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― Link -2- ―

 

 「はい」
 蕾夏が缶コーヒーを差し出すと、遠くを眺めていた桜庭は、ハッとしたように顔を上げた。
 「…ありがと」
 どこか気まずそうな表情で、缶コーヒーを受け取る。そんな桜庭の横に蕾夏も腰を下ろし、ウーロン茶のプルトップを引いた。
 会社から少し歩いた所にぽつんとある、小さな公園。
 公園、と言っても蕾夏が好きな緑などはあまりなく、どちらかと言うと子供の遊び場として存在している類の公園だ。あまり良い天気ではないせいか、蕾夏や桜庭と入れ違うように、砂場で遊んでいた子供達が帰って行った。今は、公園の入り口辺りに犬の散歩の途中らしい女性2人が立ち話をしているだけで、子供の姿はない。
 公園の端に、申し訳程度に設置されたベンチに並んで座り、2人は、暫し無言だった。
 蕾夏は、桜庭が何か言ってくれるのを待っていたのだし、桜庭は、蕾夏が何か訊いてくれるのを待っていた。そう親しい間柄でもない2人なので、会話のきっかけが掴めず、困っていたのだ。
 そもそも、蕾夏はどうにも、同性が苦手である。中学の時の、あの強烈な疎外感がトラウマになっているのか、親しくない女性と話す時は、初対面の男性と話す以上に緊張してしまう。
 でも、話を聞きたいと言ったのは自分なのだし―――と、自分の方から話を切り出そうと蕾夏が思った時。
 「―――ごめんね」
 桜庭が、先に口を開いた。
 目を向けると、桜庭は、真っ直ぐ前を見つめたままだった。その硬い横顔に、きちんと目を見て謝れる類の罪悪感じゃないらしいことを蕾夏は察した。
 けれど、続いて桜庭が口にした言葉は、ある意味察した通りだし、ある意味予想外だった。
 「…あたし、あなたに嫉妬してた」
 「えっ」
 嫉妬?
 キョトン、と目を丸くする。嫉妬されてたとは意外だったし、それ以上に、そのことと佐野の件がどう結びつくのか、蕾夏にはよく分からない。
 「どうして、私に?」
 蕾夏が訊ねると、桜庭は唇を噛み、少し俯いた。
 「あたし―――成田が、好きだったから」
 「……」
 「…実は、藤井さんがヒロに会った日の前日、あたし、勇気振り絞って打ち明けたんだ。でも、あっさり玉砕―――成田の頭の中では、人類って、自分と藤井さんと“それ以外”で構成されてるらしいのよね。男の相手は女、ってレベルで、成田の相手は藤井さんなんだって」
 ―――そ…そんなこと言ったの、瑞樹が。
 さすがに、頬が熱くなってくる。でも、そんなことを直接言われた桜庭の心境を思えば、顔を赤らめることなんてできない。蕾夏はちょっと視線を彷徨わせ、結局、俯いた。
 「…悔しかった。悔しくて、でも、あなたには敵わないって思う部分が沢山あるから―――嫉妬するのが関の山、だった」
 「……」
 「…あたし、ヒロとあなたの事は、何も知らなかったんだ」
 はあっ、とため息をついた桜庭は、やっと顔を上げ、蕾夏の方を見た。
 「“A-Life”の仕事であなたに会った時、“フォト・ファインダー”の写真の話したけど…あれ、ヒロが初めて興味示した写真だったからなの」
 「佐野君が?」
 「そう。あたし、それをずっと、成田の写真に惹かれてるからだ、って思ってた。でも、1ヶ月くらい前、偶然、ヒロの中学の卒業アルバム見て―――分かった。ヒロがあの写真に執着してた理由は、あなただって」
 「執着、って…」
 不安げに蕾夏が眉を寄せると、桜庭は慌てて首を振った。
 「あ、ううん、そうじゃない。後で事情は違ったって分かったけど…その時はそう思ってた、ってこと。ああ、ヒロは藤井さんのことが好きで、今もまだ諦めきれずにいるんだな、って…まあ、そんな風に。しつこく訊ねても、ヒロは本当のこと教えてくれなかったし―――傷つけ合った間柄だ、なんて言われても、手酷く振られたヒロが暴言で傷つけたとか、そのレベルかと…」
 妙に早口でそうまくしたてた桜庭だったが―――語尾が、急激に弱くなった。
 「…そのレベルと思って、当然だと思います。私だってきっと、人の話ならそう思うだろうし」
 蕾夏が、微かに口元に笑みを浮かべながらそう言っても、桜庭の声の勢いは戻らなかった。
 「…成田に振られた日、あなたがアシスタントをやらない、って話をヒロにしたら、ヒロ、ホッとした顔しながらどこかで残念な顔をして―――その顔見たら、成田だけじゃなくヒロにとっても、あなたは特別な存在なんだな、ってそう思えて…余計、悔しくて」
 「……」
 「だから―――…」
 だから、名刺を渡した。
 佐野に過去と決別させるため、もしくは、佐野の長年の片想いを実らせるため。もしくは―――瑞樹と蕾夏の間に、佐野という楔を打ち込むため。
 辛そうに目元を歪めた桜庭は、うな垂れたとも、謝罪したとも取れる仕草で頭を垂れた。
 「―――ごめん。本当に、考えなしだった」
 うな垂れる桜庭に、蕾夏は黙ったまま、目を伏せた。

 不思議と、許せない、という気持ちは湧いてこない。
 むしろ、因果関係がはっきりして、さっぱりした気分の方が大きい。そう思えるのは多分―――桜庭が、自分の負の感情を潔く晒しているせいだろう。
 ただ純粋に、知人の長年の片想いの応援をしたかっただけだ、と、嘘をつこうと思えば簡単につけた筈だ。桜庭と佐野の間柄を詳しく知らない蕾夏なのだから、その嘘を疑うことはなかっただろう。なのに桜庭は、一番悔しい、妬ましい相手に、自分のずるさやいやらしさを晒している―――だから、それだけでもう、桜庭の謝罪の気持ちは十分伝わっていた。

 「…分かりました」
 目を上げ、そう告げる。
 驚いたような顔になる桜庭に、蕾夏は静かな笑みを返した。
 「桜庭さんが悪かったと思ってる気持ち、よく分かりました。何故佐野君が私の名刺を持ってたのか不思議に思ってたけど、その謎も解けたし―――もう、桜庭さんを責める気はないです」
 「…でも…あんな目に遭わせたのに…」
 「いいえ」
 それだけは、はっきりさせなくてはいけない。キッパリとした口調で、蕾夏は桜庭の言葉を遮った。
 「あんな目に遭わせたのは佐野君で、そのきっかけは私の言動で―――桜庭さんがあの結果を招いた訳じゃないでしょう?」
 「……」
 そう言う蕾夏に、桜庭は暫し瞳を揺らし、それから気まずそうに目を逸らした。


 また暫く、無言が続く。
 2人は、それぞれの飲み物を口に運びながら、黙っていた。犬の散歩途中の人達は、まだ飽きずに喋っていて、蕾夏は犬同士がリードの届く範囲内でじゃれあってる姿を、なんとなくぼんやり眺めていた。
 その向こう側を、小学生位の姉と弟がバタバタと通り過ぎるのを見て、ふと、さっきあまり詳しく訊かなかった話が頭に浮かんだ。
 「あの…桜庭さんが佐野君のお姉さんだったのって、いつ頃の話なんですか?」
 桜庭の方に顔を向けて蕾夏が訊ねると、桜庭は、缶コーヒーを口に運ぶ手を止め、蕾夏の方を見た。
 「…あたしが高1で、ヒロが中3の年の夏から、約1年強」
 「え…っ、じゃあ、桜庭さんてうちの校区に住んでたんですか」
 「親が結婚してから離婚するまでの間だけね。あたしもうちの母も、元々23区内に住んでたから、離婚後はまた23区内戻って今住んでる家を借りたけど」
 「へえ…」
 なるほど、どうやら桜庭の母親と佐野の父親の再婚だったらしい。ということは…中2の時は、佐野の家は父子家庭だったのかもしれない。担任などは知っていただろうが、クラスメイトは―――勿論蕾夏も―――佐野の家庭事情などまるで知らなかったから、そういう事情があっても不思議ではない。
 「…好きなんですか? 佐野君のこと」
 そんな気がして、訊ねる。
 桜庭は、一瞬言葉に詰まり、それから苦い笑いを浮かべてコーヒ缶を弄んだ。
 「成田が好きだって言ったのに、そういう事訊くかな、普通」
 「でも、両方好きだっていう場合もあるでしょう?」
 蕾夏があっさりそう言うと、桜庭は缶を弄ぶ手を止め、ちょっと目を丸くした。
 「―――なんか、意外。同時に2人好き、なんて、あり得ないとかどっちも本気じゃないとか、そういうこと言いそうに見えるのに」
 「…やっぱり、好きなんですか」
 再度問われ、桜庭は曖昧な表情でため息をついた。
 「…ほんと言うと、自分でもよく分かんない。これが恋愛感情なのか、何なのか。好きだなんて言ったことも言われたこともないし、お互い他に付き合ってる人がいた時期もあったし。だから…今も、分からない。ヒロのこと、好きだから放っておけないのか、それとも―――ただ、罪悪感に駆られてるだけなのか」
 「罪悪感?」
 唐突に飛び出した単語に、蕾夏は不思議そうな顔をした。
 「桜庭さんが、佐野君に?」
 「そう。あたしが、ヒロに」
 「…どうしてそんな…」
 「―――全然気づかずに、責めたから。ヒロのこと」
 「責めた?」
 眉をひそめる蕾夏に、桜庭は暫し躊躇し、それから、後悔を滲ませたような微笑を浮かべた。
 「手紙には一応、それも含めて全部書いておいたけどね。ヒロの人となりを、藤井さんにも分かって欲しくて―――ヒロがあの日、藤井さんを傷つけるつもりで訪ねて行った訳じゃないって、信じて欲しくて」
 「……」
 「…あたし、全然知らなかった。あの家の中で起きてたことも…あたしと母があの家に入るまでの14年間、ヒロがどんな生活していたのかも」
 うな垂れた桜庭は、大きな大きなため息をついた。そして、少し涙を含んだような掠れた声で、呟くように告げた。

 「あの人が―――ヒロの父親が、小さかったヒロに暴力振るってたなんて…全然、知らなかった」

 その言葉に。
 蕾夏の表情が、凍りついた。

***

 桜庭は、一通りのことを教えてくれた。
 再婚当時、仲が良かった筈の佐野が、ある日を境に桜庭や母親に冷たくなり、追い出すような態度を取り始めたこと。何故なのか分からず、そんな佐野を桜庭が一方的に非難し、かなり酷い態度を取ってしまったこと。そして、ある日―――自分の母が義父に殴られているのを初めて見てしまい、止めようとして自分も殴られたこと。
 結局、母への暴力は随分前から続いていたらしく、娘に手を挙げた夫に愛想を尽かした母は桜庭を連れて家を出た。母娘2人の生活になり、冷静さを取り戻して初めて、佐野が冷たくなった時期と母への暴力が始まった時期が一致していることに気づき―――桜庭は、佐野の実母に真相を確かめに行ったらしい。
 そして、もしや、と思ったことを―――ヒロは自分達を逃がしてくれたのかもしれない、という推理を、事実だったと確信し―――激しい後悔に襲われた。

 「…桜庭さん」
 手が、震えそうだった。
 ウーロン茶の缶を強く握り締め、蕾夏は顔を上げた。
 「その話、もしかして、瑞樹にも…」
 「…ん、ここまでの話は、成田にもした。勿論―――藤井さんとヒロの間柄を知るもっと前にだし、成田もそれに気づいたの、今回のことがあってからみたいだけど」
 「…そう…」

 ―――だから。瑞樹は。

 だから瑞樹は、蕾夏に、桜庭の元弟が佐野だと教えなかったのだ。
 自分と同じ、親に虐待されるという体験をしている佐野。その過去を蕾夏に教えたら―――その話と、瑞樹の過去とを結びつけて、蕾夏が佐野に同情するかもしれないと、そう瑞樹は思ったのだろう。怒りを同情で誤魔化して、言いたいことも言わずに許したふりをするかもしれないと…そう心配したのだ。きっと。
 ―――バカ…、瑞樹。
 胸が、痛い。
 憎みたい相手が極悪人なら、どんなに楽だろう。その相手が、自分と酷く重なる部分を持つ相手だったら―――瑞樹の気持ちを考えると、その苛立ちや複雑な思いを思うと、胸が痛い。奏の複雑な心境を思って瑞樹は色々気を遣っているけれど…本当は、一番気持ちの持って行き場に困っているのは、瑞樹自身なんじゃないだろうか。

 「あたしも、ここまでしか知らなかったんだ。この前までは」
 コーヒーを一口飲んで一息ついた桜庭は、脚を組みなおし、話を続けた。
 「この前―――ヒロに色々話を聞いた時、知らなかった話も一杯出てきた。…ちょっと、驚いた。ヒロに、あたしと同い年のお姉さんがいたって話聞いて」
 「えっ」
 「ヒロが3つの時に、水の事故で亡くなったんだって」
 「……」
 「多分、あなたの家のご近所の人は知らないと思う。その事故があって、両親揃って精神的に参っちゃって、娘の面影が残る町にはとてもいられない、ってあの辺に引っ越したらしいもの」
 「…そうなんだ」
 道理で、誰からもそんな噂を聞かない訳だ。勿論、佐野が3歳の頃に、蕾夏はあの辺に住んではいなかったが―――クラスメイトの兄弟が近所の水の事故で亡くなっていれば、ずっと地元に住んでいる誰かから、そうした噂が自然と出る筈だ。特に、佐野は―――素性の知れない生徒として、周囲も裏で色々と噂をしていたのだから。
 「あの人の暴力が始まったのは、それがきっかけ。お姉さんが亡くなったのは、自分の手元を離れて娘が遊びに行っちゃったことに気づかなかった、お前のせいだ、って。それにヒロに対しても、お前が泣いてぐずったりしなければ、お母さんはお姉さんがいないことにもっと早く気づいた筈だ、って―――要するに、自分の中の行き場がない悲しさを、あの人は家族が娘を殺したんだ、って思って怒りをぶつけることで解消してたって訳。最低でしょ」
 憤慨したようにまくし立てた桜庭は、そこで、何かに気づいたように口を噤み、やがて、少し視線を落とした。
 「…あたしも、あの人を非難できないような、卑怯な真似したけど」
 「……」
 「―――やだな。あんな男の気持ちが、ちょっと分かっちゃうなんて。…なんで人間って、やり場のない怒りとか苦しさを、他人に転嫁しようとするんだろ」
 「…人間って、弱いから」
 ポツリと、そう呟く蕾夏の心中には、いろんな物が浮かんでいた。

 あの人も。
 瑞樹の祖父―――秋本も、己に降りかかった突然の不幸を、酒に溺れ、家族に暴力を振るう、という形でしか解消できなかった。
 …いや。解消など、できる筈もないのだ。その不幸に真正面から向き合い、それを乗り越える以外―――真に救われる道など、1つもないのだから。
 ―――だから、痛くても、現実を見ないといけないんだ。
 自分も、一度、逃げ出そうとしたから。
 絶対瑞樹を1人にはしない、と言った癖に、瑞樹を置いて1人、手の届かない世界へ逃げてしまおうとしていたから―――分かる。現実を直視できず、心を暴走させてしまう、人間の弱さが。

 「…佐野君は、それで、一体いつ頃まで暴力を受けてたんですか?」
 また沈み続けてしまいそうになっていた桜庭は、蕾夏の問いかけを受け、また顔を上げた。
 「10歳位まで、みたい」
 「え…、てことは、お母さんが離婚した頃まで?」
 ちょうど符合する時期を、ちょっと不思議に思う。やはりそこには因果関係があったらしく、桜庭は辛そうに目を伏せた。
 「…ヒロは、元々学校でも友達と上手くいかないタイプで、よく喧嘩したりガキ大将と取っ組み合いになったり…そういうのがあったから、“自分が殴られるのは自分が駄目な子供だからだ”って思ってたみたい。だから、お母さんが殴られる位なら、駄目な自分が殴られた方がいい、って我慢して我慢して―――いつか、あの男より大きく強くなったら、今度は自分があの男をやっつけて、お母さんを助けるんだ、って…そう思ってたのに…」
 「……」
 「10歳の時、あの男が久々に、お母さんに手を挙げて―――随分体も大きくなってたヒロは、お母さん助けて、逆にあの男に殴りかかって、勝ったの」
 10歳―――蕾夏が知る佐野は、13歳以降だ。当時、既に170あまりの背があった佐野だから、10歳でも結構大柄だったのかもしれない。大人に殴りかかって勝てるほどなのだから。
 「二度と手を挙げようなんて気が起こらないように、徹底的に殴り倒した、って言ってた。それでも、それまで殴られてきた回数の、何十分の一だろうけど。で…、あの男が戦意喪失した頃になって初めて、何故あの男が久々にお母さんに怒りをぶつけたか、その理由が分かったって訳」
 そこまで言われて―――蕾夏は、大きく目を見開いた。
 「…離婚話だった、ってこと…?」
 「そう。しかも、お母さんは再婚する相手がいるって話。…ショックだったと思う。だって相手は、ヒロもよく知ってる人だったから」
 「え…っ」
 「お母さんが何度か、ヒロにも会わせてた相手。ミニカーくれたり、お菓子くれたりする優しいおじちゃんだ、って思ってたその人を、お母さんはヒロに“お母さんのお友達よ”って紹介してたんだって」
 「―――…」

 “友達”。

 ずっと、引っかかっていた糸が、解けた気がした。
 男と女の間に、友情なんて成り立たない―――嫌悪感すら滲ませて言い放った佐野を思い出し、蕾夏は深く理解した。
 あれは、ただ単に一般論を言っていた訳ではない。あの冷たい言葉は……蕾夏じゃない、母親に向けられた言葉だったのだ。
 「この前、本で偶然“エディプス・コンプレックス”って言葉を見つけて、男の子供の心理ってのを初めて知ったけど―――特にヒロの家は、父親が暴力振るうから、“自分がお母さんを守るんだ”って意識が強かったと思う。だからこそ、殴られても我慢してたし、そんな自分を庇わず、自分が殴られることを恐れて震えている母親を責めもしなかったんだ、きっと。なのに…この結末。裏切られた、って思ったと思う。ヒロは」
 「…じゃあ…佐野君が、離婚後もお父さんの所に残ったのは…」
 「お母さんは連れて出ようとしたけど、本人が頑なに拒んだの」
 それは―――そうだろう。
 辛い日々に耐えられたのは、母の愛情を信じていたからこそ―――母が頼りにしてるのは自分だけだと、母を守れるのは自分だけだと信じていたからだ。なのに、最後の最後で、疑うことすらしなかった“友達”との関係を突きつけられれば、一体自分は何のために耐えてきたのか、と、母を信じられなくなって当然だ。
 暴力の黙認だって、暴力の一種だ。
 佐野は、父親に殴られながら、その実、母親にも殴られ続けていたのだ。
 「すっかり捻くれたヒロは、人の親切にも、誰かの好意にも、全てに冷淡な子供になっちゃったのよ。目つき悪いから、みんな怖がるしね。でも、友達なんて欲しいと思わなかったって。信用して心を預けたら、あっさり手のひら返して裏切られる―――そう思うと、表面上の付き合いでいいや、って、ずっと思ってたみたい」
 そこでほっ、と息をついた桜庭は、しっかりと目を上げ、蕾夏の目を真っ直ぐに見つめた。
 「―――藤井さん以外に関しては、ね」
 「……」
 油断していたせいで、心臓が、ドキンと鳴った。
 つい、まるで関係ない1人の少年の不幸な幼少時代の話を聞いてるような気分になっていたが―――そうなのだ。全ては、“あの日”に繋がっている。蕾夏に暴力を振るい、力ずくで支配しようとした、あの時の佐野に。
 「…どうして、私だけ、別なの」
 動揺のせいで、少し、声が上ずる。
 けれど、桜庭は困ったような顔をして、僅かに首を振った。
 「それは―――あたしもよく、分からない。多分、ヒロにも分からないと思う。ただ…ヒロ、言ってた」
 「何て?」
 「ヒロが藤井さんに惹かれたのは、多分―――仲間意識、だって」
 「…仲間意識?」
 「藤井さん、いつもいつも笑ってたけど…一瞬見せる、周りの誰からも浮いてしまって途方に暮れてるみたいな、そんな孤独そうな目を見て、初めて思ったんだって。ああ―――こいつも、俺と同じ、ここにいるガキ連中の中で溺れかけてる1人なんだ、って」
 「―――…」
 知らず、唇が、震えた。
 瞳が、ぐらりと揺れる。蕾夏は視線を逸らし、唇を噛んだ。

 それは―――蕾夏の心の奥底に巣食った、痛みだ。
 どこに行っても、“異質”な自分。肌の色の違う人の間にいても、自分と同じ肌の色をした人の間にいても…いつも、孤独だった。
 馴染めない。男女をきっぱりと色分けするシステムにも、その色に見事に染まりきった、自分と同性の筈の少女たちにも。馴染みたいと思っても、どうしても無理で―――いつしか、その色に染まる努力すら辞めて。あの頃の蕾夏は、そういう少女だった。いや…今も、そんな自分を引きずっている。

 そう言えば。
 あの時。突然、訳も分からないままに奪われた、ファーストキスの時。
 蕾夏は直前、クラスメイト3人に囲まれて、一方的に責められていた。悔しくて、悲しくて、どこでも“異邦人”でしかいられない自分が嫌で嫌で…生徒会室でひとり、声を殺して泣いていた。
 もしかしたら、佐野は―――知っていたのかもしれない。事の顛末を。知っていて…慰めたいけど、その方法が分からなくて―――その結果が、あの唐突なキスだったのかもしれない。
 愛を、学ばずに、生きてきたから。
 父に暴力を振るわれ、母に裏切られ―――暴力で支配された家庭の中で、愛を知らずに育ってしまったから。
 助けを求めたいのに、その方法が、分からなくて。助けてやりたいけれど―――その方法も、分からなくて。行き場のないもどかしさと憤りが、やがて、蕾夏の傍にいた由井に向き、最終的には―――蕾夏自身に向いた。

 ―――ああ…そうだったんだ…。

 これが―――蕾夏がずっと知りたかった、佐野博武のバックボーンだ。

 「あの、“フォト・ファインダー”の写真見て、ヒロ、寂しかった、って言ってた。藤井さんが昔の笑顔取り戻してるの見て、なんだか、自分だけ置いてかれたみたいで―――自分だけ、13年間一歩も進めなかったみたいで、焦った、って」
 「……」
 「…あたし、ずっと分からなかった。ヒロは、決して女にモテない方じゃないし、中には女のあたしから見ても最高にお勧めな子もいたのに―――なんで誰に対してもいい加減で、ある程度関係が深くなると、それ以上踏み込まれるのを嫌がるみたいに、あっさり捨てちゃうんだろう、…って」
 「……」
 「でも…話聞いて、分かった。ヒロのトラウマになってたのは、心を開いても裏切られたお母さんのことと、もう1つ―――大事にしたかった藤井さん相手に暴力を振るった、自分自身だったんだ、って。それが、世界で一番嫌いな奴と同じ行為だから、余計―――人を好きになって、夢中になって、相手を暴力で支配しようとするかもしれない自分が、怖かったんだ、って」
 「…うん…」

 ―――私も、そう、思う。
 掠れた声は、言葉にはならなかった。蕾夏は視線を逸らしたまま、辛そうに目を伏せた。

***

 無言のまま、時が過ぎ―――双方の缶の中身が、空になった。

 「…そろそろ、仕事、戻らないと」
 呟いた蕾夏は、ため息をつき、立ち上がろうとした。
 が―――そんな蕾夏の腕を、桜庭がおもむろに掴んだ。
 「ちょっと、待って」
 「え?」
 「もう1つだけ―――ううん、手紙に書いたことの中で、一番重要なこと、まだあなたに話してない」
 「……?」
 眉をひそめ、中腰のまま、立っていいのか座った方がいいのか困った様子でいる蕾夏に、桜庭はぎこちない仕草で立ち上がった。
 立ち上がって、向かい合う。けれど、桜庭の視線はあちこちを彷徨い、なかなか落ち着かない。どう言うべきか逡巡しているような桜庭の様子に、蕾夏は不思議に思いながらも黙って視線が戻って来るのを待った。
 何度も何かを言いかけた桜庭の口から、やっと話が切り出されたのは、1分後だった。
 「―――あの…、別にあたしは、藤井さんの同情を買いたくて、ヒロの昔の話をした訳じゃ、ないけど」
 「……」
 「でも、その―――ヒロにはヒロの痛みがあって、そのせいであんな事になったんだ、って思ってくれるなら―――お願い。もう一度だけ、ヒロに会って欲しい」
 ドキリ、とした。
 それは―――桜庭の口から言われることは、さすがに想像はしなかったが―――正気に戻ってからの蕾夏が、常に頭の片隅で思っていたことだ。もう1度会って、今度こそ決着をつける。そうする以外、解決の方法など思い浮かばなかった。
 それでも蕾夏は、少し俯き、返事を躊躇った。
 悔しいけれど―――佐野ともう一度会うことを想像すると、説明したがたい不安に、足が竦む。また暴力を受けると思っている訳じゃないけれど…それでも、本能が佐野に怯えている。
 「前の時は、藤井さん、まるでヒロが存在しないみたいに無視しながら、残りの中学校生活を過ごしたらしいけど…」
 「……」
 「ヒロもああいう性格だから、目も合わせようとしないあなたに、追いすがって土下座するような真似、できなくて―――後悔してた。あの時、どんな残酷な仕打ちを受けても、クラスメイト中に蔑まれてもいいから、そうするべきだった、って」
 それには蕾夏は、無言で首を振った。そんなこと―――やらなくて正解だ。あの頃の自分に、佐野と向き合う力などほとんどなかった。何も感じたくなくて、目を逸らし続けることしかできなかったのだから。
 「ギタリスト…ほんとは、かなりマジで目指してたらしいけど―――それも、あんな真似した代償だ、って割り切ろうと頑張ってたみたい。でも…仲間の演奏聴いて、自分も舞台に立ちたい、って気持ちが湧く度に、腕の傷のこと思い出して―――演奏できないことより、自分の罪をその度に見せ付けられるのが苦しかったって」
 「……」
 「…今度、また、土下座するチャンスもあげないまま、放り出しちゃったら―――ヒロ、今度こそ、駄目になると思う。あたしがこうして藤井さんに会いに来たのも、ヒロが“自分はもう会う資格なんてない”って言って、この先に絶望しちゃってるからなんだもの。今やってる仕事が終わったら、ヒロがどうなっちゃうか…あたし…」
 きゅっ、と唇を噛んだ桜庭は、俯く蕾夏に、深々と頭を下げた。
 「お願い―――もう1度だけ、チャンスをあげて」
 「―――…桜庭さん…」

 よく分からない、だなんて。
 ただ、認めたくないだけなのではないだろうか。桜庭は。
 家族愛を育むには短すぎるし、親友と呼ぶには心を許しておらず―――それ以外の関係で、その人のためにこんな風に頭が下げられる、という人は、“好きな人”以外いないのに。
 それは勿論、少女漫画や映画に出てくるような、胸をときめかすような恋心ではないかもしれない。けれど―――桜庭の中にあるのは、その恋を昇華した先にある、愛だ。本人はまだ気づいていなくとも。

 もし、自分が同じ立場に立ったら―――瑞樹が誰かを傷つけてしまい、そのことを深く後悔しながら、会うこともできず苦しんでいたら。
 …でも―――…。
 「…ごめんなさい」
 消え入りそうな声で、蕾夏はそう言い、顔を上げた。
 下げていた頭を上げた桜庭は、少しショックを受けたような顔をしていた。そんな桜庭を安心させるように、蕾夏はほんの少しだけ笑みを浮かべ、首を振った。
 「永遠に、ってことじゃ、ないんです。ただ…まだ、こうして人と話せるようになって、間がないから―――もう少しだけ、時間下さい」
 「…それは…いつかは、会ってくれる、ってこと?」
 「―――約束は、できません。でも…考えてみます。解決して、引きずり続けたものを終わらせたい、って思いは、私も佐野君も同じだから」
 蕾夏がそう答えると、桜庭はホッとした顔になり、初めて笑みを見せた。
 ―――この人のこういう笑顔、初めて見たかも。
 くすっと笑った蕾夏は、改めて姿勢を正すと、さっき桜庭がやったように深々と頭を下げた。
 「…ありがとうございました」
 「……え?」
 いきなり、謝罪相手にお礼を言われて、桜庭はきょとんとした顔になった。意味が分からず呆気にとられる桜庭に、顔を上げた蕾夏は、もう一度笑みを返した。
 「桜庭さんの話聞いて…少し、頭の整理がついたから。家帰ったら、手紙読みながら、もう少し考えてみます」
 「…そう」
 自分のした事は、無駄じゃなかった。そう思えたのか―――そう答える桜庭の笑みは、穏やかだった。


***


 桜庭と別れ、急いで仕事に戻り―――結局、帰宅は日付が変わるギリギリの頃になってしまった。
 大体、桜庭に会う前の取材の段階で、既に体力の限界だったのだ。重い体を引きずるようにして部屋に戻った蕾夏は、電気もつけずに、ラグの上にペタリと座り込んでしまった。

 真っ暗な、部屋の中。
 ひとり、ぼんやりと、カーテン越しに見える街灯の灯りを眺める。
 指一本、動かす気にはなれない。ただ、虚ろに―――どこかを見つめる。そんな蕾夏の脳裏には、今日桜庭から聞いた話と…様々な話が、次から次へと浮かんでは消えていた。

 ―――なんだか…不思議だ。
 自分でもおかしいと思う位に、いろんなことが、すんなり頭に入って。
 多分…“今”だから、理解できる話だ。これが13年前なら―――あの頃の自分なら、きっと同じ話を聞いても、今の半分も理解できないし、理解したつもりでも、こんな胸の痛みは感じなかっただろう。何故なら、今の自分は、あの頃の自分とはまるで違うから。
 瑞樹に、出会ったから。
 そして―――瑞樹のバックボーンである、倖や秋本を、知っているから。


 『あの女も、こんな記憶に苦しめられた時期もあったんだろうか、って思うと…余計気分が悪くなる。俺もあの女も、結局同じなのか―――自分のエゴのためなら人の命を奪うことも厭わないような、そんな人間なのか、って』

 奏を手にかけた自分に、かつて自分を殺そうとした母を重ね合わせて苦しんでいた瑞樹。
 その姿は、蕾夏に暴力を振るった自分に、自分に暴力を振るった父親を重ねて愕然としている佐野と、よく似ている。
 親は親、自分は自分、暴力の経緯も、その理由も違う、だから気にする必要なんてない―――他人はみなそう言うかもしれない。でも…そう言い放てるのは、平凡な幸せに包まれて成長し、自分自身の中の悪魔を自覚することなく生きてきた、恵まれた人達だ。
 でも蕾夏は、己の中の悪魔を知っている。
 もし、将来、自分の子供が同じように誰かに刃物を向けたなら―――たとえその理由が自分と違っていても、きっと自分の経験したことと重ね合わせずにはいられない。だから、その逆も―――他人に刃物を向けた子供が、母親である蕾夏も人を斬り付けた、と知ったら、自分の行為と蕾夏の行為を繋げてしまわずにはいられないだろう、ということも、よく分かる。
 分かるようになったのは―――自分がそういう体験をして、瑞樹という人に出会い、その過去に触れ、彼の苦悩を共に感じてきたからだ。
 13年前には、きっと、説明されても分からなかった。蕾夏自身…幸せに包まれ、己の中の狂気を知らずに生きている、恵まれた人間の1人だったから。

 佐野の父親の話も、倖や秋本の話を聞いていたから、その人間的な弱さを哀れに思える。
 そして、同じように、自らの憤りをぶつけずにはいられなかった佐野の弱さも―――許すことはできなくても、哀れに思うことができる。


 自分の過去も、瑞樹の過去も、今の瑞樹へと繋がる人々の過去も、そして―――2人が経験した新たな痛みも。どれもみな、苦しくて、辛くて、悲しいけれど。
 全てを経た今だからこそ、理解できる。佐野が抱えた痛みも、恐怖も、後悔も、悲しみも。

 過去があって、今がある。
 時は、出来事は、みな繋がっている―――未来へ、未来へと。


 「―――…っ」
 ふいに、涙が、溢れてきた。
 何故だろう? 一体、何の涙なのだろう? …分からないけれど―――体の奥から、次々に涙が溢れて…止まらなかった。
 コトン、と、壁に頭をもたせかける。
 蕾夏は、まるで何かの箍が外れてしまったように、泣き出した。悲嘆の叫びとも、怒りが決壊したともつかない、大きな泣き声を上げながら。

 泣いても、泣いても、この涙の意味は、分からなかった。
 ただ…涙と一緒に、何かが解けていくのを感じた。
 しこりのように凝り固まって、蕾夏の中に沈んでいたもの。それが…大声を上げて泣くたびに、解けて、バラバラになって、体中に広がっていくような…そんな感触を。


 まだ、「もう、いいや」なんて、到底言えないけれど。
 笑顔でそう言えるための“何か”が、自分の中に少しずつ芽生え始めるのを―――蕾夏は、この時、感じていた。


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