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― 静寂の時 -2- ―

 

 「一宮君、一宮君」
 「……は?」
 「君、そのファンデーション、一体誰に塗る気なの?」
 呆れたような黒川の声に、我に返った奏は、手元のパレットを見下ろした。
 そこには、一体何と何を足したのやら、人の肌の色とは思えない色に成り果てたリキッドファンデーションが広がっていた。
 「…げ、何これ」
 「いや、それ、僕のセリフだから」
 思わず呟いた一言にあっさり突っ込みを入れられ、奏は、気まずい思いで、パレットをウェットティッシュで拭いた。仕事ではなく練習だったせいもあって、つい、ぼんやり考え事をしてしまったのだが、また随分と情けない所を師匠に見られてしまったものだ。
 「その様子じゃあ、まだまだ、メイクアップスタジオのスタッフとして立たせる訳にはいかないねぇ」
 苦笑混じりの黒川のセリフに、メイク道具を片付け始めた奏は、驚いて顔を上げた。
 「メイクアップスタジオ?」
 「そう。7月にオープンする、“Studio K.K.”」
 それは、知っている。
 ロンドンにいた頃から、その件は一応耳には入っていたし、店舗予定の物件も一緒に見に行った。大通りから1本裏道に入った、隠れ家的な立地条件のその物件は、大勢の客を入れるつもりはないのか、黒川のネームバリューと比較するとこじんまりとした広さだった。OLやちょっと金にゆとりのあるマダムをターゲットとしたメイクアップスタジオで、実際にきりもりするのは黒川の一番弟子。黒川は、オープニングには一応駆けつけるものの、それ以外はほとんどノータッチらしい。
 有名人のくせに、自分が写真を撮ること以外にはまるで無頓着な時田とは違い、黒川は、自分の名前を最大限に生かして、あらゆる分野に進出している。アーティストとしての黒川も凄いが、ビジネスマンとしてもセンスあるよなぁ、と、奏は感心していた。
 が、しかし。
 「…スタッフ??」
 そこが、初耳。そんな話、これまで一度も聞いた覚えがないし、奏自身も考えたことがない。何故なら、店がオープンする頃には、奏はイギリスに帰国している筈だから。
 「一体いつ、そんな話に?」
 「実はこの前、仕事で会ってね。ほら、今度のショーにも出る、佐倉さん」
 いきなり飛び出した名前に、ギョッとして目を見張る。
 「さ、佐倉さんが、何か」
 「うん? 一宮君が、日本に残るかどうかで迷ってるらしいから、背中押してやってくれ、って言われたよ」
 「あ…、そ、ですか」
 「で、そういう可能性があるんなら、臨時スタッフとして雇ってみるのもいいかもなぁ、とか思ったんだよね。僕がロンドンに戻っちゃうと、君、こっちにメイクやコーディネートの勉強するつてが無くなる訳だし、修行を兼ねて。ま、本業のモデルが忙しすぎて、そんな暇ほとんどないかもしれないけどね」
 「……」
 「それで―――どう? もう決めたの、残るか、戻るか」
 数度、瞬きを繰り返すと、奏は少し俯き、力なく首を振った。
 「まだ…考える余裕、ないです」
 「そうか。まあ、ショーが終わってから考えても、別に構わないしね。さて―――そろそろ“Clump Clan”に行く時間だろう? 僕ももう打ち合わせ行くから、適当にあがっといて」
 そう言ってポン、と座っている奏の頭を叩いた黒川は、鼻歌を歌いながら、部屋を出て行ってしまった。
 ―――ショーが終わってから、かぁ…。
 ぼんやりと、黒川のセリフを頭の中で繰り返す。そして、それが、とてつもなく遠い先の話のように感じられて、思わず大きなため息をついてしまった。

 先週までは、逆だった。
 日本にいられるのも、あと少ししかない。今後の身の振り方を、早く決めなくては―――そんな風に思って、残された時間を考えては焦りを覚えていた。
 でも、今は―――明日のことですら、考える余裕がない。
 金曜日の夕方を境に、奏の頭の中からは、自分自身のことなど吹き飛んでしまった。今のことも、未来のことも考えられない―――ちょっとでも気を抜けば、あの2人のことばかりが、頭に浮かんでしまう。
 土日を無理矢理確保したせいで、月曜日の奏は、覚悟していたとおり、仕事に忙殺された。くたくたの状態で部屋に戻り、気絶するように眠ってしまったせいで、2人に電話することもできなかった。
 そして今日は、火曜日。

 ―――あいつ…きっと、思い出しもしないんだろうな…。
 黒川のオフィスの壁に掛かったカレンダーをチラリと見て、眉を寄せる。
 5月9日―――聞いた話によれば、今日は、瑞樹の母の命日なのだ。
 今の瑞樹に、それを思い出す余裕はないだろう。いや…あったとしても、大した差はないだろう。葬儀も無視し、いまだに母を「あの女」と呼ぶ瑞樹が、母の1回忌を気にするとは思えない。その裏にある事実を、はっきりとではないが、ある程度知ってしまった今だから、余計に。

 奏は、だんだん、分からなくなっていた。

 最初は、瑞樹の母に対して、激しい憤りを覚えた。
 どういう事情があったのかは分からないが―――どうやら、実の息子を絞め殺そうとしたらしい上、幼い頃には虐待し、挙句に不倫の口止めまでさせてたらしいことは、日記を読んで大体分かる。もうそれだけで、どんな事情があっても絶対に許せない、こいつは人間のクズだ、と憤った。
 なのに―――三田典子の話を聞いて、奏は不覚にも、倖に少し同情してしまった。
 そして、それ以上に―――その倖の不幸の根源である筈の秋本に、言葉では上手く言い表せない想いを抱いた。哀れ―――そう、哀れな人間だな、と、哀しみを覚えたのだ。

 結局、誰が、一番悪いのだろう? 奏は、それが、だんだん分からなくなってきていた。
 諸悪の根源、と言うなら、一番最初に暴力を振るった秋本かもしれないが…だとしたら、それを止めなかった母親は? 秋本がそうした性格になってしまった原因でもある、秋本の育った家庭環境は? 時代背景を考えたら、戦争なんて要素もあっただろう。一体―――何が一番、悪かったのだろう?
 100パーセントの“悪”なんて、ないのかもしれない―――奏は、だんだん、そう思い始めている。
 許せない、絶対に許せない、許すべきではない。そういう思いとは、また別の次元で、そんな酷いことをしてしまう人間の弱さを、奏はなんとなく、理解できる。自分も、そういう弱い人間の1人だから…理解できる。勿論、瑞樹の立場からしたら、そんなことは簡単には言えないだろうけれど―――第三者である奏には、倖の弱さも、秋本の弱さも、許容できる気がする。

 …だとしたら。
 この憤りも、いずれは、同情や憐憫に変わる日が来るのだろうか―――…?

 「…ちっきしょ…っ…」
 ギリ、と奥歯を噛み締め、襲ってくるものに耐える。
 今は、考えたくなかった。何かを振り切るように、ガタン、と乱暴な音を立てて立ち上がった奏は、広げてあったメイク道具を片付け始めた。
 その脳裏では―――“裏切られた”、その言葉だけが、何度も浮かんでは奏を苛んでいた。

***

 “Clump Clan”の用事は、黒川のアシスタントとして、ではなく本業―――モデルとしての用事だった。
 「はい、ターンして」
 デザイン部の担当者に指示されて、奏は鏡の前でくるりとターンしてみせた。
 「どこか引き攣れるとことか、ない?」
 「うーん…、特には」
 「ちょっと歩いてみて」
 私服のスニーカーのまま、ショーで着る衣装のスーツを身に纏い、歩いてみせる。担当者は、奏の様子を―――というより、奏が着ている服の様子を、あらゆる角度から確認し、最後に大きく頷いた。
 「オッケー。じゃあ、これでいきます。パタンナーのミスで、何度もフィッティングにつき合わせちゃって、すみませんでしたね」
 「いえいえ」
 全ての衣装は、本来なら既にフィッティングは終わっている。が、この1着だけ、型紙にミスがあったことが仮縫い段階で分かり、ちょっと出来上がりが遅れてしまったのだ。仮縫いの時、まるでギプスでも嵌められたみたいに動きの取れないスーツを着せられた時は、そのロボットみたいな動きに、うんざりするよりウケて大笑いしたものだ。
 ショーまで1ヶ月を切り、デザイン部もますます忙しくなっているようだ。着替えたら返しといて下さいね、とだけ言い残し、担当者は事務所を出て行った。

 ―――しかし、落ち着かないな、ここ。
 “Clump Clan”の事務所が、銀座の新店舗の上にほぼ移動したせいで、今、奏が来ているのも、銀座のオフィスである。店舗内のフィッティングルームはまだ仕上げが残っているそうで、奏は、オフィスの一角をパーティションで区切ったような空間で、着替えざるを得なくなっている。仕事柄、どこでも着替えられる神経の図太さは持っているが、電話の音が鳴り響くオフィス内は、さすがに落ち着かない気分にさせられる。
 手早く、衣装のスーツから私服のシャツとジーンズに着替えた奏は、スーツをきっちりハンガーに掛け、にわか仕立てのフィッティングルームから出た。
 「これ、お返しします」
 一番近くにいた“Clump Clan”の社員に、スーツの掛かったハンガーを渡した奏は、次の瞬間―――目の端に、見覚えのある背格好の人物が映ったのに気づいた。

 ―――今のって…。

 無意識のうちに、顔が強張る。
 スーツを返却した社員に適当に挨拶し、奏は、足早にオフィスを後にした。消えた後姿を追うように、急いで廊下を進むと―――やがて、奏が思ったとおりの人物の姿を、エレベーターの前で見つけた。
 「……」
 声が、出なかった。
 驚きのためか、怒りのためか…声が、出なかった。
 なのに、書類片手にエレベーターを待っていた男は、まるで奏が名前を呼びでもしたかのように、一瞬肩を強張らせ、ゆっくりと奏の方に顔を向けた。

 「―――…奏…」
 僅かに丸くなる、切れ長の鋭い目。
 そこにいたのは、紛れもなく―――ヒロだった。

 なんだって、今日に限って、ここに来ているのか―――偶然の再会を呪いながら、奏は、拳をきつく握り締めた。
 「…何、平然と、こんなとこにいるんだよ…」
 震える唇から、やっとの思いで搾り出した奏の言葉に、ヒロの目がすっと翳りを帯びる。
 「なあ」
 「……」
 「…答えろよ」
 どこか苦しげに目を細めたヒロは、奏の視線を避けるように、目を逸らした。
 途端―――奏の中で、張り詰めていた糸が、音をたてて、切れた。

 「……っ!」
 堪えきれない衝動に駆られ、奏は、ヒロに掴みかかった。
 その勢いに押され、ヒロの体がよろける。2人は、奏が詰め寄る力で、エレベーター前から階段の方へと流された。背後で、エレベーターが到着したチーン、という音が聞こえたが、誰か人が降りてきたかどうかを確認する余裕も、もう奏には残っていなかった。
 廊下に敷き詰められた、まだ毛足の長いカーペットに足を取られ、2人して、階段手前のスペースに倒れこむ。奏は、仰向けに倒れたヒロの胸倉を掴んで、上半身を引き起こした。
 「なんで…っ!」
 引き起こしたヒロを、がくがくと揺さぶる。その衝撃に僅かに眉を顰めたヒロは、硬い表情で、奏から目を逸らしていた。
 「なんで、黙ってたんだよ!? 蕾夏の名前が出た時…! なんで、」
 「……」
 「なんで、知ってて―――オレのこと知ってて、蕾夏に、あんな…っ」
 「―――落ち着けよ」
 場違いなほど、皮肉っぽい笑いを含んだ声が、奏を遮った。
 思わず、ヒロを揺さぶる手を止めると、視線を逸らしていたヒロが、奏に目を向けた。その顔に浮かんだ歪んだ冷笑を…奏は、信じられない思いで凝視した。
 なんで、この場面で、笑えるのか。
 憤りに震え始める奏に、ヒロは、暗い目のまま、口の端を吊り上げてみせた。
 「…良かったな。お前のおかげで、不幸中の幸いじゃん」
 「…なに、」
 「あの時、あいつの携帯が鳴って、お前の名前表示されててさ。思わず我に返っちまったよ。いよいよこれから、っていう、いーとこだったのに」
 「……」
 「そんな訳で、俺、イッてねぇから。よっぽど運が悪けりゃ別だけど、まず孕んだりしねぇよ。ま、俺もそんな展開、願い下げだから、お前に邪魔されて助かっ…」
 ヒロの言葉が、鋭い平手打ちの音に遮られた。
 最後まで聞く理性など、持ち合わせていなかった。奏は、ぐい、とヒロを引き寄せると、力いっぱいその頬を平手打ちしていた。
 多分、口の中を切ったのだろう。勢い、体が傾いだヒロの口の端に、僅かに血が滲んだ。
 「あんたが…っ」
 情けなくて。悔しくて。腹立たしくて。
 奏の目に、涙が滲んだ。
 「あんたが、そんな最低な男だなんて、思わなかったよ…!」
 「……」
 平手打ちの勢いのまま、顔を背けていたヒロは、奏の詰る言葉に、眉ひとつ動かさなかった。口の中が痛むのか、少し顔を歪め、口の端を指先で拭っただけで。
 「な…んだよ…不幸中の幸い、って。そういう問題じゃないだろ…!? あんた、自分が何したか分かってんのかよ!? え!?」
 「……」
 ヒロの口の端が、ほんの僅かに、上がった。
 ゆらり、と顔を奏の方に向けたヒロの、その表情に―――沸点に達しかけていた奏の怒りに、突如、冷水が浴びせられた。

 ヒロの口元は、微かに、笑っていた。
 目は、深く暗く沈んでいながら、口元だけは―――どこか安堵したような、待ち侘びていたものをやっと得られたような、そんな笑みを浮かべていた。

 「…殴れよ」
 「……」
 「もっと、殴れよ、奏。ボコボコに殴って、ぶち殺していいぜ、俺のこと」
 「…ヒ…ロ」
 この、男は。
 奏に自分を殴らせるために、わざと挑発したのだ。あんな、最低な言い方をして。
 罰を与えられたくて―――誰にでもいい、誰かに、死ぬほどの罰を与えられたくて。
 「…平然としてるように見えるか?」
 ふっ、と笑ったヒロは、傷口の痛みに、また少し顔を歪めた。
 「―――見えるかもな。ガキの頃から、平気な顔には慣れてるし…13年間、藤井のことなんて忘れたフリして、生きてきたしな」
 「……」
 「…俺が、お前なら」
 ヒロの口元から、笑いが消えた。
 「俺が、お前みたいに、罪悪感を目一杯顔に出して、相手が無視するのも構わず土下座するような人間なら―――そもそも、13年も引きずらずに済んだのかもな」
 「……」

 その表情に、奏は、覚えがあった。嫌というほどに。
 それは、奏自身の表情―――瑞樹に首を絞められた時、このまま死ねたらどんなにいいだろう…そう思った時の、自分の表情だった。

 『お前まで、堕ちるな。奏』

 ―――成田…。
 ヒロの胸倉を掴む手が、震える。
 唇を噛んだ奏は、力任せにヒロを突き放した。
 床に仰向けに倒れるヒロを振り切るように立ち上がる。そのまま奏は、まるで逃げるかのように、階段を駆け下りた。

 胸が、痛い。
 痛くて痛くて―――息ができないほどに、痛かった。


***


 背中を叩かれ、蕾夏は、反射的に声を上げそうになった。
 ぐっ、と悲鳴を飲み込み、振り返る。そこには、笑顔の小松が立っていて、蕾夏に向けて1枚の紙を掲げていた。

 『今日時間あるんで、よければ下見取材2日目、同行しましょうか?』

 「……」
 昨日、蕾夏1人で行った下見取材が、思うように(はかど)らなかったことを気にしてくれたのだろう。それに、蕾夏自身も目ぼしいスポットなどをデジカメで撮ったが、小松に撮ってもらった方が、後から雰囲気を掴みやすい写真が撮れるかもしれない。
 「…ありがと。お願い」
 蕾夏が口元を綻ばせてそう答えると、小松はにかっと笑い、手を振って去って行った。

 ―――いい人の多い職場で、良かった。
 給湯室で、持参したマグカップに水を注ぎながら、蕾夏は小さく息をついた。
 月曜に休んでいた間に、編集長がきちんと説明をしていてくれたのか、編集部の人々は蕾夏に対し、概ね普段通りに接してくれている。筆談に手こずってはいるものの、それ以外で戸惑う部分は案外少ない。元々、専属ではあるが社員ではないし、ライターという専門職だから、記事に関すること以外で他の人と接する機会は少なかった。その辺も、耳が聞こえなくてもあまり問題にならずに済んでいる大きな理由かもしれない。
 とはいえ―――当然、全ての人が、今の小松のようにすんなり順応してくれている訳ではないだろう。
 特に“反藤井派”の杉山のような人々が、今回のことをどう言っているか―――蕾夏だって、気にならないと言ったら嘘になる。でも、気にしたところで、彼らが何と言っているか、蕾夏はその耳で聞くことはできない。かえって聞こえなくて幸いだったかもね、と頭の片隅で考えながら、蕾夏はマグカップ片手に席に戻った。

 病院で処方された、内耳の血流を良くする薬、とやらを飲んでいたら、机の上に置いた携帯電話の震えが、机の天板を伝って蕾夏の腕に伝わってきた。
 マグカップを置き、携帯を手に取ると、液晶には“父”と1文字だけ表示されていた。それを見て、蕾夏は複雑な表情になった。
 両親には、月曜日、瑞樹の方から連絡を取ってもらった。
 突発性難聴らしく“ほとんど”聞こえないが、病院でCTも撮ってもらったが異常はなかった。とりあえず薬を処方してもらって様子を見ているが、日常生活には今のところほとんど支障はないので心配しないで欲しい―――その説明に、両親は当然「一旦家に帰って来い」と言っていたらしい。けれど、瑞樹から受話器を受け取った蕾夏が、明瞭な発音で病院の診察結果などを話すと、少し安心したのか「いつでも帰っておいで」にトーンダウンした。
 電話は無理だから、連絡は携帯かパソコンのメールにするか、瑞樹に伝言して欲しい、と頼んでおいたが―――やはり父も、携帯メールにはまだ慣れていないのだろう。昨日蕾夏が送ったメールへの返信が、今日やっと返せたらしい。

 『ひとまず無事に暮らしてるようで安心した。土日は、うちに帰ってきたらどうだい? 新しい仕事で溜まったストレスも影響してるかもしれないよ。休みの日位、ゆっくりしなさい』

 「…ごめん…」
 メールを見ながら、思わず、呟く。
 両親の心配は、痛いほどによく分かる。自分が逆の立場なら、娘の都合などお構いなしに、とにかく様子を見に押しかけてしまうだろう。それでも、常に「1人で立つ」ことにこだわりを持つ娘の性格を知っているからこそ―――そして、何があっても絶対に蕾夏を助けてくれる瑞樹を信頼しているからこそ、その心配を堪えて、あえて遠くから心配しているのに違いない。

 『土曜日は、瑞樹と浅草の取材に行くの。コラム締め切りの16日までは、こっちで頑張るつもり。耳以外は、心身共に健康で充実してるから、心配しないで。疲れたら、ちゃんと一度そっちに戻るね』

 ―――心身共に…、か。
 送信ボタンを押して、僅かに、眉をひそめる。

 長袖のシャツに包まれた腕を、軽く、さする。
 あの、わけの分からない嫌悪感と衝動は、一体何だったのだろう―――新たに生まれた不安に、蕾夏は少しだけ、体を震わせていた。


***


 ドアの前で、蕾夏の携帯を3回鳴らして、切った。
 暫し待つと、ドアの向こうに人の気配がして、ゴソゴソ音がした後、鍵の開くカチッという音がした。
 メールではなく、通話での“不在着信あり”は、家の前に到着したぞ、のサイン。内側から開いたドアから姿を現した蕾夏は、既に魚眼レンズで瑞樹の姿を確認してか、嬉しそうな笑顔をふわりと湛えていた。
 「おかえりなさい」
 サラリと向けられた言葉に、瑞樹は柄にもなく、少しうろたえた顔になってしまった。
 そんな瑞樹の珍しい顔を見て、うまくいった、とでも言うようにふふっと笑った蕾夏は、「どうぞ」と言って瑞樹を招きいれた。

 正直、この2日間、生きた心地がしなかった。
 月曜も火曜も、運悪く遅い時間帯に撮影や打ち合わせが入ってしまい、蕾夏を1人にするしかなかった。いくら蕾夏が望んだこととはいえ、1人になった途端、精神的に不安定になっておかしな行動でも取るのではないか、と気が気ではなかった。おかげで2日連続、ほとんど眠れなかった。
 しつこい位に携帯メールで連絡は取っていても、蕾夏の様子は分からない。心配させまいと無理してるのでは…と不安だったが―――とりあえず、今、楽しげな様子でキッチンに向かう蕾夏は、無理に楽しそうにしている様子ではない。そのことに、少しだけホッとした。

 「ウーロン茶でいい?」
 冷蔵庫を開けながら振り向く蕾夏に、瑞樹は軽く頷いてみせて、荷物を部屋の隅に置いた。
 座る間もなく、ディパックから筆談用のメモ帳とペンを引っ張り出し、短い言葉を書き付ける。それを、ウーロン茶をグラスに注ごうとしている蕾夏の目の前に、ずい、と突きつけた。

 『ただいま』

 「…時間差攻撃って、ずるいと思う」
 メモを見つめて、少し頬を染めた蕾夏は、拗ねたように唇を尖らせた。そして、コトン、と頭を傾けて、瑞樹の肩の辺りに額をつけた。
 縋るように、華奢な手が、瑞樹のシャツをぎゅっと握り締める。その仕草に、やはり蕾夏も心細かったのだと分かり―――瑞樹も、緩く蕾夏を抱きしめて、それに応えた。

 互いの体温が、皮膚にやっと届く位の距離。
 たったそれだけで、気が違いそうなほどの不安や渇望が、緩やかに癒されていくのを、瑞樹も蕾夏も感じていた。

 

 蕾夏の様子は、想像以上に、落ちついていた。
 以前、3週間あまりにわたって耳の聞こえない状態を経験しているせいか、本人が豪語したとおり、耳が聞こえないハンデはあまり感じていないらしい。もっとも、1歩外に出れば、それなりの不便を感じているのだろうが、家の中にいる分には普段通り振舞えるようだ。
 蕾夏の父からは、昨日も今日も電話があり、その心配ぶりが声から伝わってきて、申し訳ない気分になった。とにかく、「電話をかけてきてもらっても応対できないことを蕾夏が気にしたから、連絡しただけだ。日常生活に支障はないし、元気だから、心配の必要はない」と説明したし、事実、蕾夏もそのようにメールを送っているので、是が非でも家に連れ帰る、といった展開にはならずに済んでいる。が…、もしも両親が様子を見に来ても、ああ報告通りだな、と納得して帰るかもしれない。そう思わせるほど、部屋の中でてきぱきと動き回る蕾夏の様子は、いつも通りだ。
 ただ、1点、変わったのは―――瑞樹の行動を、じっと見つめるようになったこと。
 音の再現、という命題に取り組んでいる蕾夏は、自分がたてる音だけじゃなく、瑞樹がたてる音も、脳裏に再現させようとしているらしい。鍋をコンロの上に置く音、箸を取る音、食べ終わった食器を重ねる音…その全てを目で追い、意識を集中させている。疲れるんじゃないか、と訊いたところ、「もう慣れちゃった」と蕾夏は苦笑混じりに答えた。

 声での会話がない以外は、これといって普段と変わらない、当たり前な日常。
 その中で、瑞樹がある異変に気づいたのは―――シャワーを浴び終えた蕾夏が、着替えて部屋に戻ってきて暫く経った頃だった。


 小さなくしゃみに、眺めていた今月の“A-Life”から瑞樹が目を上げると、バスタオルを頭から被った蕾夏が、キッチンでウーロン茶をグラスに注いでいた。
 「…うー…、なんか、寒い」
 今夜は、5月にしては少し寒い。水を含んだ髪のせいで、少し冷えてしまっているのだろう。まだ鼻をぐずぐずいわせている蕾夏を見かねて、瑞樹は雑誌を放り出し、立ち上がった。
 不意打ちのように、バスタオルをひったくる。
 「あ!」
 ペットボトルに手をかけていた蕾夏は、びっくりしたように、瑞樹を振り返った。その頭を抱え込んで、瑞樹は、以前やったのと同じように、濡れた髪をガシガシと乱暴に拭き始めた。
 「も、もーっ! 瑞樹ったら酷いよっ。あはははは、くすぐったい、くすぐったいってばーっ!」
 本当にくすぐったそうに笑いながら抗議する蕾夏に、瑞樹も思わず笑ってしまう。
 ふざけてポカポカと叩いてくる蕾夏の手を避けつつ、なおも頭を拭いていたが―――振り上げられたその腕に目がいった途端、瑞樹の手が、ピタリと止まった。

 「―――……」
 腕を挙げたせいで、ゆったりとした作りのネグリジェの袖は、二の腕辺りまで上がってしまっている。そのため、蕾夏の白い腕の大半が、瑞樹の目の前に晒されていた。
 日頃、光の粒子を集めたかのような白さの、蕾夏の腕。
 それが―――まるで、肌に合わないスポンジで目一杯擦ったかのように、全体的に赤くなっていた。

 思わず、バスタオルを離し、蕾夏の手首を掴んだ。
 はっ、としたように蕾夏が顔を上げたせいで、バスタオルが、髪の上を滑って床に落ちた。瑞樹を見上げるその表情は―――瑞樹が何に気づいたのかを察している顔だった。
 慌てて、もう一方の腕を掴み、袖をまくってみる。やはり、肘の少し下辺りまでの腕が、擦りすぎたように赤くなっていた。食事の用意をする時、蕾夏はシャツの袖をまくっていて、確かこの辺りも晒されていた筈だが、こんな風に赤くなってはいなかった。とすると―――シャワーを浴びた際、蕾夏が自分でこんな風にした、としか考えられない。
 「あ…、あの、これは」
 少し怯えた色をした声で、蕾夏が何か言おうとした。
 が、その口調から、蕾夏が誤魔化そうとしているのを感じ取った瑞樹は、他の箇所は一体どうなっているのか、と、蕾夏のネグリジェの襟元を少し引っ張った。
 「ちょ、み、瑞樹っ」
 焦った蕾夏が、抗うように、体を捩る。その弾みで、瑞樹と蕾夏の足が交錯した。
 「きゃ…っ!」
 「うわ」
 慌ててバランスを取ろうとしたが、時、既に遅し。2人は、もつれるように、キッチンの床に倒れてしまった。
 仰向けに近い状態で倒れた蕾夏は、まるで瑞樹に押し倒されたような姿勢になっていた。倒れた拍子に頭でも打ったんじゃないか、と、瑞樹は即座に体を起こした。
 「お、おい、大丈夫か…」
 自分の体の下にいる蕾夏を助け起こすように、瑞樹が蕾夏の肩に手をかけた途端。
 蕾夏の表情が、一瞬にして、凍りついた。

 「―――っ、い、いやっ!」
 「!!」
 蕾夏の両手が、瑞樹の胸を突く。
 油断していたせいか、それともその力の強さのせいか―――瑞樹はあっさり、蕾夏に突き飛ばされた。

 ドサリ、と、蕾夏の脚の横辺りに肩から倒れた瑞樹を見て、蕾夏は、自分のしたことに自分で驚いたように、目を見開いた。
 「…いってー…」
 床で打った肩が、少し、痛かった。
 肘で体を支えるように起き上がり、ちょっと顔を歪める。そんな瑞樹に、蕾夏も慌てて体を起こした。
 「ご…、ごめんっ。ごめんなさい」
 ちょっと弾みをつけるようにして、更に体を起こした瑞樹は、ここでようやく、顔を上げて蕾夏の方を見た。
 蕾夏は、顔面蒼白になっていた。
 困惑したような、自分で自分が信じられないような、そんな顔。瑞樹と目が合うと、まるで怯えたように、必死に何かを否定するかのように、首を横に何度も振った。
 「ち…違う、の。違うの。そうじゃないの」
 「……」
 「今の、違うのっ。瑞樹が怖かったとか、そういうんじゃ―――じ、自分でも、なんであんなことしたのか、全然…」

 ―――蕾夏……。
 小刻みに震え始める蕾夏に、瑞樹の目が、苦しげに細められた。
 多分―――蕾夏の言う通りだろう。
 蕾夏には、何故自分が瑞樹を突き飛ばしたのか、全然分かっていない。今、震えている自覚も…多分、ない。瑞樹の体温を求めて手を必死に握ってくるし、抱きしめれば抱きしめ返してくる。そんな蕾夏だから―――信じられない。自分のしたことが。

 「わ…私、変、なの」
 蕾夏の手が、自らの腕を抱き、無意識のうちに、さする。
 「この前から―――1人になった時、から、なんか…時々、変に、なるの。気持ち悪くて…なんか、腕とか脚とか、気持ち悪くて」
 斜めに投げ出された蕾夏の脚―――ネグリジェの裾がすこしまくれ上がり、膝の少し上まで露わになったその脚も、やはり、擦りすぎたように赤くなっていた。
 「…時々、おかしくなる、だけなの」
 「……」
 「…瑞樹……」
 蕾夏の目に、みるみるうちに、涙が溜まる。
 心細げに、瑞樹に向かって伸ばされた手。その手を取った瑞樹は、ゆっくりと蕾夏を引き寄せ、抱きしめた。


 心は、その温もりを求めて、今もこうして必死に叫んでいるのに―――自分の心を無視して、体が、拒絶する。
 この1年あまりをかけて、一度は克服した苦しみ。なのに…蕾夏はもう一度、同じものを乗り越えることを強いられている。
 きっと、拒絶「される」より、拒絶「する」方が、辛い。
 自分が辛そうな顔などしたら―――蕾夏はもっと、辛い思いをするだろう。そう思うと、決して、今の顔を蕾夏には見せられなかった。こんな―――置き去りにされた子供みたいな、不安げで寂しげな顔は。


 必死にしがみつく蕾夏の力に応えるように、瑞樹は更に蕾夏を抱きしめ、その濡れた髪に顔を埋めた。
 こうして抱き合って、1人の人間になってしまえればいいのに―――半分本気で、そんなことを思いながら。


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