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ローテーブルの上に置かれたものを、蕾夏は、戸惑いの目で見下ろした。
瑞樹の部屋に来るまでの間、軽い食事をしながら、あるいは電車に揺られながら、これが瑞樹の手に渡るまでの経緯を説明された。だから、これの正体については、蕾夏も既に知っている。
けれど―――いざ、目の前にすると、ちょっと迷う。
その内容は、まだ全く聞いていないけれど。でも、生前、倖が口にしたことの内容を考えるに、かなり壮絶なことが書いてあるような気がする。そんなものを、自分が暴いてしまってもいいのだろうか―――身内でも何でもない、自分が。
「こっちの日記は、どうしちゃったの?」
紺色の表紙の日記を指差して、眉をひそめる。説明されたことから、多分こっちが死の直前まで書いていた方の日記だな、とは分かるが、ビニール袋で丁寧に封印されている理由が、今ひとつ分からない。
冷蔵庫からカクテルバーとウーロン茶を取り出していた瑞樹は、その声に振り返り、苦笑を浮かべた。
「読む気ねーけど、一応、封印。…なんか、嫌だろ。再婚した後のあいつらの生活が垣間見える物なんて」
「でも…窪塚さん、読んでショック受けちゃったんでしょ? だったらむしろ、瑞樹とか一樹さんに対する想いとかが書いてあるんじゃないのかなぁ…」
ふいに、夕方見た新聞記事と、さっき瑞樹に聞いた話が、脳裏で重なって、蕾夏は思わずそう言ってしまった。
不自然に右手に嵌められた、蘇芳せなの結婚指輪。再婚時に、結婚指輪を作ろうとしなかった倖。…やはり倖は、瑞樹の父を一番愛していたのではないだろうか―――なんだか、そんな気がする。
けれど、瑞樹の反応は、あっさりしたものだった。
「…かもな。でも、俺にとってはどうでもいい。いずれ、軽く斜め読みして問題なけりゃ、親父に渡そうと思ってる」
瑞樹にとっては、どうでもいいこと―――確かに、そうかもしれない。
倖が内心、どう思っていようとも、瑞樹にとっては「母は父を裏切り、その裏切り行為の片棒を自分に担がせた」という、その事実があるだけだ。今更、実は父を一番愛していた、と知らされたところで、出てくる言葉は「だったら不倫なんかするな」位のものだろう。
トン、と、テーブルの上に、ウーロン茶の入ったグラスが1つ置かれた。
蕾夏の傍らに腰を下ろした瑞樹は、カクテルバーの蓋を捻じ切ると、2冊並んだ日記のうち、色あせた赤色の表紙の方を、軽く蕾夏の方へと押した。
「最後の1日分だけ、読んだ」
「…どうして、1日分だけ?」
「日付が、あの事故の日だったから、つい」
「……」
背筋に、緊張が走る。
あの事故の日の―――倖が、瑞樹を殺そうとした日の、倖の日記。思わず瑞樹が読んでしまった気持ちは、なんとなく分かる。何故、あんな真似をしたのか…それを知りたくて、つい読んでしまったのだろう。でも―――第三者の蕾夏でさえ、これを読むのは、勇気が要る。
「読んでも、いいの」
「…蕾夏に、まだ少し、余裕があるなら」
そう言って、まだ僅かに不安を残した目で真っ直ぐ見つめる瑞樹に、蕾夏はフワリとした笑みを返した。
ここに来るまでに、何度も確かめられた。
佐野と再会したばかりで、蕾夏はそれだけでも精一杯なんじゃないか、と。だから、話すべきか随分迷ったし、ほんの僅かな余裕しかないなら、もっと先延ばしにしてくれて構わない、と。
でも、答えはたった1つに決まっている。
瑞樹のためのスペースなら、ちゃんと空けてある。どんな時だって。
抱えきれずに重たくなることへの不安より、瑞樹が話そうとしてくれたことの方が、ずっとずっと嬉しかったから。蕾夏を信じて、頼ってくれたことが、泣きそうな位に嬉しかったから―――だから、きっと空いてるスペース以上のものも、受け止められる。
ウーロン茶を一口飲んだ蕾夏は、小さく息をつき、赤い日記を手にした。
ずしりと重いその1冊を、通常とは反対に、裏表紙からめくる。2枚、めくったところで、早くも文字が現れた。
『7月16日(水)』
…暑い夏の日だったと、そう聞いていた。夏休み前の、皮膚を突き刺すようなギラギラした太陽を思い浮かべ、蕾夏は唾を飲み込んだ。
チラリ、と、上目遣いに瑞樹の顔を見る。ちょうどカクテルバーを口に運んでいた瑞樹は、目だけで頷いてみせた。遠慮なく読んで構わない、と。
胸が、少し速い。意を決して、再度視線を紙面に落とした。
1行目、2行目―――…冒頭、比較的冷静に始まった文章は、5行目辺りから混乱の様相を呈してきた。
無理もない。実の子の首を、その手で絞めようとした、いや、命を奪う寸前まで実際に絞めてしまったのだ。冷静でいられる筈もない。後悔と恐怖にとり憑かれたかのような文章は、その後何行も続いた。
そして、数行の空白。
その下に、唐突に冷静な口調で書かれた文章に―――蕾夏の目が、丸くなった。
『神様。
一度でも人の命を奪った人間は、平気でまた同じことをしてしまうのでしょうか?
だから、私は、実の子をこの手にかけようとしてしまったんでしょうか?
ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい
おかあさん―――私をゆるして おねがい 』
「―――…」
一瞬、意味が理解できなかった。
これは、どういう意味だろう―――何度か頭の中で繰り返した挙句、そこに見えてきた答えに、蕾夏の手が、知らず、震えてきた。
“一度でも人の命を奪った人間は”―――“おかあさん、私をゆるして”。
ここを、イコールで結ぶのは、発想の飛躍のしすぎだろうか? むしろ、そう考えるのが自然なのではないだろうか?
それでも―――そう考えるのが当然だとしても、信じられなかった。
「―――単なるあの女の妄想だ、って、思おうとした。何度も」
日記の文面に目が釘付けになっている蕾夏に、瑞樹は、暗く翳った笑いを返した。
「でも、無理だった」
「……」
「人を、殺してやりたいほど憎む―――そういう気持ちが、遠い世界のものでも何でもない…俺自身の中にもある感情だって、知ってるから」
『…藤井さんは、誰かを、殺したいと思ったことは、ありますか…?』
『私は、子供の頃は、ずっと思ってたんですよ。殺してやりたい、って』
確かに―――確かに、倖はあの時、そう言っていた。
相手の死を望むほどに、憎い―――そういう気持ちを持っている人間は、何も特殊な人間ではない。いくらでもいる筈だ。でも、そう思うことと“実行に移す”ことは、全くの別問題だ。
けれど、蕾夏もやはり、これを“ただの妄想”と一笑に付すことはできない。
何故なら、蕾夏自身も、知っているから。自分は絶対に人を傷つけたりしない―――そう信じていても、何かの理由から、他人に残酷な刃を向けることは、誰にだって十分あることなのだ、と。
「うん…。私も、分かる。瑞樹がそう言う気持ち」
“考えすぎだよ、気にしない気にしない”と言ってあげられれば、むしろその方が良かったのかもしれない。でも…そんな気休め、瑞樹も望んでいないだろう。蕾夏は、やっと顔を上げると、瑞樹の目を見据えた。
「それで―――瑞樹は、どうしたいの?」
「……」
「このまま、見なかったことにするのも、選択肢の1つだと思う。ただの妄想かもしれないし、事実…かも、しれないし。どちらにしてももう、倖さんは亡くなってるから…」
「…お前なら、どうする?」
ベッドにもたれ、片膝を立てた姿勢で、瑞樹は静かな表情のまま首を軽く傾けた。
「自分を産んだ母親が、もしかしたら、過去に誰かを殺してるかもしれない―――しかも、その罪を償わずに、その後の人生を送っていたのかもしれない。そういう可能性を見つけちまったら…お前なら、どうする?」
「…そんなの…簡単に、答えられないよ」
「―――俺は、俺とは関係のないことだ、と思おうとした。実際、あの女が過去に何をしてようが、子供の俺には何の関係もない。罪の肩代わりができる訳でもなければ、死んじまったあの女を生き返らせて自首させられる訳でもないからな。でも―――関係、なくても、無視できない」
そこまで言って、瑞樹の静かな表情が、僅かに歪んだ。
「“あいつ”を見た時、感じるものが―――俺があの女から受け継いだものなのかもしれない、って思うと…無視、できない」
「え?」
「…歯止めが効かなくなりそうな位の、“殺意”―――顔も性格も似てない俺とあの女と共通してるのは、それだけ、だから」
「―――…」
その言葉に―――蕾夏は、大きく目を見開き、言葉を失った。
ショック、だった。
母親の血から受け継いだものは、“殺意”だけ―――そんな風に思うことしかできない子供がいることが、ショックだった。
でも…瑞樹なら、そう思ってしまうのかもしれない。
瑞樹は、母親に愛された記憶を持っていない。普通の子供なら誰しも、僅かながらでも持っている筈の記憶―――母に抱かれ、無条件の愛を注がれた記憶がないのだ。物心ついた時、瑞樹の目には、決して自分達の目を見ようとしない、笑顔すら見せない母親の姿しか映っていなかったのだから。
母親に与えられたのは、愛ではなく、孤独と恐怖だけ。それならば―――そんな風に思うことしかできないのも、無理もないことなのかもしれない。
そして、そんな瑞樹を今苦しめているもう1つの原因は、蕾夏と直結している。
佐野が突然、現れたから。
今も蕾夏が、佐野に与えられた呪縛から解放されずにいるから―――蕾夏を縛り付ける佐野に、怒りを覚えている。憤りのあまり…“殺意”を、覚えている。そして、己の内に浮かんだその“殺意”に、倖から受け継いだDNAを感じて…震撼、している。
もしも蕾夏が、佐野の顔を見ても平然としていられたら…もう少し、事態は違っていたのかもしれない。
うろたえ、平静を保てず、傍目にもわかるほど心を乱されたから、余計―――瑞樹は、憤る。自分の態度が、瑞樹を苦しめている部分もあるんだ―――そう感じた蕾夏は、唐突にこみあげてきそうになる涙を、唇を噛むことで堪えた。
―――私なら…どうするだろう?
日記の余白部分に目を落とした蕾夏は、暫し、黙ったまま考えた。
瑞樹も言う通り、見なかったことにしたり、単なる妄想だと考えて忘れるのは、やはり難しい。けれど、倖は既に亡くなっている―――事実を本人に確認するのは無理だ。それに、まだ他の日記は見ていないが、瑞樹が疑問に思っている部分の答えがズバリ書いてある可能性は、極めて低いだろう。
では、どうやって、見つけてしまったこの一文に決着をつければいいのだろう―――逡巡する蕾夏の脳裏に、今日、瀬谷が言っていた言葉が蘇った。
『蘇芳が、あれからこれまでの時間、ずっと後悔して、ずっと怯えて、ずっと涙を流しながら生きていたことが、これを読んで分かった。許せはしないけれど…理解は、できた。理解できたら、哀れに思えた。そうしたら―――もう、終わりにしよう。そう思えた』
その人が、これまでの人生、何を考え、何を感じながら生きてきたか。
それを知ることができたら―――何か、変わるかもしれない。
まだ、迷いはある。瑞樹が知りたいと思ったら、話そうと思っていた。瑞樹がこれを知りたいかどうか―――それは、分からないけれど。
意を決し、蕾夏は顔を上げた。
「―――ねえ、瑞樹」
動揺の消えた蕾夏の表情に、瑞樹は一瞬、不思議そうな顔をした。が、すぐに真剣な表情に戻り、蕾夏の目を真っ直ぐに見返した。
「この日記のこと、考える前に―――倖さんを病室に訪ねた時、倖さんから聞いた話。瑞樹に、全部話してもいい?」
瑞樹の表情が、僅かに強張った。
そう言えばこの前、瑞樹自身、一度蕾夏に訊ねかけていた。“前に、神戸で、あの女に会った時―――…”そう訊ねかけて、結局、最後まで訊かなかった。きっと、瑞樹も予感していたのだろう。蕾夏が倖から聞いた話の中に、これを解くヒントがあるかもしれない…と。
瑞樹は暫し、じっと蕾夏の目を見つめていた。そして、やはり聞くべきだと思ったのだろう。ゆっくりと頷いた。それを見て、蕾夏はホッとしたように、表情を緩めた。
「…良かった。私1人だけ情報を一杯持ってるんじゃ、フェアじゃないと思ったの」
「―――心当たりがあるのか。ここにあいつが書いてる事に」
「ん…、心当たり、って訳じゃないけど―――無関係じゃないかもしれないこと」
「…話してみろよ」
瑞樹はそう言って、カクテルバーの瓶をローテーブルに置き、体を起こした。片膝立てていたのをあぐらに変え、蕾夏の方にしっかりと向き直る。蕾夏もそれに合わせ、自然、崩していた膝を正して正座になった。
「―――私ね。あの時、何故倖さんが瑞樹や海晴さんを見捨てるような真似をしたのか…その挙句、どうして瑞樹の命を奪う寸前まで行ったのか、それが知りたかったの。だから、それを訊ねたら―――逆に、倖さんに訊かれたの。“あなたは、誰かを殺したいと思ったことはありますか”って」
「……」
「…倖さんは、ある、って言ってた」
「…誰を」
「―――ご両親を」
「……」
「お酒に酔って、倖さんが気を失うまで
「―――…」
瑞樹の目が、僅かに見開かれた。
想像したことがなかったのだろう。蕾夏だって、話を聞くまで、その可能性を考えたことはなかった。虐待の連鎖という事例を、一般常識として知ってはいても―――それを、瑞樹と倖のケースに当てはめられるほど、瑞樹も蕾夏も客観的な立場には立てなかったから。
「…あの女も、虐待されてた、ってことか…?」
やっと声を絞り出す、と言った感じで、瑞樹が呟くように問いかける。痛々しい話に、蕾夏も眉を寄せながら、小さく頷いた。
「いつ頃の話かは、分からない。ただ―――倖さん、言ってた。一樹さんに出会うまでは、“愛”なんて全然知らなかった、って。そうやって育ってしまったから、自分は血の繋がりに愛情を感じられない人間になってしまったのかもしれない…って」
「……」
「倖さん、言ってた。あの日―――瑞樹が倖さんを見る目を見て、愕然とした、って。瑞樹の目、子供の頃の自分とそっくりだった、って。あの頃、自分が親に向けてた憎悪と同じものを、瑞樹が自分に向けてるんだ、って思って…怖くなったって」
その目を、蕾夏は知らない。どんな目をしていたのだろう―――それを想像して、蕾夏は痛々しさに目を細めた。
「――― 一緒に、死のうと思った、って言ってた」
「……」
「このままじゃ、“自分”が増える―――自分と同じ道を歩ませるのは可哀想だから…瑞樹を殺して、自分も死のう。そう思って、瑞樹を殺そうとした、って」
「―――……」
「…瑞樹…」
ぐらりと揺れる瑞樹の瞳に耐え切れず、蕾夏は、テーブルに添えられた瑞樹の手を思わず取った。
冷たい―――びっくりする位、その手は冷たかった。蕾夏は、両手で瑞樹の手を包むと、なんとか温めようとするように力を込めた。
「…大丈夫。それはあくまで、倖さんの考えだから。今の瑞樹は、倖さんとはまるで違う―――倖さんが増えた訳じゃないよ」
だって、瑞樹は、人の愛し方を知っているから。
我が子を、夫を、恋人を、どう愛すればいいのか分からず破綻してしまった倖とは違って、瑞樹は家族を、蕾夏を、ちゃんと愛することができるから。
「信じて」
「……」
「信じてよ―――“自分”を」
瑞樹の手を握る手に、再度、ぎゅっと力を込める。
硬い表情で蕾夏の目を見ていた瑞樹は、目を閉じると、詰めていた息を吐き出した。握られていた手を解き、ぐしゃっと髪をかき混ぜる。そうして再び上げられた顔は、幾分、落ち着きを取り戻していた。
「―――ああ。大丈夫」
「ほんと?」
「ああ。でも―――余計、ひっかかる」
「え?」
「あの女の過去が」
そう言って、瑞樹は日記の方を流し見た。
「あの女が、あの瞬間、俺にかつての自分を投影して怖くなったのは、分かった。だったら―――あの女が投影した“かつての自分”って、何だ? “自分が増える”と思って、思わず一緒に死んでしまおうと思うほど、増えることを怖がった“自分”は…何だ?」
「……」
「お前も、1つ、可能性に気づいてるんだろ?」
瑞樹の視線が、こちらを向く。その目は、もう動揺はしていなかった。
「あの女は、実の親を殺した―――だから、今度は自分が俺に殺されるんじゃないか…そう考えて、その未来に恐怖を覚えた。もしそうなら、辻褄が合う」
「……」
勿論―――蕾夏が考えたのも、そのことだった。
でも、それは単なる可能性でしかない。蕾夏が聞いた話と、たった数行の日記―――そこから見える倖が、倖の全てではないのは確かなのだから。
「…“可能性”じゃ、意味ないよ」
―――そうだよね?
確かめるように、瑞樹の目を見つめる。
返ってきた答えは―――予想通り、その問いかけに頷くような、瑞樹の目だった。
するべきことは、真実を知ること。
瑞樹の母でもなく、海晴の母でもなく、一樹の妻でもなく―――ただの“八代 倖”という女性を、見つけることだ。
***
それぞれの飲み物を補充して、改めて座りなおす。
瑞樹が開いた日記の1ページ目を、2人して覗き込んだ。
『2月16日(土)
一樹に連れられて、カウンセリングに行く。
瑞樹と海晴を一時的に施設に預けることを勧められた。一樹も、一度子育てから離れてごらん、と言った。
来週には、海晴の1歳の誕生日がある。それまで考えさせて欲しいと答えておいた。
みんな、私をあの子達から引きはがそうとする。私がダメな母親だから。
カウンセリングは嫌い。私はダメな人間なんだ、母親失格なんだ、と責められてばかりで、行けば行くほど気分が悪くなる。
施設に預けたりしたら、近所の人にも、一樹の両親にもバレて、もっと責められる。考えるだけで、ゆううつ。
とにかく1週間、叩かない、怒鳴らないの2つだけは心がけようと思う』
「…海晴が1歳になる直前か。俺は2歳になったところだな」
「日記にしては、随分スパンが長いよね。最終ページ、瑞樹が8歳でしょ?」
「あの段階ではな。あの年の11月に9歳になるんだから―――実質、7年か」
日記、と呼ぶのは、適当ではないのかもしれない。事実、次のページは、いきなり日付が飛んでいた。
『3月6日(水)
カウンセラーに、つらかったらすぐに電話してきなさい、と言われた。
でも、24時間ずっとつらいから、いつ電話すればいいのか分からない。
今日作ったハンバーグは、一樹にほめられた。
おいしい? と聞いても答えない瑞樹に腹がたって、一樹の前だというのに、何とか言いなさい! と怒鳴りそうになった。
そう言えば、最近、瑞樹の声を聞いた覚えがない。
カウンセラーに相談した方がいいのかもしれないけれど、もう手遅れです、と言われたら、どうすればいいんだろう?』
「―――…」
「ふーん…俺、この頃から無口だったんだな」
皮肉混じりな声でそう言う瑞樹の横顔を、チラリと窺う。
多分、この頃の記憶は、瑞樹にはないだろう。でも―――記憶なんて部分ではなく、もっと奥深い、体に刻み込まれた部分が覚えているのかもしれない…蕾夏は、そう思った。
暫く、こんな感じの日記が続いた。
カウンセラーや一樹にアドバイスをもらうたび、倖もその方向で一度は考えるものの、次の日記では、事態は何も変化していない。一樹の母が、せめて海晴だけはこちらで面倒を見るから、と提案してきた時も、倖は「いずれ瑞樹も引き取って、最後には離婚を迫ってくる気だ」と警戒している。そして、次の日記を見る限り、海晴が祖母に引き取られた形跡は全くなかった。
「これ、また言ってるな」
そう言って瑞樹が指差したのは、蕾夏も気になっていたフレーズだった。
『ダメな妻、ダメな母とレッテルを貼られてしまう。みんなできてる事なのに、どうして私にはできないの?』
まだ数ページ読んだだけだが、この類の表現は、毎回のように出てきている。妻失格、母失格と世間や一樹の親族に思われることを、倖はやたらと恐れている。
勿論、その先には「一樹に離婚を突きつけられるかもしれない」という部分もあるのかもしれないが、もっと基本的なこと―――特殊だ、異常だ、と周囲にレッテルを貼られることそのものが、嫌らしい。倖の「普通の母親と思われたい」という欲求は、傍目にはちょっと病的に映った。
「でも…少し、分かる気がする」
自分の身を振り返って、蕾夏はそうポツリと呟いた。
「私もね。手を握られたり抱きしめられたりして、相手が傷つくほど過剰に反応しちゃう自分が、凄く嫌だった。普通の人が普通にしてることができない―――そういう自分、学校や職場の仲間に知られるの、凄く怖かったの」
「……」
「倖さんも、そうだったのかも。…我が子が可愛いのが“普通”なのに、そうできない自分を周囲に知られるのが、怖かったのかもしれない」
「…かも、しれないな」
瑞樹にしても、“普通”とは言いがたい少年期を過ごしたし、自分が表には見せていない部分には、誰にも触れて欲しくないと思っていた。もし母が子供を愛せない理由に、幼少期の辛い記憶に繋がる部分があるのなら…人に知られるのを恐れるのも、分かる気がした。
だからと言って、母の行動は、黙認されるべきものではないが――― 一応、理解できる部分はある。瑞樹はそう思い、小さく頷いた。
日付が一巡し、どうやら翌年になったんだな、と思われても、根本的な問題は解決していなかった。
蕾夏から見て一番痛々しかったのは、瑞樹が3歳、海晴が2歳になって間もない頃の日記だった。
『3月30日(火)
あんまり海晴が泣くから、つい手を挙げてしまったら、瑞樹が海晴をかばった。
非難するような目で私を見上げてくる瑞樹に、どうしても抑えられなくて、平手で何度も叩いてしまった。
私だって努力してるのに、このままじゃダメだって分かってるのに、なんであんた達はいうことを聞いてくれないの?
私が産んだ筈なのに、ちっとも私の味方になってくれない。
それどころか、一樹そっくりな瑞樹を見てると、一樹が私を非難してるように見えてくる。
腹がたって、怖くて、一樹に責められてる気がして、寝室に逃げ込んで、鍵をかけた。
真っ暗になってから、恐る恐る居間に戻ってみた。
瑞樹は、どこから見つけてきたのか、クッキーの缶を引っ張り出してきて、真っ暗闇の中で海晴にそれを食べさせていた。
お兄ちゃんがいるから大丈夫だよ、と海晴に言っている瑞樹は、笑顔だった。あの子があんな風に笑えるなんて、ちょっと驚いた。
電気をつけてやると、2人して私を見上げた。
マァマ、クッキー、と笑ってクッキーを差し出す海晴とは対照的に、瑞樹は、私の顔を見た途端、また無表情になった。
夕飯の時、瑞樹が一樹に何か言わないかとビクビクしてたけど、何も言わなかった。ホッとした。
またカウンセラーのところに連れて行かれるのは嫌だ。
むしろ、瑞樹をカウンセリングに連れて行った方がいいのかもしれない。子供用のカウンセラーなんているんだろうか。
もし、ちゃんとした治療を受けたら、あの子も私に笑顔を見せるようになってくれるだろうか。
眠る前に、瑞樹に叩いたことを謝っていないことに気づいた。
今更謝っても、もう手遅れなのかもしれない』
「―――…」
「…人の日記読んで、泣くなよ」
蕾夏の頭の上に、ぽん、と、手が置かれた。
「ごめん」と呟く蕾夏に苦笑しながら、瑞樹は蕾夏の目に溢れていた涙を指で掬った。そうした仕草が、海晴の面倒を見る幼い瑞樹の姿と重なり、蕾夏は余計苦しくなった。
瑞樹は、冷静に日記を読んでいる。私が動揺してるんじゃ、意味ないよね―――蕾夏は、はぁ、と息をつくと、ウーロン茶と一緒に涙を飲み込んだ。
日記は、淡々と続く。
主に、一樹に知られたくないことがあると、黙っている代わりにここに吐き出している、といった感じの日記で、日付はバラバラに飛んでいた。瑞樹を叩いた、泣いてる海晴を放っておいた、食事を作れなかった、僅かなすれ違いから一樹と喧嘩をした、もうダメかもしれない―――そんな内容が、ひたすら続く。
唯一、楽しそうな日記だったのは、瑞樹と海晴を一樹の実家に預けて、夫婦2人で旅行に行った日記だけだ。瑞樹の名も、海晴の名も、そこには出てこない。やはり…母親になるべき人ではなかったのかもしれない、と蕾夏は感じた。
最後の日付は、瑞樹が6歳、海晴が5歳の年の、8月だった。
『窪塚さんに会った。
再会2周年を記念して、と言って、ワインで乾杯した。でも、味なんて全然わからなかった。
彼は、何も知らない。 私が一樹に見せてしまった醜い部分を、彼は全く知らない。
子供がいることも、子供が育てられない、できそこないな人間であることも。だから、話していて気が楽なのかもしれない。
一樹といると苦しい。
愛しすぎて、失うのが怖すぎて、なのに私は、一樹に愛想を尽かされることばかりで。
あれを、話してしまおうかと、時々思う。でも、できない。
一樹も、何かあることは気づいているようで、時々私にたずねる。そのことが余計、苦しい。
あの人は、何も知らない。だから単純に、今でも私を好きだ、なんて言える。
逃げたい。
ダメな自分から、逃げたい。
あの人は、その逃げ場を作ってくれるている。何も知らずに。
…つくづく、私って、嫌な女だと思う。
朝、のんちゃんから電話あり。おばさんが入院したらしい。カードを送っておく』
この日記を最後に、そこから先は、白紙ページが続く。
そして、延々白紙が続いた先に―――あの、酷く混乱した告白の、1ページがあった。
「―――…なあ」
全て読み終わり、大きなため息をつく蕾夏の傍らで、瑞樹はまだ日記の文面を睨んでいた。
「何?」
「これ。何回か見かけたよな」
“のんちゃん”。
瑞樹が指差したのは、その名前だった。
確かに、“のんちゃん”という名前は、日記の中に何度も出てきていた。のんちゃんから電話があった、のんちゃんに手紙を出した、のんちゃんが心配していた、等々―――実際に会ったという記述はないが、2ヶ月に1度程度の割合で、何がしかの連絡を取っているらしい相手だ。
「会った、っていう表現は、どこにもなかったよね」
「ああ。遠くに住んでる友達か何か、かも…」
「瑞樹、覚えがある?」
「いや…全然」
「…“のんちゃん”、かぁ…」
女の人かな、と、なんとなく思う。
それに、“おばさん”が出てきたり、“北小”という小学校の名前らしき単語も出てきているところを見ると―――相当、古い付き合いのように思える。
古い付き合い。
つまり――― 一樹ですら知らない、十代の八代 倖を知る人物。
「―――…」
同じことに考えが行き着いた2人は、無言のまま、思わず顔を見合わせた。
***
『え? “A-Life”が、“Clump
Clan”の取材なんてすんの?』
蕾夏の言葉に、受話器の向こうの奏が、意外そうな声で返した。
無理もない。“A-Life”は、確かに女性ターゲットの雑誌ではあるが、いわゆるファッション雑誌などとは全く毛色が違う。“Clump
Clan”を取材するなんて、奏からすればイメージできないだろう。
「経済関係の取材なの。うちの先輩ライターさんが頼み込んでも、オープンまでは取材は一切拒否、で通しちゃってるみたい。でも、出店そのものに関する新聞なんかの取材は、そこそこ受けてるみたいなの。多分、雑誌社ってことで、イメージが先行して断ってるんだろうと思うけど…」
『ふぅん…。それでオレに話をつけてくれ、ってことになった訳か』
「うん。…ダメ、かな。黒川さん経由ででも、なんとか広報の人に繋いで欲しいんだけど…」
黒川は、有名なスタイリストで、今回の仕事でも重要な責務を負っている立場でもあるが、それ以上に“Clump
Clan”の現オーナーの友人でもある。こんなことを頼んで立場的に問題ないのか、ファッション業界に疎い蕾夏には見当もつかないので、奏が大いに困る可能性も一応考えていた。
が、返ってきた答えは、思いのほかあっさりしていた。
『いいよ。やってみる』
「ホント?」
『オレ自身は、あんまりあっちのお偉方とは面識ないし、あってもモデルの立場やアシスタントの立場じゃ弱すぎるから、黒川さんに頼むことにする。大体あの人には、時間外労働を相当やらされてんだ。この位、役に立ってもらっても罰は当たんねーよ』
「あはは、がんばってるんだね、奏君も」
『まあね。今日でプロ養成講座、終わりだし―――実践の機会、ちょっとでも増やさないとな。そのために、黒川さんの現場には、全部くっついてくつもりでいる』
本気なんだな、と、奏の口調から感じる。
現在だって、モデルとしてそれなりの地位にいるのに、数年後を見越して行動している奏は、偉い。この1年で、随分と大人になったんだな、と驚かされるほどだ。
―――奏君て、2つ下だよね。2年前の私って―――うーん、将来を見据えるどころか、瑞樹と付き合ってすらいなかったんだっけ…。
2人とも、この2年で、劇的に人生が変わってしまったのだなぁ、と改めて実感し、蕾夏の口元に笑みがこぼれた。
『ええと…今日はそういう訳で、黒川さんもちょっと忙しいから―――返事、週明けになるけど、いい?』
「うん。どのみち私も、今週は土日休みだし」
『了解。あ、それと―――…』
奏の口調が、ちょっと言い難そうになる。妙な間を置いた奏は、もごもごと口ごもるように続けた。
『その、返事する時にでも―――会えないかな』
「え?」
『あ、勿論、成田と3人で』
「いいけど…どうしたの? 奏君から誘うなんて、珍しい」
『うん、まあ…ちょっと、相談ごと。将来について』
いまいち、歯切れが悪い。けれど、相談ごとなら、日本に頼る人の少ない奏の相談に自分達が乗るのは当然だ。
「ふーん…分かった。じゃあ、瑞樹にも言っておくね。月曜か火曜だよね」
『あ、いや、月曜でいい。火曜はちょっと、先約入ってるから、月曜に間に合うように、向こうの担当者と話はつける』
「先約?」
『うん。ほら、前言っただろ? 音楽担当の人。あの人と、ちょっと約束があるんで』
「―――…」
ドキン、と心臓が鳴った。
そうだ―――そのことを、すっかり忘れていた。花見に行った日、確かに奏の口から聞いていたのに…迂闊だった。蕾夏は表情を曇らせ、テーブルの上に視線を落とした。
佐野は、奏と自分達が知り合いであることを、知っているのだろうか? 奏の話から、何かを感づいている可能性はある。でも…奏にとっても、蕾夏達のことは、あまり気軽に話題にできることではないだろう。現状がどうなのか、判断はできない。
話さないよう、釘を刺した方がいいのだろうか―――迷いつつも、蕾夏は口を開いた。
「あ…あの、奏君?」
『ん?』
「その、音楽担当の人って―――…」
言いかけた時、蕾夏が座る席の窓ガラスが、コンコン、とノックされた。
ハッと顔を上げると、窓ガラスの向こうに、瑞樹の顔があった。A4サイズの紙を数枚手にして、それを蕾夏に掲げて見せている。
『蕾夏?』
「…あ、ううん、なんでもないの。ごめん、時間切れになっちゃった。そろそろ切るね」
『? うん。じゃあ、また』
幸い、奏もあまり不審には感じないでくれたらしい。
―――うん…、とりあえず今は、佐野君のことは、こっちに置いておこう。
今は、瑞樹のこと、そして倖のことだけを考えたい。慌しく電話を切りながら、蕾夏は頭を切り替えるべく、軽く深呼吸をした。
ランチで混雑する店内を抜け、瑞樹は間もなく、蕾夏の向かいの席に座った。
「悪い。遅くなった。休憩時間、大丈夫か?」
「うん。まだ余裕ある。…どう? 海晴さんと連絡とれた?」
「ああ」
そう答えつつ瑞樹が荷物を隣の席に置いているところに、ウェイターが注文を取りに来た。相手が来るまでは、とオーダーを保留していた蕾夏も合わせて、2人揃ってランチを注文しておいた。
「しっかし…眠いな、さすがに」
「うん…。瑞樹、この後、夜中まで撮影でしょ? 大丈夫なの?」
「気力で乗り切る」
実は今日は、2人共ほとんど眠っていない。日記を全て読み終えるのに、夜中の3時までかかってしまったのだ。
2時間ほど仮眠をとり、始発で自分の家に帰った蕾夏は、シャワーを浴びると、更に30分ほど意識を失っていた。そして、朝食を取る暇もなく出社した。午前の仕事は、頭がグラグラしながらの仕事になってしまった。
瑞樹にしても、午前中は撮影準備と所用のため、睡眠時間は蕾夏とほぼ同じだ。これで、午後から夜中まで撮影だというのだから、相当厳しい。
こういうスケジュールなので、今夜は会うことができない。明日、スムーズに行動するには、どうしても今日中に会っておきたかった。で…、珍しく、ランチで待ち合わせということになったのだ。
「でも、睡眠削って連絡取った甲斐はあったぜ」
「ほんと? 見せて」
身を乗り出す蕾夏に、瑞樹は、手にしていたA4の紙数枚を、ランチが運ばれてくる邪魔にならないよう、テーブルの窓際へと並べた。
それは、瑞樹が午前中、海晴から送ってもらったFAXだった。
その内容は、倖の葬儀の時、参列者が記帳した名簿―――その中でも特に、窪塚の関係者ではないことが明らかになっている参列者の分の写しである。
そう―――2人の目的は、例の“のんちゃん”だ。親友なのか、親族なのか…とにかく、あの日記の様子がつい最近まで続いていたのだとしたら、葬儀にはきっと参列している筈だと踏んだのだ。
「長崎に行ってからの友達は、外してもらった。横浜とか神戸時代の仕事の仲間は、親父に電話で確認した。で…、残ったのは結局、この1枚だけだった」
そう言って瑞樹が抜き出したのは、やっぱり女性の名前だった。
『三田典子』
「典子―――“のんちゃん”…」
その名前の横には、北海道小樽市の住所が書かれていた。
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