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― the World Ends -2- ―

 

 ずっと、曖昧な世界を、漂っていた。

 それは、ずっとずっと昔―――中2の秋から暫くの間漂った世界と、どこか似ていた。


 だるくて、だるくて…体も、頭も、だるくて仕方ない。
 全てが朧気で、全てが虚ろ。痛みも、苦しみも感じない。いや…、痛みはあっても、感じるだけの“心”がない。だから―――そこは、とても、居心地が良かった。

 でも―――どうしてだろう。
 なんだか、怖かった。
 ずっとここにいたら、どうにかなってしまいそうで―――もう二度と、ここから出られなくなるような気がして、少し…怖かった。

 気だるさに負けて眠りに落ち、ふと目を覚ました時に、怖くなる。
 でも、手が温かいから…安心する。いつもいつも、冷たくなった手を温めてくれる人がいるから、安心できる。
 優しい手―――髪を梳いてくれる指も、ずっと手を握ってくれている手のひらも、優しい。
 この人の手は、怖くない。ずっとずっと、触れていて欲しいって思う位―――心地良い。少しの間でも、離れてしまうのが怖い。だから、手を包むぬくもりが消えると、不安になって探してしまう。お願い、行かないで―――お願い、お願い、ひとりにしないで。

 ひとりに、しないで。

 …ひとりには、しないで。

 ひとりじゃ、戻れなくなる。
 “そこ”は、辛いから―――見たくないもの、考えたくないもの、一杯ありすぎて辛いから…“そこ”に、戻れなくなる。ずっとずっと、ここで丸まってることしか出来なくなる。
 “ここ”に、居たいの。
 “ここ”に、居たくないの。
 痛くても、苦しくても、辛くても―――“そこ”へ、戻りたい。戻りたい。戻りたい。

 “そこ”で、感じたい。
 ―――何、を?
 …分からない。でも…感じたい。何も感じないのは、楽だけど、居心地がいいけど、嫌なの。なんだか、どんどん…別のものになっていくような気がして―――怖いの。

 ひとりに、しないで。
 離さないで。“ここ”に、置いていかないで。
 連れて行って。この手を、引っ張って行って。

 ―――“どこ”へ…?


『お前がやりたいこと、何でも言ってみろ。叶えてやるから』

 …やりたいこと?

 …遠くへ、行きたい。
 “ここ”は、イヤ。“そこ”も、悲しすぎて、戻りたいけど、戻れない。だから…遠くへ、行きたい。遠く、遠く―――誰も来ない位、遠いところへ。

 『じゃあ、連れてってやるよ。遠くに』

 …遠く…。
 ―――“どこ”へ?


 『“この世の果て”まで』


 ―――“この世の果て”―――…。

 …それは…、どこ…?


***


 「……ん…」
 ガクン、と大きな揺れを感じて、蕾夏は目を開けた。

 頬を、風が撫でる。
 僅かに首を動かすと、さっきは閉まっていた筈の窓が、半分ほど開けられていた。窓の外には、のどかな春の田園風景―――水を張った田んぼに、緑色の稲が、まるで絨毯のように広がっていた。
 ―――どこら辺だろ…、ここ。
 シートベルトが、少し鬱陶しい。手を入れて緩めながら、運転席に目を移す。
 前を向いていた瑞樹の目が、その気配を感じたかのようにこちらを見て―――その目をすっと細めて、微笑む。けれど、それは一瞬のことで、瑞樹は再び視線を前に戻した。
 そう言えば―――車を運転する瑞樹なんて、イギリスで湖水地方を回った時以来かもしれない。
 あの時は、寒くて寒くて、窓なんて全然開けられなかった。途中、凍ってる道もあったりして、随分神経を使うドライブだった。それに比べて今日は―――なんて穏やかな、五月晴れ。渋滞を避けて一般道を選んでいるらしいが、舗装された良い道で、助手席にいる蕾夏はすぐに眠くなってしまう。
 ―――どこに、向かってるんだろう…?
 行き先を、蕾夏は知らない。
 でも―――瑞樹が連れて行ってくれるのなら、どこでもいい気がした。それが、天国でも地獄でも…日曜日の助手席は、こんなにも静かで、穏やかだ。
 カーステレオの上に表示されているデジタル時計は、そろそろ午前11時を回ろうとしている。でも…時間も、どうでもいい気がする。蕾夏は、視線を窓の外へと戻し、のどかな風景をぼんやりと眺めた。


 “この世の果て”に連れて行ってやる―――昨晩、瑞樹はそう言った。
 それが、どこを意味するのか…蕾夏には、分からなかった。けれど、怪訝そうに眉をひそめる蕾夏に、瑞樹は何も説明しなかった。そして蕾夏も、何も訊かなかった。
 昨晩は早々に眠りにつき、なんだか不明瞭な嫌な夢を見て、夜中、何度か目を覚ました。その度に、瑞樹も目を覚まし、蕾夏の様子を窺うけれど―――蕾夏は瑞樹に、何も説明できなかった。ただ、凄く嫌な夢を見た―――目覚めると思い出せないけど、思い出したくない、だから、何も言えなかった。瑞樹も、問い質すようなことはせず、黙って水を差し出してくれた。
 喉を通る水は、冷たかった。
 けれど、その冷たさは、酷く曖昧だった。
 シャワーのお湯の温かさも、口に運んだおかゆの味も…全てが、曖昧。ズキズキ脈打つ頭の痛みすら、確かに痛い筈なのに、痛いのかどうか自分でもよく分からない―――なんだか、自分が人形にでもなった気分だった。

 何故、こうなったのか。蕾夏は、ちゃんと分かっている。
 あの日、何があったのか、自分の身に、何が起こったのか―――ちゃんと、理解はしている。思いがけず佐野と再会し、呪縛を解けるかもしれない可能性に賭けて…失敗した。失敗した挙句、こうなってる。そのことは、分かっている。
 ただ、心が、それに反応しないだけ。
 何も、感じない。絶望も、恐怖も、怒りも…何も。プラスも、マイナスも、感じない。そのことを、疑問にも思わなかった。
 ちゃんと、考えなくてはいけないのに―――耳が聞こえない状態の今、今後の生活をどうしていくか、どうやって音を取り戻すか、ちゃんと考えなくてはいけないのに―――考えが、回らない。考えなくては、という焦りも生まれない。

 まるで、心が、錆びついてしまったみたいだった。
 もしかしたら、眠っている時だけ、心が動いているのかもしれない。だから、嫌な夢を見たような感覚だけが、目覚めた時、残っているのかも―――でも、そんな推測も、今の蕾夏には出来なかった。
 ただ、目覚めるとそこに、瑞樹が居てくれることに、ホッとしていた。
 ホッとして、また、眠りにつく―――そんなことの、繰り返しだった。

 夜が明けて、瑞樹は蕾夏を連れて外に出た。
 まだ早い時間とはいえ、途中、何人かとすれ違った。なんだか、瑞樹以外の人を見るのは凄く久しぶりのような気がして…少し、怖かった。けれど、ずっと瑞樹が手を繋いでいてくれたので、安心していられた。
 どこへ行くんだろう―――瑞樹の考えがよく分からないまま、ただ、瑞樹についていく。すると瑞樹は、まだ一度も入ったことのなかった、駅前のレンタカーの営業所に入った。
 車に疎い蕾夏には、瑞樹が借りた車の車種など、さっぱり分からない。朝日を反射するブルーシルバーの車体は、錆びついた心でも、綺麗だな、とぼんやり思えた。
 どこ、行くの? ―――助手席に座った段階で初めて、蕾夏はそう訊ねた。
 その問いに、微かに口の端を上げた瑞樹は、筆談用のメモ帳にたった一言、“秘密”と書いただけだった。


 ―――“この世の果て”、かぁ…。
 恋愛ドラマだと、禁断の恋に落ちたカップルが、追っ手を振り切って逃げる先が“この世の果て”だったりするよなぁ。僕と一緒に逃げて下さい、ついて行きますこの世の果てまでも、なんて。
 行き先は、永久凍土みたいな地の果てだったり、断崖絶壁だったり、色々だけど。
 中には、“この世の果て”の筈が、“あの世”に行っちゃう話も、あったりするけど。

 どっちにしても壮絶だなぁ…、なんて、どうでもいい事を考えながら、蕾夏はずっと、のどかな田園風景を眺めていた。
 脳裏に浮かんだ“この世の果て”と、目の前に広がる穏やかな光景のギャップに、本当は笑える筈なのに―――ちっとも、笑えない。どうでもいい事を考えられるほどに思考は戻っても、笑えるほどに“心”は戻らない。

 人間って。
 心臓が動いてて、考えることができてるだけじゃ、生きてる意味なんてないのかもしれない。

 でも、どうしていいかなんて―――今の蕾夏には、見当もつかなかった。

***

 途中、サンドイッチや飲み物を買い込み、更に1時間近く走って。
 瑞樹がやっとサイドブレーキを引いたのは、12時を僅かに過ぎた頃だった。
 「ここ?」
 少しキョトンとした目をして蕾夏が言うと、瑞樹は軽く頷き、サンドイッチなどの入った袋を掴んでドアを開けた。どうやら、外で食べるつもりらしい。車外に出る瑞樹の後を追うように、蕾夏もドアを開けた。

 車を止めた場所は、駐車場としての体裁もあまり成していない、砂利道だった。
 瑞樹に手を引かれ、慣れない砂利道を歩き出す。日曜日だというのに、人影は全くない。どうやら、観光地という訳ではなさそうだ。
 吹いてくる風に、微かに、海の匂いを感じる。この先は海なのかな…と思いながら、土手に木の板を埋め込んだ階段をゆっくり上ると―――ふいに、視界が開けた。

 そこは―――いわゆる、岬、だった。
 と言っても、ごつごつした岩場ではなく、海へ向かってなだらかに続く原っぱ、といった風情。横幅はそこそこあるが、奥行きはあまり無くて、数十メートル先の岬の突端から少し右に逸れた所に、いかにも今は使われてなさそうな小さな灯台が建っている。それ以外―――何も、なかった。
 海へは緩やかな下り坂になっているので、ここからでも水平線が見える。小さな船の姿が見えるところを見ると、漁港が近いのかもしれない。
 「…静かだね」
 髪を乱す風を真正面から受けながら、蕾夏は、ポツリと呟いた。耳が聞こえないのだから、静かなのは当たり前かもしれない。でも―――その風景は、とても、静かだった。
 目元にかかった髪を掻き上げていたら、目の前に、メモ帳が掲げられた。

 『いい景色だけど、周りに観光地がないから、マイナーらしい』

 「…へぇ…勿体ないね」
 でも、こういう風景に観光客が一杯だったら、逆に風情がないかもしれない。蕾夏は、ほんの少し、口元を綻ばせた。
 「岬の先に行けば、もっと海、見えるよね」
 さして見たいとは思わなかったが、何となく蕾夏がそう言うと、何故か瑞樹は眉をひそめ、新たなページに綴った文字を蕾夏に見せた。

 『行かない方がいい。柵低くて、危ないから』

 「……」
 改めて、岬の突端に視線を移す。…確かに、蕾夏の腰の高さ程度の柵が、申し訳程度に設けられているだけだ。でも、それだけの高さがあるので、そんなに危険には見えなかった。
 そういう考えが、顔に出たのだろうか。瑞樹は更に、余白に書き足した。

 『死亡事故もおきてるし、自殺者も何人か出てる』

 その一文には、さすがに何も言えず、蕾夏は、ちょっと踏み出しかけていた足を引っ込めてしまった。

***

 ちょうど、近くに手ごろな大きさの岩があったので、2人はそこに腰を下ろして、サンドイッチを食べ始めた。
 少し動いたせいか、おかゆを半分食べるのがやっとだった蕾夏も、自然とサンドイッチに手が伸びる。海風のせいで邪魔になる髪を気にしながらも、蕾夏はサンドイッチを口に運んだ。
 …やっぱり、曖昧な味だ。
 塩コショウの効いている筈のBLTが、薄味にしか感じない。舌が麻痺してるのか、それとも、味を感じる脳が麻痺してるのか…あまりおいしいとは感じられなかった。
 ―――どうしてここに、連れて来たのかな…。
 ウーロン茶を飲みながら、瑞樹の横顔を盗み見る。
 瑞樹は、穏やかな表情で、岬の向こうに広がる海と空を眺めていた。彼が何故、ここを“この世の果て”と言ったのか、どういうつもりで蕾夏をここに連れて来たのか―――単なる気晴らしなのか、それとも何か理由があってなのか…その横顔からは、何も分からない。
 少し、考えてみようと思って―――すぐに、やめた。
 別に、理由なんて、どうでもいい。遠くへ行きたい、と蕾夏が言ったから、遠くに連れてきてくれた。それだけだろう。深い理由など、考えるのが面倒だった。
 ―――でも…あそこから飛び降りたくなる人の気持ちは、ちょっと分かるかもしれない。
 瑞樹の視線を追うように、岬の先端に視線を移した蕾夏は、さっき瑞樹から聞いた話を思い出して、そんなことをふと思った。

 海と空しか、見えないところ。
 広い広い視界に、ちっぽけな自分が、ぽつんと立っている。この世に、重たすぎる荷物を沢山抱えて、それに押しつぶされてぺしゃんこになった自分が。
 疲れてしまった人は、あそこに立った途端、ちっぽけな自分に気づいて、嫌になるのかもしれない。惨めで、情けなくて…消えてしまいたくなるのかもしれない。


 …そうか。
 だから、“この世の果て”、なのかな。
 足を引きずりながら、地べたを這いつくばりながら、なんとか歩いている“この世”。その“果て”に―――ここが、ある。“この世”が終わる場所…終わらせることの、できる場所。
 背負ってきたものが重ければ重いほど、空と海しか見えない景色は、泣きたくなるほど広く、自由に見えるに違いない。ああ、やっと楽になれる…そう思って、ジャンプしてしまう心理は、なんとなく分かる。

 ―――もしも。
 私があそこに立ったら。
 そこから見る景色は、どんな風に見えるだろう―――…?


 無意識のうちに、立ち上がっていた。
 立ち上がった自覚もないまま、何かに誘われるように、歩き出す。酷く緩慢な―――まるで重い荷物でも持ってるみたいな足取りで。
 ただ、見てみたいと思って。
 あそこに立って、空と海の境目のない、広い世界を―――泣きたくなるほど広く、自由な世界を、見てみたいと思って。

 「……っ」
 数歩歩いたところで、手を掴まれた。
 振り向くと、少し怖い顔をした瑞樹が、蕾夏を見下ろしていた。温かい手が、行くな、とでも言うように、更にぎゅっと蕾夏の手を握った。
 そんな、瑞樹を見上げて。
 「…おかしい…」
 蕾夏は、虚ろな笑いを、口元に浮かべた。
 「私が、飛び降りるとでも思ったの…?」
 私ってば、何言ってるんだろう―――頭の片隅でそう思いながら呟いた言葉に、瑞樹の表情が、少し辛そうに歪んだ。
 瑞樹にこんな顔をさせているのに…胸が、痛まない。
 ―――とうとう…壊れちゃったのかな、私。
 錆びたんじゃなく、壊れたのかもしれない。瑞樹に辛い思いさせて平気だなんて。そう思った途端―――なんだか、一気に、自分が生きてる価値がなくなった気がした。
 生きてる価値がなくなった気がして―――虚ろな笑いすら、消えた。

 「…何も…感じないの」
 「……」
 「痛みも、苦しさも、悲しさも…感じない。でも、楽しさも、嬉しさも感じないの」
 「……」
 「…こんなになって、なんで、生きてるんだろ」
 掴まれた手に、視線が、落ちる。
 「一生、こんな私でいるなら…死んじゃった方が、いいのかもしれない…」
 「―――…」

 ―――うん…、そのほうが、いいのかも、しれない。
 甘えた自分が、あまり本気ではなく口にしたセリフに、さっそく頷いてみせる。
 こんな風に生き続けるのは、生きてる意味がない気がする。かと言って、どうすれば“ここ”を出て元の自分に戻れるかなんて、蕾夏にも分からない。そして、もし、戻れたとしても―――そこに待っているのは、痛みと苦しみを直視しなくてはいけない現実だ。
 ここでゲームセットになれば、もう、何も悩む必要もないし、考える必要もなくなる。
 なんて、楽な選択―――全部切り捨てて、この世から自由になる。それは、一番簡単な選択のように、蕾夏には思えた。

 それも、悪くないな…なんて、半分冗談、半分本気で思いかけた時。
 掴まれていた手が―――スルリと、解かれた。

 はっ、として、顔を上げる。
 見上げた先にある瑞樹の表情は、どこか、寂しげだった。寂しげで…少し、悲しげだった。
 「……」
 ―――瑞樹…?
 解かれた手が、寂しくて。
 心もとなさに、思わず手を伸ばしかけたが―――瑞樹は、その手に気づいていないかのように身を翻すと、蕾夏の目の前を横切った。
 驚いて、何も言うことのできない蕾夏をよそに、瑞樹はすたすたと、岬の先端へと向かって歩いていく。何を考えてるの―――瑞樹の考えは分からないが、ただ、なんとなく嫌な予感だけが、蕾夏の胸の奥にこみ上げつつあった。

 岬の先端についた瑞樹は、柵に手を掛け、その向こうをちょっと見下ろした。
 そして、蕾夏の方を振り向くと―――瑞樹は、寂しさを少し残したまま、ふっ、と笑ってみせた。
 ―――な…に…?
 眉をひそめる蕾夏にも構わず、瑞樹は再び、蕾夏に背を向けた。

 そして。

 軽々と柵を乗り越えて―――その向こうに消えてしまった。


 「―――……」

 それが、あまりにもさりげなくて。
 あまりにも、あっけなくて。
 蕾夏は、今、目の前で何が起きたのか理解できず、呆然としたまま、そこに佇むしかできなかった。

 今、自分は、何を見たんだろう?
 瑞樹は今、何をしたんだろう?
 実感があるのは、離されて、急に冷たくなってきた、自分の手だけ。
 ずっとずっと繋がれていた筈なのに―――あった筈の温もりのない、自分の手だけだ。

 ―――…寒い。

 そう感じた瞬間―――蕾夏の目が、丸くなった。

 「み…ずき…?」
 声が、震える。
 心もとない手を、胸元に引き寄せる。ぎゅっと体を縮め、蕾夏は1歩、踏み出した。
 「瑞樹…」
 …いない。
 どうして、いないの?
 さっき、瑞樹は。
 あの向こうに―――…。

 途端。
 世界が――― 一瞬にして、クリアになった。

 「―――…!!」

 襲ってきた現実の衝撃に、足元がよろける。蕾夏は、大きく目を見開き、口元を手で覆った。
 まさか、と、頭の中で、何度も繰り返す。
 そんな筈はない。何かの間違いだ。そう繰り返しても、目に焼きついた光景は、変わらなかった。大した広さもないこの岬には、自分しかいない―――瑞樹が、いない。
 「瑞樹!!」
 名前を、叫ぶ。
 足が、動かない。ガクガクと震えて、動かない。頭が、割れそうに痛かった。どうしよう、どうしよう、どうしよう―――意味のある言葉なんて、何も出てこない。何故、こんなことになったのか、何も出てこない。
 分かるのは、置いていかれたことだけ。
 この手を離して、置いていかれた。もう、ひとりきり―――瑞樹は、ここに、いない。
 ふらり、と1歩踏み出す。
 蕾夏は、何かに背を押されたように、駆け出した。

 ―――置いていかないで。
 瑞樹、瑞樹、置いていかないで。ひとりに、しないで。

 「瑞樹…っ!」
 悲鳴のような声で叫んだ蕾夏は、岬の突端にある柵に、縋るように手を掛けた。
 そして、瑞樹の姿を探そうと大きく身を乗り出して―――次の瞬間、そこに広がる光景に、息を呑んだ。

 「―――……」
 柵の向こうは、まだ、海ではなかった。
 柵を越えたすぐ先には、高さ3メートルほどの急な斜面があって、その先に―――今、蕾夏がいる所よりずっと広い、海に突き出した岬が広がっていたのだ。

 思いもよらない光景に呆気に取られる蕾夏の眼下で、斜面の下に立つ瑞樹が、蕾夏を見上げてニヤリと笑っていた。
 悪びれもせず、軽く手を振ってみせるその様子に、普段の蕾夏なら頭に血が上ってくる筈なのに―――蕾夏は、ポカンとしたままだった。あまりの急展開に、頭も心もついていかず、騙された、と怒るだけの余裕がなかったのだ。
 ―――瑞樹が、笑ってる。
 一旦停止してしまった思考の中で、最初に思ったのは、それだった。
 瑞樹が、笑って手を振っている。瑞樹が―――ちゃんと、そこに、いる。
 蕾夏が、ようやくそう認識できた頃になって、瑞樹が不思議な行動に出た。1歩前に出て、両腕を広げてみせたのだ。
 ―――どういう、意味?
 蕾夏が眉をひそめると、瑞樹はもう1歩前に歩み出て、ほら、という風に腕を差し出した。その姿は、「おいで」と言っているように、蕾夏には見えた。
 ―――と…飛び降りろ、ってこと…?
 高い所は好きだが、高い所から下を見下ろすのはあまり得意じゃない蕾夏にとって、たかが3メートルといっても、結構な高さだ。垂直に近いこの急斜面では、滑り降りるのは難しい。それに、腰の高さの柵を乗り越えなくてはいけない。さすがに、足が竦んだ。

 …でも。
 瑞樹が、おいで、と言っている。
 瑞樹が、下で、待っていてくれる―――蕾夏が来るのを。

 きゅ、と唇を噛む。柵を掴む手が、震えた。
 それでも、蕾夏は―――柵を足を掛けて乗り越えると、柵の向こうにある僅かな地面を蹴って、ジャンプした。

 ふわり、と、一瞬体が浮く。
 うわ、と思った次の瞬間には、容赦ない落下感。
 たった1秒のことが、まるでスローモーションのようだ。悲鳴を上げながら落っこちた蕾夏は、急斜面の終わり間近な所で瑞樹にキャッチされた。が、その勢いで、2人して地面に倒れこんだ。
 ゴロゴロ、と、数度、地面を転がる。そして―――やっと、止まった。

 「……」
 「……」
 暫し、2人とも、地面に転がったまま動けなかった。
 青空が、見えた。
 雲ひとつない、五月晴れ―――真っ青な空が、視界一面に、広がっていた。
 「―――い…生きてた…」
 このままゴロゴロと海まで転がり落ちたらどうしよう、と頭の片隅で思っていた蕾夏は、あまりの空の青さに、思わずそう呟いた。すると、転がったままの蕾夏の頭を、瑞樹の手が、ぽんぽん、と叩いた。
 良かった、瑞樹も大丈夫そうだ。
 そう思った途端。
 怒りが、ふつふつと、こみ上げてきた。
 ガバッ、と蕾夏が起き上がると、蕾夏を抱きかかえていた瑞樹も、自然、起き上がった。蕾夏は、服についた埃を払うことも忘れて、瑞樹の方に向き直り、その胸を1回、拳で叩いた。
 「ひ…、酷いっ!」
 叩いた勢いがあまりに強かったせいで、瑞樹の上半身が、ちょっと傾く。でも、そんなことに構ってはいられなかった。起き上がった際、目の端に信じられないものを見つけてしまったせいで、余計に歯止めが効かなくなっていた。斜めになっている瑞樹を、更にぽかぽかと叩いた。
 「酷いっ、瑞樹、酷い…っ! わ…私、本気で心配したんだから! 瑞樹が飛び降りちゃった、死んじゃったかもしれない、どうしようどうしよう、って――― 一瞬、早く後を追わなきゃ、って思った位なんだからねっ! し、しかも…何あれっ!? 灯台のとこまで行けば、ちゃんとここに下りる階段、あるんじゃないのっ!」
 蕾夏に叩かれながら、瑞樹は苦笑を浮かべて、落ち着け、といったゼスチャーをしていた。が、叩くのを止めないところを見ると、一応、悪かったとは思っているらしい。
 「瑞樹のバカっ! 人を騙すなんて、酷いっ! 嘘でも…嘘でも置いてっちゃうなんて、酷いよ…っ!」
 泣きそうになりながら、力なく振り上げた拳を、瑞樹の手のひらがキャッチした。
 まだ文句を言い足りない、とばかりに開きかけた蕾夏の唇を、指先で制する。条件反射のように黙った蕾夏に、苦笑とは違う不思議な笑みを見せた瑞樹は、受け止めた拳をもう一方の手で開かせた。
 そして、開かれた蕾夏の手のひらに、指で文字を綴った。

 『おかえり』

 「……」
 …お…かえ、り…?

 キョトンとしたように、自分の手のひらを見つめていると、瑞樹が立ち上がり、掴んでいた手首を引いて蕾夏を立たせた。
 瑞樹に手を引かれるまま、海へと突き出した岬の先端へと向かう。こちらも、しっかり柵が設けてあるが、上とは違い、少し離れた所に“危険”というたて看板が設置されていた。
 柵ギリギリのところまで歩きついた瑞樹は、蕾夏の手を引き、自分の前に立たせた。そして、くるりと体の向きを変えさせて海の方を向かせると、その肩をぽん、と叩いた。

 「―――…」

 そこは―――“この世の果て”、だった。

 海に突き出た岬は、右を向いても、左を向いても、陸が全く見えない。見えるのは、目の前にある空と海だけ―――どこまでも、どこまでも、青い空と海だけが、視界に広がっている。
 空と海の境目が、曖昧に思える。
 空の青が、海に溶け込んで、眼下の崖下に打ち寄せる。打ち寄せて、岩に当たって…砕ける。また目を前に向ければ、空とも海ともつかない青い世界が、遠く…どこまでも遠く、続いていた。

 地球の丸さを、感じた。
 かつて、瑞樹と一緒に休日を過ごした、ヘイスティングズ城の丘。あそこから見た、イギリスとフランスの間に横たわる海も、地球の丸さを感じさせた。そして今、目の前に広がる、あの時以上に広い広い海も、ああ、地球って丸いんだな、と蕾夏に感じさせた。

 地球は、丸い。
 丸いから…無限。ここは“果て”だけど、“果て”じゃない。海の向こうに―――また、“ここ”に続くどこかが、ある。ぐるぐると巡って…世界が、繋がっている。

 「……す…ごい……」
 吐息ともため息ともつかない息をつきつつ、呟く。
 蕾夏の顔には、笑みが―――感動した時特有の、キラキラと輝くような笑みが、浮かんでいた。
 全てが、どこかに飛んでいた。耳が聞こえないこと、佐野との間にあったこと、この先に抱えている不安―――全部全部、飛んでいた。蕾夏は、ただ目の前にある感動に突き動かされて、思わず瑞樹を振り返った。
 「すごい! ヘイスティングズで見た海より、地球が丸いよ、ここ!」
 よく考えると意味不明な蕾夏の言葉に、瑞樹は、どこか安堵したような、不思議な笑みを返した。
 「すごーい…これが、“この世の果て”なんだー…」
 視線を、また目の前に広がる海に戻しかけた時。
 急に、肩が、重たくなった。
 「?」
 驚いて、海の方を向くのをやめると、瑞樹の手が蕾夏の肩を掴んで、蕾夏を自分の方に向かせた。そして―――ゆっくりと、抱きしめた。

 「……」
 ―――瑞樹?
 突然、抱きしめられて、ちょっと驚く。
 Tシャツ越しに感じる鼓動が、何故か、いつもより速い気がする。腕の中で身じろぎすると、瑞樹は、もっと抱きしめる力を強くして、蕾夏の耳元に顔を埋めるようにした。
 押し付けられた頬が、熱い。抱きしめられる強さに、ちょっと胸が苦しい。一体、どうしたんだろう―――そう思った時、あることに気づき、蕾夏ははっと息を呑んだ。

 背中に回った瑞樹の手が、微かに、震えている。
 いや、手だけじゃない―――瑞樹の体が、小刻みに震えていた。まるで、暗闇に一人取り残された子供か何かみたいに。

 「…瑞…樹…」
 ―――…泣いてる、の?
 いや、泣いてはいないのかもしれない。でも…震えている。蕾夏を抱きしめながら。
 体全体に伝わる、微かな震え―――それと、“おかえり”という言葉が、頭の中で結びついて…蕾夏は、愕然とした。

 

 ―――…私…、一体、何をしようとしてたんだろう…?
 ううん。一体、何をしてたんだろう? あの時から今まで、ずっと。

 何があっても離れないって、絶対に瑞樹の傍にいるって…あれほど、誓ったのは、私自身なのに。
 生まれて初めて、自分から手を伸ばして、私を必要としてくれた瑞樹を―――私しか要らないと、心から言ってくれる瑞樹を、決して一人になんかしない、って誓ったのは、私自身なのに。
 何をしてたの…? 何をしようとしてたの…? いくら痛いからって、いくら辛いからって―――瑞樹を置き去りにして、一体何を…。
 自分だって、瑞樹に置いていかれて、世界が終わってしまったかのような絶望を感じたくせに。
 瑞樹に同じ思いをさせてたことに、気づかないなんて―――なんて…なんて、バカなんだろう…。


 今、わかった。
 瑞樹は、私をここに、“心”を取り戻すために、連れてきてくれたんだ。
 だって、ほら―――今の私は、いろんな感情を覚えている。
 海の青さ、空の青さ、丸い丸い地球―――ついさっきまで、まるで霧がかかったみたいに曖昧だったのに、今は…全てが、クリアになってる。騙されたことに腹を立てたり、目の前の光景に感動したり…瑞樹が、愛しくて、愛しくて―――愛しくて。そんなことが、普通に、当たり前のように、できてる。

 帰ってきた。
 …帰ってきたんだ。瑞樹がくれた、“この世界”に。

 

 涙が、1粒、こぼれた。
 どの感情からくる涙か分からない涙が、こぼれて、頬を伝って、落ちた。
 それが、きっかけとなって―――閉じ込めていた涙が、堰を切って、溢れた。怒り、悲しみ、後悔、愛―――全部全部、止めることができないほど、溢れた。

 堪えきれず、蕾夏は瑞樹にしがみつくと、声を上げて泣いた。

 やっと―――やっと、子供みたいに大声を上げながら、泣くことができた。


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