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― サチ ―

 

 小樽のホテルに到着したのは、午後10時を回ってからだった。
 ドサリ、と、荷物をベッドの上に放り出し、自らも半ば倒れこむようにベッドに横たわる。あまりにも疲れ果てているものだから、自分の重みで、ベッドがどこまでもズブズブと沈んでいきそうな錯覚を覚えた。
 「…疲れたー…」
 口に出したら、余計、疲れが増した気がする。
 身体的疲労もあるが、それ以上に―――精神的疲労。昨日の夜から今まで、あらゆる意味でフル回転だったのだから、ここでエネルギー切れを起こして気絶しても、誰も責めたりはしないだろう。
 でも…こんなにも疲れている割に、眠れる自信は、あまりない。

 今からちょうど、24時間前。
 『俺の代わりに、北海道へ行って欲しい』
 瑞樹の頼みを、奏は受け入れた。
 瑞樹は蕾夏の傍を離れる訳にはいかない、でも北海道行きは次いつ巡ってくるか分からないチャンスらしい、そして自分は瑞樹を支えなくてはいけないと思っている―――全てをクリアできるのは、この選択しかないと思ったのだ。

 ―――マジ、頭、パンクするかも…。
 ムクリ、と顔を上げると、視線の先に、さっき放り出したGAPの斜め掛けバッグが転がっている。
 その中にある物に思いを馳せた奏は、少しだけ―――瑞樹の依頼にイエスと答えてしまったことを後悔した。


 昨夜は、あまり眠っていない。
 瑞樹は、北海道の件はまた明日説明する、と言って奏に帰るよう言ったが、奏は首を縦には振らなかった。
 『どうせ成田のことだから、オレ帰ったら、食うのも寝るのも忘れて、ずっと蕾夏に付き添っちまうんだろ?』
 買い集めてきた食材で、相当遅い夕食を用意し、2人で食べた。というか、無理矢理瑞樹に食べさせた。自分も食欲なんてゼロだったが、食べさせなくては、という使命感から、自らも無理をして食べた。
 食事が終わった頃、蕾夏が一度、目を開けた。
 蕾夏は、朦朧としていた。目は開けても、実質、意識はほとんど別空間を彷徨っていたのかもしれない。おかゆや水などを与えようとしても、一切反応してくれない。結局、瑞樹が薬や水を、口移しで飲ませていた…と、思う。断言はできない。さすがに直視するのが憚られて、クルリと背を向けてしまったから。
 妙な気分だった。
 当たり前のように、慣れた様子で蕾夏を介抱する瑞樹を見ていると、もの凄く、妙な気分だった。
 惚れた女に他の男が触れることへの、単純すぎる嫌悪感と嫉妬。でも、一番多いのは―――罪悪感。あの手馴れたムードは、実際、手馴れているから―――自分が蕾夏を傷つけた時に、慣れてしまったからだ。そう思うと、逃げ出したくなるような罪悪感を覚える。
 でも…こうして、自分がしでかしたことの結果を見せつけられるのも、多分神様が奏に与えた罰だ。奏は膝を抱えて、渦巻いている複雑な感情に耐えていた。

 再び蕾夏が眠りついてからも、瑞樹と奏は、なかなか眠れなかった。ぽつりぽつりと、時田のことや黒川のことを話して、長い夜をやり過ごした。
 多分―――事件の話が話題にのぼらなかったのは、意図的に避けていたせいだろう。少なくとも奏は、避けていた。一度口にしてしまったら、捻じ伏せた憤りにまた火が点くような気がして…口に、できなかった。

 2時過ぎ―――疲れが一気に襲ってきて、うとうとした。
 はっとして目を開けると、瑞樹は蕾夏の寝顔を見ていて、テーブルの上に残されていたおかゆが、ほんの少しだけ減っていた。
 その後も何度か、うとうとしたり、目を覚ましたりを繰り返し―――明け方近く、またうたたねをした奏が目を開けると、やっと瑞樹がベッドに顔を埋めるようにして眠っている姿が見えた。
 その、直後。
 蕾夏が、うっすらと、目を開けた。
 奏は―――動けなかった。
 何かすべきかもしれない、と思ったけれど…動けなかった。蕾夏の視界に、今、自分が入ってしまったら―――蕾夏がどう反応するか、怖くて。奏は、ただ息を殺し、蕾夏の様子を瞬きもせず見つめた。
 蕾夏は、暫しぼんやりと中空を見ていた。まだ、朦朧としているらしい。表情を失った顔で、何も無い空間を見ていた。
 そして―――左手を、微かに、動かした。
 瑞樹が、決して離そうとしない、蕾夏の左手―――動かしたことで、瑞樹の手が繋がっているのは、分かったのだろうか。蕾夏は、酷く緩慢な動きで首を回し、瑞樹の方に顔を向けた。
 そして、暫く、瑞樹の寝顔をぼんやり眺めた後―――また、眠りに落ちた。
 北海道に来る前―――奏が、蕾夏が目を覚ましているのを見たのは、それが最後だった。

 夜が明けて、奏は行動を開始した。
 一旦、仮住まいのウィークリーマンションに戻り、シャワーを浴びて何とか気分を入れ替える。テーブルの上に置いた、瑞樹と蕾夏から貰ったサボテンの鉢植えを見たら、また涙がこみ上げてきた。愛想のないサボテンが、なんだかいつもより元気がないように見えるのが嫌で、少しでも余計に日が当たるよう、テーブルを窓際ギリギリまで引っ張っていった。
 黒川に電話して、ぶつぶつ文句を言うのを何とか宥めて、土日の完全オフを確保した。週明け、そのマイナスを取り返す位にこき使われるんだろうな…とうんざり気分で覚悟しつつ、次に奏が向かったのは、瑞樹の部屋だった。
 託された鍵で部屋に入り、言われた物を探し出す。着替えなどの現実的な物の中に―――1つ、妙な物が混じっているのが、どうにも気になったが、ともかくそれらを掻き集め、奏は再び、蕾夏の部屋へと舞い戻った。

 その“妙な物”は、何故か、奏に渡された。
 『飛行機の中ででも、読んでくれ。下手に説明するより、その方が早いと思う』
 簡単なメモと“それ”を奏に差し出す瑞樹に、奏は、一体これは何だ、と訊ねた。そして返ってきた答えに、目を丸くした。
 『あの女の―――母親の、日記だ』


 ―――ヘヴィー過ぎるよなぁ…。
 はああぁ、とため息をついてしまう。
 バッグの中に今もある、あの赤い表紙の日記を思い出すと、その中身のヘヴィーさに、バッグまでがマットレスにずぶずぶ沈んでいく気がする。その位、日記の中身は、奏にとって衝撃だった。

 東京から新千歳までのフライトの間に、奏は、その日記を読んだ。
 最初、何の説明もなかったから、よく分からなかった。けれど―――3ページ読む頃には、その内容から描き出される「幼い頃の瑞樹が置かれていた家庭」の凄惨さに、背筋が冷たくなり始めていた。
 見えたのは、自分で自分をどうすることもできず、混乱しながら泣きじゃくる母親。そんな母親に怯えて、わぁわぁと泣く妹。そして―――そんな妹を、母のヒステリックな暴力から守ろうとして、傷だらけになっている瑞樹の姿だった。その姿が、今、蕾夏を取り戻そうと必死になっている瑞樹の姿と重なって、余計…痛かった。
 暴力の描写は、あまりに痛すぎて、大半を飛ばし読みした。すると、途中から、どうやら母親に不倫相手ができたらしい内容が混じり出し、そのことを、まだ4歳の瑞樹も知っているらしき記述が出てきた。瑞樹がそのことを父親に黙っていてくれた、とホッとしているらしい母親に、奏ははらわたが煮えくり返る思いになった。
 なんなんだ、この母親は。
 顔も見たことのない瑞樹の母に、奏は、殺意に似た感情を抱いた。
 自らも、実の母に捨てられた、という背景を持つ奏だから、余計―――許せなかった。女の身勝手を、何の罪もない子供に押し付けている、瑞樹の母が。
 一体瑞樹は、母の不貞を知りながら、それを父親に黙っているよう強要されて、どう感じただろう? 淳也にベタ惚れな千里に育てられ、「奏君のご両親ていつ見ても熱いわねぇ」と指摘される度、気恥ずかしい思いをしていたような奏には、まるで想像がつかなかった。
 とっとと破局しろ、父親にバレて手酷い仕打ちでもされりゃいいんだ―――そんな風にムカつきながら読み進めていたが。
 いきなり、日記が、途切れた。
 あれ? と思って、延々続く白紙ページをめくり続けた奏は―――最後の最後で、不自然に1ページだけ書かれた日記に、たどり着いた。
 そして、そこに書かれた内容に―――めまいと、吐き気を覚えた。

 もう一度、ため息をつく。
 体を起こした奏は、ジーンズのポケットから、折り畳んだメモを取り出して、広げた。日記と一緒に、瑞樹が渡してくれたメモだ。
 書かれているのは、瑞樹の母の名前とその父親の苗字。三田典子の連絡先と倖との関係、そして桑原という人物の略歴と、日和新聞札幌支局の連絡先―――そして、最後に、一文。

 『あの女が、北海道時代、何をされ、何をしたのか。どんな結果でも、必ず報告すること』

 「…実は人殺しでした、って結果でもかよ…」
 メモを渡された段階では、何も分からなかったが―――今なら、分かる。瑞樹が何を知りたがっているのか。
 あの日記の最後の文章が、何を意味しているか。それが分かれば…自分が何故殺されそうになったのか、その理由が見えるかもしれない、と瑞樹は思っているのだ。
 本気かよ、と、頭を抱えたくなる。やめとけよ、今まで知らずに生きてきて、何の不都合もなかったんじゃないか、今更蒸し返して傷つくような真似するなよ―――奏の中の大部分が、そう言っている。
 けれど…どうしても、あのセリフが、耳から消えないから。

 『俺は…自分の怒りに負けて、同じレベルに堕ちたんだよ。あの女と―――ガキだった俺の首絞めて殺そうとした、俺の母親と、同じレベルに』

 ―――そんな筈、ない。
 たとえどんな過去が隠されていようと…瑞樹が、この日記の主人公と同じレベルの筈がない。
 八代 倖は、特殊な人間だったのだ。身勝手で、人の痛みが分からなくて、自分のエゴのためなら、子供がどうなろうが何とも思わない―――そんな女だったのだ。そういう女が、過去に自分の親を殺してても、別に不思議ではない。子供を犠牲にしたように、親も犠牲にしていた。ただ、それだけのこと―――奏には、どうしてもそういう風にしか思えなかった。

 成田と、成田の母親は、同レベルなんかじゃない。
 それを証明するために、調べあげてやる。

 心のどこかで倖とサラを重ねながら、奏はそんな風に思うようになっていた。


 メモを放り出し、仰向けにベッドに倒れこむ。
 暫し天井を見つめた奏は、ポケットから携帯電話を抜き取り、瑞樹に電話をかけた。
 『―――こちらは、NTTドコモ留守番電話サービスです』
 …東京を発つ直前の電話から数えて、もう、これで3回目だ。

 本当は、倖に対する怒りと、瑞樹に対する使命感で、誤魔化していた。
 蕾夏に対する、震えがくるほどの不安。そして―――信頼していた男の裏切りに対する、激しい怒りを。

 繋がらなくなった電話は、不安を掻き立てる。奏は、何のメッセージも残さないまま電話を切り、携帯電話を投げ出した。

***

 小樽市内の喫茶店で三田典子と会ったのは、翌日の午前だった。

 「成田の代理の、一宮 奏です」
 どこか千里を彷彿させる、ふっくら丸い容姿をした三田典子は、席を立って挨拶する奏を見上げ、呆気にとられたような顔をした。
 「―――…」
 「? あの…、どうかしましたか?」
 「えっ? あ、ああ、いえ、ごめんなさい」
 怪訝そうな顔をする奏に、典子はハッと我に返り、慌てて誤魔化し笑いをした。
 「瑞樹君から連絡は受けてたけど、まさかこういう人が来るとは思ってもみなかったから…。あの、もしかして俳優さんとか?」
 「…ええと、モデルです」
 「やっぱり! はー…、芸能人は、オーラが違うわねぇ…」
 ―――あの、モデルは芸能人じゃないんだけど…。
 訂正したかったが、夢見るような典子のうっとりした目を見ていたら、訂正するのも気の毒になった。奏は、ハハハ、と適当に笑い返しておいて、先に席についた。
 典子も席につき、ウェイターに紅茶を注文した。
 「こんな早い時間に、ごめんなさいねぇ。うちの親が、近所の寄り合いで留守にしてくれるのが、この時間だけだもんだから」
 「いえ、構いません」
 「今日は、急なお仕事だそうだけど―――瑞樹君は、お元気?」
 ―――今、一時的に、どん底にいます。
 なんて、とても言えない。奏は、少しだけ笑顔を引き攣らせた。
 「元気そうですよ。直接お話が聞けなくて残念だ、って伝えるよう言われました」
 「私も残念だわぁ。あの写真の赤ちゃんが、どんな大人になったか、是非見てみたかったのに」
 「…凄く、いい男に成長してますよ」
 奏が言うと、典子は、明るい笑い声を立てた。
 「あらあら。一宮さんみたいな男の人からも言われるなんて―――そんなに素敵な男の人になったの?」
 「ええ。…ルックスも“いい男”だけど―――優しくて、強い男です」
 「そう」
 何故か、典子の表情が、少しホッとしたように緩んだ。
 「同性から評価される位だから、きっと本物の“いい男”に成長したのね。…良かったわ」
 「……」
 ―――知ってるんだな、この人も。
 千里に少し似てるせいだろうか。なんとなく、考えていることが読める。
 この人は、瑞樹が幼い頃、母親に虐待されていたことを知っているのだ。だからこそ―――その傷で、性格的に破綻した人間にはなっていないらしいことを知って、ホッと安堵しているのだ。

 間もなく、紅茶が運ばれてきた。
 ミルクや砂糖をそれに入れた典子は、クルクルとスプーンを動かしながら、少しだけ目を上げた。
 「それで―――瑞樹君からは、瑞樹君に話す筈だったことは、遠慮なく一宮さんに話して欲しい、と言われたんですけど…確認させていただいて、いいですか?」
 「はい」
 「一宮さんは、どの程度、ご存知なんでしょう」
 なかなか、難しい質問が飛び出す。眉をひそめた奏は、慎重に言葉を選んだ。
 「…成田が、小さい頃に体験したことなら、一応。ただ、お母さんの―――倖、さん自身のことは、ほとんど何も」
 「…そう、ですか…」
 小さく息をついた典子は、ティーカップを口に運び、ミルクティーを一口飲んだ。
 カチャリ、とカップをソーサーに戻した典子は、少しの間、無言で考えを巡らせている様子だった。そして、踏ん切りがついたのか、大きく息を吐き出して、顔を上げた。
 「何を話せばいいか、分からないから―――さっちゃんが北海道を離れるまでの間に、私が実際に見聞きしたことを、思いだせる限りお話します」
 「…はい。お願いします」
 「―――さっちゃんは、秋本さんちの1人娘で、転校生でした。出会ったのは、札幌の小学校で―――まだ小2で、大人の事情は私にもよく分からなかったけど、さっちゃんのお母さんがとても厳しい人だったのは、よく覚えてます」
 「厳しい?」
 「“教育ママ”っていうやつでしょうね。…少し大きくなってから、うちの親の話を傍で聞いてて、なんとなく分かったけど…ご両親の仲が、元々、あまり良くなかったみたい。お父さんは当時、何かの写真を撮るお仕事をしてて―――仕事一筋、家族は後回し、っていう人だったそうで、その分…お母さんの関心の全部が、さっちゃんに行っちゃってたのかもしれない。お稽古事させたり、つきっきりで宿題やらせたり―――さっちゃん、いつもボヤいてました。お母さんうるさい、って」
 なるほど。よくあるパターンだ。
 仕事人間で家庭を顧みない夫。夫からの愛情を諦めた分、子供に精神的に依存し、子供を縛り付ける母親―――愛情不足で、夫の地位や子供の成績で自尊心を満足させるタイプ、と、以前、千里が言っていた気がする。
 「で、倖さんは、その“教育ママ”の期待には応えてたんですか?」
 「応えてましたよ。通知表も、いつもいい成績で。ただ、引っ込み思案で人見知りが激しいから、そういう点はよく通知表で注意されてたわねぇ…。そのコメント見るたびに、さっちゃん、“お母さんに叱られる”ってうな垂れてたっけ」
 「…息詰まるなぁ…その家」
 思わず奏が眉を顰めると、典子はくすっと笑った。
 「ねぇ? 私も、さっちゃんの話聞いて、そんな家ヤダ、って思ってたもの。でも、さっちゃんは、お母さんには逆らえなかったみたい。逆らえるほど、まだ大きくなかったしねぇ…」
 そこで一呼吸置いた典子は、また紅茶を口に運んだ。つられて奏も、氷が融けつつあるアイスコーヒーを口にした。
 「…3年生の途中から、4年生の終わり頃まで…さっちゃんが、学校をよく休んでね」
 「え?」
 「さっちゃんのお母さんも働き始めたりしたから、さっちゃんが悪い病気にでもなったのか、って、私も泣いてたんだけど―――ちゃんと学校に来るようになったさっちゃん見ても、特に病気の様子はなくて、安心すると同時に、不思議に思ってたんです」
 「…じゃあ、何で、頻繁に休んでたんですか?」
 いわゆる登校拒否だろうか、と首を傾げる奏に、典子は初めて、苦々しい表情を見せた。
 「―――中2の時、さっちゃんの両親が離婚した時になって初めて、さっちゃんから聞いたけど」
 「…はあ…?」
 「ちょうど、その頃ね。さっちゃんのお父さんが、何故か知らないけど、失業しちゃって―――慣れないお酒に溺れて、さっちゃんにも暴力を振るってたらしいんです」
 「……」

 ―――成田の母親も…親に、暴力を?
 “虐待をする親の多くが、自らも虐待の被害者であったケースが多い”という話が、ふと頭を過ぎった。
 3年生の途中から、4年生の終わりまで―――その間ずっと、であれば、約…1年半。けれど…1年半が、それほどの禍根を残す長さなのかどうか、奏には分からない。虐待被害者が成長して加害者になる、という話にしたって、統計から見ればそうだ、というだけのことだ。

 「最初は、お母さんを殴ったらしいけど―――びっくりして、さっちゃんが止めに入ってからは、さっちゃんが。…中2になっても、小学生にしか見えないような小柄な子だったのに、大人に手加減ナシで叩かれたなんて…本当に、可哀想で」
 「離婚原因は、やっぱり…それ、ですか」
 「さあ。ただ、暴力を振るわれてたのは一時期で、その後は、お父さんも何かの仕事に就いて、静かな生活に戻ったそうなので―――発端はそれでも、結局は夫婦仲が冷めた、っていうのが原因だと思いますよ」
 「…そりゃあ…そうだろうな。娘に手を挙げる父親なんて、いくら改心しても、一生やってけるとは思えないもんな…」
 奏が呟くと、何故か典子は、酷く冷ややかな目になった。
 「私は、そうは思いませんよ」
 「えっ?」
 「だって、さっちゃんのお母さん、さっちゃんを庇わなかったんですから」
 「……」
 思いもよらない話だった。
 自分を庇って飛び出して、それで殴られるようになった娘を―――庇わなかった? そんな馬鹿な。
 「私から言わせれば、暴力振るった父親も、殴られる娘を助けなかった母親も、親失格ですよ。娘に酷いことしたから離婚なんて、あの母親が言うとは思えません。単に、自分が1回殴られたことで、愛が冷めたんじゃないかしら」
 やはり、倖の側に立っているからだろう。朗らかなタイプの筈の典子だが、倖の両親の話をするその目はずっと冷ややかで、興奮のせいで声も2音ほど高くなっていた。
 「それにあのお母さん、外で働くようになって、見るからに派手になったし。元々夫婦円満じゃなかったんだから、そういう妻を見ててご主人も嫌気がさしてきたって不思議じゃ」
 「で、あの! 離婚後、倖さん、は?」
 黙って見てたら、このまま倖の両親への憤慨を並べ立て始めそうな気がする。奏は慌てて、先を促した。
 「え? ああ、ええと―――さっちゃんは、結局、お母さんに引き取られました。“八代”って苗字を見れば、お分かりのとおり」
 「でも…亡くなったんですよ、ね? そのお母さん」
 「ああ…」
 典子の目が、少し、細められる。
 「ええ。物干し台から落ちて。中3の夏休みに。運悪く」
 「事故、ですか」
 思い切ってそう訊ねると、一瞬、典子は目を丸くし、それから可笑しそうに笑った。
 「いやだ、当たり前じゃないですか。警察もちゃんと調べましたよ。落ち方や物干し台の壊れ方から見て、老朽化が原因なのは間違いない―――物干し台には人為的に細工した跡もなかったし、家の鍵はかかっていたから、誰かが突き落とした可能性もない、って」
 「でも、合鍵で入った、って可能性は…」
 娘の倖なら、持っていて当然だ。そう思って訊ねると、典子はあっさり、それにも首を振った。
 「合鍵禁止のアパートでしたから、執念深いストーカーが勝手に作ったりしない限り、それはあり得ませんよ。合鍵をさっちゃんに持たせられないこともあって、お母さん、昼の仕事から夜の仕事に転職したんですし」
 「…そうですか…」

 では―――あの日記の言葉は、何なのだろう?
 文面から、もし倖が本当に誰かを殺めているのなら、それは母親だろうと―――そう思っていたのに。
 単なる、倖の妄想? それとも、母に詫びなくてはいけない、また別の誰か、ということなのだろうか。それとも―――何か、母親の死で見落とされた部分があるのだろうか。

 もう少し、その母親の死について聞いてみたかったが、奏が質問するより早く、典子が話を続けた。
 「ああ、話を戻さないとね。ええと―――お母さんが亡くなった後のさっちゃんは、夏休み明けから、もう学校には来なくなりました。離婚したお父さんを頼って、札幌の中心部に引っ越してしまって」
 「え? じゃあ、父親に引き取られたんですか?」
 意外に思って奏が目を丸くすると、典子は、ちょっとバツの悪そうな顔をした。
 「いえ、籍は八代のままだったけど、お父さんと半年だけ同居してたんですよ。ただ…お父さんの所には、お父さんの関係者の方が、出入りしてたみたいで」
 歯切れの悪い言い方で、なんとなく、想像はついた。
 つまり、だ。暴力を振るって離婚した父親には、既に新しい恋人がいた訳だ。
 「…お父さんは、引き取るつもりだったみたいだけど、さっちゃん、嫌がって―――それで、東京の全寮制の高校に入学しちゃったんですよ。お父さんに学費を出してもらって」
 「…なるほど」
 「私も、そういう話、全部、さっちゃんが高校に入学してから、電話で知ったんですけどね。以来、さっちゃんは、札幌には戻ってきてませんよ」
 「一度も?」
 「ええ。一度も。私の結婚式の時にさえ」
 やはり、その点は、幼馴染として悲しいものがあったのだろう。典子は、寂しげな笑みを浮かべた。
 「さっちゃんにとって札幌は、親に暴力を振るわれた思い出と、お母さんが亡くなった思い出が眠ってる町なんです。…足を向ける気になれなかったさっちゃんを、誰も責められないと思いますよ」

 

 同居中の親が昼には戻ってきてしまう、という典子は、あまり長居はできなかった。
 「ごめんなさいねぇ。こんなに忙しなくて。しかも、ご馳走にまでなっちゃって…」
 奏に喫茶店の伝票を取られてしまってアタフタしている典子に、つい苦笑してしまう。たった350円の紅茶に、そんなに慌てることもないだろうに。
 「いえ。お忙しいのに、わざわざありがとうございました」
 「こんなんで、お役に立てたのかしら」
 「はい。伺ったこと、きちんと成田に伝えますから」
 「そう。良かった」
 そう言って、ホッ、と表情を緩めた典子だったが―――何故か、その表情が、急速に真面目な顔になる。
 「―――あの、」
 「はい?」
 「あの…一宮さん、さっき、」
 「?」
 何かを言いかけた典子の目が、躊躇うように揺れる。
 が、結局―――典子は、言いかけた言葉を最後まで言わず、視線を落とした。そして、肩から掛けたバッグを開けて、中から何かを引っ張り出した。
 それは、やたら分厚い、茶封筒だった。細長い形状から察するに、誰かからの手紙だろう。
 典子は、まだ少し迷っているようにその茶封筒を見下ろしていた。が、決心がついたのか、顔を上げ、奏にそれを差し出した。
 「…やっぱり、お渡しします」
 「え?」
 「本当は、瑞樹君以外には絶対手渡すまい、と決めていたんですけど――― 一宮さんに、お渡しします。これを、瑞樹君に渡してあげて下さい」
 ―――成田に?
 驚いて、茶封筒の表書きを見ると、そこには小樽市の住所と“三田典子様”という宛名が書かれていた。誰からかを確認しようと、裏返してみたが、差出人名はなかった。
 「さっちゃんからの、最後の手紙です」
 「―――…」
 「瑞樹君以外には、読ませたくないんです。とても大切な手紙ですから、郵送もできずに、ずっと保管してました。ですから、一宮さん―――絶対に読まずに、瑞樹君に渡して下さい。お願いします」
 「……」
 どういうことか、よく分からなかったけれど。
 「…分かりました。オレは、絶対読みません。必ず、成田に渡しますから」
 奏が、笑みを作ってそう言うと、典子は心底、肩の荷が下りたような笑みを浮かべた。

 

 典子を見送ってすぐ、瑞樹の携帯に電話をしてみた。
 しかし、お馴染みのアナウンスが返って来るばかりだった。
 ―――どうなってんだよ。
 これでもう、昨日から5回目だ。電池切れでも起こしてるのだろうか? それとも―――…。

 ―――考えるな。
 考えたら、前に進めなくなる。

 不安に、脈が速くなる。今すぐ飛行場へ直行したくなる気持ちをぐっと堪え、奏は顔を上げた。

***

 初めて訪れた筈の札幌で、奏は、異様な既視感を覚えた。
 そして、待ち合わせの相手を待つ間、ぼんやり風景を眺めていて、その答えが分かって笑いそうになった。
 ―――名古屋とそっくりじゃん、ここ。
 日本に居た頃、一度だけ、名古屋には行ったことがあったのだ。どっちがオリジナルなんだろう、なんて、どうでもいい事を考えながら、相手を待った。
 どうでもいい事でもいいから、考えていないと、もたない。
 繋がらない携帯電話のことを考えると、胃がキリキリ痛くなる。悪い想像ばかりしてしまって―――やっぱりOKしなければ良かった、ずっと2人の傍についていれば良かった、と、後悔に押しつぶされそうになる。
 どうでもいいネタも尽きかけて、また携帯のことに頭が行ってしまいそうになった時。

 「一宮さんですか」
 背後から声をかけられ、奏は慌てて振り向いた。
 立っていたのは、小柄な男性―――と言うより、老人、に近い。顔の色艶は見事なものだが、白髪や刻まれた皺から、若く見えるがきっと70は越しているな、と推測できる。
 「…桑原さん、ですか」
 奏が、呟くように訊ねると、元気いっぱいそうなその老人は、満面の笑みで会釈した。

 

 この季節、屋内で話をするなんてもったいないですよ、というアウトドア派の桑原氏とは、公園のベンチという、ちょっと不思議なシチュエーションでの会話になった。

 「あの秋本の孫が、カメラマンになぁ…。いやあ、血筋ってのは怖いねぇ」
 奏が自販機で買ってきた缶コーヒーを啜りつつ、桑原は愉快そうに笑った。
 「桑原さんは、秋本さんとは親しかったんですよね」
 そのようなことが、瑞樹のメモに書かれていたと思う。コーラのプルトップを引きながら奏が訊ねると、桑原は軽く頷いてみせた。
 「親しかったよ。横浜時代に、随分と懇意にしてた。それが、奴が北海道へ行ってしまって、ちょっとがっかりしていたところへ、僕も北海道へ飛ばされてねぇ。運命とは全く、おかしなもんだ」
 瑞樹メモによれば、桑原という人物は、現在はフリーライターをしているが、若い頃は瑞樹の祖父・秋本と同じ、日和新聞の社員だったらしい。社会部の記者、とあったが、秋本との詳しい関係は書いてなかった。
 「秋本さんとは、やっぱり、日和新聞で出会ったんですか」
 「いやいや。僕はずっと日和だけどね。横浜で出会った当時は、奴は、雑誌社と契約しているカメラマンだったんだよ」
 コーヒーをぐい、とあおった桑原は、缶を傍らにコトリと置き、ふー、と大きく息をついた。
 「同い年ということもあって、ジャーナリストの親睦会で意気投合してねぇ。畑が違う分、逆に変なライバル心がなくて、付き合ってて楽だったんだよ。知り合ったのは、えーと―――25、6の時、かな? 結婚して、娘さんが生まれたばっかりの頃だよ」
 いきなり、“娘”の話が出てきて、ギョッとした。飲みかけていたコーラにむせそうになった奏は、ちりちりとした喉の刺激を堪えて、なんとかコーラ飲み込んだ。
 「む、娘、って―――倖、さん。ですか」
 「そうだよ。3社ばかりと契約してて、稼ぎのいいカメラマンだったからね。結婚は22だか3だかの頃だったらしい。まあ、びっくりするほど若い訳じゃないが、僕の周りじゃダントツで早かったねぇ」
 「…はあ…」
 「まあ、奴にも、家庭に理想があったんだろう」
 そう言うと、桑原は腕組みをし、どこか遠くを眺めた。
 「秋本は、あまり裕福な家庭に生まれてなくてね。大勢いる兄弟の末っ子で、子供の頃は、たまたま見つけた壊れたカメラをオモチャにして遊んでたらしい。それでまあ、その流れで写真に目覚めちまって―――余計もん扱いされる家の中で、カメラだけがあいつの拠り所みたいな子供時代を送ってたらしい。プロになって、この家を出てってやる―――そんな野望を、ずっと抱いてたんだろう」
 「……」
 なんだか―――その姿は少し、瑞樹とダブった。
 虐待され、母に秘密を守るよう強要され―――家の中はきっと、瑞樹にとって辛い場所だっただろう。
 以前、あのM4を手に入れたのは、10歳の時だと聞いた。瑞樹も…秋本同様、手にしたカメラに、一筋の希望を見出していたような気がする。
 「実際、奴は、凄いカメラマンだったよ。雑誌だけじゃなく、広告でも随分活躍してたようだし。ただ…家族運は、なかったなぁ。家出同然に出てから、結局、死ぬまで一度も戻らなかったと思う。そういう奴だから、収入が得られるようになって、真っ先に欲しがったのが“家族”って訳だ。カメラだけが命みたいな奴でも、ま、寂しい気持ちはあって当然だからな」
 「あの、じゃあ―――横浜での生活には、満足してたんですよね。だったら…なんで、北海道に?」
 首都圏で、順風満帆なカメラマン人生を送っていたのなら、仕事柄を考えても、そのまま首都圏に留まるのが普通のように思える。何故秋本は、北海道へ移り住んだのか―――その辺が、どうにも疑問だ。
 奏の問いに、桑原は、うーん、と渋い顔をして頬の辺りを掻いた。
 「ううむ…何で北海道なんだ、と言われると、難しいところだけどねぇ…。実は、奴は、30歳になったのを機に、写真集を出版してな」
 「写真集?」
 思わず、ドキリとする。
 勿論、その単語が一般的な“写真集”を意味するのは、分かっている。けれど―――写真集は、瑞樹と蕾夏の未来を意味する、重要なキーワードだ。反射的に、奏の心臓は、トクンと高鳴った。
 「そう。奴は元々、バカがつくほどの芸術家でね。雑誌写真も広告写真も、食うために撮ってるだけ―――本当に撮りたいもんは別にある、ってずっと言い続けてたんだ。で…、30になり、羽振りも良くなったんで、北陸地方をぐるっと一巡りした風景写真集を作って、発表したんだ。そうしたらまぁ、これが売れてね。実際、いい写真集だったよ。ああ―――持ってきたんで、瑞樹君とやらに渡してやってくれ」
 「えっ」
 そう言って、桑原が奏に差し出したのは―――変形A4版の、かなり古びた写真集だった。

 表紙を見た瞬間、思った。
 ああ―――どこかに、同じ空気が流れてる、と。

 時田譲りで、写真を見る目に関しては、かなり自信がある。そういう奏の目に、写真家・秋本の写真は、とても清々しい、おおらかなものとして映った。
 勿論、テイストはまるで違う。アングルも違う。ただ―――目をつける被写体が、どことなく瑞樹と共通している。切り取られた北陸地方の四季は、花や虫といった分かりやすい被写体以上に…人間や、人々の暮らしのワンシーンが多かったのだ。
 そして、目を惹いたのが、色。
 どの写真も、鮮やかな色が印象的。どこか懐かしさを感じる瑞樹の写真とは逆に、秋本の写真は、すっきりと鮮やかな、明朗な写真だった。

 「色が、いいだろう?」
 写真集を無言でめくる奏に、また缶コーヒーを手にした桑原は、そう言ってニヤリと笑った。
 「奴の写真は、“色”が命なんだよ。広告業界でも、それでもてはやされてた。その写真集が売れたのも、やっぱり“色”によるところが大きいだろう。ま…、そういう訳で、秋本はカメラマンとして欲が出てきて―――昔から憧れてた北海道の四季を撮る決意をしたわけだ」
 「…って、え? じゃあ、個人で出版する、写真集のために―――…?」
 ちょっと、意外だったが…フリーの人間なら、その方が自然なのかもしれない。企業に属している人間とは違い、会社側の都合で転勤など、あり得ない立場なのだから。
 「そういうことさ。勿論、写真集が出来上がるまでには時間が必要だし、その間、貯金を切り崩す訳にもいかない。だから、旅行雑誌と契約して、北海道の写真を撮ってたんだよ。評判良かったねぇ、あのシリーズも」
 「…じゃあ、その、北海道の写真集は…」
 あって、当然だろう。その話の流れなら。
 なのに、桑原の顔は、一気に苦い表情に変わった。眉根を寄せ、腕を組み直し、明らかに奏から視線を逸らしている。
 「…出版、されなかったんですか…?」
 「―――…というよりな。完成するだけの写真を撮り終える前に―――ハプニングが起きたんだよ」
 「ハプニング?」
 はあ、とため息をついた桑原は、思い出すのも辛いと言った顔を、奏に向けた。

 「北海道へ渡った翌年―――34歳の時。秋本は、突然、目を患ったんだよ」
 「―――…えっ?」
 「独特の鮮やかな色を売りとしていた、奴が―――大病を患ったのをきっかけに、色覚異常のハンディキャプを背負ったんだよ。…正常な色覚は、二度と戻らんかった。最後までな」
 「―――…」

 それは―――あまりにも。
 残酷、すぎると、思う。
 カメラだけが拠り所、自分の才能だけを信じて、脇目も振らずに走り続けてきた男が―――よりによって、一番大事な“目”を患うなんて。
 勿論、色覚異常があっても、写真は撮れるだろう。けれど…“色”を大事にするカメラマンにとって、色が正しく見えないのは、致命的だ。人によっては、赤が緑に見えるという、奏では想像のつかない見え方をするらしい。緑の森にカメラを向けて、そこに映るのが、真っ赤な森だとしたら―――正しい色を知っているだけに、辛いだろう。

 「…ショックのあまり、撮れなくなってねぇ…。旅行雑誌との契約も切られるし。元々、飲んだりする奴じゃあなかったんだが、あの時期は荒れたよ。ちょうど、僕が北海道へ異動になったのと同じ時期で、久々に会ったあいつの痩せこけた顔見て、このままじゃ死んじまうと思った位だったよ」
 「…あ…あの、家族、は」
 手にしていた写真集を閉じ、奏は、少し身を乗り出した。
 「家族は、どうしたんですか。その…秋本さんが、失業した状態で…」
 時期を考えれば、ピタリと当てはまる。
 ある予感を感じながら、奏が訊ねると、案の定、桑原の顔が余計渋くなった。
 「…どうしても、言わなきゃならんかね」
 「…成田が知りたがってる、一番核の部分なんです」
 「……」
 「お願いします」
 さらに、詰め寄る。観念したのか、桑原は大きなため息をつき、頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
 「…まあ、瑞樹君とやらからすれば、自分の母親の子供時代のことだからなぁ…。気になるのも、仕方ないか」
 「…教えて下さい」
 「―――自暴自棄になって酒に溺れた秋本に代わって、奥さんが働きに出てたらしい。撮ることが人生みたいな男が、昼日中から家で飲むしかないんだ、心も荒むさ。それとは対照的に、奥さんはだんだん服装が派手になって、化粧も濃くなって―――そういう男じゃ、ない筈なんだがな。ちょっとした諍いから、手を挙げてしまったらしい」
 「……」
 「たまに帰ると懐いてくれてるように見えた娘さんまでが、奥さんに味方するのが、我慢できなくて―――こんな目になっちまった自分なんざ、もう誰にも必要とされてないんだ、と自棄になったんだな。酔っ払って理性を失うと、つい、娘に手を挙げてしまう。しかも、加減が分からないから、娘さんが気絶しそうになるほど、暴力を振るってしまう―――そんな自分が嫌で、毎日泣いてたそうだ。…僕が知ったのは、奴が離婚した後だよ。秋本の奴、泣きながら僕に懺悔してた。人前で泣くような男じゃなかったんだがなぁ…。あの一件で、あいつは、いろんな意味で変わっちまったんだよ」
 「…そ…です、か」

 奏の視線が、手元の写真集に落ちる。

 誰もが、必死だっただけ。
 でも、誰もが少しずつ、間違ってて、すれ違ってて…歯車が合わない。
 自分でもどうにもならない、激情―――奏は、少しだけ、秋本という男の気持ちが分かる気がした。酒に溺れる日々にピリオドを打った時―――彼がどれほどの罪悪感に苛まれ、どれほどの罪を背負ってその後の人生を歩んだか。それが、分かる気がした。
 こんなにも必要なのに、手に入れられなくて。
 仕方ないんだ、これが運命なんだ、そう言い聞かせても、体の中で暴れてしまう、憤り・悔しさ・絶望―――蕾夏は絶対に手に入れられないと悟った時、奏が感じた感情は、どこか基本的なところで、秋本の激情に似ている気がする。

 命賭けるほど、焦がれて、焦がれて、焦がれ続けたもの。
 それが、打ち砕かれて、絶望して―――止まらなかったのだ。自分のバカさ加減を、頭の冷静な部分が、ちゃんと分かっていても。

 「―――あんたは、秋本の孫の、代理人だろう?」
 俯く奏に、桑原が、苦笑を滲ませながら、声を掛けた。
 「あんたが泣く理由なんて、なーんもなかろうが」
 「……泣いて…ません」


 痛くて。
 秋本も、その妻も、そして…倖も。みんなみんな、痛くて。
 どの痛みも、どこかで、繋がってる。瑞樹の痛みに、蕾夏の痛みに、そして…奏自身の痛みに。

 みんなみんな、痛すぎて―――涙を、堪えることができなかった。


***


 車窓を流れる景色をぼんやり眺めながら、奏は、ある1つのことを考えていた。
 それは、何故か、倖のことではなく―――秋本のことだった。

 『余計もん扱いされる家の中で、カメラだけがあいつの拠り所みたいな子供時代を送ってたらしい』

 『独特の鮮やかな色を売りとしていた、奴が―――大病を患ったのをきっかけに、色覚異常のハンディキャプを背負ったんだよ。…正常な色覚は、二度と戻らんかった。最後までな』

 ―――…成田…。
 視線を、手元に落とす。
 手の中の、携帯電話。電車に乗る前、祈る思いで電話をしたのに―――やはり、繋がらなかった。

 瑞樹と秋本では、大きな違いが、1つある。
 秋本にとって、唯一の拠り所は、カメラだった。家族がいなくても、恋人がいなくても、カメラがあれば生きていけた。
 でも、瑞樹は、違う。
 瑞樹の唯一の拠り所は、蕾夏。
 たとえ写真を撮ることができても、最高傑作を生み出せたとしても―――蕾夏がいなくては、生きていけない。あの、別人のように弱々しい背中が、それを物語っていた。

 母親に虐待され、心を閉ざし、挙句にはその命まで奪われかけて。
 膝を抱えて、丸まったまま生きてきた瑞樹が、唯一、手を伸ばして掴んだ存在。

 …もしも。
 もしも、失ってしまったら―――瑞樹は、どうなる―――…?

 「…蕾夏…」
 頼むから―――戻ってきてやって。
 オレのことなんて、どうでもいい。オレは十分、他から幸せを一杯もらって生きてきた。実の親に育てられなくたって、たった1人、本気で惚れた女に、一生消えない罪悪感を持ってたって―――オレは、生きていける。
 でも、成田は…あんたがいなければ、生きられなくなるから。
 蕾夏―――戻ってきてくれ。成田のために。


 携帯を握り締め、ぎゅっと目を閉じる。
 電車のスピードが緩み、車内アナウンスが、間もなく新千歳空港に到着することを告げた。
 とにかく―――東京に戻ったらまず、蕾夏の部屋を訪ねなくてはいけない。一体、どうなったのか―――何故、携帯が繋がらないのか、一刻も確かめなくては。そうしなくては…奏の神経が、もたない。
 与えられた任務が終焉に近づくに従い、避け続けていた不安が、どんどん胸の奥に蓄積していく。その重みにふらふらになりながら、奏は立ち上がり、携帯電話をポケットにしまおうとした。

 途端。
 手の中で、軽快な着信音が、鳴った。

 「―――…!!」
 慌てて、携帯電話を開くと、メールを1通受信した旨のメッセージが表示されていた。
 鼓動が、速くなる。焦る気持ちを抑えながら、奏はメールを開いた。
 そして、その内容に―――空港駅に到着したばかりの電車のドアが開くと同時に、外へと飛び出した。

 

 『 遠くへ行ってきた。今、東京に向かっている。

  奏。 お前が帰って来るのを、羽田で待ってる。』


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