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― 呪縛 -2- ―

 

 いつも、ひとりだった。

 家の中でも、学校でも、ひとりだった。

 “友達”と呼び合う奴も、いない訳ではなかった。“仲間”と呼び合う連中も、確かにいた。
 けれど―――誰ひとり、心を許せる相手などいなかった。大勢の“友達”や“仲間”に囲まれながら…いつも、ひとりだった。

 別に、寂しいとは思わなかった。
 どうせ自分は、外れた人間だ。平和な顔した“その他大多数”と馴れ合っても、うんざりするだけで、楽しいことなど1つもない。眉をひそめ、あからさまに警戒する奴らを、いつも冷めた目で見下ろしていた。

 そんな中で、ただ1人。

 『キミって、うちのクラスだったよね?』

 首を傾げ、無邪気な目で見上げてきた、小柄な少女。

 『キミも、はぐれちゃった? 私も翔子ちゃんとはぐれちゃって…。集合場所って、どこなんだろ? 転入していきなり修学旅行なんて、まだ全員顔覚えてないから困るなぁ』

 急がないと、置いてかれちゃうよ。
 だから、一緒に他のクラスメイト、探しに行こう?

 集合場所など、最初から知っていた。ただ、団体行動が面倒でエスケープしてきただけだった。
 でも、制服の袖をきゅっと掴み、行こう、と促した白い手に―――「うるせぇ、ほっとけ」という一言を飲み込んだ。

 “まるで、天使みたいだよな”―――クラスの誰かが、そんな風に言っていた。
 物の善悪も、世の中の冷たさも理不尽さも…何一つ知らない子供みたいな、真っ白な笑顔。その笑顔を見て、彼女を天使に喩える奴の気持ちも、分からないでもなかった。
 けれど、彼女を天使だと思ったことなど、一度もない。
 むしろ―――あれほど、皮膚の下を流れる血を実感させる人間はいないと…そう、思った。


 惹かれたのは、その真っ白な笑顔じゃない。

 時折見せる、暗く翳った、その目―――大勢に囲まれながら見せる、真っ黒な“孤独”だった。

 

***

 

 そこに佇む人影が、誰なのか。
 分かった瞬間―――息が、止まった。

 思考が白く飛んだまま、その場に立ち竦む。やがて、こちらを向いた彼の目は―――蕾夏の姿を捉えて、凍り付いた。
 「―――…藤井…」
 「……」

 偶然、とは思えない。
 でも、“何故”―――そこが、どうしても分からない。
 佐野は、蕾夏の現状を、何も知らない筈だ。せいぜい分かっているのは、今度のショーで瑞樹の助手をする、ということ―――だから、想像を広げるとしても“瑞樹のアシスタント”までが限界の筈だ。
 それが…何故、ここに、いるのだろう? 一体どういう経緯で、蕾夏がこのビルで働いていることを知ったのだろう?

 ―――瑞樹…。
 思わず、心の中で、瑞樹に助けを求めてしまう。
 一度は再会を覚悟していたけれど―――その道を断ち切った途端の、予定外の再会。心の準備なんて、何ひとつ出来ていない。反射的に、後ろに一歩さがってしまいそうになるのを堪えながら、蕾夏は混乱した頭をなんとか宥めようとした。

 落ち着かなくちゃ。
 大丈夫。今、目の前にいるのは、中学生の佐野君じゃないし、私も中学生じゃない。…ちゃんと13年、経ってるんだ。
 13年分、受けた傷も、与えた傷も、小さくなってる。
 大丈夫…落ち着きさえすれば、普通に接すること位、そんなに難しいことじゃない筈だ。

 静かに息を、大きく吸って、ゆっくり吐いて―――佐野から目を逸らさず、繰り返す。
 2人の間にある10メートルという距離が、僅かながらクッションの代わりになっているのかもしれない。この前、打ち合わせで再会した時に比べると、手足の震えは小さかった。それでも…今口を開けば、多分、うわずった震えた声しか出ない。蕾夏は焦りながら、何度も深呼吸を繰り返した。
 脳裏に浮かぶのは、奏の顔。
 震える蕾夏の様子に、打ちのめされたように立ち竦む、奏の顔だった。
 動揺した顔をして、まだ傷を引きずっている自分を晒せば、自分のプライドが傷つくと同時に、佐野にもああいう顔をさせる気がして―――それは絶対に嫌だ、と思った。
 佐野にそんな顔をさせるのが嫌なのではない。
 “そんな顔をさせている自分”を自覚するのが、嫌なのだ。

 僅かに青褪めた顔をした佐野を見つめ、最後に長く、息を吐き出す。
 大丈夫―――もう一度言い聞かせた蕾夏は、なんとか自然に見える程度の笑みを、微かに口元に浮かべてみせた。
 「―――久しぶり」
 やっとの思いで搾り出した声は、思ったより“普通”な声だった。
 佐野の表情が、一瞬、動いた気がした。けれど、その動きはほんの僅かで―――すぐに、見覚えのある無愛想な表情に戻ってしまった。
 「…留守って聞いて、帰るとこだった」
 視線を逸らすことなく、抑揚のない声がそう言った。やはり、偶然ではなかったのだと悟り、蕾夏は小さく息をついた。
 「…そう」
 「―――ちょっと、時間、いいか」
 今度は、蕾夏が瞳を揺らす番だった。
 視線を、無意識のうちに周囲に巡らせる。さっきから、何人もの見知らぬ人々が、歩道に立ち尽くす2人の横をすり抜けて行った。しかも、ここは会社の前―――通常出勤している編集者たちや、取材に出ている瀬谷や小松ともすれ違う可能性があるシチュエーションだ。
 ちょっと、とは、どの位の時間だろう? …訊いたところで、佐野にも分からないだろう。
 「…ここでは、ちょっと」
 「…喫茶店なら?」
 「……」
 この辺りの喫茶店は、どこも編集の連中の溜まり場になっている。第一…自分が平静をどこまで保てるか、正直言って自信がない。最悪、取り乱して、フラッシュバックでも起こしてしまったら―――そんな姿は、知り合いは勿論のこと、見知らぬ第三者にだって見せたくはない。
 「―――俺は、どこでもいい。邪魔の入らねぇところ、連れてけよ」
 答えのない蕾夏にしびれを切らしたのか、佐野の方から、そう言ってきた。
 ―――覚悟を、決めないと。
 一度、唇をきつく引き結んだ蕾夏は、佐野を目で促しつつ、踵を返した。


***


 何か言われた気がして、瑞樹は少し、身を乗り出した。
 「は!? 今、何て!?」
 「210ミリ、ちょうだい!!」
 返ってきた答えも、周囲の歓声に掻き消される。直後、地響きのようなドラムとベースの音が、ライブハウスを揺らした。
 指示された210ミリ望遠レンズを掴んだ瑞樹は、それを傍らのカメラマンに渡し、かわりに突きつけられた中望遠レンズを受け取った。めまぐるしく変わるライトで、会場全体が赤くなったり青くなったり―――まともに見ていたら、悪酔いしそうだった。

 ―――こりゃ、指示も何もあったもんじゃねーな。
 なかなかに、ハードな現場だ。
 瑞樹は全く知らないバンドだが、この規模のライブハウスが満杯になるのだから、かなり人気のある連中なのだろう。地響きみたいな演奏は、ジャンルとしたら恐らくハードロックの類。聴衆が、それに合わせて跳ねたりするものだから、ライブ開始直後から、ライブハウスはずっと揺れっぱなしだ。
 そんな中、ひたすらシャッターを切り続けるのは、御子柴という名の、音楽専門のベテラン女性カメラマンである。瑞樹より最低でも10は年上だろう。瑞樹が持っているCDの中にも、彼女の撮ったジャケットがあるのを知り、かなり驚いた。
 どこのライブもこんなもんよ、と、彼女はあっさりそう言った。
 「暴走したファンが、制止線突破してなだれ込んで、撮影中に大事なレンズ壊された経験もあるからね。ま、成田君はファッションショーらしいから、そういう心配は要らないだろうけど」
 オーバーな話でないことは、さっきから係員の制止を振り切って舞台下に入ってこようとするファンを何人も見ているから、よく分かる。今、瑞樹が手にしている中望遠だって、定価で20万を下らない。勘弁してくれ…と、他人事ながらそう思った。
 「今は、特に報道とかライブ撮影は、どんどんデジタル化が進んでるから。助手の必要性も、格段に減ったわねぇ。デジタル一眼レフなら、メディアをフォーマットして準備しとけば、ぽん、と交換してハイ終わり、だもの。前もってナンバー振っとけば、メディアの管理も楽だし」
 そう言いつつ、今彼女が手にしているのは、銀塩の一眼レフである。どうもデジタルは性に合わないのよね、という御子柴の言葉に、瑞樹も苦笑しつつ頷いた。いずれは、ニーズに応じてデジタルへと移行しなくてはいけない日が来るのだろうが…今のところ、どこからもデジタル指定で依頼されたことはないせいか、今ひとつ、食指が動かないのだ。

 ―――第一、今から買っても、1ヵ月後のショーまでに慣れるのは無理だしな…。
 2台目のカメラにも210ミリレンズを装着しながら、瑞樹はそう考え、眉をひそめた。
 ロックバンドのライブとファッションショーでは、観客のうるささも相当違うとは思う。が、かなりの大音響で音楽をかけられることは事前に確認済みだし、野外という事情もある。誰に助手を頼むにしても、指示が通り難い可能性は、かなり高い。
 だったらいっそ、デジタル一眼レフを購入して、1人きりで撮影に臨もうか――― 一瞬、そう思ったが、やはりそれはまずい気がした。ただでさえ慣れない現場だ。慣れないカメラで挑むのは無謀すぎる。

 「チェンジ!」
 「はい」
 視線を舞台上に注いだまま突き出されるカメラを受け取り、代わりのカメラを手渡す。素早くフィルムをリワインドさせた瑞樹は、新品のフィルムをセットした。そうした作業をする自分の手元に、つい先日の蕾夏の姿が重なり、複雑な心境になる。
 蕾夏なら―――そう考えてしまい、ため息と共に、首を振る。蕾夏なら楽なのは分かっているが…蕾夏にだけは、頼む訳にはいかない。
 「あー、ライトが邪魔だなぁ。移動するよ」
 舞台効果の関係で、ライトの角度が微妙に変わったらしい。忌々しげにカメラバッグを掴んで移動を始める御子柴に続いて、瑞樹も機材を持って移動した。
 それにしても―――なんともパワフルな女性だ。御子柴というカメラマンは。
 女性にしては長身で、体格もしっかりしているせいもあるが、やはりキャリアのせいだろうか。カメラを構える姿に、やたら貫禄がある。相当ごつい外見の超望遠レンズを装着しても、彼女が持つと小さく見えるのだから凄い。
 ボーイッシュなその外見と、少しハスキーな声は、どことなく桜庭を彷彿とさせる。だが…醸し出すムードは、ある意味、まるっきり逆だ。
 ―――あいつも、この位キャリアを積めば、あんなにキリキリすることも無くなるんだろうな。
 そんなことを思い、僅かに眉をひそめる。
 桜庭のことを考えるのは、今は、ちょっと辛い。追い詰められ、逃げ場を失ったような目―――突き放す以外どうすることもできないが、あんな目で縋る人間を足蹴にするのは、やっぱり気分のいいものではないのだ。

 逃げ場を求めたくなるほど、元・弟との間が緊迫しているのだろうか―――瑞樹は、桜庭のことより、その元・弟のことの方が気になった。
 虐待を受け、屈折した部分を持っているらしい、桜庭の元・弟。元家族である桜庭と再会しても、桜庭がどんなに歩み寄ろうとしても、心の内を見せることはないらしいその男に、瑞樹はなんとなく、自分を重ねていた。
 桜庭では、彼の力にはなれないのだろうか。
 瑞樹に、蕾夏が現れたように―――彼にも、心を開ける相手が現れればいいのに。
 そしてその相手が、彼の心を必死に開かせようとしている桜庭本人であってくれれば…これほどのハッピーエンドは、ないだろうに。

 「……っと!」
 感傷に浸っていた隙に、背後の観客が前へと迫ってきていた。観客を制止しようとする係員が背中にぶつかり、瑞樹は前につんのめった。
 カシャン、という音がして、何かが床に落ちる。
 機材の一部だろうか、と慌てて床に視線を落としたが、暗い会場内では判別が難しい。屈みこんで音の主を探すと―――そこには、CDのケースが落っこちていた。どうやら、迫ってきた観客が落としてしまったらしい。

 その瞬間。
 あるシーンが、瑞樹の脳裏を、掠めた。

 『成田って、ディープ・パープルとかスティングとか聴くんだね』

 そう言って、差し出された、MDケース。昨日、事務所で桜庭と会った時の、あのシーン。
 ―――なんだ…?
 何に、違和感を感じたのか―――瑞樹自身、よく分からないが。

 何故か…何か、大切なことを忘れている気がして―――それが何かが、分からなくて。
 瑞樹は思わず、不安げに眉根を寄せていた。


***


 階段を上りきったところで、そこに誰も居ないことを確認し、蕾夏はホッと胸を撫で下ろした。
 「…よく来るのかよ、ここ」
 蕾夏に続いて上がってきた佐野は、訝しげな顔をしてそう言った。蕾夏はちょっと振り返り、微かな笑みと共に首を横に振った。
 「私も、来るのは初めて。…一時期、ここにホームレスの人が住み着いちゃって、問題になったの。外からも上がれるから」


 “A-Life”の入っているビルの裏手にある、3階建てのビルの、屋上。
 問題になった割に、今も非常用の螺旋階段から上れてしまうのだから、ホームレス事件は一体なんだったんだ、と突っ込みを入れたくなる。
 飲食店と事務所の入ったこのビルは、今日がカレンダー上では休日だということもあり、ビル全体が閑散としている。それでも、下手に屋内で人の来ない場所を選ぶよりは、青空の見えるこの場所の方がマシだと思った。
 他人の視線を気にせずに済む、ということは―――つまりは、佐野と2人きりになる、ということ。
 警戒するな、と言う方が、無理だろう。勿論、蕾夏も警戒している。裏通りに入った瞬間から、ずっと。

 ―――でも…よく考えたら、佐野君と話をする時って、いつも2人きりだったな…。
 初めて言葉を交わした時も、2人きりだった。
 修学旅行先で、同じ班だった翔子とはぐれてしまい―――慌てふためいていた時、たまたま見つけた、見覚えのある顔。良かった、はぐれていたのは自分だけじゃなかったんだ、とホッとして、声をかけた相手―――それが、佐野だった。
 さして話もしなかったし、名前もその時は分からなかったけれど…思えば、あの時から、佐野との接触は常に“2人きり”だった気がする。
 でも、別にそれを不思議に思ったことはなかった。
 1人で作業している生徒会室、委員会の帰りに立ち寄った放課後の教室、翔子の帰りを待つ保健室前の廊下―――そんな、人目がなくて当たり前の場所でしか、佐野が話しかけてこなかったから。そう…人のいる所では、佐野はいつも蕾夏を無視していた。時折、視線を向けるだけで…決して、話しかけては来なかったのだ。


 見上げた空は、夕方の色に変わっていた。そろそろ、瑞樹が撮影助手をやってるライブも佳境に入ってるかな―――なんて、一瞬、この状況に似つかわしくないことを思った。
 フェンスに寄りかかり、視線を前に戻す。佐野は、そんな蕾夏の斜め前にある空調の室外機にもたれて、ポケットから煙草を引っ張り出しているところだった。
 佐野が煙草をくわえるのを見ていたら、ふいに、去年の夏のことを思い出した。
 「…佐野君。もしかして、去年のクラス会の日―――学校に、来た?」
 思わず蕾夏が訊ねると、ライターを点けようとしていた佐野の手が、一瞬、止まった。
 ほんの僅かな間の後、逸らされる視線に、確信した。やっぱり―――体育倉庫に落ちていた吸殻は、佐野だったのだと。
 「どうして?」
 「…別に」
 「……」
 「多分、お前と同じ理由なんじゃねぇの。…あいつらの顔見ても意味ねぇから、クラス会はボイコットしたけど」
 私と同じ―――…?
 戸惑う蕾夏の前で、佐野はパチン! とライターを閉じ、煙を吐き出した。瑞樹が煙草を全く手にしなくなって以来、煙草のにおいはちょっと苦手だ。微かに漂う香りに、少し眉をひそめた。
 「それより―――お前、やらないんだってな。今度のショー」
 「―――えっ」
 去年のクラス会のことに気をとられていた蕾夏は、唐突に向けられた言葉に、驚いて目を丸くした。
 意味は、分かる。“Clump Clan”のオープニングイベントでの、瑞樹のアシスタントの件だ。でも…その話が、今、佐野の口から出てきたのが不思議だった。
 アシスタント辞退の件は、“Clump Clan”はもとより、企画・運営をするアイ・ピー・アクト側にもまだ伝えていない。代わりのアシスタントが決まっていない段階では報告のしようがないし、第一、助手レベルの交代など、わざわざ報告するほどの話でもないから。
 「誰に聞いたの」
 当然、そう訊ねる。一瞬、奏の顔が浮かんだが…アシスタント辞退の話をした際、佐野には自分達の話はしないよう、ある程度釘を刺してある。奏が、その約束を違えるとも思えない。
 「風の噂に聞いた」
 そんな風にしらっと流す佐野に、つい、眉がつり上がる。
 「…真面目に答えて」
 「―――秘密。奏じゃねぇから、そんな顔すんなよ」
 「……」
 奏の名前に、鼓動が、嫌な具合に乱れる。
 奏に釘を刺したのは、つい最近のことだ。それまでに、奏が何を佐野に話したかは分からない。少なくとも奏は、佐野を慕っている様子だから―――だからこそ、彼が慕う人物が佐野であることを、瑞樹も蕾夏も言えなかったのだけれど―――今、悩んでいることの延長線上で、蕾夏のことを話していたとしても不思議ではない。
 奏との間にあった“事件”は、蕾夏にとっては、弱みだ。佐野に握られたくはない。佐野は、一体どこまで知っているのだろう…?
 「アシスタントやらねぇのは、やっぱ―――俺が、原因か」
 佐野の目が、少し、真剣みを帯びる。
 そんなことを気にしていたのか、と、少し意外に思う。けれど…イエスと言う気など、毛頭ない。
 「…ううん。そういう訳じゃないよ」
 微かな笑みを作り、蕾夏は首を振った。
 「ただ単に、スケジュールが合わなかっただけ。佐野君は、関係ない」
 「……」
 煙草を口に運びながら見据えてくる佐野の目は、その言葉を信じているとは思えなかった。無理もない。スケジュールなんて基本的なこと、ショーの日程はとっくに決まっていたのだから、打ち合わせに出る前に確認していて当然なのだから。
 でも、認めるわけにはいかない。
 過去の傷を引きずって、それと向かい合うのが怖くて…それで、逃げ出したなんて。
 「そりゃ…佐野君いて、驚いたけど…そんなことで、一旦引き受けた仕事、投げ出したりしないよ」
 「―――“そんなこと”、ね」
 見透かしたような、皮肉めいた一言に、神経が逆撫でされた。せっかく作った笑みが、あっけなく崩される。
 「…“そんなこと”、でしょう?」
 「……」
 「もっとも、佐野君は、腕の傷のことで根に持ってるのかもしれないけど」
 蕾夏がそう言うと、佐野の顔も一気に険しくなった。
 「…別に、根に持ってなんかいねぇよ」
 「……」
 「元々、本気でギタリスト目指してた訳じゃねぇし。一生ギター弾けなくなった訳でもねぇし。第一…自業自得だろ」
 「…それなら、いいけど」
 自業自得―――その通りだ。佐野が受けた傷は、佐野が蕾夏に暴力を振るった結果だ。それで、ギタリストの道が断たれたとしても―――蕾夏がそのことに、罪悪感を持つ必要は、全く無い。
 全く、ないけれど。
 そんな風に、割り切れないのは―――むしろ、蕾夏の方だ。

 文化祭のリハーサルで聴いた、佐野のギター。
 玄人はだしのその演奏に、酷く驚いたのを覚えている。単なる中学生の趣味とは思えなかった。きっと、プロを目指してるんだ―――あの時、直感的にそう思った。
 そして―――文化祭当日に聴いた、明らかに不自然な佐野の演奏…。

 ―――考えちゃ、いけない。
 表面上、表情を変えないよう努めながら、蕾夏はそっと自らの拳を握り締めた。
 手のひらに蘇る、ナイフを握った、あの感触。…考えては、いけない。引きずられてはいけない。考えたら―――平静を、保てなくなる。

 「お前の方は、どうだよ」
 動揺を押し殺す蕾夏の前で、険しい表情を消し去った佐野が、少し視線を逸らして訊いてきた。
 「…どう、って?」
 「前、よくあっただろ」
 「……」
 「男どもに手ぇ掴まれたり、ふざけて抱きつかれたりして起こしてた、あれ」
 ―――やめてよ。
 更に、拳に力をこめる。一番触れたくない弱みだ。本人は、ただ気になるから訊いてくるだけなのだろうが…突きつけられるには、まだ痛すぎる。
 「あ…、ああ、そんなことも、あったよね」
 ぎこちなく笑みを作り、あらぬ方向に目を向けた。
 「あの頃はまだ、子供だったし―――そんなに時間、経ってなかったし。バカみたいに過剰反応しちゃってたけど…そんな、佐野君が気にするほどのことじゃ、なかったの」
 「…別に、気にしちゃいねぇよ」
 「…だ…ったら、訊かないでよ」
 「…っつーか、訊くまでもなかったよな」
 煙を大きく吐き出すと、佐野はそう言って、皮肉っぽい笑いを口元に浮かべた。
 「競争率高そうな男じゃん、あいつ。あの男見れば、“気にするほどのこと”じゃねぇこと位、訊くまでもなかった」
 「……」
 「お前なら、もっと無害そうな男、選ぶかと思ってた。ハ…、あんだけ分かりやすい色気ある男だと、“男と女の友情”なんて言ってたお前でも、さすがにグラつく訳だ」
 さすがに、むっとした。
 感情的になってはいけないこと位、分かっている。けれど、そんな即物的なものさしで瑞樹を評されるのは、どうしても許せない。
 「言っとくけど―――瑞樹とは元々、親友同士だから」
 佐野の顔を見据え、きっぱりと言い切る。視線を逸らして皮肉な笑いを浮かべていた佐野は、その言葉に蕾夏の方を見、どこか不愉快そうな表情を見せた。
 「親友?」
 「男とか女とか関係なく、一番大事な友達だったの。確かに今は彼氏・彼女って関係だけど―――今だって友情は失くしたつもりはないよ」
 「…まぁだそんな寝ぼけたこと言ってんのか、お前」
 呆れたようにそう言うと、佐野は体を起こし、忌々しげに煙草の灰を落とした。
 「結果的に、男と女の関係になってんだろ? 結局、最初からそういう部分がどっかにあったから、そういう結果に落ち着いてんだよ。恋愛関係ぶち壊れたら、そこでジ・エンド―――ほんとに性別超えてんなら、そうはならねぇ筈だよな」
 「…そうならない自信、瑞樹に関してはあるよ」
 「ふーん。俺には信じられないね。ま、そう思ってれば?」
 「…なんでそんなに、“異性同士の友情”にこだわるの?」
 昔から、その点になると妙に攻撃的な佐野が、不可解だった。瑞樹との間を馬鹿にしたような口調に対する怒りを抑えるためにも、蕾夏は声のトーンを抑え、訊ねた。
 けれど、佐野はその問いを鼻で笑っただけで、あさっての方向に視線を向けた。
 「別に、こだわってねぇよ。…ただ、俺には信じられねぇ、ってだけ」
 「……」
 「あの頃も今も、俺にはバンド仲間もいるし、仕事の仲間もいる。女もそこそこ、切れ目なくいる。欲求不満を風俗で解消する暇なんてない位にはな。…不自由なことは、何もねぇだろ。なんでそう“友情”ってやつにお前がこだわるのか、俺の方がわかんねぇよ」
 「……」
 「…こーんな話、しに来た訳じゃねぇんだけどなぁ…」
 大きなため息を一つつく佐野の顔から、皮肉な笑みが消えた。
 蕾夏も、視線を落とし、ため息をついた。こんな話がしたかったんじゃない―――それは、蕾夏も同じだ。

 では、何が話したいのだろう?
 …自分でも、よく、分からない。
 ましてや、佐野の望みなんて、もっと分からない。いや―――案外、佐野も蕾夏同様、何が話したくて来たのか、分からないのかもしれない。
 分かるのは、ただ1つ。
 あの日―――あのまま、目を合わせることも、言葉を交わすこともなく過ぎ去った、13年。時が、そこで止まっているから…それを、動かしたかった。それだけだ。

 ―――終わらせたい。
 忘れるのは無理でも…それがただの強がりでも…形だけでもいい、終わらせたい。

 目を閉じ、瑞樹のことで乱された思考を、なんとか静めようとする。
 仲間もいるし、恋愛もそれなりに不自由していない―――あの後も佐野は、それまでと同じ日常を過ごしてきた。それが分かったのなら…もう、いい。
 少なくとも佐野は、過去を過去として、割り切ってる。
 だったら後は―――自分が、同じようにするだけだ。

 再び目を開けた蕾夏は、ゆっくり顔を上げ、佐野の顔を見つめた。ある程度、心が落ち着いてしまえば、笑みを作るのは思いのほか簡単だった。
 「…もう、やめよう。佐野君」
 蕾夏が静かにそう言うと、佐野は、怪訝そうに眉をひそめた。
 「アシスタントの件、取りやめにしたのは、ほんとに佐野君が原因じゃないの。佐野君は、それを気にして来てくれたみたいだけど―――ほんとに、違うの」
 「……」
 「私は、もう、忘れたから」
 その言葉に、佐野の表情が、僅かに険しくなった。
 「…忘れた?」
 「うん。…忘れたから」
 「……」
 「そりゃ…暫くは、心に引っかかってたし、ちょっと…過剰反応しちゃったりしたけど。でも、だんだん忘れて―――普通に友達もできたし、普通に…恋愛も、経験したし」

 ―――嘘つき。
 あれ以来―――瑞樹と出会うまでずっと、誰にも“本当の自分”なんて、見せられなかったくせに。
 誰に対しても、一線引いて―――好きだと言ってくれる人を、みんなみんな傷つけて―――自分はこのまま、ひとりきりで生きていくしかないんだ、って、ずっとずっと諦めてたくせに。

 「さ…佐野君の腕の傷も、それほどじゃなかったみたいで、良かった。すぐに謝るべきだったのは、自分でも分かってるけど…しょ、しょうがないよね。お互い様だもん。どう、謝っていいか、わからなかったし…やっぱり当時は、ちょっと、話すの怖かったし」

 ―――嘘つき。
 謝らなかったのは、佐野に自分が負った傷を曝け出したくなかったからのくせに。
 佐野が、謝りたいと―――何らかの形で償いたいと思っているのを、どこかで感じていたのに…それを分かっていてもなお、もうあの瞬間を思い出したくないがために、ずっと避け続けてたくせに。

 「…この前…佐野君の顔見るまで、ほんとに、忘れてた」

 1日だって、忘れたことはなかった。
 手のひらに残る、あの感触―――そして、体中に残る、あのゾッとする恐怖。

 「会って、思い出した、けど―――もう、13年も経ってるんだもの。お互い、忘れてて当然だよ。…今、それぞれまっとうに生活できてるんだし…今更蒸し返して、謝れとか、責任とれとか言い合うの、ナシにしよう?」
 「―――…」
 佐野は、答えなかった。
 ただ、さっきまでは見せなかったような険しい顔で、蕾夏の顔を凝視していた。指に挟んだ煙草の灰が、どんどん長くなっていくのにも気づいていないみたいに。
 そんな佐野を見ていると、怖くなる。
 本能的な不安に、鼓動が乱れる。でも―――今更、方向転換するには、遅すぎる。
 「私は、もう、忘れた」
 ―――嘘つき。
 責め立てるもう一人の自分に耳を塞ぎながら、蕾夏はもう一度、そう言った。
 「だから、佐野君―――もう、やめようよ。あのことにこだわるの」
 「―――…なんだよ…それ」
 やっと佐野が発した声は、何のせいか、酷く掠れて、低かった。
 室外機の端に煙草を押し付け、苛立ったように吸殻を投げ捨てる。佐野の中の何かのスイッチが入ってしまった気がして―――蕾夏は思わず、一歩、佐野から距離を取った。
 「蒸し返した俺が、悪いってのかよ」
 「…誰も、そんなこと言ってない…」
 「話する気がねぇんなら、なんでここまで連れてきた? 忘れてて、もう何とも思ってねぇんだったら、あの場で適当に誤魔化せば済んだ話じゃねぇか! 俺に訊きたいことがあったから、俺に言いたいことがあったから、ここまで来たんだろ!?」
 「怒鳴らないでよ…」
 「誤魔化すんじゃねぇよ!」
 「先に茶化して誤魔化したのは、佐野君じゃない! 怒鳴らないで!」
 ―――もう、嫌だ。
 佐野は一体、何を言わせたいのだろう? 本当は何が言いたかったのだろう?
 でも、もう―――そんなこと、どうでも良かった。言い合いなんて嫌だし、傷を抉るのも、抉られるのも嫌だ。13年も経ってしまうと、修復なんて不可能なんだ―――奏の時と同じに考えるのは、やっぱり間違いだった。
 「プロの道を断つしかないほどの怪我負わせたことを謝れ、って言うんだったら、謝る。傷ついて傷ついて、男の人が怖くて、まともな恋愛なんてずっと出来ませんでした、って言わせたいんなら、その通り言う。でも、そんなこと、今更言って何になるの…!? そんな昔のこと振り返って、何になるの!?」
 佐野に向かって言いながら―――本当は、自分にそう、叫んでいた。
 バカだ。13年も昔のことを、いつまでもいつまでも振り返って―――掴みたい未来があるのに、そんなものに足を引っ張られ続けて…本当に、バカだ。
 「バカみたい…」
 涙が滲んできそうになる目を、佐野から逸らす。
 「私も、佐野君も…こんなことに、いつまでも縛られてるなんて、意味ないよ。…だから、もう、おしまいにしよう…?」
 「……」
 「…そろそろ、会社、戻るから」
 佐野の顔を、もう一度、見る気にはなれなかった。
 唇を噛んだ蕾夏は、顔を背けると、上ってきた非常階段の方へと、歩き出した。

 その、刹那。

 「―――待てよ」
 足早にその場を立ち去ろうとする蕾夏の腕を、佐野が掴んだ。
 ぐい、と引き戻された瞬間に、蘇る記憶―――あの頃より、また一回り大きく強くなった佐野の手に、背筋が凍った。
 「……っ、はなして!」
 「待てよ! まだ話は終わってねぇだろ!?」
 「は…話すことなんて、ない!」
 「こんな終わらせ方、誰がさせるかよ!」
 「私は終わらせたいのっ!」
 力いっぱい、佐野の手を振り解く。
 奇跡的に解放された腕を引き寄せ、佐野を睨み上げる。佐野の目も、憤りとも怒りともつかない色に変わっていた。
 危険のシグナルが、頭の中のどこかで、点滅する。
 逃げないと―――そう思って、佐野の視線を振り切り、踵を返しかけた時。
 手加減の一切ない手に、肩を掴まれた。

 「…や……っ!」
 ガシャン! という音が、耳元で弾けた。
 フェンスに叩きつけられた、という事実には、すぐには思い至らなかった。

 脳震盪だろうか。意識が、飛ぶ。
 上下感覚も、平衡感覚も、あらゆる感覚が、一瞬、飛んだ。背中や頭の痛みも感じない。バッグが、腕を滑ってコンクリートの地面に落ちたことにも気づかなかった。
 感じたのは、力を失った膝のせいで、世界がグラリと揺らいだこと―――腕を掴む手の感触も、地面に押し付けられる背中の痛みも、一切、感じなかった。

 何が、起きたんだろう。
 やっと、そこに意識が向いた、その瞬間。
 突如襲った、強烈な痛みに―――全身が、悲鳴を上げた。

 「―――……っ!!!」

 殺された、と、思った。
 あまりの痛みに、それまでどこかへ飛んでしまっていた感覚が、一気に襲ってくる。五感が戻ってきて…視界が、一瞬にして、クリアになる。
 空が、見えた。
 空より近くに―――佐野の顔が、見えた。
 組み伏せられた体勢を自覚できて、初めて―――この痛みの正体が、分かった。

 「……い……た、い…」
 呆然とした顔で、なんとか口にできたのは、その一言だけ。
 その言葉に―――佐野の顔が、苦しげに、歪んだ。

 ザリッ、と、ブラウス越しに、背中が地面を擦る。
 「……や…っ!」
 これ以上の痛みなんて、ないと思ったのに―――佐野が少し動いただけで、今までを越える痛みが、体の中を走った。
 「…なんで…っ」
 「……」
 「なんで、お前には、こんな風にしかできねぇんだよ―――!」

 押し殺したような、それは、佐野の、心の悲鳴。
 苦痛に歪む、佐野の顔。見覚えのあるその顔を見て、理解した。
 “これ”は―――“あの日”の続きだ、と。

 「傷の、ことなんて…ギタリストの道が断たれたことなんて、何とも思ってない。腕がズキズキ痛むたび、いつも思った―――当然だ、当然の報いだ、藤井にあんな真似したんだ、どんだけ痛んでも当たり前だ、って…」
 「……」
 「女が寄ってきたって…本気になんて、なれなかった。少しでも本気になりそうになると、お前のことを思い出して―――傷つけたこと、傷つけられたこと、全部思い出して、息が出来なくなった。だから、本気になりそうになると、片っ端から俺の方から捨ててたんだ。13年…あれから13年、ずっと…!」
 「……っ」
 頭が、痛い。
 体の痛みより…もしかしたら、痛いかもしれない。
 ズキズキ、ズキズキ…脈打つ、頭の痛み。佐野の言うことは、ちゃんと耳に入っているけれど…きちんと、意味を成して頭に入ってこない。
 分かるのは、佐野が、酷く傷ついていること。
 いや―――ずっとずっと、傷ついてきた、ということ。蕾夏が、そうであったように。
 「…警察に突き出すなり…ぶん殴って、一生動けないような怪我負わせるなりしてりゃ、こんな思いしなくて済んだんだ。お前は、俺を責めないことで自己満足してたかもしれねぇけどな―――責められもせず、土下座するチャンスさえ貰えずに放り出された俺の気持ち、お前に分かるかよ…!? どうせお前は、俺みたいな奴には罪悪感なんてねぇって、そう思ってんだろ!? え!?」
 「…や…めて…」
 「忘れた、なんて、言わせない」
 脚を掴まれ、更に体を引き寄せられる。内臓まで抉られるような痛みに悲鳴を上げそうになる。
 「忘れたなんて…13年も引きずるなんてバカみたいだなんて、言わせねぇからな…! そんな一言で終わらせたら―――今までの俺の13年は、一体何だったんだよ…!? 一歩も前に進めないで、お前に縛られ続けてた俺は―――…!」

 その、言葉に。
 瑞樹が言った言葉が、重なった。


 『―――嫌だ。許したくない。…許しちまったら、可哀想だろ。あの時殺された、8歳の俺が』

 許したくない。
 でないと―――その後の俺の人生、一体なんだったのかわからなくなる。


 ―――ああ…そう、か。
 やっと、理解、できた。
 佐野も、蕾夏と、同じだった―――ただ、それだけのこと。
 長すぎて―――13年は、長すぎて。その上にもアイデンティティは形成されたからこそ、“今”の佐野が、いて。
 “なかったこと”にするには―――長すぎた。それなのに、あんなことをした理由を訊くことも、罪を償わせることもせずに、「忘れた」の一言で終わらせようとしたから…傷ついている。この13年、引きずり続けた自分の人生が、一体なんだったのか、わからなくなって。

 …なんて、あっけないんだろう。
 佐野にも、罪悪感はある。奏が苦しんでいるように、佐野も苦しんでいる。いや…13年もの間、ずっと苦しんでいた。そんな当たり前のことに気づけなかったために―――あの時、ナイフを握ってまで守ったものが、あっさり、壊されて。
 何を、守ろうとしていたんだろう…? いろんな人を傷つける結果になってまで守ったものが、こんなに脆い物だったなんて。
 今、間違いなく陵辱され、犯されたのだと分かっても…絶望すら、感じない。
 これが、本当の“壊れる”ということ…なのかも、しれない。

 ―――でも。
 ただ、1つ。最後まで、守りたいもの。
 体が穢されようとも、瑞樹だけは―――瑞樹とのことだけは、穢されたくないから。

 ―――絶対に…涙なんて、見せてやらない。
 涙を見せて、痛みに悲鳴を上げて、この人に屈したと思われるのは、絶対に嫌だ。
 私を縛ってもいい人間は、瑞樹だけ。
 他の誰にも、縛られてなんかやらない―――もう、二度と。


 「……っ!」
 逃げてしまいそうになる体に、体重をかけられる。唇を噛み締め、蕾夏は佐野を睨み上げた。
 同じ行為の筈なのに、瑞樹と抱き合う時と、なんて違うんだろう? なんで死なないのか、不思議な位に…痛い。痛い。痛い。
 佐野のTシャツを掴んでいた手が、引き剥がされる。地面に押し付けられる手の甲の痛みに、いよいよ本格的に痛めつけられるんだな…と覚悟しかけた時。

 ふいに。
 佐野の体が、凍りついた。

 「―――…」
 悪い夢から覚めたみたいに、愕然とした顔をした佐野の視線が、蕾夏の左側へと流れる。
 その視線を追って、蕾夏も左横へと顔を向けると―――そこには、蕾夏のバッグが転がっていた。
 取材のための手帳とボールペン、それに、携帯電話が、バッグの中から飛び出していた。そして、地面に落ちた携帯電話は…着信を知らせるライトが、一定のリズムを刻みながら、点滅していた。
 ―――…奏君…?
 もしかしたら…奏から、かもしれない。道に迷ったら電話して、と言ったのを思い出し、蕾夏はそう思った。
 蕾夏の位置からは見えないが、佐野からは、補助液晶画面に表示された“sou”の3文字が見えるのかもしれない。佐野の目から、狂気の色が、急激に退いていく。

 手首を掴んでいる佐野の手が、小刻みに震えた。
 「……っ、」
 かけられていた重みが消え、唐突に、体が、放り出された。
 手首が解放されて―――視界には、薄暗くなり始めた空だけが、残された。蕾夏は、身動き一つできないまま、暫し、空を呆然と見上げていた。
 ―――佐野…、君…?
 やっと、頭が働くようになり、佐野の姿を探す。
 軋むような体を、少しだけ起こすと―――蕾夏のスカートについた埃を叩き落してる佐野の姿が、目に入った。
 ―――変な人。
 そんな所の埃を落としたところで、地面に転がってるんだから、地面についてる部分は、きっと埃だらけだろうに。

 ぼんやりとした蕾夏の視線を感じたのか、佐野が、顔を上げた。
 蕾夏と、目が合って―――怒ったような無愛想な表情が、沈痛な面持ちに変わる。
 暫し、蕾夏の顔を見つめていた佐野は、やがて、ふいと顔を背けると―――立ち上がり、踵を返した。ゆっくりとした足取りは、やがて速くなっていき…佐野は、何かを断ち切るように、非常階段の向こうへと消えた。


 ―――頭が…痛い…。

 震えが、少しずつ、体の奥から生まれてくる。
 震える唇を手の甲で押さえ、蕾夏は視線を、地面に転がったままの携帯電話に向けた。
 着信ランプの消えた携帯は、静かにそこに落ちていた。が―――蕾夏が目を向けて間もなく、再び、着信を知らせる淡い色のランプが、震えるように何度も、点滅した。

 点滅を繰り返すランプを、呆然と、見つめる。

 静か、だったから。
 電話がかかってきているのに―――着信音が、聞こえないから。

 「瑞樹―――…」

 聞こえない。
 佐野が、螺旋階段を駆け下りる、足音も。表通りを絶え間なく行き交う、車の音も―――携帯電話の、着信音も。
 体の痛みより、穢されたという事実より―――聞こえない。その事実に、蕾夏の体は、震えた。


 瑞樹―――そう呟いた、自分自身の声も。
 蕾夏の耳には、全く聞こえていなかった。


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