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 拍子抜けするほど短い休職期間を経て、職場復帰、初日。

 「休んで治るんだったら、もっと早く休んでおけば良かったんじゃないか?」
 左隣から放たれる皮肉っぽいセリフに、蕾夏はペンを走らす手を止め、拗ねたような目をそちらに向けた。
 「…休んだから治った訳じゃないです。2週間経ったから治ったんです」
 蕾夏がそう答えると、脚を組んだ瀬谷は、眼鏡越しに目を眇めてみせた。
 「ふーん。そうかねぇ」
 「そうです。もしすぐに休んでいたら、ただ休職期間が長くなるだけで、当然企画コラム案も廃案、杉山さん達が万歳しそうな展開になっただけだと思いますよ」
 「それなら尚更、即座に休む方をプッシュすりゃ良かったね。残念なことをした」
 ―――天邪鬼…。
 ちょっと呆れたような目をした蕾夏は、すぐに、わざとらしい位にニッコリとした笑いを作り、
 「ホント、残念でしたね」
 と言い放ってみせた。
 蕾夏の耳が聞こえなくなった時、瀬谷が思いのほか協力的だったことは、瑞樹から聞いている。企画コラムを諦めずに済んだ背景には、瀬谷の力添えが少なからずあったこと位、蕾夏も重々承知だ。それでも、蕾夏の回復を瀬谷がニコニコ顔で祝う筈もなく―――でもそのことに、蕾夏は少しホッとしていた。
 瀬谷だけではない。
 編集長も、小松も、他の編集部の人々も―――大半の人々は、普通の休暇明けのように蕾夏に接してくれる。
 というか…その対応は、いささか、普通過ぎて困る部分がある位で。
 「君にしても、きっちり休んどいた方が楽だったかもしれないね。なまじ代理を立てる暇がなかった分、先延ばしした取材の山に囲まれてるんじゃあ…」
 「……」
 そうなのだ。
 実質、休んだのは木・金の2日だけの筈なのに―――その前の10日あまり、耳が聞こえないが故に「とりあえず保留」になっていた仕事が山積してしまっていた。でも、周囲の人間がその保留分の心配をする前に蕾夏が復帰したため、周囲は「これで一安心」と胸を撫で下ろしている。
 撫で下ろして、終わり。フォローする気はない、というか、できる筈もない。ライターは、蕾夏と瀬谷しかいないのだから。そして、忙しい瀬谷が、健康体になった蕾夏をフォローなどする筈もなく―――おかげで蕾夏の今週の予定は、真っ黒だ。
 「…いいんです。変に気を遣われるのも嫌いですから」
 「それは良かった」
 本音80パーセント、強がり20パーセントで答える蕾夏に、瀬谷はニッと笑い、付け加えた。
 「じゃ、第1特集のランチ事情、君の分の仮締め切り、今週末だから。よろしく」
 「―――…」
 今度は、過労で倒れるかもしれない―――蕾夏は、半分本気でそう思った。

***

 初日からいきなり、結構遅い帰宅になってしまった。
 玄関の鍵を開けていた蕾夏は、ドア越しに電話の音を聞き、思わずその手を止めた。
 ―――み、瑞樹、かな? 会社出る前に、メール入れといたんだけど…。
 計算して電話してきたにしては、ちょっと早すぎる気がする。瑞樹も今日は、帰宅がかなり遅い筈―――この時間だと、家に着いたかどうか、微妙な時間だ。では、誰だろう? 心当たりのある人物は、大半が昨日までに連絡済の相手ばかりで、誰も思いつかない。
 慌ててドアを開け、無意識のうちに鍵をかけ、バタバタと部屋の中に駆け込む。留守番電話に切り替わるギリギリのところで、蕾夏は何とか受話器を取ることができた。
 「は、はい」
 肩で息をする蕾夏の耳に届いた声は、とても懐かしい声だった。
 『蕾夏?』
 快活な、弾むような声。目を丸くした蕾夏は、思わず笑顔になった。
 「…もしかして、千里さん?」
 『正解。こんばんは。やっと蕾夏本人と話ができるわね』
 「こんばんは。うわー…、瑞樹から話は聞いてたけど、懐かしいー…」
 日本に戻ってきてからは、手紙で2、3度やりとりがあったが、電話するほどの緊急の用はなかった。だから、千里の声を聞くのは、実に1年ぶりなのだ。
 「学校から? それとも家から? そっちって、ええと、9時間差だから…」
 バッグを床に置いたり、電気をつけたりしながら蕾夏が訊ねる。時計に目を向けると、夜11時近くになっていた。
 『午後2時少し前よ。今日はこれで学校の仕事はおしまい。で、昨日の夜、奏から連絡があったから、まずは蕾夏に電話しなきゃと思ってね』
 「そんな…、私の方からかけなきゃいけないのに」
 『いいのいいの。回復したばかりで、大変でしょう?』
 「…ほんとに、ごめんなさい。心配かけて」
 『私のは、一種の職業病だから、気にすることはないのよ。もっと心配してる人は、他にいくらでもいるでしょ?』
 ふふっ、と笑った千里は、弾んでいた声のトーンを少し落とし、訊ねた。
 『ご両親には、もう連絡したの?』
 「…ん、一昨日、奏君に電話する前に」
 一昨日―――屋久島を後にし、その日の夜の便で鹿児島を発つ前、2人は、蕾夏の両親と奏に電話を入れた。
 蕾夏の耳が回復したとの報告に、事情も状況もよく知る奏は涙声で「良かった」を繰り返し、まさか完全に聞こえない状態だったとは知らない両親は普通に安堵していた。また親を騙すような真似をしてしまったことに胸が痛んだが、奏のような涙声を両親にさせることを思えば、これは止むを得ない嘘なのだ、と蕾夏は自分を納得させた。
 「でも、奏君もうちの両親も、ひとしきり安心したら、“ところで、なんで鹿児島になんているの?”って、そっちに首傾げちゃってた」
 『アハハ、そりゃそうよねぇ。私も驚いたもの。でも―――急に行きたくなったのも、そこで聞こえるようになったのも、何か不思議な力が働いてるみたいな話ね』
 「うん。昔から、大きな木に触れると、エネルギー貰える気がするし―――それに、なんて言うか…意識が、内側から外側へ向けられたのが、大きいと思う。上手く、説明できないけど」
 『内側から外側へ…ね。うん…なんとなく、イメージは分かるわ』
 そこで言葉を切った千里は、少し間を置いて、改まったように口を開いた。
 『それで―――どう? 現実と向き合う決心はついた?』
 「……」
 少し、言葉に詰まる。
 唇を軽く引き結んだ蕾夏は、瞳を少しだけ揺らし、ラグの上に座り込んだ。
 「―――まだ、少しずつ、だけど」
 『…そう』
 「千里さんは、瑞樹か奏君から聞いた? その…相手の人のこと」
 『…前に、蕾夏に辛い顔させちゃった、あの話の相手だってことだけは、一応ね』
 「…そっか」
 『知らない間柄じゃないから、躊躇うかもしれないけど―――訴えるって解決方法もあるわよ?』
 「ううん。それは、考えてない」
 きっぱりと、言い放つ。現実と向き合い始めた時、最初に自分の中で固まった、唯一の結論だから。
 「13年前のことは、まだ…よく、分からない。でも、今回のことは私、佐野君も私も同罪だって、そう思うから」
 『同罪?』
 「…佐野君の方から、折れてきてくれたのに―――私は、傷ついてきたことを隠したいがために、意地張って…逆に、佐野君を傷つけた。佐野君が頭に血が上っちゃったのは、私が招いた結果だもの。殴ったから、殴り返された…そういうことだと思う」

 自分は、被害者であると同時に、加害者でもあるから。
 ギタリストの夢を絶った、あの傷―――蕾夏が引きずってきたのは、暴力に対する恐怖だけじゃない。あの傷に対する罪悪感だ。それが佐野の自業自得だと分かっていても…恐ろしかった。正当防衛の名のもとに、残酷にナイフを振り下ろす自分が。
 “好き”と言ってくれる人を、夢の中で、何度でも切り裂いた。そのせいで、多くの人を傷つけた。手に残るあの感触に今も震撼する自分を、もしも佐野が軽視したら―――蕾夏も、頭に血が上ったかもしれない。恐怖心を軽視されるよりも、ずっと。
 だから、佐野が怒ったのは、分かる。
 彼もまた、怯えていた。“好き”と言った筈の相手に、暴力をふるった自分に。怯えて…それを13年、引きずったのだ。何らかの形で。
 なのに、自分は―――…。

 “この前…佐野君の顔見るまで、ほんとに、忘れてた”

 “もう、13年も経ってるんだもの。お互い、忘れてて当然だよ。…今、それぞれまっとうに生活できてるんだし…今更蒸し返して、謝れとか、責任とれとか言い合うの、ナシにしよう?”

 ―――ほんとに、バカだった…。
 電話のコードを握る手に、ぎゅっ、と力をこめる。
 自分だって、忘れてなかったのに―――引きずって引きずって、まだ引きずり続けているのに―――傷を隠さんがために、佐野の13年を“忘れた”の一言でばっさり斬り捨てた。
 今が幸せだから、もう全部ナシにしよう、なんて…それが、自分でも気分が悪くなるほどの綺麗事であることは、蕾夏が一番よく分かっていたのに。

 『事情は、よく分からないけど―――蕾夏にも非があると、蕾夏は思ってるのね』
 「…うん」
 『でも、蕾夏“だけ”が悪い訳じゃないでしょう? 彼が悪い部分は、別に泣き寝入りする必要はないのよ?』
 「じゃあ、佐野君が刑務所行ったり、高額な慰謝料が貰えたら、それで全部解決する?」
 『……』
 「…それで綺麗さっぱり解決するようなものなら、13年も引きずらないよ。きっと」
 『…そうね。じゃあ―――蕾夏は、どうしたいの?』
 千里の声は、穏やかだった。決して、蕾夏に“常識的解決”を強要する気はないらしい。そのことにホッとしながら、蕾夏は少し目を伏せた。
 「まだ…分からない。凄く、感情的なことだから。千里さんは、どうすればいいと思う?」
 『私? 私は、意見はないわよ?』
 「…そうなの? カウンセラーって、アドバイスや指示を与える人かと思った」
 『ふふ…、カウンセラーはね、患者(クランケ)には指示はしないの。患者を支える周囲の人には指示しても…ね。私の仕事は、話を聞くこと―――そして、蕾夏の中に眠ってる結論を見つけてあげること、よ』
 「……」

 私の中に眠る、結論―――…。
 どうしたいんだろう? 私は。

 「…解放、されたい」
 考えとしてきちんと纏まるより早く、そう、口にしていた。
 『解放?』
 「自由に、なりたいの。縛られているものから」
 『縛られてる、って…具体的に、どんなこと?』
 「―――何かあるたびに、思い出すの」
 『彼のこと?』
 「そう。男の人に触れた時も、そう。お前は女なんだ、って頭を押さえつけられる思いさせられる時も、そう。悪夢を見れば、嫌でも思い出す―――思い出すと、手足を丸めてうずくまっちゃいそうになるの。…ううん、何かあるたび、自分の弱さをあのことに結び付けてしまう自分が、本当は一番嫌なのかも」
 『…呪縛は、自分の中にあるのね』
 「うん―――私の、心の問題」
 『じゃあ、解放っていうのは、思い出さなくなること?』
 「…そうできたら、一番幸せなんだろうけど」
 無理だよね―――蕾夏は、微かに苦笑を浮かべ、首を振った。
 「多分、許すことも、忘れることもできないと思うの。だから―――うーん…何て言えばいいのかな。もういいや、って思える、っていうか…」
 『ああ―――分かった気がするわ』
 言葉が出てこなくて困る蕾夏に、千里はちょっと笑った。
 『つまり、自分を納得させたいのね』
 「……」
 『許せない、忘れられない、でも、もういい―――その先にある今の自分を受け入れたい。そうじゃない?』
 「…うん…そうかもしれない」
 自分を納得させたい―――それは、解放という感覚に、今までで一番近い気がした。蕾夏の口元が、無意識のうちに綻んだが―――すぐに、その笑みが困ったような表情に掻き消された。
 「多分、千里さんが言うようなことだと思う。ただ…どうすればそれが出来るのか、そこが分からないの」
 『それならね。私、少しなら、蕾夏にヒントをあげられるかもしれないわ』
 「ヒント?」
 不思議そうにする蕾夏に、電話の向こうの千里は、大きく息をついた。
 間が、空く。
 奇妙な、長い長い間が空いた後―――やっと千里は、語り始めた。

 『―――私は、もう長いこと、子供の授からない体だけれど―――昔、むかーしね、1度だけ、妊娠したことがあるの』
 「…えっ」
 思わず、目を瞬く。
 「昔、って?」
 『まだ現役の女子高生だった頃―――17歳の時』
 「……」
 『…ずっと優等生で、勉強が趣味みたいな子供だったから…あれが、初恋だったの。命を賭けた恋だって、本気で思ったわ―――世界が変わっちゃったみたいに、毎日がバラ色でね。世間知らずの女子高生だった私には、大学生の彼は凄く大人に見えた。この人と一緒にいれば、何の不安も心配も要らないって、そう思ったのよ』
 うっとりしたような千里の声は、恋する少女そのものだ。淳也のことを惚気る時の千里の顔を思い出して、蕾夏は少し笑ってしまった。
 『だから、妊娠した時―――大喜びで、彼に報告したの』
 その声が、途端、暗く翳る。
 『…返事は、短かったわ。全額負担する、だから堕ろしてくれ―――それだけ』
 「……」
 『中絶できる、ギリギリの時期だった―――結果、私は、二度と子供の産めない体になったの。彼とは、それで終わり。…恋って、あっけないわね』
 「…千里さん…」
 どう、言っていいか、分からない。
 母性の塊のような千里のことだ。その出来事は、さほど子供という存在に思い入れのない蕾夏の数倍、大きな傷になっただろう。同じ女として、その気持ちが分かる―――と言えればいいけれど、到底、同じレベルでその痛みを感じることなどできない気がする。
 『ずっと優等生で自慢の娘だった私の大失態に、両親は、同情1割、軽蔑9割―――そんな娘に育てた覚えはない、って冷たかったわ。家の中の空気も険悪になって…私は、逃げるようにアメリカの大学に進んだの。心理学を学ぼうと思ったのは、ただ、その時の私が傷ついていたから―――自分を見つめなおしたいがために、その道を選んだだけよ。大層な目標なんて、ひとつもなかったわ』
 「…うん…千里さんの選択は、なんか、よく分かる。幼馴染が、同じだったから」
 翔子が、まさに同じケースだ。兄への依存から抜け出せず、親友に同情しながら嫉妬し―――あの混乱を見つめなおすために、心理学の道を選んだ。
 「しかも、その子、今、スクールカウンセラー目指してるの」
 『まあ、他人とは思えないわね。結構、そういう人って心理学の世界には多いのかもね。私も、きっかけはそんな風だったけど…大学で学んで、いろんな人の悩みを聞き、また私も話すうち―――カウンセラーという目標を見つけたの。4年間、必死に勉強して、大学院に進んだ頃…郁夫がイギリスに語学留学してね。そこからは、蕾夏も知っての通り』
 「…夏休みに、時田さんの所に遊びに行って、そこで淳也さんと出会った…」
 『そう。そして、人生2度目の恋をして―――3ヶ月で結婚。イギリスに移り住んで、イギリスの大学の大学院に改めて入り直して…スクールカウンセラーになって。サラが失踪して、奏と累が残されて―――そして、今の私がある』
 言葉を切った千里は、大きく息を吐き出した。
 『あの人のことは、今もやっぱり許せない。でも…ああ、あの結果は仕方ないことだったんだ、って、割り切ることができる。それは、私の体験したことが、蕾夏の場合とは違って全部“自分の選択”だったせいなのが大半かもね。彼の卑怯さを見抜けなかったのも、それでも産むという選択をしなかったのも、全部私が選んだものだから。でも…それ以外にも、理由があるの』
 「…どんな?」
 『―――ねえ、蕾夏。もしも私が、あの悲しすぎる出来事を経験してなかったら―――今の私は、どんな私だったかしら』
 「えっ」
 『心理学の道には、多分…進まなかったでしょう。アメリカにも行ったかどうか。留学してなければ、元々語学には苦手意識のあった私がイギリスに遊びに行く気になったかどうかも怪しい―――もしかしたら、淳也と会うことも、カウンセラーになることもなかったかもしれない。奏や累の親になることも、そして―――今、こうして、あなたと電話していることも…ね』
 「……」
 『…蕾夏も、思ったことはあるんじゃない? 似たようなことを』
 「……うん……」

 あのことがなければ、きっと、瑞樹と出会うことも、互いの痛みを分かち合うこともなかった。
 そう思えば―――“もしも”なんて、いらない。

 奏と夜桜を見た日、佐野とは奏のように話し合うことができなかったことを後悔しかけて―――蕾夏は、そう、思った。それは、確かだ。
 …でも。
 でも―――それでは割り切れない部分が、どうしてもある。

 知らないうちに、空いている手が、自分の二の腕を掴む。崩れた自信が、千里の言葉に100パーセント頷くことを拒ませる。
 『私が間違った恋に走ったのは、私の意志よ。でも、蕾夏はただ、理不尽な暴力に晒されただけ―――少なくとも、今分かっている範囲では。それでは、割り切れないのは当然かもしれない』
 「……」
 『私がアドバイスするとしたら、2つだけ。背景を知りなさい、ってことと…今の自分に寛容になりなさい、ってこと』
 「寛容に?」
 『私だって、時々辛くなって、淳也に縋りついて泣いたりするのよ? 過去の傷は、痛くて当たり前なの。それを弱さと感じて1人で立とうとする蕾夏を、私は大好きだけど…もっと寛容になっていいのよ』
 「……」
 『過去は全部、今の自分へと繋がってるわ。今の自分に寛容になって、今の自分を愛しく思えれば―――過去を割り切ることが出来ると思う。私は、馬鹿な恋に走った挙句に取り返しのつかない傷を体に残した果てにある、今の自分が、とても好きよ』


 過去があって、今がある。
 時は、出来事は、みな繋がっている。未来へ、未来へと。

 それならば―――これも、ちゃんと未来へ繋がっているんだろうか?

 自分の意志とは無関係に、瑞樹を突き飛ばした、自分の手―――コードを離し、そっと手のひらを広げた蕾夏は、その手を苦しげな目で見下ろした。

***

 千里との電話が終わって間もなく、瑞樹に電話してみると、彼は既に帰宅していた。
 案の定、千里と電話してる間に固定電話に電話していたらしく、話中の音を聞いて、とりあえず待ってたのだという。
 『ふーん、そうか。千里さんが相手だったのか』
 「うん。結構、30分以上喋っちゃったと思うよ。大丈夫だったかなぁ…電話代」
 『ハハ…、お前よりはあっちのが高給取りだろ』
 「そうなんだけどー…」
 ぶつぶつ言いながら、ウーロン茶の入ったグラスを弄んでいた蕾夏は、あることを思い出し、目を上げた。
 「…あ。ねえ、水曜日って瑞樹、どういう予定になってたっけ」
 『水曜?』
 「うん。ほら、企画コラムの合否が分かる日」
 『あー…、それが、最悪なことに』
 「…忙しいんだ?」
 『“I:M”の仕事の、残り2本のうちの1つが、夜まである』
 “I:M”を完全に切ることに決めた瑞樹だが、表紙の撮影があと1本と、細かい商品撮影が1本残っている。表紙撮影は来月の筈だから―――水曜に入っているのは商品撮影の方だろう。扱いは地味だが、撮影が大変なのは、むしろこちらだ。
 「そっかぁ…残念。採用が決定したら、夜にどっかで待ち合わせして、ぱーっとお祝いしようと思ったのに」
 『不採用だったら?』
 「勿論、残念パーティーで、ぱーっと騒ぐの」
 『ハハ、どのみち、ぱーっと騒ぐのか』
 「だって、採用されたら夢みたいだし、不採用だったら今までの努力考えて落ち込むし…。あ、水曜じゃなく金曜にして、久しぶりにオールナイト観に行くのもいいなぁ」
 『ああ、金曜なら大丈夫。オールナイトか…今って何やってんだろ。お前、チェックしてる?』
 「ううん。最近、全然。あー、こういう時、新聞取ってないとすぐ調べられなくて面倒だなぁ。“ぴあ”とかも今買ってないし…ネットで調べるしかないかなぁ」
 『……』
 ふいに、瑞樹の声が途切れた。
 「? どうかした?」
 『…ああ、いや』
 不思議そうな蕾夏の声に、瑞樹は苦笑を返した。
 『なんか急に、久しぶりだよな、とか思ってな』
 「久しぶり?」
 『…電話で話すのが』
 「……」
 そういえば、そうだ。
 会えない日は、こうして、1日の終わりに電話で話す。それが、2週間前までの2人の日常だった。けれど、ここ2週間―――会えない日の2人を結ぶのは、メールだった。
 「…たった、2週間なのに…なんか、懐かしいね、こういうの」
 蕾夏も、なんだかそんな気分になって、思わずくすっと笑った。
 「最初は、文字だけで成り立ってたのにね」
 『…そうだな』

 そう。最初は、姿も声もない、文字だった。
 何故か気が合って、話をするのが楽しくて―――気づけば、信じられないような時間、2人でずっと話をしていた。あれが、2人の始まり。
 でも、電話で話してからは、チャットでは物足りなくなった。
 実際に顔を合わせてからは、電話より、実際に会って同じ時間を共有したくなった。
 そして、互いのぬくもりを知ってしまってからは―――離れることが、辛くなった。

 『人間は、一旦贅沢覚えると、我慢きかねー生き物だから』
 瑞樹が、苦笑混じりにそう呟く。あまりにも、今思ったこととシンクロしているその言葉に、
 「…そうだね。贅沢だよね」
 蕾夏もそう言って、少し寂しげに笑った。

 受話器片手に膝を抱えながら、そっと目を閉じ、指先で唇に触れる。少し冷たくなった指先を唇に感じて、なんだか…切なくなった。
 ほら。
 こうして、思い浮かべても―――少しも怖くない。
 瑞樹に触れられることを考えても、恐怖心も嫌悪感も、全く湧いてこない。感じるのはむしろ―――狂おしいほどの、欲求。抱きしめて欲しい。触れて欲しい。今、すぐにでも。
 では、何故、突き放したのだろう?
 瑞樹が怖かったからじゃないし、瑞樹を他の人と間違った訳でもない。あの時湧いた、あの嫌悪感は…今までは知らなかったものだった。あれは、一体…何、だったんだろう?

 『…蕾夏?』
 蕾夏が黙っているものだから、瑞樹が、少し心配げな声で名前を呼ぶ。
 『どうかしたのか』
 「…ううん。なんでもない」
 『ほんとかよ』
 「うん。…ね、もう1回、名前呼んでみて」
 蕾夏がそう言うと、戸惑っているのか、少し間が空く。が、やがて―――望んだ声が、耳を掠めた。
 『―――蕾夏』
 “らいか”。
 ちょっと切ない色をした、蕾夏が大好きな声。
 瑞樹は、声も、結構罪作りなのかもしれない―――蕾夏は、くすっと笑って、膝を引き寄せた。
 『…お前も、呼んでみろよ』
 「え?」
 『名前。呼んでみろよ』
 「……瑞樹」
 『……』
 「瑞樹―――…」

 ―――瑞樹。
 あなたが、好き。

 口元に、どこか幸せそうな笑みを湛える蕾夏の目から、涙が静かに溢れ、頬を伝った。


***


 ―――あーあ…くたびれたー…。
 取材先からの帰り道、蕾夏は大きなため息をつき、長い髪を掻き上げた。
 復帰2日目。後回しにしていた取材の消化が本格的に始まった。現在、午後4時―――3件の取材をこなした蕾夏は、もう体力の限界だ。
 ランチ事情に関する記事、と言いつつ、蕾夏の担当はお弁当だ。東急ハンズのお弁当箱コーナーが最近賑わってるとか、デリバリーのお弁当もオシャレになったとか、栄養価に細かい配慮のなされたコンビニ弁当の売れ筋商品とか…そんな記事が担当。
 今日取材した先の1軒はそのデリバリーの会社だったが…蕾夏とそう歳の違わないベンチャー組の社長は、やたら熱くて、やたら声も大きい。15分ほどお話を、という約束が、結果、1時間付き合わされた。しかも大半が、記事にはできない、ベンチャー企業の裏事情話だ。
 でも、一番疲れたのは、帰り際。
 『会社まで車でお送りしますよ、ついでにドライブでもどうですか』
 勿論、即座に断り、逃げるように帰ってきたが…冷や汗とも脂汗ともつかない嫌な汗で、背中が気持ち悪かった。
 ただ迷惑とか不愉快とか、そういうレベルじゃないのだ。前から2人きりになろうとする男が苦手だったが…今は多分、前以上に苦手だと思う。下心の透けて見える社長の目を思い出してしまった蕾夏は、鳥肌の立った腕を無意識のうちにさすっていた。

 気分の悪い出来事を忘れるには、他の事で頭を一杯にするに限る。
 会社に戻ったら、取材メモを纏めて、瀬谷さんに相談して―――と、帰社後の予定を考えながら、蕾夏はエントランスの自動ドアをくぐり抜けた。
 すると。
 「わっ!」
 「きゃ…!」
 考え事に没頭しすぎたらしく、自動ドアを抜けた辺りで、前の人の背中に追突してしまった。
 蕾夏にいきなり背中からぶつかられた相手は、前へつんのめり、2、3歩よろけた。
 「ごっ、ごめんなさいっ! 大丈夫ですか!?」
 相手の肩で打ってしまった鼻がちょっと痛かったが、蕾夏は慌てて前の人の顔を覗き込んだ。
 覗きこんで―――目を、丸くした。
 「―――桜庭さん?」
 「…えっ」
 肩をさすりながら振り返った前の女性も、蕾夏の顔を確認した途端、目を丸くした。
 「ふ…藤井さん!?」
 「こんにちは。どうしたんですか? こんなとこで」
 蕾夏が訊ねても、明らかに動揺しきっている様子の桜庭は、後退るばかりだった。
 「ふ、藤井さんこそ、どうしてこんな時間に、ここに…」
 「取材からちょうど帰ってきたとこなんです。あ…、大丈夫でしたか? 私がぶつかっちゃったとこ」
 「え? あ、ああ…大丈夫。ありがと」
 ぶつかったことなど、蕾夏の顔を見た瞬間に頭から吹き飛んでしまっていたのだろう。妙に拍子抜けしたような顔で、桜庭は返事を返し、肩を2、3回さすった。
 けれど、そのやりとりで、少し冷静さを取り戻したのか、桜庭は、少し瞳を揺らした後、気まずそうに視線を逸らした。
 「あの―――もしかして、うちの会社に用事でも?」
 前に一度“A-Life”の仕事をしている桜庭なので、そういう可能性もある。というか、それ位しか、桜庭がここにいる理由が思いつかない。
 しかし、桜庭から返ってきたのは、意外な言葉だった。
 「…ううん、会社に用事があった訳じゃないのよ」
 「え?」
 眉をひそめる蕾夏に、桜庭は、意を決したように蕾夏の方に顔を向けた。
 「藤井さんに用事があって、来たの」
 「―――は? 私?」
 「これ」
 桜庭は、ジーンズのポケットに挿しこんでいた物を引っ張り出し、それを驚く蕾夏に突きつけた。
 「これを、渡しに来ただけだから」
 「?」
 それは―――クリーム色した封筒だった。どう見ても、手紙といった風情だ。
 「受付に言伝して帰ろうと思ったけど、藤井さん本人に会えたから、手渡す。また、ゆっくり読んで」
 「え?」
 「とにかく、ごめんなさい」
 勢いよく下げられた頭の意味が、蕾夏にはさっぱり分からない。
 「あ、あのっ」
 「じゃ」
 「桜庭さんっ」
 顔を上げ、無理矢理蕾夏の手の中に手紙を押し込んだ桜庭は、呆気にとられる蕾夏を振り切るように、今通り抜けたばかりの自動ドアをくぐり抜け、外に出てしまった。
 ―――ちょ…ちょっとちょっと、待ってよ。何なの、これ。
 いきなり手紙を渡されて「読め」と言われても、何が何だかさっぱり分からない。蕾夏は、反射的に、桜庭を追って外に出た。

 そうだ―――桜庭には、もう1つ不可解な部分があったのを、蕾夏は思い出した。
 この前の金曜日、瑞樹の撮影現場に現れた時―――桜庭が見せた、あの引き攣ったような表情。それに伴い、瑞樹のあの強張った顔も気になった。

 「桜庭さん…っ! ちょっと、待って!」
 早足でどんどん歩いていく桜庭を、必死に呼び止める。が、その背中が止まる気配は微塵もない。
 「桜庭、さんっ!」
 目一杯、腕を伸ばし、桜庭の腕を掴む。
 ギョッとしたように振り返った桜庭は、この場から立ち去ることしか頭にない、といった、焦った顔をしていた。手を振り解いてでも逃げるかもしれない―――蕾夏は、桜庭の腕を掴む手に力をこめた。
 「ちょっと、待って」
 「……」
 「手紙って、一体、何の? それに、いきなり謝られても―――私、何のことだか、さっぱり…」
 「…………」
 桜庭の眉が、訝しげにひそめられる。
 「…あたしのこと、何も聞いてないの?」
 「え?」
 「成田から」
 瑞樹から―――?
 「いえ、別に、何も…?」
 「……」
 桜庭の表情が、更に怪訝そうなものに変わる。もう、今すぐ逃げ出す、といったムードは微塵もなくなった。蕾夏は、手の力を抜き、不思議そうに見開いた目を数度瞬いた。
 「…何のこと?」
 「…じゃあ、何も、知らないの?」
 「何、を?」
 「ヒロと、あたしのこと、とか」
 「―――…」

 “ヒロ”。
 その呼び名に、蕾夏は馴染みがないが―――そう呼ばれている男を、1人だけ、知っている。
 目を丸くした蕾夏の表情が、不思議そうなものから、緊張を伴ったものに、次第に変わった。

 「…どういう、こと…?」
 唇が、微かに、震える。
 蕾夏のその表情の変化に、桜庭はごくりと唾を飲み込み、唇を噛んだ。その目は、まだ迷いを残していたが―――このまま逃げては意味がない、と思ったのだろうか。蕾夏を真っ直ぐに見つめ、口を開いた。
 「あたし――― 一時期、ヒロと“きょうだい”だったの。親同士が再婚して」
 「……えっ」
 「1年だけの、短い家族だったけど…。それで今も、ヒロとはよく会ってる。ていうか―――多分、一番親しい女だと思う」
 「……」
 「…全部、話、聞いてる。ヒロから」
 その言葉に、蕾夏の肩が、怯えたようにビクリと跳ねた。
 「全部?」
 「全部。…中学の時も、この前のも、それと…その間にある13年のことも」
 「……」
 「ごめん。ヒロ経由でも、知られたくない話だよね。でも―――知る必要、あったの。だって、あの名刺…ヒロに渡したの、あたしだから」
 「桜庭さんが?」
 さすがに、目を見張った。けれど、辛そうな桜庭の目は、それが真実だと告げていた。
 「…きっかけを作った責任として、その手紙を書いて、あなたに渡そうとしたんだけど…」
 桜庭の視線が、蕾夏が握っているクリーム色の封書に向けられる。その視線を追うように、蕾夏も封書に目を向けた。
 「…何が、書いてあるの」
 「―――あたしがした事の説明と謝罪。それから…あたしが知ってる、ヒロのこと。もう、藤井さんはヒロに会って話す気はないだろうと思って…っていうか、会わせるなんて酷だって思うし、成田も絶対駄目だって言ってたから……ああ、もう」
 苛立ったように髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた桜庭は、自らを落ち着かせるように、大きく息を吐き出した。
 「駄目だな―――頭、整理してきたつもりなのに、いきなり顔見たら、またバラバラになっちゃった…」
 「……」

 よく、分からないけれど。
 桜庭は、知っている。佐野の行動の裏にあるもの―――蕾夏の知らなかった、佐野のバックボーン。
 瑞樹はもしかしたら、佐野のことを、佐野の話とは知らずに、桜庭から聞いていたのかもしれない。その内容のせいで…蕾夏に、桜庭の話を何もしなかったのかもしれない。瑞樹が聞かせたくないと思うものなら、聞かない方がいいのかも。でも―――…。

 『私がアドバイスするとしたら、2つだけ。背景を知りなさい、ってことと…今の自分に寛容になりなさい、ってこと』

 背景を、知る。
 それは、つまり、佐野という男の半生を知り、理解するということ。
 知れば―――何かが、変わるだろうか?
 何が悪かったのか、何が間違いだったのかを知って、自分にも非があるのか、それとも単に佐野が下らない男だったからなのか―――それを知ったら…割り切るための足がかりを手に入れられるだろうか…?

 「―――桜庭さん」
 一度緩めた手の力を、蕾夏は再び、強めた。
 「私は、手紙より、桜庭さんの口から聞きたい」
 「……」
 桜庭は、その言葉に、動揺したように瞳を揺らした。それでも蕾夏は、桜庭の腕を更に強く握り、真っ直ぐにその目を見据えた。

 「お願い、聞かせて―――佐野君のことも、あなたのことも、全部」


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