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はっきり言って、機嫌が悪かった。
勿論、あのモデルが耳元に残していった、鳥肌の立つような感触が原因。元々、ああした悪ふざけは嫌いだし、酷い時は吐き気すら覚える。けれど、今回のは、それだけではなかった。
怖気が走った後、その反動のように襲ってくる、渇望。
寒気の後の凶暴な熱に、瑞樹は一瞬、我を忘れそうになった。
ここ数日、人がどれだけ苦労してこの渇望を抑え込んでいるのか―――それを知らずに煽った女を、本気で憎いと思った。撮影前だったから穏便に済ませたが、そうでなければ殴り倒していたかもしれない。おかげさまで、撮影は激しくハイテンション―――見た目、普段とさほど変わっていないように見えただろうが、実際のところ瑞樹は、ファインダー越しに睨み返す憎むべき女を、シャッターで射殺す気で撮った。
だから、蕾夏の笑顔にたじろぐ彼女を見て、小気味よさを感じた。
と、同時に―――ここが撮影現場でよかった、と、ほんの少し思った。そうでなかったら、自分が何をしたか、自信がないから。
触れたい唇も、感じたい体温も、蕾夏だけ。
けれど、怯えたように突き放した手を思い出し、煽られた狂気を有無を言わさず抑えつける。
瑞樹と目が合い、腹立たしい女をあっさり蹴散らした蕾夏に口の端を上げてみせると、蕾夏も強気な笑みを返してきた。こんな時、“親友”にモードチェンジして、この状況を楽しめる―――そのことにホッとした、その時。
「成田」
ふいに名を呼ばれ、瑞樹の顔から、笑みが消えた。
普段より控えめな、少し不安げな声―――その主を察した瑞樹は、少し表情を険しくして、スタジオの入り口へ視線を向けた。
ちょうど1週間ぶりに会う桜庭は、この1週間で、随分やつれてしまったように見えた。
別段、急激に痩せたとか、そういうことではないが…表情や、醸し出しているムードが、酷く憔悴している。その様子を見た瑞樹は、ああ、あいつから話を聞いたんだな、と分かった。
何事かを言おうとした桜庭は、すぐに、反対の壁際に座る蕾夏の存在に気づいた。途端、その表情が、瞬時に強張った。
何も事情を知らない蕾夏は、突然現れた桜庭に驚き、キョトンと目を丸くしていた。が、一度一緒に仕事をした相手だし、瑞樹と同じ事務所を使っている人間なので、愛想良くしておいた方が得策だと思ったのだろう。若干青褪めてすらいる桜庭に、ニコリと笑みを見せ、軽く頭を下げた。そんな蕾夏に、桜庭も、心ここにあらずといった様子で頭を下げた。
説明を求めるような視線が、両者から注がれる。幸い、クライアントや広告代理店の人間は、今後のことについて話し合っていて、瑞樹の出番はもうない。舌打ちした瑞樹は、蕾夏の方へと歩き出しながら、手にしていた資料の端に一言記した。
『事務所のことで、ちょっと話してくる。すぐ戻るから、ここで待ってろ』
蕾夏にその資料を突きつけ、書き付けた部分を指差すと、蕾夏は怪訝そうに眉をひそめながらも、一応頷いた。
「この資料、見させてもらってもいい?」
暇つぶしのつもりなのだろう。そう言う蕾夏に、瑞樹は薄く笑みを返し、頷いてみせた。
が、その笑みも、桜庭の方をくるりと向いた途端、消える。
ツカツカと桜庭の方に歩み寄り、その脇をすり抜ける。外に出ろ、という意味だと理解したらしく、桜庭も瑞樹に倣ってスタジオの外に出た。
***
瑞樹と向かい合った桜庭は、打ちっぱなしのコンクリートの壁に肩を預ける瑞樹を見上げ、強張った表情をより強張らせて、口を開いた。
「―――ヒロから、全部、聞いた」
「……」
「この前のことも、過去のことも…その後、ヒロがどう生きたのかも、全部。聞かせてもらった。凄く…時間、かかったけど」
「…それで?」
「1週間、色々、悩んだけど―――まず最初にしなきゃいけないのは、成田に謝ることだと思って」
「…俺に謝る事でもあるわけ」
皮肉を含んだ言葉をぶつけられ、桜庭の肩が、僅かに跳ねた。
以前の桜庭なら、ここで意固地になり、本音を隠す言葉を沢山並び連ねて、勝手にキレてこの場を立ち去ったかもしれない。が…、色々悩んだ末に、何かが変わったらしい。口元を、何かに耐えるようにきつく引き結ぶと、桜庭は、まるで睨み上げるような勢いで瑞樹を見据えた。
「…正直に、言わせてもらう。あたし―――あの2人を会わせたこと自体は、後悔してない」
その言葉に、不愉快そうに瑞樹が眉をひそめた。
「結果は…ショック、だった。藤井さんの今の気持ち考えたら、3日間、ほとんど何も食べられなかった。あたしも…同じ、女だから。でも―――13年も引きずってきたものにピリオドを打って欲しいって思ったのは本当だし、あの2人の望みもそうだったと思う。だから、2人に会うチャンスを与えたことそのものは、後悔はしてない」
「…だったら、謝ることなんかねーだろ」
瑞樹が言うと、桜庭は辛そうに眉を寄せ、首を振った。
「…後悔してることが、2つ、あるから」
「……」
「―――もっと…単純な話だと思ってた。中学生の片想いの話の延長線上の話位に―――ヒロが藤井さんに振られて、その片想いをまだ引きずってるとか…そんな程度だって。ヒロの腕の傷のことも、何も知らなかった。知らない癖に、ただヒロに前を見て欲しいがために、名刺渡して…全部を、2人の判断に委ねちゃったのは、無責任だった。知ってたら―――2人を会わせはしたと思うけど―――名刺渡してはい終わり、とはしなかったと思う。…後悔してる。凄く」
「……」
「それと、もう1つは―――…」
言いかけて。
逡巡するように、桜庭の瞳が揺れた。
体の前で組んだ手を、動揺を抑え込むように組み直した桜庭は、意を決したように、視線を逸らさずに続けた。
「もう、1つは―――あったって、自覚してるから」
「…何が」
「…成田とヒロ、どっちの心も独占してる彼女に対する、妬みが」
「……」
「2人の間を裂こう、とか、具体的な事は何も考えてなかった。でも―――これでもし、ヒロと彼女が上手くいったら、それはそれでいいや、位は考えてた。だから…」
「―――分かった」
気分のいい話ではなかった。それ以上、この件についての説明を聞く気にはなれなくて、瑞樹は桜庭の言葉を遮り、ため息をついた。
「…ごめん。本当に」
「……」
「ごめんなさい」
うな垂れる桜庭に、返す言葉など、見つからなかった。
一度、会って決着つけなければ、今後も呪縛を引きずることになる―――だから、会わせた方がいい。そのことは、瑞樹にも分かっていた。重い足かせを引きずった2人が、その足かせを外すより、足の感覚が麻痺するまで引きずり続ける方を選びかけていたのだから―――もし、こんな結果になっていなければ、むしろ桜庭に感謝したかもしれない。
でも…「もういい、気にするな」と言うには、結果が、辛すぎる。
それが、蕾夏と佐野自身の責任であることは、十分理解していても―――何故不用意な真似をしたんだ、という桜庭への憤りはどうしても消えない。そこに、純粋な善意以外の気持ちが僅かでも込められていたと分かれば、尚更のこと。
「―――それで、佐野は」
苦々しさに視線を逸らした瑞樹は、ぐしゃっと前髪を掻き上げ、そう訊ねた。
「…今は、成田も関わってるあの仕事だけは絶対失敗させられない、って、憑かれたみたいに仕事に没頭することで耐えてるけど―――絶望してる」
僅かに顔を上げた桜庭は、そう言って、唇を噛んだ。
「前の時に、謝罪の機会すら与えられないまま、無視されたから。この前のあれが最初で最後のチャンスだった、もう二度と会うチャンスはないだろうし、償うことすら許されないだろう、って…絶望、してる」
「……」
「あたしは、ヒロの13年を、知ってるから」
何かを決意したように、桜庭が、一点をじっと見据える。
その表情は―――どういう変化かは分からないが、確かに、前の桜庭とは違っていた。
「ヒロが藤井さんに抱いた気持ちも、ヒロが何を抱えて生きてきたかも、全部聞いたから―――成田に、藤井さんの絶望がよく見えるように、あたしにはヒロの絶望が、よく、分かる」
「……」
「成田」
しっかりと顔を上げた桜庭は、神妙な面持ちで、瑞樹の顔を見つめた。
「お願い。藤井さんとヒロを、もう1回、会わせてやって」
「―――…」
「勿論、今度は成田も一緒に。もう1回だけ、2人が納得いくように話し合うチャンスを与えてやって。それ以外、解決する方法はないって、あたしは思う。だから、お願い―――そのためならあたし、何でもするから」
それ以外、解決する方法はない―――…。
分かっている。
分かっていても―――到底、認められない。少なくとも、今は。
「…今は、会わせられる状態じゃない」
第一、会っても、筆談しかできねーしな。
皮肉混じりに言ってやりたかったが、それすら、説明が面倒だった。案外…今は、現実から逃避したがってるのは、蕾夏より自分なのかもしれない。
「今のあいつには、話するような余裕は微塵もない。一見、元気そうに見えてもな」
「…今すぐ、ヒロに会え、ってのは、確かに無理かもしれない。だったら、あたしに藤井さんと話をさせてよ。会う約束だけでも取り付けさせて」
「佐野でもあんたでも、同じだ。断る」
眼光を鋭くして、瑞樹は桜庭を見据えた。
「俺は、蕾夏を助けることだけ考える」
「……」
「だから、蕾夏に負担になることは、絶対許さない。そのことで、あんたや佐野が罪悪感に押しつぶされてようがどうしようが、俺達の知ったことじゃない」
きっぱりと言い放つ瑞樹に、桜庭は、硬い表情で押し黙った。
が―――暫しの沈黙の後、ごくり、と唾を飲み込んだ桜庭は、口を開いた。
「…分かった。今日は、帰る。藤井さんいるって思わなかったから、正直言うと、まだ頭の中整理ついてないし。でも…」
ちょっと、言葉を切って。
「…あたしは、ヒロを、助けたい」
「……」
そう宣言した桜庭の目は、迷いがなかった。
―――そうか。
これが、あんたの望みだったのか。
自分の望みが何なのか分からず、苛立って、混乱していた桜庭―――もう桜庭は、迷わないだろう。真っ直ぐな桜庭の目を見て、瑞樹はそう思った。
ずっと望んでいたものが、手に入れられたのだから。
心を開かせたいと、ずっとずっと思っていた佐野が…誰でもなく、自分に、その痛みを曝け出してくれたのだから。
瑞樹は、それ以上、何も言わなかった。
ふっ、と微かに口元に笑みを浮かべて、体を起こす。桜庭の肩を掠めるようにしてスタジオへと戻る瑞樹を、桜庭ももう、追わなかった。
***
スタジオに戻ると、クライアントと広告代理店の担当者の話し合いは終わり、それぞれに帰り支度をしていた。
撮影機材も次々に片付けられる中、蕾夏は、さっきと同じ椅子に座って、熱心に手元の資料を読み漁っていた。瑞樹がその頭を軽く小突くと、ちょっと驚いたように顔を上げた。
「…あ。桜庭さんとの話、終わったの?」
何も知らない蕾夏は、あっさり、そんな風に訊ねてくる。瑞樹は複雑な心境のまま、微かに笑みを作り、頷いてみせた。
何を見てたんだ、と蕾夏の手元を覗き込むと、その手には、今日撮った写真が使われる予定のパンフレットの商材―――新発売のデジカメのスペック表があった。
瑞樹がそれを見ているのに気づいた蕾夏は、ちょっと気まずそうな笑いを浮かべた。
「あ…、その、いつ頃発売なのかなー、って思って。なんか、スペック表見てると、コンパクトな割に性能良さそうで」
デジカメを買い換える予定でも立てていたのだろうか。初耳の話に、瑞樹は僅かに眉をひそめた。その表情に、蕾夏は、少し照れたように付け加えた。
「その…もし、屋久島に行くんなら―――今度は、私もデジカメ位、持って行ってみようかな、と思って」
「……」
「あそこは、なんていうか、特別な場所だから…瑞樹みたいに、一度、ファインダー通して、あそこの空気を見つめてみたいから」
―――ああ、それで。
昨日、メールで話した屋久島の話を思い出す。
確かに、荒削りな原生林の中というのは、一種独特な空気だ。光も、風も、音も―――ファインダーで切り取られた中に浮かび上がる世界は、瑞樹もそれまで見たことのないものだった。蕾夏が、今度は自分もファインダーから見てみたい、と思うのは、なんとなく分かる。
それに…あそこは、2人にとっては、別の意味でも特別な場所だ。
あの“
―――疲れてんのかもな…、俺も。
ぼんやりと、あの風景を思い浮かべながら、瑞樹は心の中で呟いた。
母のこと、蕾夏のこと、佐野のこと、奏のこと、桜庭のこと―――自覚はなかったが、この感情の起伏の激しさは、尋常じゃない気がする。それは、尋常じゃない精神状態にあるからなのかもしれない。
だから、あの静かな空気に触れたくなるのかもな―――そう思った瞬間、瑞樹は、無意識のうちに、筆談用のメモを手に取っていた。
『いっそのこと、明日、行くか。屋久島』
差し出されたメモに―――さすがの蕾夏も、目を丸くした。
***
「ああ、ちょっと待って! 音楽ストップ!」
ディレクターが手を振ると、ピタリ、と音楽が止まった。
「トガちゃん! ここ、メイクがチェンジになったよね。メグミちゃんの待ち、5分20秒だけど、確実にいける?」
「ええと、大丈夫ですけど―――メグミさん、ちょっといいかなー。アクセサリー類持って、ちょっと来てー」
少し時間のかかりそうな確認事項のようだ。それぞれ、自分が着ることになっている服や靴を手にバタバタしていたモデル達も、とりあえず手にしていた物を一旦置き、ちょっと休憩、といった風情になった。
奏も、ほっと息をつき、近くの壁にもたれかかる。煙草は禁止だが、一服したい気分だった。
「結構、時間かかってるわねぇ、ここまで。あー、一服したい」
隣に来た佐倉が、ちょうど今奏が考えたのと同じ事を呟く。あまりにもタイミングが良かったので、思わず笑ってしまった。
「? 何笑ってるの」
「今、オレも同じ事考えてたところだったから。“あー、煙草欲しいよなー”って」
「ハハ、そうなんだ。ま、喫煙者ならそろそろタイムリミットよね」
こういう現場では、容姿を維持するために生活習慣に気を遣っているモデルより、裏方サイドの人間の方が圧倒的に喫煙者が多い。が、集中しているせいか、誰もイライラした様子は見られない。
勿論―――“彼”も。
広いリハーサル会場の壁際に、目を向ける。
ヒロは、他の裏方と、資料を覗き込んで何やら真剣に話し合いをしていた。その顔は、一見、いつも通りのヒロに見える。
けれど、今日、ここに入ってきた瞬間のヒロを見て、奏は思わず息を呑んだ。
この前会った時より若干面やつれし、疲労を隠すためか濃いサングラスをかけたヒロは、なんというか―――形容しがたい緊張感に包まれていて、なんだか壮絶な姿に見えた。
その姿を見るまでは、顔を見たらまた怒りがこみ上げてくるんじゃないか、とか、逆に変な同情を覚えて複雑な心境になるんじゃないか、とか色々思い悩んだ奏だったが…そんな悩みなど、意味がなかった。ピリピリとしたヒロのムードに、怒りも同情もどっかへ行ってしまった。触らないでおこう―――そっとしておこう。そういう感情しか湧かず、奏は、なるべくヒロの方は見ないようにした。
―――追い詰められてんだな…、あいつも。
蕾夏に会うことが許されなかった頃の自分を思い、苦い思いに眉を寄せる。
でも…蕾夏は、まだ会ってはくれないだろう。制裁も、償いも、まだ時間がかかる。それが何日、何ヶ月かかるかは、誰にも分からない。少なくとも―――“前”の時は、13年かかったらしい。
『俺が、お前みたいな人間なら―――…』
「……」
ここ数日、頭から離れないフレーズが、また脳裏に蘇る。
何故、だろう? 瑞樹も、ヒロも、何故か同じことを言った。もしも自分が奏のような人間ならば、こんなに引きずることはなかった筈だ、と。蕾夏との間にあったことを―――そして、倖との間にあったことを。
「…なあ、佐倉さん」
「ん? 何?」
「オレの顔って、そんなに正直かな」
「は?」
何それ、という風に、佐倉の目が丸くなる。
「…オレ、昔から弟に、よく言われたんだ。オレって寂しがりだから、ちょっと人に優しくされると、まるで尻尾振ってる犬みたいに懐いちまう、って。で、そっぽ向かれると…傷ついて、噛み付くって」
「…あー…、なんか、分かるわ。さすが弟君、お兄ちゃんをよく見てるわねぇ」
面白そうに笑う佐倉をちょっと睨み、それから奏はため息をついた。
「オレ…それをずっと、オレのダメなところだ、って思ってたんだよな。頭来た時、すぐカッとなって怒りをぶつけたりとか、悪かったなぁ、と思うと、相手の頭がまだ冷えてないのも構わず、ひたすら謝り倒したりさ。自制心足りないっていうか、単純すぎて馬鹿っていうか」
「…まあ、そこまでボロクソ言うほどじゃないけど、間違った認識ではないわね」
「なのに最近、複数の人間から羨ましがられたんだよな、この性格」
「羨ましがられた?」
「オレみたいな性格だったら―――その都度、怒りとか罪悪感とかを表に出してれば、引きずらなかったのに、って」
「…うーん…」
眉根を寄せた佐倉は、ちょっと天井を見上げ、前髪を弄った。
「なんかそれは、分かる気するわ」
「え、ほんとに?」
「一宮君、育ちがいいんでしょ」
チラリ、と目を向けられ、奏は少し首を傾げた。育ちがいい―――といっても、別にブルジョワとか、そういう意味ではないだろう。
「幸せに育ってる、って意味?」
「そ。両親に、十分過ぎる位の愛情を貰って、友人にも恵まれて、弟君にも頼られて…そりゃ、子供の頃は日本で“ガイジン”とか言って苛められたけど、大人しい弟君を庇って暴れることで、その壁をぶち壊してきたタイプでしょ。話し合いより殴り合いで友情深めてくタイプ。要するに、感情に忠実でいても、あまり辛い思いをせずに済んだ―――喧嘩しても、落ち込んでも、絶対に揺るがない土台が…“家族”が、しっかりしてたから。そういう育ち方してるんだと思う」
「…うん…オレも、そう思う」
実の両親でないことは、幼い頃から知っていた。でも、それを不幸と思ったことは、一度もない。
引っ込み思案の累と、直情的で社交的な奏。2人で上手いことバランスとれていたから、ずっと仲も良かったし、苛める連中とも、大喧嘩の後には仲良くなった。例の医者の卵の友達だって、最初は累を苛めていたのに、怒った奏と殴り合いの喧嘩をして友達になった。確かに…佐倉の言う通りだ。
「でも、キミみたいな育ち方してる人ばっかりじゃないから、世の中は。感情を押し殺さなければ、家の中ですらまともに息が出来ないような―――そんな環境で育ってきた子だっている。両親の仲が悪かったり、兄弟に暴力振るわれたり…逆に、親が過干渉で、子供の人生にレールを敷いちゃったりね」
「……」
「歪んだ土台を持つ人からすれば、歪みのない、素直な土台を持った人間は、羨ましくもあり妬ましくもあると思う。歪んだ土台の上に積み重ねたものは、やっぱり脆くて崩れやすいものね。キミは、真っ直ぐ育ってる―――だから、その上に積み重ねたものも、ほぼ真っ直ぐなのよ。多少歪んでしまっても、修正がききやすいし。だから、トラブルが起きた時、彼らが感情を飲み込んで殻に閉じこもったとしても、キミは感情のままに殴りかかり、悪かったと思えばひれ伏して謝り、悲しくなれば涙を流す―――そういう人は結局、誰も憎めないのよ」
「―――…」
歪んだ土台―――…。
思わず、ヒロの方に目を向ける。
瑞樹に関しては―――なんとなく、分かる。あれほど歪んだ土台も珍しい位、彼の幼少時代の環境は酷い。怒りも、憤りも、全て飲み込んで体を丸める、小さな子供―――それが、かつての瑞樹だ。
では…ヒロは、どんな土台を持っているのだろう?
瑞樹は、歪んだ土台を持ちながらも、奏ですら戸惑うほどに人の弱さや痛みに敏感な、人の心をよく知る人間なのに―――何故ヒロは、報われない想いを暴力でしか表現できないのだろう? 同じセリフを口にした2人を分けたものは…一体、何なのだろう?
―――“痛々しい”。
昨日、瑞樹に言った言葉が、脳裏に蘇る。
痛々しい―――奏は、壮絶な緊張感を纏ったヒロをぼんやり眺めながら、あいつも痛々しい、と―――そう、思った。
***
最初は、冗談かと思った。
けれど、瑞樹は、本気だった。
スタジオを出たのは午後4時前だったが、その数時間後―――夜の10時を回る頃には、蕾夏は瑞樹と共に、九州にいた。
よく飛行機に空席があったな、と思ったが、案外…何かをふと思い立った時というのは、こういう巡り合わせなのかもしれない。適当に選んだホテルも幸い空室があり、さすがに疲れ果てた2人は、そのまま倒れこむように眠り、朝まで目を覚ますことはなかった。
そして、土曜日。
2年ぶりの屋久島の空気は―――やっぱり、静かだった。
「前より、ちょっと暖かいね」
トレッキングコースの出発点で、胸いっぱいに空気を吸い込んだ蕾夏は、そう言って瑞樹を見上げた。
よく眠ったせいか、前日、随分疲れて見えた瑞樹も、今朝は生気を取り戻している。蕾夏を見下ろす笑みも、とても自然で、柔らかかった。
安全策を取って、前回と同じコースを回ることに決めた2人は、トレッキングシューズの紐をしっかりと締め直し、立ち上がった。
瑞樹が差し出す手を、自然と、握る。そして、2人は、歩き出した。
照葉樹林の枝葉が、空を覆う。
鬱蒼とした森は、まだ早い時間ということもあって、人影もほとんどない。前回とは時期が1ヶ月ずれている分、2人の服装も幾分身軽だ。コットンシャツ越しに感じる空気は、ほんのりと湿り気を帯びながらも、前回のような冷たさはなく、心地よく肌に馴染んだ。
―――今日は、瑞樹の手の方が、温かいなぁ。
2年前、瑞樹の手は、とても冷たかった。その冷たさを暖めるため、ずっと手を繋いで歩いた。あの頃はまだ、自分の中の恋愛感情もよく分からない時期だったから、一旦離れても必ず繋がれる手に、やたらドキドキさせられたのを覚えている。
途中、木の切り株の所に何かの影を見つけ、2人は一旦、足を止めた。
リスだろうか。小さい動物が、切り株の根元にいて、何かをカリカリと齧っていた。途中で動物が現れることは前回で学習済みだった瑞樹は、まだ高度の低い照葉樹林の間はそれを狙うつもりだったらしく、既にライカに望遠のレンズを取り付けている。スルリ、と手を解くと、瑞樹は素早くライカを構え、そのリスらしき動物をカメラに収めた。
可愛いね、人前で餌食べてるなんて、まだこの辺の動物だと警戒心が弱いのかなぁ、なんて言う蕾夏に笑みを返し、瑞樹は再び、解いた手を繋ぎ直した。
やっぱり、温かい―――自分の手をフワリと包み込む瑞樹の手に、蕾夏の口元が綻んだ。
本当は、少し、気になっていた。
瑞樹が何故、急に屋久島に行く気になったのか―――それが、桜庭と話すために出て行った直後だったから余計、気になった。
事務所のことで、なんて瑞樹は言ったけれど…蕾夏はその言葉を真に受けてはいなかった。声は聞こえなくても、瑞樹のことなら、醸し出すムードや表情の僅かな変化で分かる。桜庭の姿を見て瑞樹が見せた苦々しげな表情は、事務所のこと、なんてビジネスライクな話じゃなく、もっとプライベートなことがその裏に潜んでいるようにしか見えなかった。
それに、桜庭の表情も、気になった。
蕾夏の姿を見つけて、半ば青褪めていた桜庭―――あんな顔をされる理由が、蕾夏には思い当たらなかった。いるとは思ってなかったから、という答えでは説明しきれないものが、あの表情にはあった気がする。それが、何なのか…蕾夏は、何も知らない。
でも。
今は、訊かないことにした。
仰ぎ見ると、木々の間に、空が見える。
風に揺れる枝葉に、蕾夏は耳の奥に、ザワザワという音を甦らせていた。
葉陰に潜む鳥の羽音、姿の見えない小さな生き物が地面の枯れ枝を踏む小さな音…自分達が歩くに連れて従う微かな足音。聞こえない…けれど、聞こえる。心で聞く音もあるのかもしれない、と、蕾夏は、瑞樹の手をしっかり握りながらそう思った。
木々の隙間から射し込む、白く霞む光。その光を受けて、青緑色に光る苔の上の露。地面に描かれる様々な影―――音のない世界で出会うそうした光景は、なんだか不思議な色をしていた。
ああ、命は、空から降り注ぐ光で育まれているんだな…、なんて、当たり前のことに気づく。なんだか、光が降ってくる音が、耳元でキラキラと弾けた気がして、思わず空を見上げると、初夏の陽射しが頬に当たった。眩しい―――目を細め、陽射しを手で遮ると、手のひらに当たった光は、何故か重さを伴っているように感じた。
ここは、とても、神様に近い。
ここでは、どんな悩みも、どんな疑問も、意味のないこと。そんな気がして―――今は何も訊かないでおこうと、蕾夏はそう思ったのだ。
***
2年前に“
「…やっぱり、圧倒されるね…」
2人とも、写真を撮ることも忘れて、屋久杉を仰ぎ見た。
三千年、四千年という時間を生きてきながら、その巨木は、どんな木よりも強靭で、力強いように見える。時と共に老いていくのが生き物の筈だが、樹木はまた別の時の流れの中にあるのかもしれない―――本気でそう思ってしまうほど、その力強い姿は圧倒的だった。
そのゴツゴツした幹の表面に手のひらを押し付けてみると、ほんのりと温かさを感じた。生き物が持っている温かさに、心も体もふわりと温かくなる。
「ねえ」
瑞樹の手を引っ張った蕾夏は、瑞樹の手のひらを屋久杉の幹に触れさせた。
「瑞樹も、感じない? エネルギー」
「……」
俺でも分かるんだろうか、という顔で眉をひそめた瑞樹は、それでも、そっと屋久杉に手のひらを沿わせた。
そのまま、何かに耳を澄ますように、じっとしていたが―――やがて、微かな笑みを口元に浮かべると、おもむろに蕾夏の手を取った。
『あたたかい』
蕾夏の手のひらに、そう綴られる。
それを見て嬉しそうに笑った蕾夏は、瑞樹に手を預けたまま、もう一方の手と頬を屋久杉の幹に押し当て、目を閉じた。
―――あたたかい―――…。
手足も、体も、この時だけは、この力強い生命の一部になる。同化して、共有して―――意識が広がる。どこまでも、どこまでも。
なんて…なんて、広いんだろう。
木と同化して…森と、同化する。この森を生かしている力を、肌で感じる。
一つになる―――この森と。そして…今、手を繋いでいる瑞樹と。
心地よさに身を委ねていると、ふいに、その一体感が途切れた。
不思議に思って目を開けると、何かを見つけたのだろうか、瑞樹がまるで別の方向に目を向けていた。
「瑞樹…?」
蕾夏が呼ぶと、瑞樹は振り向き、おいで、という風に蕾夏の手を引いた。
「?」
何を見つけたのだろう―――よく分からないまま、蕾夏は瑞樹に手を引かれるまま、歩き出した。
トレッキングコースを離れ、原生林の奥へと、足を踏み入れる。小枝や苔を踏みながら10メートルほど進むと、急に視界が明るくなった。
そこは―――深い原生林の中で、ぽつんと取り残されたみたいに、空き地になっていた。
理由は、簡単だ。
樹齢はどの位だろう? よく分からないが…屋久杉が1本、倒れていたのだ。
「……」
台風のせいか、それとも病害虫のせいか―――人が伐採したのではなく、自然に倒れたものだと、その根元の形状から分かる。既に苔が倒れた幹に密生しているから、倒れてから結構な時間が経っているのだろう。
何十年、何百年生きてきて…力尽きた命。大木が倒れたせいで、その一帯を覆っていた枝葉がなくなり、その周囲だけが明るく光に照らされている。青い空の下に晒された屍は、その明るさ故に、余計痛々しく見えた。
―――当たり前だよね…。屋久杉だって、限りある命なんだもの。永すぎて、まるで永遠みたいに思っちゃうけど。
それでも…やっぱり、悲しい。少し眉を寄せ、惜しむように蕾夏が倒れた木を見つめていると、瑞樹がその手を、更に引いた。
「えっ?」
瑞樹は、何故か、笑みを浮かべていた。驚かせようと企んでいるみたいな笑みに蕾夏が眉をひそめると、ほら、とでも言うように、倒木の中ほどを指差した。
最初は、よく分からなかった。
何かに導かれるように、数歩、歩み寄る。数十メートルに達する倒木の、ちょうど真ん中辺り―――苔生し、朽ちかけたその幹に、倒木とは明らかに違うものが、息づいていた。
「―――…」
倒木の傍に、ぺたん、と膝をついた蕾夏は、見つけた“それ”を、目を丸くして見つめた。
“それ”は―――まだ生まれて間もない、杉の若木だった。
と言っても、倒木から新芽が出ている訳ではない。それが証拠、倒木の樹皮の裂け目からは、顔を出した若木の新しい根が顔を覗かせている。そう―――この若木は、倒木を土台として新たに根付いた、全く新しい杉の木なのだ。
樹木は土の上に根付くもの、と思っていた蕾夏は、朽ち果てた木の上に根付いた新たな木を、信じられない、という目で見つめた。すると、その目の前に、瑞樹がすっ、とメモ帳を差し出した。
『ガイドブックにあっただろ。倒木更新てのが』
「―――ああ…!」
書かれて、思い出した。蕾夏はぱっと明るい表情になり、目を輝かせてもう一度若木を見つめた。
それは、屋久島の原生林の、自然のシステムだ。
鬱蒼とした屋久杉の原生林は、いつも太陽の光が枝葉で遮られている。だから、屋久杉の下には、苔のような光をあまり必要としない植物しか育つことができない。原生林は、常に、ある一定の量の屋久杉で保たれている。
屋久島は、台風の多い島らしい。年に何本か、老いた屋久杉が風で倒される。
すると、ここがそうであるように、屋久杉が倒れた一帯は、それまで光を遮っていた枝葉がなくなり、地面も倒木も、太陽の光を一杯に浴びることとなる。
すると―――新たな屋久杉が育つだけの環境がそこに出来上がり、まだ栄養分を一杯蓄えている古い倒木の上に、新しい屋久杉が根を下ろす。
若い屋久杉は、倒木や地面から沢山の栄養を吸収し、思う存分太陽の光を浴びて、どんどん成長する。根は伸び、やがては倒木の幹を覆うほどになり―――長い年月の後、倒木は、新しい屋久杉の根に抱かれるように、飲み込まれるのだそうだ。
こうして、1本の屋久杉の命が終わり―――新たな1本の屋久杉が生まれる。これが、倒木更新というシステム。屋久島の原生林を何千年も保ってきた、自然界の不思議なシステムだ。
ガイドブックを読んだ時は、よく出来てるなぁ、と思った程度だった。
でも―――こうして目にすると、自然界の不思議さに感動させられる。
「…すごーい…、これが、そうなんだ…」
蕾夏は手を伸ばし、若木の柔らかそうな葉に、指先で触れてみた。頼りなく見えたその葉は、思いのほか力強く、生命力を感じさせる感触だった。
なんて―――なんて、不思議な世界。
永い永い時を生きたものが、その命を全うし、消えていく。けれど、ただ消えるだけじゃなく、新しい命のための土台となる。そうして…この森は、生き続ける。何千年、何万年―――他の命が尽きていく中も、ずっと。
この世界は、循環し、朽ちては再生し、生き続けている。どこまでもどこまでも。
それぞれの命は限りがあっても、そこにあるのは、無限の世界―――終わることなく、続いていく、無限の世界だ。
1つの悲しい死を土台に、したたかに命を芽吹かせる屋久杉を、蕾夏は憧憬の想いをこめて見つめた。
こんな風に、なりたい。
どれだけの傷を負おうとも―――どれだけの苦しみを味わおうとも、それを土台にし、糧にして、生き抜くしたたかな力。悲しいことも、辛いことも、何もかもを未来へと繋げて…こんな風に、強く生きたい。
フワリと微笑んだ蕾夏は、目を閉じ、そっと屋久杉の若木に唇を寄せた。
そして、憧れとも、祈りともつかない想いと共に―――そのみずみずしい葉に、口づけた。
その、刹那。
カシャッ、という、微かなシャッター音が、蕾夏の耳を掠めた。
ハッとして、目を、開ける。
「―――…」
数度、パチパチと目を瞬いた蕾夏は、驚いたように目を丸くしたまま、暫し、屋久杉の若木を見つめ続けた。
―――今の、音は。
耳を掠めた、独特のシャッター音。カシャッ、と表現するよりは、コトン、と表現したくなるような、静かな…小さな、シャッター音。あれは、間違いなく、ライカ独特のシャッター音だ。
何度も何度も、耳にした音。
では…今のは、その、自分の中にある音の、再現?
それとも―――…。
ゆっくりと首を回し、瑞樹の姿を探す。
すると、数メートル離れた場所に、ちょうどファインダーから目を離したばかりの瑞樹の姿を、見つけた。
「……」
驚いたような顔のまま、呆然と自分の顔を見る蕾夏に、瑞樹は、ちょっと不思議そうな顔をした。
首を軽く傾けたせいで、斜めに流れた瑞樹の独特な色合いの髪が、木々の間を通り過ぎた風に靡く。その様を、蕾夏は夢のような気持ちで眺めた。
風が、頬を撫でる。
風に揺れた木々が、ざわざわと音を立てる。
このざわめきは…記憶の再現だろうか。それとも―――本当に、耳に届いている音…?
「……瑞樹……」
蕾夏が、名を呼ぶと。
「―――…蕾夏?」
不思議そうな、瑞樹の声が、返ってきた。
“蕾夏”。
恋焦がれた、その声に―――蕾夏の目から、涙がひとしずく、流れ落ちた。
次から、次へと、涙が溢れては、流れ落ちる。
突然泣き出した蕾夏に驚いたように、瑞樹は目を丸くして、そこに立ち尽くしていたが、蕾夏の口元が、泣き笑いのように綻ぶのを見て―――その表情が、変わった。
理解、したから。
蕾夏のこの涙の、その意味を。
「…蕾夏…?」
「……うん」
「蕾…夏…」
返事をしようとしたけれど、声が出なくて、何度も頷く。耐え切れず、瑞樹の方へ手を伸ばした。
その手を掴もうとするように駆け寄った瑞樹は、手を取るより早く、自分も膝をつき、蕾夏の背中に両腕を回した。
息が苦しくなるほどの力で、抱きしめられる。
どんな言葉より、瑞樹の気持ちが伝わってくる。蕾夏も目を閉じ―――瑞樹を、精一杯の力で抱きしめた。
―――どうして…気づかなかったんだろう?
そう…前にも、あった。
瑞樹とこうして抱き合った時…何かを、見た気がした。広い広い、どこまでも続く世界―――さっき見たのと同じ、無限の世界を。
今、分かった。
瑞樹と抱き合う時、感じるものは―――大きな木を抱きしめる、あの時感じるものに、とてもよく似ているってことが。
手足も、体も、瑞樹の一部になる。同化して、共有して―――意識が広がる。どこまでも、どこまでも。
ああ…なんて―――なんて、広いんだろう。
心が、体を離れる。時も、空間も越えて…解き放たれる。こうしているだけで、意識はどこまでだって広がる。光も音も風も、ひとりでいる時の何十倍の力で感じることができる。
2人で感じる世界は、こんなに広い―――どこまでも、どこまでも……永遠が見えるほどに。
―――“瑞樹”。
あなたの名前が、生命力に溢れた、生まれたばかりの樹を意味していたのも―――何かの暗示なのかもしれない。
まだ、乗り越えなければいけないものが、沢山あるのだけれど。
この瞬間、瑞樹も、蕾夏も、全てを忘れていた。今は―――こうして抱き合うだけで、十分だった。
2人は、言葉もないまま抱き合って、今感じる世界に身を委ね続けた。
それは、広い、広い―――永遠が見えるほどに広い、無限の世界だった。
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