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 「―――で、そのウサギの目は、何なんだ」
 「…寝不足です」
 嘘をつけ、と冷ややかな視線が隣から飛んでくる。蕾夏はひたすら、その視線を無視して、キーボードを叩き続けた。
 勿論、寝不足ではなく、泣きすぎである。
 昨晩は、一体どれ位の時間泣いただろう? 時計で測った訳ではないから分からないが、1時半頃瑞樹からメールが入った時には氷で目を冷やしている最中だったので、1時間ほどは泣いたのだろう。その後、電話で10分ほど話したが、おかしな声になっていなかっただろうか。瑞樹が不審に思っていたら嫌だな、と、蕾夏は赤くなった目を指の甲で擦りながら思った。
 「全く…昨日の会議の結果が気になって眠れなかった、とでも言う気か?」
 呆れ声の瀬谷のセリフに、さすがに手を止め、顔を向けた。
 「…それだけじゃ、ないですけど。でも、会議の結果が気になって眠れなかったのは本当ですよ?」
 実際、瑞樹と電話で話した後は、今日のことを考えて、やたら目が冴えてしまったのだ。
 「不採用でもクビになる訳じゃなし。この程度で、そんなウサギ目になるようじゃ、この先やっていけないね」
 そう言って瀬谷は鼻で笑い、自分のデスクに向き直った。
 ―――こ…この段階で“不採用”とかって単語、出さないで下さい。
 多分、わざとだろう。最近、かなり角が丸くなったとはいえ―――やっぱり瀬谷は、瀬谷だ。

 昨日の企画会議は、蕾夏が取材に行っている間に終わった筈である。でも、蕾夏が帰社した段階で、編集長は既に他の用事で不在となっており、また他の企画の人間も忙しく―――蕾夏自身も仕事を抱えていたため、会議の結果を聞く暇がなかった。だから、一夜明けた現在もまだ、蕾夏は会議の結果を知らない。
 あの企画コラムが、通ったのか、通らなかったのか。
 瑞樹と一緒に連載を持てるか、持てないか。
 専属ライターをクビになる訳ではない。それは分かっている。今回駄目でも次のチャンスでは絶対逃さない、そうも思っている。けれど―――その“次”がいつ来るか分からないし、必ず来るという保証はない。欲しい―――なんとしてでも、今回のチャンスをものにしたい。それが正直な気持ちだ。

 「―――ああ、そう言えば」
 原稿を書くための資料をバサバサと整理しながら、瀬谷が、顔をこちらに向けずに口を開いた。
 「藤井が休んでた間に、読ませてもらった。例の記事」
 「…えっ」
 例の記事、とは、企画コラムの記事―――“カメラとさんぽ。”の記事だろう。何も言われなかったので、まさか読んでいたとは知らなかった。
 「ど、どうでしたか?」
 「ん? まあ、なかなか良かった」
 「…皮肉とかじゃ、ないですよね?」
 恐る恐る蕾夏が訊ねると、瀬谷はくくっと笑い、顔をこちらに向けた。
 「皮肉られるほど酷い出来だと思ってるんなら、提出するべきじゃないだろうね」
 「い…一応、自信はそこそこ、ありますけど」
 「うん。いい記事だった」
 再度あっさりそう言うと、瀬谷はデスクの上の書類の山に目を移した。
 「おかげで、久々に原稿用紙を引っ張り出してくる気になったしね」
 書類と書類の間に挟まって、僅かに角がはみ出しているのは―――確かに、原稿用紙だ。普段、記事原稿は全てパソコン上で作ってしまう瀬谷が原稿用紙を出してきた意味を察し、蕾夏は目を丸くした。
 「―――土曜に、あの記事の余韻で、ぶらりと浅草に出かけてね。試しに、耳を塞いで、裏通りを暫く歩いてみた。それで、小学校低学年の頃、実際に豆腐売りのラッパの音を聞いた僕としては、少々ノスタルジーに浸りすぎたらしくてね。まだテレビゲームなんてなかった自分の子供時代が妙に懐かしくなって…そういう話を書いてみたい気分になった訳だ」
 「…書くんですね、小説を」
 「ぼちぼちとね」
 そっか―――そうなんだ。
 恋人に裏切られ、執筆の意味を見失って、原稿用紙に背を向けてしまっていた瀬谷―――けれど、やっと、原稿用紙を広げる気になれたのは…多分、蕾夏の記事のせいではないだろう。
 蘇芳せなと再会し、わだかまりを隅に追いやって連載を依頼し、その作品にある程度納得したことで、何かひとつ、クリアできたから。許せたとか、忘れたとか、そういうことじゃなく…区切りをつけられた。そういうことなのだと思う。そう―――蕾夏が求めている、“解放”だ。
 「しかし、あの記事は、藤井が耳が聞こえなかったからこそ書けた記事かもしれないな」
 仕事のための資料を引き出しから引っ張り出しつつ、瀬谷がついでのように付け加えた。蕾夏もそう思う部分はあるので、微かに微笑み、頷いた。
 「ええ。普段通りなら、音に着目することはなかったかも」
 「まあ、僕にしても、あんな屈辱的な経験を過去にしてなけりゃ、浅草のど真ん中で子供時代を懐かしむこともなかったかもしれないし―――蘇芳の作風も、昔同様、乙女チックな半端なもんで終わってたかもしれないし。物事は、どう転ぶか分からないもんだな」
 「……」
 ―――過去は全部、今の自分へと繋がっている。
 千里の言葉を瀬谷の言葉に重ね、蕾夏は曖昧に笑った。
 「…そう、ですね」
 その言葉とほぼ同時に、編集部奥のミーティングルームのドアが開いた。
 ハッとして、目を向けると、朝の定例ミーティングが終わり、ぞろぞろと人が出て来ているところだった。
 そんな中、まだミーティングルーム内にいた編集長が、ドアから半身を乗り出し、顔を覗かせた。そして、蕾夏と目が会うと、手招きで蕾夏を呼び寄せた。
 ごくり、と唾を飲み込む。勿論、用件は1つだろう。席を立った蕾夏は、足早にミーティングルームに向かった。
 「おはようございます」
 出社時、既にミーティングに入っていた編集長に、まずはそう言って頭を下げる。
 「おはよう。また、随分と赤い目をしてますね」
 「…あはは…、ちょっと、寝不足がたたってます」
 「なるほど。じゃあ、早いとこ、心配事から解放してあげないと可哀想ですね」
 そう言うと編集長は、にっこりと笑顔になった。

 「―――おめでとう。昨日の会議の結果、藤井さんの企画が本採用になりましたよ」


***


 『企画採用決定しました! HALとの正式契約は来週になるって。週末、絶対お祝いやろうね』

 送られてきたメールに、瑞樹の口元は自然と綻んだ。
 瑞樹にとっても、このニュースは重大だ。不定期な仕事をたまに貰うだけの“A-Life”で、月1の連載の仕事が1本貰えて、しかもコンビを組む相手が蕾夏なのだから。

 『了解。週末のことは、今晩、電話で詳しいこと打ち合わせしよう』

 すぐに返信を送り、パチン、と携帯を閉じる。と同時に―――口元から、笑みが消えた。
 ―――何だったんだろうな、昨日のは…。
 昨晩の短い電話を思い出すと、眉が寄ってしまう。
 顔が見えなくても、蕾夏の状況は声を聞けば分かる。あれは…絶対、泣いた後の声だった。電話では何も言わなかったが、電話の直前まで泣いていたことは間違いない。
 何か、あったのだろうか―――色々考えを巡らせつつ、一段飛ばしで階段を上がった瑞樹だったが。
 「―――…」
 事務所のドアから、ちょうど出てきた人影に気づき、足を止めた。
 「じゃ、行ってきます」
 事務所の中にいる川上に挨拶をして、ドアを閉めたその人影は―――間違いなく、桜庭だった。
 カメラバッグを肩に掛け直し、くるりと踵を返した桜庭は、10メートルほど先にいる瑞樹の姿を見つけた途端、立ち止まった。その表情が、僅かに強張る。
 「……あ…、おはよ」
 「……」
 「これからロケなんだ、あたし。成田は?」
 「…午後から夜中まで、スタジオ缶詰」
 「そう…」
 気まずそうに、少し視線を泳がせた桜庭だったが、やがて覚悟を決めたように瑞樹に歩み寄った。
 「あの―――彼女から、聞いた?」
 「は?」
 「あたしと昨日、話したって」
 「……」
 ―――だからか。
 直前まで頭を占めていた疑問に、唐突に終止符が打たれた。蕾夏が泣いていた理由は、桜庭と会ったせい―――というか、桜庭から聞いた話のせいだろう。その内容までは知らないが。
 「…って…聞いてなかったみたいね」
 「どんな話したんだ」
 「別に…成田に話したのと、ほぼ同じことだけど。今回のことの経緯と、あたしが知ってるヒロの背景とか、そんなもの。ヒロに会って欲しいってことも伝えたけど、今は無理って。でも考えてくれるみたい。それに、話聞いて良かった、って笑ってくれたし―――え、何、彼女、様子変だったの?」
 険しい表情の瑞樹に、桜庭が不安げに眉をひそめる。瑞樹はため息をつき、前髪を掻き上げた。
 「いや。そういう訳じゃない」
 「…なら、いいけど」
 「……」
 会話が、途切れる。
 蕾夏が泣いていたらしい事を桜庭に言うことも考えたが、瑞樹自身が蕾夏から何も聞いていない以上、そのことで苦言を呈するのも変な話だ。結局、桜庭が何か言うのを待つように、瑞樹は黙り続けた。
 気まずい空気が流れる中―――やっと口を開いた桜庭は、意外なことを口にした。
 「―――あたしさ。来月一杯で、時田事務所抜けるから」
 「え?」
 時田事務所を抜ける?
 意味が一瞬、分からなかったが―――つまりは、時田事務所を使うのを辞める、ということだろう。さすがに、瑞樹も少し、目を丸くした。
 「なんでまた」
 「ん…、前から、専属にならないかって声かけられてた雑誌があってね。7月からそこの専属カメラマンになることにした」
 「へえ……」
 なんだかんだ言っても、専属はフリーより安定した立場だ。月によって収入が著しく変動していたらしい桜庭のことを考えるなら、声をかけてくれている所があるのなら、専属になった方が落ち着いた仕事ができるだろう。
 「まあ、いいんじゃねーの、あんたの場合」
 瑞樹がそう言うと、桜庭は苦笑を見せた。
 「あたしも、そう思う。思うように仕事が入らないからイライラするんだし、インテリア業界じゃ超メジャーな雑誌なんだから、不定期で撮るよりもいい条件で専属にさせてもらえるなんてラッキーだよね」
 「なら、もっと早く請けりゃよかったのに」
 「―――そう思えるようになったのは、つい最近なんだから、仕方ないじゃない」
 そう言う桜庭の口調は、皮肉っぽいものでも、捻くれたようなものでもなく、何かふっきれたようなあっさりしたものだった。
 「…なんて言うかな。バイト時代や前の職場が、あまりに男尊女卑な所で―――っていうか、あたしにはそうとしか思えない事ばっかりでさ。女だってだけで理不尽な扱いされる、って…そういう思いであたし、凝り固まってた部分があったかもしれない。専属断ってフリーを押し通してたのも、結局女は安定を選ぶのか、って言われるのが嫌だったのと―――もっと、野心的でいたいな、ってのがあったからだし。1ヶ所で満足しないで、貪欲に仕事をとらなきゃ、って…特に、成田が入ってきてからは、そう思って焦ってた」
 「なんで、俺が」
 「だって成田、1ヶ所にとらわれずに、いろんな仕事こなしてたじゃない?」
 「…“I:M”みたいな、訳わかんねー仕事もあるけどな」
 「あはは…、うん。その話は、川上さんからちょくちょく聞かされた。…そういう話聞いたり、あんたの仕事現場見たりしてくうちに、さ。なんかこう―――あたしとあんたじゃ、こだわってる部分が全然違うな、ってそう気づき始めて…」
 そこで、ふいに、言葉が途切れる。
 苦笑を、ちょっと寂しげな笑みに変え、桜庭は僅かに視線を逸らした。
 「…気づいたら、あんたのこと、好きになってて」
 「……」
 「憧れた。新人って立場とか、時田さんのこととか、色々あるだろうに―――現場のあんたって、凄い楽しそうだから。雑用でも、ただのルーチンワークでも、それが納得いく仕事ならほんとに…楽しそう、だったから。ああ…あたしがこだわってた部分って、全然違うんだなー、って。10ヶ所いい加減な仕事やるより、1ヶ所納得のいく仕事をする方がどれだけ重要かってこと、よく分かったから―――…」
 「…そうか」
 瑞樹の短い相槌に、桜庭は視線を逸らしたまま、頷いた。が、思い直したように、瑞樹に向き直り、
 「それと。このまま、ここ居ると―――また、見失っちゃうかもしれないから」
 「え?」
 「ここに居ると、まだ、あんたのこと目で追いたくなるから―――そうしたら、ヒロのこと、また見失いそうで、怖いから」
 「……」
 「…やっと、あたしに心開いてくれたんだもの。たとえそれが、ヒロのほんの一部分だったとしても」
 桜庭はそう言って、自信ありげに笑ってみせた
 「もう、見失わない。絶対に」
 きっぱりと言い切る桜庭に―――瑞樹も、口の端を僅かに上げた。

 人と人との係わり合いとは、不思議なものだ。
 桜庭がこうして「一番大切なもの」に気づけたのは、佐野が桜庭に心を開いたせい。
 あの頑なな佐野が桜庭に縋ることができたのは、蕾夏との間にあんなことがあったせい。
 でも、蕾夏と佐野が予定外に再会してしまったのは―――桜庭が、瑞樹に想いを寄せてしまったせいが、半分。
 良い出来事の果てに、良い出来事が起こる訳ではないし、最悪の事態の結末が全てバッドエンドとも限らない。まるで精巧に仕掛けられたからくりのように、1つの出来事が次の出来事を生み出していく。全く―――人間は、奇妙で、複雑で、とんでもない可能性を秘めた生き物だ。

 「…あのややこしい奴を助けるのは、至難の業だろうけど」
 ふっと笑ってそう言うと、瑞樹は桜庭の横をすり抜けた―――すれ違いざま、その頭を軽く小突いて。
 「今のあんたなら、できるかもしれないな」
 「―――…」

 少し驚いたような顔で瑞樹の背中を見送った桜庭は―――瑞樹が事務所のドアの中へと消えると同時に、少し照れたような、けれど少し寂しそうな笑みを浮かべた。


***


 「うっわー…、絶景…!」
 フェンスの隙間から外の世界を覗き、蕾夏が感激したような声を上げる。
 「前にも1度見てるだろ」
 「あの時は、寒すぎて感激に浸る余裕がイマイチなかったもの。それに、もう2年半も前だから、感動も賞味期限が切れてるよ」
 感動に賞味期限があるとは初耳だが、蕾夏の言わんとすることは、なんとなく分かる。事実―――瑞樹だって、1年半ほど前は、ここからの景色を何度も眺めていたというのに、久々に見る夜景は、思わず見入ってしまうほどに絶景だと思えるのだから。

 金曜日の夜。2人が祝杯の場に選んだのは、2年半前のクリスマスを過ごしたのと同じ場所だった。
 瑞樹の古巣のビルの屋上―――そこに、前より飲みやすいシャンパンとオードブルを持ち込んでの、2人きりの屋外パーティーだ。
 「でも、守衛のおじさん、よく通してくれたね? 瑞樹、もうここの社員じゃないのに」
 シートの端を、屋上に置いてあったブロックで押さえながら、蕾夏が訊ねる。シャンパンの栓を抜いていた瑞樹は、その質問にニッと笑った。
 「勿論、隼雄が前もって手ぇ回してあるって寸法」
 「…やっぱり。もしかして、会社の子達が間違って屋上に上がってこないようにもしてるの?」
 「そっちも手配済み」
 「…久保田さん達、結婚準備で大変なのに」
 「春からずっと連絡してなかったから、本人は大喜びだったぜ? カズが落ち着いちまって、あいつらもイベントに飢えてたからな」
 「やっぱり面白いよねぇ、瑞樹の友達って」
 「…一番面白いお前にそう言われるのは、あいつらも不本意だろ」
 そう言いながら、前回と同じグラスに、シャンパンを注ぐ。それぞれにグラスを手にした2人は、顔を見合わせ、小さく笑った。
 「―――乾杯」
 ガラスとガラスがぶつかり、透明な音をたてる。蕾夏に合わせて、少し甘口を選んだシャンパンは、瑞樹の口にも優しい味だった。

 この日の東京の夜空は、ほぼ快晴。春の終わりにしてはくっきりと明るい月が、頭上で輝いていた。
 冬、突風に吹かれながら見た夜景よりは、少し霞がかかったような、柔らかな光が地上で瞬く。屋上のコンクリートの床に座ると、ちょうど蕾夏の肩の高さから上がフェンスになっているので、夜景観賞には最適だ。2人は、東京の夜景を満喫しながら、オードブルとシャンパンを楽しんだ。
 もっと豪華なお祝いも、考えないこともなかったが。
 何故だろう―――瑞樹も蕾夏も、「前やったクリスマスみたいなのがいい」と、どちらからともなく言っていた。結局、2人揃って風邪をひいて散々な目に遭ったのに…2人にとっては、親友だけだった時代の、とても楽しかった思い出の1つになっている。その思い出が、ふと懐かしくなったのかもしれない。

 会わなかった間の仕事のこととか、今日この後借りるつもりのDVDのこととか、他愛もない話を話しながらのディナーは、しみじみと楽しかった。そうして、オードブルも大半を平らげた頃。
 「はい、これ」
 突然、蕾夏が何かを瑞樹に差し出した。
 「?」
 受け取ってみると、それは、封筒だった。既に封は切られており、表書きに「藤井蕾夏様」とある。
 眉をひそめる瑞樹に、蕾夏は微かに笑みを見せた。
 「桜庭さんからの手紙」
 「……」
 「火曜日に、会社に持ってきた所で、偶然会っちゃったの。で、手紙より直接言葉で聞きたいって思って、無理矢理引き止めて、色々聞いちゃった。…ごめんね。すぐに言わなくて」
 「…いや。水曜に、本人に聞いた」
 瑞樹が低く答えると、今度は蕾夏が眉をひそめた。
 「そうなの?」
 「ああ。事務所で偶然会って、お前から聞いてないのか、って意外そうな顔してた」
 「…怒った?」
 少し心配げに瑞樹の顔を覗き込む蕾夏に、瑞樹は言葉では答えず、苦笑と共にその額を軽く弾いてみせた。
 「―――で、どう思った?」
 「何を?」
 「佐野のガキの頃の話」
 「うん……」
 少し考えるように首を傾けた蕾夏は、夜景に視線を向けた。
 「そうだなぁ。なんて言うか―――ああ、なるほどなぁ、と思った」
 「なるほど?」
 「で、余計、瑞樹のこと、好きになった」
 「……」
 ―――なんだそりゃ。
 呆気にとられる瑞樹をよそに、蕾夏は瑞樹の方を振り返り、くすっと笑った。風に乱された髪を指ではらい、ビニールシートで崩していた脚を反対方向に向け直した。
 「…桜庭さんの話聞いて、その手紙読んで―――佐野君の過去ってね、瑞樹と重なる、って言うより…なんか、倖さんと重なるな、って思ったの」
 「あの女と?」
 「佐野君も、倖さんも、暴力を振るったのはお父さんだけど―――多分、より憎んでたのは、暴力を振るわれてる自分を庇おうとしなかったお母さんの方だと思う。それまで、愛されてるって信じてた分、裏切られたショックは殴られるより痛かったんじゃないかな、って。それに…どっちも、暴力の発端は、お父さんが、降りかかった不幸の矛先を家族に向けたんだし…その点でも、似てると思ったの」
 蕾夏の視線が、僅かに落ちる。
 「…可哀想だな、って思う。佐野君も、倖さんも。そこで何か、人格的に歪んじゃったんだとしたら…気の毒だと思う。そういう意味では同情する。でもね」
 落とした視線を上げて、蕾夏は瑞樹を真っ直ぐ見つめた。
 「だからって、瑞樹や私に暴力を向けても仕方ない、なんて思わない」
 「……」
 「佐野君が何故私に暴力振るったのか、その背景は、理解できた。でも、“理解する”のと“許す”のとは、まるで違うことだもの。可哀想だから許してあげる、なんて、全部聞いた今もこれっぽっちも思ってない。ましてや―――瑞樹と重ねることなんて、絶対しないよ。まるで違うもの、瑞樹と佐野君は」
 瑞樹の目が、動揺を表したように、少しだけ揺れる。見抜かれていた、ということか―――自分が何故、事実に気づいた時点で、佐野が「虐待経験を持っている桜庭の元弟」であることを蕾夏に告げなかったのか、その理由を。
 「瑞樹は、ちゃんと、人を愛せるもの」
 ふわりと微笑み、蕾夏はそう続けた。
 「暴力をふるう理由も、そうなったきっかけも知らないで…佐野君や倖さんよりずっと理不尽な目に遭ったのに、ちゃんと人を愛せるもの」
 「…それは、お前が相手だからだろ」
 「ううん。だって、一樹さんや海晴さんのことも、ずっと愛してたじゃない。暴力を隠すことを覚えた倖さんに手を挙げられても一切何も言わなかったのも、不倫の口止めに黙って従ってたのも…一樹さんや海晴さんを悲しませたくない、って想いがあったからでしょう? それだって、愛だよ」
 「……」
 「どんなに酷い状況で喘いでいても、ほんの少し残った理性や愛情に必死に縋って、誰かを愛そうとしてる―――瑞樹はやっぱり、優しくて強いよ。私なんかよりずっと」
 「……」
 ―――買いかぶりすぎだろ、そんなの。
 内心、そんな風に茶化しつつ、苦笑とも誤魔化し笑いとも取れない曖昧な笑みを見せた瑞樹は、思わず蕾夏の肩を引き寄せた。抱きしめたい、という以上に―――なんだか、今の表情を見られるのが、気恥ずかしい気がして。
 背中に腕を回し、蕾夏を抱きしめる。瑞樹の肩に頬を当てた蕾夏も、それに応えるように目を閉じ、シャツの胸元をそっと握った。

 抱きしめた体も、指を通した髪も、夜風を受けて少し冷たくなっていた。
 唇に触れる髪の感触に、このところ満たされなかったものが少しだけ紛れた気がしたが…やっぱり、それだけでは足りない。もどかしさに駆られたように、その華奢な体を瑞樹が改めて掻き抱くと。
 「……っ」
 途端。
 ビクリと蕾夏の体が跳ね、ハッとしたように、その顔が上げられた。
 「っ、だ、ダメ…」
 「……」
 まるで、心地よい夢から覚めたみたいに、蕾夏の顔が僅かに青褪める。多分―――本能的に、同じ抱擁の中にも僅かな違いを感じ取ったのだろう。元々、蕾夏はそういう直感に長けているが、この前のことがあって以来、余計神経過敏になっているのかもしれない。
 蕾夏の目に浮かんでいる感情は、これ以上接触してこないか、という不安、瑞樹が傷ついたのではないか、という怯え、そして―――もう1つ。その2つとは対極を成す感情だった。
 その、3つ目の感情を確認して―――瑞樹はふっと笑い、蕾夏の髪を指で梳いた。
 「…バカ。こんな所で、これ以上の真似する訳ねーだろ」
 「……」
 「―――そろそろ、風が冷たくなってきたな」
 惜しむように、蕾夏の髪に指を絡めた瑞樹は、あっさり蕾夏を解放した。そして、まだ戸惑ったような顔をしている蕾夏をよそに、弾みをつけて立ち上がった。
 「食い物もほぼ平らげたし…そろそろ、行くか」
 「……」
 手をはたき、てきぱきと宴の後片付けを始める瑞樹を、ぺたんと座ったままの蕾夏は、暫し放心したように見上げていた。が…、やがて立ち上がると、瑞樹と一緒に片づけを始めた。その表情は…決して、安堵の表情ではなかった。

 蕾夏自身、気づいているのだろうか。

 駄目だ、と瑞樹を制しながら見上げた、蕾夏の目。そこに浮かんでいた3つ目の感情は―――“離れないで”という、苦しい位の切望だったのだ。


***


 ―――やっぱり私、変だ。
 瑞樹の家の近所にある馴染みのレンタルショップで、それぞれのお気に入りのDVDを1本ずつ選びつつ、蕾夏は密かに落ち込んでいた。
 少しでも意味を込めて抱きしめられると、体が反応して、目が覚める。
 拒絶し、怯えた様子を見せながら―――いざ、瑞樹がその通り離れてしまうと、まるで取り残されてしまったかのような孤独と恐怖を感じる。…どちらも、蕾夏の意志ではどうにもならない、自分でも理由の分からない反応だ。
 瑞樹は、こんな反応を、どう思っているのだろう―――棚の隙間から見える、瑞樹の横顔をチラリと見て、ため息をつく。
 多分…ショックを受けているだろう。他の男ならいざ知らず、まさか瑞樹を拒絶するなんて―――蕾夏自身だって信じられないが、瑞樹だってショックな筈だ。傷ついて、蕾夏の気持ちが信じられなくなっているかもしれない。そう考えると、なんとかしなくては、と焦ってしまう。
 だって、本当は。
 本当は、蕾夏の方こそ―――もっと抱きしめて欲しかった。あの時。
 瑞樹より、むしろ自分の方がそれを強く望んでいたのに…体が、拒絶した。心とは無関係に。こんな事が続いたら、蕾夏だって耐えられない。寂しくて寂しくて…死んでしまいそうになる。
 「何にした?」
 頭上からの声に我に返ると、既に自分の分を選び終えた瑞樹が、蕾夏の手元を覗き込んでいた。
 「…ま、まだ。瑞樹は、何にしたの」
 「久々に“アポロ13”」
 「あ、そっち系統かぁ…。どうしよう。名画路線で行こうかな、と思ったんだけど」
 「いっそフェデリコ・フェリーニ辺りまで時代を遡るのもいいよな」
 棚の上の方に並ぶモノクロ映画のDVDを眺めて、瑞樹がそう呟く。そんな瑞樹から目を逸らし、蕾夏は、ズキリと痛む胸をそっと手で押さえた。
 それは、どこか甘い、けれど切ない―――まるで片想いみたいな、痛みだった。

***

 結局、瑞樹が“アポロ13”を、蕾夏が瑞樹の勧めたとおり、フェリーニの“道”を借りて、瑞樹の部屋へ帰った。
 「何か飲むか?」
 借りてきたDVDをテーブルの上に投げ出し、荷物を置きながら瑞樹が訊ねる。地上数十メートルで夜風に晒され続けたので、冷たいものは欲しくなかった。
 「コーヒーかな。瑞樹はどうする?」
 「俺もコーヒー」
 「じゃ、私淹れるね」
 トートバッグを床に置いた蕾夏は、そう言ってキッチンに立った。

 そう言えば、この家でコーヒーメーカを使うのも、結構久しぶりかもしれない―――こうして徹夜でDVDを観るのも、相当久しぶりなのだし。
 その割に、引き出しから出したペーパーフィルターもコーヒーも、記憶からはほとんど減っていない。コーヒーを沸かすような余裕など微塵もなかった最近の瑞樹を思い知らされたようで、蕾夏の胸はまた鈍く痛んだ。
 「ねえ、アメリカンがいい? それともうーんと濃い方がいい?」
 慣れた手つきで、ドリップにフィルターをセットしつつ、背後の瑞樹に訊ねる。が、その問いに、返事はなかった。
 「? 瑞樹、コーヒー、アメリカンか―――…」

 言いかけた時。
 ふわりと、背中が温かくなった。
 背後から抱きすくめられている、と理解すると同時に―――蕾夏の肩が大きく跳ねた。

 「―――…!」
 驚きに、手にしていたコーヒーの缶を落としてしまった。ゴトン、と床に落ちたコーヒー缶は、そのままゴロゴロと冷蔵庫の前まで転がっていった。
 「み―――瑞樹っ」
 「……何」
 「だ、ダメ、だってば」
 驚き以上に、焦りがせり上がる。蕾夏は、腕の中で身を捩り、無意識のうちに瑞樹の体を押しのけようとした。
 「駄目って、何が」
 「ダメなの、ほんとに…っ」
 案外簡単に、腕から逃れる。が、すぐに腕を取られ、蕾夏はくるりと瑞樹の方に体を向けさせられた。
 両肩に手を置かれ、軽く押される。すると、トン、と、背中が壁についた。キッチン脇の壁に肩を縫いとめられ、蕾夏は動揺しきった目で瑞樹を見上げた。
 思いのほか、瑞樹の表情は穏やかだった。
 拒絶するような態度を取った蕾夏に、憤慨した様子も、傷ついた様子も見られない。ただ穏やかに―――何かを悟ったような目をして、蕾夏を見下ろしていた。
 「み…ずき…」
 体が、震える。
 必死にスカートの手の届く所を握り締める。前みたいに突き飛ばすような真似だけは、絶対したくない―――なんとか逃れる方法はないか、と焦る頭で考えるが、何も思いつかなかった。
 ふっと笑った瑞樹の唇が、目元を掠める。
 額に、頬に、まるで焦らして楽しんでるかのようにゆっくり散らされる唇に、蕾夏は泣きたい気分で首を振った。
 「お…お願い、やめて」
 「…なんで」
 「だ、だって……」
 上手く、説明できない。途方に暮れたようにただ首を振る蕾夏に、瑞樹は少し身を屈め、その顔を覗き込んだ。
 「―――俺が、怖い?」
 「ち…違う」
 「あいつのこと思い出して、怖くなる?」
 「違う、の。そんなんじゃない」
 「…じゃあ、何」
 「……」
 答えが、喉の奥で、止まってしまう。
 その答えを引き出そうとするかのように、瑞樹は唇を蕾夏の耳元に押し付けた。ゾクリと背中に走るなんとも言えない感覚に、蕾夏は追い詰められたように激しく首を振った。
 「駄目……! 駄目なの、お願い、やめて…!」
 もう、スカートを握っていることもできない。蕾夏は、自分の肩を掴む瑞樹の腕に手を伸ばし、捲り上げた袖を必死で掴んだ。
 「わ、私、駄目なのっ。お願い、もう…もう、瑞樹は私には触らないで…!」
 「……」
 ぐい、と瑞樹の腕を押したせいか、それともその言葉のせいか、瑞樹は顔を上げ、蕾夏の顔を凝視した。
 とても、瑞樹の目を見てはいられなかった。蕾夏は、あまり力の入らない腕で必死に瑞樹の腕を押しながら、涙の滲む目を瑞樹からは逸らし続けていた。
 「…ダメ…私はもう、ダメなの…。だって…、だって、私、瑞樹以外の人に―――…」

 瑞樹、以外の人に。

 口にして、初めて―――生々しい嫌悪感が、足元から這い上がってきた。

 恐怖心など、まるでなかった。
 そんなものを感じる時間もなく―――ただ、あっけなく、奪われていただけ。覚えているのは恐怖でも何でもなく、痛み。殺された、と思うほど、とてつもない痛みだけだ。
 そう、思っていた。
 でも―――体は、覚えていた。頭では感じられなかった、全く別のものを。

 望まない相手に、犯された。
 陵辱や暴力があろうがなかろうが、そんなことは関係ない。たった1度でも、短時間でも、決して侵されたくなかった領域に、瑞樹以外の人間に踏み込まれたのだ。
 それは、皮膚の上で起きる嫌悪感とは比較にならない、もっと深い部分での嫌悪感―――まるで、内臓をまるごと侵食されたような、体中がその病に犯されて細胞レベルで穢されていくような、そんな嫌悪感だった。

 “自分の体は、穢された”―――…そう。蕾夏がずっと、頭で理解するのを無意識のうちに拒否していたのは、ほかでもない、この体が穢されたのだという、その事実だ。

 「私は…汚れてるの」
 「……」
 「もうダメ…前とは違うの。手も足も全部…前とは、全然違うの」
 自分自身への嫌悪感から、震えがくる。時々襲われる、あの全身を掻き毟りたくなるような皮膚の違和感が蘇る。そんな自分に瑞樹が触れたら、瑞樹まで穢れてしまうような気がした。
 「お願い…こんな私に、触らないで。怖いのは、瑞樹なんかじゃない―――瑞樹まで穢してしまう、私自身なの…」
 涙が、こぼれ落ちる。
 一度こぼれ落ちると、止まらなかった。蕾夏は、僅かに顔を背けたまま、震えながら涙を流した。
 もう一度、瑞樹を引き剥がずように、瑞樹の腕を押す。が、その力はあまりにも弱かった。逆に、瑞樹に動くきっかけを与えてしまったのか―――直後、涙でぼやけた視界が僅かに暗くなり、涙の跡を追うように、頬に唇が触れた。
 「……っ」
 思わず、体を退く。けれど、壁に阻まれてそれ以上後ろには下がれない。またこぼれた涙に、まるで涙を掬うように、瑞樹が目元に口づけた。
 「…瑞、樹っ」
 「―――どこが“全然違う”って?」
 「……」
 「涙も全然変わってねーし」
 肩に置かれた手が、片方外れ、蕾夏の髪を絡め取った。覗いた耳に、軽く口づけると、くすぐったさに蕾夏が身を捩った。
 「…くすぐったがる場所も、髪の手触りも、まるで変わってねーよ、お前は」
 「…そういう…意味じゃ…」
 余計、顔を背けようとする蕾夏に、瑞樹はその頬に手を当て、自分の方を向かせた。
 コツン、と額と額が合わさった。至近距離に感じる吐息に、蕾夏は壁に自らの背中を押し付けた。
 「どこも、変わってない」
 「……」
 「変わってない。…信じろよ」

 唇まで、震えていた。
 まるで、初めてのキスのように、恐る恐る互いの距離を縮める。ほんの一瞬―――掠るように触れた唇は、すぐに離れた。
 …上手く、息が、できない。
 躊躇ってる間に、また、触れる。まるで、触れたら融ける淡雪みたいに、儚いキスが何度か続いた後―――強く、押し付けられた。

 ―――…瑞樹…。
 ただ唇を重ねるだけのキスでも…心臓が、壊れそうだった。
 優しくて、切なくて―――壊れてしまいそう。でも、その優しさも切なさも、ずっとずっと―――あの曖昧な世界から戻ってきてからずっと、蕾夏が望んでいたものだから。
 強張っていた体が、少しだけ、融ける。気づけば蕾夏は、蕾夏を支えるように背中に回った瑞樹の腕に、自然と体を委ねていた。

 惜しむように離れた唇に、目を開ける。
 まだ涙で滲んだ視界の中、至近距離に、瑞樹のダークグレーの瞳があった。また、ひとしずく、涙をこぼす蕾夏に、瑞樹は微かに笑い、指でその涙を掬った。
 「…俺は、いくらお前が傷ついてても、籠に閉じ込めて羽根を眺めて暮らすなんて、絶対できないし、したくない」
 「……」
 「何度でも、突っぱねろよ」
 「……」
 「何度突き飛ばしても、何度叩いてもいいぜ。何度お前の体が逃げたって、俺も諦めない―――お前の心は違うって、分かってるから」
 と、次の瞬間―――ふわり、と体が浮き上がった。
 びっくりして、声も出せない。ああ、抱き上げられたのか―――とぼんやり理解したのは、ベッドの上に下ろされた後だった。
 あっさり、ベッドの上に縫い止められる。まだ戸惑ったままの蕾夏の目からは、まだ涙がこぼれ落ちていた。
 「…よく泣くなぁ、お前」
 苦笑と共に、瑞樹の唇が涙を受け止める。そのまま頬を辿り―――激しく、唇を奪った。
 「……っ」
 怖い。
 自分が、何をするか分からないのが、怖い。
 いつ襲ってくるか分からない衝動に耐えるように、蕾夏は瑞樹のシャツをきつく握った。ブラウスを開き、滑り込んできた手のひらを感じながら、蕾夏はまだ震えていた。
 貪欲すぎる唇に、苦しさを訴えるように、瑞樹の腕に爪を立てる。やっと唇を解放され、はぁっ、と息をついた蕾夏の目から、また涙が落ちた。
 「み…ずき…」
 「……なに」
 「怖いよ…」
 「―――ああ。俺も、結構怖い」
 「瑞樹も?」
 「…俺だって、自分のしてることが正しいかどうか、半信半疑だから」
 「……っ!」
 首筋に押し付けられた熱い唇に、声にならない声をあげる。
 瑞樹が触れたところから、なんだか―――自分が別物になっていくみたいで。凍り付いていた体が、熱に融かされ、形がなくなっていく。
 「…でももし、俺のせいでお前が壊れたら―――お前1人で、行かせたりしねーし」
 「…え…っ」
 「お前いなくなったら、生きてる意味、ねーから」
 「…じゃあ…もし、私が、瑞樹に向かってナイフ振り下ろしたりしたら…?」
 「…好きなだけ斬りつけろよ」
 そう言って瑞樹は、不敵なほどの笑みを、蕾夏に見せた。
 「そしたら、最後の力振り絞って、俺もお前のこと刺すから」
 「……」
 「その時は、一緒に死のうぜ」
 「―――…うん…」
 握り締めていたシャツを、離して。
 蕾夏は、堪えきれない想いと共に、瑞樹の背中に両腕を回した。
 「瑞樹―――…好き…」


 ああ―――これが、そうなんだ。
 今の自分を愛することができれば、過去も割り切ることができる。千里の言葉を、頭じゃなく、体で理解できる。

 こうして、瑞樹と抱き合うこと。
 この瞬間感じる、魂まで満たされるような幸福。これが感じられるのなら―――どんな過去も、どんな記憶も、どんな傷も受け入れられる。
 この瞬間の幸福のために、これまでのことがあったのならば…過去さえ、愛しくなる。瑞樹を抱きしめ、瑞樹に抱きしめられる今の自分―――それは、幾多の傷を負い、壊され、穢された果てにある自分なのだから。
 そして、瑞樹の過去も愛しくなる。それがどれほど凄惨で、目を覆いたくなるような現実でも―――今の瑞樹は、その果てにある瑞樹だ。今の瑞樹でなければ、こうして私を包んでくれることもなかったかもしれない…そう思えば、悲惨すぎる瑞樹の過去さえも、この幸せのために用意されたものだったと思える。

 瑞樹がこうして、抱きしめてくれれば。
 全ての過去は、今へと、そして未来へと続いていると―――本当に、信じられる。


 鼓動も、体温も、呼吸さえも一つになれて。
 本当に1人の人間になれたような幸福を、生まれて初めて指の先まで感じられた時。
 この前、佐野との間にあったことさえも、これまで以上に瑞樹を感じるためのステップだったのだ、と―――蕾夏はそう、信じることができた。


***


 ベッドが、自分以外の重みで、僅かに揺れた。

 「―――…ん…」
 気だるそうな声に、振り返る。布団の上に曝け出された白い肩に掛かった黒髪が、彼女が動いたのに合わせてスルリと滑って、落ちた。
 ただ寝返りを打っただけかと思ったら、そうではなかった。
 「…瑞樹…?」
 隣に寝ている筈の瑞樹がいないので、不思議に思ったらしい。が、上半身を少し起こしたことで、瑞樹がちゃんと隣にいて、ただ起き上がっているだけなのだ、と理解できたのだろう。眠そうな顔に、安堵の表情が浮かんだ。
 「いつの間に、起きたの…」
 「…15分位前」
 手にしていたものを枕元に置き、蕾夏の方を向いて寝転がる。額に軽く口づけると、蕾夏はくすぐったそうな小さな笑い声をたて―――それから、少し不安げな顔で瑞樹を仰ぎ見た。
 「あの…さっき、ごめんね?」
 「何が?」
 「その…、色々、あったでしょ」
 「―――ああ」
 妙に言いにくそうな蕾夏の様子に、言わんとする所を察し、瑞樹は苦笑した。突き飛ばされたり叩かれたりはなかったが…まあ、途中、色々とあったのだ。それなりに。でもそれは、瑞樹の覚悟をはるかに下回るものに過ぎなかったが。
 でも―――結果、それを乗り越えて、久々に心から幸せな感覚に酔えたのだから、別に構わない。そう…以前よりもっと幸せな感覚に。
 「DVD見られなかったことでも謝ってんのかと思った」
 茶化すように瑞樹が言うと、不安そうだった蕾夏も、さすがに吹き出した。
 2人して、じゃれるように暫く笑い合う。やがてその笑いが収まると―――蕾夏は視線を瑞樹の向こう側へチラリと流した。
 「…読んでたの? 手紙」
 瑞樹が枕元に置いたものが、蕾夏にはすぐ分かったらしい。瑞樹は微かに笑い、蕾夏の髪をひと房、指に巻きつけた。
 「ざっと、流し読みだけどな」
 「…どうだった?」
 「桜庭に文才ねーのが、よく分かった」
 「あはは、酷いなぁ。私から見たら、あれで十分だよ」
 「それと…やっぱり、ちょっと、驚いた。あの女と、随分話が被ってて」
 桜庭からの手紙には、瑞樹も知らなかったことが色々書いてあった。確かに蕾夏の言う通り、その内容は、倖の子供の頃の話と非常に似通っていた。蕾夏が瑞樹より倖の方が被る、と言うのも当たり前だ、と思えるほどに。
 そういう母親に暴力をふるわれた瑞樹と、そういう佐野に暴力をふるわれた蕾夏が出会ったのは―――偶然と呼ぶには、あまりに神がかり的すぎる。やっぱり、運命だったのかもしれない。
 「理解できた、って言えるほどかどうか、よく分かんねーけど…背景を知るのは重要なことだ、ってお前が言う、その意味はよく分かった。無駄じゃないよな…ああいうこと知るのは」
 小さく息をついた瑞樹は、ちょっと視線を本棚の上に向け、それから蕾夏に静かに笑みを見せた。
 「だから―――あの手紙も、読む決心、ついた」
 「…えっ」
 蕾夏が、僅かに目を丸くした。
 “あの手紙”が、何を指すのか―――蕾夏にはすぐ分かったから。
 「やっと、読む気になったの?」
 「ああ。…って言っても、もう“Clump Clan”のショーまで1週間しかねーから、それが終わったらな」
 「そっか…」
 どこか感慨深げに呟いた蕾夏は、柔らかく微笑み、少し浮かせていた頭を枕に沈めた。
 そのまま、瑞樹の指が自分の髪を絡めたり解いたりするのを眺めていたが―――やがて、静かに口を開いた。

 「―――私、やっぱり、甘かったと思う」
 「…え?」
 唐突な話に、手が止まる。
 スルッ、と髪が指先から抜け落ちる。蕾夏は、その指に自らの指を絡めた。
 「…感情のもつれ、って、よく“絡まった糸”に喩えられるじゃない? 絡まった糸って、ただそれだけで解き難いものなのに―――絡まったまま年月が経てば、たとえ解いたとしても、もうすっかり跡がついちゃって、アイロンでもかけないと真っ直ぐな糸にはもどらないんだよね」
 「……」
 「なのに―――どこかで、話し合いで解決できるって思ってた」
 はーっ、と息を吐き出し、目を伏せる。
 「多分…私達が、まだ、子供だったから。大人になった今なら、冷静に話し合って、お互い納得のいく解決ができるに違いないって…どこかで、思ってたんだと思う。そんな訳、ないのに―――13年も経ったら、絡まった糸に他の糸も絡んでたりするのに。あの時はごめん、うん分かった、なんて風に解決する筈もないのに」
 「……」
 「―――ねえ、瑞樹」
 目を開けた蕾夏は、瑞樹の目を見上げ、絡めていた指をしっかり繋いだ。
 「これは、神様がくれたチャンスだと思うの」
 「チャンス?」
 「…あの時の―――13年前のことは、怒りをぶつけるにも、許しを請うにも、あまりに時間が経ちすぎて…私も、佐野君も、どうすればいいか分からなかった。怒りより罪悪感より、その上に積み重ねられた13年が重すぎた―――ああなったのは、私の不用意さも、佐野君の未熟さもあるんだろうけど…ある意味、必然だったのかもしれない。私達じゃ、いい解決方法なんて、結局見つからなかったのかも」
 「……」
 「でも―――この前のことは、違う。佐野君の罪悪感も、私の怒りも、まだ、少しつつけばすぐ溢れてくるほど、自分の中で暴れてるの。…13年前のことだけじゃ、解決できなかったかもしれないけど、その続きがあったことで―――この前のことを糸口にすることで、お互い、感情をぶつけることができるかもしれない。私の憤りも、佐野君の罪悪感も」
 「…だから、“チャンス”か」
 「うん。つい昨日までは、そう思えなかったし、現実に向き合う勇気もなかったけど―――瑞樹が、いてくれたから」
 そう言って、蕾夏は、絡めた手を少し引き、瑞樹の指先に軽く口づけた。
 「向き合って、結果、ボロボロになっても…こうして瑞樹の傍にいられさえすれば、それでいい―――そう思えるようになったから」
 一呼吸、置いて。
 蕾夏は、微笑と共に、はっきりと告げた。

 「瑞樹。私―――もう一度、佐野君に会う。今度こそ、決着をつけるために」


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