬間的に湧き上がった殺意に、瑞樹は恐怖した。それを繕うために、平静を装った。たとえどんなに、心の中が波立っていても。
母と同じところまで堕ちる位なら…狂ってしまった方が、ずっとマシだ。
ベッドにもつれるように倒れこむと、露わになるそばから、互いの素肌にくちづける。いつも受身でいる蕾夏が、まるで縋るように唇を寄せてくるのが不思議だった。おかしくなりそうなのは、苦しすぎて死にそうなのは、蕾夏も同じなのかもしれない。
“このまま、1人になってしまえればいいのに”―――かつて、蕾夏が呟いた言葉の意味が、痛い位分かる。1人なら、決して離れることなくいられるのに。ほんの僅かの距離に苛立ち、苦しむこともないのに。
「…っ、瑞、樹…っ」
瑞樹に、蕾夏が必死に手を伸ばす。
「な、に」
「もっと、」
「もっと…、何」
「もっと―――…」
“近くに、いて”。
抱き合うと、心臓の音が、重なった。
繋がりあうこと以上に、素肌に感じる鼓動の方が、心地よかった。
1人の人間になれたような、そんな、錯覚―――このまま、離れたくなくなる。ずっと、ずっと、ずっと―――…。
「…どうしてなの…」
瑞樹の肩に額を押し付けるようにして、蕾夏が、途切れ途切れに呟く。涙でくぐもったその声は、呟きというより、叫びだった。
「どうして、自由になれないの。こんなに時間が経ってるのに―――私も、瑞樹も、どうして…」
「…蕾夏…」
「過去なんて、いらない。瑞樹だけ見つめて、他のことなんて何も考えずに生きたい。なのに…どうして…っ」
「……」
「自由に、なりたい」
「…自由、に…?」
「自由に…なりたいよ…」
…母からも、佐野からも。全ての、過去から。
―――自由に、なりたい―――…。
***
見上げた窓に、灯りがともっているのを見つけて、桜庭は怪訝そうに眉をひそめた。
最近、忙しくて帰宅も遅くなっていた筈なのに―――まだ、随分と早い時間帯だ。たまたま早く帰ることができたのだろうか。
下に停めてあったバイクは、すっかり冷たくなっていた。そのことを余計訝しく思いながらも、桜庭は軽い足取りで階段を駆け上がった。
トントン、とドアを2回ノックする。
けれど、返事はなかった。1分待っても、2分待っても、ドアが内側から開けられる気配はない。
ドアノブに手をかけると、それは何の抵抗もなく回った。まさか、何かあったんじゃ―――急激に、不安が襲ってきた。
「ヒロ!?」
慌ててドアを開け、1歩、踏み入れた。
煌々と電気が点いている部屋の中は、相変わらずの乱雑ぶりだった。が、泥棒が入ったとか、そういった乱れ方はしていない。そのことに、とりあえずはホッとする。
肝心のヒロは、ヘッドホンをしたまま、眠っていた。
本棚を背に、コンポに頭をくっつけるようにして。その寝方が、この前初めて見た瑞樹の居眠り姿と重なって、桜庭の鼓動がちょっと速まった。
「ヒロ…、」
心配させて、と抗議するような声で、名前を呼ぶ。けれど、ヘッドホンをしているせいもあってか、ヒロはピクリとも動かない。ため息をついた桜庭は、ドアを閉め、靴を脱いで部屋に上がりこんだ。
具合が悪くて倒れてる訳じゃないよね、と、桜庭は膝をつき、ヒロの口元に耳を寄せてみた。規則的に聞こえる寝息は、特に苦しそうでもなければ、乱れてもいない。ただ、静かに眠っているだけらしい。安堵した桜庭は、ヒロを起こさないように、ヘッドホンをソロソロと外した。
幸い、ヒロが目を覚ますことはなかった。何を聴いていたのだろう―――ヘッドホンに軽く耳をつけてみると、ヒロが好きそうなアップテンポのロックが聴こえてきた。
―――あ、これ、ディープ・パープルだ。
桜庭は、あまり音楽に興味がない。でも、“家族”だった時代にヒロがよく聴いていた曲は、多少知っている。聴こえてきた曲が、当時よく聴いていた曲だったことに、桜庭の口元に笑みが浮かんだ。
ヘッドホンをコンポの上に置き、ストップボタンを押した桜庭は、ふと、ヒロの足元に置かれたゴミ箱に目をやった。
そして―――そこに捨てられているものを見て、顔色を変えた。
「……え?」
まさか、と思った。
けれど、見れば見るほど、そうとしか思えない。桜庭は、恐る恐る手を伸ばし、ゴミ箱に無造作に突っ込まれたそれを引っ張り出してみた。
それは、ヒロがずっと固執していた、あの雑誌―――瑞樹の写真が掲載された、“月刊フォト・ファインダー”だった。
力任せに両手でひねったのか、まるで絞られた雑巾のように捩れてしまっている。偶然、ゴミ箱に落ちたのではない。ヒロが、自分の意思で捨てたのだ。
「どうして…」
一刻も早く捨てて欲しい、と願ったのは、むしろ桜庭の方だったけれど…いざ、こうして捨てられると、何故そんな気になったのか、ヒロの心境が分からない。
少々うろたえ、視線を彷徨わせた桜庭だったが、ゴミ箱から更に窓際へといったところに転がっているものを見つけ、その視線が、そこに釘付けになった。
この部屋で、これを見るのは、初めてかもしれない。
でも、何なのかは、すぐ分かった。何故なら、これをヒロが学校から持ち帰った時―――真っ先に見せてもらったのは、桜庭自身だったから。その正体が分かっているからこそ、それがここに転がっている意味を、理解しかねる。こんなもので、懐かしい思い出に浸るなんて、この世で最もヒロに似合わない行為に思えて。
膝歩きで、それに近づく。
拾い上げると―――やはり、それは、ヒロの中学校の卒業アルバムだった。
―――ヒロって、3年何組だっけ。
記憶を手繰り寄せながら、パラパラとアルバムをめくる。すると、桜庭が何組か思い出すより早く、ヒロが写っている集合写真が見つかってしまった。
雛壇のように、30人ばかりの生徒がずらりと並んで写る中、ヒロの姿は、最後列の一番端にあった。いつものように、ちょっと不機嫌そうな顔で、まるでカメラを睨むようにして写っている。写真に撮られるのは大嫌いだ、と、桜庭のカメラもいつも拒んでいたヒロを思い出し、思わずくすっと笑う。
何気なく、そこに並ぶ面々を眺めていった。
そして、前から2列目の一番端に立つ少女の顔を見つけた時―――桜庭の心臓が、ドクリ、と音をたてて、止まった。
「―――……」
目が、釘付けになる。
耳鳴りがする。頭がガンガンしてきた。桜庭は、震える指をそっと紙の上に滑らせ、見つけてしまった少女の顔を、その指でひと撫でした。
そこには、彼女が―――天使の笑顔を持つ、瑞樹の恋人が、静かな笑みを湛えて立っていた。
―――だから。
だからヒロは、あの写真に…“フォト・ファインダー”の写真に固執したんだ。
成田の写真そのものに魅せられたんじゃなく、この子に―――藤井さんそのものに、固執していたんだ。
そんなに固執する理由は、それは―――…。
…こんなタネ明かし、想像すらしたことがなかった。
桜庭は、襲い来るものに全身が震えるのを感じながら―――ただじっと、今とほとんど変わることのない蕾夏の静かな微笑を、見つめ続けた。
***
駅を下りて間もなく、携帯が鳴った。
真夜中の空は、ぽつりぽつりと雨粒を落とし始めている。瑞樹は、雨を避けるように首を竦めながら、電話に出た。
「―――はい」
『瑞樹?』
「ああ。…着いたか?」
『ん…、今、家着いたとこ』
瑞樹の方も終電ギリギリの時間だったので、行けるとこまで行って、タクシーを止めて押し込んだのだ。金額も時間も見当がつかず、心配していたが、思ったより早く着いたらしい。
『瑞樹は?』
「俺は、もうちょっとで家着くとこ。乗り継ぎでロスがあったから」
『そっか』
「……」
『…………』
中途半端な、気まずいような間が空く。
この気まずさの原因は分かっている。つい数時間前の、普段とあまりに違いすぎる自分達のせいだ。思い出すだけで、瑞樹ですら顔が熱くなる。無言の時間に耐えられず、瑞樹は、携帯電話を右から左に持ち直した。
このまま泊まっていく、という選択肢もあったし、蕾夏のところに泊まる、という選択肢もあった。
が、蕾夏は真っ赤な顔をしたまま、首を横に振った。今日、早く仕事を切り上げて打ち合わせに参加した分、明日は早いのだという。瑞樹にしても、明日は朝イチでの撮影が入っていた。
こんな日に、蕾夏を1人にするのは、本当は嫌だった。
けれど―――激情に流されたまま、蕾夏を束縛するのは、もっと嫌だった。
1人で一晩、ゆっくり考えたい―――蕾夏の望みがそれならば、蕾夏を信じて手を離すのも、自分の役目だと思った。瑞樹が話してくれるまで、ちゃんと待つことにしたから―――そう言って、蕾夏が瑞樹に憤りをぶつけるのをやめたのと同様に。
『…ごめんね、瑞樹』
「何が?」
『私、今日、ちょっとどうかしてた』
「…どの辺が?」
『自分の弱さが、辛くて辛くて―――瑞樹が話してくれない理由、勝手に誤解して。私に、力が足りないからだ、って』
「…バカ。そのことなら、もういい、って言っただろ?」
『うん。でも…ごめんね。言えないことを責められる辛さ、私が一番知ってる筈だったのに』
「…いつか、話すから」
自分自身にも、言い聞かせる。
「解決できた時も、そうじゃない時も、蕾夏に話したい―――そう思ったら、必ず、話すから」
『…ん。信じてる。私も、意地とかそういうんじゃなく、きちんと考えて、アシスタントやるかどうか決める』
「…ああ。信じてる」
『……』
また、少し、妙な間が空いた。気まずくなるのを恐れてか、急に蕾夏が声のトーンを変えた。
『け、けどっ、今日はちょっともったいなかったよね』
「は?」
『あ、あんなとこ行ったの、初めてだったから。カラオケとかゲームとか、色々あるって翔子に聞いたことあるから、行く機会があったら、料金分遊び倒そうと思ってたのに』
「…翔子からかよ」
超迫力美女のお姫様は、一体どの段階でラブホテルの設備などを知ったのだろう? 突っ込みたい気はするが、多分、焦っている蕾夏はそんなこと一切頭にない状態で喋っているに違いないので、彼女らの友情のためにやめておいた。
「それってもしかして、“また行こう”って、お前から誘ってんの?」
からかうように瑞樹が言うと、
『ちっ、違う! 違いますー!』
真っ赤になった蕾夏の顔が容易に想像できそうな声が返ってきて、瑞樹は思わず声をたてて笑った。
「お前とは思えないアグレッシブさだったもんなぁ、今日。“ちょっとどうかしてる”お前、勘弁して欲しい部分もあるけど、ああいうのは大歓迎」
『違うってばーっ! その話、もう1回したら、もう部屋に泊めてあげないからねっ!』
「はいはい」
かなりのご不興は買ってしまったようだが、気まずいような緊張感が漂っていた空気が緩むのを感じて、瑞樹はほっとした。
拗ねて怒る蕾夏を宥めているうちに、家に着いてしまった。
『…じゃあ…、明日の夜は、そっち行くから』
例の企画コラムの本格的な話をするために。それと…久々に、オールナイトでDVD三昧で過ごすために。
せめて明日は、佐野の名前は一切出さず、穏やかな夜にしたい―――そう思いながら、瑞樹は薄く笑みを作った。
「了解。駅まで行くから、DVDはその時選ぼう」
『うん。じゃあ、また明日』
「おやすみ」
アパートの下で、互いにそう言いあい、電話を切った。
静寂が戻ってきた途端―――本当の気まずさの原因が、再び、脳裏に蘇ってしまった。
―――“もっと、近くに、いて”。
重たい足取りで階段を上りながら、思わず、シャツの二の腕辺りを握り締める。
…限界かも、しれない。
2人で歩いていく前に、1人1人で立てる力が欲しい。そう思っていたけれど―――そしてまだ、立てるだけの自信は、どちらにもないけれど―――もう、限界かもしれない。蕾夏はどうであれ…自分の方は。
離れたくない―――そう訴える自分を、相手を、引き剥がすようにして、それぞれの家に帰ったこと。それが、一番気まずかったこと。
大きくため息をついた瑞樹は、苛立った気分で自室の鍵を開けた。
真っ暗闇の部屋に、電気が灯る。後ろ手に鍵を閉め、デイパックを床に置いた瑞樹は、鍵をテーブルの上に放り出した。チャリン、という、冷たい音が、1人きりの部屋に響いた。
気だるかった。全ての疲れが、一気に襲ってくる。前髪をぐしゃりと掻き上げた瑞樹は、疲れた目を、胸の高さほどの書棚の上へと移した。
そこにあるのは、蕾夏をここへ連れてくる訳にはいかなかった、理由。
あの日から、どこかにしまい込もうにも、触れることすら厭わしくて放り出したままにしてある、2冊の日記。
―――あんたと俺とは、違う。
俺は、そこにどんな正しい理由があろうとも、自分のために誰かの命を奪おうなんて思わない―――もう、二度と。
「……っ!」
何かが、メーターを振り切った。
舌打ちした瑞樹は、棚の上の日記を力任せに払いのけた。他の物も一緒にバラ撒かれ、ベッドの上や床の上に落ちた。
早く、こんなのはただの、思い込みの激しい女の妄想の賜物だと、そう言いきりたい。
そうして、蕾夏と2人して、笑い飛ばしたい。笑い飛ばして―――自由に、なりたい。
あの女が過去に何をしていようと、俺とは関係ない―――佐野の物言いたげな鋭い視線を思い出しながら、瑞樹はひとり、無残に床に投げ出された日記を見つめていた。
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