←BACKInfinity World TOPNEXT→




― the World Ends -3- ―

 

 海風が、随分と強くなっていた。

 視界を邪魔する前髪をうるさそうに掻き上げた瑞樹は、上から持ってきたペットボトルが風に飛ばされそうになるのを見て、慌ててそれを掴んだ。
 チラリと、隣に座る蕾夏の横顔を窺う。
 膝を抱えた蕾夏は、泣き腫らした目で、まだ海を眺めている。瑞樹のウーロン茶は、風に飛ばされそうなほど残り僅かだが、蕾夏の足元に置かれたペットボトルの中身は、まだ半分以上残っている。涙は収まったものの、まだそこまでの余裕はないらしい。

 かれこれ、30分以上。2人は、黙って、海を眺めている。
 柵の前に腰を下ろし、できる限り身を寄せ合う。それは、さっき、上でサンドイッチを食べた時と似たシチュエーションでありながら、まるで違っていた。

 ちゃんと、ここにいる。
 隣に座る蕾夏の存在が、ちゃんと、“ここ”にある。
 鍵は瑞樹が握っている、という千里の言葉に対しては、正直、半信半疑だった。それでも、夢うつつの最中でも、決して離そうとはしなかったこの手―――それだけに賭けた。瑞樹がいなくなったショックに、蕾夏がどう反応するか断言はできない、危険な賭け―――そして今、蕾夏は、“ここ”にいる。

 まだ体の奥に残る震えを感じ、瑞樹は視線を逸らして、ウーロン茶を口に運んだ。
 ホッとして気を緩めている場合ではない。蕾夏を取り戻すことがゴールな訳じゃない―――やっと、スタート地点に立つことができた。それだけに過ぎないのだから。

 「―――…空が…」
 更にウーロン茶をあおろうとした時、唐突に、蕾夏が呟いた。
 思わず、ペットボトルを口に運ぶ手を止め、蕾夏の方を見る。蕾夏は、まだ海の方を見つめたままだった。
 「空が、見える所にしたい、って、思ったの」
 「……」
 何の話か、よく分からない。瑞樹が眉をひそめると、そのムードを察したのか、蕾夏は瑞樹の方を一瞬見て、そして…視線を、地面に落とした。
 「…あの時…佐野君に抵抗してる間ずっと、体育倉庫の低い天井を見上げながら、絶望的な気分になってた。なんだか…閉じ込められてるみたいで。もがいても、もがいても、ここからは出られない、そんな風に思えて」
 「……」
 「だから…空の見えない場所で―――閉じた空間で、佐野君と2人きりになるのは、怖かったの」
 痛々しい話に、瑞樹は瞳を揺らし、少し、俯いた。
 何の話かは、分かる。“あの時”―――中2の時の話だ。
 「瑞樹、覚えてる?」
 蕾夏の視線が頬に当たるのを感じて、瑞樹は顔を上げた。
 少し首を傾げるような仕草をした蕾夏は、どこか悲しげな、微かな笑みを浮かべていた。
 「会社の裏にあるビルの屋上に住み着いちゃった、ホームレスのおじさんの話」
 「……あ」
 覚えている。その話なら、3月頃に聞いた。
 そして、蕾夏が言わんとしているのが、蕾夏が選んだ対決の場所のことだと察して―――なんとなく、理解した。蕾夏が何故、そこを選んだのか。

 蕾夏から聞いた話では、そのビルは、周囲のビルに比べて極端に低い3階建てらしい。
 ホームレスが、一体いつ頃から住み着いたのかは不明だが、日当たりが悪く、周囲から見下ろしても屋上の様子がほとんど見えないし上がって行く人も皆無なため、彼が住んでいることに誰も気づいていなかった。事態が発覚したのは、3月―――少し温かくなって、ホームレスが根城から出ている時間が長くなってからだ。
 その日、日没前からいい気分で酔っ払っていたホームレスは、ビルの屋上で、十八番の「星影のワルツ」を大声で15回も歌っていたという。
 周囲のビルにも、その歌声がこだました。当然、窓という窓が開けられ、「うるさいぞ、どこのどいつだ!」という苦情の声も、周辺に響き渡った。結果…警察を呼ばれ、ホームレスは屋上から退去させられたのだった。

 都会のど真ん中、人々の死角に紛れて、忘れ去られたようにポツンとある、小さな空間。
 けれど、閉じられた空間ではなく、大声をあげれば、周囲の人間がすぐ気づいてくれる―――そんな場所。
 きっと佐野も、その場所のリスキーさは、十分認識していた筈だ。最悪の事態になっても、悲鳴をあげれば、佐野も正気に返って逃げるに違いない―――そう思ったからこそ、蕾夏はそこを選んだのだろう。
 「…失いたくなかったの」
 少し、泣きそうな顔になった蕾夏の視線が、ペットボトルを握る瑞樹の手の辺りに落ちた。
 「瑞樹と一緒に仕事ができるチャンス。“あの子、ちょっとおかしいんじゃない?”っていうクラスメイトの視線、まだ覚えてるから…嫌だったの。会社の人に見られるのも、噂されるのも。それ理由にチャンスを潰されるのだけは、絶対嫌だったの」
 「……」
 「でも…結局、大声あげる時間もないまま、こんな風になっちゃうんじゃ…意味、ないよね」
 やっと止まっていた涙が、また、蕾夏の目に溢れ出す。
 いたたまれない気持ちに、瑞樹はペットボトルを置き、蕾夏の頭をくしゃっと撫でた。
 「ごめんね…瑞樹。ごめん。私が馬鹿だった」
 ―――バカ、謝るな。
 直接、そう言ってやれないのが、もどかしかった。かといって、文字にしても上手く伝わらない。瑞樹は、少し乱暴な位に、蕾夏の頭を更に撫でた。
 蕾夏が「ごめん」と言っているのは、決して、佐野と2人きりになった不用意さのことではないだろう。
 瑞樹にだって、分かる。佐野もまた、こんな結果は望んでいなかった、ということが。佐野は、蕾夏のもとへと、自分から出向いてきた―――それはきっと、話をするためだ。13年前、きちんと話し合うべきだった事に、13年分の痛みを加えて…正直に話し、きちんと話を聞き、そこで区切りをつけるためだった筈だ。
 なのに―――そう、できなかった。せっかく佐野の方から折れてきたこのチャンスを、蕾夏は活かせなかった。…その後悔の「ごめん」だ。
 零れ落ちた涙を、指で掬ってやる。このまま感傷に浸り続けるのは、蕾夏にとってプラスになるとは思えなかった。
 多少、酷であっても、前に進まなくてはいけない―――瑞樹は、少し考えた末、メモ帳を手に取った。

 『奏が連絡を取ったらしくて、千里さんから電話があった。千里さんは、警察に届け出た方がいいって言ってる』

 「……」
 瑞樹が差し出したメモを、蕾夏は、まだ涙が浮かんだ目で、暫しじっと見つめた。
 そして―――目を伏せると、ゆっくりと首を横に振った。
 ある程度、予想済みだ。それでも一応、瑞樹は更に言葉を付け加えた。

 『犯罪は、犯罪だろ。けじめはつけた方がいい』

 「…分かってる」
 呟くようにそう言うと、蕾夏は大きく息を吐き出し、手の甲で涙を拭った。
 「分かってる。そうするべきだって。私も、自分のことじゃなければ、絶対に被害届けを出せ、って言うと思う」
 「……」
 「何があったか、どうしたか、どういう暴行を受けたのか―――事細かに説明させられて、自分が受けた傷を懲役や罰金に換算されて。…確かに“社会的”には、そうすることがけじめかもしれない。そのために法律があるんだって、私も分かってる」
 そこまで言って、蕾夏は顔を上げた。まだ少し、涙で潤んだ目で、瑞樹の目を真っ直ぐ見つめて。
 「でも、瑞樹。…佐野君が法律で裁かれれば、それで“解放”されるの…?」
 「……」
 「許せる、なんて、あり得ない。でも…“もう、いいや”って―――そう思えるようになる? 懲役何年なら納得できる? 死刑になれば、それで満足する?」
 答えられる筈も、なかった。
 もし、これが、自分と母の話であったなら―――もし母が、実の子を殺そうとした殺人未遂罪で捕まり、それ相応の刑を言い渡されたとしても…大した解決にはならないだろうことは、瑞樹自身が一番よく分かっている。たとえ死刑になったところで、あの時の恐怖と絶望感、その後十年以上に及ぶ心の荒廃が、全てクリアされるとは思えない。実際…母が他界した今だって、母に対する複雑な思いは、生きていた頃と何ら変わらないのだから。
 「…罪を刑期に換算して、それを務め上げれば、罪の償いをしたと“法律”が認めてくれる。でも…私は、そんな解決は、望んでない。私が解決したいのは、おととい、佐野君が私にした事じゃない。それも含めた…全て、だから」

 ―――13年という、年月があるから。

 話し合うつもりが、こうなってしまった背景には、多分―――佐野が逆上するようなやりとりが、2人の間にあったのだろう。その内容を、瑞樹は勿論知らないが…想像は、つく。
 蕾夏は、13年の月日を、軽んじたフリをしたのだ。自分の深すぎる傷を隠すために。
 穏やかに話し合って解決できるような話なら、13年も引きずる筈もない。そして―――この結果は、引きずり続けた13年という歳月の上にある。結果だけを見て、強姦という罪を裁いたとしても…本当に2人が解決したかったものは、置き去りにされたままだ。

 たとえそれが、モラルに反しているのだとしても。
 瑞樹には、理解できた。罪名や判決で決着するとは思えない、蕾夏の気持ちが。

 『一部分の解決法として、一応、念頭にだけは置いておけよ』

 最終的に瑞樹がそう書いてみせると、蕾夏は、少し逡巡するように瞳を揺らしたものの、結局、小さく頷いた。でも…自分がこう書いたのが“一応”であるように、蕾夏が頷いたのも“一応”なんだろうな、と、瑞樹には思えた。
 「ごめん…今、まだ、頭が整理できてないの」
 少し済まなそうな声音で言う蕾夏に、瑞樹は、分かってる、というように頷いてみせて、こう書いた。

 『佐野のことは、改めて考えればいい』

 それを見て、蕾夏はホッとしたような顔をした。
 やはり―――辛いのだろう。今、その問題としっかり向き合うのは。たとえ逃避だと言われようとも、後回しにできるのなら、その方がいいのかもしれない。佐野をどうするかより、もっと現実的な重要課題がいくらでもあるのだから。
 …そう。
 もっともっと、現実的な課題―――蕾夏が、リスク覚悟で守ろうとした、問題が。

 恐らく、お互い、同じ事を考えているのだろう。
 目を合わせたまま、暫し黙っていた2人だったが―――蕾夏の方が、辛そうに俯き、呟いた。
 「…どうしよう…取材のこと」
 「……」
 本来ならば、昨日行っていた筈の、浅草取材。
 今回は、あえて浅草寺そのものは避け、観光客の行かない裏路地を取材することになっていた。今回はそこで、地元に住む人やお店の客などと実際に触れ合いながら、ただ通り過ぎるだけでは気づかない浅草の空気を記事に活かしたい―――2人はそう、考えていた。勿論、耳が聞こえなければ…会話が成り立たなければ、到底できそうにない取材だ。
 提出期限は、16日―――あと、10日しかない。撮影取材そのものは、なんとか時間を作ればできるが…蕾夏が望んだような取材は、今の蕾夏の状況では不可能としか言いようがなかった。少なくとも1週間以内に、耳が聞こえるようにならない限りは。
 「…諦めるしか、ないのかな…」
 「……」
 「それに、明日からもう、仕事が始まるのに―――会社に、何て言えばいいんだろう? うちの両親にも…」
 瑞樹にだって―――どうすればいいか、分からない。
 事実を話す、という選択肢は、きっと蕾夏の中にはないだろう。実を言えば…瑞樹の中にも、今は、ない。こんな話、誰にも知られたくないという蕾夏の気持ちはよく分かるし、蕾夏の両親に関して言えば、もし真相を話すなら、13年前の事件に遡って告白しなくてはならない。それは―――蕾夏の両親がどう解釈しようとも―――蕾夏にとっては、13年、親を騙してきた、と白状するに等しいことだ。今の蕾夏が、その重みに耐えられるとは思えない。
 落ち込んだようにうなだれる蕾夏を見つめ、考えを巡らす。
 どうするのが最善の策か―――冷静に、考えなくては。今を切り抜けるだけじゃなく、その先に禍根を残さないよう、慎重に。
 かなり長い沈黙の後、瑞樹は、メモ帳にペンを走らせた。

 『明日は、編集長に説明するために、俺も一緒に行く』

 その言葉を読んで、蕾夏はぱっ、と顔を上げ、目を丸くした。
 瑞樹は、蕾夏の驚きに微かな笑みで応え、更に書き足した。

 『耳が聞こえないことと、コラム企画を続行させて欲しいことを説明する。仕事をどうするかは、相談次第。諦める前に、やるべき事はまだあるだろ?』

 「……」
 蕾夏の丸くなった目が、戸惑ったように揺らぐ。
 けれど―――文字を何度もなぞるうちに、その目が、次第に光を取り戻し始めた。諦める前に、やるべきことは、まだまだある―――蕾夏らしい思考を、取り戻しつつあるかのように。
 「…うん…分かった」
 心が決まったらしく、蕾夏は目を上げ、僅かに笑みを見せた。
 「瑞樹に、迷惑かけちゃう。…ごめんね」
 その言葉に、瑞樹は声は出さずに“バカ”と返してみせた。唇の動きにそれが分かったのか、蕾夏はくすっと笑い、視線を海の方へと向けた。
 「…千里さんがね、前に、言ってたの。私の耳は、本当は聞こえている筈だ、って」
 「……?」
 「物理的には、何も異常はない。鼓膜がちゃんと振動して、脳に音を伝えてる。だから、本当は聞こえているんだって。ただ…外からの情報を遮断しようとする“心”が、その音を無意識のうちに拒絶するの。数ある“外からの刺激”の中から“音”を選んだのは、私にとって一番シャットアウトしやすい情報だからかもしれない、って」
 そんな話を千里がしていたとは、知らなかった。内容から察するに、前に耳が聞こえなくなった時に話したことだろう。
 「音は、ちゃんと届いてる。この耳に。心がそれを拒絶してるだけ。…それなら、」
 言葉を切った蕾夏は、瑞樹の方を流し見た。その目を見て―――さすがの瑞樹も、どきりとさせられた。
 意志を持った、強い瞳。
 いつもの蕾夏らしい―――蕾夏の強さを表す、真っ直ぐな視線だったから。
 「それなら―――“心”の弱さを、私の意志が越えれば、聞こえるようになるかもしれないじゃない?」
 「……」
 「…絶対、諦めない」
 蕾夏の目が、怖いほどの真剣みを帯びる。再び視線を海に戻した蕾夏は、自分に言い聞かせるように、繰り返した。
 「私には、ちゃんと音を取り戻した実績があるんだもの。会社に愛想尽かされてクビになる前に―――絶対、音を取り戻してみせる」

 ―――やっぱり、こいつは。
 つい1時間前まで、生死の狭間を漂っていたというのに―――“やるべきことは、まだある”。その一言で、もうここまで立ち直っている。

 それが、佐野のことを考えたくないがための、逃避行為だったとしても。
 本当に克服しなくてはいけないことを忘れるために、現実的なこの問題を克服することだけを考えているのだとしても。

 『大丈夫。“最強の女”のお前なら、取り戻せる』

 瑞樹が、そう書いたメモを突きつけると、蕾夏は一瞬、複雑な表情をしながらも―――最後には、にっこりと微笑んでみせた。
 葦のようにしなやかで強靭な“意志”と、ガラスのように儚くて脆い“心”。その両方を垣間見せた蕾夏の表情を、瑞樹は、ただ純粋に“撮りたい”と思った。
 カメラを置いてきたのは失敗だったな―――なんて考えるだけの余裕を取り戻した自分に、瑞樹は内心、苦笑していた。

 

 それから暫くの間、瑞樹と蕾夏は、当面のことをどうするかを、ぽつりぽつりと話し合った。
 聞こえない状態での会話は結構きついらしく、蕾夏も途中から筆談になった。スローテンポになった会話が、静かな岬の一角で続いた。
 北海道に、奏が瑞樹の代わりに行った、という話には、さすがに目を丸くしていた。が、このチャンスを完全に棒に振った訳ではないことを理解して、少し安堵した様子だった。
 ただ―――佐野が“ヒロ”だということを奏が知ってしまった件には、心配そうに眉をひそめた。
 「…大丈夫かな、奏君」
 筆談も忘れて呟く蕾夏に、瑞樹は「今は、自分の心配だけしとけ」と返しておいた。
 返しながら…なるべく考えないようにしている事を思い出して、複雑な心境になった。

 佐野博武―――蕾夏を傷つけ、今も苦しめている相手。
 もし、本当に、桜庭の元・弟“ヒロ”だとしたら―――その事実を、蕾夏に話すべきなのだろうか?
 自分に暴力を振るった男が、瑞樹と似た過去を持つ男だと知ったら…蕾夏は、どう思うだろう? 憎むべき相手と、愛すべき相手をどこかで重ねてしまった時、蕾夏が何を思うか―――まるで想像がつかないから、話す気になれない。
 ―――桜庭の話なんか、聞くんじゃなかった…。
 知らなければ、もう少し気が楽だっただろうに―――後悔したところで仕方のないことだが、まるで必然だったかのような偶然を呪わずにいはいられなかった。

 「瑞樹?」
 訝しげな蕾夏の声に、瑞樹は我に返った。
 どうやら、気づかないうちにぼんやりしていたらしい。心配そうな顔をする蕾夏に、瑞樹は咄嗟に笑みを作り、なんでもない、という風に首を振ってみせた。

 『そろそろ行くか。奏にも連絡入れないとまずいし』

 メモを見せると、蕾夏も頷き、立ち上がった。
 いや、立ち上がろうとした。
 バランスを崩したのか、立ち上がりかけた蕾夏の体が、不安定にグラリと前に傾いだのだ。
 「きゃ…」
 「っととと…」
 慌てて、瑞樹が蕾夏に腕を伸ばし、転ぶ寸前で抱きかかえた。トン、と勢い余って前に1歩踏み出した蕾夏は、それでも瑞樹の腕の中に倒れこんだ。
 その瞬間。
 腕に感じた違和感に―――瑞樹の顔色が、僅かに変わった。
 「……」
 「ご、ごめんっ!」
 びっくりしたような、裏返った声でそう言った蕾夏は、瑞樹の胸に手をついて、即座に体を離した。
 あたふたと、足元に転がっていたペットボトルを掴み、先に立って歩き出す。そんな蕾夏を、瑞樹は、少し硬い表情で見つめるしかなかった。

 ―――今のは…。

 「? 瑞樹?」
 少し歩いた所で、瑞樹が来ないことに気づいた蕾夏が、振り向く。不思議そうな蕾夏の顔に、瑞樹はふっと笑い、すぐに隣に並びかけた。
 空いている手を取り、しっかりと繋ぐ。再び繋がれた手を見下ろし、蕾夏は、どこかホッとしたような笑みを見せた。勿論、振り解いたりしない。自ら指を絡め、決して手を離さないで、と訴えてくる。

 でも。
 さっきの、あの、感触は。
 きっと、蕾夏自身には、自覚はないだろう。でも…気のせいではない。

 確かに蕾夏は―――瑞樹に抱きとめられた瞬間、ギクリとしたように、体全体を強張らせたのだ。

 この先にある、瑞樹にも蕾夏にも厳しいものとなるであろう現実を予感して―――瑞樹は、蕾夏の手を更にきつく握った。


***


 羽田空港の到着ロビーで、瑞樹と蕾夏は、奏を見つけるより早く、奏に見つかってしまった。

 「成田!!!」
 周囲にいた人全員が振り向くような大声に、ギョッとして振り返る。そんな瑞樹の反応を見て、蕾夏も背後を振り返った。
 振り返って、視界に飛び込んできたのは、猛ダッシュで駆け寄ってくる奏の姿。
 怒っているのと、泣きそうになっているのと、喜んでいるのと―――3つの感情が複雑に入り混じった、説明し難い顔をした奏は、転がり込むといった勢いで瑞樹の前に駆け込むと、がくりと頭を垂れて、ゼイゼイと肩で息をした。
 「…て…めー…」
 「は?」
 息が上がっているせいで、奏の言葉が、よく聞き取れない。眉をひそめる瑞樹に、奏はがばっ、と顔を上げ、瑞樹の顔を真正面から睨んだ。
 「ケータイっ!」
 「けいたい?」
 「あんた、丸1日電源切りっぱなしで、一体何のために携帯持ってんだよっ!? オレがどんだけ心配したと思ってんだよ、ああ!?」
 「……」
 ―――ああ、それでこういう形相してんのか。
 実を言えば、奏にメールをするために携帯を取り出すまで、携帯の電源を切っていたことなどすっかり忘れていた瑞樹だった。しかも、メールをしてすぐ、車の運転のためにまた電源を切ったため、現在も電源は切れたままだ。
 着信履歴を見てないから分からないが、この分だと、昨日から何度も電話をかけてきたのだろう。よっぽど悪い展開を予想してたんだな…と察し、瑞樹は苦笑した。
 「迷惑なクライアントからの電話をシャットアウトしてたつもりが、お前の電話も弾く羽目になってたらしいな」
 「思い切り弾かれたっつーのっ!」
 「悪かった悪かった」
 自分より若干背の高い奏の頭をぽんぽん、と宥めるように叩く。すると、冷静になって恥ずかしくなったのか、奏は毒気を抜かれたように大人しくなり、面白くなさそうに眉間に皺を寄せた。
 「…ま…まあ、無事で、良かった」
 奏が、サングラスを外し、取ってつけたようにそう言うと。
 瑞樹の1歩後ろで、一連の様子を見ていた蕾夏が、唐突に吹き出した。
 「―――…」
 あはは、と、面白そうに笑う蕾夏の様子に、奏は、びっくりしたように目を見開き、蕾夏を見下ろした。
 「お、おかしいー…。奏君って、ホント、表情豊かだよねぇ…。声聞こえなくても、顔見てるだけで飽きないよ」
 「……」
 普段の奏なら、ガキっぽい、と言われたようでムッとしてしまうところだが―――今は、それどころではなかった。
 信じられない、という目で、瑞樹の方を見る。瑞樹は、奏の驚きを汲み取って、ふっと笑った。
 「…言っただろ。“信じろ”って」
 奏の目が、途端に、潤む。
 口元に手を置いた奏は、何故か、目の前に立つ瑞樹の肩にコトン、と額をつけ―――そのまま、声を抑えて、泣き出した。
 「…よ…かった…」
 「……」
 「良かった…」

 豊かなのは、表情だけではない。
 まるで子供みたいな、豊かな感情―――コントロールの効かない感情に振り回されて、憤り、激しく求め、涙する。被写体としての一宮 奏の魅力は、この感情の豊かさだ。
 ―――あいつもきっと、こいつのこういうところに惹かれたんだろうな…。
 どこか共通項を感じるあの男のことを思い出し、また複雑な心境になる。
 奏が、日本に来て唯一見つけた、瑞樹と蕾夏以外の“信頼できる友人”―――彼もまた、瑞樹同様、自分の感情をありのままに表現できる奏の真っ直ぐさに、憧れのようなものを抱いたのだろう。
 屈折し、自分を押し殺し、押し殺し―――そうやって育ってきた人間共通の、羨望。こんな風に素直に生きられたら楽だろうに…佐野もきっと、奏を見て、そう思ったに違いない。

 男に泣くための肩を貸す、という、妙な状態に戸惑いながらも、どうしようもない。
 とりあえず、泣き止むまでじっとしてるしかないな…と瑞樹が天を仰ぎ見ると、下ろしていた手に、蕾夏の指先が触れた。
 「……」
 見下ろすと、蕾夏は、苦笑のようなものを浮かべて、瑞樹の指先をきゅっと握った。
 ―――奏君てホント、子供みたいだね。
 そんな声を聞いた気がして、瑞樹も苦笑を返しつつ、蕾夏の手をそっと握り返した。勿論―――奏には、気づかれないように。


 不安定な、三角形。
 奏が、1万キロを越えて探しに来た、新しいバランス―――新しい関係。

 まだ、朧気ではあるけれど―――瑞樹と蕾夏は、その形を、なんとなく見つけた気がした。

***

 「…これ」
 料理の乗っていないテーブルの端に、奏が何かをすっ、と置いた。
 それは、異様なまでに分厚い、比較的新しい封書だった。表書きには“三田典子様”とある。
 「三田さんから、オレに託されたんだ。オレは読まないでくれ、って念を押されてる。成田にしか―――倖さんの息子にしか読ませたくないから、ほんとはあんた以外の人間に手渡す気はなかったけど…オレを信用して託す、って」
 「…何なんだ? この手紙」
 「―――倖さんから届いた、三田さん宛ての、最後の手紙らしい」
 「……」
 ―――あの女からの、最後の手紙…?
 手に取ってみたが、差出人名は、どこにも書いていない。でも…手紙を受け取った本人がそう言うのだから、多分、そうなのだろう。
 一体、何を書いてこんな分厚さになったんだ? と眉をひそめる瑞樹は、右隣からの蕾夏の視線を感じ、蕾夏の方をチラリと見た。
 だし巻き玉子を少しずつ口にしていた蕾夏は、やはり、やたら分厚いその封書に興味を示していた。何なの? という問いかけるような目で、瑞樹と封書を交互に眺めている。
 食器と食器の間に置いたメモに、倖から三田典子に宛てた最後の手紙だ、と瑞樹が書くと、蕾夏の目が、僅かに丸くなった。
 「…奏君、読んだの?」
 蕾夏の問いに、奏は首を振った。
 成田以外読むなって言われた、と書いたメモを奏が蕾夏に突きつけると、蕾夏は、少し考え込むような表情になって、また瑞樹の手の中の封書を見つめた。3人の思いは、1つ――― 一体、何がここに書かれているのか、ということだ。


 空港での再会は、夕食にちょうどいい時間だった。
 正気に戻ったとはいえ、まだ精神的にも体力的にも弱っている蕾夏のことを考えて、瑞樹と奏は、個室を用意してもらえる店を選んだ。実質、夕食をとりながらの報告会だ。
 当然奏は、蕾夏に何が起きたのか、佐野が何故蕾夏を訪ね、結果、何故こういうことになったのか―――その辺を知りたがった。が、瑞樹が、その話は今日は無しにしろ、と言い―――また、その理由を何となく察したらしく―――大人しく、頷いた。一見、まるですっかり元気になったかのように見える蕾夏だが、その奥に前とは明らかに違っている“何か”を、奏も感じ取っているのだろう。
 そんな訳で、報告会は、奏が北海道で聞いてきた話が中心になった。
 耳が聞こえない蕾夏は、当然、奏の報告を聞くことができない。気を遣わせたくないと思っているのか、ほとんど口を挟むことなく、気が進まない様子で食べ物を口に運びながら、2人の様子を眺めている。それでも、瑞樹の顔色が変わったり、2人の表情が沈痛な面持ちになったりすると、「どうしたの?」と説明を求めた。その都度、筆談で説明するので、報告会は非常にのんびりしたペースとなっている。

 三田典子から聞いた話は、概ね、この前電話で典子と話したことの補足が多かった。
 新たに分かったことは、倖の母親―――つまり瑞樹の祖母は、過干渉で、いわゆる“教育ママ”だったらしいことと、そういう母親に、どうやら倖は反抗できずにいたらしいこと。そして―――倖が暴力を受けたきっかけが、父親の失業だったらしい、ということだ。
 母親の事故死については、警察が調べて事故と断定されたらしい。では、あの日記の言葉は何なのか―――奏も、やはりそこが疑問らしいが、典子との会話からは、その答えは見つからなかった、と言った。


 「やっぱ、その手紙が鍵かな…」
 奏の呟きに、瑞樹も内心、頷く。
 きっと典子は、訪ねて行ったのが瑞樹なら、その内容を直接説明するつもりだったのだろう。電話で含みを持たせていた割に、新たに分かったことが少ないことを考えると、やはりこの手紙が鍵を握っているとしか思えない。
 「…読むの?」
 真っ直ぐに見つめて問う蕾夏に、瑞樹は暫し、黙って封書を見下ろしていたが―――やがて、小さく息をつくと、メモの新しいページに書きなぐった。

 『手紙は、逃げないから。落ち着いたらまた、ゆっくり読む。それまでは保留でいい』

 それを見て、蕾夏は目を伏せて軽く頷き、奏は少し納得がいかないような顔をした。が、今すぐ確認しよう、と口に出すほどではなかったらしく、
 「確かに、預かったから」
 そう言って分厚い封書を自分の手元にしっかりと置く瑞樹に、奏は何も言わず、大きく頷いた。

 「で―――秋本の方は?」
 むしろ、今の瑞樹は、祖父である秋本に興味があった。瑞樹が問うと、奏は、ちょっと複雑な顔をした。
 「あ…ああ、うん。桑原さんて人から、かなり詳しい話が聞けた」
 そう言って、奏が話し出した話は―――瑞樹にとっては、かなり興味深い話だった。


 桑原から話を聞く際、奏は簡単なメモを取っていたとのことで、説明は、そのメモを蕾夏に見せながら、ゆっくりと進んだ。
 奏の話によれば―――秋本という男は、大家族の末っ子として生まれ、厄介者扱いされる中、カメラだけに希望を見出して成長した男らしい。自分の実力を信じて疑わない野心家で、家族より恋人より仕事が優先。実際、若くしてその才能が認められ、広告業界や雑誌撮影で大いに活躍したという。
 そして、倖が小2の時、長年の夢を叶えるべく、北の地へ移り住む―――その頃出した写真集を、奏は桑原から預かっていた。
 見た瞬間、まず、その色の鮮烈さに、瑞樹も蕾夏も圧倒された。
 色が―――どれもこれも、印象的だ。野心家で自信家である秋本の性格を、そのまま表したかのような、激しい色―――選ぶ題材は、どことなく瑞樹と被っているが、その本質は大きく違っていた。

 「凄いね…」
 ゆっくりと写真集のページをめくりながら、蕾夏が呟いた。彼女好みの写真とはかけ離れているが、その実力のほどは、数多くの写真を見てきただけに、何となく分かるのだろう。勿論、瑞樹も―――圧倒されていた。秋本が表現する“色”の鮮烈さに。

 だからこそ。
 その後の展開には―――2人して、絶句した。


 「…色覚、異常…?」
 「…ん、そうらしい」
 なんとも―――皮肉な、話だ。色を売りにするカメラマンが、よりによって、色覚を奪われるとは。
 「ショックで、何も撮れなくなって―――契約してた雑誌社との契約も破棄された秋本さんがどうなったかは、まあ…さっき、話したとおり。無職になって、昼間から強くもないのに酒飲んで、代わりに母親の方が働きに出て―――派手になってく妻に、口論の末、手を挙げた、と。それ止めに入った倖さんが殴られたのが、暴力の始まりだったらしい」
 「……」
 チラリと蕾夏の方に目を向けると、メモの内容から、色覚を失って以降の流れも、大体分かったのだろう。蕾夏も、チラリと瑞樹の方を見た。そして―――2人して、同時に、苦い表情になった。
 ―――理解、できちまいそうなとこが、辛いな。
 貧しく、孤独な男の、たった1つの拠り所―――それが奪われたショックは、妻でも、子供でも、埋められなかった。そういう気持ちは…悔しいが、ちょっと、分かる。だから娘に手を挙げていい、などとは到底言う気はないが、それでも…その弱さは、分かる気がした。
 「…それで?」
 なるべく、私情を絡めず、冷静に話を聞きたかった。瑞樹は、秋本に同情してしまいそうになる気持ちを一旦外に追いやり、奏に続きを促した。
 「うん―――それで、1年半位はそんな状態が続いて…その頃に、桑原さんの紹介で、カメラマンとは違う職業を2、3、転々としたらしい。酒やめて、家族に手を挙げることもなくなったけど、桑原さん曰く“生ける屍”だったって」
 「…だろうな。撮ってないんじゃ」
 「桑原さんも、そう思ったらしい。それで―――ある日、撮れなくてもいいから、撮ってみろ、って、1週間ほど北海道中を旅させて―――それで、秋本さん、やっぱり俺にはカメラしかない、って気づいたみたいで、桑原さんの薦めで日和新聞に入社したらしい。離婚する1年半ほど前」
 「…そうか…」
 恐らくは、困難な作業だったと思う。色がまともに見えない状態で、写真を撮るというのは。
 それでも―――その困難があっても、秋本は、カメラを選んだのだ。
 自信と野心が先行していた鬼才が、色を失って、原点に戻った―――そういうことなのかもしれない。
 「ねえ、奏君」
 メモを熱心に読んでいた蕾夏は、最後の1枚を見終わったところで、不思議そうな目を奏に向けた。
 「三田さんの話では、お母さんが亡くなった後、倖さんが秋本さんに引き取られるのを拒んだのは、秋本さんに恋人がいたから、ってことだったらしいけど―――その人のことは、桑原さんから聞いてないの?」
 「あ…っ、しまった、それは、まだこっちだった」
 メモを全部渡してなかったらしい。奏は、蕾夏が聞こえないことを忘れたかのようにひとりごちると、慌てて鞄の中を漁り、更に数枚のメモを、順に蕾夏に渡していった。
 「ええと―――その人とは、離婚してすぐ位に、取材先で知り合ったんだけど…桑原さんの話だと、生涯恋人で、結婚はしなかったって。離婚した家族に、ずっと負い目があったみたいで、秋本さんは再婚することなく、独身のまま亡くなったらしい。それと―――これも、桑原さんの言葉を借りれば、だけど」
 次のメモを蕾夏に渡そうとしながらも、奏は、ちょっと言うの躊躇うように、言葉を切った。
 「…なんだよ?」
 「…うん…」
 奏の視線が、少し、泳ぐ。が、意を決したのか、しっかりと瑞樹を見据え、次のメモを蕾夏の前に置いた。
 「その、生涯恋人だった人が、秋本さんを変えた人、だって」
 「―――変えた?」
 「その人と出会って、恋をして―――カメラしかなかった秋本さんは、やっと満たされたんだと思う、って、桑原さんは言ってた」
 桑原さんは、を妙に強調する奏の様子に、何故奏がそれを口にするのを躊躇ったか、分かった。
 瑞樹にとって、倖は母親で、倖の母―――つまり秋本の元妻は、祖母に当たる。秋本を変えたというその恋人は、瑞樹にとっては赤の他人だ。たとえ祖父でも、血縁の話をするのに、赤の他人の方が祖母や母より祖父にとって重要な人間だった、と言われるのは、ショックかもしれない―――奏は、そんな風に考えたらしい。
 「まあ―――結婚してた時間を考えりゃ、秋本の一部分でしかねーし。あの女も、あの女の母親も」
 「…そう言ったら、身も蓋もないだろ?」
 少し拗ねたような言い方をする奏に、瑞樹は苦笑を返し、早く続けろ、と手振りで促した。
 ところが奏は、視線を少し落とすと、思いも寄らないことを言い出した。
 「…オレさ。桑原さんの話聞いてて、その女の人に―――ちょっと、蕾夏を重ねてた」
 「……は?」
 ―――蕾夏を?
 目を丸くする瑞樹を見て、蕾夏も不思議そうな顔をする。
 瑞樹と目が合い、説明を求めるような顔をしたが、さすがに―――ちょっと、説明が難しい。蕾夏の視線を振り切るように奏に目を戻した瑞樹は、眉根を寄せた。
 「なんで、また」
 「…どういう素性の人か、桑原さんも知らないらしいけど―――秋本さんから聞いた話ってのが、凄くてさ」
 「凄い?」
 頷いた奏は、次のメモを、蕾夏に渡した。その凄い話とやらも、一応メモしていたらしい。
 「秋本さん、色覚異常で、まともに色が見えなかっただろ? 見えないまま、写真を撮り続けてたって―――撮れないよりはマシって、割り切って」
 「…ああ」
 「…その女の人さ。時々、色がまともに見えない、って落ち込む秋本さんに、言ったんだって。“あんなに鮮やかな色を写し出せた人なんだから、頭の中には沢山の色がまだ生きている筈だ。その色を再現するつもりで、物を見てみればいいじゃない”って」
 「―――…」

 “色の、再現”―――…。

 その言葉が、一瞬、瑞樹の心に引っかかった。が、その正体を探るより前に、奏が更に言葉を続けた。
 「で…それ以来、新聞の写真以外でも、趣味でカラー写真撮るようになって―――1枚だけ、秋本さんの晩年の写真、貰ってきた」
 そう言って―――奏は、1枚の写真を瑞樹と蕾夏の前に置いた。
 その写真を見た途端…瑞樹も、蕾夏も、驚きに息を呑んだ。

 それは、多分北海道の、どこかの丘を撮った写真だった。
 けれど―――その写真は、若い頃の秋本の写真とは、まるで違っていた。
 色が…まるで、何か優しいフィルターでもかけたように、ふわりと浮き上がっている。かつての秋本のような鮮烈な色はないにしても、そこに描き出された色は、どれもが印象的でありながら、優しさを滲ませていた。

 これが、晩年の、秋本の写真。
 遠い昔、失ってしまった“色”。それでもなお、秋本の中に生き続けている“色”―――それを、心の中に再現しながら撮った写真が、この柔らかな色合いをした、穏やかな風景写真なのだ。

 「…オレが蕾夏を連想したの、分かっただろ?」
 バツの悪そうな顔をした奏は、チラリと瑞樹の目を見て、小声で呟いた。
 分かる―――瑞樹は、一瞬だけ目を写真から離し、奏に苦笑を返した。
 秋本が忘れていた、秋本の中に今もある“色”―――その存在を気づかせ、引き出させ、再現させた。その女性は、確かに…秋本にとっては、瑞樹にとっての蕾夏のような存在かもしれない。

 ―――でも、今は。

 今は、そんなことよりも。


 ある予感に、瑞樹は、蕾夏の方に目を向けた。
 そして蕾夏も―――瑞樹の方に、目を向けた。

 秋本の話も、倖の話も、これに気づいた途端、一瞬、2人の頭から抜け落ちた。2人は、自分が見つけたものを相手の中に確認するように、相手の目を見据えた。

 「…“色の、再現”…」
 蕾夏の唇が、小さく呟く。そして、更に小さな声で、付け加えた。
 「―――“感覚の、再現”―――…」


 人の声。電車の音。足音―――風の音。
 下町の浅草には、きっと、人々がそこに息づいている証の“音”が、たくさんたくさん、溢れているだろう。たとえ―――たとえ、蕾夏の耳には、聞こえなくても。


 もし、人が、自分の中にある“色”を再現できるならば。

 自分の中にある“音”も、再現できるのではないだろうか―――…?


 手の中から零れ落ちかけていた、希望―――未来の写真集へと繋がる、2人で作る記事。
 撮りたいものを、言葉にしたいものを、2人は、思いもよらない形で、手に入れた。「失われた音の再現」という―――ついこの前まで考えもしなかったテーマを。


←BACKInfinity World TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22