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― Infinity World -1- ―

 

 「1回忌?」
 携帯片手に眉をひそめたところで、隣で誰かを待っていた男が、傍若無人に手を挙げた。
 その腕が肩にぶつかり、慌てて「あ、すいません」とぺこりと頭を下げた男に、瑞樹は目だけで「いえ」と返し、体の向きを変えた。
 『そうよ。お兄ちゃん、もしかして忘れちゃってたの?』
 「ああ」
 呆れたような海晴の声に即答するが、実は、嘘だ。
 覚えていた。5月9日―――母の命日。しっかり覚えていた上で、あえて無視した。勿論、それどころじゃなかった、という理由もあるが―――蕾夏のことがなくても、多分、瑞樹の対応は同じだっただろう。
 『先週末は晃が熱出して無理だったから、今週末にお母さんのお墓参りしに行くつもりなの。ねえ…、お兄ちゃんも来れない?』
 やっぱり、そういう用事か―――瑞樹は軽くため息をつき、額にかかる前髪を掻き上げた。
 「…いや。俺は、ちょっと無理だな」
 『仕事?』
 「ああ。最近、忙しくて」
 忙しいのは事実だが、その理由は仕事ではない。けれど、墓参りに行かない理由そのものが「忙しいから」ではないのだから、忙しい理由で嘘をついても、ただ1つ嘘が増えたに過ぎない。
 海晴も多分、その辺は察しているのだろう。少し声を低くし、更に食い下がってきた。
 『じゃあ、いつなら、行けそう? 私、合わせるから』
 「…いや、お前は、お前のスケジュールで行けよ。少なくとも今月一杯は、大きな仕事控えてて、墓参りしてる暇ねーから」
 『……』
 電話の向こうの沈黙に、瑞樹は視線を逸らし、すぐ背後にある店の中に目を向けた。
 さほど大きくもない窓ガラス越しに、窓際の席に陣取っている奏と、目が合う。既に、瑞樹が店の前まで来ているのには気づいていて、待ち合わせ時刻を過ぎても店内に入ってこない理由も十分承知していたらしい。瑞樹が軽く手を挙げて「悪いな」と合図してみせると、「遠慮なく」とでも言うように、奏は微かな笑みと共に手を挙げ返した。
 『…きっとお兄ちゃん、来月も再来月も、行く気ないんだよね』
 珍しく、少し苛立ったような海晴の声が返ってくる。
 『でも、1回忌よ? お兄ちゃん、お葬式にも間に合わなかったじゃない。せめて1回忌位は、ちゃんと家族3人でやってあげたっていいんじゃない? そりゃ、お兄ちゃんからしたら、不倫して離婚した、どうしようもない母親かもしれないけど』
 「……」
 『許してあげて、とは言わないけど…亡くなってるんだし。もう、いいじゃない』
 「……」
 『―――…ごめんなさい』
 疲れたような大きなため息をひとつつき、海晴は、ちょっと涙を含んだような、弱い声で呟いた。
 『ごめんなさい、私、ちょっとおかしいみたい。なんか…悲しくて』
 「悲しい?」
 『1回忌だっていうのに、法事らしい法事もしてもらえなくて…“元夫”が2人もいる上、子供だって2人もいるのに、命日にお墓参りしてくれるのはお父さん1人きりだなんて…なんか、お母さんが、可哀想で』
 「……」
 『…お兄ちゃんはともかく、最後まで一緒にいた筈の私まで、命日に行ってあげられなくて、ちょっと…後ろめたかったの。窪塚の親戚の人達、お母さんを良く思ってなかったから、とてもじゃないけど行けるムードじゃなくて…私を産んでくれたお母さんなのに、なんで私が行けないのよ、って、なんか腹立っちゃって―――でも、それでお兄ちゃんに八つ当たりするなんて、最低』
 「…お前も、疲れてるんだろ」
 母が亡くなり、晃が生まれ、義父が亡くなり…そして、あの若さで窪塚グループのトップに立つ羽目になった夫を支えて。疲れていない筈がない。およそ1ヶ月前に見た妹の憔悴しきった顔を思い出すと、多少のヒステリーも八つ当たりも責める気にはなれなかった。
 「それに、正論だし。謝るな」
 『…でも…』
 「それと―――悪い。人待たせてるんだ」
 『えっ、そうなの? やだ、ごめん』
 「墓参りのことは、また、仕事落ち着いたら連絡する。とりあえず、今月はキツいから。お前だけでも、先行っとけよ」
 『ん…、分かった。じゃあね』

 電話を切ると同時に、どっと疲れが押し寄せた。
 他のことで、どれだけ神経を削られようとも―――やはり瑞樹にとっては、母以上に疲れさせられる存在はいないらしい。たとえ、もうこの世にいなくても。

***

 「仕事の電話?」
 瑞樹が席に着くなり、奏が、胸ポケットに入った携帯電話を目で指しつつ、訊ねた。
 「ああ…、まあな」
 海晴から、と言えばまた説明が面倒なので、瑞樹は適当に流し、椅子に腰を下ろした。テーブルの上には、既に奏がつまみとして注文していたらしい料理が置かれていたが、あまり食欲もないので、とりあえずこの店お薦めの黒ビールだけ注文した。

 奏から「明々後日の金曜に“Clump Clan”の緊急リハーサルが入った」と連絡が入ったのは、昨日の夜のことだった。
 何故緊急なのか、どういうリハーサルなのかは不明だが、内容によっては佐野も参加するかもしれない。その可能性に動揺して、奏は発作的に電話してきたらしかった。
 コラム企画と日々の仕事で手一杯で、奏とはずっとメールでしか話をしていなかった。ちょうどいい機会なので、直接会うことに決めたのは、瑞樹の方だ。

 「リハの詳細、分かったか」
 店員が去ってすぐ、まず瑞樹が奏に訊ねた。
 手元にあるピスタチオナッツを摘みかけた奏は、その問いに手を止め、渋い顔で軽く頷いた。
 「実際の舞台装置使ったリハは、本番の前々日に、ほぼ同じ長さのランウェイ使ってやることになってるだろ? でも、そこ押さえてる時間が短めだってことに、“Clump Clan”側が不安を訴え始めたらしくて―――それで、その前に一応、集まれる人間だけでシミュレーションするんだってさ。音楽かけながら、誰がどういう順番で何着て出るかを通しで確認する、ってやつ」
 「…あいつは?」
 「…分からない」
 音楽が絡んでくるなら、可能性はゼロではない。本来のリハーサルまで、あと2週間ほど―――その時に再会することは覚悟済みだろうが、それがいきなり明後日では、奏が動揺するのも無理はない。
 「とりあえず、無視しろよ」
 「……」
 「仕事だろ。余計なこと考えずに、集中すりゃいい」
 瑞樹がそう言っても、奏は暗い表情のままだった。
 暫し、沈黙が続く。その間に、注文した黒ビールが届き、瑞樹もそれに口をつけた。
 「―――実は、さ」
 瑞樹が、グラスを置いたところで、奏がやっと口を開く。やや斜め下に向けた視線を上げることもなく。
 「蕾夏が見てるといけない、と思ったから、メールでは黙ってたけど―――会ったんだ」
 「え?」
 「先週の、火曜。…偶然、ヒロに会った。“Clump Clan”で」
 「……」
 「…蕾夏が苦しんでるのに、普通に仕事してるあいつに、なんかすっげー腹立ってきて―――1発、殴った」
 そこまで言って、奏は、テーブルの上に置いた手を、握り締めた。
 「そしたら…あいつ、殴られるの待ってたみたいな、そんな目してて―――なんか、複雑な気分で…会うのが、前より怖くなった」
 「…そうか」
 瑞樹に首を絞められ、苦しそうに顔を歪めながらも、どこか安堵したようでも、陶酔したようでもあった、奏の目。
 奏は、あれと同じ物を見つけてしまったのだ。憎むべき相手―――自分を裏切り、誰よりも大切に思っていた人を傷つけた、張本人の目の中に。気持ちが分かるだけに、複雑な心境なのだろう。
 「…とにかく、次は殴るの、やめとけよ」
 奏が食べるのをやめたピスタチオに、あえて手を伸ばした瑞樹は、あっさりした口調でそう言った。
 「身に覚えあるんなら、分かるだろ。あいつが待ってるのは“お前の”制裁じゃない。“蕾夏の”制裁だ」
 「…分かってる」
 複雑な表情の奏も、呟くようにそう答えると、何かを吹っ切るように、ピスタチオを摘み、口の中に放り込んだ。
 「ところで―――今日って、あれだろ? コラムの締め切り。蕾夏から、連絡あった?」
 佐野の話から離れたいのか、奏は更にピスタチオを口に運びながら、そう訊ねた。
 「ああ。昼にメールが来た」
 「どうだったって?」
 「編集長は好感触。週明けには会議にかけて、来週水曜に結果が出る」
 そこで、奏の手が、ピタリと止まった。
 「…蕾夏は?」
 不安げに眉をひそめる奏に、瑞樹は小さく息をつき、目を僅かに逸らした。
 「―――ゆっくり休め、らしい」
 「…そうか…」
 奏の表情が、目に見えて暗くなる。
 予想はできた結果だ。もし編集長の立場なら、瑞樹だって奏だって、休職するよう言うだろう。
 それでも…突きつけられた決定事項は、今の蕾夏には重い。仕事に打ち込むことで自らを奮い立たせていた蕾夏のことを思うと―――その目標を奪われて、果たしてやっていけるのか、と不安になる。
 「え…っ、じゃ、じゃああんた、オレなんかと飲んでる場合じゃ…」
 今更ながらに、蕾夏がこの場にいないことの意味を考えて、奏が慌てたような顔になる。瑞樹は苦笑し、首を振った。
 「蕾夏は、昼で仕事切り上げて、午後から実家に戻ってる」
 「実家?」
 「都心からは、1時間位の所。今夜と明日は実家泊まり」
 「…なんだ、そうなのか。でも確かに、実家の方がゆっくりできるかもな」
 納得したように頷く奏に、瑞樹は軽く肩を竦め、再び黒ビールのグラスを手に取った。
 「いや。休みに帰った訳じゃない」
 「え?」
 「両親が随分心配してたから、安心させに顔出すだけだ。多分今頃、仕事する時以上に気ぃ遣って、疲れてる」
 「……」
 当たり前、という口調でそう言って、涼しい顔でグラスを口に運ぶ瑞樹を、奏は、ちょっと呆気にとられた顔で見つめた。
 その視線に気づいて瑞樹が眉をひそめると、奏は、ちょっとうろたえたように目を泳がせた後、眉根を寄せた。
 「…蕾夏って、確か、一人っ子だよな。あの…もしかして、家族と上手くいってないのか?」
 「いや?」
 「でも、実家に帰って気疲れする、って…」
 「ああ、それで」
 奏の怪訝そうな顔の意味をやっと理解し、瑞樹はくっ、と笑った。
 「心配するな。本当に、俺から見ても羨ましい家族だから。ただ…大事に思っている相手だからこそ、知られたくないこともあるだろ」
 「…でも、他人なら軽蔑するかもしれない話も、家族なら受け止めてくれる気するけどな、オレは」
 「そうか? お前も、そうだった筈だろ」
 瑞樹に言われ、奏が、言葉に詰まった。
 脳裏に過ぎったのは、1年前―――蕾夏を追おうとして千里に止められた瞬間のこと。
 “辛いだろうけど、今はまだそっとしておいてやって。お願いだから”―――そう言った千里の悲しそうな目に、自分が蕾夏にしたことを千里が知っているのだと悟った。その瞬間…消えて無くなりたい、と本気で思った。誰よりも、千里や淳也には知られたくなかったから。彼らが大切に育てた息子の、愚かな過ちを。
 「…でも…、オレは人を傷つけたけど、蕾夏は、傷つけられた方だろ。事情が違う」
 「親がショックを受けて悲しむ、って点では、同じだろ」
 試みた反論をあっさり瑞樹に覆された奏は、暫し、黙ってテーブルの隅をじっと見つめていた。
 やがて、ゆっくりと目を上げ―――どこか悲しげな、苦しそうな目で、瑞樹の目を見返した。
 「―――あんた達2人って、なんか、見てて痛々しい」
 「…は?」
 突然の言葉に、瑞樹の目が丸くなる。が、奏の表情は、沈痛な面持ちのままだった。
 「本来なら家族って、たとえ世界中が敵に回っても、最後まで自分を庇ってくれる、安全な場所の筈だろ? なのにあんた達は、目一杯傷ついて、体も心もボロボロになってんのに、家族を悲しませたくなくて、他人以上に気を遣って、必死に傷口隠してるなんて―――それが、何年も何年も続いてるなんて、痛々しい」
 「俺が、いつ…」
 「だって、そうだろ?」
 訝しげな瑞樹の言葉を遮り、奏は、妙にきつい口調で続けた。
 「実の母親にあんな目に遭わされて―――しかも、不倫してることも口止めされて。まだ10歳にもなってないガキが、それでも父親にも妹にも何も言わなかったのは、単に倖さんの暴力が怖かったからじゃないだろ?」
 「……」
 「家族がそれを知ったら、悲しんで、苦しむから―――だから黙ってんだろ? 倖さんが死んだ今も、まだ」
 予想外の切り口に、今度は瑞樹の方が言葉に詰まった。
 直前の海晴との電話と奏の言葉がリンクして、いつになく動揺してしまう。瑞樹はグラスを置き、視線を逸らした。
 「蕾夏のことがあって、倖さんの日記読んで―――オレ、あんた達2人が出会えたのは、奇跡に近い、って思った。マジで」
 チクリ、と感じた胸の痛みに、奏が、ちょっとだけ顔を歪める。が、それでも言葉を続けた。
 「辛いけど…悔しいけど…家族でも無理なことを、あんた達2人の間でならできるんなら―――納得、できる。不謹慎かもしれないけど…今度のことがあったおかげで、絶望的に納得できるようになった」
 「…ハ…、“絶望的に納得”、ね」
 目を逸らしたまま笑った瑞樹は、窓の外を流し見て、グラスを口に運んだ。
 「でも、納得した分、イライラしてる」
 僅かな間をおいて告げられた一言に、瑞樹は視線を奏に戻し、片眉を上げた。
 「イライラ?」
 「…もういいじゃん、って。倖さんのことも、ヒロのことも」
 「……」
 「蕾夏は…そりゃ、今回のことがあったから、もういいじゃん、とは言えないかもしれないけど―――でも、さっさと訴えるなり警察突き出すなりして、終わらせちまえばいいのに、って思う。それに成田も―――あの日記は、確かに気になるけど、でも、母親がどうでも、あんたはあんただろ? あんたは倖さんと違って真っ当な人間に育ったんだから、それでいいじゃないか、って、オレは思う」

 “もう、いいじゃない”。
 直前の電話での海晴の言葉が、奏の言葉にオーバーラップする。ふっ、と、瑞樹の口元に笑いが漏れた。
 そう―――他の人間から見たら、そう言うのが当たり前だろう。もう過去のこと。今更どうしようもないこと。それに振り回されている自分達は、滑稽もいいところだ。
 でも―――そんな馬鹿げたことが、呪縛となって心や体を縛り付ける。
 自分の親が殺人犯かもしれない、という、倫理的な不安。虐待を受けた自分が、果たしてまともに人を愛せるのか、という不安。たとえば将来―――もし、自分の子供ができた時、果たして自分はその子を愛せるだろうか? 母から学んだ暴力を、自らもまた、同じ遺伝子を持つ子供に向けてしまうのではないか―――そんなことを、時々、思う。
 かつて、母も抱いたであろう殺意を、自分も持ってしまった今だから、尚更―――恐ろしくなる。事が蕾夏に及んだ時、時々感じる、自分の中の狂気が。いつか、その狂気に駆られて、人を殺めたりズタズタに傷つける日が来る気がして。
 お前は、お前だ。
 …その通りだ。でも、そう思うことが、まだ、できない。

 「―――お前の言う通りだ」
 小さく息をつき、奏の目を見つめる。
 「もしも俺が、お前みたいに、罪悪感も傷もその都度素直に表すことのできる人間だったら―――もっと早く割り切れたのかもしれないな」
 「―――…」

 瑞樹の言葉に―――奏の目が、大きく見開かれた。
 動揺に、瞳が揺れる。テーブルの上に置かれた手が、微かに震え始める。奏は、何かを言いたげに一瞬口を開き―――けれど、何も言うことなく、動揺したままの目を瑞樹から逸らした。
 「? どうした?」
 そんな奏の変化に、その理由が分からない瑞樹は、怪訝そうに眉をひそめた。
 「…いや…、なんでも、ない」
 そう答える奏の掠れた声も、僅かに、震えていた。


 瑞樹は、知る由もない。

 『俺が、お前みたいに、罪悪感を目一杯顔に出して、相手が無視するのも構わず土下座するような人間なら―――そもそも、13年も引きずらずに済んだのかもな』

 この時、奏の脳裏に蘇っていたのは―――ヒロが放った、その言葉だったのだ。

***

 『お父さんは、結構安心してくれたみたい。お母さんは、暫くこっちで暮らしたら、って言ってた。でも、日常生活で困ってないことは理解してくれたみたい。奏君は? 明後日のリハ、大丈夫そう?』

 返信メールを打ち始めた瑞樹は、数文字打ったところで、その手を止めた。
 「……」
 思いなおす。打った文字を全部消して、再度打ち直した。

 『かなり気に病んではいたけど、無視しろって言っておいた。多分、大丈夫だろ。またお前にもメール送るって言ってた』

 既に佐野と1度対峙した話は、やはり蕾夏にはまだ知らせない方がいいだろう。それに―――なにやら、途中から様子がおかしかったことも。
 ベッドの上に仰向けになり、携帯を弄んでいると、ほどなく、返信が返ってきた。

 『耳聞こえなくなって、メールの腕前だけは上達したよね、私。奏君にも、今度はサクサク返信できそう』

 『喜んでんじゃねーよ』

 苦笑しつつ、即返信する。空元気であることは、メールでも分かる。茶化してしまわなくては耐えられない―――蕾夏だけじゃなく、瑞樹も。


 ―――今日ね、家に飾ってある屋久島の時の写真、久々に見たの。こんな写真だったっけ、って、なんか新鮮だった。

 大伸ばしにしたからな。結構色も、納得いく色に仕上がってたし。

 ―――懐かしいなぁ…。また屋久島行きたい。

 そうだな。もう一度、あそこでお前撮るのもいいかもしれない。

 ―――ショーが終わったら、行こっか。あ、今度は、猫やんとか抜きにして、2人でね。

 当たり前だ。余分な付録は勘弁してくれ。


 「屋久島、か…」
 天井を見上げたまま、目を閉じる。
 あの時感じた、大地の鼓動―――生命を、強く感じた、あの瞬間。
 時田はあの写真を、「贅沢すぎる写真」と言った。感じるものが多すぎて、豊かすぎて、普通の人の許容量をオーバーしてしまうのだ、と。
 カメラマンになり、職人の目を持つようになった今の自分が、あそこでまた蕾夏を撮ったら―――どんな風に撮れるのだろう? 曖昧な感情の間で揺れていた蕾夏ではなく、瑞樹の気持ちを受け入れた今の蕾夏は…どんな風に、写るのだろう?
 ―――ますます、贅沢な写真になってそうだな。
 何故なら、あの頃より今の方が、お互いに対する感情そのものが多すぎて、豊かすぎて、時として自分の許容量すらオーバーしてしまうことがあるのだから。絶対時田には見せられないな、と苦笑して、瑞樹は目を開けた。

 目を開けると、本棚の上に無造作に置かれたものが、視界に入る。
 2冊の日記と―――その上に置かれた、分厚い封筒が。

 倖の呪縛を解く鍵かもしれない、手紙。
 瑞樹はまだ、その手紙を開くことすらできずにいた。


***


 まばゆいライトが、ホリゾント前に立つモデルの顔に、陰影を作る。
 明暗のはっきりしたシャープなライト使いは、商材であるデジタルカメラのスマートなイメージにはピッタリかもしれない。

 ―――視線が痛いなぁ…。
 スタジオの端に置かれた椅子に座った蕾夏は、居心地が悪そうに、膝を引き寄せた。
 編集長に暫く休むよう言い渡され、昨日は丸1日、実家で過ごし―――今日は、休職2日目。両親の当面の心配も払拭できたし、家に戻って1人でいても鬱々とするばかりなので、瑞樹の撮影現場を見学させてもらうことにしたのだが…。
 チラリ、と目を上げると、また視線がぶつかる。
 はっきり言って、美人だと思う。当たり前だ。モデルなんだから。しかも、かなりのセクシー系―――瑞樹に興味を持ちそうで、かつ、瑞樹が一番興味がないタイプかもしれない。もっとも、瑞樹が興味のあるタイプなんていうものは、瑞樹をよく知る蕾夏ですら、まるで見当がつかないのだけれど。
 とにかく、瑞樹の好みはどうであれ、本日のモデルが美人なのは、事実。
 美人の怖い顔は、もの凄く怖い。しかも、そこに悪意がこめられていると余計、寒気がするほど恐ろしい。睨まれたら睨み返す、なんて芸当をするレベルにはないので、蕾夏はまた視線をあらぬ方向へ逸らした。
 それにしても―――モデルの雰囲気がああも険悪なもので、撮影は大丈夫なのだろうか? 目を逸らしたまま、蕾夏が眉をひそめると。

 『コンセプトとは合ってるから、機嫌取る必要ゼロ。気にするな』

 まるで蕾夏の心を読んだかのように、目の前ににゅっ、とメモが差し出された。
 「……」
 一瞬、唖然とし、それから目を上げる。いつの間にスタジオマンとの作業の場を離れたのだろう、瑞樹がメモ帳片手に、ニヤリ、と笑って蕾夏を見下ろしていた。
 「…言っとくけど、パンフレット写真のコンセプトは“挑戦的なムード”であって、“喧嘩売ってるムード”じゃないよ?」
 拗ねたように蕾夏が言うと、瑞樹は面白そうにくっくっと笑い、メモ帳で蕾夏の頭を軽く叩いた。
 そこで、またスタジオマンに呼ばれたらしく、ライトの所にいるスタジオマンに手を挙げて応え、瑞樹は蕾夏のもとを去った。


 やっぱり現場の空気っていいな…、と、順調に進む撮影準備を見ながら、思う。
 勿論、撮影現場そのものの緊張感が好きなのもあるが―――蕾夏の場合、現場で動き回る瑞樹を見るのが、実は結構好きなのだ。
 スタジオマンと同じ位、スタジオ中を右へ左へ動き回り、本来なら人任せにしてしまうことも、納得がいかなければ徹底的に自分も手を加える。そういう瑞樹は、なんだか楽しそうに見えるので、見ていて蕾夏も嬉しくなる。
 それに…撮影の時の瑞樹は、今更言うのも変かもしれないが、かっこいいと思う。
 気持ちを集中させるようにスタジオの天井を仰ぐ姿とか、カメラを持つ手とか、スタジオマンに指示を出す仕草とか―――アシスタントをしている時は特に気にも留めない瑞樹の様子も、何もせず、ただこうして見ていると…ドキドキする。ドキドキして、なんだか、落ち着かない気分になる。
 ―――こういう人だから、いろんな女の人が、興味を持っちゃうんだろうなぁ…。
 以前は、ただ漠然と「瑞樹ってモテるんだろうな」と思っていたが―――今は、その理由が分かる気がする。だから、本日のモデルの険悪な視線の意味も、もの凄くよく分かるのだった。

 「……」
 また視線を感じ、反射的に、蕾夏は視線の方に目を向けてしまった。
 見ると、どうやらポラ撮りした写真で最終確認をしているらしく、モデルは瑞樹の傍まで来て、瑞樹が持つ写真を覗きこんでいた。そして、蕾夏が自分の方を見たのを確認すると、口元にやたら挑戦的な笑みを浮かべてみせた。
 ぞくっ、と、背筋が寒くなる。
 思わず、ぶるっと身を震わせる蕾夏を挑発するように、彼女は瑞樹の肩に手を置いて、何やら耳元に囁くような仕草をした。
 ―――あの…、スタジオマンさんとか、クライアントさんもいるんだけど…。
 そこまでやるの? と呆れた蕾夏だったが。
 その目の前で、真っ赤なルージュを引いた彼女の唇が、瑞樹の耳元にわざと押し付けられるのを見て―――体が、凍りそうになった。
 「―――…」
 咄嗟に、目を逸らす。
 そのせいで、瑞樹がそれにどう反応したか確認できなかった。が、数秒後、恐る恐る視線をセットの方に戻した時、彼女は少し不機嫌そうな顔で、ホリゾントの前へと戻っていくところだった。

 鼓動が、速かった。
 多分、あの位置では、蕾夏にしか見えなかっただろう。彼女が何をしたのかは。その証拠に、スタジオマンも、クライアントの広報担当者も、それに彼女の衣装やメイクを担当している人達も、誰一人様子のおかしな人はいない。
 それに、彼女のあの不機嫌な様子からすると、瑞樹が相当邪険な対応をしたのは、想像に難くない。そもそも、瑞樹は男女関係なく、他人に体を触られるのを嫌っている。きっと今頃、蕾夏の何倍も不愉快な思いをしているだろう。
 分かっている。
 分かっていても―――今の蕾夏には、きつかった。

 もう、モデルの彼女は、蕾夏の方へは視線を向けなかった。瑞樹に邪険にされて怒っているのもあるだろうが、頭が本番モードへ切り替わったことのほうが大きいだろう。
 彼女がホリゾントの前に立ち、それぞれが持ち場につき―――撮影が、スタートした。

 瑞樹のカメラを見据える彼女は、綺麗だった。
 挑発的で挑戦的なオーラを、パシパシと放ちながら―――輝く。まるで、男の人の大半を惹きつけてしまうほどのあの美貌で、カメラを―――そして、ファインダー越しに彼女を捉える瑞樹を、誘惑するみたいに。
 さっきとは違う、ぞくりとした寒さが、背筋を冷えさせる。無意識のうちに、自分で自分の腕を抱いた蕾夏は、説明のつかない感情に、唇を噛んでいた。


 ―――瑞樹…。
 あの日から…もう2週間も、軽い口づけすら、交わしていない。
 自分でも、分からない。
 瑞樹が怖いなんて、これっぽっちも思っていないのに―――落ち着かせるために抱きしめてくれたり、手を握ってくれたりするのは、何ともないのに―――何故、あの時、瑞樹を突き飛ばしてしまったのだろう?
 確かに昔から、心と体がバラバラになってる部分はあった。それが瑞樹相手であっても…体が強張ったり、手で制してしまったり。そんなことが、過去に何度かあった。でも、それは克服した筈だ。
 佐野とのことがあって、それが再発したのだろうか?
 一旦克服しても、また同じことが起きれば―――以前は突き飛ばすことなど皆無だった瑞樹をも、ああやって突き飛ばしてしまうものなのだろうか。

 自分が、怖い。
 また、あんな風に、自分の意志とは無関係に瑞樹を突き放してしまったら―――きっと、瑞樹を深く傷つける。そう思うと、怖くて仕方ない。


 ―――お願い。
 お願いだから、瑞樹に、あんな風に触れないで。

 苦しかった。
 彼女にカメラを向ける瑞樹の姿に、鼓動が速まれば速まるほどに―――寒いのに、胸の奥だけが熱くて…苦しかった。

***

 ―――あー…、疲れた。
 残り少ないウーロン茶の入った缶を両手で包み、ほっ、と息をつく。
 撮影機材が、次々に片付けられていくのを見ながら、蕾夏は缶に口をつけ、コクン、とウーロン茶を飲み込んだ。
 撮影は、比較的順調に終わり、既に機材の撤去作業に入っていた。瑞樹は、蕾夏がいるのとは反対側の壁際で、クライアントと真剣な顔で何か話していた。多分、今日撮影したものに関して、色々話し合っているのだろう。

 とにかく、もの凄く、疲れた。この疲れは、当然、撮影疲れではない。気疲れだ。
 あんなシーンを見せられる位なら、家でじっとしてた方が良かったのかもしれない―――そう思う自分もいるが、蕾夏は概ね、来て良かったと思っていた。
 ―――だって…やっぱり、写真撮ってる瑞樹って、好きだもの。
 前から、好きだった。恋人同士になるより、もっと前―――多分、初めて瑞樹の撮影に付き合った、あの浅草と隅田川の撮影の時から、ずっと。
 耳が聞こえるようになったら、やっぱり、瑞樹のアシスタントをできるだけやりたいな…、と、蕾夏は改めて思った。勿論、会社があるのだから、そう頻繁には無理だろうけれど―――会社が休みの時は、可能な限り、瑞樹の撮影について行きたい。瑞樹のいる撮影現場を、もっともっと感じたい。
 でも、そのためにはまず、この耳が何とかならないと、意味ないんだよね――― 一向に回復の兆しを見せない自分の耳に、蕾夏ははぁ、とため息をつき、またウーロン茶を一口飲んだ。

 と、そこに、例のモデルが、控え室から出てきて、蕾夏の前を通った。
 「……」
 つん、とした美貌が、座っている蕾夏を見下ろす。
 どうやら、蕾夏が目を逸らした数秒間で、彼女のプライドは瑞樹によって粉々にされたらしい。あの後、彼女は蕾夏には関心を示さなくなり、その代わり瑞樹にやたら攻撃的な態度になっていた。それでもやっぱり、蕾夏が面白くない存在であることに、変わりはないらしい。淡い色をした目が、「こんな色気のない女のどこがいいのよ」と無言のうちに告げていた。
 本当は、もの凄く腹が立っているが―――不機嫌な顔をしたら、負けのような気がした。
 「お疲れ様でした」
 にっこり、と微笑んで、軽く頭を下げる。すると、彼女はギョッとしたような顔になり、酷く早口で何かを言って、そそくさと立ち去ってしまった。
 ―――何て言ったのかな、今の。
 唇の動きを読むにも、あまりに早すぎて分からなかった。多分、お先にとか、お疲れ様とか、そういう挨拶だったんだろうな―――と想像しつつ、蕾夏はくすっと笑った。

 ふと視線を感じて、目を反対側の壁際にやると―――瑞樹と、目が合った。
 今のやりとりを、あの位置から見ていたのだろう。蕾夏と目が合って、瑞樹はニッ、と笑ってみせた。
 一体、彼女にどんなリアクションを返したんだろう―――後でこっそり訊いてみよう、と思いながら、蕾夏もニッ、と笑いを返した。

 と、その時。
 蕾夏に向けられていた瑞樹の笑みが、消えた。

 「……?」
 瑞樹の目が、蕾夏から逸れ、スタジオの入り口の方へと向けられる。
 その、少し強張ったような表情が気になって―――つられるように、蕾夏もスタジオの入り口に目をやった。
 そして、そこに、思いがけない人物の姿を見つけて―――蕾夏は、驚いたように目を丸くした。

 ―――…桜庭、さん?

 そこには、何故か―――酷く硬い表情をした桜庭が、蕾夏の方を向いて佇んでいたのだ。


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