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― 静寂の時 -1- ―

 

 月曜朝。
 まだ社員のほとんど来ていない編集部で、瑞樹と蕾夏の前に座った編集長は、その話に目を丸くした。

 「聞こえない?」
 「…はい」
 感情を抑えるように答える瑞樹に、目を丸くしたままの編集長は、その隣に座る蕾夏に目を向けた。
 緊張した面持ちの蕾夏は、その視線に耐えるようにきゅっと唇を引き結ぶと、静かに頭を下げた。
 「…申し訳ありません」
 「……」
 編集長が唖然とするのも、無理はないだろう。
 日頃から出社の早い彼を待っていたかのように、ビルのエントランスで待ち構えていた2人―――折り入ってご相談が、と言われて話を聞いてみれば、蕾夏が…金曜には普通に取材をこなし、今も一見何事もないように見える蕾夏が、全く耳が聞こえない、と言うのだから。
 「高熱で倒れたらしい、との報告は、瀬谷君から受けてましたが、一体…なんでまた、こんなことに?」
 あまりオロオロすることのない編集長も、さすがに狼狽した表情になっている。戸惑ったような目を向けられ、瑞樹は、嘘を言うしかないことを、少し申し訳なく思った。
 「…土日で、耳鼻科が休みだったので、まだ詳しいことは…。ちょっと調べた限りでは、突発性難聴は、原因特定は難しいらしいですが」
 「では、病院へは」
 「今日、この後、連れて行ければと思ってます」
 「勿論です。仕事はいいですから、連れて行ってあげて下さい」
 「はい。ただ―――既に丸2日、この状態なので…完治するまでに相当な時間がかかる可能性もあると思います。それで、“今日”ではなく、今後暫くの間の仕事についてご相談したくて、こちらに伺いました」
 「今後暫く―――…」
 編集長は、眉根を寄せてそう呟くと、蕾夏の方をチラリと見た。
 そして、不安げな表情で編集長の目を見返す蕾夏に、一層眉を寄せ―――小さく、ため息をついた。
 「…うちの契約では、病気などの理由で長期間休む場合、外部ライターなどから代理を立てることになっています。勿論、それが2ヶ月、3ヶ月に及ぶ場合は、契約見直しですが―――幸い、藤井さんは、取材は無理でも、取材の終わっている記事について原稿を書くことはできますね」
 「本人もそう言ってます」
 「うーん…」
 腕組みをし、少し考えるような仕草をした編集長は、やがてガタリと席を立つと、ミーティングルームと編集部を仕切っているドアを開けた。どうやら、目的の人物は既に出社していたらしく、すぐに、
 「おおい、瀬谷君!」
 という声が、2人の背後で響いた。
 瑞樹が振り返ると、編集長は、ドアから半分身を乗り出した姿勢で、瀬谷と話をしている様子だった。瀬谷―――蕾夏から何度も聞かされた名前なので、それが蕾夏の先輩格に当たるライターであることは、瑞樹にもすぐ分かった。
 「…どう、なったの?」
 後ろの様子が分からず不安なのか、蕾夏がちょっと体を寄せ、ヒソヒソ声で訊ねてきた。

 『瀬谷さんと話してる。取材は無理でも書くことはできる、とは思ってくれてるらしい』

 殴り書きしたメモを蕾夏に見せると、その顔が、やっと少しだけホッとした表情に変わった。取材ができないのなら即却下、ではない分、少しは望みが持てる、というところだろう。
 背後のやりとりは、非常に小声であるせいと、仕切られた壁が邪魔しているせいで、あまりよく分からない。瑞樹も少し焦れながら待つと、3分ほどして、編集長が向かい側の席に戻ってきた。と同時に、その後を追うように、スーツ姿の見覚えのない男が現れた。
 話の流れから想像するに―――これが、噂の瀬谷智哉だろう。
 ―――なるほど。
 以前、蕾夏が瀬谷を称して「性格が破綻してる辻さん」と言っていたのを思い出し、ちょっと笑いそうになる。確かに、縁のない眼鏡が共通しているし、やたら賢そうな顔立ちも似ているのに、醸し出すムードが全く逆―――優しげな辻に対して、いかにも皮肉屋で性悪そうな瀬谷。蕾夏の表現は、確かに言いえて妙だ。
 瀬谷は、少し心配げな目で蕾夏の方を見、それから瑞樹に目を移した。
 「瀬谷です」
 軽く頭を下げた後、冷笑に限りなく近い、意味ありげな笑みを浮かべた瀬谷は、余計な一言を付け加えた。
 「お噂はかねがね伺ってますよ」
 「……」
 ―――噂っつーより、あんたが勝手に想像してるだけだろ。
 見つけられてはまずいものを見つけられた件では、蕾夏から散々抗議を受けたので、瀬谷には逆恨み的恨みがある。
 「…成田です」
 瑞樹もふっと笑い、
 「こちらこそ、お噂はかねがね」
 と含みを持たせた言葉を付け加えておいた。どういう噂かは想像がついているのか、瀬谷は軽く片眉を上げたが、そのまま黙って席についた。
 「瀬谷君に、今、簡単に説明をしました。スケジュールの擦り合わせをしたいので、直接藤井さんと話してもらおうと思いまして」
 「お願いします」
 編集長の説明に瑞樹が答えると、瀬谷は、手近にあったA4のコピー用紙の裏に、胸ポケットに挿してあった万年筆で質問を綴った。

 『一番迫ってる締め切りの記事と、今週入ってる取材予定は?』

 向けられた紙をじっと読んだ蕾夏は、手元に用意していた手帳を開き、説明を始めた。
 「取材予定は、次の特集記事のための下見取材がほとんどです。場所は有明などのベイエリアで、明日・明後日の2日、予定を入れてました。あと、家具工房の取材が木曜日に1件―――記事の締め切りは、ちょうど月初に終わったところですから、今週中はありません。ですので…」
 一旦言葉を切った蕾夏は、手帳から目を上げ、瑞樹の方を流し見た。が、すぐに視線を斜め下に戻し、極めて事務的に続けた。
 「…ですので、一番差し迫っている締め切りは、コラム企画の締め切りである、16日―――来週の水曜日です」
 「―――コラム企画、か」
 何か言いたげなムードを滲ませて、瀬谷がそこだけ繰り返す。が、編集長は、神妙な面持ちで瑞樹の方を見た。
 「取材はもう終わっているんですか?」
 「…いえ。実はその取材を、一昨日の土曜日にする予定だったところに、この事態だったので」
 「なるほどね。それで今日、成田さんが同行してこられたわけだ」
 辻褄が合いますね、とでも言いたげに口を挟む瀬谷に、瑞樹は余裕で口の端を上げてみせた。
 「企画コラムが、彼女1人の仕事じゃないことを、お忘れなく」
 「…ごもっともです」
 瀬谷もニッ、と笑いを返してみせる。そのニュアンスに、からかうのもここまでにしましょう、という色合いを感じ取り、瑞樹もやれやれと息をついた。
 「ええと、僕の方のスケジュールですが…」
 再び真剣な面持ちに戻った瀬谷は、自分の手帳を広げて、眉間に皺を寄せた。
 「とりあえず、木曜日にある家具工房の取材は、ちょうど空いてますから、僕が代わりに引き受けます。ただ、明日は1日外出してますから、下見取材を明日するのは無理でしょう。安全面で問題がないのなら、藤井本人がやっておいた方が、実際に記事を組み立てる際にもいいと思います。…で、藤井は、出社したり取材に出たりは可能な状態ですか?」
 目を上げ、瑞樹と蕾夏の顔を交互に見る瀬谷に、蕾夏が「瀬谷さん、何て?」という視線を瑞樹に向けてきた。

 『家具工房は代わりに取材する、有明の下見取材は自分で行けるか、それと、出社は可能か、と聞いてる』

 書きなぐったメモを瑞樹が蕾夏に向けると、蕾夏は、覚悟を決めるように一度唾を飲み、編集長と瀬谷の方に向き直った。
 「…耳が聞こえなくても、移動は1人でこなせます。ですから、出社は勿論できます。筆談での取材は厳しいですが、下見だけなら問題ないと思いますし、電話は受けられませんが、記事を書くことも、打ち合わせに出ることもできる筈です」
 「僕は反対ですね」
 難しい顔でそう言葉を挟んだのは、編集長だった。
 「病院で、入院と言われる可能性も、外出を禁止される可能性もあります。どこも悪くない、と言われたとしても、耳が聞こえないのは紛れもない事実なんですから、ともかく治るまでは休養させないことには…。何にせよ、幸い締め切りもまだ先なんですから、ここはひとつ、1週間はゆっくり休むべきですよ」
 「……」
 編集長の表情から、蕾夏の意見に反対なのは分かったのだろう。蕾夏は口を噤み、視線を少し落とした。
 「1週間、休んだ後で、それでもまだ治らないようなら、代理のライターを頼めばいいんです。1週間後なら、なんとか間に合います。そこから先は、藤井さんの回復次第でしょう。とにかく―――ここで無理をして回復が難しくなるのでは、意味がありませんよ。下見は延期、家具工房は瀬谷君に任せて、藤井さんはゆっくり療養なさい」
 「……」
 確かに―――正論だ。瑞樹だって、本来ならそう蕾夏に勧めたいところなのだから。
 “編集長は、1週間は休んで様子を見た方がいい、と言っている”旨を書いて蕾夏に見せると、蕾夏の表情はますます沈んだ。俯いたまま、唇をきつく噛むと、そのまま、暫く顔を上げなかった。
 「瀬谷君は、どう思いますか」
 腕組みをして黙っている瀬谷に、編集長が訊ねる。瀬谷は、難しい顔のまま、うなだれている蕾夏をチラリと見て、ため息をついた。
 「…もし1週間休むのなら、コラム企画は諦めるしかないでしょう。あの反対してる連中、仕事を休んで企画を優先させた、不公平だ、って騒ぐに決まってますよ。事情を説明してもね」
 「ですねぇ…」
 「―――あの、」
 まるで話の流れが分かっていたかのように、突如、蕾夏が顔を上げ、2人を真っ直ぐに見据えた。
 「ご迷惑は、承知の上です。契約金分の仕事ができないのなら意味がない、とおっしゃるなら、その分、金額を下げていただいても構いません。ですから―――お願いです、16日まで…コラムの締切までは、出社させて下さい。企画記事、提出させて下さい」
 「……」
 「もし、16日までにこの耳が元に戻らなかったら、その段階でご迷惑にならないように休職します。でも、必ず―――契約見直しになる前に必ず、治してみせます。たとえ原因が分からなくても」
 「藤井さ…」
 「諦めたくないんです」
 悲痛な面持ちの蕾夏は、拳を硬く握り締めると、ガタリと椅子を引き、深々と頭を下げた。
 「お願いします―――諦めさせないで下さい」
 「―――…」

 唖然としたような、困ったような顔をしている2人には、きっと、分からないだろう。蕾夏が今―――ギリギリの所に立っていることなど。
 もしここで、望みが断たれてしまったら…蕾夏の足元は、あっけなく崩れてしまう。
 知られたくない、このチャンスを失いたくない―――その思いで決断した選択が、全て無駄になるだけじゃない。今、唯一、縋りついているものが…失われる。このハンディを克服して、1歩を踏み出してみせる。それだけを考えている蕾夏が、その目標を失えば…残るのは、今、直視するには辛すぎる物だけだ。

 「…お願いします」
 言葉を失っている2人に、瑞樹も、深く頭を下げた。
 「必ず、納得のいく記事を作ってみせます。どうか―――諦めさせないで下さい」

 

 「―――無駄でも、一応、CTは撮った方がいいですよ」
 出社してくる他の社員の目を考えて、裏口まで送ってきた瀬谷は、ため息混じりにそう言った。
 その言葉に、瑞樹は眉をひそめて瀬谷を見つめ、何と言っているか聞こえない蕾夏は、そんな瑞樹の顔を見て不思議そうな顔をした。
 “無駄でも”―――まるで、CTスキャンしたところで、耳が聞こえない理由など分からない、と最初から決めてかかっているような口ぶりだ。どういう意味だ、と瑞樹が怪訝な顔をすると、瀬谷は苦笑を浮かべた。
 「…もう随分前になりますが、僕も、仕事のストレスが原因で、突発性難聴になったんですよ。と言っても、聞こえなくなったんじゃなく、耳鳴りで、しかも右耳だけですけどね」
 「……」
 「だから、突発性難聴で、両耳とも全く聞こえなくなるケースなんて、限りなく皆無に近いこと位は、一応知ってます」
 「…そうですか」
 「もし、精神的なものからくる症状なら―――編集長の言葉じゃないが、仕事なんてしないで、ゆっくり休ませるべきだと、僕は思いますがね」
 ―――それを言いに、ここまで送りに来たのか。
 さほど親切なタイプとも思えないのに、わざわざ送りに来たので、おかしいとは思っていたのだ。一度目を伏せ、ふっと笑った瑞樹は、真っ直ぐに瀬谷の目を見据えた。
 「原因が、必要ですか」
 「……」
 「全く聞こえていない、という事実と、企画は絶対に諦めない、という意志―――この2つ以外、必要なものがありますか」
 「―――…全く、どうやら似たもの同士らしいな。君と藤井は」
 はーっ、と大きなため息をついた瀬谷は、諸手を挙げて、肩を竦めた。
 「降参です。まあ、社内にいる時は、僕ができる限りフォローしますから、心配は要りませんよ」
 「…噂よりは親切な方なようで」
 多少の皮肉をこめて瑞樹が言うと、瀬谷は、どんな噂をしてるんだ、という風に一瞬蕾夏に睨みをきかせた後、薄い笑みを作って答えた。
 「藤井は確かに、かなり目障りな後輩ですが―――将来有望な後輩でもありますからね。先輩として、その可能性の芽を摘むことができないだけですよ」


***


 玄関のドアを閉めると、音とはまた違ったレベルの静寂が、蕾夏を包んだ。

 朝、開け放っておいたカーテンから、午後の光が部屋の中に射し込んでいる。久しぶりの、ひとりきりの部屋―――金曜の夜、ここに辿りついてから今朝までずっと、瑞樹が必ず、隣にいたから。
 本当に大丈夫か、と、なかなか手を離そうとしない瑞樹を思い出し、胸が締め付けられる。都合、3本も電車を見送る羽目になったが、それは瑞樹のせいじゃない。…蕾夏も、怖くて手が離せなかったからだ。
 小さく息をつき、慎重に玄関の鍵を閉める。カチリ、という鍵の閉まる音を指先の感触だけで感じ、蕾夏は、朝見た時より寒々しく感じる部屋へと上がった。

 バッグを床に置く。
 床とバッグが接した瞬間に、微かな重みのある音がする。
 キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
 風圧を感じるような、ドアを開ける時の独特の音がする。
 冷蔵庫を閉めれば、その音が、ミネラルウォーターをグラスに注げば、その音が、蛇口をひねれば、その音が―――ありふれた音を、脳裏に再現する。

 ―――そう。これが、日常。
 きゅっ、と蛇口を閉め、はあ、と息を吐き出す。意識すると、結構疲れる。想像以上に―――日常は、音だらけだ。
 だから、こうして、感覚を再現してゆく。
 いつもの自分の生活の中に身を置き、いつもの自分のように暮らし…その中で、当たり前のように、自分の中にある“音”を、再現してゆく。
 こうして普段通りの自分でいながら、普段通りの音を頭の中に再現し続けたら―――自然と、音が戻って来るかもしれない。効果があるかどうかなんて、蕾夏にも分からないが、それでも…試してみる価値は、あると思う。

 最初、瑞樹は反対した。落ち着くまで、この部屋で寝泊りすると主張した。
 でも…どうしても、ひとりになりたかった。
 瑞樹がいれば、つい甘えて、瑞樹にいろんな事をしてもらってしまう。飲み物を用意する、食器を洗う、ドアチェーンをかける―――普段、自分だけなら自分がする筈のことを、瑞樹が先回りしてやってくれるのに甘えて、瑞樹を頼ってしまう。
 そうすれば、音を、意識できなくなる。
 他の所を見ていたら、その背後で蛇口から勢いよく流れ落ちて流し台のステンレスを叩く水の音を、意識できなくなる。カーテンを閉める音を、意識できなくなる。
 だから、ひとりになりたかった。この狭い空間で、音を立てるのは、“自分”だけ―――そういう環境に身を置いて、日常の中の小さな小さな“音”を、1つ1つ、再現したかったのだ。
 蕾夏が必死に訴えたので、瑞樹も渋々、了承してくれた。何かあったら、たとえ仕事中でも真っ先に瑞樹の携帯を鳴らすことと、瑞樹の仕事が早く終わりそうな明後日は、是が非でもここに泊まる、という2つを条件にして。

 グラスをゆすぎ、ほっと一息ついた時、ジーンズのポケットに押し込んでおいた携帯電話が、ブルブル、と震えた。
 ―――瑞樹かな。
 すぐに取り出し、携帯を開けると、案の定、メールが1通届いていて、その差出人名に“HAL”と表示されていた。

 『こっちはこれから修羅場だ。無事、家に着いたか?』

 ―――修羅場、かぁ…。
 これから始まる修羅場を想像し、眉を寄せた蕾夏は、プチプチと携帯のボタンを操作した。苦手、などと言ってはいられないが、やっぱり苦手なので、大したことのない文章に、やたら時間がかかった。

 『ちゃんと着いたよ。よく考えたら、MD聴きながら歩いてる人も、周りの音聞こえないで歩いてるに等しいよね。案外、普通に歩けた。修羅場、お疲れ様。なるべく穏やかに済むといいね』

 送信して、暫く待つと、短いメッセージが返ってきた。

 『穏やかな修羅場なんて、ある訳ねーだろ。じゃ、また後で』

 「…そりゃそうだよね」
 くすっ、と笑った蕾夏は、携帯を閉じ、またポケットに押し込んだ。

 今日から暫く…耳が聞こえない間は、携帯電話は、手元から離せない。
 何故なら、これは、今の蕾夏の生命線―――唯一、離れた所にいる瑞樹と、ほぼリアルタイムでコミュニケーションが取れる方法なのだから。


***


 その30分後。
 瑞樹は、修羅場のど真ん中にいた。

 「ど…っ、どういうことですか、成田さん!」
 目の前で、こめかみに血管を浮かせてエキサイトしているのは、大黒様に似た“I:M”の編集長である。
 その向かいに座る瑞樹は、いたって涼しい顔―――激怒の大黒様とは好対照だ。
 「次の表紙撮影を最後に、こちらのお仕事は一切受けられません、ということです」
 「……」
 人間、怒りがピークを過ぎると、呆然とするものらしい。今、瑞樹の前で半ば立ち上がりかけている大黒様も、呆然としている。
 この大黒様が怒りを露わにする日が来ようとは、瑞樹もさすがに予想できなかった。が、怒る理由は、よく分かる。
 いかに無茶苦茶な仕事の回し方をしているとはいえ、この会社は、出版業界ではAクラスに属する会社―――大手の1つである。売り上げも決して悪くない、むしろ良い部類に入る雑誌の編集長ともなれば、その手腕に異を唱える人間は少ないだろう。特に、目下の人間は。
 なのに、外部の、目下の、しかも新人に果てしなく近いカメラマンが、コスト削減最優先の彼の手法をボロボロにこき下ろしたのだから、怒って当然だろう。これまでふんぞり返ってた角度が大きければ大きいほど、貶された時の怒りは大きいのに違いない。
 「そ…そりゃあ、少々無茶な頼み方はしたと思いますよ? でも、それは最近では、できる限り善処してきたつもりです。成田さんだって、余裕がある時は、無理な仕事も連続で引き受けてくれたじゃないですか」
 「そういう時もありましたね」
 それについては、反論の余地もない。日記のショックから逃れるために、無茶して仕事を入れていたあの時期―――確かに、1週間にわたって結構な仕事をこなしてしまった。それは瑞樹の責任だ。
 「しかし、それで図に乗って、一旦は改善した待遇を元に戻したのは、そちらの傲慢だと思いますが、どうですか」
 「ご、傲…」
 「その傲慢を、他のカメラマンには押し付けず、俺にだけ押し付けるのは、一種の苛めだと思いますが、どうですか」
 「そ、それは、だから、他のカメラマン達が!」
 「ですから、俺は、降ります」
 うっ、と、大黒様が言葉を詰まらせた。
 「他のカメラマンは、俺のような新人が表紙を撮ってるのが、許せないんでしたよね。ですから、降ります」
 そう言うと瑞樹は、1枚の紙を、ヒラリと掲げて見せた。
 それは、“I:M”との間で交わした契約書―――勿論、時田同行のもとで作成したその契約書には、“I:M”の表紙用写真の撮影に関する記述が、しっかり入っている。表紙を撮る―――それが、瑞樹と“I:M”の間で交わされた契約の、大前提なのだ。
 表紙撮影から、降りる。イコール、この時交わした契約の完全破棄。
 「…も、もう少し、待ってもらえませんかね…。せめて、代わりのカメラマンが見つかるまで」
 大黒様の額から、脂汗が吹き出し始める。見ていて、ちょっと気の毒なほどに。
 そんな大黒様に、瑞樹はふっと笑いを返し、緩く首を振った。
 「ご迷惑なのは、俺も分かってます」
 「……」
 「でも―――もう、請けられません。俺には、ここの仕事は、請けられないんです」


 『慎重になることも、謙虚になることも、悪いことじゃない。むしろいいことだ。でも…君らは、もう歩むべき道を見つけてるんだ。“2人”でやっていく、という道をね。だったら―――同じ不条理に耐えるのも、“自分”に対する不条理じゃなく、“2人”に対する不条理に耐えればいい。そうすることが、結果的には“自分”を認めさせることにもなる筈だ』

 ―――君らも、もっと貪欲になれ―――。


 そう―――時田の言う通りだ。
 もう、道は見つかっている。同じ苦しむなら、時田の顔を立てるための苦しみや、キャリアを侮られての苦しみより、純粋にその道を歩むための苦しみの方がいい。
 「今はまだ早い」なんて言葉は、単なる自信のなさの表れだ。それだけの実績を積んでないことへの言い訳―――それに過ぎない。

 “いつ”なら、満足できる?
 一体“いつ”になったら、胸を張っていられるようになる?

 時は、永遠じゃない。いつか、いつか―――そう思いながら…もしも、残されていた筈の時が、失われてしまったら?

 瑞樹の脳裏に浮かぶのは、2枚の写真だった。
 1枚は、あの、色鮮やかで見るものを圧倒する、若き日の秋本の写真。そしてもう1枚は…穏やかでありながら、印象的な色が目に飛び込んでくる、晩年の秋本の写真。
 2枚を比べれば、よく分かる。どちらが優れた、本当の意味で人の心を打つ写真か。
 才能を信じて疑わなかった、瑞樹の祖父。けれど―――彼にとっても、時は、永遠ではなかった。あんなにも温かな、穏やかな色を心の内に秘めていながら…秋本は、色覚を失うまで、それに気づくことができなかった。そして、やっと気づくことができた時には…過去の名声も、家族も、全て失っていた。ただ1人…心の支えとなってくれる恋人以外は、全て。

 母や祖父については、まだ謎な部分が残っているが―――瑞樹は、祖父のあの2枚の写真から、1つだけ、学んだ。
 時は、永遠じゃない。
 焦る必要はないが、臆病になって躊躇してるほど暇でもない。そして―――どうにも我慢できない扱いをする上、今後のプラスになる要素が欠片も見つからないクライアントと、無駄な時間を過ごし続ける暇だって、当然、ある訳がないのだ。


 「…1年、撮る約束でしたから、来月までは責任持って撮らせてもらいます。でも…そこで、終わりです。契約延長には応じません」
 「……」
 決して覆る気配のない瑞樹の目に呑まれ―――結局、大黒様は、反論らしい反論ができなかった。


***


 うたた寝を、していた。

 手のひらに伝わる振動で、目を覚ます。ぱちっ、と目を開けたら、部屋の中がすっかり薄暗くなっていた。
 「あれ…っ」
 一体、いつの間に。
 もたもたと起き上がり、握っていた携帯電話をパチン、と開く。メールの主は、瑞樹だった。

 『ミッション完了』

 ―――そっか…良かった。
 “I:M”の仕事の理不尽さに、瑞樹以上に憤っていただけに、つい、口元が綻ぶ。蕾夏は、目を擦り、返信のメッセージを打った。

 『おめでとう。私、夕飯何にするか考えてるうちに、眠っちゃってたみたい。メールで目が覚めた』

 契約先1ヶ所無くなるのに“おめでとう”ってのも変だよなぁ、と考えていると、すぐに瑞樹からの返信が返ってきた。

 『起こして悪かった。眠れる時眠っとけよ。今日、本当にそっち行かなくて大丈夫か?』

 『うん。1日目から音を上げてたらかっこ悪いもの。帰ったら連絡してね』

 さっきまでより、少しだけ慣れた手つきで返信を打ち、携帯を閉じる。ほのかに手元だけ明るかった室内が、一気に暗さを増した気がした。

 ―――でも、不思議…。こんな薄暗い所にひとりきりでいても、あんまり怖いとか、そういう感じがしないんだもの。
 ベッドの上で、膝を抱えて、なんとなく窓の外を見遣る。ひとりぼっちで、もっと心細くてパニックになるかな、と思っていたのに―――あまりにも普通な自分に、ちょっと拍子抜けしてしまう。
 拍子抜け、といえば、“あのこと”も、そう。
 中学の時や、奏の時は、その時の光景をちょっと思いだすだけで、全身に震えがきて、冷や汗が吹き出した。蘇ってくる感覚は、恐怖―――時間をかけて、だんだん自分がバラバラになっていくような恐怖だ。なのに今回は―――死んでしまいそうなあの痛みばかり思い出して、恐怖はほとんど思い出せない。
 でも、考えてみたら、当たり前なのかもしれない。
 突き飛ばされて、意識が朦朧として…その、僅かな朦朧とした時間の次に襲ってきたのが、あの痛みだ。あとは、そればかり。蹂躙される恐怖の時間なんて、全然なかった。言うなれば、いきなりアッパーカットを綺麗に決められて、ダウンして終わり―――ボディーブローを食らうことも、ジャブを食らうこともなかったから、気絶して終わりに近い。こんな一方的な短期決戦では、恐怖を感じる間などなかったのだろう。
 ―――やっぱり…ちょっと、おかしいのかな、私…。
 女性にとって、殺されるに等しい行為をされた筈なのに―――何故、痛みしか思い出せないのだろう?
 屈辱感や嫌悪感は、一体どこへ行ってしまったのだろう? あまりにもあっけなかったから? あまりに痛みが鮮烈すぎたから? 犯されたことより、佐野の口から語られたことへのショックの方が大きかったから? この位何よ、と平然とできるほど、自分は割り切った性格ではなかった筈だ。だって、瑞樹以外の人と―――…。

 そう、考えかけて。
 思考が、ストップした。

 「……」
 今―――何を、考えようとしたのだろう?
 はっ、と我に返り、慌てて頭を振る。やっぱり、ひとりきりでいると、余計なことを考えてしまうらしい。カーテンを閉めて、電気をつけなくては―――そう思った蕾夏は、ベッドから下りようとした。
 そして、ふいに、妙な違和感を感じて―――その動作を止めた。

 左の腕が、なんだか、チリチリと痛む。
 うたた寝する前は、こんな痛みはなかった気がする。どうしたのだろう―――気になって、枕元のライトをつけてみた。
 そして、その独特な痛みを訴える左腕を見て―――目を、丸くした。
 「…なに…これ」

 蕾夏の左腕には、まるでひっかいたような赤い筋が、幾筋も走っていた。
 まだひっかいたばかりなのだろう。みみず腫れになる程ではないが、ちょっと痛々しいまでに赤くなっている。冷やして、荒れ止めをつければ、明日には赤みがひいているとは思うが…。

 この部屋には、蕾夏しかいない。
 それに、蕾夏は、爪を伸ばしたままにするのが嫌いだから、いつも綺麗に切り揃えている。今も―――10本の指、全ての爪が短く、丸く切り揃えられている。
 だから、このひっかいた痕は―――蕾夏が、自分でつけた痕と考えて間違いないだろう。

 ―――どうして…?

 なんだか、薄気味悪い。ゾクリ、と背筋が寒くなるのを覚え、思わず自らの腕を抱いた時。
 蕾夏を、奇妙な感覚が襲った。

 皮膚の下を、何かが、這い回るような感じ。
 気持ち悪い―――痒いとか、痛いとか、そういう感じじゃない。ただ、気持ち悪い。
 無意識のうちに、その気持ち悪さを剥ぎ取ろうとするかのように、二の腕をシャツの上からさする。
 さすっても、さすっても…形容し難い気持ち悪い感じは、一向に消えない。ぶるっ、と身を震わせた蕾夏は、爪を立てるようにして、薄い生地越しの腕を擦った。何度も、何度も、何度も。

 ―――気持ち悪い。
 皮膚が、じゃない。もっと内側が―――自分自身の体が、気持ち悪い。
 何だろう、これ…。何か、取れない汚れでも染み付いてしまったみたいに…気持ち悪い。汗をかいて、シャワーを浴びないまま眠ってしまった時と、似ているようで、全然似ていない。ただ…気持ち悪い。何かが、落ちなくて。


 あまりの気持ち悪さに、蕾夏は、カーテンを閉めることも、部屋の電気をつけることも後回しにして、バスルームに駆け込んだ。
 そして、どうかしてしまったんじゃないか、と自分でも不安になるほどに、泡だらけのスポンジで体中を必死に擦った。頭からぬるめのシャワーを浴びながら、何度も、何度も。

 何を、洗い流そうとしているのか。
 何を、消し去ろうとしているのか。
 蕾夏自身には―――何も、分からなかった。


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