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― Sin 〜罪〜 -1- ―

 

 一向に止む気配のない呼び出し音を5回聞いたところで、奏はため息をつき、電話を切った。
 ―――忙しいのかなぁ…。
 困ったら電話して来い、と言ったのは蕾夏の方だが…仕事中なのだ、電話に出られない事情があっても不思議ではない。また少ししたら電話しよう、と、携帯をポケットに押し込んだ。
 空は薄暗くなりつつあり、ビルの谷間にある古本屋街も、次第にシャッターを下ろす所が出始めている。どっかで時間潰せないかな、と思いながら少し歩くと、幸い、LP版などを扱うレコード店が見つかった。
 さほど音楽が好きな訳ではないが、ヒロと知り合ったせいか、最近、こういう店を漁るのが結構楽しくなっている。30分もすれば、蕾夏も電話に出てくれるかもしれない―――奏は、客の姿がぽつぽつと見受けられる店内に、足を踏み入れた。

 結局、1時間近くうろついた結果、黒川に頼まれた「昭和30年代の“婦人画報”」は、1冊しか見つからなかった。最後の1軒でやっと見つかったのだが、それまで、あまりにも見つからないため、方向も道順もまるっきり無視して店を渡り歩いてしまい―――予想通り、すっかり迷子状態だ。
 このまま、連絡が取れなかったら、どうしようか―――洋楽ロックのコーナーを漁りつつ、考える。
 ―――ここいらの古本屋とかのオヤジに訊くしかないんだろうけど…なんだかなぁ…。
 「婦人画報、ありますか」と明朗な日本語で訊ねた途端、ギョッとした顔で後退る店主を数名見てしまった後だけに、想像しただけでゲンナリする。こんなハーフ顔を生粋の外国人と間違えるなんて、せいぜいヒロ位のもんだろう、と思っていたのだが…甘かった。思いのほか、大量にいるらしい。
 あんまり“ガイジン”扱いされるのも、日本で仕事をしていく上で、どうなんだろう―――また1つ、迷いの要素が生まれてしまい、ちょっとため息をついてしまう。
 まあ、気は進まないが、こんな所でいつまでも迷子になっている訳にもいかない。もう一度電話してダメなら、その辺の心臓強そうなオヤジを捕まえて道案内させるか―――そう思った時。
 思いがけず、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
 「?」
 誰だろう? と携帯を取り出すと、小窓に表示されている名前は、“ライカ”だった。
 まだ、2度目の電話を切ってから、15分とちょっとしか経っていない。もしかしたら、着信履歴を見て、コールバックしてきたのかもしれない。

 「はい」
 一応、店の外へと出ながら、電話に出た。
 『……』
 「もしもし?」
 ガラス張りの引き戸を後ろ手でカラリと閉めつつ、眉をひそめる。確かに、蕾夏の名前が出ていたと思ったのだが…何故か、電話は無言だ。
 『―――…奏君?』
 不自然すぎる間の後、やっと返ってきた声は、やはり蕾夏の声だった。ほっとして、口元が綻んだ。
 「ああ、なんだ、やっぱ蕾夏か。ごめん、オレ、仕事中に電話…」
 『今から言うこと、よく聞いて』
 電話の事を謝ろうとした矢先、蕾夏の声が、奏の言葉を遮った。その鋭い口調と、いつもより硬いように感じる声に、思わず、口を閉じる。
 『今すぐ、その辺にいる人に道訊いて、うちの会社まで来て。表玄関じゃなく―――裏口の方に』
 「…蕾夏?」
 『裏口の横に、非常階段があるの。そこで、待ってるから。もし、どうしても来られないのなら…メールで、今どこにいるか連絡して』
 「……」
 ―――どうしたんだ…? 一体。
 わけが、分からない。蕾夏はあの後、会社に戻った筈だ。仕事が終わったら、瑞樹と待ち合わせる予定だろうと、奏は思っていた。なのに…迷子状態の奏に、会社まで、それも裏口まで来い、とは―――どういうことなのだろう?
 「ちょ…っ、ま、待てよ。蕾夏? 一体、どうしたんだよ?」
 『……』
 返事は、ない。泣いてでもいるのだろうか、とドキリとしたが、電話からは、微かな騒音以外、何も聞こえてこない。
 何かが―――何かが、おかしい。その違和感に、嫌な焦りを感じ始めた時―――呟くような、弱い声が、やっと返ってきた。

 『…ごめん…奏君』
 「……」
 『…何か、話してくれてるんだよね。でも、ごめん―――聞こえないの…』
 「―――…」

 頭の中が。

 一瞬にして、冷たくなった。

 「……っ!」
 即座に電話を切った奏は、さっき閉めたガラス戸を勢いよく開き、中古レコード屋の中に飛び込んだ。
 途中、足がもつれて、半ば転がり込むような形になってしまったが、そんなことはどうでもよかった。ガタガタと、陳列ラックにぶつかりながら、店の奥へと駆け込んだ。
 口ひげを生やした中年輩の店主が、ギョッとした顔をする。そんな店主に掴みかからん勢いで、奏は怒鳴った。
 「頼む! 今すぐ、道教えてくれ!!」

***

 途中、全ての道を、全速力で走った。
 ゼーゼー言いながら駆け込んだ裏道で、必死に蕾夏の姿を探す。そして―――蕾夏が言ったとおり、“A-Life”が入っているビルの裏口脇の非常階段に、蕾夏の姿を見つけた。
 「蕾夏!」
 聞こえない、と言われていても、叫ばずにはいられなかった。
 まるで違う方向を見ている蕾夏のもとへ、駆け寄る。非常階段の中ほどに腰掛けていた蕾夏は、奏が裏口のドアの前を横切った辺りで、何かに気づいたように、こちらを向いた。
 「…奏君」
 非常階段の手すりを掴んだ奏は、ガクリ、と膝をつき、肩で息をした。これだけ猛ダッシュしたのは、いつ以来だろう? 日頃、ある程度鍛えているつもりの脚が、がくがく震えていた。
 「…ら…い…か」
 「―――ごめんね、無理言って」
 奏は、まだ息があがった状態で、ぶんぶんと首を振った。
 僅かに眉を寄せたような顔をした蕾夏は、1時間前、別れた時より、顔色が青褪めていた。随分と疲れているように見えるが、それ以外、特に変わった様子は見られなかった。バッグを隣に置き、膝を抱えている姿は、雨宿りしている小さな子供みたいに頼りなかった。
 「…ほんとに…」
 言いかけて、口で質問することの無意味さを思い出した。奏は、座っている蕾夏を見上げ、自分の耳を指差した。
 “ほんとに、聞こえないのか”―――その質問の意味を察したらしく、蕾夏は、少し視線を落としてコクリと頷いた。
 「……」
 ―――なんで…。
 1時間前は、何ともなかった筈だ。極普通に奏の言葉に答え、当然のように取材もこなしていた。それが、何故―――…?
 この1時間の間に、何かがあった。それだけは確かだが、パニック状態の頭では、納得のいく答えは何ひとつ浮かんでこない。
 だから、頭に浮かぶのは、たった一つのこと。
 以前、蕾夏が聴力を失った、原因―――それが、奏自身であったという、動かし難い事実だけ。
 「…蕾…夏…」
 オレの、せいで。
 息が乱れ、声が震える。
 階段の手すりを握る手が、ガタガタと大きく震えだす。ただでさえ混乱していた頭は、この1年近く、何度となく見た悪夢を思い出して、更に乱れていった。
 「オ…レ…」
 「奏君、」
 「オレが、あんなことを、」
 「奏君!」
 厳しい蕾夏の声に、一瞬、息が止まった。
 その隙を突くように、蕾夏は、バッグの中から取り出していたものを、奏の胸元にぐい、と押し付けた。
 「今からうちの会社に行って、この取材メモを、瀬谷さんて人に渡して欲しいの。本来なら今日、“Clump Clan”の取材に行く筈だった人で―――もしかしたら、留守かもしれないけど、その場合は編集長に」
 「……」
 「私は、取材先を出てすぐ、熱を出して倒れた、ってことにして。もう家まで送ったから、心配ないって…そう言っておいて。何かまずいこと訊かれたら、全部“知らない”で通してくれて構わない。とにかく、絶対―――絶対、聞こえなくなったことは、誰にも言わないで」
 「で…でも、」
 「お願い」
 そう言って、再度、手帳から切り取った取材メモを奏に押し付ける蕾夏の目は、必死そのものだった。
 「お願い…」
 「……」
 「今、頼める人は、奏君しかいないの。お願い」

 ―――頼める人間は…オレしか、いない。
 その言葉に、少しだけ、沸騰寸前だった頭が冷やされた。
 そうだ―――今、蕾夏の力になれるのは、自分しかいない。蕾夏の過去の事情を知っているから…だからこそ、蕾夏は、自分に助けを求めたのだ。

 落ち着かなくては―――…。
 ようやく静まってきた息を大きく吸い込み、また大きく吐き出す。
 今は、難しいことなど、何も考えられない。知りたいこと、確認しなくてはいけないこと、色々あるような気はするが、とにかく―――今は、蕾夏の望むことを優先しなくては。

 押し付けられたメモの端を掴んだ奏は、目を上げ、蕾夏の青褪めた顔を見上げた。
 分かった、という意味を込めて奏が微かに頷くと、蕾夏はやっと、少しだけ安堵したように小さく息をついた。
 とにかく、このままではコミュニケーションが一方通行だ。メモをバックポケットに押し込み、視線を彷徨わすと、蕾夏のバッグの横に、手帳とボールペンが置かれていた。奏は、それを手に取り、当たり障りがなさそうな最後の方のページを開いた。
 素早く文字を綴り、蕾夏に見せる。

 『家までタクシーで送る。それまで、待てる?』

 文字を目で追った蕾夏は、その問いに、小さく頷いた。
 本当は、こんな状態の蕾夏を1人にしておくのは、それが1分1秒のことでも、怖かった。焦る頭で懸命に考え、奏は更に、書き足した。

 『戻って来るまで、絶対、ここから動かないで』

 これにも、蕾夏は頷いた。ホッと安堵の息をついた奏は、手帳とボールペンを蕾夏に渡すと、ポケットから携帯電話を取り出した。
 一刻も早く、連絡しなくては―――そう思って、蕾夏の目の前で携帯を操作しだす奏に、蕾夏の顔色が変わった。
 「…っ、やめて!」
 あとは発信ボタンを押すだけ、となった携帯電話を、蕾夏が掴んだ。
 びっくりして顔を上げると、これまでで一番感情的な顔になった蕾夏が、そこにいた。
 蒼白になった顔を更に青褪めさせ、唇を震わす蕾夏は、必死に奏の携帯電話を握っていた。なんで、という風に奏が眉をひそめると、拒絶するように激しく首を振った。
 「やめて―――瑞樹には、連絡しないで」
 「……」
 「奏君が、メモを届けてくれれば、それでいいの。余計なこと、しないで」
 余計なこと―――だろうか?
 そんな筈はない。この状況で、真っ先に瑞樹に連絡を入れるのは当然のことだ。
 わけが分からず、蕾夏から携帯を引き剥がそうとしたが、蕾夏は余計携帯を握る手に力を込め、また首を振った。
 「お願いだからっ」
 決して大きな声ではないが、それは、悲鳴としか思えない色をしていた。
 「あ…明日、瑞樹、北海道へ行くの」
 突然飛んだ話に、一瞬、頭がついていかなかった。
 北海道―――週末に遠出をするから、と瑞樹が言っていたのを思い出して、そのことか、と思い当たった。
 「大事な、用事なの…次、いつそのチャンスが来るか、分からないの。でも、今、私がこんな状態になったこと知ったら―――瑞樹、絶対このチャンスを棒に振るに決まってる。そんなこと、させない…絶対、絶対にさせない」
 「……」
 「し…知らなくちゃ―――何が、あったか、知らなくちゃ…瑞樹、この先もずっと苦しむから―――駄目、絶対に、瑞樹には言わないで」
 「…蕾夏…」
 ――― 一体…何のことだよ…?
 蕾夏の言っていることは、さっぱり分からない。
 瑞樹が北海道へ行くのは、仕事とかレジャーとか、そういう用事ではないのだろうか? 何かを“知る”ために、北海道へ行く? それをずっと知らないままでいると、この先もずっと苦しむ―――…?
 「私なら、大丈夫。ほんとに、大丈夫だから」
 「……」
 「お願い、奏君」
 「……」
 「お願い…っ」
 さっぱり、分からないけれど。
 お願い、と言って縋る蕾夏の目が、メモの件を頼んだ時とは比較にならないほどに、必死だったから―――奏は、ひとかけらも納得のいかないまま、小さく頷いた。
 携帯を握る蕾夏の手が弱まったところで、ぱちん、と携帯を閉じる。
 「―――すぐ、戻るから。待ってて」
 極力ゆっくり、蕾夏にそう告げると、唇の動きから読み取れたのか、ほっとしたように蕾夏が頷いた。
 それを確認した奏は、手すりに掴まって立ち上がった。少しでも早く、蕾夏を安心させなくてはいけない気がして、くるりと踵を返すとすぐ、足早に表通りへと向かった。


 ―――蕾夏は、ああ言うけど…。
 早足で、ビルのエントランスへと向かいながらも、奏の頭の中には、いまだその疑問が渦巻いていた。
 ―――大事な用、ってのが、どういう用事なのか知らないけど…それがどういう中身だったにしても、成田にとって、蕾夏のこと以上に大事なことなんて、ほんとにあるのか?
 無意識のうちに、右手で、自分の喉元を押さえる。
 今でも、覚えている。あの日―――殺意としか呼びようのない激しい怒りを内に秘めて、奏の首を絞め上げた、瑞樹の微笑を。“蕾夏に何かあったら、俺がお前を殺す”―――当然だ。殺されて当たり前のことをした。だから、あのまま瑞樹に命を奪われるのなら、それで構わないと、本気で思った。むしろ…そんな結末が一番幸せだと、そう思ったほどだ。
 第一…今日、この後2人は、会う約束をしているのではなかったか? 今夜じゃないにしても、明日は浅草を撮りに行くと言っていた筈だ。今、瑞樹に連絡をしなくたって、どのみち瑞樹から連絡が入る。その時、耳の聞こえない蕾夏は、一体どう対応する気でいるのだろう?
 少し考えれば、無理なことだと分かる筈。でも…そこに考えが至らないほど、追い詰められている―――そういうことか。

 蕾夏は、大丈夫だと言う。だから瑞樹には絶対に知らせるな、と言う。
 その通りにしたら―――瑞樹は、どう言うだろう?

 エントランスの手前で、奏はピタリと、足を止めた。
 何をすべきか―――その答えを求めて、奏が頭の中で繰り返したのは、ロンドンを発つ際、母が言った言葉だった。

 『―――2つのことだけ、肝に銘じておきなさい』
 1つは、蕾夏の言う“大丈夫”を、絶対鵜呑みにしないこと。
 そしてもう1つ―――蕾夏に許しを請うことより、瑞樹の信頼を得ることを考えなさい。

 「…ごめん、蕾夏」
 口の中で呟いた奏は、まだ手に持ったままだった携帯電話を開き、瑞樹の番号を呼び出した。
 時刻から考えて、瑞樹はまだ仕事中である確率は高い。案の定、発信ボタンを押して間もなく、極々短い発信音に続いて、留守番電話サービスのアナウンスが流れてきた。
 留守番電話でも、何でも―――とにかく今、何よりも先にすべきことは、瑞樹に蕾夏の危機を伝えることだ。
 ピーッ、という音が、携帯から流れる。息を吸い込んだ奏は、焦る気持ちを抑えつつ、口を開いた。
 「―――成田? オレ。奏」
 返事は、当然ない。なんだか急激に心細くなり、奏の声は再び震えだしていた。
 「…蕾夏、耳が聞こえないみたいなんだ。何でこうなったのか…オレにも、分からない。今、呼び出されて…会社に取材メモ、届けるように頼まれた。この後、家まで送るから―――成田も、仕事終わったらすぐ、蕾夏の家に来てくれよ」
 携帯を握る手まで、震えてきた。泣きそうになるのを堪えながら、奏は、最後に付け加えた。

 「…頼む…助けてくれ。オレ1人じゃ、どうしていいか分からない」

***

 藤井蕾夏の代理の者です、と受付に告げ、エレベーターに乗る。
 “A-Life”編集部のガラス張りのドアを押し開けるとすぐ、1人の男が、奏のもとへ歩み寄った。
 「一宮さんですか」
 縁のない眼鏡をかけた、見るからに頭の切れそうなその男は、奏の顔を見るなりそう言った。受付からの電話を取ったのはこの人物だな、とすぐ分かった奏は、気合いのみで営業用スマイルを作ってみせた。
 「はい。瀬谷さんですか」
 「瀬谷です。すみません、本当は僕が取材に行く筈のところを…」
 「いえ。オレも同席したけど、いいムードで取材も終わったんで、安心して下さい。これ―――取材のメモです。ら…藤井、さんから、瀬谷さんに渡すよう頼まれました」
 「ありがとうございます。今日中に欲しかったんで、助かりました」
 微笑と共に、奏が差し出したメモの束を受け取った瀬谷は、直後、表情をちょっと曇らせた。
 「それで―――藤井のやつ、大丈夫なんですか?」
 「…えっ」
 「熱出して倒れた、って―――取材に出る前会った時は、特に変わった様子はなかったように思うんですが」
 同僚ならば、当然の質問だ。が…大丈夫だと答えれば、大した熱でもないのに直帰した蕾夏を不審に思われるだろうし、あまり重病だと答えてしまうのも、会社の人間を心配させすぎてしまう。
 「…だ…大丈夫、です。家に送った時は、相当ヤバかったんですけど―――医者にも連れて行きましたから」
 医者、の2文字は大きな安心になる筈だ、と踏んだが…予想通り。瀬谷は、そうですか、とあっさり相槌を打ち、少しだけホッとした顔になった。
 「じゃあ、ちょっと急いでるんで、失礼します」
 一刻も早く、蕾夏の所に戻りたい。奏は、慌しく挨拶を述べ、その場を後にしようとしたのだが。
 「あ、そうだ」
 奏につられて頭を下げかけた瀬谷が、何かを思い出したように、奏を呼び止めた。
 「え?」
 「さっき帰って来る時、受付に言われたので―――“アイ・ピー・アクトの佐野さん”が、藤井を訪ねて来たそうなので、そう藤井に伝えて下さい」
 「……」
 ―――アイ・ピー・アクトの…“佐野”?
 思いがけない話に、奏は眉根を寄せた。
 アイ・ピー・アクトといえば、ヒロの会社だ。奏は、その会社の社員をヒロ以外知らないが…偶然なのか何なのか、一度だけ聞いたヒロの苗字も“佐野”だったように思う。
 もしかして、ヒロだろうか? 顔を合わせたことがある筈だから、その可能性は否定できない。でも…。
 「…なんでここが分かったんだろ…」
 思わず呟くと、瀬谷が、おや、という顔をした。
 「お知り合いですか」
 「え? あ、いえ…多分、そうかもしれないな、と。ただ、ここを知ってるとも思えない人なんで―――あの、下の名前は、聞いてませんか?」
 「いや、あいにくと。なんでも、藤井の名刺を持ってきて、それを見ながら受付に話をしてたらしいですから、藤井が名刺を渡した相手だと思いますが」
 「…そうですか」
 “Clump Clan”の打ち合わせの時に、名刺交換でもしたのだろうか。カメラマン助手として出席したのだから、ちょっと妙な話ではあるが…100パーセントあり得ない、とは断言できない。
 ―――って、そんなことに悩んでる場合じゃないだろ。
 早く、戻らないとまずい。奏は、もう一度営業スマイルを作り直した。
 「分かりました。そう伝えます。じゃ…お邪魔しました」
 「お手数おかけしました」
 奏の表情の乱高下に不信感を抱いただろうに―――それでも、おそらく奏よりかなり年上らしき瀬谷は、特に何も訊かず、微笑と共に頭を下げてくれた。


 エントランスの自動ドアを抜けると同時に、また猛ダッシュで走り出す。
 あれから、何分経っただろう? 約束通り、ちゃんと非常階段の所に蕾夏がいてくれるかどうか、不安で仕方ない。
 裏路地の角を曲がり、真っ先に非常階段の中ほどを注視すると―――膝を抱えて、額を膝に押し付けるようにして丸まっている蕾夏を見つけた。よかった、ちゃんといた、という安堵感と、さっきより更に疲労を増したように思えるその姿に対する不安感を、同時に感じた。
 ―――成田…。
 蕾夏のもとに駆け寄りながら、きりきり痛む胸で、瑞樹に助けを求めてしまう。
 ―――…成田、早く、来てくれよ。オレ、どうすりゃいいんだよ…!?
 その叫びが聞こえたみたいに、蕾夏が顔を上げた。
 奏の姿を見つけ、青褪めた顔が、申し訳程度に笑みを作る。無理すんなよ―――気丈に振舞おうとしている蕾夏に、余計胸が痛んだ。
 「渡してくれた?」
 奏が頷くと、よかった、と小さく呟き、蕾夏は気だるそうに立ち上がった。
 パンパン、とスカートの埃を払う姿を見て初めて―――ある異常に気づいた。
 「……」
 真っ白なシャツの背中が、ところどころ、汚れている。
 別に酷い汚れではないが、スカートとは違って、座っていて汚れる場所ではないだけに、ちょっと気になる。
 特に怪我をしている様子は見られないが…もしかして、階段から落ちたとか、そういうことがきっかけで、耳が聞こえなくなったのだろうか? だとしたら、外見では分からなくても、どこかに酷い怪我をしているかもしれない。病院に連れて行った方がいいのだろうか―――迷いかけた奏に、バッグを肩に掛けた蕾夏は、幾分硬い声で告げた。
 「じゃあ…裏道抜けて、向こうの大通りに出るから」
 会社の前を避けて、タクシーを拾う、ということらしい。頷いた奏は、蕾夏を気遣いながら、一歩歩き出したが。
 階段を下りかけた蕾夏の膝が、がくん、と折れた。
 「蕾夏っ」
 バランスを失う蕾夏を、慌てて支える。が、直後―――自分の腕と背中を支えた奏の手を、蕾夏は勢いよく払いのけた。
 「…っ、大丈夫っ!」
 「らい…」
 「大丈夫、だからっ! お、お願い…1人で、歩かせて」
 「……」
 さすがに―――それ以上、手は、出せなかった。
 怯えられているという事実を、一瞬、忘れかけていた。そうだ―――いくら困っていても、蕾夏が自分の手に助けを求める筈がない。仕事のことで救いを求めてくれただけでも…信頼して頼んでくれただけでも、まだマシな方だ。

 ―――成田…早く、来てくれよ。

 いつもよりゆっくりした足取りで歩き出す蕾夏に並びながら―――奏は、ただひたすら、瑞樹に助けを求めていた。

***

 途中、渋滞に巻き込まれてしまい、蕾夏の家にやっと着いた時、空はすっかり漆黒の闇に包まれていた。
 タクシーの中で、蕾夏は暫し、まどろんでいるように見えた。が…眠っていないのは、薄く開かれた目を見れば明らかだ。車窓の外を流れる灯りをぼんやり眺めながら、一体何を考えていたのか―――タクシーを降りる際、それが当然だとでも言うように、表示された金額を奏より素早く運転手に差し出す蕾夏は、表面上、いつもの蕾夏とほとんど変わりなく見えた。

 重い足取りで階段を上がり、自宅の玄関の鍵を開けた蕾夏は、そこでクルリと奏を振り返り、微かな笑みを見せた。
 「…ありがと、奏君。こんなところまで、つき合わせちゃって」
 「……」
 「もう、大丈夫だから。日曜日の夜には、瑞樹も東京に戻るし」
 ―――じゃあ、明日と明後日、どうする気なんだよ。
 余裕あり気に見えるが、その表情を額面通り受け取れるほど、奏もおめでたくはない。蕾夏を置いて帰ったら、その後、どうなるのか―――何も想像がつかないだけに、逆に恐ろしかった。
 何か書くもの、という意味を込めて、ペンを握って文字を書くようなゼスチャをしてみせる。少し眉をひそめた蕾夏は、それでも一応、バッグの中から手帳とボールペンを出してくれた。

 『玄関先で構わないから、しばらく、いさせてもらっていい?』

 奏が綴った文面を見て、蕾夏の表情が、少し強張る。
 でも…既に、7時を回っている。もう少し待てば、瑞樹が駆けつけてくれる筈だ。せめてそれまでは、蕾夏を1人にしてはまずい。

 『何も、聞かない。約束する。夕飯とか買いに行くなら、オレが行くから、御用聞きだと思って、玄関に置いといて』

 「……」
 書き足された文面を、蕾夏は、硬い表情で見つめていた。
 が、やがて、視線を落として大きなため息をつくと、諦めたように玄関の扉を開けた。
 ―――いい…の、か、な?
 帰れ、とも言われていないが、どうぞ、と言われてもいない。迷った末、奏は、蕾夏に続いて玄関内に足を踏み入れた。
 蕾夏が電気のスイッチを押すと、視界がパッと明るくなった。
 初めて訪れた蕾夏の部屋は、いたってシンプルなインテリアだった。奏にとって、最も馴染みのある女性の部屋はカレンの部屋だが、女の子っぽい小物がごちゃごちゃ置かれていたカレンの部屋とは、まるで趣が異なっている。でも…柔らかな薄いグリーンのカーテンや、ナチュラルベージュのセンターラグを見ると、ああ、いかにも蕾夏の部屋だな、という印象を受けた。
 「…紅茶、淹れるから」
 疲れた足取りで部屋に入った蕾夏が、振り返ることなく言う。
 「それ飲んだら、ごめん…帰って」
 「……」
 抑揚のない声に、迷惑がられてるな、と感じた。実際、奏がいると気を遣わざるを得ないから、迷惑なのかもしれない。早く1人になりたい―――蕾夏の背中が、そう訴えてる気がした。
 でも、だからと言って、本当に1人にしていいのだろうか。瑞樹が来るから問題ない、と奏は信じているが、万が一 ―――何かのトラブルで、瑞樹が来なかったら?
 ―――駄目だ。やっぱり、1人にしとくのは、まずい。
 奏は、あえて玄関の鍵を閉めることはせず、玄関先に腰を下ろした。
 たとえ蕾夏に迷惑がられても―――こんな状態の蕾夏を放り出して帰るなんて、瑞樹だって許さない。そう思ったのだ。


 ケトルをコンロにかけた蕾夏は、何をするでもなく、部屋の片隅にぺたりと腰を下ろした。
 無表情な蕾夏の視線は、ずっと、火にかけられたケトルの方に向けられている。最初、その意味が奏には分からなかったが―――数分経ち、お湯が沸いてきたところで、蕾夏が何故ケトルばかり見ていたのか、その理由が分かった。
 よくある“笛吹きケトル”だったらしく、激しく吹き出す蒸気で、ケトルがピーッ、と音を立てる。それを聞こえていない筈の蕾夏は、音が鳴ったのとほぼ同時に立ち上がり、コンロへと向かったのだ。
 ―――そ…っか、お湯が沸いたかどうかを、ずっと見てたのか…。
 奏の実家も、また奏が一人暮らしをしていた時も、お湯を沸かすやかんは“笛吹きケトル”タイプだった。奏も蕾夏同様、音でお湯が沸いたことを判断する生活を送っているのだ。
 音が聞こえなくなるとは、こういうことなのか―――小さなことに、今、蕾夏の耳が聞こえない事実を実感させられ、奏は無意識のうちに唇を噛んでいた。

 蕾夏が、コンロの火を消した時、どこか遠くから、階段を駆け上がるような、大きな足音がした。
 それに気づいた奏は、ハッとして、思わず立ち上がった。それとほぼ同時に―――玄関の呼び鈴が、2回、立て続けに鳴らされた。
 「奏!」
 ドア越しに聞こえた声は、瑞樹の声だった。
 すると―――聞こえていない筈の蕾夏が、何故か、何かを聞いたかのように玄関の方を振り返った。
 蕾夏の視線を感じたが、構っていられない。奏は慌てて、玄関の扉を内側から開けた。が、ドアが半分ほど開いたところで、瑞樹の手がぐい、と扉を開き、息を切らせた瑞樹が玄関内に入ってきた。
 「成田…!」
 「悪い。遅くなった」
 まだ肩で息をし、酷く険しい顔をしている瑞樹は、一瞬だけ奏の方に目を向けそう言った。そして、すぐに視線を巡らせ―――台所に立つ蕾夏の姿を見つけると、半ば奏を押しのけるようにして、部屋に上がりこんだ。

 コンロの前にいる蕾夏は、凍りついたような表情で、瑞樹を見ていた。
 さっきまでの顔とは、まるで別人のように―――唇を震わせ、目を大きく見開いて、近づいてくる瑞樹を凝視していた。
 「ど…して…」
 「蕾夏、」
 瑞樹が手を伸ばすと、蕾夏はハッとしたように身を引き、体を縮めた。
 「さっ、触らないで!」
 鋭い声に、瑞樹も、その後ろで呆然と見ていた奏も、息を飲む。
 自分が拒絶されるのは当然だと、さっき、手を払いのけられた時思ったが―――瑞樹だけは別だと、そう思っていたのに。蕾夏が、瑞樹を拒むなんて、どんな状況でも奏には信じられなかった。
 けれど、蕾夏は、大きく目を見開いたまま、じりじりと後退っていた。自分で自分の腕を抱くようにして、少しずつ。
 「さ…触らないで…」
 「……」
 「わ、私、もう…もう、そんな資格、ないの。お願い…触らないで…」
 その言葉に―――僅かに見える瑞樹の横顔が、何かを感じ取ったように、表情を変えた。

 蕾夏の拒絶を無視し、蕾夏に詰め寄ると、瑞樹は、縮こまった蕾夏の両肩を掴んだ。一瞬、逃げるような仕草を見せた蕾夏だったが、ぐい、と上を向かせられて、抵抗を忘れたように瑞樹を見上げた。
 怯えたような蕾夏の目と、その目から何かを必死に読み取ろうとしている瑞樹の目が、ぶつかる。
 奏には聞こえない、無言の会話が暫し続いた後―――蕾夏の体が、小刻みに震え始めた。

 「…だ…ダメ、だったの…」
 「……」
 「今度、こそ…ダメ、だった。私…私、何も、できなくて…抵抗する暇も…」
 「…蕾夏…」
 「…い…た、い」
 蕾夏の顔が、悲痛に歪んだ。
 「い…いた、い」
 「蕾夏、」
 「痛い、い、いや、…いやっ…!」
 「蕾夏!」
 ガタガタと、蕾夏の体が、大きく震えた。
 体中のコントロールが効かなくなったみたいに、蕾夏の体が崩折れる。その体を抱きとめた瑞樹も、蕾夏と一緒に、床に座り込んだ。
 「いや…っ! イヤ! イヤっ!」
 必死に抱きとめる瑞樹の腕の中で、蕾夏は狂ったように暴れる。幾度もその手が腕や背中を叩くのに耐えながら、瑞樹は、蕾夏の暴れる体を逃がすまいと、懸命に抱きとめた。
 「大丈夫だから、蕾夏…! 大丈夫だから」
 「いや…っ!!」

 そんな、光景を。
 玄関に佇む奏は、信じられない思いで、見ていた。


 “今度こそ、ダメだった”。
 …何、が?
 “抵抗する暇もなかった”。
 …一体、何に…?

 痛い―――悲鳴のようなその声に、脳裏に蘇るのは。
 あの日、蕾夏がたった1度だけあげた、絶叫のような悲鳴。


 「―――…!!!」
 襲ってきた衝撃に、奏の足元がグラついた。
 よろけた弾みで、ドン、と、背中が玄関の壁につく。奏はそのまま、ズルズルと壁で背中を擦りながら、玄関にへたりこんだ。

 何故、すぐ、そこに考えが及ばなかったんだろう?
 以前、蕾夏の耳が聞こえなくなったのは、自分のせい―――それが分かっていて何故、蕾夏の身に何があったのか、すぐ気づいてやれなかったんだろう?
 自分があの時、何をしたかを考えれば、行き着く答えは1つしかない。こんな単純なことに、蕾夏のあの状態を見るまで、気づかないなんて―――バカだ。救いようのない大馬鹿野郎だ。

 「……っ」
 “今度こそ、ダメだった”―――その言葉が意味する事実に、吐き気がせり上がってくる。ガタガタ震え出す体を縮めたまま、奏は口元を手の甲で押さえた。
 一体誰が、何故、どうして。疑問が、頭の中でグルグル回る。なのに、何ひとつ頭に浮かんでこない。止むことのない蕾夏の叫び声が、奏の頭の中を撹拌し続けていた。

 「蕾夏、」
 蕾夏を抱きとめていた瑞樹は、蕾夏の声が途切れたのに気づき、蒼白になった蕾夏の頬をぺちぺちと叩いた。
 「蕾夏、息をしろ、蕾夏…!」
 しゃくりあげるような、不自然な呼吸が、何度か聞こえる。到底、まともに息をしているとは思えない。奏の位置から、蕾夏の表情は見えないが、瑞樹のシャツの二の腕辺りを握る蕾夏の手が、苦しげに小刻みに震えているのだけは分かった。
 「奏」
 混乱に我を失っていた奏は、突然の瑞樹の声に、現実に引き戻された。
 奏の方を振り返った瑞樹は、蕾夏と格闘したせいで、汗だくになっていた。爪でも当たったのか、頬に一筋、新しい傷までついていた。
 「奏。悪い。暫く外してくれ」
 「…え…っ」
 「説明は、後だ。とにかく、最低でも1時間、外してくれ。頼むから」
 「……」
 「奏!」
 びくっ、と肩を震わせた奏の目の焦点が、やっと合った。
 向けられた瑞樹の鋭い視線に、混乱しきった頭の中、ただ1点がいきなりクリアになる。

 助けなくては。
 蕾夏を―――蕾夏を、助けなくては。

 いうことを聞かない足で、無理矢理立ち上がった奏は、半ば転がり出るように、蕾夏の部屋から飛び出した。
 バタン! と背後でドアが閉まると、シンと静まりかえった廊下に、奏だけが残される。静かさの中に放り出された途端―――恐怖に、足が、竦んだ。

 ―――どう…すりゃいいんだ? オレは。
 蕾夏を、助けたい。でも、そのためには、今、何をすればいい…?

 落ち着け、落ち着け、落ち着け―――自分に言い聞かせながら、何度も深呼吸を繰り返す。
 蕾夏自身のことは、瑞樹に任せるしかない。蕾夏をあんな目にあわせた犯人も、とりあえず今はどうでもいい。じゃあ、自分は―――自分にできることは、一体、何だろう?
 ただ黙って、呆然と立ち竦んでいる場合ではない。
 自分だからこそ――― 一度、蕾夏を傷つけた自分だからこそ、今度は蕾夏を助けるために、何かしなくては。

 震える息を全て吐き切ると、少しだけ、冷静になれた。
 額に浮かんだ冷や汗を、手首でぐいっと拭う。奏は、唇をきつく噛み締めると、意を決して走り出した。


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