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― the World Ends -1- ―

 

 静寂の中、いきなり鳴った着信音に、瑞樹は、テーブルの上に投げ出したままの携帯電話を手に取った。
 小窓に表示された文字を確認すると、うんざりしたように携帯をまた放り出す。着信音は、その後、数回続き―――諦めたように切れた。

 窓から射し込む光の色が、夕方の色へと変わりつつある。
 窓枠が掛布に落とす影を、暫し、ぼんやりと眺める。視線は、布地の表面をゆっくりと滑り―――やがて、半身を起こした状態の蕾夏へと向けられた。
 蕾夏も、ぼんやりと、窓枠の影を眺めていた。
 夢うつつの表情―――いや、実際に、夢と現実の狭間を漂っているのだろう。目は開けていて、体も起こしてはいるが、眠っているのとさして変わらない状態かもしれない。


 今、蕾夏が逃げ込んでいる世界。
 その世界がどこなのか、瑞樹は知っている。
 あの日…母に殺されかけて、それまでギリギリ保ってきた“何か”が壊れた時―――瑞樹が、逃げ込んだ世界。その後、何年もの間、その世界と現実との間を行き来しながら生き続けた世界。多分…蕾夏と出会うまで、ずっと引きずり続けた世界だ。
 説明するのは、難しい。きっと心理学者は“自閉”なんて言葉を使うだろう。…確かに。自分の殻の中に閉じこもり、外界を遮断しているのだから、いわゆる“自閉した状態”かもしれない。でも…少し、違う。
 一番、似ているもの。それは多分―――“死”だ。
 痛みも、苦しみも、怒りも…全部、死んでいく。殺さなくては、生きられないから。生きなければならない、という本能が、痛みを感じる自分を殺していく―――何をしても、されても、心は動かない。生きてるけど、死んでる。そういう世界だ。

 生きるのが、楽な世界。
 けれど―――生きてる意味のない世界。
 …やっぱり、一番似ているのは、“死”だ。


 また、テーブルの上の携帯が鳴った。
 「……」
 無意識のうちに、眉間に皺が寄る。もしかして、この調子で、繋がるまで何度もかけてくる気でいるのだろうか? 迷惑にも程がある。
 舌打ちした瑞樹は、ベッドに預けていた体を起こた。その弾みで、蕾夏の手を握っていた左手が外れかけた。

 その刹那。
 蕾夏の手が、追い縋るように、瑞樹の手を緩く握った。

 はっ、として、蕾夏の方を見る。けれど、蕾夏の視線は、まだ窓枠の影の辺りに向けられていた。
 いまだ、曖昧な世界を漂ったまま―――無意識なのか何なのか、その手だけが、何かを探してるみたいに、瑞樹の手を何度も握り直そうとする。その動きは酷く緩慢ではあるが、指先を包む温もりが消えるのを恐れているのは、伝わってきた。
 「…大丈夫」
 小さく呟いた瑞樹は、蕾夏の手を、改めてしっかり握った。そして、空いた手で、留守番電話サービスに繋がるギリギリ直前である電話を取った。
 「―――…もしもし」
 『あっ、成田さんですか? どうもどうも、“I:M”の梶尾です』
 液晶に表示されたとおりの人物が、明るい声で名乗る。手もみする姿まで目に浮かんできそうな声に、ますますうんざりした気分にさせられた。
 「…どうも」
 『“こどもの日”、いいお天気になりましたねぇ。お出かけ中ですか?』
 「…何の用ですか」
 さっさと用件に入れ、とばかりに、抑揚のない声で切り返す。敵は、ハハハ、と誤魔化すような笑い声を立てると、これっぽっちも悪いと思ってない口調で、
 『申し訳ないんですが、明日の朝1で、撮影同行をお願いできませんかねぇ』
 とのたまった。
 勿論、答えは、1つだ。
 「できません」
 『え、どこかへお出かけですか?』
 「ともかく、お断りします」
 『いやいや、そこを何とかお願いしますよぉ。2時間! たった2時間で、絶対上がれる撮影ですから!』
 まともにやったら2時間では絶対に済まない仕事を、無理矢理2時間に詰め込むそのやり方が嫌いなんだ、ということを、相手はまだ理解していないらしい。
 「無理ですから」
 『天候不良で、スケジュール狂っちゃった撮影なんですよ。こっちも大弱りなんです。ギャラにちょっと色つけさせてもらいますから、』
 「―――撮れねーっつってんだろ」
 瑞樹の声が、一気に殺気を帯びる。電話の向こうで、ギョッとしたように口を閉ざす気配がした。
 「色つけるんなら、他のカメラマンに頼んで下さい。ともかく、俺は明日は無理です」
 『…あ…あのー、成田さん? 何かあったんですか? 随分、ご機嫌悪そうですが』
 「事故にあって全身10ヶ所の骨折および打撲です。今にも死にそうなんで、失礼します」
 『えっっ!!!!! だ、大丈夫ですかっ!?』
 「じゃ」
 まだ何か叫びそうな電話相手を無視し、瑞樹は問答無用で電話を切った。ついでに、もう二度と電話してこれないよう、電源までオフにした。
 ―――真に受けんじゃねーよ。そんな重傷だったら、電話に出られる訳ねーだろ、バカ。
 ぽい、と携帯を放り出した時、ふと、奏のことが頭を過ぎった。
 今頃奏は、羽田空港へと向かう電車の中だろう。伝えるべき事は全て伝えたつもりだが、それでも、小樽に着いたら電話してくるかもしれない。
 電話が繋がらなければ、心配するだろうか―――と考えかけて……考えるの、をやめた。
 というより、それ以上、考えられなかった。
 今はもう、蕾夏以外のことを考えるだけの余裕は、残っていなかったのだ。

 「……の…ど」
 微かな呟きに、顔を上げた。
 虚ろな表情のまま、蕾夏は、ほんの少しだけ首を傾けていた。昼食の時起き上がったままのその姿勢に、ちょっと疲れてきたかのように。
 「…のど…かわいた…」
 「……」

 ―――大丈夫。
 まだ、完全に切れてしまってはいない。ちゃんと繋がっている。

 僅かに微笑んだ瑞樹は、ぽんぽん、と握っていた蕾夏の手の甲を叩いた。それを合図に、蕾夏の手が緩み、瑞樹の手がするりと解けた。
 立ち上がった瑞樹は、そういえば自分も喉が渇いていたことに、この時、初めて気づいた。

***

 昨夜、この部屋に駆けつけてから―――まだ、丸1日経っていない。
 蕾夏が、己の感情を露わにして暴れたのは、最初の時だけ―――大声で叫びながら暴れた、あの時限りだった。
 最初に目を覚ました時は、まるで何の反応も示さなかった。が、今は、水を差し出せば飲むし、おかゆも僅かではあるが口にする。文字を綴って見せれば、短いながらも答えが返ってくるから、書かれた内容は一応理解できているのだろう。頭が痛い、気持ちが悪い、そういう生理的なことならば意志を示すし、シャワーを浴びたり洗面所へ行ったりもできる。全ての動作がスローモーションだが、それでも…一応、外からの刺激に反応し、自分の中の変化を表してはいる。
 表していないのは、“感情”だ。
 泣く、笑う、怒る、憤る―――感情は生まれても、それを表に出していない。内に閉じ込めている。多分…13年前の時が、そうだったように。

 ―――どうすれば、感情を爆発させられるんだろう…。
 また眠ってしまった蕾夏の髪を、くるくる指に巻きつけながら、考える。
 前の時は―――奏の事件の時は、まだ、耳が聞こえていた。蕾夏が全てを閉じてしまう前に、揺さぶり、必死に訴え、何とか全てを吐き出させることができた。
 でも…既に、蕾夏の心は閉じてしまっている。音を閉ざし、誰の説得も、誰の励ましも拒絶してしまっている状態では、蕾夏の心に訴えかけるのは困難だ。痛みを直視せずに済む世界にふわふわ漂っている方が楽だから―――そこから戻ってくれば、直視したくないものを突きつけられる、それが怖いから…ますます、奥へと逃げ込む。

 …まだ、完全に断ち切られてはいない。
 眠りついてもまだ、緩やかに握られている手。唯一、瑞樹を瑞樹と認めて、その存在を求めている手。
 大丈夫…まだ蕾夏は、取り返しのつかないほど遠くへは行っていない。今ならまだ、取り返せる。
 でも――― 一体、どうやって?


 すっかり日が沈んで、部屋の中は暗くなっていた。瑞樹は、手を解き、立ち上がった。
 カーテンを閉め、電気を点けたところで、蕾夏の部屋の電話が鳴った。
 「……」
 1杯、水を飲もうと流し台に向かっていた瑞樹は、思わず振り向き、電話を見つめた。
 誰からの電話なのか―――もしかして、旅行に行っている蕾夏の両親かもしれない。定期的に連絡を取り合っているのだから、旅先からかけてくる可能性だってあるのだ。もしそうなら…何と言えばいいだろう? この状況を。
 でも―――誰だったにせよ、蕾夏の部屋の電話に自分が出たりしたら、相手が驚くだけだろう。やはり、出るのはまずい。瑞樹は、電話を無視して、グラスを手に取った。
 呼び出し音が10回鳴ったところで、自動的に、留守番電話に切り替わった。
 『ただいま、留守にしております。ピーという後に続けて、お名前とご用件を……』
 自動案内の音声に続き、ピーという音が鳴った。そしてスピーカーから流れてきたのは―――意外な声だった。
 『瑞樹? 千里です。まだそこにいる?』
 「……!」
 ―――千里さん…!?
 手にしていたグラスを、思わず流しに置いた。何故、千里から―――しかも、蕾夏の電話なのに、瑞樹宛てで電話をかけてくるなんて…一体、どういうことだろう?
 『昨日、奏から電話があって、蕾夏のことを聞いたわ。…蕾夏の様子はどう? もしこの留守電を聞いたら、今日は私、家にいるので―――…』
 「もしもし!」
 録音が終わる前に、瑞樹は電話に駆け寄ると、慌てて受話器を取った。
 『ああ、瑞樹。やっぱりいたのね』
 「……」
 『…蕾夏は、どうなの』
 「…今は、眠ってる」
 チラリと蕾夏の方を窺うと、蕾夏は、体を丸めるようにして眠っていた。電話の音にも、会話にも、目を覚まさない―――当然だ。聞こえていないのだから。
 「奏から電話があった、って…」
 『ええ。昨日、学校の方にね。あなたが奏に暫く外してて欲しいと言った後よ。まだ酷く混乱してて―――それまでの経緯を説明してくれた。何をしたらいいか分からない、と言うから、瑞樹を支えなさい、とだけ伝えたけど…あの子、役に立ってる?』
 千里の心配そうな声に、瑞樹は僅かに笑みを浮かべた。
 「…勿論。あいつがいてくれて、助かってる」
 『そう…。良かったわ。あの子の宿泊先に何度連絡入れても繋がらないから、心配してたんだけど―――もしかして今、そこにいるの?』
 「いや。あいつは、今―――多分、北海道に向かう飛行機の中だと思う」
 『北海道?』
 千里の声が、怪訝そうな色に変わった。
 『北海道、って…奏の話じゃ、今日、瑞樹が行くことになってた筈じゃ…? 蕾夏がそのことを気にして、瑞樹には連絡するな、って奏を止めたって聞いたけど』
 「…俺の代わりに、奏に行ってもらった」
 瑞樹が答えると、千里が、僅かに息を呑んだ。
 『…奏に?』
 「……奏に」
 『何故? 蕾夏が、そんな状況で気にかけてたってことは、きっとよっぽど大事な用件だったんでしょう? それも、仕事とかレジャーじゃなく…多分、あなた自身に関わる。なのに…何故、奏に託せたの?』

 何故―――?
 考えてもみなかった。あの時、それ以外の選択肢はなかったから―――あれが最善策だから、選んだだけだ。
 でも、確かに…少し前の瑞樹なら、蕾夏以外の誰かに自分の傷を晒す位なら、このチャンスを棒に振る方を選んだだろう。あの日記を読んで間もない頃の瑞樹なら―――読まなかったことにすればいい、と、目を瞑り、そのまま、いつ来るか分からない次のチャンスを待つことも諦めていたかもしれない。
 いつ、何が、自分の中で変わったのだろう?
 それは、瑞樹自身にも、よく分からなかった。

 「…奏は、信用できると思ったから」
 その点だけは、間違いなく、自分の本心だ。瑞樹は、説明のつかない気持ちを、そう伝えた。
 「それに、今はあいつ、ここに居るより、少し離れてた方が楽だと思うから」
 『…そうね。そうかもしれないわ』
 電話の向こうの千里も、そう言ってため息をついた。
 『前のことがあるだけに…ね。全員、きつい思いはしてるけど、あの子の立場は微妙すぎて、見てて痛々しいわ。…ありがとう、瑞樹。あの子のこと、信用して、思いやってくれて』
 「…いえ」


 ―――それだけじゃ、ない。
 奏が置かれた立場の微妙さ―――それは単に、以前、自分が“加害者側”にいたせいばかりではない。
 佐野が、“ヒロ”であった、という事実。日本で出来た信頼できる友達が、一番大事な存在を傷つけた、という事実。きっと奏は、今、蕾夏が傷ついているという事実以上に、その事実に打ちのめされている。ここに居て、蕾夏の弱りきった姿や、瑞樹の憔悴した姿を目の当たりにし続けていれば…奏の憤りは、ますます増幅される。増幅されて―――いずれ、爆発する。それだけは、させられなかった。この手ひらに残る、あの後悔がある限りは。
 別に、奏のことを心配したからではない。佐野に情けをかけてるわけでもない。
 ただ―――ここで止めなければ、母に負けると思った。
 奏が後悔するのを分かっていながら、自分の中にある佐野への抑えきれない憤りに負けて、奏の暴走を止めなければ―――結局は同じことだと、いや、自分の手を汚さなかった分、前回以上に最低な人間に成り下がると、そう、思ったのだ。

 ―――それに、あんな男でも、死ねば、悲しむ奴もいるからな。
 そんなことをふと思った時―――あえて考えないようにしてきたことが、瑞樹の脳裏を過ぎった。

 “…あの人、昔から、仕事で上手くいかないことがあると、家族に手を挙げる人だったんだって。ヒロが、まだ小さい頃から―――もう、何度も何度も、ヒロのこと、殴ってたんだって”

 ―――桜庭…。
 苦い思いが、喉の奥に蘇る。
 証拠は、ない。けれど、もう疑いようがなかった。佐野、イコール、桜庭の元弟・ヒロ―――それで、全て辻褄が合う。
 おととい、事務所で桜庭が拾った、MDのケース。あれは、佐野から貰った、今度のショーで使う曲を収めたMDだ。以前、中学時代の話を蕾夏から聞いた時、佐野がディープ・パープルやレッド・ツェッペリンを好んでいた、という話は聞いていたので、そこに並ぶ曲目を見て、瑞樹も納得していた。
 そして、桜庭が言ったあのセリフ―――“元・弟がさ、結構好きで、よく聴いてんだ。特に、ディープ・パープルあたり”。…ヒロも、佐野と同じ系統が好きだという事実。
 それだけでは、決め手にはならないかもしれない。でも…桜庭は、蕾夏の名刺を持っている。そして、佐野が蕾夏を訪ねてきた日の前日に―――桜庭は、瑞樹に想いを打ち明け、拒絶されている。

 ―――何を考えて、佐野に名刺を渡したんだ? 桜庭。
 桜庭が、蕾夏と佐野のことをどの程度知っていたか、それは分からない。もしかしたら、同級生だということしか知らないのかもしれない。でも…あのことがあった翌日に、蕾夏がこの有様だ。到底、切り離しては考えられない。

 拒絶されたのが、桜庭が佐野に名刺を渡した理由なのだとしたら。
 引き金を引いたのは―――自分、なのだろうか。


 『…瑞樹? どうしたの? 大丈夫?』
 受話器から聞こえた声に、瑞樹は我に返った。
 「あ…ああ、悪い。ちょっと、考え事してた」
 『蕾夏は寝てるみたいだけど、あなたはちゃんと眠ってるの? あなたが倒れちゃったら、誰が蕾夏を立ち直らせるの』
 「…大丈夫。ちゃんと、寝てるから」
 まるで息子の心配をする母親みたいだな、と、瑞樹は苦笑した。もっとも…瑞樹自身は、母親にそんな心配をされた経験など皆無だが。
 『…ねえ、瑞樹』
 「なに」
 『自分を、責めないのよ』
 「……」
 『蕾夏がどんな事情でどんな目に遭ったにしても―――それは、蕾夏が下した決断が招いた結果であって、あなたのせいじゃない。どんなにあなたが注意して、慎重に蕾夏を扱っていたとしても…あなたの力でこの事態を避けることはできなかった。蕾夏が、自分の意志で動く“生身の人間”である限りは』
 「…ああ。分かってる」
 蕾夏は、人間だ。どんなに周囲が注意しても、自分の意志で動く。目の届かない場所に行ってしまえば、何が起ころうと、それは蕾夏の責任―――どれだけ心配しても愛しても、蕾夏以外の人間には、どうしようもない。
 だからこそ、かつて、あの辻 正孝は、蕾夏を籠の鳥にしようとしたのだ。
 外界から蕾夏を引き剥がし、もう二度と傷つけられることもフラッシュバックを起こすこともないよう、自分の籠の中に閉じ込め、一生眺めて暮らす道を選ぼうとしたのだ。
 あんな愛し方だけはしない―――そう誓った。小さな籠の中に閉じ込めるのも、その美しい羽根をただ眺めて満足するのも、絶対に御免だ、と。だから…この結果は仕方ないのだと―――自分の力でどうなるものでもなかったのだと、諦めている。
 それでも、やっぱり…自分を責めずには、いられないのだけれど―――左手の甲に貼られた絆創膏を見下ろし、瑞樹は苦笑を漏らした。
 「…自分を責めることも、誰かを憎むことも、後回しにしてる。俺は今、蕾夏を取り戻すことしか考えてないから」
 『…そう。良かったわ』
 少し安堵したように呟いた千里だったが、
 『ところで蕾夏だけど、怪我はしてるの?』
 すぐに声の調子を変えてきた。まるで、医師が看護士に、患者の容態を聞くような、淡々とした口調に。
 「いや。手首の外側に擦り傷があるのと、背中が赤くなってただけで、それ以外は特には」
 『隠れてる部分も大丈夫ね? 痛がってるところとかは?』
 「ないと思う。頭痛はしてたけど、今は大分収まってるらしい」
 『そう。なら、怪我や高熱で病院に連れて行く必要はなさそうね。シャワーは浴びさせた?』
 「今朝」
 『大丈夫だった? 性的暴力を受けた女性は、自分の体を傷つけたりするから…。汚された体に対する生理的嫌悪感というか、なんというか…そういうものに駆られて』
 その可能性は、実を言えば、瑞樹も少し懸念した。昨日、奏が話していた高校時代の友達が、やはりシャワーを1人で浴びた時に、体中の皮膚がボロボロになるほど体を擦り続けて、大騒ぎになったらしいから。
 「…その心配はしたけど、とりあえず、大丈夫。…っていうか、そこまで正気に戻ってないと思う。蕾夏は」
 『…確かに、そうかもしれないわね』
 千里の声が、少し、沈んだ。まだ、今の蕾夏は、嫌悪感なんてものが生まれる段階にもない。感覚が死んでしまっている状態―――無意識のうちに、指示に従っているに過ぎない状態。…それは、嫌悪感から異常行動に出る以上に、酷い状態かもしれない。
 『それ以外は、どう? 服の状態とか、鬱血の有無とか…何か、蕾夏がどんな暴行を受けたかを知る手がかり、ないかしら』
 「…服は、多少汚れてたけど、破れたりとかそういうのは、ない。鬱血の類もゼロ」
 『そう。…つまり、(なぶ)られた形跡がない、ってことね。だったら―――長時間、体をまさぐられて嬲られ続けるってのは、時間をかけて蓄積されていくとてつもない恐怖だから、それが無かったのなら、ほんの少しだけ救いがあるわ』
 「…救い、って…」
 あまりに場違いな言葉に、つい、呆れたような声になってしまう。それに気づいて、千里も苦笑を返した。
 『ああ、ごめんなさい。不謹慎よね。瑞樹の言いたいことは分かるわ。その嬲られる時間があったのなら、今回も“未遂”で済んだかもしれない―――悲鳴を上げたり、抵抗したりする隙があれば、都会のど真ん中で起きたことだもの、確かに“未遂”になった可能性は高いと思うわ』
 「……」
 『でもね、瑞樹。今ある現実は、ただ1つ―――今回は、“未遂”では終わらなかった。それだけよ』
 ―――ああ。分かってる。
 ズキリと胸を刺す痛みに、目を閉じる。
 “もしも”、なんて言っても仕方ない。それが現実の全てだ。
 『同じ“未遂”で終わらなかった例で考えるなら―――少しでも、与えられた痛みは少ない方がいい。そう思ってしまうのよ。私は、もっと悲惨な例を、沢山見てきたから―――散々に嬲られ、痛めつけられ、女性としてのプライドを粉々にされた挙句に犯された例を、いくつも見てきたから』
 「…分かってる。ごめん。俺も、ちょっと普通じゃねーから、今」
 『…当然よ。ごめんなさいね。私も、変に冷静に対処しようとしすぎてるのかもしれない』
 まだまだ修行が足りないわねぇ、とぼやいた千里は、大きなため息を一つつき、改めて切り出した。
 『で…、今の蕾夏の状態は? コミュニケーションはとれる状態?』
 「…まだ、朦朧としてる。一応、メモを見せれば、イエス・ノーはちゃんと答える位にまではなったけど…本格的な質問に答えられるレベルじゃないし、生理的な訴え以外、蕾夏から何か訴えてくることもない」
 『放心状態ね―――よほどショックが大きかったんだわ。単に、穢されたという事実に対するショックもあるでしょうけど…あの子のことだから。危険を回避できなかった自分にもショックなんだろうし、その結果、また耳が聞こえなくなったことも―――逃避行動に出た自分の“弱さ”もショックなんでしょう』
 千里の言葉に、瑞樹も頷いた。
 蕾夏なら…あり得るかもしれない。佐野と向き合うことで、13年引きずってきたものから解放されるかもしれない、と一時期希望を持っていた蕾夏だから、余計に―――そのチャンスを得ながら、最悪の結果しか出せなかった自分に、ショックを受けていても不思議ではない。
 「どうすれば―――戻ってくるんだろう」
 思わず、呟く。
 『…難しいところね』
 千里も、少し気弱な声で、ため息をついた。
 『こうすれば確実に戻って来る、と断言できる方法なんて、ないかもしれないわ。本人が、何らかのきっかけで“こんなことしてる場合じゃない”と我に返れば、たとえ辛くても戻ってくるかもしれないし―――どんな大事件も、殻を破って出てきて直視したくないものを直視するよりはマシだ、と思えば、ずっと殻の中に閉じこもったままかもしれない。すべて、蕾夏次第だわ』
 「……」
 『でも―――もしかしたら、その鍵は、あなたにあるかもね』
 「え?」
 思いがけない言葉を聞いて、瑞樹は僅かに目を丸くした。
 「俺?」
 『そう、瑞樹よ』
 「…なんで、俺が?」
 『だって、こんな極限状態の中、蕾夏は最後まで、あなたの北海道行きを棒に振りたくない一心で、奏に頼んだんでしょう?』
 「……」
 『自分の傷より痛みより―――あなたを優先したのよ。蕾夏は。だからもし、蕾夏が殻を破って出てくる“きっかけ”があるとしたら、それは…きっと、瑞樹に関することよ』
 ―――そうだろうか。
 自分という存在に、それだけの力があるのかどうか、まだ自信がない。
 でも…他の人間では駄目だろう、ということだけは、なんとなく、分かる。もし、そんな奇跡を起こせるとしたら―――それは、両親でも幼馴染でもなく、ただ1人…自分だけだろう、と。
 『具体的なアドバイスは、何もできない。ある程度落ち着いたら、きちんと警察に届けることと、ちゃんと専門医に診せた方がいい、ってこと位しか言えないわ。けれど…覚えておいて』
 千里は、瑞樹に言い聞かせるように、言葉を重ねた。
 『蕾夏に奇跡を起こせるのは、瑞樹だけ―――蕾夏が、この世で一番愛していて、一番必要としている、瑞樹だけよ』

***

 コトン、というスプーンを置く音に、瑞樹は、蕾夏の顔を覗き込んだ。
 器の中のおかゆは、半分以上、残っている。けれど、もう蕾夏に食べる気はないようだ。
 瑞樹と目が合うと、蕾夏は、微かに眉根を寄せ、緩やかに首を横に振った。“もう、食べられない”―――言葉には出さないが、その意志は瑞樹に伝わった。
 無理をさせるのも、よくないだろう。瑞樹は、蕾夏の手から器を受け取り、蕾夏の頭を軽くぽんぽん、と叩いた。“気にするな”―――どことなく申し訳なさそうな空気を漂わす蕾夏に、そう伝えるつもりで。

 瑞樹にしても、あまり食欲はなかった。普段なら、全部食べても到底空腹を満たすには少なすぎるようなレトルトのリゾットなのに、全部食べるのがやっとという状態だ。人間の体は、脳でコントロールされてるんだな、と実感する。脳が疲弊してしまえば、いくら空腹であっても、正常な空腹感など起こらないらしい。
 ―――どうすればいい…?
 手早く食器を片付けながら、気づけば、そればかり考えている。
 たとえ耳が聞こえない状態であっても、心がここに戻ってきてくれれば、なんとかなる。現実的な不自由さは、2人で何とか乗り切れる筈だ。心さえ―――心さえ、殻を打ち破って出てきてくれれば。
 “その鍵は、あなたにあるかもね”―――千里の言葉が、脳裏にこだまする。
 それは、自分でも、分かる。でも…一体、どうやって―――…?

 片づけを終え、蕾夏の枕元に戻ると、蕾夏はまた、どこか遠くをぼんやりと眺めていた。
 そっと額に手を置いてみる。熱は、まだ少しあるが、昨晩のような高熱は収まったようだ。午前中にあった薬の副作用による吐き気も落ち着いているらしく、蕾夏の様子は安定している。―――心、以外は。
 少し考えた後、瑞樹は、テーブルの上に置いておいたメモ帳を手に取り、新しいページを開いた。
 サラサラと文字を綴り、蕾夏の肩をトントン、と叩く。蕾夏の目が、宙空から戻って来るのを確認して、瑞樹はその目の前にメモ帳を差し出した。

 『他に何か、食べたり飲んだりしたいもん、あるか?』

 それを読んで蕾夏は、静かに目を伏せ、首を振った。

 『俺にして欲しいことは?』

 再度、差し出したメモに対する反応も、やはり、首を振るだけだった。
 もう1枚、ページをめくり、瑞樹は更に文字を綴った。その手元に、蕾夏の視線が注がれているのを感じる。瑞樹の言葉を聞こうとする位には、この場に心がある、ということだろうか。
 その可能性を信じて―――瑞樹は、三度(みたび)、メモ帳を差し出した。

 『お前がやりたいこと、何でも言ってみろ。叶えてやるから』

 「……やりたい…こと…?」
 それまで、完全な無表情からほとんど動かなかった蕾夏の目が、ほんの少しだけ、丸くなる。
 メモを凝視したまま、緩慢な瞬きが、何度か繰り返される。そして出てきた答えは―――ある意味、予想外。でも、ある意味、納得の答えだった。

 「―――…遠くに、行きたい」
 「……」
 「ずーっと、遠く。…何も、考えなくて済む位、遠く」

 遠く―――…。

 それは、瑞樹も、同じだった。
 直視し難い現実ばかりに取り囲まれている“ここ”から、何もない“遠く”へ―――追い詰められた人間は、みんな、遠くへ行きたくなるのだ。あまりにも“ここ”が辛いから。

 「…遠くに、ね」
 暫し、考えをめぐらす。
 そして―――瑞樹はもう一度、メモ帳をめくり、新たな文字をそこに綴った。

 『じゃあ、連れてってやるよ。遠くに』

 「…遠く、って…、どこ?」
 自分で望んでおきながら、そこに疑問がいくところが、蕾夏の面白いところかもしれない。ふっ、と笑った瑞樹は、その答えを書き、蕾夏に見せた。


 『“この世の果て”まで』


 それは、危険な賭け。

 蕾夏を、暗闇の世界から連れ戻すための―――絶対に勝たねばならない、賭けだった。


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