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― Sin 〜罪〜 -2- ―

 

 高級外車が、電話ボックスの横に急停車した。
 エンジンストップするのを待ちきれず、奏は、電話ボックスの扉を勢いよく開け、外車に歩み寄った。
 運転手は降りてこなかった。スモークガラスって違反じゃないのかよ、と突っ込みたくなるような窓ガラスがスムーズに下りると、中から、先日久々に再会した男が顔を出した。
 「ごめんごめ〜ん、急なことで、慌てちゃってさぁ〜」
 「……」
 事態を知らないから、当然かもしれないが―――この状況で、こいつのヘラヘラした笑いを見ると、無性に殴り倒したくなる。これで“先生”なんて呼ばれる仕事に就こうというのだから、世も末だ。
 「あの時、いつでも相談に乗る、なんて言ったのが、こうも早くに実現するとはねぇ。一体何やらかしちゃったの、奏?」
 「…うっせーよ。いいから早く、頼んだもん出せよ」
 イライラと奏が手を出すと、男は肩を竦め、ほい、と頼まれたものを奏に渡した。
 「無料で進呈してやるよ。これ、俺様の個人所有物だから」
 「…真面目に生きろよ」
 「失礼な。真面目に生きてますとも。大病院の御曹司はモテるから、万が一に備えるのは当然てこと」
 「よりによって、産婦人科医が…」
 「まだ“見習い”だしー。なあ、時間あるなら、1杯飲んでかない?」
 「おい、車で来といて、酒飲む気かよ」
 「1杯ごときで酔う俺様じゃないしー」
 「ってか、オレ、本気で時間ないんだよ。…これ、サンキュ。ほんと、助かった」
 「なに、彼女んとこ、飛んでくの」
 ―――そりゃ、飛んできたいに決まってんだろ。それができるんなら。
 悔しさとも切なさともつかない感情を奥歯で噛み殺した奏は、表面上、協力してくれた友人に向けるべき笑顔を浮かべてみせた。
 「…いや、ちょっと、急ぎで電話しないといけない所があるから」
 背後の電話ボックスを親指で指すと、車の彼は、少し身を乗り出すようにして電話ボックスを確認した。
 「あー、国際電話か。あっちの彼女のトラブル? 郵送してたら間に合わないよ? 72時間以内服用だから」
 「いーから、詮索すんなって! はいはい、どうもありがとうございました。また今度、喜んで飲み屋にお供します」
 「ちぇーっ。じゃーな」
 まだ詳しいことを聞きたがっている様子を見せつつも、悪友はエンジンをスタートし、風のように去っていった。うるさい奴がいなくなって、駅前の喧騒だけが残る中、奏は大きなため息を一つついて、電話ボックスに戻った。
 手に提げていたコンビニのビニール袋を、電話帳の上にドサリと置く。
 ―――オレが考え付くことなんて、即物的なことばっかだよなぁ…。
 でも、それ以外、一体何ができる? そう自問したところで、答えは出ない。こんな時、1人では答えが出せなくて、結局頼ってしまうのは、この道のプロだ。
 迷ってる暇はない。奏は、受話器を上げ、プリペイドカードを差し込んだ。

 東京とロンドンの時差は、9時間。今、向こうはちょうど昼前だ。
 金曜日の今日は、間違いなく学校にいる筈と踏んだ奏は、自宅ではなく、勤め先である学校に電話をした。案の定、電話は、即座に目的の人へと取り次がれた。
 『もしもし』
 相手が奏と分かっているので、いきなり日本語だ。息子からの電話に、声が少し弾んでいるのが分かり、奏は少しだけ口元を綻ばせた。
 「母さん、オレ」
 『まー、どうしたのよ奏? こんな時間に。滅多にない電話は、こっちが夜の時間帯を狙ってかけてきてたじゃない?』
 「…うん。ごめん。仕事中に」
 千里の明るい声に、つい1時間前に見せ付けられた現実とのギャップを思い知る。
 ―――畜生…っ。
 …ダメだ。今は、考えるな。ショックに引きずられてる場合じゃない。一番苦しんでるのは蕾夏なんだから。
 『それで? どうかしたの?』
 なんでも言ってごらんなさい、という千里らしい声音に促され、奏は思い切って打ち明けた。
 「―――蕾夏が…また、耳が聞こえなくなった」
 『……え?』
 「…多分、誰かに暴行されたと思う。それ以外、考えられない」
 電話の向こうで、千里が言葉を失っている気配が、はっきり分かった。
 当然だ。千里は、2人のことを―――特に蕾夏のことを、実の娘とも言えるほどに気にかけていたのだ。単なる知り合いの話以上のショックを受けているに違いない。奏が、千里に電話をするのを一瞬躊躇ったのも、そういう千里の気持ちを知っていたからなのだから。
 それでも、千里はプロだ。10秒以上の沈黙の後、比較的落ち着いた声で、答えた。
 『…それで―――どういう経緯なの? 説明して頂戴』

 奏は、できる限り詳細に、答えた。
 今日、蕾夏と一緒に取材先へ出向いたこと、蕾夏と別れた後、古書街を回っていたこと、蕾夏からの電話で蕾夏の異変を知ったこと、そして―――取材メモの件を頼まれたことや、瑞樹に連絡しようとしたら止められたことも、全て。
 話しているうちに、また受話器を握る手が震えてきた。奏は、もう一方の手で自分の手を押さえるようにしながら、できるだけ淡々と、事実のみを伝えようとした。

 「…それで、成田が、最低でも1時間、外してくれ、って。それで今、蕾夏の部屋出て、母さんに電話してる」
 『…そうなの…』
 長い、長いため息をつき、千里はそう、呟いた。
 『それにしても―――凄い精神力ね。与えられた仕事を、指示通り今日中に先輩に届けようとするなんて、いかにもあの子らしいけど…かえって痛々しいわ。よく考えたらどうでもいいことなのに―――そういう使命感に縋ることで、正常な意識を保とうとしてた気がして』
 「うん…オレも、そう思う」
 『どこで襲われたのかは、分かってるの?』
 「いや、それは。でも…時間を考えれば、あの近辺だと思う」
 はぁっ、とため息をついた奏は、たまらない気持ちになって、思わず頭を押さえた。
 「オレ―――オレ、わかんないよ。あの警戒心の強い蕾夏が、なんでこんな事になったのか。男と2人きりになったら危ないこと位、あいつだって分かってる筈なのに…」
 『―――その位、重要な相手だったのかもしれないわ』
 奏の言葉を遮るように告げられた言葉に、奏は眉をひそめた。
 「…重要な相手?」
 『蕾夏にとっては、決して追い返すことのできない―――なんとしても話をしなきゃいけない相手で、かつ、たとえ無関係の第三者であっても、2人でいる所を見られたくない相手だったのかもしれない』
 「…それって…」
 『―――最初の、相手かもしれないわね』
 「……」
 『…奏も、気づいてるんでしょう? あの子、あんたの時が“最初”じゃなかった、ってこと』

 “言っとくけど、お前が直接の原因じゃない。元々あいつは、もっと深い傷を持ってる―――お前のしたことで、閉じかけてた傷が開いただけだ。”

 ―――やっぱり…そう、なのか。
 恐らくはそうだろう、と漠然と感じていたものが決定的になり、奏は、遣る瀬無い気持ちで額を電話ボックスのガラス戸に押し付けた。
 『…あんたの言う通り、本来、蕾夏は慎重で警戒心の強い子よ。それに、いわゆる“体裁”についても無頓着―――だから、たとえ社会的に眉をひそめられる相手であっても、一緒にいるところを見られるのを恐れたりはしないでしょう。唯一、あの子が第三者の目を意識するのは―――“自分”に関してよ』
 「自分?」
 『…ロンドンにいた頃―――瑞樹と、ちょっとすれ違う時期があってね。見るに見かねて相談に乗ったんだけど…その時も、繰り返し言ってた―――瑞樹が優しいのは、あんなに私に気を遣うのは、私がこんな風だからだ。普通の人なら平気なことがダメだってことを、瑞樹は知っているから…だから、あんなに必要以上に優しくするんだ、ってね』
 「……」
 『あの子が気にするのは、“普通”じゃない、“異質”な自分よ。…なんか、アメリカでも日本でも、あまり友達が出来なくて、いつもクラスで浮いてたみたいだから、あの子。そういう下地があるから余計…“普通”でいられない自分を、病的に責めるのかもしれない』

 “いつも、思ってた―――ああ、ここは、私の居場所じゃないんだなぁ、って。”

 “すごいね、奏君は。羨ましい。どこにでも柔軟に順応できる力があって。”

 夜桜の下、寂しげな笑みで振り返った蕾夏を、思い出した。
 人々に囲まれ、柔らかに微笑んでいる、その裏で―――ふとした瞬間見せる、誰も寄せ付けようとしない“孤独”。奏も、時にそれを感じていたけれど…それは単に、蕾夏が日本を離れているせいだと、ロンドンにいた頃は思っていた。でも、そうじゃないことを、夜桜を見に行った日、知らされた。
 「…うん…分かる、気がする」
 あの時の、桜の花を見上げる蕾夏の、あの何とも言えない目を、覚えているから。
 実感は伴わなくとも―――蕾夏が、どこにいても自分の“異質さ”を意識しながら生きていたことは、何となく、分かる。たとえそれが、単なる蕾夏の自意識過剰や被害妄想であったとしても。
 『海外で育ったから、とか、帰国子女だから、とか…まあ、色々あるんだろうけどね。その中でもあの子が一番囚われていたのが、過去にあったらしい“性的暴力”のことだった…それは、断言できる。少しその話題に触れただけで、目の前で蕾夏の心が一気に閉じてくのが見えたの。だから…もし、あの蕾夏が、リスクを承知で異性と2人きりになったのだとしたら―――よほど心を許している相手か、でなければ、一番こだわっているその傷を、周囲の第三者に晒す羽目になる相手…つまり、蕾夏を傷つけた張本人しかいないと思うわ』
 「…でも…いわゆる、フラッシュバックってやつだよな、蕾夏が心配してるのは」
 母の仕事の関係上、そうした事例は、少し聞き及んでいる。だから余計、日本に来るのを躊躇っていた部分があったのだ。
 『ええ。多分、そうだろうと思うわ』
 「…やっぱり、オレには信じられない。どんな酷いフラッシュバック起こしても、それを他人の目に晒すことより、自分を襲った相手と2人きりになる方を選ぶなんて…」
 『―――じゃあ、あんたは、どうなの?』

 静かに言われた一言に―――奏の心臓が、ビクリと、止まった。

 『蕾夏と2人きりになったこと、あれから一度もない?』
 「……」
 『言ったわよね。あの子は、それが乗り越えるべき試練だと思ったら、自分の危険を顧みずに突き進んでしまう―――だから、蕾夏の言う“大丈夫”を鵜呑みにするな、って』
 「―――…」
 『…それでも多分…いろんな葛藤を天秤にかけて、ギリギリ妥協できる場所を、蕾夏は選んだ筈よ。ただ、蕾夏の想定外のことが、あったんだと思う。無理矢理どこかへ連れて行かれたか―――これがあるから大丈夫、と考えていた切り札を、最後の最後で使えなくて…それで負けたんだと、私は思う』

 ―――バカヤロウ…。
 涙が、滲んできた。
 蕾夏が持つ、本当の意味での強さが、好きだった。
 どんな絶望的な状況に陥っても―――それを、前に進む力に変えてしまう、あの奇跡みたいな力が好きだった。
 でも…もし、そのせいでこんなことになったのなら、いっそ普通の弱い人間であった方が、幸せだったと思う。傷つけた相手に、当たり前のように怯え、回れ右して逃げ出すような奴ならば―――少なくとも、こういう結果はなかった筈だ。

 『奏、』
 「……」
 『奏! しっかりしなさい、今、あの2人の手足になって動けるのは、あんただけでしょ!』
 「…でもオレ…どうしていいか、分からない」
 『あんたは、どうしたいの?』
 どう、したい―――?
 涙で、ガラス戸の外の景色が、ぼやける。自分が、どうしたいのか―――考えても、当たり前の一言しか出てこなかった。
 「…オレは、蕾夏を、助けたい」
 『じゃあ、蕾夏を助けなさい』
 「でも、オレに何ができるんだよ!? オレなんかが傍にいたら、蕾夏が余計、嫌なこと思い出すだけなんじゃないか!? 蕾夏から離れていて、何をどう助けりゃいいんだよ!?」
 『…奏…落ち着いて』
 宥めるように千里に言われ、奏は、手の甲で涙を拭った。
 『…分かるわ。奏は、怖いのよね。今回の相手と、自分を重ねられるのが。同一視されて、拒絶されるのが』
 「…それも…ある」
 『でもね、奏。きっと、瑞樹も怖いと思ってるわよ?』
 思いがけない言葉に、奏は、僅かに目を見開いた。
 「成田が?」
 『“男”という生き物として、一纏めにされて拒絶されたら―――受け入れられ続けてきた分、瑞樹は、もっともっと辛いのよ…?』
 「……」
 『瑞樹を、支えてあげて』
 千里の口調が、どことなく、変わった。
 蕾夏のことを話す時の、ただ痛々しいものを見ているような声じゃなく―――酷く張り詰めた、切羽詰まったような声だった。
 『蕾夏は、瑞樹が支える。どうなるか、私にも断言はできないけど…きっと、瑞樹が死ぬ気で支える。あの子だけが、瑞樹の拠り所だから。でも―――瑞樹を支える人は、今、誰もいないの。いつもは蕾夏が支えてる。でも…今は、一番辛い場所に、たった1人で立ってる。蕾夏を助けられなかった痛みと、二度と受け入れられないかもしれない不安で、きっとギリギリの所で戦わなくちゃいけない。これから暫く、ずっと』
 「……」
 『奏。蕾夏を助けたいのなら、瑞樹を支えて』
 何かの啓示のように、その言葉は、奏の奥底に届いた。
 『瑞樹が倒れれば、蕾夏も倒れてしまう。だから、奏―――お願い。瑞樹を支えてやって』

***

 時計が10時を指したところで、奏は思いきって、蕾夏の部屋の呼び鈴を鳴らした。
 ドキドキしながら待つと、暫くして、内側からドアが開いて、瑞樹が顔を覗かせた。
 「…ま…まだ、早かった、かな」
 見たこともないほど疲れ果てた瑞樹の顔に、タイミングが悪かったか、と不安になったが。
 「―――いや。入れよ」
 瑞樹はそう言って、部屋の中へと戻っていった。それに続いて、奏も玄関内に入って、ドアを閉めた。
 「…蕾夏は?」
 「眠ってる。…って言うより、気絶」
 瑞樹の肩越しに様子を窺うと、奥のベッドに寝ている蕾夏の姿が見えた。熱でもあるのか、タオルが額に乗せられている。
 「よかった…ちょっとは落ち着いたのか」
 暴れている蕾夏を見た後だけに、静かに眠っている蕾夏の様子に、少しホッとする。が、瑞樹の反応は、全く逆だった。
 「…前より、事態は悪いかもしれない」
 「えっ」
 「暴れたし、叫んだけど―――まだ泣いてない」
 「……」
 泣くことに、何の意味があるのだろうか? よく分からず眉をひそめた奏だったが、瑞樹がそれ以上何も言わなかったので、あえて訊くのはやめておいた。
 「成田、これ」
 蕾夏の枕元に腰を下ろしかけた瑞樹に、奏は、手にしていたコンビニの袋を差し出した。
 怪訝そうに眉をひそめた瑞樹が、その中身を改めると―――中には、レトルトのおかゆやペットボトルのスポーツ飲料、それとレンジで調理できるタイプの食べ物がいくつか入っていた。
 「食ってる場合じゃないだろうけど…食わないと、蕾夏もあんたも、倒れると思って。それと―――これは、蕾夏に」
 そう言って、奏が瑞樹に突きつけたのは―――プラスチックケースに入った、白い錠剤の薬だった。
 「いわゆる、アフターピルってやつ。事後72時間以内に2錠、その12時間後に残りの2錠を飲ませれば―――100パーセントじゃないけど、危険は回避できるらしいから」
 「……」
 「…多分、日本じゃ入手が難しいと思うけど、中学時代の仲間とこの前会った時、アメリカから取り寄せた、って自慢してたの思い出して―――さっき、呼び出して、強奪してきた。副作用で吐き気があるらしいけど…最悪のケースになるよりは、マシだと思う」
 「…お前、よくこんなとこに頭がいったな」
 少し驚いたように瑞樹に言われ、奏は、バツが悪くなって目を逸らした。
 「―――高校時代の友達に、いたんだよ。乱暴された挙句に、妊娠して、堕ろした子が。あの頃はまだ、こんなもんなかったし、相手の男のことは、二度と顔も見たくないって思ってたから…それ以外、選択肢がなかった。あの時の彼女のショック、今でもよく覚えてるから、蕾夏をそんな目にだけは遭わせたくないと思ったんだ」
 「…そうか」
 「…って、オレが言っても、説得力ないよな」
 消え入るような声で、呟く。呆れられても当たり前だ。自分こそが、蕾夏をそういう危険な目に遭わせかけた、張本人なのだから。
 つい、視線が床に落ち、うな垂れてしまう。そんな奏の頭を、瑞樹の手がぐしゃっ、と掻き混ぜた。
 「―――やっぱりお前、千里さんの息子だな」
 驚いて奏が顔を上げると、瑞樹は、微かに口の端を上げた。
 「千里さんも、リゾット作って持ってきてくれたり、医者の手配してくれたり―――お前のその、パニクってるようで、現実的な事はちゃんと見えてるとこ、千里さん譲りだと思う。…やっぱりガキってのは、DNAより環境に影響受けて育つんだな」
 「……」
 「…お前いてくれて、助かった」

 カッコ悪い、と思ったけれど。
 涙がこみ上げてくるのを、堪えられなかった。
 別に、サラが嫌いだとか、今でも恨んでるとか、そういう訳じゃない。ただ―――“千里の子供だ”という言葉は、何にも変え難い褒め言葉だと思った。

 「別に…礼言われるようなことじゃ、ないって」
 精一杯強がってそう言った奏は、頬を伝いそうになる涙をぐい、と拭った。
 「それより、成田…なんか、食う?」
 「…いや、いい。できれば、冷たいもんが欲しい」
 「分かった」
 コンビニで買ってきた飲み物は、すっかりぬるくなっている。奏は、ビニール袋を手に冷蔵庫に向かい、ペットボトルを冷蔵庫に放り込んだ後、既に蓋の開いていたウーロン茶のペットボトルを取り出した。
 洗って伏せてあったグラスに、ウーロン茶を注ぐ。その時奏は、ふと、視線の端に映ったものに違和感を感じ、その手を一瞬止めた。
 「……」
 シンクの隅に、纏めて置かれたもの。それは、割れたグラスだった。
 蕾夏が暴れた時、割れてしまったのだろうか―――そう思ったが、ガラスの破片に僅かに付着した血液に気づき、奏は顔色を変えた。
 慌てて振り向くと、ベッドの端に頬杖をついて蕾夏の寝顔を眺めている瑞樹の手元を確認する。すると、さっきコンビニの袋を受け取った右手とは反対の手―――蕾夏の手を握っている瑞樹の左手の異変に気づいた。手の甲の一部が、どう考えても怪我をしているとしか思えないほど、血に染まっていたのだ。
 「っ、成田! それ、どうしたんだよ」
 奏の声に顔を上げた瑞樹は、奏の視線が自分の手に注がれているのに気づくと、微かな苦笑を漏らした。
 「ちょっとな」
 「ちょっと、って…手当てしろよ。ガラスの破片とか入ってたら、どうするんだよ」
 「…後でいい」
 ふっと笑った瑞樹は、また視線を蕾夏の寝顔に移してしまった。
 「頭きて―――グラスに八つ当たりしただけだ。何もできなかった自分が、情けなくて」
 「……」
 「でも…考えれば考えるほど、できた筈のことなんて、1つもねーんだよな…」

 成田―――…。
 いつも冷静で、常に奏の前を歩いている、絶対に超えられない存在―――そうである筈の瑞樹が、酷く弱く、痛々しく見えた。
 瑞樹自身が言う通り、蕾夏を助けられた人間がいたとしたら、それは蕾夏自身だけだっただろう。瑞樹に超能力でもあって、蕾夏の危機を察して瞬間移動でもしてこない限り…どうしようもなかった。それは分かっていても、自分を責めずにはいられない瑞樹の気持ちは、奏にも痛いほど分かった。

 ウーロン茶を冷蔵庫に戻した奏は、自分のハンカチを水で湿し、ウーロン茶の入ったグラスと一緒に瑞樹の所へと持っていった。そして、グラスをローテーブルの上に置くと、無言のまま、瑞樹の左手を蕾夏の手ごと掴んだ。
 瑞樹の驚いたような目が、自分の横顔に注がれるのが分かる。そんな瑞樹の手の甲を、奏は、ガラスの破片を見落とさないよう注意しながら、慎重にハンカチで拭き始めた。
 「あんたが怪我してんの見たら、蕾夏が悲しむから」
 「……」
 「…今日だって、蕾夏、オレがあんたに電話しようとしたら、止めたんだ」
 瑞樹の視線が、鋭く変わる。
 「止めた?」
 「なんかよく分からないけど―――自分がこんな状況になってんの知ったら、あんたはきっと、明日の北海道行きのチャンスを棒に振るから、って。だから、成田にだけは連絡しないでくれ、って、必死な目して頼んでた。…どのみち、あんたから連絡あるだろうに、その時どう対応するかまでは、頭が回ってなかったらしいけど」
 「……」
 「とにかく…このチャンスを逃したら、何があったか知らなくちゃ、あんたがこれからも苦しみ続けるから、って…何度も何度も、オレに頼んできた。安心させるために頷いておいたけど、オレ…やっぱり、あんたにとって蕾夏のこと以上に大切なことなんて無いとしか思えなくて―――それで、電話した」
 「…そっか…」
 「…それで、正解だったんだよな?」
 少し不安げに奏が確認すると、傷口が沁みたのかちょっと顔を歪めた瑞樹は、
 「当たり前だ」
 と答えた。その答えに、奏はホッと息をついた。
 視線を巡らせると、蕾夏の怪我の手当てに使ったのか、絆創膏がテーブルの下に転がっていた。こんな近くにあるのに―――きっと奏がこなければ、傷は放置したまま、食べることも眠ることもしないまま、蕾夏に付き添い続けたのだろう。
 “瑞樹を、支えてあげて”―――千里の言う通りだ。このままでは、倒れてしまう。
 「お前、蕾夏に呼び出されたって言ってたけど―――蕾夏と別れてから連絡受けるまで、どの位の時間だったんだ?」
 絆創膏を手にする奏の指先を眺めながら、瑞樹が訊ねる。奏は首を傾げ、できるだけ正確な時間を思い出そうとした。
 「ええと―――オレ、黒川さんの頼まれ物探しに古本屋に用事があって…蕾夏に案内してもらって別れたのが、5時前だった。古本屋めぐりしてたら道に迷ったんで、迷子になったら電話してこい、って蕾夏の言葉思い出して、蕾夏に電話したのが、5時45分位。2回電話したけど、蕾夏は出なくて…また電話しようと思ってレコード屋漁ってたら、15分位して、蕾夏の方から電話があった」
 「じゃあ、1時間位か…。古本屋街って、あいつの会社の近所だよな」
 「結構。歩いて10分位」
 「…だったら、会社の近辺、てことか…」
 瑞樹の呟きに、何が、とは訊けなかった。訊かなくたって分かる。“現場”が、だ。
 「…オレが駆けつけた時は、蕾夏は、会社の裏の非常階段のとこに居たけど…」
 絆創膏を貼りつつ奏が言うと、瑞樹はため息をついて、首をゆるく振った。
 「いや。たとえ裏口でも、自分が働いてるビルそのもので、あの蕾夏があいつと2人きりになる筈がない」
 「……」

 ―――“あいつ”…?

 まるで、誰が蕾夏をこんな目に遭わせたのか知っているかのような言葉に、思わず眉をひそめる。
 もしかして瑞樹は、何故こうなったのか、その事情を知っているのだろうか―――疑問に思って、奏が口を開きかけた時、それより一瞬早く、瑞樹が口を開いた。
 「サンキュ」
 「―――えっ?」
 「傷の手当て」
 蕾夏の手を握ったまま、瑞樹が軽く、左手を挙げてみせる。自分が貼った絆創膏をぽかんと眺めた奏は、数秒後、お礼の意味がわかって、慌ててぎこちなく首を振った。そのせいで、せっかく訊ねようとしたことを訊ねるチャンスを逸した。
 「それで―――他に何か、気がついたこととか、あるか」
 逆に瑞樹の方から訊ねられ、奏は記憶を辿る方へと頭を切り替えた。
 「気づいたこと―――ええと…蕾夏が、表通りじゃなく、裏道を抜けた別の大通りでタクシーを捕まえたこと、かな。多分、会社の人を避けたんだと思うけど…」
 「ああ…そうだろうな」
 「あ、それと、伝言」
 「伝言?」
 「会社の人が、言ってた。蕾夏の留守中に、“アイ・ピー・アクトの佐野さん”が、蕾夏を訪ねて来た、って」
 「―――…」
 途端―――瑞樹の顔色が、変わった。
 急激に険しくなった瑞樹の表情に、さしたる意味もないと思いながら伝言の件を話したつもりだった奏は、背筋を凍らせた。
 「…訪ねて来た? 会社に?」
 「そ…そう、オレは、聞いたけど」
 「……」
 「…なあ。もしかして、“アイ・ピー・アクトの佐野”って、“Clump Clan”のショーで音響担当する奴?」
 恐る恐る奏が訊ねると、瑞樹の瞳が、僅かに揺れた。
 が、肯定するでも否定するでもなく、瑞樹の視線は奏から逸れ、斜め下のセンターラグの上を彷徨った。
 「…なんで、あいつが…」
 「え?」
 「なんで、蕾夏の居場所を、あいつが知ってるんだ…?」
 「…会社の人の話じゃ、蕾夏の名刺持って訪ねて来たらしいけど…」
 その言葉に、一度落ちた筈の瑞樹の視線が、驚いたように奏に向けられる。
 「名刺を?」
 「…って、聞いたけど…。アイ・ピー・アクトって聞いて、あんたの助手として打ち合わせに行った時、名刺交換でもしたのかな、と思ったんだけど―――違うのか?」
 「する訳ないだろ。蕾夏は、俺のアシスタントとして出席したんだから」
 なんだか、嫌な予感がして。
 そこにどういう接点があるのか、分からないけれど―――とにかく、何故か、さっきの瑞樹の表情の変化を見て以来、心臓が落ち着かなくて、仕方ない。
 「…ちっきしょ、一体どこで…」
 そう呟いて、苛立ったように髪を掻き上げる瑞樹に、はっきりした答えが欲しかった奏は、改めて訊ねた。
 「…なあ、この“佐野”って―――音響担当の、ヒロのことだろ?」

 そう言った瞬間。
 瑞樹の目が、何かに気づいたように上げられ、1点を見つめた。

 微動だにせず、ただ1点を見つめ続けた瑞樹の目が、やがて大きく見開かれた。
 「―――…桜庭…?」
 「え?」
 全く知らない名前がいきなり出てきた。キョトンとする奏に、瑞樹は蕾夏の手を握っていた手を離し、両手で奏の胸倉を掴んだ。
 「おい。お前、その“ヒロ”ってやつと、よく話をするんだよな」
 「? あ、ああ」
 「そいつ、歳いくつだ?」
 「え…、オレより、2つ上だけど」
 「好きなバンドとか、知ってるか」
 「…ディープ・パープルかな。いつも持ってるMDに、必ず入れてるから」
 「―――…」
 奏の胸倉を掴む瑞樹の手が、次第に緩む。
 こんな愕然とした表情の瑞樹を、見たことがなくて―――奏の嫌な予感は、ますます募った。
 「成田…?」
 無言のままの瑞樹は、探るような、何かを恐れているような奏の目に、痛々しいものを見るかのように、僅かに目を細めた。
 「…ヒロが、どうかしたのかよ…?」
 「……」

 その沈黙の意味に―――奏は、自分の嫌な予感が、確定的になった気がした。
 そして、その可能性が頭の中にはっきりと浮かんだ時―――薄ぼんやりとしか覚えていなかった会話が、唐突にクリアに蘇った。


 『―――でも、なんかね。凄く、嫌だったの。なんだか、瑞樹との関係、馬鹿にされた気がして。そんなとこも…なんか、似てて、凄く』
 『誰に』
 『―――佐野君に』


 “佐野”。
 ありきたりな名前。
 だから、はっきり覚えていても、きっと2つの同じ苗字を、同一人物として結び付けたりはしなかっただろう。

 でも、これは。
 瑞樹が奏を見つめる、辛そうなこの目の、意味は。

 「…う…そだろ…?」
 声が、震える。
 “蕾夏を襲った相手は、もしかしたら最初の時の相手かもしれない”―――千里が言った言葉が、蕾夏の“佐野君と似てて、怖い”という言葉と重なって。
 “因果ってやつだよな”―――ヒロが口にした謎の言葉と、蕾夏がこれまで経験してきたこととが、重なって。
 沢山の、点と点。それらを結び合って、浮かび上がるのは…たった1つの事実。
 蕾夏を、あんな目に遭わせたのは、佐野博武―――“ヒロ”だ、という、受け入れ難い事実だけだ。

 「嘘だろ…!?」
 奏から手を離した瑞樹に、逆に掴みかかる。
 「…落ち着け、奏」
 「う…嘘だろ、そんなの。だってヒロは、あんたや蕾夏の名前出した時だって、何もオレに言わなかったんだ。知り合いとも、何とも」
 「……奏」
 「オレが…オレが蕾夏のこと好きなのも、知ってたんだよ。なのに、なんでヒロが…!? そんなの…!」
 「落ち着け!」
 鋭い声に、奏は言葉を飲み込んだ。
 間近にある瑞樹の目が、奏の目を見据える。どこか憐れみを滲ませたその目は、奏の予想を肯定するもの以外の何者でもなかった。
 「…だから、お前には言えなかったんだよ。俺も、蕾夏も」
 「―――…」

 体中の血が。
 一瞬にして、沸騰した気がした。

 「……っ!!」
 瑞樹を解放した奏は、勢いよく立ち上がり、外へと飛び出そうとした。が、瑞樹が奏の腕を掴み、それを引きとめた。
 「奏!」
 「っ、離せ、よっ!」
 「どこに行こうってんだ!? 落ち着け!」
 「決まってんだろ!? ヒロのとこだよ!」
 「今行って何になる、やめとけ!」
 「やめとけ!?」
 憤りに、体全体が震える。振り解けない瑞樹の手に苛立ち、奏は抗うのをやめ、瑞樹を振り返った。
 「どうしてだよ!? 蕾夏があんな目に遭ったんだぞ!? 許せない…オレにそんなこと言う資格、ないのかもしれないけど―――それでも、許せない。蕾夏が苦しんだ分、メチャクチャに痛めつけてぶっ殺してやらないと、オレは許せない…!」
 「馬鹿野郎! 殺したら許せるって言うのか!? そんな訳ねーだろ! 最低の奴殺して、自分が犯罪者になる気か、頭冷やせ!」
 「あんたがそんなこと言うのかよ!?」
 鋭く瑞樹を睨み、奏が叫ぶと、瑞樹の表情が一瞬、強張った。
 「蕾夏のために、オレの首を本気で絞めたあんたが、オレにそれを言うのかよ…!?」
 「……」
 「あんたが一番、オレの気持ち、分かってくれる筈だろ!? あんただって、やろうとした事なんだから…!」
 「…だから、止めるんだよ」
 ぐい、と、掴まれた腕を引かれる。
 苦しげに、瑞樹の顔が歪む。傷口を抉られたかのような表情で、瑞樹は奏を見据えた。
 「お前を本気で殺そうとした俺だから、止めるんだ」
 「……っ、なにを、」
 「後悔してるから…あの時のこと、今でも夢に見てうなされるほど後悔して、俺自身が苦しんでるから止めるんだよ!」
 「……」
 「…お前は、まだ知らねーから、簡単に言えるんだ。人の命を奪う時の、手の感触―――それがどんだけ正しい理由でも、何日、何ヶ月、何年経ったって手のひらに残って、苦しむんだ。蕾夏だって、俺だって苦しんだ。殺意を持って人を傷つけるってのは、そういうことなんだよ」
 “蕾夏も”―――その言葉に、一瞬、眉をひそめる。そして、思い出したのは―――ヒロの腕に残る傷跡。ヒロのギタリストとしての未来を奪った、あの傷跡だった。
 「蕾夏のためだ、なんて言っても、それは詭弁だ。蕾夏が受けた傷に対する制裁は、蕾夏自身にしか下す権利はない―――俺には、俺が受けた傷に対する権利しかない。なのに俺は、俺自身の怒りから、お前を殺そうとしたんだ。知ってるのに―――たった一度、ぶちキレて首絞めただけで、その後の人生全部奪われる“殺される側”のことを、誰より知ってるのに」
 「…知って、る…?」
 妙な言い回しに、奏が怪訝な目をすると、瑞樹の目が、悲しげに細められた。
 「俺は…自分の怒りに負けて、同じレベルに堕ちたんだよ。あの女と―――ガキだった俺の首絞めて殺そうとした、俺の母親と、同じレベルに」
 「―――…」

 すぐには、意味が飲み込めなかった。
 想像を超え過ぎた話で―――すんなりと、飲み込める筈もなかった。

 ただ…蕾夏の言葉の意味が、やっと、分かった。


 “―――私達ね。それぞれ、もう関係を修復しようもない相手が、1人ずつ、いるの。”

 “ずっとずっと前に、忘れたいのに忘れられないような思いをさせられた人。その後の人生を支配してきた―――ううん、今も、支配し続けてる人。あのことがなかったら、って、今も思う。でも…今から新しい関係を築こうにも、もう築く手段も見つからないような人が―――瑞樹にも、私にも、いるの”


 ―――そ…ういう、意味、だったのか…。
 蕾夏にとっての、佐野。瑞樹にとっての、母親。2人の人生を支配してきた―――今も支配し続けている存在。
 …だから、2人は。
 2人が目指していたのは―――その支配から、自由になれる世界。

 「佐野は、お前の信頼を裏切った。その分の怒りなら、お前自身で佐野にぶつければいい。ただし、“今”じゃない―――“今”やれば、お前も俺と同じ間違いを起こす」
 「……」
 「…お前まで、堕ちるな。奏」
 瑞樹の手が、腕から離れる。
 けれど―――もう、激情に駆られて外に飛び出す気には、なれなかった。奏は、限界まで張り詰めていたものが切れてしまったかのように、その場に座り込んだ。

 頭が、うまく回らない。
 たくさんのことが、一度に襲ってきて…上手く処理できない。蕾夏のこと、ヒロのこと、瑞樹のこと―――これまでに散りばめられてきたシーンの数々が、別の意味を持って、次々に蘇ってくる。それがあまりに多すぎて…飲み込みきれない。
 「―――目は、覚まさなかったみたいだな」
 瑞樹の声に目を上げると、瑞樹は、蕾夏の傍らに膝をつき、蕾夏の様子を見ていた。考えてみたら、蕾夏が眠っているというのに、その傍で大声で怒鳴りあってしまったのだ。自分達の不用意さに、背筋がヒヤリとした。
 蕾夏の青白い顔は、ピクリとも動かない。
 蕾夏は今、どこか深い意識の底に沈んでいるのかもしれない。一体、何をすれば戻って来るのだろう…? 自分は、どんな形で瑞樹の手助けをすればいいのだろう…?

 ぼんやりと蕾夏の顔を眺めていると、色々な事柄が、ぽつりぽつりと脳裏を過ぎる。
 蕾夏の髪を梳き、目を覚ます気配のないことを確かめた瑞樹が、やっと奏が持ってきたウーロン茶に手をつけた。一気に半分ほど飲み、はぁ、と大きく息をつくのを見たら―――何故か、あっさり流していた事柄が、奏の心に引っかかった。
 「…なあ、成田」
 「ん?」
 「…あんた、北海道は、どうするんだよ」
 そうだ。忘れていた。
 北海道だ。
 グラスをテーブルに置いた瑞樹は、奏の言葉に、ふっと笑って答えた。
 「行く訳ねーだろ、この状況で」
 「…ほんとに、それでいいのかよ」
 「お前だって言っただろ。蕾夏以上に大事なことなんてない、って」
 確かに、そう言った。でも――― 一度引っかかったものは、簡単には無視できなかった。
 「でも―――蕾夏は、成田に、行って欲しそうだった。自分が、あんな状況でも」
 「……」
 「オレに会社のこと頼んだのは…一種の“逃避”じゃないか、って気がしてる。ああいう現実的な使命感を果たすことで、なんとか自分を保ってた、っていうか―――だから、あんたの顔見た途端、ギリギリになってたものが限度を超えて、やっと素の蕾夏に戻ったんじゃないか、って…そう、思う」
 だから、メモの件を頼む蕾夏の声は、酷く硬く、事務的だった。決められたセリフを喋るみたいに…ある意味、不自然だった。
 「でも、あんたに連絡するな、ってオレに詰め寄った蕾夏は、“本物の蕾夏”だった。こんなことで、次いつ来るか分からないこのチャンスを棒に振らせたりしない、って、必死な目で言ってた。あそこまで―――正気を保つのもやっとの状態で、あそこまで必死に訴えてたことなんだぜ? ほんとに…行かなくて、いいのか?」
 「……」
 「なあ、」
 ある予感に、奏は、少し瑞樹の方へと身を乗り出した。
 「もしかして―――北海道の用事、さっき言ってたことに、繋がってるのか? その…あんたを殺しかけたっていう、母親に」
 その問いに、瑞樹は、翳りを帯びた苦笑いを漏らし、視線を逸らした。
 言葉での返事は、なかった。でも、分かった―――答えは、イエスだと。

 瑞樹の母は、昨年5月に亡くなっている。事情は知らないが…葬儀に出なかったことから想像するに、きっと生前に和解するような展開はなかったのだろうし、もう亡くなっている以上、今後和解する可能性はゼロだ。
 瑞樹は、何を求めているのだろう?
 蕾夏は、何故あんなにまで、瑞樹に北海道へ行かせたがっていたのだろう?
 目が覚めて、正気を取り戻した時、もし蕾夏が瑞樹が行かなかったことを知ったら―――どう言うだろう? 怒るのか、悲しむのか、失望するのか…何も知らない奏には、見当もつかない。

 「…いいのか、成田」
 同じ言葉を、繰り返す。
 視線を逸らした瑞樹は、蕾夏の顔を、黙って見つめていた。そして―――ふいに、目を閉じた。
 何かに耳を傾けているかのように、目を閉じたまま、じっと動かない。どうしたんだろう、と奏が不安になってきた頃になって、その目が、ようやく開けられた。
 「―――俺は、蕾夏しかいらない」
 低く呟かれた声に、思わず、ドキリとする。
 「今、蕾夏から離れたら…永遠に、蕾夏を失う気がする。だから、俺は蕾夏から離れる訳にはいかない」
 「……」
 「でも―――あの女の影に縛られて生きるのは、もう嫌だ。自由になるためのヒントが、北海道にあるかもしれないから―――切り捨てることは、できない」
 「……」
 「奏」
 瑞樹の目が、奏を真正面から見据えた。その真剣な眼差しに、一瞬、息を飲む。
 「頼みがある」
 「…何?」
 「俺の代わりに、北海道へ行ってきて欲しい」
 「―――…えっ」
 さすがに、目を丸くした。
 思いもよらなかったことに、どうリアクションしていいやら、分からない。奏は、大きく見開いた目で、瑞樹の顔を凝視した。
 「オ…オレが?」
 「…ロンドンの時は、俺が奏のルーツを探してきたよな。今度はお前が、俺のルーツを探してくる番だ」
 当時を思い出したのか、瑞樹はそう言ってふっと笑い、すぐに鋭い目で奏の目を見返した。
 「蕾夏は、俺が取り戻す。必ず」
 「……」
 「必ず…取り戻す。信じろ。だから、奏―――お前が、俺の代わりに探してきてくれ」


 『瑞樹を、支えてあげて』

 千里の言葉が、もう一度、奏の耳の奥に響いた。


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