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― 静寂の時 -3- ―

 

 ―――また、帰って来てない…。
 灯りの点いていない窓を見上げて、桜庭は眉をひそめた。
 バイクも見当たらないのだから、まだ帰宅していないのだろう。ため息をついた桜庭は、諦めて、踵を返して歩き始めた。

 帰宅の途中、わざわざ遠回りして見上げる窓は、もうこれで4回連続で真っ暗だ。
 いや―――土日は撮影のために遠出していて、ここには来れなかった。そしてその前の金曜日は、やっぱり窓は真っ暗だった。もし、桜庭の知らない土日もであるなら…7日連続で、この状態ということになる。
 帰宅が桜庭より遅いことなど、これまでだって何度もあった。お互い不規則な仕事だから、タイミングが合わなければ1ヶ月連続で会えなかった時もあった。各地を転々とするコンサートなどを担当してしまえば、何ヶ月も帰ってこないことだってある。しかもヒロは、こちらから訊かない限り、仕事の予定なんて話さないから、気になって桜庭が電話するまで、長期出張に出ていることを知らない場合が大半だ。
 でも、今回は、今までとは違う。
 仕事の時間帯以外は、電源を切ってるのだろうか。携帯が、繋がらない。
 1階の郵便受けの中身が増えたり減ったりしているから、帰ってきていることは確かだ。なのに、朝、自宅の電話に電話してみても、やはり結果は同じ―――留守番電話のまま、本人が出ることはない。
 この1週間―――ヒロの顔はおろか、その存在を感じさせるものを、桜庭は何ひとつ見聞きしていないのだ。

 この、1週間。
 先週の今日、あの名刺を渡してから―――1週間、ずっと。

 ただの偶然とは、やっぱり、思えない。
 ヒロは、あの名刺をどうしただろう? 渡した時は、大して反応も示さず、テーブルの上にぽい、と放り出しただけだったけれど…やっぱり、会っただろうか、蕾夏と。会って…そこで、何があったんだろう?

 「…まずかった、の、かな」
 俯き加減で歩きながら、ぽつりと、呟く。
 会いたそうだった。ヒロは。
 二度と会いたくない、と言いながらも、どこかで―――会いたそうにしていた。それは、恋焦がれる人に会いたい、というよりは、何かを決着させたがってるような…そんな、感情より理性の部分での望みに、桜庭には思えた。蕾夏は絶対に会いたくないのだとしても、ヒロは違う。だから、会わせることは、少なくともヒロには良いことなのだと…桜庭は、そう思った。だからこそ、名刺を渡した。
 その結果、誰が、何が、どうなるか。そんなこと、ほとんど考えていなかった。
 ただ―――動かしたかった。澱んで、停滞したままになった“何か”を。

 ―――そういえば…あいつにも、あれ以来、会ってないな…。
 蕾夏と繋がるもう1人の顔を思い浮かべ、ただでさえ沈んでいた気分が、余計沈んだ。
 もっとも、こっちは、1週間やそこら顔を会わせないのは、いつものことだ。それに―――振られたばかりで顔を会わせるのは、正直、気が重い。用があって事務所に寄るたび、そこに彼の姿がないと、少し寂しさを感じながらもどこかでホッとしていた。
 でも…事態が事態だけに、そして彼の恋人が恋人だけに、気になる。
 彼なら、何か知っているかもしれない。さっぱり連絡のつかないヒロには、何も訊くことができないが、彼になら…。

 そう考えたところで、気がついた。
 「…バカみたい」
 あたし、あいつの携帯番号すら、知らないじゃない。
 去年の写真展の時の名簿、メモっとけばよかった―――なんて考えて、余計、落ち込んだ。

***

 ところが。
 落ち込んだ翌日―――幸運とも不運ともつかないものが、向こうから転がり込んできた。

 「―――…」
 夕方近くに、留守中に電話でも入ってたかな、と立ち寄った事務所。そこに瑞樹の姿を見つけ、桜庭の心臓が大きく跳ねた。
 川上がいつも事務処理に使っているパソコンの前に瑞樹が座り、何やらやっている。川上は、その背後に立って、画面を覗き込んでいた。
 「…ああ、なんだ、こいつだ」
 真剣な面持ちで画面を睨んでいた瑞樹が、何かを見つけたらしく、ディスプレイをコンコン、と爪で弾いた。
 「えっ、何かおかしくなってた?」
 「川上さん、こういう画面開いただろ」
 「…あー…、確かに、見慣れない画面が開いてバタバタしたような記憶が、ちらっとあるわねぇ…。そうそう、確かにこんな画面」
 「慌ててたんだろうな。入力フォームは残ってるけど、必要な処理の部分、ばっさり削除してる」
 「ええぇ!? ちょ、ちょっと、どうすればいいの!? 作り直すって言っても、中身の処理まで知らないわよ!?」
 「バックアップ貸して。そっちからコピーしてくれば直せるから」
 「ほんと? バックアップね。ちょっと待って」
 焦った様子の川上は、そう言って自分のデスクの方へと駆け出し―――そこでやっと、桜庭に気づいた。
 「あら、桜庭さん。お疲れ様」
 「…お疲れ様」
 入りがたいムードに気圧されたまま桜庭が答えるが、パソコン前の瑞樹は、振り返ることもなかった。
 「どうかしたの? パソコン」
 「え? ああ、通信費管理に使ってたExcelの表が、なんかおかしくなっちゃって。それで成田さんに見てもらってたの」
 「ふーん…。直るの」
 「みたいよ。良かったわ。成田さんが、元SEで」
 ―――表計算は、SEとかそういう職種とは、あんまり関係ない気するけど。
 でも、川上の頭の中では、システムエンジニア、イコール、コンピューターのエキスパート、ということになっているらしい。突っ込むのも無粋なので、桜庭は黙って、荷物を机の上に置いた。


 2ヶ所ほどに電話を入れ、雑務をこなしつつ、桜庭は常に背後を気にしていた。
 川上の表計算問題は、ほどなく解決を見たらしく、瑞樹は今、桜庭の後ろの席で何やら作業をしている。色々聞いてみたいし、話さなくてはいけない事もある気はするけれど―――そのタイミングが、どうにも掴めない。川上がいるせいもあるが、何より、背後から感じられる気配が「話しかけるな」と無言で訴えてきている気がして、到底話しかけられるムードではないのだ。
 背後のこの気配は、敵意さえ感じさせるほど、冷たい気がする。
 何か、あったのだろうか? もしかして…この前、自分があんなことを言ってしまったせいなのだろうか?
 元々、愛想良くなどしてもらった記憶もないが、普通の仲間としてさえ扱ってもらえなくなったのだとしたら…悲しい。やっぱり言うんじゃなかった、と、桜庭は自分の言動を後悔した。


 軽い自己嫌悪に桜庭がため息をついていると、背後で、瑞樹が席を立った。
 ハッとして顔を上げると、瑞樹は、書いていた書類を川上に渡していた。どうやら、時田事務所に提出するための書類を作っていたらしい。
 もしかして、今が話しかけるチャンスかな…と、桜庭は思ったのだが。
 「じゃあ、お先失礼します」
 書類を渡した瑞樹が発した一言に、桜庭は思わず「えっ」と小さな声をあげてしまった。
 「はい、お疲れ様でした。Excel表、助かっちゃったわ。ありがとね」
 「いえ」
 ―――ちょ…っ、ま、待ってよっ。
 焦る桜庭をよそに、瑞樹は川上とそんな言葉を交わし、あっという間に荷物を片付けていく。そして、桜庭が声をかける隙など一切ないまま、事務所を出て行ってしまった。
 どうしよう―――迷ったのは、一瞬だった。
 瑞樹が開けたドアが閉まるのとほぼ同時に、桜庭は席を立った。

 廊下に飛び出すと、瑞樹の背中はまだそんなに遠ざかってはいなかった。
 「成田っ」
 川上を気にして、後ろ手でドアを閉めながら桜庭が呼ぶ。
 すると瑞樹は、その声を無視せず、ピタリと足を止めた。
 ゆっくりと振り返る瑞樹に、幾分ほっと安堵を覚えながら、桜庭は瑞樹のもとに駆け寄った。勿論、振り返ったその顔は、冷たすぎると言えるほどに無表情で、いつも以上に愛想がないのだが―――ともかく、無視されなかっただけでも救いがある。
 はぁ、と軽く息をつき、ちょっとだけ、気持ちを静める。何から言おう、と少し迷った結果、出てきたのは無難な話だった。
 「こ…この前の、アシスタントの件。“Clump Clan”の。あれ、どうなったの?」
 少し上ずった声で桜庭が訊ねると、瑞樹は、ほとんど表情を変えることなく、答えた。
 「もう決まった」
 「…あ、そう、なんだ」
 と、これで終わってしまっては、意味がない。焦りながら、桜庭は必死に次の言葉を探した。
 「じ、実は、さ。この前、言い忘れたんだけど―――その、“Clump Clan”のショーに、ヒロが…あたしの、元弟が、ちょっと関係してて」
 僅かに、瑞樹の眉が動く。が、それは驚きを表すものではなかった。
 「それで、多分、成田も会ってると思うんだけど―――…って、」
 「……」
 「…もう、気づいてた? もしかして」
 少々トーンダウンしつつ、桜庭が訊ねると、瑞樹は微かなため息をついて、視線を逸らした。
 「…やっぱりな」
 小さく、呟かれた言葉。
 ああ、さっきの眉の動きは、疑いが確証に変わったせいだったのか、と桜庭が納得した、次の瞬間―――続けて瑞樹が向けた視線に、桜庭は、思わず、息を呑んだ。

 それは、静かな目だった。
 なのに―――激しい怒りと憤りを、その奥に秘めた目だった。
 でも、それ以上に感じるのは、悲しさ―――悲しくて、悲しくて、涙すら出てこないような、悲しさ。人の目が、こんなに静かな怒りと悲しみを訴えることができるなんて、桜庭は今まで知らなかった。
 瑞樹が怒りを向けている相手が自分であることは、勿論、分かる。
 けれど…魅せられる。胸を痛くさせるほどのその瞳に、桜庭は魅せられていた。

 「…佐野が持ってた名刺は、あんたが渡したのか」
 「…え…っ」
 上手く、声が出なかった。
 いきなり、ヒロのことを“佐野”と苗字で呼ばれ、名刺という核心部分にいきなり触れられて、咄嗟に声が出なかった。
 それでも、なんとか唾を飲み込み、答える。
 「ふ…藤井さんの、名刺、なら…渡したけど。先週の木曜日に」
 「…なんで」
 何故?
 ドキン、と胸が鳴る。何故―――そこには、色々な想いが複雑に絡み合っている。一言でなんて、とても言い表せない。
 「ヒロが―――ヒロ、に、言ったら…藤井さんが、今度のショーで成田のアシスタントをやらないって、あたしが言ったら、ホッとしたような顔して…、でも、凄く、複雑な顔して」
 「……」
 「…ずっと、嫌だった」
 考えが、纏まらない。
 まるで、自分の心の内を自分の目の前に並べていくように、桜庭は、自然と浮かんでくる言葉を必死に紡いだ。
 「嫌だった。ヒロは、あたしに対しても、他の女に対しても、いっつも中途半端で、真剣じゃなくて―――どっかで、拒絶してて。時々凄く、辛そうな、苦しそうな顔をする、なのにその理由は全然、教えてくれなくて…。何に対しても熱中しないヒロが、あんたの写真だけ―――あの、“フォト・ファインダー”の写真にだけ執着したのが悔しくて、ずっと…ずっと、悔しくて―――でも、卒業アルバムに、藤井さんの顔があるの見つけて初めて、分かった。ヒロがいつも、誰のこと考えてたのか」
 「……」
 「…ヒロは、傷つけあった関係だから、会いたくないって。まだ引きずってるけど、今更どうしようもないだろう、って言ってたけど―――本当は、会って話がしたいんだ、って、思った。だから、あたしは」
 「会いに行けるように、蕾夏の名刺を渡したのか」
 抑揚のない声で、結論を先取りされた。桜庭は、少し顔を強張らせ、まるでぜんまい仕掛けの人形にでもなったように、コクン、と頷いた。
 「佐野と蕾夏の間に何があったのかは、知らなかったんだな?」
 やはり抑揚のない乾いた声で訊かれ、頷く。知っていたのは、中学生だったヒロの恋心と、その結果―――その想いは報われず、“傷つけ合った”ということだけだ。
 「目的は」
 「目的?」
 「渡したからには、あんたが望んだ結果があった筈だろ」
 「…別に…具体的には、何も」
 「何も?」
 「ヒロが、ずっとこだわってた物に、ピリオド打つことができれば、とは思ったけど…」
 「じゃあ、佐野のためだ、って言いたい訳か」
 「……そう、よ」
 「…それだけだな、本当に」
 ―――何、なの…。
 胸が、ざわつく。何故瑞樹はこんなに、桜庭が名刺を渡した理由を知りたがるのだろう? 桜庭自身にも説明のつかない問題なのに。
 「それだけだな?」
 念を押すように言われて。
 「…そうよ?」
 短く答えたら。
 バン! と耳の傍で、音がした。

 廊下の壁に、瑞樹が手をついた音だとは、一瞬、分からなかった。その音の大きさと衝撃に、心臓が、止まった。
 本能的に、顔から血の気がひく。息を引いて目を見開く桜庭を、瑞樹は、初めて目以外に感情を表した顔で見下ろした。

 「名刺を渡したことと、俺のこととは、一切関係ねーって―――絶対に、約束できるか」
 「……」

 まるで、平手打ちでもされたみたいに―――声が、出なかった。
 あの時、桜庭の胸を刺した、無数の棘。その痛みが、ズキズキと胸の奥でぶり返す。目を逸らしたい痛み…無意識のうちに誤魔化していた、鋭すぎる、凶暴すぎる棘だ。
 ヒロだけなら、きっと、こんな棘に絡めとられることはなかった。瑞樹がいたから―――瑞樹を求めたからこそ、生まれた棘。そう…“嫉妬”という名の、棘。

 「…な…何が、あったの」
 嫌な予感に、背中に不愉快な汗が滲み始める。
 「ねえ、成田、何があったの? 藤井さんとヒロは、会えたの? 会ってちゃんと、話し合いができたの? それとも喧嘩別れにでも…」
 必死に問いかける桜庭に、瑞樹は、壁についた手をぎゅっと握り締めた。その力で、拳が震えるほどに。
 辛そうに眉根を寄せたかと思うと、ふいに、顔を背ける。その仕草に、もうこれ以上話す気はない、という無言の意思表示を感じて、桜庭は思わず瑞樹の腕を掴んだ。
 「待って! 何が、あったの!?」
 「―――佐野に聞けよ」
 「…連絡、つかないのよ、この1週間。真夜中まで帰ってこないし、携帯も切ってるし…」
 「勝手にしろ」
 苛立ったように桜庭の手を振り解くと、瑞樹はディパックを肩に掛け直し、振り返った。向けられた鋭い視線に、桜庭の足が竦む。
 「…結果は、あいつらの責任だ。あんたに責任はない」
 「……」
 「でもな。もし、俺と蕾夏の間をぶち壊そうって気持ちが少しでもあって、佐野と蕾夏を引き会わせたんなら―――俺は、あんたを許さない」
 「成田…」
 それだけ言うと、瑞樹は踵を返し、歩き去った。
 その背中を呼び止めることは―――さすがにもう、できなかった。

***

 既に、随分前に、日付が変わっていた。
 アパートの階段に腰掛け、携帯電話を開く。バックライトに照らされて、時刻が浮かび上がった時刻は、そろそろ1時半になろうとしていた。
 パチン、と携帯を閉じ、ため息をつく。抱えた膝を引き寄せ、桜庭は目を閉じた。

 “いつもサキは、そうだよな”―――ヒロがよく口にした言葉が、耳を掠める。
 そう。いつも自分は、そうだった。諦めが悪くしつこい性格な割に、肝心なところでは辛抱が足りない。一言、勇気を持って訊ねなくてはいけないことを、ギリギリになるまで訊ねられない。思い切りぶつけなくてはいけない感情を、何かを怖がって飲み込んでしまう。いつもいつも…そう、だった。
 自分の気持ちに関しても。
 いつも、途中までしか考えなかった。
 ヒロに何を求めているのか、ヒロを切り捨てられないのは何故なのか―――出会い方も、別れ方も、そして男女の関係に陥った経緯も全部…当たり前の恋愛とは異なりすぎていたから、考えようとしなかった。虐待の事実を知らずにヒロを責めた、その罪悪感に目を塞ぎたいばかりに、ヒロと向き合いたいと口では言いながら、実は…向き合っていなかったのは、自分の方だ。

 だから、今回だけは。
 今回のことだけは―――絶対に、諦めない。何時間だって、ここで待ち続ける。ヒロが帰ってくるのを。


 唯一、点いていた部屋の灯りが消え、廊下に面したアパートの窓全部が暗くなった頃。
 遠くから、耳に覚えのあるエンジン音が聞こえてきた。
 はっ、と顔を上げた桜庭は、次第に大きくなるエンジン音に、注意深く耳を傾けた。同じ車種の、違うバイクかもしれないが―――確かに、聞こえてくるのは、ヒロのバイクのエンジン音だ。
 やがて、バイクが1台、アパートの前に停車した。
 「―――…」
 思わず、立ち上がる。何時間も座っていたせいで、足が少しもつれた。
 エンジンを切り、ヘルメットを外したのは―――1週間ぶりに会う、ヒロだった。
 「サキ……」
 こんな時間に、アパートの外に立っている桜庭に、ヒロは酷く驚いた顔をしていた。
 「何してんだ、お前」
 「…ヒロを、待ってた」
 「…おふくろさん、どうしたんだよ」
 母一人子一人で来た桜庭が、夜中、母を一軒家にひとりきりにすることを嫌うのを、ヒロはよく知っている。仕事以外での外泊は極力避けるし、ヒロと会っても、日付が変わる頃には必ず家に帰る。そういう桜庭だから、余計信じられなかったのだろう。
 「大丈夫。ちゃんと、連絡入れてある。それに、母さんも今日、飲み会で遅いらしいし」
 「……」
 少し、視線を泳がせたヒロは、やがてバイクを降り、何かを諦めたように大きなため息をついた。
 「…疲れてるんだよ。送ってやるから、もう帰れ」
 「帰らない」
 「あのな、サキ」
 「逃げるの?」
 「……」
 「1週間、逃げ続けて―――まだこれ以上逃げるの」
 「……」
 「―――今日、成田に会った」
 ヒロの肩が、微かに動いた。
 緊張が、2人の間に走る。ヒロが纏っている空気が、一気に落ち着きを失くした。
 「成田は、何も言ってくれない。ヒロに聞け、って…それしか。だから、ヒロに教えて欲しい。何があったのか」
 「…何が、って?」
 「藤井さんとの間に―――中学生の時、そしてこの間、何があったのか」
 ヒロの顔が、歪む。ヘルメットを持つ手も、微かに震え始めているように見える。
 それは、桜庭の知っているヒロとは、まるで別人の顔―――何かに怯え、何かを恐れている…子供みたいな、顔だった。
 「…ヒロ」

 思わず、1歩、詰め寄った。
 2歩、3歩と間合いを詰め、ヒロの手を取る。本当は…怖い。ヒロにこんな顔をさせるものが“何”なのか、それを知るのは。
 でも、知りたい。
 知らなければ―――自分の罪だって、知りようがないのだから。

 「―――…サキ」
 掠れた声で、呟いて。
 ヒロの手から、ヘルメットが、地面に落ちた。
 「……助けてくれ」


 そして、桜庭は。
 その夜、とてつもなく長い時間をかけて、封印されてきた秘密を、知った。
 誰も知らなかった、ヒロだけの真実―――ヒロが抱えてきた痛みの、全てを。


***


 アスファルトの上に、電線にとまった雀が、小さな影を作っていた。
 1…2…3羽。トントン、と、右に左に、その影が動く。パタパタと羽根を動かした1羽が飛び立つと―――残り2羽も、それを追うように飛び立った。
 動く影に、頭上を仰ぐ。
 3羽の雀が、互いに呼び合う、賑やかな鳴き声―――それを耳の奥に蘇らせた蕾夏は、ふわりとした、和やかな笑みを浮かべた。

 浅草の仲見世を外れ、大通りからも1、2本奥に入ると、そこには昔ながらの下町の風景が広がっていた。
 瑞樹も蕾夏も、以前からこうした古い町並みが好きで、この界隈も過去に何度か撮りに来ている。けれど…馴染みの町並みも、音が消えると、なんだか新鮮に見えた。
 フィルムの装填を終えた瑞樹が、背中を預けていたブロック塀を蹴って、体を起こす。その手には、仕事で使うニコンではなく、ライカM4が握られていた。
 「M4にするの?」
 今日撮るのは、一応、仕事のための写真だ。普段ならニコンで撮る。けれど瑞樹は、蕾夏の指摘に軽く口の端を上げ、これでいいんだ、と目で答えてみせた。
 差し出された手を、握る。
 晴天に恵まれた町並みを、2人は、のんびりと歩き出した。

 浅草寺の隣にある公園の大木は、今が新緑の季節で、見上げると、まだ若いと分かる明るい緑色の葉が、風にそよそよと靡いていた。
 太い幹の皮の隙間から、小さな小さな新しい芽が出ているのを見つけ、さっそく瑞樹がカメラを向ける。それを見て、なんとなく屋久島のことを思い出した蕾夏は、ちょっとしたノスタルジーに浸った。
 頬を、風が撫でる。
 木々の枝は、どんな音をたてているだろう?
 思い出すのは、屋久杉の原生林で聞いた、あの音。ザワザワと、風に揺れる枝の音が、周囲の木々に反射して、更に増幅する。ザワザワ、ザワザワ…まるで、教会で聴く賛美歌のように、空気を震わせて、響き合う。でも…ここでは、そんな音はしないだろう。
 揺れる枝を、暫く、見上げ続ける。
 「―――サラサラ、優しい音がしてる気がする」
 蕾夏が言うと、瑞樹がぽん、と蕾夏の頭に手を乗せた。ああ、やっぱりそういう音がしてるんだなぁ、と、見上げた瑞樹の笑顔を見て、蕾夏は思った。

 “音の再現”。
 浅草は、人の生活に密着した町だ。そこには、日常の音が溢れている筈だ。
 2人がこれまで、ただ漠然と町全体の雰囲気を感じていたように、きっとここを通る人も、音に気を配ったことなどないだろう。だからこそ、音が聞こえない写真や文章から、音を、読者に感じさせたい。音という切り口で、浅草を感じさせたい。そう、2人は思ったのだ。
 そして実際、耳の聞こえない状態で、意識を広げて歩いてみると―――今まで気づかなかった音に、気づく。

 前から来る、犬を連れた女の人。黒っぽい毛並みのその犬が、前足を突っ張り、あらぬ方向に向かって吠え立てていた。
 その視線の先を追うと、垣根の隙間から、白い犬が鼻先を出して、やっぱり吠えていた。この家、犬飼ってたんだ―――知らなかった事実と一緒に、脳裏に、キャンキャンという白い犬の声と、少し低めの黒い犬の声が響いた。
 何度も通った道だ。一度も犬が吠えなかった訳じゃないだろう。ただ、注意を払わなかっただけ―――聞こえていても、聞き流していただけだ。

 土曜日でも学校があったのか、小学生が3人、瑞樹と蕾夏を追い抜いて走っていく。
 上下に揺れる、大きな黒いランドセル。そこにつけられた鈴が、少年の動きに合わせてチリンチリン、と鳴るのを、蕾夏はどこかで聞いた。バタバタと、6本の足がアスファルトを蹴る音も、すれ違った時に少年の1人とぶつかりそうになった老人が「こらっ」と怒鳴る声も―――耳の奥に、鮮やかに蘇る。

 当たり前の、日常風景。
 そこにある、音、音、音―――蕾夏が立ち止まるたび、瑞樹も手を解き、カメラを構えた。少年たちの影法師を、挨拶を交わす老人たちを、軒先に干した手ぬぐいをしまう女性の手元を…1つ1つ、切り取っていった。


 『疲れたか?』

 浅草寺の東側の町並みを歩き尽くした辺りで、瑞樹にメモを向けられた。ううん、と蕾夏は首を振ったが、瑞樹は問答無用で、近所の和風喫茶に蕾夏を押し込んだ。
 椅子に座って初めて、気づいた。
 ただ漫然と歩く以上に、神経を使っていたせいだろうか。蕾夏の額には、まるで真夏に歩き続けた時のように、汗が浮かんでいたのだ。

***

 休憩を挟んで向かった浅草寺の西側は、実は、2人が一番楽しみにしていたエリアだった。
 浅草六区と呼ばれる地域で、JRAの場外馬券売り場があり、周囲には馬券を買いに来た常連がうろうろしている。そんな客が1杯飲めるような店が、“初音小路”と呼ばれる路地裏に林立しているのだ。
 あまりカップル向けとは呼べない地域で、すれ違うのは、明らかに馬券を買いに来たと思われる人々ばかり。そんな地域で、2人を強く惹きつけているものが、1つ、ある。
 それは、初音小路を、まるでアーケードの屋根のように覆う、見事な藤棚だった。

 「うわ…、すっごーい…」
 以前来たのは、夏だった。藤の葉が頭上を覆い、涼しげな影を作っていた。
 そこが―――5月のこの日は、まるで違っていた。
 ちょうど見頃か、それを過ぎた辺り。紫色の藤の花が、2人の頭上を埋め尽くしていた。
 六区の表通りの再開発ぶりが嘘みたいに、古い建物ばかりが並ぶ地域。軒はどこも低く、自然、藤棚の高さもそう高くはない。頭上から覆いかぶさってくる藤の花は、迫力があった。
 贅沢な風景に、暫し、仕事のことも忘れて見入ってしまう。瑞樹も、レンズを90ミリに付け替え、風に揺れる藤の花の房をカメラに収めた。

 と、その時。
 ちょうどシャッターを切り終えた瑞樹が、はっとしたように蕾夏の方を向き、その腕を引いた。
 「えっ?」
 何? と思った直後、蕾夏の背後を、風が通り抜けた。
 驚いて振り向く蕾夏の鼻先を、風のようなものが掠めていく。通り過ぎてから、その正体が分かった。自転車だ。
 傍若無人なその自転車をこいでいるのは、スカート姿の中年女性だった。いわゆるママチャリではあるが、さほど裾が広がっているとも思えないスカートで乗っているところが凄い。ブレーキが故障しているのか、それともブレーキをかける気がないのか、そのスピードは全く緩められない。藤棚の下に置かれたビールケースに座っている飲み屋の客や、どこかで「面白い所があるよ」と聞いて来たらしい外国人観光客も、自転車が通ると1歩後退り、首を竦めていた。
 「……」
 リンリン、と、ベルを鳴らす音がする。
 どいてどいて、と言ってるかどうか―――でも、そんな仕草も見てとれる。
 飲み仲間同士で、なんだいありゃあ、と愚痴りあっている声も聞こえてくる気がした。

 ―――人って、音を作る生き物なんだなぁ…。
 何故か、そんなことを思う。
 雑然とした、飲み屋街。そこには、人と人が織り成す音が、たくさん溢れている。店主と客のやりとり、客と客のやりとり―――店先で火にかけられている、寸胴鍋の中身が煮える、グツグツという音。それは紛れもなく、ここ“初音小路”の音だ。

 言語を持つ、という部分が大きいのだろうか。人が2人いれば、そこに会話が生まれ、声が―――音が生まれる。
 ふと横を見れば、競馬の結果を聞こうというのか、ラジオに3人ばかりの人が群がっている。そう…ラジオの音も、人が作り出す音。
 ちょっと歩いた先にあった家は、軒先に、早くも風鈴が飾られていた。浅草らしい、ガラスで出来た風鈴―――その、透明な音は、人と自然が作り出す音。

 「…ねえ、瑞樹」
 風鈴にカメラを向けていた瑞樹が、振り向く。
 「自然が起こす音って、優しくて穏やかだけど―――人の作り出す音って、なんて言うか…」
 上手い表現が、出てこない。
 ちょっと空を見て、考えて。出てきたのは、自分でも意外な言葉だった。
 「…うん。“いとおしい”。そんな感じがする」
 それを聞いて―――瑞樹も一瞬、目を丸くして…そして、微笑んだ。


 静寂の中。
 音が、声が、音楽が、一杯溢れる。
 それが、蕾夏の中にどんどん降り積もって―――「ことば」になる。「ことば」が、まるで呼吸をするように、生まれてくる。

 ―――大丈夫。

 人が作り出す音を、“いとおしい”と感じられる自分に、蕾夏はどこかで、ほっとしていた。
 そして、瑞樹も―――その言葉に、素直に頷ける自分に、心から安堵していた。

 あの日、母に感情の大半を殺されてしまっても。
 現実を直視できないまま、心が“音”を拒絶してしまっていても。
 まだ、壊されていない―――人間に、絶望してはいない。そんな自分に、2人とも、胸を撫で下ろしていた。

 

***

 

 この辺りも、昔は、豆腐屋が豆腐を売りに来たもんだよ、と、その店の主人は言った。

 今、豆腐屋のラッパの音は、この町にはない。そして私も、残念なことに、豆腐屋のラッパの音を聞いたことがない。
 なのに、何故、その話を聞いて、耳の奥にその音が蘇るのだろう?
 この町の風景に、豆腐売りの音を重ね、ああ、懐かしいな…、なんて思うのは、何故なのだろう?

 いつか、どこかで、自分でも知らないうちに、私は豆腐売りの声を聞いていたのかもしれない。
 銭湯に行ったことはないけれど、何かの折、広い浴室に響く賑やかな声を、水音を、桶を置くコーン…、という音を、耳にしていたのかもしれない。
 路地裏でゴム跳びした思い出もないのに、そこで遊ぶ女の子達の遊び歌は、何故か耳に蘇る。
 この町は、そんな、自分の中にあるノスタルジーが見つけられる、不思議な空間だ。


 夕日に染まった、ガラス細工の風鈴が、風に揺れた。
 不思議なことに、その音は―――なんとなく、茜色した音に聴こえた。

 

 『ご苦労様でした。成田さんの写真も、藤井さんの文章も、僕は非常に気に入りました』

 「…ありがとうございます」
 編集長に見せられたメモに、蕾夏は少しだけ微笑み、頭を軽く下げた。けれど、この先に待っているものが分かるから…満面の笑みは、浮かべられなかった。

 『さっそくこれを編集部に回して、検討会議にかけます。結果は来週水曜日です』

 「はい」
 表情を引き締める蕾夏に、編集長は、小さくため息をつき―――もう1枚、メモを差し出した。

 『約束でしたね。編集長命令です。明日から、出社は認められません。自宅でしっかり、療養しなさい』

 「……」
 “来週の水曜日までに―――締め切りまでに、治らなければ”。そう。これは、約束だ。コラム企画を続行させてもらうための。
 唇を噛み、少し視線を落とす蕾夏の肩を、立ち上がった編集長がポン、と叩いた。

 “待ってますから”。

 編集長の唇の動きに、その言葉を読み取って。
 蕾夏は口元に笑みを作り、背筋をぴん、と伸ばした。
 「―――よろしく、お願いします」

 深く頭を下げながら、思った。
 一体、いつ、戻って来れるのだろうか―――と。


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