Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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携帯電話の着信音で、目が覚めた。
自分のものではない着信音に、ああ、瑞樹の携帯が鳴ってるんだな、と分かる。瑞樹、気がついてるかな―――ぼんやりとそう思った時、着信音が止んだ。
「はい」
―――あ…、起きてたんだ。
はっきりとした瑞樹の声。何時なのだろう? と考えて、最後の記憶では床に座っていた筈の自分が、今、きちんとベッドに横たわっていることに気づいた。
「―――ああ、おはよ。何だよ、こんな朝早くから」
ちょっと不機嫌そうな瑞樹の声を聞きながら、ゆるゆると体を起こす。きちんと肩まで掛けられていた掛け布団を押しやり、眠い目を擦ると、薄ぼんやりとした視界の中、床に座って電話をしている瑞樹の姿が見えた。
「…え、今日? …いや、特に撮影は―――ああ…、それで、現場は?」
仕事の電話かな、と思いながら眺めていたら、蕾夏が起きた気配に気づいたのか、瑞樹の目が蕾夏の方を向いた。
携帯を耳に当てたまま、瑞樹が微かに笑みを見せる。蕾夏も、まだ気だるさを纏ったまま、ふわりと微笑んだ。
ローテーブルの上には、これまで瑞樹が撮った浅草の写真が、眠りに落ちる直前に見た時のまま、乱雑に置かれている。
明日は、5日―――こどもの日。2人は、企画コラムのための取材をするために、浅草に行くことにしている。もっと空いてる時が良かったのだが、締め切りを考えたら、到底次週まで持ち越すことはできない。だから昨晩、混んでいても効率よく取材できるよう、過去の写真を見て取材ポイントの確認をしていたのだ。
そして、浅草を取材した、その足で―――瑞樹は明日の夜、北海道へ発つ。
“八代 倖”という1人の人間の、足跡を辿るために―――自分のルーツを知るために、過去と対峙しに旅立つ。
―――きっと、2人して前を向くことが出来てるから、こんなに空気が穏やかなんだね。
奏との撮影に始まって、窪塚の死去、佐野との再会、倖の日記、そして祖父である秋本―――この1ヶ月、こんなに空気が穏やかだった時は、なかった気がする。不思議なほどの静けさに、蕾夏は、改めて思った。やはり、アシスタントの件を諦めたのは正解だった―――自分の呪縛を解くことよりも、瑞樹を支えることや写真集への第一歩を選んだのは、やはり正しい選択だったのだ、と。
「…分かった。じゃあ、11時に事務所で」
大きく伸びをした蕾夏がベッドから抜け出したところで、瑞樹の電話も終わった。
「仕事?」
「ああ。お前出る時、俺も一緒に出る。…コーヒーでも飲むか?」
「あ、私やる」
蕾夏はそう言って立ち上がり、キッチンへ向かった。
慣れた手つきで、自分の部屋のものではない食器やらコーヒーフィルターやらを準備する蕾夏の背後で、カーテンを開ける音がした。差し込んだ光に、今日は快晴だな、と蕾夏は思った。
「今日は事務処理って言ってたのに、随分急だね? もしかして、また“I:M”のゴリ押し?」
「いや、溝口さんの知り合いからのSOS。普通の依頼なら断るけど、ライブイベントの撮影助手と聞いちゃ、受けるしかねーだろ」
「ライブイベント?」
「何とかいうバンドのライブを、2時間撮影。ライナーノートに使う写真になるらしい」
「へーえ…、タイムリーだね。瑞樹自身がライブ撮影の現場を経験してれば、アシスタントの経験を問わずに済むもん」
昨日、なかなか経験者が見つからない、と瑞樹がボヤいていたところなので、振り返った蕾夏も思わずホッとした笑みを見せた。
「瑞樹も、溝口さんみたいに、スタジオマンさんじゃなく事務所の仲間に頼んだらいいのに…。どの人もキャリアあるし、下積み経験も長い上、顔見知りだから仕事もしやすいんじゃない?」
何の気なしに蕾夏がそう言うと、瑞樹は何故か、一瞬言葉に詰まった―――ような、気がした。
が、蕾夏がそれを疑問に思う前に、瑞樹は少し難しい顔をして答えた。
「しがらみの無い奴の方が、頼みやすい」
「そう?」
「馴れ合われたり、甘えられたりすると困るからな」
「…私は?」
ちょっと心配そうに眉をひそめる蕾夏に、瑞樹はふっと笑った。
「お前は、また話が別」
「…よかった」
安心したように微笑んだ蕾夏は、クルリと瑞樹に背を向け、コーヒーの準備を続けた。
馴れ合いや甘えで、一緒に仕事をしたい訳じゃない。
瑞樹が何かを必要とした時、それを口に出す前に、蕾夏には分かるから。そして、蕾夏が何かを見つけた時、それを口に出す前に、瑞樹も同じものを見つけるから。
だから、2人で1セット―――そうやって仕事をしていくのが、2人の夢。
そんな夢の方だけを見ていられた、この朝は―――とても、穏やかだった。
***
「なんだ、“Clump Clan”に直接行くわけじゃないのか」
「うん。…っととと」
電車の揺れに合わせて、答える蕾夏の体が大きく傾ぐ。慌てて瑞樹が、蕾夏の腕を掴んで引き戻した。
「安定感ねーなー、お前」
「…ごめん。昔からどうもダメなんだよねぇ…。バスがカーブ曲がる時、座席から転がり落ちたこともあるし」
「…さぞかし、乗り合わせた奴らのその日の夕飯のネタにされただろうな」
「って、一緒に乗ってたお母さんにも言われた」
座席から転がり落ちて慌てふためく蕾夏を想像すると、不謹慎ながら、ちょっと笑える。笑いをかみ殺した瑞樹は、中途半端な混み具合の車内で蕾夏を庇うよう、蕾夏の背中に腕を回した。
「ええと―――“Clump Clan”の取材は、午後なの。午前中は、会社で次の特集記事の下準備。奏君も午前中は、黒川さんにくっついてびっしり仕事だって。日本人は働きすぎだ、って憤慨してた」
「ああ…、ロンドンじゃ、面白いほど休日には仕事が入ってなかったもんなぁ…」
「日曜日にデパートも休みだったりしたもんね。確かに働きすぎなのかも」
「特に広告業界なんて土日無関係だぜ。日本に残ってやってけるのかよ、あいつ」
日本に残ろうかどうしようか迷っている、と言っていた奏を思い出し、瑞樹が眉根を寄せる。蕾夏も同じ事を思ったところだったので、思わず苦笑してしまった。
「…まあ、まだ決めたわけじゃないみたいだし。瑞樹は? 今日の撮影って、何時ごろ終わるの?」
「3時半開演って話だから―――順調にいけば、6時頃か」
瑞樹の答えに、車内アナウンスが被さった。
大きな揺れとともに、電車が止まる。この駅で先に降りる蕾夏は、瑞樹の腕を解き、軽く右手を挙げた。
「じゃ、終わったら連絡してね。久々のアシスタント、がんばって」
瑞樹も、同じように右手を挙げた。
「お前も、取材ピンチヒッター、がんばれよ」
パン! と、ハイタッチのように手を合わせた2人は、互いに笑みを交わした。
***
借り物の靴の底に貼られたテープをぺりぺりと剥がしながら、奏は、壁に掛けられた時計を確認した。
―――うわ、ヤバイ。あんまり時間ないかも。
「黒川さん」
「んー?」
背後で、同じく借り物のアクセサリー類をチェックする黒川を振り返る。どこも壊れてないかとチェックするその動きは、どう見ても時間を忘れている緩慢さだ。
「オレ、今日は2時までで上がりますから」
奏がきっぱり言うと、黒川は、手にしたネックレスをケースに戻す手を止め、キョトンとした顔を奏の方に向けた。
「あれ? そうだっけ」
―――やっぱ、忘れてやがる。
脱力して、靴を落としてしまいそうになる。このところ黒川は、あまりに奏を便利に使っているので、奏個人のスケジュールのことなど、前もって話していても、すっかり頭から抜け落ちてる場合が多いのだ。
「黒川さんも、一緒に話つけに行ったじゃないですかっ! ほら、“月刊A-Life”の、“Clump
Clan”の取材!」
「…あーあーあー、あの、例のカメラマンさんの助手やってた女の子だっけ。あれって今日だった?」
「今日です!」
「そうかぁ。じゃあ、これの返却、一宮君には頼めないねぇ」
残念そうに言う黒川の視線の先には、ざっと5店舗から拝借してきた服飾品の数々、合計30点程度が並んでいる。やっぱりこれの返却を、全部押し付ける気だったのか―――返却準備作業を頼まれた時から、なんとなくそんな予感はしていたが。
「…青山方面、1軒だけなら、なんとか寄れますけど」
妥協案で奏がしぶしぶ折れると、黒川はニッコリと笑って首を振った。
「いや、いいよ。他のスタッフに頼むから。それより―――取材終わってから時間があるなら、ちょっと頼まれてくれないかな」
「え?」
「本を探してきて欲しいんだよ」
「? 仕事の本ですか」
「うーん…仕事とも言えるし、趣味とも言えるし―――僕としては、完全に趣味なんだけど、仕事とも無関係じゃなくてねぇ」
そう言った黒川は、アクセサリーをケースに納め、唐突に自分の鞄の中を漁った。
出てきたのは、大きな茶封筒。そしてその中から取り出されたのは―――随分と古びた、1冊の雑誌だった。
「ほら、こういうの。知ってる? “婦人画報”っての」
「…名前だけは」
今も、普通に毎月出ている筈だ。本屋で何度も見た記憶がある。
けれど、黒川が手にしているそれは、奏が知っている“婦人画報”とは、随分と趣が違っている。表紙が写真ではなく、どことなくレトロ調な女性のイラストで、厚みも薄い。それに、全体に茶けてしまっている。相当古い“婦人画報”なのだろう。
「いつ頃のですか、それ」
「これは、昭和の初めごろ。明治38年創刊だからね」
「明治、って…」
「西暦に直すには、プラス1867年、かな」
「てことは、えーと…1905年!? ひえぇ…、ひゃ、百年近いのか」
「女性誌の走りだよ。当時の有名な画家が表紙を手がけてたりしてねぇ。これは今朝、収集家の人から譲ってもらったばかりだけど、戦前のものは特に人気もあるし高いんだよ」
「…まさか、そんな高いもんを買ってこい、と?」
「いやいや。これの、昭和30年代頃のがあれば、取り置きしといてもらいたいんだ。ここ2年ほどで集め始めたけど、その頃のは丸ごとごっそり抜け落ちてるから」
昭和30年代の本が、その辺の本屋に売ってる筈がない。となると、古本屋、ということになる。
―――古本屋なんて、行ったことないよなー…。
参ったな、と眉をひそめた奏だったが―――この後、待ち合わせをしている彼女の顔を思い浮かべた瞬間、あ、と声を上げそうになった。
―――そういえば、蕾夏の会社の周りって、本屋だらけだったよな。
神田古書街とかいって、日本では有数の古本屋街だと聞いた覚えがある。
「分かりました。取り置きなら」
奏がやっと笑顔になって答えると、
「勿論、買えるなら買ってきてもらってもいいけどね」
と黒川が笑顔で返した。
「…いや、やっぱ、取り置きにさして下さい」
どの位の価値のものか知らないが、結構な値段がしそうな気がする。スケジュール同様、立て替えた購入代金もあっさり忘れて踏み倒されるような気がして、奏は引き攣った笑顔で、そう念押しした。
古本探しを承諾したせいか、2時以降のスケジュールは綺麗さっぱり空けられてしまった。
蕾夏との待ち合わせは、2時半過ぎに、表参道の駅。“Clump
Clan”の取材が3時からで―――取材はせいぜい、30分から1時間だろう。帰社する蕾夏について行って、神田の古書街を1時間ほどうろついて―――…。
―――うーん…どうするかな。
仕事現場を出た奏は、腕時計を確認しつつ、僅かに眉をひそめた。
7時か8時には、暇になる。ここ最近、遅い時間まで黒川やその周辺スタッフに付き合って仕事をしていたので、なんとも変な気分だ。やっと自由な時間が持てた、と思う反面、1人きりでどう時間を潰せば良いのやら、と困ってしまう。
こんな時―――気軽に、蕾夏を誘えればいいのだけれど。
一瞬、そう思い、すぐにため息と共に首を横に振る。駄目だ、絶対に誘えない。1度だけ、夜桜見物に誘った時のことを思い出すと…自分がまた暴走しそうで、怖い。
第一、明日は2人で浅草を取材に行くらしいから、どうせ今夜から会う予定を入れているのだろう。勇気を振り絞って誘ったところで、断られるのが関の山だ。
「あーあ…」
大きなため息をつきながら、奏は、晴れた空を見上げた。
『顔を合わせた時、一番キツい思いして、一番緊張して、一番落ち着かない顔してんの、誰だか分かってんのか? …奏。お前だろ』
お前の後悔は、十分理解している、と瑞樹は言う。
お前が二度と馬鹿な真似はしないと、ちゃんと信用している。だから、そんなに“自分自身”に怯えるな、と瑞樹は言う。
―――でもさ、成田。
罪悪感って、どうやって小さくしてきゃいいのか、オレには分かんねーよ。
世の中、人を殴っても、傷つけても、何とも思わない人間も確かにいるんだと思う。でも…そんなのは特殊な人間で、普通は誰だって、自己嫌悪に陥ったり後悔したりするもんだろ?
何とも思ってないね、って顔して生きてる連中だって、ほんとは、ずっと後悔を引きずって生きてるのかもしれない。少なくともオレは…平気な顔なんて、まだ当分、できそうにない。
「正直な顔してっからなー…」
脳の命令に忠実すぎる表情筋だからな、と、黒川の講座を思い出し、苦笑する。もう一度、大きなため息をついた奏は、ぐしゃっと髪を掻き上げて、視線を前に戻した。
その瞬間―――ふいに、ある言葉が、脳裏を過ぎった。
『―――まあ。お前だけじゃねーけど』
『オレだけじゃない、って…何が?』
『…負い目に翻弄されてんのが、ってこと』
「……」
あれは―――どういう意味だったんだろう?
会話の流れからして、あれは…どう考えても、“瑞樹が奏に対して”負い目を負っているような言い方だった。
瑞樹が、自分に対して、負い目を? …思い当たる節は、一つもない。瑞樹は一体、どんな負い目を自分に感じていると言うのだろう…?
唐突に思い出した会話に、奏が眉をひそめた時―――奏の携帯電話が、鳴った。
「…っと」
慌ててバックポケットに突っ込んであった携帯を手に取る。液晶画面で電話の主を確認した奏は、思いがけない名前に、ちょっと目を丸くした。
「はい」
『奏? 俺』
「どうしたんだよ、珍しい」
本当に、珍しい相手からの電話だ。ヒロから、電話なんて―――ライブにいきなり誘われた時以来かもしれない。思わず、笑みが口元に浮かんでしまう。
『いや、別に用事ってほどでもねぇけど…』
「? なんだよ」
『……』
浮かびかけた笑みが、すぐに、消える。
電話の向こうのヒロの声が―――なんだか、様子がおかしい。いつものヒロらしくない、妙に弱々しさを感じさせる声だ。
「…何か、あったのか?」
恐る恐る、訊ねる。返ってきた声は、やはりヒロにしては弱く、硬かった。
『…いや、別に』
「…何か、困ってるのか? あ、今日ってヒロ、確か休みだよな。バンド仲間と何かあった?」
『―――いや』
短く、そう言って―――電話は、暫く、無言が続いた。
何もない筈がないだろうに―――常に悠然としていて、奏をからかうような笑みを浮かべているヒロと、今、電話の向こうにいるヒロとでは、まるで別人であること位、声だけで十分分かるのだから。一体どうしたというのか…奏は、眉をひそめ、息を殺すようにしてヒロの返事を待った。
けれど―――返ってきたのは、奏が期待したような“答え”ではなかった。
『…なあ、奏』
「ん?」
『俺、お前みたいな奴が、羨ましいよ』
「……え、」
『一見、捻くれて、斜めに構えてやがるけど―――真っ直ぐに育ったんだろうな、お前って』
「―――…ヒロ…?」
―――どうしたんだよ、一体。
なんだか、正体の分からない不安が、胸の奥にせりあがる。
「…どうしたんだよ、ヒロ」
もう一度、訊ねたけれど。
『―――なんでもない。邪魔して悪かったな。じゃ』
ヒロは、結局そう言って、一方的に電話を切ってしまった。
ツー、ツー、という無機質な音だけが残った携帯を手にしたまま、奏は、迫り来る不可解な不安に、その場に立ち尽くしていた。
***
携帯電話を切った佐野は、はぁ、と大きく息を吐き出した。
すっかり冷えてしまったコーヒーを一気にあおり、カチャン、と音を立ててカップを置く。
カフェの開け放たれた大きな窓から、雑踏の音と一緒に春の風が流れ込む。好みじゃないクラシックが店内に流れていたが、佐野の耳には、その眠たげな音楽より、雑踏の方が大きく聞こえていた。
『World Explorer社“月刊A-Life” 専属ライター 藤井蕾夏』
テーブルの上に置いた名刺に、また、目を落とす。
右手に握ったままの携帯電話を、無意識のうちに、閉じたり開いたりする。そのパチン、パチン、という音が一定のリズムを刻みながら続いていることに、佐野は気づいていなかった。
まだ、迷っている。
会ってどうなる、という気分が、半分。そして―――会わなくては何も終わらない、という気分が、もう半分。どちらも、偽らざる本音だ。けれど、どちらにすべきか…なかなか、結論が出ない。
奏ならば―――きっと、会って話をする方を選ぶだろう。
そんな風に思って、つい、奏に電話をしてしまった。
奏の意見など求めていないし、奏に自分のことを話すつもりもないのに―――何故か、電話をしてしまった。
…“会う”という選択肢に、心が傾きつつある証拠、なのかもしれない。認めたくないが…そうとしか思えない。
『このまま一生、逃げ続けて、逃げられ続けて、いいの―――…?』
「…サキのやつ…」
桜庭は、何も知らない。佐野と蕾夏の間に、一体何があったのか。佐野がこの腕の傷を、どう思ってきたか。そしてこの13年間―――佐野が、何を抱えて生きてきたのか。
何も、知らない。その癖に――― 一番、痛いところを突いてくる。
舌打ちした佐野は、パチン、と閉じた携帯を、弄ぶように手の中で躍らせた。
暫し、そのまま、名刺を睨み続けた佐野だったが―――やがて、ぎゅっと一度目を瞑ると、意を決したように目を開けた。
携帯と名刺を、ジーンズのポケットに押し込んで。
佐野は、席を立った。
***
「え、“婦人画報”?」
会社近くの駅の改札を抜けながら、蕾夏はちょっと目を丸くして、奏を振り返った。
自分とは関係ない取材に1時間近く付き合い、眠くてしょうがない、と目を擦っていた奏も、電車で移動している間に目がすっきり覚めたらしい。さっきまでよりシャキッとした顔をしている奏は、蕾夏の言葉に、うんざりしたように頷いた。
「黒川さんの、最近の趣味らしいんだよな。まぁったく…自分が勝手にオレのスケジュールを忘れた癖して、早く帰らせる代わりにこんな役目押し付けるんだから、理不尽も甚だしいだろ」
「うーん…確かに、ねぇ」
気の毒そうに眉をひそめた蕾夏だったが、その口元は、奏には申し訳ないが、ちょっと笑ってしまっていた。
「…なんか、楽しそうだな、蕾夏」
「え? そんなこともないよ?」
「口元、笑ってんだろ」
「あはは、ごめん。別に、奏君が黒川さんにこき使われてるのが面白いわけじゃないよ」
「じゃ、何」
「うん、なんて言うか―――奏君と黒川さんの関係って、端から見てると、瑞樹と時田さんの関係に似てるなぁ、って思って」
その言葉に、サングラスの向こうの奏の目が、ギョッとしたように見開かれる。
「な、成田と郁の関係!?」
「うん。なんかね。瑞樹も奏君も、師匠の時田さんや黒川さんを、立ててはいるけどあんまり慕ってないし、気を許してもいないんだけど―――時田さんや黒川さんは、瑞樹や奏君に凄く気を許してて、普通のスタッフには頼まないような個人的なことまで、甘えて頼んだりしてる感じがするの」
「……」
「期待されてるんだね、奏君も」
―――瑞樹が、時田さんから期待されていたのと、同じように。
言葉にしなかった部分も、奏には伝わったのだろう。改札を抜け、蕾夏の隣に並びかけた奏の顔は、僅かに赤く染まっていた。
「…んなこと、分かんねーじゃん」
ボソボソと返ってきた言葉も、まんざらではない感じがする。
―――ある意味、相思相愛、ってことかな。
くすっ、と笑った蕾夏は、
「じゃあ、古本屋さんがなるべく集中してる辺りがいいよね」
と言って、奏を促すように歩き出した。
“Clump Clan”の取材は、奏や黒川のおかげもあって、とてもスムーズに終わった。
前もって説明を聞かされていたとはいえ、ポスターの撮影現場では“アシスタントさん”と呼ばれていた蕾夏が、“A-Life”の名刺を持って現れたことに、先方の担当者はかなり面食らっていた。が、そのことが会話のとっかかりとなり、終始いいムードで話を進めることができた。瀬谷のスケジュールが合わずにこういうことになったが、案外瓢箪から駒だったかも…と、蕾夏は密かに思った。
それに―――“Clump Clan”に行ったことで、思いがけないものを目にすることができた。
瑞樹が撮った、奏のポスター ―――数種類あるそのポスターが、全種類、取材を行った部屋の壁に飾られていたのだ。
「やっぱり、瑞樹が撮る奏君って、綺麗だよね…」
ポスターを思い出しながら、無意識のうちに、そう呟く。
それを聞いて、隣を歩く奏は、バツが悪そうに咳払いをして、サングラスを掛け直した。
「…なんか、そういうことをあっさり言われると、気恥ずかしいんだけど…」
「だって、あれだけの数、いっぺんに見たのって、今日が初めてだったから」
最近、地下鉄やJRの駅などで、奏のポスターは頻繁に見かける。けれど、どれも1種類だけだ。
どこかの駅に、全種類、連作として盛大に貼ってあるらしいのだが、残念ながら蕾夏は、その光景をまだ一度も拝んでいない。普段なら、是非それを確認しに行こうとわざわざ出かけて行くのだが―――あの撮影以来、あまりにも個人的に色々ありすぎて、そこまで考えが及ばなかったのだ。
だから、今日、ズラリと並んだ奏の様々な表情を、初めて一斉に目にして―――改めて、思ったのだ。
瑞樹が撮る奏は、なんて生き生きとして、綺麗なんだろう、と。
「…私には、奏君の立場に立って考えること、あんまりできないけど…」
視線を前に戻し、蕾夏はゆっくりと、そう切り出した。
「奏君が、もう1度瑞樹に撮って欲しい、って思って、わざわざ日本まで来た気持ち―――あのポスター見て、なんかよく分かった気がする」
「……」
「…奏君と瑞樹の間には、そりゃ色々、感情の部分で難しいものがあるのかもしれない。でも…見てて、分かるの。瑞樹もね、被写体としての奏君のことは、凄く“買ってる”って。もし瑞樹が自由に被写体が選べるなら―――奏君は間違いなく、名前が挙がる1人だ、って」
奏の肩が、ピクリと動いた。
少し驚いたようにこちらを見た奏は、それでも、どこか不安そうな顔をしていた。理由は、なんとなく分かる。以前、瑞樹に言われたことが、まだ頭に残っているからだろう。
「―――この世で一番撮りたくない人間、て言ってたのは、もう1年前のことだよ。奏君」
「…でも…」
「…うん。奏君の言いたいことは、分かる。私も、綺麗ごと言う気はないよ。罪は消えないし、痛みも消えない―――ゼロには、やっぱりならないよね」
「……」
「でも―――それは、それ。これは、これだよ」
「…そんな、もん?」
「ん…、そんなもんだと思う。人間て、ファジーな生き物だもの」
たった1ヶ所が許せなくて受け入れられない場合もあれば、マイナスだらけなのに拒めない場合もある―――人間て、本当に曖昧な生き物だ。
「…もし、日本に残るなら―――また一緒に、仕事できるといいね」
蕾夏がそう言うと―――奏は、黙ったまま、コクリと小さく頷いた。
そこから先、会話はあまり続かなかった。
が、古書街まで、さして時間はかからなかった。気まずい時間を長引かせずに済んで、蕾夏は内心、ホッとした。
「この辺なら、昭和30年代の“婦人画報”レベルの古書も、そこそこ扱ってると思うよ」
いかにも下町、といった風情の街中に、国籍不詳の奏は、酷くアンバランスだった。迷子になった観光客みたいにキョロキョロと周囲を見回した奏は、困ったように眉を下げた。
「…オレ、ここまでの道のり、あんまり覚えてないかも…」
「えっ」
「なんか、成田のこととか、日本に残ることとか、色々考えすぎて―――どこ曲がったか、全然意識してなかった」
サングラスを外して、参ったな、という顔でキョロキョロする奏の様子に、蕾夏は思わず吹き出してしまった。その反応には、さすがに奏もムッとした顔になった。
「…どうせ、一度に1つのことしか考えられない、単純な頭だよ」
「あははははは、やだなぁ、誰もそんなこと言ってないじゃない」
「じゃあ、何笑ってんだよっ」
「今、私がこのまま奏君置いてったら、絶対周りの人が“道に迷ったガイジンさん”だと思うんだろうなぁ、って思っただけ」
「……」
「この辺のおじさん、きっと奏君が日本語で道訊いても、慌てふためいて英語で教えようとすると思うよ」
確かに―――奏は、1人でいると余計、白人ぽさが際立ってしまう。訳知り顔で歩いていればまだしも、こんな下町で困った顔で歩いていれば、観光客がはぐれたと思われても仕方ないだろう。
「だから。道迷ったら、私の携帯に電話入れて。駅までなら、多分電話で誘導できるから」
「…サンキュ。助かる」
まだムッとした顔をしながらも、奏の目が、どことなく安堵した目に変わる。それを見て蕾夏が微笑むと、奏も観念したように、不機嫌な顔を笑みに変えた。
「じゃあ―――行くね。今日はありがと」
「うん。じゃ、また」
軽く手を挙げ、微かな笑みを交わして別れた2人だったが。
「―――あの、蕾夏!」
蕾夏が、会社へと戻る道を歩き出して間もなく、背後から、奏が呼び止めた。
不思議に思って振り向くと、奏は、躊躇っているような表情で、さっきと同じ場所に佇んでいた。何だろう―――蕾夏が少し首を傾げると、奏は、思いきったように口を開いた。
「あの、さ。その―――今度、暇な日あったら…成田も含めて3人で、飲みに行かない?」
「……」
「毎日、黒川さんとこのスタッフと一緒ってのも、飽きるし。…あんた達とは、あんまり、飲みに行ってないし」
相談事抜きで、奏がこんな風に声をかけるのは、これが初めてかもしれない。
奏も、なんとか次の一歩を踏み出そうと、がんばっているのかもしれない―――そう思って、蕾夏はフワリと微笑んだ。
「―――うん。じゃ、瑞樹にも言っとくね」
蕾夏のその言葉に、奏は、やっと肩の荷が下りたような、そんなホッとした表情を見せた。
***
初めて訪れたビルの受付で、佐野は、もう一度迷った。
迷った末―――名刺を手に、受付嬢の前に歩み出た。
連休中で暇らしい受付嬢は、佐野が来たことに気づいていない。
「―――あの」
佐野が声をかけると、彼女は、ビックリしたように顔を上げ、慌てて営業スマイルを顔に貼り付けた。
「いらっしゃいませ。どちらにご用でしょう?」
―――プロだな、こいつも。
仕事をサボってた動揺なんて、微塵も見せない表情と声。軽く眉を上げつつ、佐野は、手元の名刺に目を落とした。
「…“月刊A-Life”の編集部に、藤井さんという方がいらっしゃる筈ですが」
「失礼ですが、お客様のお名前は」
「アイ・ピー・アクトの、佐野と言います」
「少々お待ち下さい」
受付嬢は、ビジネス仕様の表情になると、手元の受話器を上げた。どうやら、“A-Life”の編集部へ内線電話をかけているらしい。
「…あ、受付です。お疲れ様です。あの、今、受付に佐野様が藤井さんを訪ねていらっしゃったのですが…」
―――回れ右するなら、今だ。
もう1人の自分が、そう囁く。
実際、足が動きかけるが、佐野はそれをあえて堪えた。今まで、その囁きに負けて、何度も踵を返してきた。今回は、そうしたくはなかった。
「…はい…はい、はい、そうですか。分かりました。そのようにお伝えします」
受付嬢の電話は、すぐに終わった。再び佐野に向けられた顔は、どことなく申し訳なさそうだった。
「申し訳ありません。藤井はただいま、留守にしております」
「留守?」
「はい。取材に出ておりまして…」
「……」
拍子抜け、とは、こういうことを言うのだろう。佐野は、全身から力が一気に抜けていくのを感じた。
「帰社時刻は未定ですが、多分間もなく戻るとのことです。―――お待ちになりますか?」
受付嬢がそう、付け加える。けれど、一度拍子抜けした気分は、もう一度盛り返すとも思えなかった。
「…いえ。結構です。では、また出直します」
仕事用の笑みを受付嬢に返した佐野は、軽く頭を下げ、踵を返した。
―――笑えるよな、ホント。
自動ドアを抜けながら、佐野は自嘲気味な笑いを、口元に浮かべた。
意を決して踏み出した途端、見事なまでの肩透かしだ。
要するに、会うな、と―――会うだけ無駄なのだ、と、神様だか仏様だか、とにかく人智の及ばない所にいるヤツが、そう言っているわけだ。桜庭がどんなチャンスを与えようと…やはり、無理なのだ、と。
ビルのエントランスの段差を下りた所で、大きく息を吐き出す。手にしていた名刺をぐしゃりと握り潰した佐野は、それをまたポケットの中に押し込んだ。
…これでいい。
気が迷っただけだ。これでいいんだ。
そう、心の中で繰り返し―――顔を上げた。
そして。
その瞬間―――その場に、凍りついた。
佐野の視線の先、10メートル。
1人の女性が、佐野同様、凍りついたようにその場に立ち竦んでいた。
白のブラウスに、膝下の濃紺のフレアスカート―――そのコーディネートが、学生時代を彷彿とさせ、余計佐野を凍りつかせる。まるで、タイムスリップでもしたかのように…彼女は、変わらなかった。
風に、彼女の長い髪が、ふわりと靡く。
その動きに促されたように、佐野の口が、その名前を呟いた。
「―――…藤井…」
あの日から、13年。
あれ以来、蕾夏と言葉を交わすのは―――これが、初めてだった。
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