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― 解放 -1- ―

 

 リハーサル会場の楽屋は、ほとんど戦場と化していた。

 「こういう時こそ、一宮君の手が借りたいんだけどねぇ」
 本番ではなくリハーサルということで、助手の都合が1人しかつかなかったらしい。メイクボックスと指示表を抱えてあちこち飛び回る黒川に、スーツに袖を通した奏は苦笑を返した。
 「だから青山から1人連れてきた方がいいって言ったのに」
 「一宮君を頭の中でカウントに入れちゃってたんだよ。悪かったね」
 「…手が空いたら、アクセサリーの検品、手伝いますから」
 メイクも衣装も小物も、全部黒川の担当なのだから洒落にならない。でも、これがいつもの黒川の仕事風景なのだ。黒川のようなオールマイティに憧れていたが、やはりメイクアップ・アーティストかスタイリスト、どちらかに絞った方がいいのかもしれない―――と奏は思い直した。

 “Clump Clan”のオープニングショーを明日に控えた、木曜日。
 本番の会場は、まだ、影も形も存在していない。勿論、店舗の中にあらゆる機材が詰め込まれているのだが、なにせ銀座の車線を一部塞いで舞台を作る訳だから、本番ギリギリになるまでは歩道や車道には何も出せないのだ。
 そんな訳で、場所は、銀座からは遠く離れた、某会場。本番と同じサイズの花道を持つこの舞台で、明日のための最終リハーサルという訳だ。
 音響や照明も、わざわざ室内に足場を組んで再現している。交通規制の関係で失敗や時間延長は絶対に許されないため、通しリハーサルは計2回行う予定だが、1回目のスタート前から会場は異様に熱くなっていた。それだけ、屋外での特設ステージというスタイルでのファッションショーが相当な“冒険”だということだろう。
 ―――“冒険”、ね。
 そう言えば、“Clump Clan”のポスターのコンセプトも“冒険”だった。超有名ブランドの日本殴り込みなど、大した冒険でもないだろうに、と思っていた奏だったが、事このオープニングイベントに関しては大いに頷ける。

 「ごめーん、一宮君! これ、留めて!」
 背後から誰かに肘でわき腹をつつかれ、振り向く。見れば、佐倉がネックレスの留め金が留められず、苦労していた。
 「あー…、このFクラスプって留め難いんだよなー」
 「でしょ? でも、いまだにパールはこのタイプが多いわよねぇ。引き輪かロブスター・クラスプにしてくれりゃいいのに」
 ぶつぶつ言う佐倉の背中に回り、留め金を留めてやった。小粒の淡水パールを豪華に散りばめた軽いネックレスは、佐倉の細い首によく似合っていた。
 「はい、これでよし」
 「ありがと。…うーん、やっぱりキャリア感じるわねぇ、そういう格好すると」
 微笑んで振り返った佐倉は、“Clump Clan”の定番にちょっとアレンジを加えたスーツに身を包んだ奏を、頭のてっぺんから爪先まで眺めて、そう呟いた。その目が、冷静に“商品”を値踏みしている目になっていることに苦笑しつつ、奏は「どうも」と答えておいた。
 「一宮君なら、30代入ってもやってけるだろうに…。せめて30ギリギリまで、こっち本業で頑張れば?」
 「うーん…20代のうちに、一生続けられる仕事にシフトチェンジしときたいから。来年末までか、ギリギリ待って28の誕生日まで、かなぁ…」
 「もったいないなぁ。天職なのに」
 佐倉がため息をついたところで、リハーサル会場で大音響の音楽が鳴った。反射的に振り返った2人は、その音楽を耳にして、少し背筋を伸ばした。
 「オープニング・セレモニーのリハが終わったみたいね」
 「じゃあ、そろそろ幕下でスタンバイしないと」
 「そうね。…あ、そうだ」
 歩き出しかけた佐倉は、何かを思い出したように足を止め、奏を見上げた。
 「キミに、1つ、朗報」
 「朗報?」
 「成田、“I:M”って情報誌との契約更新を蹴ったらしいわよ」
 「えっ」
 ちょっと、目を丸くしてしまった。勿論、その内容に驚いた訳ではない。
 「なんで佐倉さんがそれ知ってるの」
 「あらら…、なんだ。一宮君も知ってたの。あたしは、成田の代わりにあそこの表紙担当するカメラマンと知り合いで、そこ経由で情報が流れてきたわけ。新人が表紙撮るなんて生意気な、って前からぶちぶち文句言ってたしょーもないカメラマンだけどね。今は念願の表紙撮れるもんだからホクホク顔よ。“I:M”の表紙も、次回からは質が落ちるわね」
 「…それで、なんでそれが、オレにとって“朗報”?」
 「やあね、当然じゃないの」
 ぽん、と奏の胸元を叩き、佐倉は奏の耳元に囁いた。
 「そのカメラマンの話じゃ、成田の雑誌クライアントは、これで“A-Life”だけらしいわよ。他と契約する噂も皆無―――ってことは、本格的に広告業界に活動拠点を固めてきた、ってことでしょ」
 「―――…」
 「キミが日本(こっち)に残るんなら、活動分野は成田と被る確率が高いわよ」
 ニッ、と口の端を吊り上げた佐倉は、そう言い残して、先に立って歩き出した。ポカンとしたようにしていた奏も、複雑な表情で、佐倉の後に続いた。

 ―――確かに…朗報、だよな。
 瑞樹と一緒に仕事ができる可能性に賭けて日本に残ってみたい、という気持ちがある以上、これは朗報だ。でも…残りたくない、という後ろ向きな自分もいるのも、事実で。
 そう思う理由の1つは、やはり…瑞樹と蕾夏。
 一緒にいたいけれど、一緒にいると辛い。そういう複雑な関係は、多分―――奏に新たに想いを向けられる相手が現れるまでは続くだろう。2人の関係に納得するのと、恋心が消えるのとは、決してイコールではない。理屈では何ともならないのだ、このジレンマは。
 そして、もう1つは―――…。


 合図と同時に、スポットライトの中へと歩み出す。
 眩しい光の中、舞台裾の奥まった場所に、音響担当のミキサーが並んでいるのが、僅かに見えた。しかし、逆光の中で、そこに居る筈の音響担当者の姿までは見えなかった。
 ―――ヒロ…。
 無意識のうちに、視線を逸らす。
 後ろ向きになる、もう1つの理由―――“ヒロのことを、早く忘れたい”。
 瑞樹や蕾夏と関わり続ければ、否応なしに思い出す。その度に、この複雑な思いを感じなくてはいけないのは、結構きつい。いっそ、2人のこともヒロのことも全部忘れたフリしてロンドンに帰った方が、賢い選択なのかもしれない。
 帰国まで、もうあまり時間がない。仕事を取るか、私情を取るか―――なんてことを考えながらランウェイを歩き出した奏だったが。
 「……あっ」
 歩き出したその先にある人物の姿を見つけ、リハーサル中であることも一瞬忘れ、小さな声を上げてしまった。

 ―――成田…!

 照明から外れた、ランウェイ下の客席に、一眼レフを手にした瑞樹が立っていたのだ。

***

 「成田!」
 リハーサルが全て終わると、奏はすぐに、舞台を飛び降りて瑞樹に駆け寄った。
 演出家と挨拶を交わして別れたところだった瑞樹は、奏の声に、前髪を掻き上げながら振り返った。手にしていたカメラは既にしまったらしく、今は手ぶらだ。
 「お疲れ」
 そう声をかける瑞樹の表情は、最近になく静かで穏やかなものに見えた。ここ1週間ほど、ショーの準備に忙しくほとんど連絡を取っていなかった奏は、何か事態が好転するような出来事でもあったのだろうか、と不思議に思った。
 「お疲れ。すっかり忘れてた。あんたも顔出すって言ってたんだよな、リハに」
 「ああ。照明の具合を見ておきたかったからな」
 「で…どうだった?」
 奏が訊ねると、瑞樹は眉根を寄せ、少し渋い顔をした。
 「今日撮ったの現像してみねーと、なんとも。今のところ、自信と不安半々」
 「…不安がってる成田って、成田っぽくない」
 「なんだそりゃ」
 苦笑いを返す瑞樹に、奏も曖昧な笑みを返した
 ―――でも…そうなんだよ、オレには。
 常に余裕あり気で、まるで風みたいに飄々としていて。困難な場面でも「なんとかなるだろ」とあっさり言い放って、事実、その通りなんとかする人。葛藤や煩悩だらけの自分みたいな人間を、高みから涼やかな微笑で見下ろしてる―――それが、奏の中にいる成田瑞樹のイメージ。
 けれど、知ってしまったから。
 多くの葛藤や苦悩を抱え、高みどころか、それこそ地を這うような思いで日々を生きている、そういう瑞樹を知ってしまったから。
 だから余計―――そんな生々しい感情を抱えてもなお、こんな平然とした顔ができる瑞樹に、憧れを抱いてしまうのかもしれない。
 「…正直すぎる顔だからなー、オレは…」
 「は?」
 無意識のうちに呟いた言葉に、瑞樹が眉をひそめる。
 「い、いや、別に。…ええと、蕾夏は、元気? コラムが正式決定したってメールは貰ったけど」
 慌てて首を振り、奏が訊ねると、瑞樹は怪訝そうだった表情を少し和らげた。
 「張り切って仕事してる。今、忙しい時期だしな」
 「そっか。なら、良かった」
 そう言って、奏も笑みを浮かべた時―――直後、瑞樹の目が、僅かに鋭くなった。
 瑞樹の視線は、奏から僅かに逸れ、奏の背後に向いている。なんだろう? と思って振り返った奏は、すぐにその理由を理解し、心臓が止まりそうになった。
 そこには―――他のスタッフの後に続いて、外の廊下へと出ようとしているヒロの姿があったのだ。
 ヒロの方も、2人には気づいていたらしい。立ち止まって、どう表現していいか分からない苦々しい表情でこちらを見ていた。そんなヒロと目が合って、奏は、胸の奥に何かが詰まったような息苦しさを感じた。

 正直―――どういう顔をしていいのやら、分からない。
 怒りのあまり、ぶちキレて1発殴って以来、目を合わせることすら避けてきたから…こんな風に目が合うと、動揺ばかりが先に来て、リアクションの取りようがなくて困る。結果、憤りと憐憫と緊張が入り混じったような中途半端な顔しか、今の奏にはできなかった。
 一方の瑞樹は、あまり表情そのものは、変わらなかった。
 目つきが少しだけ、鋭くなっただけ。多分、事件以来、これが初めて顔を合わせる瞬間だろう。なのに、奏が予想したような怒りの感情は表には出ていなかった。
 無理に平気な顔すんなよ、と奏が少し苛立つのとほぼ同時に、瑞樹が、動いた。
 奏の肩を軽く押しやり、その脇をすり抜けると―――立ち竦むヒロのもとへと歩み寄ったのだ。
 「……」
 思わず、息を飲む。ヒロも、やはり緊張を覚えてか、微かに眉を上げた。
 向き合った2人の横顔を見ると、5センチは瑞樹より高い筈のヒロなのに、あまり背丈に違いがないように見える。確かに瑞樹の目線は上になり、ヒロの目線は下を向いているのに―――立場からくる違いか、やはりヒロが気圧されているように見えた。瑞樹は、その差をそのまま表したみたいな不敵な笑みを浮かべ、ヒロの目を見据えた。
 「―――逃げるなよ、明日」
 「……」
 氷のように硬いヒロの表情が、更に硬さを増す。僅かに色を失ってすら見える口元をきつく引き結んだヒロは、少しの間の後、答えた。
 「…今更、逃げも隠れもしねぇよ」
 その返答に、瑞樹はふっと笑い、ヒロの横をすり抜け、荷物が置いてあるらしい後方の客席へと歩き去ってしまった。威嚇さえすれば十分で、それ以上の用事はなかったらしい。
 ―――逃げるな、って…?
 仕事のことだろうか? その割に、ビジネスとプライベートでは徹底的に言葉遣いを変えてくる瑞樹が、完全にプライベートの口調だった。眉をひそめた奏は、歩き去る瑞樹の背中を目で追うヒロに歩み寄った。
 「なあ、」
 奏が声をかけると、ヒロは、ちょっと驚いたように振り向いた。まさか奏が自分に話し掛けるなど思ってもみなかった、といった表情だ。
 「なんだったんだよ、今の」
 「え?」
 「逃げるな、って」
 率直に疑問をぶつけると、ヒロの顔が、驚きから訝しげなものに変わった。
 「…お前、聞いてねぇのかよ。明日のこと」
 「何を?」
 「あいつのアシスタント、藤井がやるって」
 「―――…」
 ―――蕾夏が?
 何かの、間違いかと思った。だって、その話はとうの昔に―――あの事件がある前にナシになっていたのだから。
 代わりのアシスタントも、以前一緒に仕事をしたことがあるスタジオマンに頼むことで、一件落着していた筈だ。それが、何故今更?
 「…いつ…そんな話…」
 「月曜に、会社に電話あった」
 「……」
 「―――決着は、ショーが終わった後だから。…お前も来たけりゃ、来いよ」
 ボソリと、ついでのように付け足したヒロは、まだ呆然としている奏を置いて、会場のドアの向こうへと消えてしまった。

 “決着は、ショーが終わった後”。
 それを聞いて初めて、蕾夏がアシスタントに復帰した真の目的に気づき―――奏の顔が、愕然としたように凍りついた。


 「…おい!」
 大急ぎで、瑞樹のもとに駆け寄る。カメラバッグを肩に掛けた瑞樹は、涼しい表情で奏を振り返った。
 「ちょ…っ、どういうことなんだよ、あれ…!?」
 掴みかからん勢いで訊ねる奏に、瑞樹の眉が怪訝そうにひそめられる。
 「あれ?」
 「蕾夏が、アシスタント復帰するって…しかも、ショーの後、決着つけるって」
 「…ああ」
 「正気かよ…!? 蕾夏がそういうこと言い出すのはまだ分かるけど―――あんたがそれを止めないなんて…!」
 「止めた方が良かったか?」
 「当たり前だろ!」
 憤慨したように奏が答えると、瑞樹は軽く頭を傾け、意味深な目をした。
 「お前の時は、会って話をさせたのに?」
 「……っ」
 さすがに―――言葉に、詰まった。
 蕾夏に会わせてくれ、謝罪させてくれ、と幾度も頼む奏に、瑞樹は最終的には首を縦に振ってくれた。あの時だって、蕾夏の耳が聞こえるようになってから、十分な時間が経ったとは言えなかった。本音では、張本人になど会わせたくなかっただろうに―――話し合わないまま日本に戻れば、蕾夏も奏もわだかまりを引きずったままになってしまう、そのことを理解して、あえて会わせてくれたのだ。
 このまま、この仕事が終わり、会わないままでいれば―――再会のきっかけを掴むのは困難になる。明日のショーが、2人がもう1度会うための絶好のチャンスなのは確かだった。
 「―――心配するな。何かあれば一瞬で割って入れる距離で、俺も話を聞くことになってるから」
 言葉を失い、動揺した顔で黙り込む奏に、瑞樹は微かに笑みを作り、その頭をぽん、と叩いた。
 「なんなら、お前も来いよ」
 「……えっ?」
 驚いたように奏が目を見開くと、瑞樹は小さく頷いた。
 ―――オレも…?
 何のために?
 その疑問の答えが出るのを待たず、瑞樹はカメラバッグを掛け直した。
 「蕾夏も見てるんだから、明日、舞台でコケるなよ」
 「……」
 奏の肩を軽く叩き、あっさりそう言って踵を返す瑞樹を、もう呼び止める気にはなれなかった。
 自分が同席することに、何の意味があるのだろう? それは、まだよく分からない。ただ―――瑞樹の言う“心配するな”という言葉の響きが微妙に前とは違うことだけは、奏は本能的に感じ取っていた。

 単に、蕾夏を危険な目には遭わせない、という意味ではない。
 どんな結果が出ても、また必ず、蕾夏を取り戻せる―――そんな自信を含んだ、揺るぎない言葉。
 もしかしたら…今回のことで2人の関係は、また新たなステージに入ったのかもしれない。そんな気がして、奏は複雑な心境になった。


***


 6月1日、金曜日。
 その日の天気は、関係者全員の祈りが通じたのか、見事に“晴れ”だった。

 「雨だったらどうなる予定だったの?」
 「ビニール製の簡易アーケードを設置する予定だったらしい」
 「…この規模のステージに?」
 「そう」
 瑞樹の説明に、蕾夏は目の前のステージを眺め、呆気にとられたように呟いた。
 「まさに、クレイジー、ってこういう時に使う単語だよね―――…」

 会場入りに間に合うギリギリの時間まで会社で仕事をし、蕾夏がダッシュで駆けつけた時、銀座は既にとんでもない事になっていた。
 車線を封鎖する話は、前もって聞いていた。どんなステージになるか、その絵コンテだってちゃんと見ていた。でも―――実物は、まさにクレイジーの領域だった。
 一体、どれだけの観客がいるのだろう? 店舗にほど近い横長の大きなステージの周囲は、やたらゆとりを持たせてあるところを見ると、どうやらVIP用のスペースらしい。その横長ステージの中央から、車道へ向かって伸びる、長い花道―――それを取り囲む黒山の人だかりは、両隣のビルの前をも塞ぎ、車道を埋め尽くしていた。
 今、瑞樹と蕾夏がいるのは、撮影用に組まれた足場の上で、観客よりは1メートルほど目線が高い。観客が押し寄せて倒されたりしないよう、ちゃんと周囲にロープは張ってあるが…本当に大丈夫なのか、ちょっと心配になってくる。
 思わず目を細めるほどの照明が四方八方からメインステージを照らし、ただでさえ明るめの銀座の夜は、“Clump Clan”の周囲だけ真昼のようだ。ロンドンで1度だけ見たファッションショーとは、まるで桁違い。中学校の文化祭と超大物シンガーのコンサート位の違いは確実にある。

 「お金持ちなんだねー…“Clump Clan”って」
 率直な意見が、知らず口をついて出てくる。カメラの調子を見ていた瑞樹は、思わず吹き出し、傍らにいる蕾夏を肘で小突いた。
 「あんまり笑かすなよ。このノリで撮ったら、金満ファッションブランドをフィルムに焼き付けたみたいな、キラキラの写真になりそうで怖い」
 「…ごめん。だって、想像の域をはるかに超えてたんだもの」
 「そっちのカメラ貸して」
 「あ、はい」
 瑞樹がチェックし終えた一眼レフを受け取り、カメラバッグに収めていた方の一眼レフを渡す。予備機のニコンが登場するのは珍しいので、思わずチェックする瑞樹の手元をじっと見つめてしまった。
 「こっちのカメラ、私、あんまり慣れてないんだけど、大丈夫かなぁ」
 「同じニコンなら使い勝手は同じだろ」
 「最初のフィルムから、私に入れさせてもらっていい?」
 「どうぞ」
 ほっ、と息をついた蕾夏は、暫し、瑞樹の手元を眺め続け―――その視線を、メインステージの方へと流した。

 音響担当ブースは、メインステージの脇にある。
 撮影台とメインステージの間には結構な距離があるが、蕾夏には、そこで厳しい表情で作業を続ける佐野の姿がはっきりと見えていた。
 不思議と、焦りや不安はなかった。
 13年ぶりの再会の時のように、鼓動が乱れて意識が朦朧とすることも、手足の震えが止まらないようなこともなかった。それは、距離の問題というよりは…やはり、蕾夏の心の問題だろう。
 ショーの前にいざこざを起こすのは嫌だから、とショーの後での話し合いを申し出た蕾夏だったが、この後のことに気を取られて、佐野が―――勿論自分も、それに瑞樹や奏も―――仕事に集中できなかったらまずいな、と、少し心配だった。でも、ここから見る限り、今の佐野に雑念はないようだ。ピンと緊張の糸が張っているのが、その表情からもよく分かる。
 ―――現場の人、って感じだなぁ…。
 ヘッドセットを着け、ミキサーを操っているその姿は、蕾夏の知らない佐野だ。
 記憶の中で、14歳の少年のまま止まっていた佐野が、成長して、ああして仕事をしている。なんだか不思議な感じだが…多分、佐野も蕾夏の仕事する姿を見て、妙な違和感を覚えているに違いない。
 13年、経ったのだと、実感する。
 ただ外見の変化で感じる以上に―――“今”の自分達を、はっきりと感じられる。それだけでも、やっぱり無理を言ってでもアシスタントに復帰させてもらった意味があったかもしれない。
 もしかして桜庭も、このショーを見に来ているだろうか?
 屋外の、誰でも見ることができるショーだから、この人だかりの中に彼女が紛れ込んでいても不思議ではない。でも、多分―――佐野には見つからないよう、ひっそりと見ているのではないだろうか。なんだか、そんな気がした。


 メインステージでは、オープニング・セレモニーが進行している。
 日本支社長の挨拶からテープカット、ファッション評論家のちょっとしたトーク・ショー…そんなものが次々に展開し、巨大スピーカーからその声や音楽が絶え間なく流れてきている。
 「結構音がうるさいね」
 瑞樹の耳元に口を近づけて、そう言う。瑞樹も頷き、蕾夏の耳元に、
 「指示聞こえねーかもしれないけど、アイ・コンタクトでなんとかなるだろ」
 と言った。大丈夫かな、と少々不安も感じるが…自分以上にアイ・コンタクトで瑞樹と意思疎通できる人間はいないのだから、と思い直した。
 カメラ2台にフィルムをセットし、交換用のフィルムをしっかり準備し終わった2人は、大きく深呼吸をし、セレモニーが終わるのをじっと待った。

 そして、ほぼ定刻通りの、午後6時半。
 突如、会場の照明が、一斉に消えた。
 演出だと分かっていても、一瞬、会場全体がざわつく。いよいよだ―――隣にいる瑞樹の気配が、一気に張り詰めるのを感じた。

 照明の落ちた会場に、まず流れてきたのは、ギターソロだった。
 かなり複雑な旋律の、アップテンポなソロ。蕾夏の知らない曲だが、ディストーションの効いた長音部などは、佐野が好きなディープ・パープルとどこか似ていた。
 どんどん速度を増すギター・ソロに合わせて、照明が次第に明るくなる。そして十数秒のソロ・パートが終わると同時に――― 一瞬、再び落とされた照明が、今度は目も眩むような明るさで会場を照らした。
 「あ……」
 この曲は―――…。
 ギター・ソロに続いて流れてきたイントロに、蕾夏は無意識のうちに、声を漏らしていた。
 ―――ディープ・パープルの“スモーク・オン・ザ・ウォーター”だ。
 中2の時、佐野が文化祭で演奏した曲。
 勿論、スピーカーから流れてくるのは、本家本元ディープ・パープルの演奏だが―――奇妙な符合に、胸がざわついた。ごくり、と唾を飲み込み、蕾夏は雑念を掃うべく、手にしたサブの一眼レフをしっかり握り直した。
 BGMとかけて洒落ているのか、照明にさし色として使われているのも、紫色だ。クルクルと光が目まぐるしく舞台上を動き回る中、まずトップバッターとして登場したのは、奏だった。
 “Clump Clan”のポスターでファンになった観客もいるのか、一部から、黄色い歓声なども飛ぶ。その声に惑わされることなく、瑞樹は素早くカメラを構えた。

 軽快な足取りで、ランウェイを真っ直ぐに、瑞樹と蕾夏のいる方へと歩いてくる奏を、ファインダー内に捉え続ける。ランウェイの先端で立ち止まった奏は、身につけていたスーツのジャケットの袖から片腕を抜くと、くるりとターンしてみせた。
 ジャケットが、まるでマントみたいに、軽やかに翻る。瑞樹は、連続して何度もシャッターを切った。
 ―――綺麗…、奏君。
 男性に使うのは変な言葉かもしれないが―――魅惑の微笑を浮かべて観客の前に立つ奏は、綺麗だった。
 ロンドンで見たファッションショーの時の、あの氷でできた彫像のような完璧な微笑ではなくて―――どこか子供っぽさを残した、蕾夏もよく知る“一宮 奏”らしい笑み。元々、奏の流れるようなウォーキングはずば抜けて美しかったが、ロンドンで見た時より、今の奏の方が数段魅力的に見えた。
 脱いだジャケットを肩に掛け、ポーズを取ってみせた奏は、一瞬、視線を撮影台の方に向けた。
 そして。
 「!!」
 ニッコリ、と2割増しの笑みを奏から送られ、瑞樹と蕾夏は、同時に固まった。
 「…ステージに上がると、あいつ、人格変わるな」
 「…役者さんの素質あるかも」
 期せずして、2人が似通った言葉をそれぞれに呟くと、まるでそれを聞き届けたかのように、奏はくるりと踵を返し、ランウェイを引き返していった。


 撮影は、予想よりはるかにスムーズだった。
 瑞樹が、ファインダーから目を離す。と同時に、カメラがすっ、と蕾夏の方に差し出される。
 蕾夏は素早く、それを受け取り、もう一方の手で瑞樹にもう1台のカメラを渡す。瑞樹が再びカメラを構えるのとほぼ同時に、受け取ったカメラのフィルムの巻き戻しがほぼ終わった。即座に裏蓋を開けた蕾夏は、中からフィルムを抜き取り、それをあらかじめ番号を振っておいた袋にぽん、と放り込んだ。
 息を潜め、獲物をじっと待っているようなものに変わった瑞樹の気配に、蕾夏は舞台の状況をなんとなく感じ取り、新たなフィルムをカメラに装填する。カシャン、と裏蓋を閉じて顔を上げると、次のモデルがランウェイの中ほどを歩いているところだった。
 言葉は、いらなかった。
 カメラチェンジのタイミングは、瑞樹の行動を見ていればすぐ分かる。少し目を細めるような仕草で、照明が邪魔になっていることを感じ取り、レンズの上部を手で覆ったりもできる。言葉もなく、瑞樹が何を望んでいるかを感じ取りながら手助けできるのは、ある種の快感だ。
 やっていけるかもしれない。
 ここまできて、ようやく、蕾夏はその手応えを感じた。
 「俺にとっては蕾夏以上のアシスタントはいない」と瑞樹に言われても、本当にそうなのか自信がなかった。でも…瑞樹の言葉は、ただの馴れ合いでも慰めでもなく、心からの言葉なのかもしれない―――この現場を経て、蕾夏はそう感じ始めていた。

 ―――うん…、やっぱり、来て良かった。
 ファインダー越しに獲物を捕らえる、しなやかな野生動物みたいな瑞樹の横顔を隣で見つめて、ふわりと口元を綻ばせる。そんな蕾夏の視線は、やがて、ゆっくりとステージへと向けられた。

 ショーは、華やかで、エネルギッシュだった。
 “Clump Clan”の日本進出に際してのコンセプト―――“冒険”。それを強くイメージさせるような、ワクワクするような気持ちにさせられる舞台だった。
 目まぐるしく変化する照明。弾けるような楽しげな足取りで躍り出るモデル達。そして―――ロックを主軸に映画音楽やワールドミュージックを織り交ぜた、勢いのあるBGM。
 洋服も、カジュアルからフォーマルまで様々で、それに合わせたかのように、音楽も多種多様だ。けれど、アップテンポのロックと荘厳なゴスペルであっても、不思議なほどつなぎ目に不自然さを感じさせない。ショーの構成をした演出家やデザイナーの構成力、そして音楽担当のミキシング技術の高さのおかげで、観客はクルクルと変わる世界観の中を、迷子にならずに漂うことができた。
 それは、まるで、一夜の夢を見せてもらっているかのような、キラキラした世界。蕾夏は、その鮮やかな光景に暫し魅せられた。

 これが、奏の生きている世界。
 そして、佐野が作り出す―――“今”の佐野が住んでいる世界だ。

 「…来て、良かった…」
 無意識のうちに声に出して呟いていた言葉に、瑞樹がファインダーから目を離した。
 瑞樹の視線が、こちらを向く。それを感じた蕾夏は、瑞樹の方を見、微笑んだ。
 「―――ありがとう、瑞樹」
 反対せず、こうして、ここまで連れてきてくれて。
 沢山の不安や心配が、瑞樹の中にもあっただろうに―――瑞樹は蕾夏の意志を尊重してくれた。
 そのおかげで、知ることができたのだ。佐野が、13年間、ただ罪悪感に埋もれて1歩も進めずにいた訳ではない―――こんな素晴らしい世界を生み出せる、誇りを持った1人の“職人”へと、確実に歩を進めていたのだ、ということを。
 僅かに目を潤ませ、静かな笑みを見せる蕾夏に、瑞樹も微笑を浮かべた。
 撮影の合間をみて、一時、カメラから離された手が、予備機を握る蕾夏の手の甲に触れる。蕾夏もカメラから手を離して、瑞樹の手にそっと触れた。指を繋いだ2人は、何かを決意したような目で、視線を華やかなステージへと向けた。


 あとは。

 あとは―――決着を、つけるだけ。

 目を逸らし、封じ込め、10年以上もその痛みを引きずり続けた“呪縛”。そこから―――解放されるために。


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