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― Breakthrough -3- ―

 

 呼び出し音が3回鳴り、4回目が鳴り出した途端、途切れた。
 『はい、三田でございます』
 落ち着いた、中年輩の女性の声が名乗る。多分、本人だろう―――スピーカーホン越しの声を同時に聞いた瑞樹と蕾夏は、一瞬目を合わせた。
 柄にもなく、少し緊張する。いや、基本的に喋るのは得意ではないので、他人への電話はいつだってストレスになるものなのだが…この電話は、特別だ。深く息を吸い込んだ瑞樹は、若干、スピーカーホン用のマイクに口を近づけた。
 「三田典子さんのお宅でしょうか」
 『? はい、そうですが』
 「突然、すみません。あの―――成田、と申します。八代 倖の、息子の」
 『……』
 電話の向こうからの反応は、すぐには返ってこなかった。数秒の空白の後、返ってきた声は、驚きを表すように、僅かに高くなっていた。
 『え…っ、あ、あの、さっちゃんの息子さん、って―――…もしかして、瑞樹君?』
 いきなり名前を呼ばれ、逆に、瑞樹の方が驚いた。母の古い友人だろうとは思ったが、離婚から十数年経っているので、名前を聞いていたとしても覚えてはいないだろうと予想していたのだ。
 「はい。成田瑞樹です」
 『まあぁ! あっ、私が、三田典子本人です。お母様には色々お世話になりまして』
 「いえ。こちらこそ」
 あの母が誰かを“お世話”するなんて考えられないから、むしろ母が“お世話になった”確率が高い。社交辞令だろうな、と思いながら、瑞樹も社交辞令を返した。
 『あの、でも…どうして、うちの電話番号を?』
 ふと冷静に立ち返って、疑問に思ったのだろう。スピーカーから聞こえる声が、少し警戒した色合いになった。無理もない。海晴ならまだ多少は理解できるだろうが、瑞樹から電話があるなんて、彼女にとっては、接点ゼロの赤の他人からの電話に等しい筈だ。
 「妹から、母の葬儀の時の参列者名簿を借りたんです」
 『ああ、それで…。もうすぐ、一回忌ですねぇ。お葬式の時には、瑞樹君はお仕事で海外に行ってらっしゃるとかで、お会いできなかったけど―――さっちゃんもまだまだ若かったのに、人間っていつお迎えが来るか分からないものですねぇ…』

 海晴の話によれば、三田典子を葬儀に呼んだのは、母が生前「もしもの時には、この人とこの人に連絡して」と指示した住所録の中に、三田典子も入っていたためらしい。
 海晴は、三田典子という名前そのものは、一応見覚えがあるという。母宛の郵便物の中に、その名前が混じっていたそうだ。頻度は極めて少ないが、母宛の手紙自体珍しいので、一度誰なのか訊ねたところ「古い友達だ」としか答えてくれなかったという。
 一方、父は、三田典子という名前を全く知らなかった。ただ、結婚当初、極稀に「コウサカです」という同年輩の女性からの母宛の電話を受けたことがあるという。この女性についても、母は「古い友達」と説明していたので、もしかしたら、三田典子の旧姓がコウサカなのかもしれない。
 父も海晴も、急に瑞樹が母の交友関係を訊ねたりするものだから、かなり怪訝そうにしていた。が、幼い頃から1人で決め、1人で行動するのが瑞樹だったので、ちょっと確認したいことがある、と言う瑞樹に、特に異論は唱えなかった。
 とはいえ、それは、瑞樹の性格を良く知る2人にだから、通用すること。
 他人の三田典子には、電話した理由を告げない訳にはいかない。

 『ええと、それで、何かうちに御用? あ、もしかして、一回忌のことで何か』
 「いえ、そういう訳じゃ…」
 曖昧に否定しつつ、蕾夏の方を流し見る。
 どう説明するかは、昨日の昼、ランチを食べながら既に話し合ってある。色々、もっともらしい事情を考えもしたが、結局、事実をありのまま話すしかない、という結論に達した。ただし―――日記のあの1文については、さすがに伏せておいた方が無難だろうが。
 瑞樹と目が合った蕾夏は、真摯な表情で、小さく頷いた。それを合図にしたように、瑞樹は口を開いた。
 「三田さんに、母について伺いたくて、お電話させていただきました」
 『え?』
 「…母については、父も、出会う前の事をほとんど知らない状態で…俺達きょうだいも、母の個人的なことは何も知らないで来ました。離婚して相当経つし、親子関係も良好とは言えなかった俺ですけど…今更ながら、母の過去のことを、少しでも知りたいと思ったんです」
 『まあ…そうだったんですか…』
 「実は―――この前、母の日記が見つかったんです。その中に、何度か三田さんのお名前が出てきて…で、葬儀の時の話を聞くと、父や妹の知る範囲内にいない参列者は、三田さんだけだったので、きっと三田さんは母の古い友人なんだろう、と」
 『ええ、確かに、古いですよ』
 典子の不審げだった声が、事情が分かって安堵したように、明るく変わった。
 『私、今は結婚して小樽に住んでますけど、生まれは名古屋で、小2の時に親が札幌に転勤になって以来、独身時代はずっと札幌だったんです。さっちゃんとは、札幌の小学校に転校した時から友達になったんですけど、さっちゃんも、お父さんの仕事の都合で、小学校入学と同時に札幌に越してきたらしいですよ』
 「札幌の前は、どこに?」
 『横浜だって言ってました。生まれも育ちも横浜だ、って』
 横浜―――…。
 母がいつ、北海道から横浜へと移り住んだのかは不明だが、横浜で父と出会った、その背景だけは理解できた。
 母は、生まれ故郷だから、戻ったのだ。横浜に。
 「どんな風でしたか、母は」
 『ちょっと引っ込み思案だけど、可愛い人でしたよ。打ち解けると、よく笑うし。勉強もよくできてたんじゃないかしら。ただ…』
 「ただ?」
 電話の向こうで、典子が少し、言いよどむ。再び聞こえてきた声は、少し躊躇いを含んでいた。
 『その…3年生と4年生の2年間は、頻繁に学校を休んでたんですよ。つまり…なんか、よく体調を崩していたみたいで』
 「……」
 『同じ頃から、お母さんも働きに出たりしてたから、私も子供心に“もしかしてさっちゃんは、治療に凄くお金のかかる難病にかかったのかもしれない”なんて、勝手に想像して泣いたりしちゃって。5年生からは普通に通うようになりましたけど、その2年間で“病弱な子”ってイメージが固定しちゃったんですよ。実際のさっちゃんは、とても元気な子なのに』

 思わず、蕾夏と2人、顔を見合わせる。痛々しい蕾夏の表情に、蕾夏も同じことを考えているのが分かる。
 3年生と4年生の、2年間―――それが、倖が父親から折檻されていた時期に違いない。

 「…その“体調を崩してた”2年間で、やっぱり変わりましたか」
 『さっちゃんが? …ええ、まあ…やっぱり、少し暗くなってしまって―――ああ、でも私は、そこから先の付き合いの方が長いから、少し陰のあるさっちゃんが好きでしたけど。ただ…やっぱり学校には馴染みにくかったみたいで、中学も小学校からの持ち上がりだったから、友達付き合いには苦労してました。古い友達が私1人なのも、この時の病気のせいですよ、きっと』
 「…そうですか」
 きっと典子は、倖がただの“病気”ではなかったことを知っているのだろう―――口調から、なんとなくそう思った。ただ、他人の家庭のことだし、ましてや相手がその息子であるから、あまり立ち入ったことは言うべきではない、と判断しているのだろう。どうやら三田典子は、ゴシップ好きの中年女性、というより、他人の私生活には適度に距離を置く、極めて良識のある女性らしい。
 良識派であるなら―――こちらから、知りたい話題に踏み込むのみ。
 「母は結局、いつまで札幌にいたんでしょうか」
 『中3までです』
 「…てことは、離婚後、ですか」
 『……』
 スピーカーから、息を呑む気配を感じた。
 『―――あ…あの、もしかして、さっちゃんのご両親が離婚されたこと、ご存知なのかしら』
 恐る恐る訊ねる声は、静かながら、驚きを滲ませていた。当然だろう。父と出会う前の母については全く知らない、と最初に言ったのは、瑞樹の方なのだから。
 「…一応、中2で両親が離婚したことだけは、偶然知りました」
 『そ、そう…』
 「ただ、詳しいことは知らないので、母の父方の苗字も知らない有様なんですが」
 『―――“秋本”さん、ですよ』
 離婚の件を瑞樹が知っているなら、何も隠す必要はない、とホッとしたのだろうか。答える典子の声は、どこか安堵したような声音だった。
 『秋本 倖―――私が、一番最初に友達になった時は、さっちゃんはそういう名前でした』
 「…なんか、耳慣れないな」
 『ふふふ、まあ、そうでしょう』
 「母は、家族については、何か言ってましたか」
 『…あんまり、話してくれませんでした。友達になって間もない頃から。…多分、あまり仲は良くなかったんだと思います。一人っ子でしたから、きょうだいの話もないし…家族のことは、本当にあまり話さない人だったんです』
 「離婚後は? 横浜に戻ってしまったんですか?」
 『いいえ、お母さんと一緒に、札幌市内で暮らしてましたよ。ただ―――中3の夏に、お母さんが亡くなってしまったので』
 案の定、話を倖の両親に広げた途端、その話が飛び出した。瑞樹は、僅かに緊張を高めつつ、慎重に口を開いた。
 「―――亡くなった、んですか。祖母は」
 『あ…、ご存知なかったのね。ごめんなさい』
 「いえ。でも、なんでまた」
 『それが、ねぇ…。事故だったんですよ』
 「事故?」
 『離婚後にさっちゃんとお母さんが住んでいた家、かなり古いアパートだったから、あちこちガタがきてたみたいで―――物干し台の手すりが腐ってて、誤って転落してしまったんです』
 「……」
 『夏休みの補習から帰ったさっちゃんが見つけて119番した時には、もう虫の息で…結局、助かりませんでした。日中、住人もほとんどいないアパートでしたから、発見が遅れてしまって…』
 「…そう、ですか」

 だとしたら―――倖の母親は、事故死、ということなのだろうか。
 いや…まだ、分からない。倖が突き飛ばして落ちた、という可能性だって否定できない。もっとも―――そこまでの殺意を抱くとしたら、見て見ぬふりをした母親よりも、実際に暴力を振るった父親に対しての方が自然だが。

 「それでその後、残りの中学半年間は、どうしたんですか」
 『…その辺は、込み入った話なので、私もあまり…。それに、お母さんが亡くなって以降、さっちゃん、いきなり転校してしまったので』
 「え?」
 『連絡が来たのは、東京の方の全寮制の高校に入学してからなんですよ。以来、月に1度は手紙をやりとりしてましたよ。まあ、私が結婚してからは、2、3ヶ月に1度になっちゃいましたけどねぇ』
 「…あの、親が離婚した上、母親が亡くなって―――全寮制の高校の学費は、一体どこから?」
 『え? さ、さぁ…? その…、ごめんなさい。プライベートなことは、あまり話さない人だったから。でも、離婚したばかりの時、うちの母が“学校にはちゃんと通わせてもらえるのか”って心配したら、お父さんからちゃんと養育費が入ってるから心配ない、って答えてましたから。高校も、そういうことだと思いますよ?』
 そうか、そういうのが普通はあるんだよな、と、瑞樹も納得した。
 瑞樹の両親の場合、母親がそこそこ稼ぐ正社員だったことと、2人の子供を1人ずつ引き取ったことから、双方養育費の支払いや慰謝料の請求はなかったのだ。倖の母親も、さっきの話では途中から働きに出ていたらしいが、女手1つで子供を育てられるほどの収入はなかったのかもしれない。
 というか―――案外、まともな奴じゃないか、と、少し意外だった。
 倖を、気を失うほどに折檻したという男―――まだ見ぬ、瑞樹の“祖父”。とんでもない非常識男だろう、と想像していたのに、離婚後、ちゃんと決められた養育費を払い、全寮制の高校に通わせたのだとしたら、極々まともな、常識的な男ということになる。
 どんな人なのだろう…。倖が、その死に関わっているかもしれない“祖母”より、“祖父”の方に興味が湧いた。
 『ごめんなさいね。電話じゃあ、あんまり細かいこと、言えなくて』
 「…いえ」
 “電話”じゃ、“言えなくて”。
 微妙な言い回しに、少々ひっかかる。
 『この春から、うちの両親が同居してるもんですから、あまり長い時間、お電話できないんですよ。今も母が後ろでジロジロ見てて、ほんと、困っちゃいますよ』
 「はあ…」
 …なるほど。
 典子の妙な言い回しの意味を、なんとなく理解する。
 典子の母は、当然、倖のことも知っている。そしてその母親のことも。子供世界ではどうだったか知らないが、離婚や事故死といったスキャンダルに見舞われた倖やその両親については、ご近所でも話題になっただろうし、典子の母も大いに興味があることだろう。
 口さがない連中の前では、当たり障りのない話しかできない、ということか。もしかしたら、瑞樹自身が子供の頃にどういう目に遭ったのかも、この人物は知っているのかもしれない。倖が手紙などで打ち明けている可能性は、確かに高そうだ。
 『直接お会いできれば、小さい頃一緒に撮った写真とか、卒業アルバムとか、色々あるんですけどねぇ…。さっちゃんから貰った手紙、全部取ってあるし。北海道にいらっしゃることがあれば、遠慮なく連絡下さいよ。私ね、さっちゃんから貰った、赤ちゃんの時の瑞樹君の写真、まだ取ってあるんですよ』
 「え、」
 思わず眉を顰める瑞樹の横で、蕾夏がくすっと笑った。
 『あの赤ちゃんが、立派な大人になったとこ、是非拝見したいわ。あ…、でも、もうお仕事されてますよね? 北海道にいらっしゃることはあるかしら』
 「いえ、今のところは。でも、機会があれば、是非」
 『お仕事は、何を?』
 「カメラマンをしています」
 その前にSEをやっていたことは、別に説明することもないか、と瑞樹が簡潔に答えると、電話の向こうの声の高さが、3音ほど、跳ね上がった。
 『カメラマン!? まぁ! 本当にカメラマンやってらっしゃるの!?』
 「? はあ…」
 『まあ…、血筋って、やっぱり凄いわねぇ』
 「え?」
 意味が分からず眉をひそめる瑞樹に、典子は、思いがけない一言を告げた。
 『さっちゃんのお父さんも、カメラマンだったんですよ』
 「……」

 ―――あの女の…父親が?
 さすがに予想外の話に、瑞樹は視線を泳がせ、思わず蕾夏の方を見た。蕾夏も、少し驚いたように目を丸くしていた。

 「あ…あの、祖父が、ですか?」
 『ええ、そうですよ』
 「カメラマン、って…その、どういった系統の…」
 『系統?』
 「どこかに勤めてたとか、それともフリーで写真を撮ってるようなカメラマンとか…」
 『ええと―――…さっちゃんが引っ越してきたばかりの頃がどうだったかは、よく分からないなぁ…。あ、でも、途中で職場が変わったことは、よく覚えてますよ。転職先が、うちが取ってた新聞だったから』
 「新聞?」
 『ええ。さっちゃんのお父さん、日和(にちわ)新聞のカメラマンさんだったんです』
 「日和―――…」

 スピーカーからの声に、蕾夏の目が、一層丸くなった。

 「…うちのお父さんの会社だ…」

***

 「うーん…まずいなぁ。こういう時、日頃整理整頓してないツケが回ってくるねぇ」
 キャビネットの中に半ば頭を突っ込んだ状態でぶつぶつ言う父親に、
 「…しかも、これ以上まだ撮る気でいるんでしょ? ちょっとは整理するとか捨てるとかしようよ、お父さん…」
 毎度おなじみのことをボヤく娘。
 久々の光景を、少し離れた位置から眺めつつ、瑞樹は、初めて足を踏み入れた“書斎”の内部を無意識のうちに観察していた。

 この部屋は、蕾夏の説明では、元々は“客間”だったらしい。が、宿泊するような客も来ないし、幼馴染の翔子などが泊まりに来る時は蕾夏の部屋に布団を持ち込んでいたので、なし崩し的に、父親の“書斎”にされてしまったのだそうだ。
 カメラやフィルムを保管している防湿庫やら、本やアルバムが大量に並んでいる本棚やら―――藤井 匠という人物の趣味まるだしなその部屋の壁には、大判に焼き増しした写真が、額装して飾られている。
 ―――あったかい色だな。
 そんな風に思い、自然と、口元が綻ぶ。
 合計5枚の写真は、風景だったり植物だったり、題材は様々だ。が、色合いは、どことなく似ている―――どれも、ふんわりと暖かい空気をはらんだような、優しい色をした写真だった。

 「今度は沖縄なんでしょ。久々だから、撮りまくること必至だよ。行く前に整理したら?」
 ゴールデンウィーク中の夫婦での旅行のことに触れ、蕾夏が唇を尖らせる。月曜日から1週間、行ってくるらしい。何歳なのか知らないが、夫婦揃って本当にいつまでも仲がよろしいことだ。
 「ああ、大丈夫大丈夫。今回はそんなに撮る気、ないよ。夏子とのーんびり、ドライブとゴルフを楽しんでくるのが主目的だからね」
 「…あっそ」
 「それに、最近は、ああいう“大自然いっぱい”より、もうちょっとレトロなムードに憧れててねぇ…。あ、そうそう。ほら、前に蕾夏のとこの雑誌で、瑞樹君が撮ってた写真」
 そう言って、蕾夏の父は体を起こし、瑞樹と蕾夏を振り返った。
 「古い映画館を特集したやつ。ああいうの、いいねぇ。あれ見て以来、モノクロで近所を撮ってみるのも面白いかなぁ、なんて僕も思ってるんだよ」
 「…ありがとうございます」
 なんであれ、自分の写真に影響を受けるほど入れ込んでくれるのは、ありがたいことだ。瑞樹は、その言葉を素直に受け、僅かに微笑んだ。
 「ああいうの、もうやらないのかい?」
 「いえ―――上手くいけば、今年中には、また」
 な? と、瑞樹が蕾夏の方に目配せすると、蕾夏も、ちょっと嬉しそうな、照れているような笑みを浮かべた。
 「うん。お母さんには電話でちょっとだけ話したけど―――今、準備してる企画が通れば、最低1年、瑞樹の写真に私の文章、っていうコラム連載を持てるんだ」
 「ああ! なんか、夏子からそんなような話聞いたよ。何を撮るんだい?」
 「とりあえず、今回は、浅草」
 そう。企画が通れば、記念すべき第1回となるであろう今回の記事に、2人は浅草を選んだ。
 浅草は、2人で撮影に行った、一番最初の場所だ。
 単なる暇つぶしの延長線上で出かけた場所だったが―――あそこで2人は、自分達の感性が驚くほどにシンクロしていることを見つけた。今の2人の関係の原点が、あそこにある―――そういう意味で、浅草は、2人にとって意味深い場所なのだ。
 「へーえ、浅草かぁ。いいねぇ。もう撮ったの」
 「いえ、まだです。今週末は、これで潰れたし…それに、ゴールデンウィーク中は、浅草も結構混むんで」
 「ふーん…。でも、実現すれば、まさに“写真集”だねぇ」
 ニコニコの笑顔でそう言う蕾夏の父に、瑞樹と蕾夏は、一瞬互いの顔を見、それから笑みを浮かべた。
 母のことや、佐野のことや、奏のことや―――最近、考えなくてはいけないことが多すぎるが、できればこのコラム企画に集中したいのが、2人の本音だ。

 自由になりたい―――前に進もうとする自分達の足を絡め取る、過去から。
 そして、自由になるための鍵は―――全部、自分達自身の中にある。実際に足を引っ張っている人間など、誰もいない。問題は、過去を振り切れずに囚われている、自分達自身だ。
 だからこそ―――…。

 「―――あ! これだこれだ!」
 ようやく、目的の写真を見つけたらしい蕾夏の父が、声をあげる。
 途端、瑞樹の顔にも、蕾夏の顔にも、僅かに緊張が走る。2人は、蕾夏の父の傍に歩み寄り、手にしている大判の写真を覗き込んだ。
 「多分、この1枚だけだと思うよ。なにせ、本社と北海道支局の人間じゃあ、あんまり交流がなくてねぇ」
 それは、学校の集合写真でもよくある、台紙付きの写真だった。
 薄い和紙を1枚めくると、ずらりと並ぶ顔、顔、顔…。なんでも、本社の人間の一部が揃って北海道に行った時、向こうの支局の仲間と一緒に撮った写真らしい。
 「アメリカに発つちょっと前だから、ええと―――22、3年前ってところかな? これが僕」
 「…それは、見れば分かるよ」
 確かに老けはしたものの、若い頃と顔立ちがほとんど変わらないのだから、娘である蕾夏に分からない筈もない。
 「それより、秋本さんは?」
 「ちょっと待ってくれよ。ええと…」
 「―――これ、だろ」
 何故か。
 何に、その予感を覚えたのか―――瑞樹は、一番端に立つ男性を、まるで吸い寄せられたように指差していた。

 年の頃は、50前後。白髪混じりのせいか、グレーに見える髪をした男性が、そこには立っていた。
 冬に撮影したのか、厚手のジャケットの中に、暖かそうなタートルネックを着ている彼は、母との共通項はあまり見られなかった。そして、瑞樹自身とも、さして似てはいなかった。
 ただ―――なんとなく、醸し出すムードが、似ている。
 初めて会った気がしない―――そんな気がするのは、顔の造作とかそういうレベルじゃない、全体的なムードの問題なのかもしれない。とにかく、瑞樹は、初めて見るその男性の顔に、妙な親近感を覚えた。

 「どれ? …あー、そうそう! それが秋本さんだよ、確か」
 瑞樹が指差す顔を確認して、蕾夏の父が「瑞樹君、凄いねぇ」などと感心した声を上げた。反応に困り、瑞樹は曖昧な笑みを返した。
 「僕より15以上は年上だったと思うけど、なんていうか―――あんまり、年の差を感じさせない人だった記憶があるなぁ。物静かな人でね、酒の席でも、飲みながら周囲の会話を黙って聞いてて、時々微笑む位の感じで。うん…確かに、顔立ちは全然違うけど、どこかしら瑞樹君に通じる部分があったよ」
 「……」
 「しかし、びっくりだよねぇ。まさか、こんな昔に、瑞樹君のお祖父さんに会ってたなんて」
 感慨深げにそう言って、蕾夏の父は、まだ視線が写真に釘付けになっている瑞樹と蕾夏の顔を見比べた。
 「僕もね、この時の北海道支局の連中の大半を覚えてないけど、カメラ好きなせいで、カメラマンだった秋本さんだけは、なんとなく覚えてたんだよ。しかも、その孫の瑞樹君も、一度は他の職業に就いていながら、カメラマンになってるなんて―――つくづく、縁や運命って、不思議なもんだねぇ…」
 「―――うん…不思議、だよね…」
 蕾夏も、写真を見つめたまま、ポツリと呟いた。
 瑞樹も、思う。運命とは、なんて不思議なものだろう…と。
 母とは、ほとんど共通する部分のない自分。なのに―――母を経由して、その存在すら知らなかった“祖父”の素質が、確実に受け継がれていたなんて。
 でも…そう思うと余計、胸が苦しくなる。
 母を折檻したという祖父―――そして瑞樹に手をあげた母。自分もまた、その暴力的な資質を受け継いでいるのだうか? その可能性に―――そして、それを否定しきれない自分に―――不安を覚える。

 「匠さん」
 コンコン、と、背後のドアがノックされた。
 ドアが開くと、蕾夏の母が顔を覗かせた。ずっと電話をかけていたのだが、やっと終わったらしい。
 「残念。コバちゃん、今日は出勤日じゃなかったみたいよ」
 コバちゃんというのは、蕾夏の母の同期で、現在北海道の社会部部長をしている人だそうだ。瑞樹から秋本の話を聞き、急遽、北海道支局に電話して、その人物に秋本について訊ねてくれたのだ。
 「うーん、そうかぁ…。仕方ないねぇ」
 「でも、カメラの横山さんがいたから、ちょっと訊いてみたの。そしたら彼、秋本さんと在籍時期が重なってたんですって。運が良かったわ」
 「…祖父を、知ってる人がいたんですか。局内に」
 思わず瑞樹が問い直すと、蕾夏の母はニコリと微笑んだ。
 「ええ。その人、年齢は全然違うけど、中途採用だった秋本さんとは社会部同期なんですって。だから、秋本さんのことはよく覚えてるって。ただ…残念だけど、うちがアメリカに行ってる間に、定年を迎えることなく、亡くなったそうだから―――ご本人に会うのは、無理ね」
 「そうですか…」
 「でもね。幸い、秋本さんをうちの会社に引っ張ってきた人が、まだ健在なんですって」
 「え?」
 「桑原さんっていって、うちの北海道支局の社会部OBなの。秋本さんがうちに入る前からの友人だそうだから、かなり古い話までよく知ってらっしゃるそうよ」
 「ああ、桑原さんか」
 名前に聞き覚えがあるらしく、蕾夏の父も、少し首をかしげるような仕草で言葉を挟んだ。
 「あの人なら、話を聞くには最適だよ。御年74だけど、下手すりゃ僕らが論破されてしまうほど、矍鑠(かくしゃく)とした人だからねぇ。定年後は、全国の支局を顧問として回ってたけど、今は完全に勇退して、フリーのコラムニストとして、いまだに世界中を駆け回ってるはずだ」
 「74歳で? すごーい…」
 自らも文筆を生業としている蕾夏は、74歳になった自分に、果たして現在と同じ取材活動が続けられるかどうかを想像し、思わず震え上がった。
 「最近は、中国に入り浸ってるって聞いたけどねぇ」
 話を聞くのは無理なんじゃないか? と蕾夏の父が母に目配せすると、母もそれに頷いた。
 「そうなの。でもね―――ちょうど、来週の金曜日から4日間だけ、札幌の自宅に戻ってくるらしいのよ」
 「―――…」
 「横山さん、桑原さんの連絡先を知ってるから、もし用事があるなら伝える、って言ってくれてるの。…瑞樹君、どうする?」

 来週の金曜日から―――4日間だけ。
 祖父のことをよく知る人物が、その期間だけ、日本に戻ってくる。しかも―――三田典子もいる、北海道に。

 一瞬、蕾夏と顔を見合わせる。が、2人の考えは同じだった。
 瑞樹は、蕾夏の両親の顔を交互に見つめ、口を開いた。

 「…会いに行きたい、と―――会って、祖父の話を聞きたいと、伝えてもらえませんか。俺…北海道に、会いに行きますから」

***

 夕暮れ時の駅は、静かだった。
 考えてみれば、今日は普段の土曜日とは、ちょっと訳が違う。ゴールデンウィークの初日―――泊りがけで出かけている人が多いのかもしれない。
 都心へと戻る電車を待ちながら、瑞樹と蕾夏は、なんとなく空を眺めていた。
 夕日に染まった空は、複雑な色をしていた。地平線に近いところは、燃えるような色…そこから順に、色が微妙に変化していき、途中は紫色、ラベンダー色…そして最後に、夜の始まりを思わせる、濃紺。
 「綺麗だね…」
 空を見上げたまま、蕾夏が呟く。
 「…ああ。自然界の色って、不思議だよな…」
 瑞樹も、微かに笑みを浮かべ、そう答えた。
 心の大半は、空の色に奪われている。けれど―――2人とも、1点だけ、別のことを考えていた。

 北海道行きは、その後、トントン拍子で決まり、来週の日曜日となった。
 午前中電話した三田典子にも改めて電話を入れ、会うことにした。1日限り、過去への―――自分が生まれるより過去への旅だ。

 「…何か、事情があったんだと思う」
 小さく、そう呟くと、蕾夏はゆっくりと視線を瑞樹の方へと移した。
 「何か、自暴自棄になって、お酒に溺れちゃうようなことが―――勿論、その矛先を小さな子供に向けたのは、たとえその理由が何であれ、絶対に許せない。許せないけど…そういうことって、あると思う。誰でも」
 「……」
 「“許せないけど、分かる”…そういう感覚って、あるんじゃないかな。秋本さんが倖さんに手をあげた理由…倖さんが、瑞樹に手をあげた理由。どっちも、絶対に許せないことだけど―――人間て、弱いから。だから、理解はできる気がする」
 「…そうだな」
 許せないけど―――理解は、できるのかもしれない。
 理解して…哀れな奴、と、思えるのかもしれない。その理由如何によっては。
 そして、そう思えた時―――何かが1つ、終わるのかもしれない。自分の中で。
 「…ねえ、瑞樹」
 「ん?」
 「瑞樹は、優しいよ」
 唐突な言葉に、瑞樹は少し目を丸くし、蕾夏を見下ろした。
 瑞樹を見上げた蕾夏は、その目を真っ直ぐ見返し、瑞樹の手を軽く握った。
 「秋本さんがどうでも、倖さんがどうでも、瑞樹自身は…最高に、優しい。それはきっと、倖さんや秋本さんより、瑞樹の心が強いからだよ。…強いからこそ、優しくなれるんだと思う」
 「……」
 「虐待の連鎖も、暴力の連鎖も、瑞樹なら断ち切ることができる。ううん…もう断ち切ってるって、私は思ってる。瑞樹も、そう信じていいよ」
 その言葉を、蕾夏が心から言っているのが、分かるから―――瑞樹は蕾夏を見下ろし、静かに笑みを浮かべた。
 「…サンキュ」
 瑞樹のこの笑みも、作ったものじゃないと、分かるから―――蕾夏もそれに応え、フワリと微笑んだ。
 「それと、ね。…私、決めた」
 「え?」
 「アシスタントの件。…今回は、諦めることにした」
 「―――…」
 ちょっと、驚いた。蕾夏のことだから、佐野から逃げるようで嫌だ、と、逆に意地になってアシスタントを辞退しないのではないか、と思っていたのだ。
 何故、という目を向けると、蕾夏は、困ったような苦笑を浮かべた。
 「優先順位の問題。そりゃ…佐野君と話でもして、それこそ、あんな真似した理由を説明でもされれば…何か、変わるのかもしれないな、って思った時もあったけど―――瑞樹の日記と違って、私の方は“再会しなかった”ことにするのは、案外簡単なことだ、って気づいたの」
 「……」
 「再会したことにこだわって、他のことを考えるエネルギーをそっちに取られちゃうより、再会しなかったつもりで、他のことに全力傾けたい。瑞樹のことと…今度の記事のことに」
 「…お前は、それでいいのか?」
 「うん」
 そう言って微笑む蕾夏の目は、既に結論を出している目だった。
 「いつかは、話し合う必要があるとしても―――それが“今”でなきゃいけない理由は、どこにもないもの。だから瑞樹、もう心配しないで」
 「…そうか」
 確かに、これだけ立て続けに色々なことが起きている“今”、あえて危険を伴う賭けに出る必要は、ないだろう。蕾夏がそれでいいのなら、それでいい―――瑞樹も納得し、蕾夏の頭をぽんぽん、と撫でた。

 「じゃあ、連休明けにでも、アシスタント確保しねーとなー…」
 どっかに優秀なスタジオマン貸してくれるスタジオないかな、と瑞樹が呟くと。
 「…できれば、男の人にして」
 と、唇を尖らせた蕾夏が、拗ねたように言った。
 「だって―――押し合いへしあいの現場だって言ったじゃない。…観客に巻き込まれる女性アシスタントさんを瑞樹が助ける図、なんて、想像するだけで、なんか腹立ってくるから」
 という蕾夏の答えに、瑞樹はつい、大声で笑ってしまった。
 こんな風に、体の奥底から大笑いするのは―――本当に、久しぶりだった。


***


 捨てた筈のものが、また、テーブルの上に広げてあった。
 「―――…」
 無言の攻防も、さすがに度重なると、いい加減にしてくれという気持ちが勝ってくる。自然、彼の眉間に、深い皺が寄った。
 ゆっくり背後を振り返ると、問題の女は、台所で洗い物をしていた。ためいきを一つつき、彼は、広げられた雑誌を無造作に掴んだ。
 「…おい、サキ」
 不機嫌極まりない声で名前を呼ぶ。
 振り向いた女の鼻先に、掴んだ雑誌を突きつけた。
 「―――何のつもりだよ、これは」
 「……」
 「いらねぇから捨ててんだよ。モノ捨てる自由もねぇのかよ、俺には」
 雑誌の向こうの顔は、彼の低い声にも動じなかった。不貞腐れたように黙り込み、雑誌越しに、鋭い視線を彼に向けている。
 「捨てるからな」
 「……」
 「二度と同じ真似、すんなよな」
 「…大事にしてりゃいいじゃないの。これまで通り」
 やっと返ってきた声は、酷く尖っていて、酷く冷ややかだった。
 バサッ、と乱暴に雑誌をひったくった彼女は、憤りに目を吊り上げて、彼を睨んだ。
 「あたしが何回捨てようとしても、後生大事にずーっと取ってたのは、ヒロじゃないの。これからもずーっと大事にしとけば?」
 「だから、もういらねえって言ってんだろ」
 「なんで急に?」
 「お前こそ、何急に意地になってんだよ。サキだって嫌いだったんだろ、あの写真」
 「好きだったわよっ」
 ヒステリックな彼女の叫びに、彼は「はぁ?」という顔で、眉をひそめた。
 「好きだったわよ、あの写真! 物凄くいい写真だって思ったからこそ、悔しかったのよ! ヒロが、あの写真そのものに惹かれてると思ったから―――あたしの写真にさっぱり興味示さないヒロでも、あの写真には魅せられてるんだ…そう思ったのも、あたし自身があの写真に魅せられてたからよ!」
 「……」
 「なのに―――何よ。結局ヒロは、あの子の写真だから、あの写真にこだわってたんじゃないの」
 彼の顔色が、僅かに変わる。
 「―――何、だって?」
 「あの子の写真だからでしょ? 後生大事に取っておいたのは」
 「……」
 「知られたくないなら、卒業アルバムなんて、不用意に転がしとくんじゃないわよ」
 その一言で、彼女の言っている意味が、やっと分かった。

 正直、不愉快だった。
 この件には、誰にも踏み込ませたくなかったから。
 だから彼は、一気に不機嫌になった。

 「…そうだよ。あの写真は、中学ん時の同級生の写真だよ。それがどうした?」
 「あたしが訊いたのに―――なんでその写真にこだわるの、って訊いたのに、黙ってたのが面白くないだけよ」
 「説明する義務なんて、あるか?」
 「あるわよ! あんた、あたしを何だと思ってんの!?」
 彼女が投げつけた雑誌が、彼の肩に当たって、床に落ちた。
 「あたし、この関係が始まった時、ちゃんと言ったよね!? 好きな女の子ができたら、真っ先にあたしに言って、って。他の女のこと考えながら抱かれるなんて真っ平だ、って。なのに―――なによ。あんたは最初から、ずーっと別の女のこと考えてたってことじゃないの!」
 「はぁ? なんでそうなるんだよ?」
 「だって、今も好きなんでしょ!?」

 怒りに震えた声でぶつけられた、一言に。
 極限まで高まっていた不愉快さが、一瞬、霧散した。

 「―――…は?」
 出てきた声は、間の抜けた声だった。
 けれど、彼女の憤慨を鎮めるほどの効果はなかった。
 「そうとしか思えないじゃないの! ただの同級生なら、こんなにこだわる? 好きだったからこそでしょ? しかも、理由を訊いても答えないし、人にモノ頼んだりしないヒロが、あたしに頼んでまで貰うなんて…それってつまりは、今も忘れられないからでしょ?」
 「―――…」

 彼は、呆気にとられたような顔で、怒りに頬を紅潮させる彼女の顔を、暫し見下ろしていた。
 そして―――たっぷり1分経った頃。
 耐え切れず、笑い出した。

 「……ック…」
 「?」
 「クク…、ハハ、ハハハハ…」
 「…ヒロ…?」
 いきなり、わき腹を押さえて笑い出す“元・弟”に、彼女の顔から憤りの表情が消えた。
 こいつは何をいきなり笑ってるんだろう? ―――事態がさっぱり分からない。彼女は、急展開についていけず、呆然と彼の笑い転げる姿を見ているしかなかった。

 彼の笑いは、なかなか収まらなかった。
 やっとまともに話せるようになるまで、結構な時間かかった。最後に大きく息を吐き出した彼は、ようやく顔を上げ、皮肉めいた目で彼女を見下ろした。
 「俺がいつ、あいつを、“惚れた女”だなんて言った?」
 「……」
 「そりゃ、そんな時もあったさ。むかーし、な」
 「…じゃあ…今は、何なの」
 「知りたいか?」
 彼の口元が、笑いに歪む。
 「この世で一番、嫌いな奴だよ―――二度と会いたくない位にな」
 「―――…」
 「あー、笑った笑った。面白いこと言ってくれるよ、この女は」
 彼女の頭を平手でぱしん、と軽く叩いた彼は、彼女に背を向け、さっさと窓際へと向かった。

 ドサリ、と壁際に腰を下ろし、ヘッドホンをつける。
 コンポのスイッチを入れ、プレイボタンを押す。流れてきたのは、レッド・ツェッペリンの強烈なギター・ソロだった。
 その瞬間、世界から隔離され、自分だけになる。雑音がかき消される―――音しかない世界だ。目を閉じた彼は、頭から全てを追い出そうとした。

 なのに。あの顔だけは。
 あの写真の中で蕾夏が晒している、“あの日”以来二度と戻ることはなかった筈の類の表情だけは―――どうしても、消えない。

 ―――二度と、会いたくなかった。
 左腕の古傷が、鈍く痛んだ気がして―――佐野の手は、無意識のうちに、傷跡を掴んでいた。


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