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― 棘 -2- ―

 

 溝口が口にした思いがけない話に、桜庭は、驚いたように目を見開いた。

 「―――“Clump Clan”、って…、え? ホントに?」
 「ああ。ポスターだけかと思ってたら、ショーの撮影もするんだとさ」
 「……」
 「おいおい、そんなに驚くことか? そりゃ、無名の、しかも成田ぐらいの新人が請け負うにはデカすぎる仕事だけど」
 違う。そんなことで、言葉を失うほど驚いているんじゃない。

 ブランドに疎い桜庭でも知っているほどのビッグネームの仕事が、単なるラッキーで転がり込むとは、桜庭だって思わない。この仕事が瑞樹のもとへと舞い込むまでには、知名度や実績以外に様々な事情があったのだろう―――その位の想像はつくから、エルメスだろうがシャネルだろうが、別に驚かない。
 “Clump Clan”以外なら、何がきたって、驚かない。
 “Clump Clan”だから―――ヒロが、オープニングイベントに参加する筈の“Clump Clan”だからこそ、声が出なくなるほどに驚いているのだ。

 「き…聞いてない…」
 呆然と桜庭が呟くと、溝口は、自分が撮った写真が掲載されているスポーツ雑誌を閉じて、呆れた顔をした。
 「あのなぁ。過去の、成田に対する自分の言動を思い起こしてみろって。雑用を買って出たって言えばグチグチ、順調に仕事が入ってくればグチグチ…。俺が成田でも、桜庭にだけは絶対話すもんか、って思うぞ?」
 「……」
 「気になるが故に噛み付かずにはいられない桜庭の性格は、分からんでもないけど。構って欲しくてキャンキャン吼えてる犬と一緒で」
 唖然としすぎて、溝口の揶揄にも、ろくに反応ができない。そんな桜庭の様子に、事情を知らない溝口は、ちょっと変な顔をした。
 「まあ…かく言う俺も、知ったのはごく最近だけど」
 知らなかった桜庭に対するフォローのつもりか、そんな言葉を付け足す。
 「いつよ」
 「ほら、この前。仕事先に出る成田を、桜庭が廊下で呼び止めて、何やらお礼を言ったり飲みに誘ったりしてた日、あっただろ」
 「ああ…うん」
 無意識のうちに、眉間に皺が寄る。
 その日のことは、よく覚えている。そう―――目の前にいるこの男が言ったセリフも。

 『あいつは、ダメだろ。傷の浅いうちに諦めた方が、桜庭のためだと思うけどねぇ、俺は』

 溝口のそのセリフに、そんなんじゃない、と口では答えながら、桜庭が心の中で呟いていたのは、全く違う言葉だった。“あたしだって、それ位、分かってる”―――分かってるからこそ、眉間に皺も寄るのだ。
 「あの日、成田と話してる最中に、成田の携帯に電話かかってきてな。口調で彼女からだって分かったから、“デートの待ち合わせか”って大いにからかってやったら―――これがなんと、仕事の電話で。これから一緒に“Clump Clan”の打ち合わせに出るけど、待ち合わせに間に合うか微妙だ、って電話だとさ。それで初めて知ったってわけ」
 「え…っ? なにそれ。彼女同伴の打ち合わせなんて、おかしくない?」
 「ああ、違う違う。成田の彼女は、成田のアシスタントとして同席するんだって」
 「アシスタント?」
 「本職かどうか知らんけど、成田の彼女も成田と一緒に時田さんの下で働いてた、って噂だから、アシスタント経験はあるんじゃないか? いろいろ突っ込んでみたけど、口が堅くて聞き出せなかったのが悔やまれるよなぁ…」
 「―――…」

 最初に襲ってきたのは、説明のつかないショックと、蕾夏につい抱いてしまう、どす黒い感情。
 それに、一瞬翻弄されそうになった桜庭だったが―――あることに気づいた途端、その感情が、その場で凍りついた。

 勿論、その日が“Clump Clan”のショーの打ち合わせがあった日だということも、そこに瑞樹や蕾夏が出席していたことも、今の今まで知らなかったけれど。
 今から約2週間前の、その日のことを、桜庭は鮮明に覚えている。
 何故なら、その日は―――桜庭にとって、忘れることのできない事が起きた日だったから。

 脳裏に浮かぶのは、ゴミ箱に突っ込まれていた“フォト・ファインダー”と、床に転がった卒業アルバム。
 何故いきなり捨てる気になったのか、何故卒業アルバムなんて引っ張り出してきたのか―――分からなかった。あの写真に執着している理由が、写真そのものではなく被写体そのものにあったのだと分かってもなお、何故あの日、いきなり態度が変わったのか、それがどうしても分からなかった。
 あの日から、ヒロの様子は、少しおかしい。いや…かなり、おかしい。なのに、何故急におかしくなったのか―――それは、どうしても、分からなかった。

 ―――でも。
 今、そのきっかけだけは、やっと分かった気がした。

***

 「ねえ、ヒロ」
 「…んー…?」
 「言い忘れてたけどさ。例の写真撮った“成田瑞樹”。あいつ、時田事務所のユーザーの1人なんだ」
 「……」
 音楽雑誌をめくる音が、ピタリと止まった。
 チラリと背後を窺うと、床に座っているヒロと、目が合った。僅かに丸くなった目が、数秒後、不愉快そうに眇められた。いや―――不愉快というよりは、内心の動揺を隠すためなのかもしれないが。
 「…へーえ。サキの仲間か。なんで今まで黙ってたんだよ」
 「ヒロが、あの写真に執着する理由を教えてくれないから、仕返しで黙ってただけ」
 「だーかーら。執着なんて、してねぇって」
 「…ま、いいけど。そんなわけで、今日、事務所の仲間との世間話で、分かっちゃったから」
 突如方向転換した話題に、ヒロが怪訝な顔をする。桜庭は、母に持たされた料理の入ったタッパーウェアをパチンと開けながら、きっぱりと言い放った。
 「ヒロが急にあの写真捨てたり、アルバム引っ張り出してきた、そのきっかけ」
 「……」
 「…先々週の、木曜日―――打ち合わせで、会ったんでしょ。あの写真の子と、成田に」
 ヒロの目が、微かに揺れた気がした。
 でも―――否定は、しなかった。不機嫌な目をすい、と逸らし、うんざりしたように壁に寄りかかるだけで。
 「ねえ―――あの子は、ヒロの、何?」
 「……」
 「ヒロ自身は気づいてないかもしれないけど―――あれからのヒロ、ずっと変だよ。一見いつもどおりに見えても、あたしには分かる。食事してても、音楽聴いてても、目がどっか遠くを見てるもの。少なくとも音楽聴く時だけは、どっぷり音楽に浸れる筈のヒロが、ずっと何か考え込んでるもの」
 「…気のせいだろ」
 「そんなこと、ない」
 「だとしても、それがサキと何の関係があるっていうんだよ?」
 そっぽを向いたまま放たれた一言に、ズキリと、胸が痛んだ。関係ない―――これ以上ない、突き放した言われようだ。
 「言っただろ。俺は、女には本気にならない、って。ウザいんだよ、そういうの。“彼女”って代名詞を手に入れた途端、相手の全部を掌握した気になって、過去のことまで根堀り葉掘り…。サキに限らず、本気の恋愛を迫ってくる女なんて、真っ平だ」
 「あたしがいつ、そんなもん、求めたって言うのよ?」
 「実際にやってるだろ」
 苛立ったような声と同時に、ヒロがこちらを見上げた。
 それは、初めて見る、本気で怒っている顔―――100パーセント、桜庭を拒絶している顔だった。
 「あいつのことを、あれこれ聞きたがってるだろ、実際! 二度と会いたくないほど“嫌い”な女だって言っても、信じてねぇし!」
 「……」
 「俺は家族も恋人もいらねぇし、サキは俺の家族でも恋人でもない。お互いの“今”にも“過去”にも干渉しない、どちらかに恋人ができたらこの関係は解消する―――最初に決めただろ。俺は約束どおり、サキのプライベートには干渉してねぇし、好きな女もいない。そんな恨みがましい目で責められる理由なんてねぇよ。むしろ、約束違反してんのは、お前の方だろ」
 「……」

 ―――なんで、届かないの。

 分かってる―――言わないから、ちゃんと口にしないから、伝わらないんだ。

 唇を噛んだ桜庭は、手にしていたタッパーウェアを、乱暴に流し台に叩きつけた。
 バン! という叩きつける音と同時に、蓋が跳ね、カシャン、という音を立てる。中身がこぼれてしまったかもしれないが、もうどうでもよかった。
 「あたしが訊きたくなるのは、あんたの様子が普通じゃないからじゃないのっ!」
 いきなりのヒステリックな反撃に、ヒロが面食らったように、少し後退る。それに合わせるように、桜庭が1歩、詰め寄った。
 「話しかけても食事出しても上の空、痛々しい顔して膝抱えて自分の世界に浸りまくってる、そういう態度取られたら、何があったんだろうって思うのが当然でしょ!? それが続けばもっと気になるし、だんだんムカついてもくるのよっ! だから、ヒロが元のヒロに戻ってくれるように相談に乗ったり問題を解決したりしたいって、そう思って何が悪いのよっ!?」
 「……」
 「ああ、ヒロなら“だったら来なけりゃいい”って言うかもね。でも、あたしはヒロと無関係な人間になるのはイヤなの! 自分でもどういう関係になりたいのかわかんないけど、でもムカつくからバイバイ、とはいかないのっ! 分かったっ!?」

 何言ってるんだろう―――頭に血が上った状態で怒鳴りながら、冷めた一点が、そんな風に自分を嘲笑う。
 そう…、もうここに来ない、という選択が、本当は一番賢い選択だ。ヒロとは、説明のつかない“情”で繋がっているだけなのだから。ヒロの態度に苛立ったり、そのことで感情的になる自分がヒロを余計不機嫌にする位なら、もう来ない方がいいのだ。
 分かっている。
 ヒロと“彼女”の間にあるものを、こうも気にする、もう1つの理由。
 “彼女”が、藤井蕾夏だから―――瑞樹の、恋人だからだ。

 なんだか、惨めだった。あまりの桜庭の勢いに呆気に取られている様子のヒロから目を逸らすと、桜庭は、叩きつけてしまったタッパーウェアを見下ろした。
 幸い、中身はぶちまかれていない。良かった―――あまりヒロの部屋を訪ねるのに賛成していない母が、それでもヒロに食べさせてやれと持たせてくれた料理だ。粗末に扱いたくはない。ため息を一つついた桜庭は、改めて菜箸を手に取った。
 が、その直後。
 背後から腕を掴まれ、手にした菜箸が落ちた。
 「―――何、感情的になってんだよ」
 冷笑を含んだ声で、ヒロが言う。
 クルリと体の向きを変えられた桜庭は、続くヒロの行動が、すぐに想像できた。案の定、Tシャツの裾から乱暴に入り込んできた手のひらと、誤魔化すように首筋に押し付けられた唇に―――初めて、拒否感を覚えた。
 嫌だ。
 もう、嫌だ。心が伴わないまま、こんな真似をするのは。
 「……っ!」
 力任せに、腕を掴む手を振りほどき、桜庭はヒロを突き飛ばした。
 あっけないほど簡単に、ヒロは足元をよろめかせ、後退った。その、あまりの簡単さに、ヒロが本気じゃなかったことが分かり―――突き飛ばした桜庭の方が、驚いた顔になった。

 顔を背けたままのヒロは、何故か、自らの左腕をぎゅっと掴んでいた。そう―――ヒロがあまり触れたがらない、あの傷跡の辺りを。
 「…ヒ…ロ?」
 恐る恐る、声をかける。あまりに様子が、ヒロらしくなくて。
 ゆっくりとこちらに向けられたヒロの顔は―――無表情だった。
 無表情なまま、なんとも形容しがたい、暗く沈んだ笑みを、口元だけに浮かべていた。
 「…なるほどね」
 「…何、よ」
 「好きなヤツが出来たのは、俺じゃなくて、サキの方ってわけだ」
 「……」

 胸の奥が、まるで氷を突っ込まれたように、一瞬にして冷たくなった。
 違う、そんなんじゃない、そういう理由で拒絶したわけじゃない―――そう言いたくても、声が出なかった。
 それは多分、ほんの少し、言われたとおりのことを思っている自分を、自覚しているから。
 どうやったらヒロに心を開かせることができるんだろう―――そんなことばかり考えていたけれど、今はもう1人、頭から追い出すことができない男が、確かにいるから。

 「…俺とあいつは、サキが想像してるような、心温まる初恋物語の関係じゃない」
 「……」
 「傷つけて、傷つけられて、その傷をここまで引きずって…。…断ち切るには、会って、ちゃんと話し合うしか方法はないって、ずっと分かってた。分かってたけど―――二度と、会いたくないと思いながら、13年経った」
 「…ヒロ…」
 「―――13年は、重てーよなぁ…」
 重い口調から、急にいつものヒロの口調に戻る。はぁ、とため息をついたヒロは、桜庭の頭を軽く叩いた。
 「好きなヤツいるんなら、こんな歪んだ関係、さっさと解消しちまえば? サキもそれなりの歳だし? 情にほだされて、女にセックスしか求めない俺みたいな男といつまでも関わってると、禄なことになんねぇよ」


 傷つけて、傷つけられて―――その傷を、ここまで引きずって。

 …もしかして。
 恋人も家族もいらない、と言い切る、その理由は―――その引きずってる傷のせい…?


 確かめたかった。ヒロと蕾夏の間に、本当は何があったのか。そして、今もヒロが囚われているものが、何なのか。
 けれど、訊けなかった。
 ほんの一瞬、見せてくれた、ヒロの素顔―――しかし、再び床に座り、雑誌をパラパラとめくり始めたヒロの顔は、またいつもの顔に戻ってしまっていたのだ。

***

 前日の重たい気分が抜け切らないまま、1日の仕事をほぼ終えた桜庭は、ため息をつきながら事務所のドアを開けた。
 そして、次の瞬間―――あまりのタイミングの悪さに、このまま回れ右して帰りたい衝動に駆られた。

 ―――なんで、今日に限っているのよ。
 受話器を握る後姿が、誰か入ってきたことに気づき、振り返る。電話中らしき瑞樹は、桜庭の顔を一瞥すると、会釈も何もないまま、また向こうを向いてしまった。
 いて欲しくない人がいる上に、川上の姿が見えない。考えてみたら、今日は5月3日―――世間は、憲法記念日で休みだ。川上も、カレンダーどおり休んでいるのかもしれない。
 回れ右しようにも、今日中に受け取っておきたい資料がFAXで届いている筈なのだから、どうしようもない。仕方なく、桜庭は後ろ手でドアを閉め、荷物を手近な机の上に置いた。

 「…ええ、そうです。できれば経験者をお願いしたいんですが…」
 即座にFAXへと直行して確認すると、無事、必要な書類が届いていた。文面を目で追う桜庭だったが、耳はついつい、瑞樹の電話を意識してしまう。
 何の電話だろう? 断片的に聞こえる会話の中身からは、よく分からない。半分上の空で、FAXを手に席に戻ろうとした桜庭の足に、カツン、と何かがぶつかった。
 「―――?」
 足元を見下ろすと、そこに、MDのケースと思われる透明なケースが転がっていた。
 ―――誰のだろ。これ。
 条件反射的にケースを拾い上げると、ラベルに、MDの収録曲と思われる曲目が並んでいるのが分かった。パソコンかワープロで印刷したらしく、小さなゴシック体の文字が、びっしり並んでいる。その曲目を目で追って―――やがて、桜庭の口元に、自然と笑みが浮かんだ。

 「…はい……そうですか。分かりました。ありがとうございました。失礼します」
 桜庭がMDの曲目を半分位まで読み終えたところで、瑞樹の電話は終わった。それに続く、大きく深いため息に、桜庭は眉をひそめて顔を上げた。
 見ると、受話器を置いた瑞樹は、手帳を片手に難しい顔をしていた。どうやら、電話での話が、あまり喜ばしくない結果に終わったらしい。
 「ねえ」
 桜庭が声をかけると、瑞樹は、眉根を寄せた表情のまま、顔を上げた。そんな瑞樹に、桜庭は手にしたMDケースを、目の前でヒラヒラと振ってみせた。
 「これ、成田の?」
 「……あ、」
 明らかに、瑞樹の表情が変わった。
 「やっぱ、成田のなんだ」
 「そっちに転がっていってたのか…。サンキュ。探してたんだ」
 ツカツカと瑞樹の席へと歩み寄った桜庭は、差し出された手の上に、MDケースをぽん、と置いた。そして、ちょっと嬉しそうな声で、付け加えた。
 「成田って、ディープ・パープルとかスティングとか聴くんだね」
 「え? ああ…、これか」
 MDのラベルに並んだ曲目を一瞥した瑞樹が、桜庭の言葉の意味を理解して、軽く頷く。
 「元・弟がさ、結構好きで、よく聴いてんだ。特に、ディープ・パープルあたり。その影響で、あたしも結構好きなんだよね」
 「…俺は別に、好きでも嫌いでもねーけど」
 「でも、MDに入れてるじゃない?」
 「俺が選曲した訳じゃねーし。仕事関係のMDだから」
 「なんだ、そうなの?」
 瑞樹も自分と同じ曲を好んで聴いているのかと思って、ちょっと嬉しくなったのに―――あからさまにガッカリした顔をしそうになった桜庭だったが、はっ、と我に返り、慌てて平然とした顔を保った。
 ―――バカじゃないの? こいつの好みに一喜一憂した顔なんてしたら、気があるのがバレバレじゃないの。
 冷や汗がじわりと浮かんできそうになる。早くMDとは別の話に持っていかなくては、と焦った桜庭は、うろたえた視線を電話の上で止めた。
 「…っと、ねえ。さっきの、何の電話だったの?」
 桜庭が訊ねると、MDのケースをディパックにしまっていた瑞樹が、顔を上げることなく答えた。
 「アシスタント探し」
 「アシスタント?」
 「来月1日に、ロケでアシスタントやってくれるスタジオマンを探してるとこ」
 告げられた日付に、桜庭はちょっと驚いた。
 「1日って―――それ、もしかして“Clump Clan”のショーなんじゃないの? 成田の彼女がアシスタントやるっていう」
 思わず桜庭がそう言うと、顔を上げた瑞樹の眉が、訝しげにひそめられた。
 「―――誰に聞いたんだ? その話」
 「えっ。あ、ああ…、昨日、偶然、溝口さんから聞いた」
 桜庭が事実をありのまま伝えると、瑞樹は眉を顰め、小さく舌打ちした。
 「…口の軽い奴…」
 「…そんなの、前から分かってたことじゃない。で…、ホントのことなわけ?」
 「…まあな」
 「でも、どう考えたって彼女、アシスタントが本職なわけじゃないでしょ? 溝口さんの話じゃ、成田と一緒に時田さんの下にいた時代もあったらしいけど…そんなに場数踏んでるとは思えないし。そんなんで、務まるの? 現場で」
 撮影事務所での下積み時代の長い桜庭としては、素人同然の蕾夏がアシスタントをするなんて、ちょっと考えられない話だった。面白くない、という気持ちが手伝い、つい、口調がとげとげしくなってしまう。
 そんなムードを感じ取ってか、返ってきた瑞樹の声も、どことなく冷ややかだった。
 「技術的な“慣れ”以外の部分で、色々あるからな。他のカメラマンには“使えない助手”でも、俺限定では“他じゃ代わりになれない助手”だ」
 「…ふーん…」

 “一言では言い表せない関係”―――…。
 瑞樹と蕾夏、両方が言っていた言葉を思い出して―――桜庭の胸が、鈍く痛んだ。
 男女を越えた親友、男女として必要とし合う恋人、そして、仕事の上でのベスト・コンビ―――実態が見えてくるに従い、2人が言っていた“一言では言い表せない関係”という言葉が、実感を伴って迫ってくる。そして、実感するに従って…また、暗い感情が湧いてくる。
 “ずるい”―――たった1人で、成田瑞樹という男の重要な位置を独占している蕾夏に、そんな筋違いな言葉が浮かんできてしまい、桜庭は軽く自己嫌悪を覚えた。
 「そんで? そういう“理想的な助手”がいるのに、なんで別の人探してるわけ? 喧嘩でもした?」
 自己嫌悪しつつも、つい、棘のある言い方になってしまう。けれど、瑞樹はそんな挑発には乗らず、あっさりとした回答を返した。
 「いや。単に、都合がつかなくなっただけ」
 「は? ショーの日取りなんて、最初から決まってたんじゃないの? 打ち合わせにも出たのに、なんで今更」
 「こっちが本業じゃねーし、想定外なことも色々あるだろ」
 瑞樹の声のトーンが、微妙に不機嫌になってくる。しつこい、と言外に言われている気がして、桜庭も一旦は口を閉ざした。
 でも―――やはり、なんだか、妙な感じだ。
 アシスタントなんて、本来なら打ち合わせに出る必要もさほどない立場だ。なのに出席したということは、かなりその仕事に思い入れがあるからのような気がする。どんな“想定外のこと”があったのか知らないが、顔合わせまでしておいて今更キャンセルなんて―――…。

 ―――もしかして。
 もしかして―――打ち合わせの席で、ヒロに会ったから…?

 ふと、頭をよぎった可能性に、桜庭の表情が強張る。
 傷つけ、傷つけられた関係―――どんな事情かは分からないが、ヒロがあれほど引きずっているのなら、蕾夏の方もこの再会に、ヒロと似たような衝撃を受けているかもしれない。
 このままでいけば、少なくともショーの当日、ヒロとまた顔を合わせることになる。それが嫌だから―――二度と会いたくないから、避けた。…あり得る話だ。

 「…で、見つかったの? 代わりは」
 「いや。俺もああいうショーの撮影は初めてだから、ああいう現場の経験者探して、電話しまくってるけど…今のところ、まだ」
 「贅沢なんじゃない? 空いてるので、使える奴がいりゃ、早めに押さえときゃいいのに」
 「そう思って、前に一緒に仕事したことのあるスタジオマンも、一応当たる予定」
 「へえ…」

 どこか上の空な返事をしながら、桜庭は、ある光景を思い浮かべていた。
 それは、1ヶ月ほど前―――ちょっとした気まぐれから、半ば強引に押しかけた、瑞樹の撮影現場。獲物を狙う瑞樹の目に、ゾクゾクさせられた、あの時。
 …魅せられた。悔しいけれど…確かに、見惚れていた。成田瑞樹というカメラマンに。
 あの時のことを思い出すと、あの時感じたゾクゾクするような感覚が、全身に蘇る。本当に全身が総毛立ったような気がして、桜庭は思わず、シャツの上から自らの二の腕をさすった。

 ファッションショーの撮影なんて、アシスタント時代も、経験がない。瑞樹と組んだ経験も、一度もない。
 でも―――……。

 にわかに、緊張する。コクン、と唾を飲み込んだ桜庭は、再び難しい顔で手帳に視線を落とす瑞樹を、じっと見据えた。
 「―――あ…の、さ。成田」
 「なに」
 「代わりの人、見つからないようなら、さ。…あたしが、やってやろうか。あんたの助手」
 「……」
 リズムを取るように、コツコツと机を叩いていた瑞樹のボールペンが、止まる。
 暫しの沈黙の後、桜庭に向けられた目は、物凄く怪訝そうだった。何言ってんだ、こいつ―――そんな声が聞こえてきそうな、そんな目だった。
 「―――桜庭が?」
 「そう。あたしが」
 「“仮にもプロが、同じ土俵で競り合ってる相手の助手をするなんて、どうかしてる”―――そう、言ってなかったか? 前に」
 ぐ、と言葉に詰まる。確かに、言った―――瑞樹が、溝口に頼まれて、プロのカメラマンの1日アシスタントを引き受けた時に。「あんたって案外、プライド低い」なんて言った記憶もある。
 瑞樹の怪訝そうな視線も、無理からぬものだ。思い出した途端、焦りに顔が熱くなってきた。
 「い…いいじゃないの、別にっ。あの時はそう思ったのよ。人間、心境の変化ってもんがあるんだから、“今”のあたしがやってみたいと思ってれば、それで十分でしょ?」
 内心の動揺を誤魔化すように、少々つっけんどんに、そう言う。手にしていたFAXを後ろの机の上に放り出し、桜庭は、急激に汗ばんでくる手を、落ちつかない様子で後ろ手に組んだ。
 「そ、そりゃ、成田の言う“技術的な慣れ以外の部分”に関しては、藤井さんには劣るんだろうけど? それは、あたしじゃなくたって、藤井さん以外なら全員同じことで、仕方のないことだし」
 「……」
 「それにあたし、撮影事務所時代の大半がアシスタント業務だったから、実はアシスト作業って結構自信あるんだ。あの子が、どんな凄いアシストをするのか知らないけど、でも―――その差を埋めるに十分な経験と技術は、持ってると思う。やっぱり頼んで正解だった、って言わせる自信は…そこいらのスタジオマンよりは、ある、つもり」
 「―――…」

 動揺したまま、いつもより早口にまくしたてる桜庭に、瑞樹は、何も言わなかった。何も言わず―――ただ黙って、じっと桜庭の顔を見据えていた。
 まるで、桜庭の真意を見透かそうとするかのような、静かで真っ直ぐな視線。その視線を向けられ続けていると…余計、落ち着かない気分になってくる。
 あまりの落ち着かない気分に、桜庭は、口を閉じた。
 何を、考えているのだろう―――斜め下から自分を見上げるダークグレイの瞳に、鼓動がやけに乱される。

 たっぷり1分以上、無言の間が空いただろうか。
 瑞樹は、大きく息をつくと、ガタリと音を立てて席を立った。何事か、と緊張する桜庭に、瑞樹は、酷く静かな声で、告げた。
 「せっかくの話だけど―――断る」
 「……」
 静か過ぎるショックに、桜庭は息を呑んだ。
 そんな桜庭から目を逸らした瑞樹は、机の上の資料やら手帳やらを、ディパックにしまい始めた。どうやら、帰る気でいるらしい。
 「まだ、一緒に仕事したことのあるスタジオマンには連絡してないから、そこ当たる」
 「…な…んで? スタジオマンに頼むんなら、あたしに頼むのも同じじゃないの」
 「同じなら、スタジオマンに頼む。あんたには頼まない」
 「どういう意味よ」
 気色ばむ桜庭に、はっ、と苦笑するように短く息を吐き出した瑞樹は、帰り支度の手を止めて顔を上げた。その目は、怒っている訳ではないが、愉快そうでもない。どこか苛立ったような―――どこかうんざりしたような、そんな目だった。
 「俺に“あんたは蕾夏より優秀なアシスタントだ”って認めさせたいがために名乗り出てるんなら、断る。無意味だし、迷惑だ」
 「……っ」

 一瞬、ドキリとした。
 見抜かれた―――自分でも気づいていなかった、蕾夏に対する対抗意識を。
 確かに、瑞樹の撮影現場にもう一度立ち会いたい、という気持ちもあるが、それ以上に…今の桜庭を突き動かしたのは、蕾夏に対するライバル心だ。代わりになる人間などいない、アシスタント―――そこまで瑞樹に言われる蕾夏が、羨ましくて。

 ―――羨ましくて?
 …いや、違う。
 妬ましくて、だ。
 悔しくて―――瑞樹の全てを独占する彼女が、妬ましくて。たった1ヶ所でもいい、彼女が占めている場所を、奪いたくて。

 カメラマンとしての成田瑞樹だけでも―――蕾夏から、奪い去ってやりたくて。

 「…無意味、って…あたしがどんなアシスタントかも試してないのに、なんで言い切れるの」
 激情を抑えこんでいるせいで、声が掠れる。瑞樹の目を見ていたら、もっと虚しい気分になりそうな気がして、視線が勝手に下がっていってしまった。
 「別に…あの子に対する対抗意識だけで、アシスタント役買って出た訳じゃないわよ。やってみたいって―――あんたのアシスタント、やってみたいって思ったから…」
 「…それは、謝る。一方的な言い方で、悪かった」
 「……」
 「でも―――やっぱり、桜庭には頼めない」
 「…なんで」
 その問いに対する返事は、返ってこなかった。その代わり、ぽん、と軽く肩を叩かれた。
 「申し出、サンキュ。―――…じゃ、また」
 「―――…っ、待って!」

 咄嗟に。
 離れていく瑞樹の手を、掴んだ。
 自分でも、よく分からない。なんでこんな真似をしたのか。でも―――このまま帰られてしまったら、まるで置いていかれるみたいで、嫌だった。

 初めて握った手は、温かかった。
 こんな手に包んでもらえたら、きっと…ずっと抱えてきた憤りや孤独も、融けるかもしれない。そんな風に思える手だった。
 ピンと神経を張りつめたような表情で自分を返り見る瑞樹に、桜庭は、その手を更にぎゅっと握り締めた。
 「―――もっと成田のことを知りたい、って思うあたし、間違ってる?」
 「……」
 「あの子が独占してるあんたの領域、ほんの片隅でもいいから手に入れたい、って思うあたし、間違ってる!? 全部なんて言わない、少しだけ―――せめて、成田が写真の世界にいる間だけでも、って思ちゃいけないの…!?」

 瑞樹はその言葉に、いいとも、悪いとも答えなかった。ただ黙って、ぶつけられる言葉を受け止めていた。
 「―――だから、あんたには頼めない、って言ったんだよ」
 やっと返ってきた言葉は、ため息混じりの、そんな言葉だった。
 意味が分からず、眉をひそめる桜庭に、瑞樹はきちんと向き直って、ゆっくりと告げた。
 「―――桜庭。俺の世界には、俺と、蕾夏と、“それ以外の人間”しかいない」
 「…え?」
 「男の相手は女とか、女の相手は男とか…そういうレベルで、俺の相手は、蕾夏なんだ」
 「……」
 「だから―――俺は、あんたの望みには、応えられない。たとえ、一部分でも」
 「―――……」

 ―――瑞樹と、蕾夏と、“それ以外の人間”―――…。

 これ以上に絶望的な言葉なんて、この世に存在しないと思う。
 恋愛感情を育める“対象”が、性別国籍年齢問わず、蕾夏ただ1人しかいない、というのだから。
 なんで、そこまで想えるの―――瑞樹の手を握る手が、想いを拒まれた辛さと、太刀打ちできない物への悔しさから、震えた。

 「…なんか、あったのか。“元・弟”と」
 「……」
 そこまで見抜かれていたのか―――思わず、自嘲の笑みを浮かべてしまいそうになる。
 「なんで、そう思うわけ?」
 「…男関係は“元・弟”で精一杯、って風に見えたあんたが、こんな風に縋ってくるってことは、“元・弟”との関係がこじれたからだろうと思って」
 「…ハ…、心理学者になれるんじゃない?」
 縋った―――確かに、そういう一面もある。ヒロとこの先、どうなりたいのか、自分でも分からなくて―――瑞樹に、逃げたくなった。瑞樹に対しては、自分の望みがはっきりしていたから。

 いっそ、全部、ぶちまけてしまおうか?
 打ち合わせで会った佐野博武が、桜庭が言うところの“ヒロ”であることも。打ち合わせの日以来、ヒロの様子がおかしくなったことも。ヒロと瑞樹の恋人が、過去に何かあったらしいことも。そんなヒロと桜庭が、歪んだ人間関係にあることも―――全部全部、この場で洗いざらい話してしまおうか。
 けれど、1秒後、その考えには首を振った。話せば話すほど…自分が惨めな立場に追い込まれるような気がして。

 「…うん。成田の、言うとおり」
 瑞樹の手を離し、桜庭はため息と共に、そう呟いた。
 「ちょっと、ヒロとのことに疲れちゃって、逃げたくなっただけ。…ごめん。さっきのは、忘れて」
 ―――逃げたくなっただけじゃ、ない。
 分かっていても、そう言うしかなかった。本気でぶつかって、あっさり玉砕したと認めるだけの余力は、今の桜庭にはなかった。

 「…別に、謝ってもらうようなことじゃない」
 俯いていた桜庭には、そう言った瑞樹の表情は、見えなかった。
 でも―――労わってくれているようなその口調に、余計、胸が痛んだ。

***

 足元がおぼつかない。
 普段なら5分かからない距離を、倍の時間をかけて歩く。ぽつぽつと降り出している雨には気づいていたが、折り畳み傘を出す気になど、到底、なれなかった。いや―――本格的な降りになるのなら、むしろ、思い切り雨に打たれてしまいたい気分だった。

 失恋なんて、一体、何年ぶりのことだろう?
 多分…ヒロと関係を持つ羽目になった、あの時が最後だっただろう。付き合っていた男に、浮気された挙句、捨てられて―――自暴自棄になって、ヒロに縋った。そう、あの時も自分は、受けた痛手を1人では抱えきれず、ヒロに縋りついたのだ。
 「……バカみたい……」
 ただ単に、持っているムードに惹かれているだけだと思っていた。
 自分同様、片親で育ち、親の身勝手に憤りを覚えている人―――そういう共通項に、親近感を覚えているだけだと思っていた。
 でも―――はっきりと望みを断ち切られて初めて、分かった。自分がどれほど、瑞樹を必要としていたか。ほんの片隅でもいい、この人の中に、自分の居場所が欲しい―――その願いが、どれほど切実なものだったか。

 反発しながらも、常に、憧れていた。
 真っ直ぐに前だけを見る、カメラマンとしての姿勢にも。屈折し、捻じ曲がった桜庭の態度を、残酷な位に一刀両断にする、その厳しさにも。それでいて、一番大事な本質的な部分でふと見せる、温かい優しさにも。
 認めるのも、悔しい位に―――心を、奪われていた。
 そのことに、今の今まで、気づかなかったなんて…本当に、救いようのない、バカだ。


 足をひきずるようにして階段を上り、いつもの見慣れたドアをノックした。
 ほどなく、内側からドアが開き、いつもの顔が出迎えた。
 「…よぉ」
 「…うん」
 こんな遅い時間に訪ねること自体、滅多にない。それに、昨日、あんな言い合いがあったばかりだ。ヒロと桜庭の間に流れる空気は、酷くぎこちなかった。
 「大トラ女泊めるほど、酔狂じゃねぇからな。ある程度酔い醒めたら、帰れよ」
 桜庭の表情と、微かに香るアルコールの香りで、相当飲んでいるのがバレてしまったのだろう。ヒロは、そっけない口調で桜庭にそう言った。
 ここから桜庭の家まで、徒歩10分だ。午前0時を回った今、泥酔に近い状態の女が歩くには、微妙に危ない距離だ。
 だからヒロは、あんなことがあったのに、自分を追い返さないのかもしれない―――気遣いが嬉しい反面、酔っていなければ追い返されたかもしれない、とチラリと思い、また胸がズキリと痛んだ。
 「分かってる。…水、貰っていい?」
 「ああ。俺も欲しい」
 ぱたん、とドアを閉め、ヒロの部屋に上がりこんだ桜庭は、荷物を床に置き、流し台へと向かった。その背後をすり抜け、ヒロは、いつものコンポの前に腰を下ろした。
 最大限、ボリュームを絞ったスピーカーから、ディープ・パープルの曲が流れている。夕方拾ったMDのケースを思い出し、その連想から、また瑞樹のことを思い出してしまった桜庭は、ぶるっ、と頭を一度振った。

 ―――忘れないと。
 成田のことに、こだわればこだわるほど―――考えたくない人のことを、考えてしまう。

 コップを2つ用意しながら、桜庭の視線は、無意識のうちに、壁際の本棚へ向いていた。
 無造作に突っ込まれた、本や雑誌の数々。そこから、少しはみ出るように顔を覗かせているのは、捨てた筈の、“フォト・ファインダー”―――桜庭のあまりの強情さに、ヒロが諦めてしまったがために、今もあそこに残されている。
 「―――ねえ、ヒロ」
 蛇口を捻りつつ、桜庭は、ヒロの顔を見ずに、声をかけた。
 「…んー?」
 また、音楽雑誌を読んでいるらしい。ヒロの返事の後ろで、パラリとページをめくる音がした。
 「今日、事務所で成田に会ってさ。ヒロに、朗報」
 「……」
 ヒロが、顔を上げた気配を感じる。
 「なんだよ」
 僅かに、声が緊張していた。桜庭は、まだヒロの方を見ずに、なるべくさりげない口調で答えた。
 「例の、彼女。ショーには参加しないって」
 「…え?」
 「アシスタント。彼女がする筈だったけど、急遽取りやめで、他のアシスタント探してるみたい。なんで取りやめになったかは、ちょっと分かんないけどさ」
 「……」
 くるり、と振り向くと、ヒロと目が合う。
 ヒロの表情は、複雑だった。少し安堵したような、でも急な話に戸惑っているような―――自分の感情の持って行き場が分からず、迷子になっているような顔をしている。
 「良かったじゃん。二度と会いたくない人だったんでしょ?」
 桜庭が、笑みを作ってそう言うと、
 「…ああ。そうだな」
 まだどこか上の空で、ヒロはそう答え、視線を逸らした。その横顔を見て―――桜庭は、確信した。

 二度と会いたくない相手。それは本心だとしても。
 ヒロは、この再会に、ある種の期待を抱いていたのだ。引きずってきた“何か”を、断ち切るチャンスになるかもしれない、と。
 だから、もう会う機会はなくなったと知り、安堵している。
 安堵しながら―――落胆、しているのだ。


 ―――どうして…。

 また、胸の奥が、痛む。
 瞼の裏に焼きつく、蕾夏の姿―――その真っ白さに、胸の痛みが、余計、増していく。

 どうして、あの子だけなんだろう?
 あたしが欲しいもの全部、何故、あの子ばかりが独占しているんだろう?
 成田も、ヒロも―――あたしのことなんて、これっぽっちも必要としていない。2人して、あの子に心の全てを持っていかれてる。あたしが入り込む余地なんて、微塵もない位に。
 全部なんて、望んでいないのに。ほんの少しで、構わないのに。
 なのに、どうして―――…?

 妬ましい、という感情が、こんなにも棘を持った感情だとは、知らなかった。
 自らを突き刺す、無数の棘―――癒さなくては、僅かでも癒さなくては気が違ってしまいそうな痛みに、桜庭の目元が歪んだ。

 だから。
 この時、“それ”を思い出したのは―――自らを守る、防衛本能だったのかもしれない。


 きゅっ、と蛇口を閉め、床の上のバッグを掴んだ桜庭は、無言のままその中を漁った。
 そして、目的のものを見つけた時―――運命が、桜庭の背中を押した。


 「…ねえ、ヒロ」
 顔を上げ、ヒロの方を見る。
 「ほんとは、会って話がしたかったんじゃない…?」
 桜庭がそう言うと、ヒロの視線が、こちらを向いた。
 ヒロらしからぬ、動揺した目―――その目は、桜庭の言葉を、決して否定してはいなかった。
 「…やっぱり、そうなんでしょ。話し合いたかったんだよね?」
 「―――でも、話し合うチャンスは、もうなくなった」
 ふっ、と諦めたような笑い方をしたヒロは、吐き捨てるようにそう言った。
 「多分、逃げたんだ、あいつ。…無理もねぇよ。俺だって会いたかねぇけど、あいつの方がもっとそう思ってる筈だ」
 「…うん。事情は知らないけど…あたしも、そう思う」
 バッグの中から取り出したものを、手の中で、ぎゅっと握り締める。
 「でも、ヒロ」
 鼓動が。
 ドクドクと、速まった。
 「このまま一生、逃げ続けて、逃げられ続けて、いいの―――…?」
 ヒロの目が、怪訝そうに眇められる。桜庭は、ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと口を開いた。


 「…あのね、ヒロ」

 ―――もし。

 「ヒロが、あの子と―――藤井さんともう一度、会いたいなら…」

 もし、ヒロとあの子を、もう一度会わせたら。

 「…教えてあげようか? あの子の、連絡先」

 どんなに望んでも割り込むことのできなかったものに、楔を打ち込むことが、できるだろうか―――…?


 手にした名刺入れの中にある、1枚の名刺。
 運命は、この手の中にあるのかもしれない―――その可能性に、桜庭の手は、僅かに震えていた。


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