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― 解放 -2- ―

 

 最初にヒントをくれたのは、瀬谷だった。


 これを読んでも、仕方なかったとか、蘇芳は悪くないとか、そんな風には思えない。
 ただ…これを読んで、思ったんだ。“ああ、なんて哀れな奴なんだろう”って。

 人間は、弱い。蘇芳も僕も、弱い。たった1度の過ちと、きちんと向き直ることができなかった―――その点では、僕も蘇芳も同罪だ。プライド、世間体、誰かに対する意地…そんなものに囚われているうちに、こんな生き方しかできなくなった。…2人揃って、馬鹿で、哀れで、悲しい人間だと―――そう思った。
 蘇芳が、あれからこれまでの時間、ずっと後悔して、ずっと怯えて、ずっと涙を流しながら生きていたことが、これを読んで分かった。許せはしないけれど…理解は、できた。
 理解できたら、哀れに思えた。
 そうしたら―――もう、終わりにしよう。そう思えた。

 藤井は、これを僕が読む意味を感じ取って、僕に託すことができたのに―――自分のことになると、まるで気づけないんだな。


 ―――ええ…、本当に、そうですね、瀬谷さん。
 全ては初めから、私の中にあったのに―――あなたや千里さんの言葉を借りなくては、その答えに行き着くことができないなんて。


 桜庭の話を聞いて、何故佐野があんな風にしかできなかったのかを知り、その後彼が何を思い、何に苦しみながら生きてきたかを知った。知ることで、彼の弱さを―――悲しさを理解できた。
 哀れだと、そう思えた。
 もう終わりにしなくては……、そう、思えた。
 そして、終わらせるためには―――…。

 感情を、理性や理論で決着させるのは、難しい。こじれてしまえば余計に。
 だから、これを終わらせるには―――ぶつけるしかないのだ。この体の中に蓄積してきた、幾多の憤り、悲しみ、やるせなさ、苦しさを。
 瑞樹は今まで、何度も言った。飲み込むな、全部吐き出せ。そうやって言いたい事を飲み込んで堪えてる蕾夏は、蕾夏らしくなくて、一番嫌だ、と。
 あの佐野を相手に、飲み込んできたものを全部吐き出すなんて、できるだろうか?
 感情をぶつけて、彼の感情をも引き出し、曝け出させることなど…自分に、できるだろうか?

 『大丈夫だって。―――お前は、強い奴だ。卑怯な手にも暴力にも屈しない。自分を貫くためなら、相手を傷つける事も厭わない位に。そうしながら、相手に負わせた傷を思って泣く優しさも持ってる―――やっぱり、最強の女だよ』

 ―――…瑞樹。

 お願い。私に、力を貸して。
 私自身の呪縛を解くだけじゃない―――佐野君をも解放することができるだけの、力を。


***


 タクシーを降りた奏は、何の変哲もないオフィスビルを見上げた。
 ―――ここ、だよな。
 入ってすぐの所にある守衛室に一言声かけてこいよ、と瑞樹に言われたのを思い出しながら、中に入る。確かに、守衛室にはまだ煌々と灯りがついており、60代辺りの人の良さそうな守衛が新聞を読んでいた。
 「あの、すみません」
 奏が声をかけると、守衛は顔を上げ、半開きになっていたガラス戸を開けた。
 「はい?」
 「ここの時田事務所に呼ばれてるんです。あそこ使ってる、成田さんに」
 前もって指示されたとおりに奏が言うと、守衛はニコニコ顔になった。
 「ああ、成田さんね。お話聞いてますよ。2人訪ねて来る方のお1人ですね」
 「はい」
 2人―――当然、もう1人は、あいつだろう。というか、もう1人が真の主役で、自分はただの傍観者なのだが。

 通っていいですよ、と守衛に言われ、そのまま奥へ進む。階段を上り始めてもなお、奏はまだ、自分が何故ここにいるのか、本当はよく分かっていなかった。
 部外者の自分が立ち会っていいものなのか、という思いもある。2人きりで話をさせるのが危険なのは間違いないが、瑞樹がいてくれるなら自分など要らないような気もする。
 けれど―――奇しくも、瑞樹とヒロ、双方が同じ事を言ったから。
 “よければ、お前も来い”―――何故か2人揃って同じことを奏に言ったから、奏は立ち会うことを決めたのだ。“何”があるかは分からないが、きっと…立ち合うことには“何”かの意味がある筈だ、と信じて。
 ―――けど…もし蕾夏が妙な仏心でも出して、あいつのこと許しちゃったりしたら…。
 そんなことになったら、立ち会った事を後悔しそうだな、なんて考えて、階段を上りながらため息をつく。
 それでも、階段を上りきったところで、雑念を振り払うように、大きく深呼吸をする。ツカツカと廊下を進んだ奏は、“時田事務所”と小さなプレートの入ったドアを、2度ノックした。
 ドアの内側で、人が動く気配がする。ドアにはまった曇りガラス越しに、人影が近づくのが見えて―――ガチャリ、と、ドアが開けられた。
 「よ。お疲れ」
 出迎えたのは、瑞樹だった。
 「…お疲れ。ごめん、もうちょい早く来るつもりだったんだけど」
 「奏君?」
 事務所の中から聞こえた蕾夏の声に、ただでさえぎこちなかった奏の笑みが、引き攣った。
 思えば、蕾夏と会うのは本当に久しぶりで―――そう、なんと、北海道から帰ってきた日に会って以来のことなのだ。以来、メールや電話ではやりとりしていたが、蕾夏の状況が状況だし、奏もショーが近づいて相当忙しくなってきたため、実際に顔を合わせる機会を持てずにいたのだ。
 奏が、少し緊張したような面持ちでいると、瑞樹が「入れよ」という風に促した。
 促されるままに、事務所内に足を踏み入れると、正面の机の端に腰掛けた蕾夏が、奏の顔を見てニコリと笑った。
 「お疲れ様、奏君」
 「―――…」
 心臓が―――ドクン、と、大きく脈打った。
 「お…お疲れ」
 「すっごい綺麗だったよ、今日のショー。男の人に“綺麗”って形容詞も変かもしれないけど」
 「…そう。ありがとう」
 「きっといい写真、撮れてると思うよ。ね?」
 そう言って蕾夏が奏の後ろにいる瑞樹に笑いかけると、
 「リハん時の試し撮りが本番に活きてれば、な」
 と瑞樹が少し渋い表情で答えた。
 ―――やばいなぁ…。
 手近にあったキャスター付の椅子に腰を下ろしながら、奏は落ち着かない気分で蕾夏から目を逸らした。
 久しぶりだから、だろうか。それとも、最悪な状況の蕾夏を知ってしまった後だから、だろうか。なんだか―――蕾夏が、前より、綺麗になったように見える。
 どこがどう変わった、という訳ではないのだけれど、向けられた笑みも、黒髪の艶やかさも、耳に心地よい声も―――全てが、まるで目に見えない薄皮が1枚脱皮したみたいに、ワン・トーン輝きを増したような、そんな感じだ。蕾夏自身が変わったのか、それとも自分の目が変わってしまったのか…その辺りは、微妙だけれど。
 断ち切らねばならない想いなら、少しでも少ない方がいいのに。
 「…増えてどうするんだよ」
 「え?」
 無意識のうちに、考えが口に出ていたらしい。怪訝そうな顔をする2人に気づき、奏は慌てて誤魔化し笑いを顔に貼りつかせた。
 「あ…、え、ええと―――現場の打ち上げ、あんた達も出れば良かったのに、なんで出なかったのかな、と」
 咄嗟に適当な話を口にするが、出なくて当然ということは奏にも分かっていた。スタッフでもない上、その場にはヒロもいるのに、この2人が出る訳がないだろう。案の定、瑞樹が呆れたような声で答えた。
 「出る訳ねーだろ。裏方でもモデルでも社員でもないのに」
 「…だよな」
 「どうだった? ああいうショーの打ち上げって、経験ないんだけど」
 蕾夏が軽く首を傾けて訊ねるので、奏は、適当に口にした話題をそのまま続けるしかなかった。
 「どうって…、まあ、フツー。立食パーティーってほどでもないけど、ビールとおつまみとサンドイッチを、でっかいテーブルに並べて、乾杯して騒ぐだけ」
 「あ、それじゃあもしかして、おなか空いてる?」
 「いや、そうでも。酒弱い分、サンドイッチ食いまくったから」
 「そう。良かった」
 蕾夏の笑顔に笑みで応えた奏は、壁に掛かった時計をチラリと見た。
 打ち上げを、恐らく一番早く抜け出してきた自分でも、時計は既に10時を回っている。ヒロは、舞台の撤去作業の担当者ではないから、自分の部署の後処理が終われば帰れるのだろうが――― 一体、何時に来る予定になっているのだろう?
 「…あの…ここ、他の事務所の人間が来るとか、そういう心配ないわけ?」
 中途半端な時間帯が気になり、思わず瑞樹に訊ねる。ペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいた瑞樹は、それを聞いて軽く肩を竦めた。
 「撮影で夜中まで使う、って月曜のうちに宣言しといたからな。事務員通して、可能性ある奴には通達行ってる」
 「ふーん…さすが、用意周到」
 「あいつなら、10時半て言ってた」
 「……」
 奏が本当に気にしていることを、とっくに見破っていたらしい。あっさり瑞樹に答えを出され、奏は、ちょっと気まずそうに「そっか」と呟くように答えた。
 「…えっと、煙草、いいかな」
 手持ち無沙汰になり、そう言うと、瑞樹が無言で灰皿を差し出した。
 ―――ほんと、オレ、何のためにここに来てるんだろ?
 やっぱり、よく分からない。なんとも言えない居心地の悪さを感じながらも、奏は灰皿を受け取り、ポケットから引っ張り出した煙草に火をつけた。


 それから暫く、どうでもいい話が、ポツリポツリと続いた。
 「やっぱり奏君って、舞台の上だと雰囲気変わるね」と蕾夏が言ったことを皮切りに、今日のショーの出来についての話が続く。舞台に立つ人間はあの照明は眩しくないのか、とか、女性モデルの中じゃ佐倉がダントツで目立っていた、とか―――明日のオープニングセールで、銀座店限定プレミアもののバニティポーチを狙っている奴らは、撤去作業を横目で見ながら既に店の前に並び始めているらしい、とか。小物を扱わない“Clump Clan”じゃ世界初の試みなんだぞ、とクライアントの日本進出の意気込みのほどを語ってみたが、ブランド物に全く興味のない2人からすれば「小物入れに行列成すなんて狂気の沙汰」でしかない様子だった。
 そんな、どうでもいい話を表面上は続けながらも―――どこか、空気が、張り詰めていた。
 この先に待つものを、予感して。
 黙っていれば、その予感に押しつぶされて、平静を保てなくなりそうで―――3人とも、何かしら話題を探して、会話を続けようとしている。そんな感じだ。

 本当は、もっと、知りたいことがあった。
 例えば、そもそも蕾夏とヒロの間に昔あった事件とは、どういう経緯で起こったものなのか、とか。
 すっかりほったらかしになっている、瑞樹の母や祖父の話は、その後どうなったのか、とか。
 自分が持ち帰ったあの手紙の中身は、一体どうだったのか―――率直に言うなら、瑞樹の母の罪が事実なのかただの妄想なのか―――そしてその結果を、瑞樹はどう受け止めたのか、とか。
 でも、訊ねられるムードではないし、聞いても仕方ないという気持ちも、どこかにある。
 瑞樹のことは、蕾夏が知っていれば―――蕾夏のことは、瑞樹が知っていれば、それで事足りる。そう、2人一緒にいれば、解決できない事など1つもないのだ。このコンビは。
 今回のことにしたって、蕾夏がショック状態から戻ってきたのも、耳が聞こえるようになったのも、全ては瑞樹の助力あってのことだ。自分の力など、何の役にも立っていない。ただオロオロと心配して、思いつく限りの雑用をこなすだけで精一杯だった。

 不安定な三角形―――新しい関係。見つけたくても、やっぱり自分の居場所はどこにもない。
 ―――やっぱりオレ、こいつらの傍にいると、辛い事の方が多いかもしれないなぁ…。


 「? どうしたの、奏君」
 「えっ」
 訝しげな蕾夏の声に、ハッと顔を上げる。
 いつの間にか、考え事が先に立って、すっかり黙り込んでしまっていたらしい。不思議そうな顔が2つ、目の前に並んでいた。焦った奏は、あやふやな笑いを浮かべて首を大きく横に振った。
 「いや、なんでもない。ちょっと疲れてるだけかも」

 そんな風に、奏が言った直後。

 廊下から、微かに聞こえてきた足音に―――全員の顔から、怪訝そうな表情も誤魔化し笑いも消えた。


 それは、ドアを薄く開いていなければ気づかなかったであろうほど、微かな音。
 ハイヒールのコツンコツンという音とも、革靴のカツカツという音とも違うその音は、多分…ゴム底のスニーカー。やけにゆっくりなその足音に、歩いてくる彼の逡巡や緊張が読み取れる気がする。
 ―――ヒロ、だ。
 心臓が、痙攣する。
 ドアに視線を向け、硬い表情をする瑞樹と蕾夏の顔を見たら余計―――心臓が、妙な具合に軋んだ。
 固唾を呑んで、ヒロが現れるのを待っていると、突如、瑞樹が腰掛けていた机から降り、よりドアに近い場所に座っていた奏のもとへと歩み寄った。
 突然のことに、え、と奏が目を丸くして瑞樹を見上げると。
 「行くぞ」
 瑞樹の手が、奏の腕をぐい、と掴み、立ち上がらせた。
 「えっ」
 行くって、どこに。
 要領を得ない奏を強引に引きずり、ドアノブを掴む。瑞樹は、何の説明もしないまま、事務所のドアを開けた。
 「―――!!」
 いきなり、だった。
 薄く開けていたドアを開け放つと、実に絶妙なタイミングで、廊下を歩いてきたヒロと、真正面から目が合ってしまったのだ。
 奏も、ヒロも、ギョッとしたような顔で向き合う。なのに、奏の腕を掴む瑞樹は平然とした顔だ。動揺するヒロを嘲笑うでもなく、憤りをぶつけるでもなく、無感動な目で僅かに目線が上のヒロと対峙していた。
 「…悪い。後処理に手間取って、10分遅れた」
 奏よりは早く動揺から抜け出したらしいヒロが、瑞樹の目を見て、低くそう告げる。壁掛け時計にチラリと目をやると、確かに、10時半を10分ほどオーバーしていた。
 そんなヒロに、瑞樹は特に表情の変化を見せず、ヒロの目から視線を外すことなく、奏の腕を更に引っ張った。
 「俺とこいつは、廊下にいるから」
 “こいつ”、の部分で、奏の体は、瑞樹とヒロの間をすり抜けるようにして、廊下に追い出された。
 「ただし、ドア開けて、様子だけは見させてもらう」
 「……」
 ヒロの目が、微かに揺れた。
 それは、第三者に監視されるという煩わしさからくるのか、それとも、開放されてるとはいえ、部屋という空間に蕾夏と2人きりにされることへの不安からくるのか―――もしかしたら、その両方なのかもしれない。

 こんな表情を見せるヒロは、奏の知らないヒロだ。
 …いや、違う。
 これは、蕾夏を傷つけ、蕾夏に傷つけられ、その記憶を13年引きずってきた男―――“佐野博武”の、本来の顔だ。

 自らも廊下に出、ドア前の空間を“佐野”に譲ると、瑞樹は軽く首を傾け、入れよ、と促した。
 そんな瑞樹を、佐野は、その真意を見極めようとするかのような目で、暫しじっと見ていた。その視線が、一瞬、奏の方に向けられる。目が合って、思わずドキリとしたが、何故か佐野は、軽く唇を噛み、奏の目からはすぐに視線を逸らしてしまった。
 そして―――やっと決心したように、事務所内へと足を踏み入れた。


***


 さすがに、全身に、緊張が走っていた。
 それでも口元に作った微かな微笑は―――強がりでも意地でもない、ただ、今日のショーに感動したからだった。

 「―――お疲れ様」
 机の端に座ったままの蕾夏の目の高さは、佐野の目線より、まだ低い。僅かに見上げるようにして佐野の顔を見つめ、蕾夏はそう、声をかけた。
 「仕事の方は、もう終わったの?」
 「……ああ」
 答える佐野の方は、蕾夏の目を見ようとはしない。
 部屋に入ってきた時、一瞬目を合わせただけで、その視線はすぐに、斜め左へと逸らされてしまった。今も、一見不貞腐れたような表情で―――その実、何をどうすればいいかまだ分からずにいる様子で、視線を斜め下へと流したままでいる。
 「……」
 ―――いつも…あなたとは、視線が合わないんだね。
 昔は、蕾夏が佐野の視線を黙殺した。己を保つために。そして今は…佐野が、蕾夏の視線を避けている。その罪の意識故に。
 頑なに逸らされたままの佐野の目に―――真っ直ぐに佐野を見つめていた蕾夏も、やがて視線を落とし、斜め下を向いてしまった。

 沈黙が、流れる。
 どちらも、じっと動かないまま、ジリジリとした時間が過ぎていく。

 僅かに目を上げると―――開け放たれたドアの向こうに、奏と並んで立つ、瑞樹の姿が見えた。
 固唾を呑んで見守っている風の奏に比べ、一見、静かで冷静に見える、瑞樹の顔。でもそれは、あらゆる感情を内側に閉じ込めた、“最後の理性”の顔―――佐野に対する激しい憤り、僅かな嫉妬、ほんの少しの同情、そして…殺意。そうした内なる葛藤を綺麗に覆い隠した、無彩色な表情だ。
 …そう。
 瑞樹だって、今、闘っている。己の中の感情と。

 ―――瑞樹…。
 力を、貸して。

 目を伏せた蕾夏は、佐野には気づかれぬよう、ゆっくりとした深呼吸を繰り返していた。
 いつもなら、それは、忌まわしいものを頭から追い出すための儀式だ。でも、今日は…その、逆。
 蕾夏は、深呼吸を繰り返しながら、蘇らせていた。3週間前…全ての感覚が奪われた中で感じた、絶望的な“痛み”―――心や頭で感じるのではなく、体の奥底で感じた、自分がバラバラにされてしまうような“恐怖”を。
 机についた掌に、汗が、滲む。
 体の芯が、震える。深呼吸で吐き出す息が、微かに震え、乱れた。
 もっと、もっと―――怒りと恐怖に、震えればいい。その憤りのあまり、正気を保てないほど、激しく。でなければ…きっと、足りない。平然とした顔をすることに慣れてしまった自分を、爆発させるには。

 「……あの、」
 ふいに聞こえた、佐野の曖昧な言葉に、蕾夏は、伏せていた目を上げた。
 「この前……」
 「……」
 視線を逸らしたままの佐野が、何を言いたくて口を開いたのか―――それは、定かではない。が、それが蕾夏にとっては、引き金となった。蕾夏は意を決し、顔をしっかりと上げた。
 「佐野君」
 凛とした声に、佐野は思わず、逸らしていた目を蕾夏に向けた。
 やっと、目が合う。蕾夏は、口元をきつく引き結ぶと、腰掛けていた机から降りた。
 机から降りた分、佐野との目の高さが変わった。佐野を見上げた蕾夏は、下ろした拳をきつく握り締め、口を開いた。
 「お願いが、あるの」
 「…何だよ」
 怪訝そうに、佐野の眉がひそめられた。一度、ごくりと唾を飲み込んだ蕾夏は、一語一語、正確に伝えようとするかのように、ゆっくりと告げた。
 「私のこと―――思い切り、平手打ちして欲しいの」
 「―――…」
 佐野が、息を呑む。
 と同時に、その背後で見守る影が、僅かに動くのが、視界の端に映った。多分、奏が瑞樹に、説明を求めるような顔を向けたのに違いない。でもこれは、瑞樹も知らないこと―――蕾夏がギリギリまでどうすべきか悩み、1人、自分の中だけで出した結論だ。
 佐野は、なかなか、返事をしなかった。
 当然だろう。謝罪すべき相手が、いきなり自分をひっぱたけ、と言うのだから。
 「な…に、言って、」
 やっと返ってきた返事も、戸惑ったような曖昧なものだった。蕾夏はその言葉を遮り、再度口を開いた。
 「これまでのこと全部をこめて、ひっぱたいて」
 「……」
 「ギタリストの夢、私が負わせた傷のせいで諦めるしかなかったこと。私が目も合わせようとしなかったせいで、謝罪することも、罪の償いをすることもできなかったこと。あの時のこと全部がトラウマになって、それからの人生、ずっと苦しい思いを引きずって生きるしかなかったこと―――佐野君の中には、罪悪感もあるけど、そういう“怒り”もあるでしょう?」
 「……」
 「だから今、それをぶつけて。ただし―――」
 1歩、佐野に詰め寄る。蕾夏の目が、僅かに鋭くなった。
 「…絶対、手加減しないで。女だからとか、罪の意識のせいで、少しでも手加減したり本気出さなかったりしたら―――絶対、許さない」
 「―――…」

 蕾夏の真剣な目に、これが、冗談でも酔狂でもないと理解したのだろう。佐野は、眉間に皺を寄せると、視線を落として暫し押し黙った。
 暴力を受けていた佐野に―――そして、自分が働いた暴力がトラウマになっている佐野に、再び手を上げろ、と言うのは、もしかしたら酷なのかもしれない。
 けれど―――…。

 「…佐野君」
 「……」
 お願い。早く。
 そんな思いを込めて名を呼ぶと―――佐野が、顔を上げた。
 しっかりと蕾夏の目を見据えるその目は、既に意志を固めた目のように、蕾夏には見えた。
 「…本気で、いいんだな」
 「うん」
 「―――分かった」
 短く、そう言うと。
 佐野は、きつく唇を噛み締め―――右手を挙げた。


 音が、耳元で、破裂する。
 左頬に、強烈な衝撃が走った。いや―――音と衝撃、どちらが先か、分からない。

 一切の手加減のない掌が、蕾夏の左頬を打った。派手な音と共に襲った衝撃に、蕾夏の体は大きくよろけた。
 「蕾夏―――…!!」
 耳鳴りの中、奏の声が、僅かに聞こえた気がした。
 この時、佐野が本気で全力で蕾夏を平手打ちしたのを見て、思わず奏が飛び込んで来ようとしたのだが―――蕾夏はそれには、気づかなかった。そして勿論、そんな奏を、瑞樹が背後から羽交い絞めにして引き戻したことも。

 よろけた体が、背後の机にぶつかり、ガタガタッ、と音を立てる。そのまま吹き飛んでしまいそうなところを、蕾夏は机の端を掴んで、なんとか堪えた。
 頬が痛くて、熱かった。
 口の中に、僅かに、鉄サビのような味が広がる。その味には、覚えがあった。あの時―――中2の時、気を失う寸前まで佐野に平手打ちされた時に味わった血の味と同じだ。

 痛みが。
 鼓膜が破れるほどの痛みと、左頬全体が麻痺しそうなほどの熱と、耳の奥で響く耳鳴りとが―――怒りに、変わる。その本能的な怒りが、体の中に蓄積していたものを揺さぶる。

 左頬を手で押さえた蕾夏は、ゆらりと、顔を上げた。
 覚悟を決めたように、唇をきつく結んでいる佐野を、睨み上げる。体の底から溢れてくる本物の怒りと憤りを、その目に露わにして。
 そして、左頬を手で押さえたその顔を、僅かに歪めると―――蕾夏は、目一杯腕を伸ばし、精一杯の力で佐野の左頬を平手打ちした。

 パン! と、かなり勢いの良い音が、事務所内に響く。
 女の力でも、全力ならばそれなりの威力だったのだろう。佐野の足元が、少しぐらついた。
 「……っ!」
 傍にあったキャスター付の椅子に足を取られた佐野は、バランスを崩してしりもちをつくような形になった。膝を立てて体勢を立て直した佐野を、蕾夏は床に膝をつき、もう一度右手で平手打ちした。が、それは、佐野の肩の辺りに当たった。
 涙が、滲んでくる。
 言葉にならない感情が、涙となって溢れてくる。
 気づけば蕾夏は、泣きながら、佐野の体をメチャクチャに叩いていた。
 まともに頬に当たったのは、最初の全力の1発だけだった。大人の男にとって“叩いた”と表現できるような力も、最初の平手打ちだけだった。それでも蕾夏は、涙を噛み殺しながら―――途中からは泣きじゃくりながら、佐野の手と言わず腕と言わず、ただ闇雲に両手で叩いた。

 何故、言葉として、出てこないんだろう?
 中2のあの時、自分がどれほど怖くて、痛くて、屈辱的な思いをしたか。何度あの時のことを夢に見てうなされたか。些細なことであの時感じた恐怖を蘇らせ、何度息も出来なくなるような苦しさを覚えたか。何度、自分を大事にしようとしてくれた人を傷つけ、その度に自己嫌悪に陥り、自分の中の残酷な一面に怯え、差し伸べられる手を拒絶してきたか。
 どれだけ―――どれだけ、自分が、孤独だったか。
 全部全部、言葉にして、佐野にぶつけてしまえばいいのに。何故…言葉では、上手く出てこないんだろう?
 でも、言葉にならない分。
 蕾夏は、13年分の悔しさと哀しさを、全身で佐野にぶつけていた。
 あの日から、誰にも見せなかった、涙―――傷めつけられた直後でさえ露わにはしなかったものを、佐野の目の前に晒して、その全てをぶつけていた。痛かった、苦しかった、悔しかった、怖かった―――言葉でぶつける以上の力で、それを佐野に訴えていた。
 そんな蕾夏に、佐野は、一切抵抗することなく、叩かれ続けた。
 多分、佐野にとっては、痛いと感じるような力ではなかっただろう。それでも―――まるで、耐え難い痛みに耐えているような沈痛な面持ちで、黙って蕾夏の手を受け止め続けた。その表情は、確かに辛そうなのに―――どこかしら、安堵したような表情にも見えた。
 13年前、何ひとつぶつけられることなく、宙ぶらりんの心のまま放り出されてきたから。
 “俺を見ろよ”と苦しいほどに叫んでも、決してどの感情も向けてはくれなかった蕾夏が、こうして真正面から自分と向き合ってくれた。やっと届いた蕾夏のむき出しの感情に―――痛みを覚えながらも、安堵しているのかもしれない。

 最後に蕾夏が振り上げた手が、佐野の膝を、弱々しく叩く。
 そこで、全ての力が尽きてしまったように―――蕾夏はペタリ、と床の上にへたりこんだ。
 「……っ…」
 何か言おうとしても、涙が喉にひっかかって、声が出ない。大きく息を吐き出した蕾夏は、緩慢な動きで片手を目元に当てると、そのまま声もなく涙に肩を震わせた。


 誰も、言葉を発しなかった。
 泣いている蕾夏も、虚脱したように床に座り込んでいる佐野も、予想だにしなかった蕾夏の激しい姿に呆然としている奏も―――そして、何かに耐えるように唇を噛み締めている瑞樹も。
 シンと静まり返った事務所の中、蕾夏がしゃくりあげる小さな声だけが、暫し続く。その沈黙を破ったのは―――佐野だった。

 「…あの、少し前…」
 掠れた呟きに、蕾夏は、まだ涙の残る目を上げ、のろのろと顔を上げた。
 佐野の目も、僅かに赤くなっていた。さすがに泣くまではいかないようだが、その目は微かに潤んでいた。
 「ちょうど、中2の、夏の終わり頃―――おふくろが、子供産んだんだ。あいつと―――“友達”って呼んでたあの男とのガキをさ」
 「……」
 「―――由井が、羨ましかった」
 佐野の視線が、床に落ちた。
 「お前と“友達”でいられるあいつが、妬ましかった。…“友達”になれるなんて信じられない自分が…悔しかった」
 「……」
 “友達”が、妬ましかった―――桜庭の手紙にはなかった言葉だ。
 それは、多分、佐野の一番隠したかった本音。
 男と女に友情など成り立たない―――そう冷笑する佐野が、本当は一番、蕾夏と“友達”になりたかったから。恋人より何より―――ただ、話をして、笑いあったり泣きあったり、本音を曝け出して付き合える“親友”になりたいと、一番願っていたから。そう願っていたのに…“友情”なんてものを、信じられなかったから。どうしても。
 「…俺が…バカだった」

 それが―――精一杯の、佐野の謝罪だったのかもしれない。
 ごめん、の一言では伝わらない、自分の一番醜い部分。それを、一番見せたくない相手の前に晒して、頭を垂れる―――桜庭と同じ方法だったのは、偶然なのだろうか。
 どこにも謝罪らしい言葉が含まれていなくても…蕾夏には、感じられた。佐野の深い後悔と、懺悔の気持ちを。

 だから、だろうか。
 「…私も、バカだった」
 自然と、口からスルリと、その言葉が出てきていた。
 佐野が、少し、顔を上げる。けれど蕾夏は、目を逸らさずに続けた。
 「―――ずっと、後悔してた。…あの時のことじゃなくて―――それから、中学卒業するまでの、1年ちょっと。なんで、勇気を振り絞って、佐野君と向き合わなかったんだろう? あの時点でこうやって本音ぶつけあってれば…その先の人生、もうちょっと変わってた筈なんじゃないか、って」
 「……」
 「でも―――もう、後悔しない」
 キッパリとした口調で、言い放って。
 蕾夏は、まだ目に浮かんでいた涙を手の甲で拭い、佐野の目を真っ直ぐに見つめた。
 「瑞樹に、出会えたから」
 「―――…」
 「“今”の私でなければ、私とは全然違う境遇に生まれた瑞樹のこと、理解できなかったかもしれない。ただ幸せに育ってきただけの私だったら…瑞樹が私を必要としてくれることもなかったかもしれない。もし、そうなら―――たとえ他の人達と同じではいられなくても、たとえこの手が佐野君の血で汚れていても―――私は、“今”の自分が、一番好きだって思える」
 「……」
 「瑞樹を理解できて、瑞樹に必要とされている自分が、一番好き。だから―――私は、もう後悔しないの」
 「…そうか」
 小さく、呟いて。
 「―――そうか…」
 目を伏せた佐野は、微かに―――本当に微かに、口元に、笑みを浮かべた。自嘲の笑みでも、蔑みの笑みでもなく…安堵の笑みを。
 その笑みは、今から数時間前、華やかなショーを眺めていた蕾夏に浮かんだ笑みと、どこか似ていた。数々の痛みや後悔を乗り越えた果てに、確かなものをきちんと掴んでいる。そんな相手の姿に、どこかほっとしたものを覚えている笑顔だった。
 「…俺は、まだ、後悔だらけだけど」
 はーっ、と大きなため息を一つつくと、佐野は目を上げ、さっき蕾夏がしたのと同じように、蕾夏の目を真っ直ぐ見据えた。
 「1つだけ、後悔してないことがある」
 「え?」
 「腕の、傷のこと」
 ドキン、と心臓が鳴った。
 実を言えば―――それが唯一、蕾夏にとっての心残りだったから。
 人間関係は、これから、いくらでもやり直せる。蕾夏が瑞樹を見つけたように、佐野もこの先、心を開いて手を取り合える相手を見つければいい。例えばそう―――桜庭のような相手を。
 でも、あの傷だけは―――ギタリストとしての佐野の生命を絶ってしまった、あの傷だけは、この先取り戻すことができないものだ。今もバンド活動に顔を出している佐野にとっては、きっと激しいジレンマに違いない。そう思うと…後悔しない、と言い切れない。
 そんな気持ちが、顔に表れていたのだろう。眉を寄せる蕾夏に、佐野はふっと笑い、トントン、と自分の二の腕を軽く叩いた。
 「今日のショーの、最初のギター・ソロ。覚えてるか」
 「えっ」
 突如言われ、一瞬、キョトンとする。
 ギター・ソロ―――ディープ・パープルに入る前、十数秒間続いた、あの複雑な旋律のソロが、蕾夏の脳裏に蘇った。
 「覚えてる、けど…」
 「…あれ、俺が弾いてるんだ」
 「―――…」
 さすがに、目が丸くなった。
 「どうしてもイメージするソロがなくて―――そういう時は、たまにやるんだ、ああいうの。ハ…、音響担当の権限ってやつ? でも、まだ1度も、誰からもクレームついたことねぇし、これでも結構“腕のいいミキサー”って信頼されてんだ」
 「…そう…なんだ」
 「…この傷がなけりゃ、多分、プロを目指してた」
 捲り上げたTシャツの袖から覗く二の腕を、そっと撫でる。
 「でも―――二度と、ギターが弾けなくなった訳じゃねぇし、今の仕事にも誇りを持ってる。だから、もう―――この傷のことで後悔はしない」
 そう言い放つ、佐野の目に、一切揺るぎがなかったから。
 「―――…そう…」
 蕾夏の口元にも、安堵の笑みが浮かんだ。


 2人とも、もう何年も、引きずって、引きずって。
 それぞれに、苦しんだ。この13年。相手を憎む以上に、自らを呪いながら―――ずっと囚われてきた。あの日から始まった“呪縛”に。
 でも…その痛みを、お互い、理解できたから。
 そして、それだけじゃなかったと―――それぞれに、前に進めた部分もあるし、過去があってこその今だと納得できる部分が、少しでもあると分かったから。


 伝えるべきものは全て伝え、受け止めるべきものは全て受け止めた。
 だから―――もう、いい。忘れることも、許すこともできなくても。

 “もう、いい”。…やっと、そう思うことができた。


 小さく息をついた蕾夏は、もう一度、残った涙を拭い、立ち上がった。
 それを見て、佐野も立ち上がり、蕾夏がバシバシ叩いたせいで歪んでしまったTシャツを、裾を引っ張って軽く直した。無我夢中だったけれど、よほどメチャクチャしてしまったんだな、と思うと、ちょっと気まずい。
 「…暴力に暴力で返すのは…、これで、最後ね」
 蕾夏がそう言うと、佐野は、口の端を歪めたような、微妙な笑みを見せた。佐野の過去が過去なだけに、単純に、今日のことだけを指した言葉とは思えないのだろう。
 妙にさっぱりとした気分で、佐野を見送ろうとくるりと体の向きを変える。そうして久々にドアの方を向いた蕾夏は―――急激に現実に引き戻されてしまった。
 「……」
 ―――い…一瞬、忘れてた。
 微妙にニュアンスは違うが、それぞれに気まずそうな、居心地の悪そうな顔をして立っている瑞樹と奏を見て、蕾夏の顔が引き攣った。かなり―――この2人が揃っている前で口にするのはまずいようなセリフを、大量に口にしてしまった気がするのだが…気のせいだろうか。
 蕾夏と目が合った瑞樹は、ニッ、と不敵な笑みを返してみせた。が…隣に立つ奏は、複雑な表情のまま、少し視線を逸らした。
 ―――奏君…。
 少し、胸が痛む。下手にここに呼ぶべきではなかったのかもしれない、と後悔がよぎる。
 でも…奏ならきっと、分かってくれる。今すぐでなくても、いつかきっと―――何故、佐野とのやりとりを奏にも見てもらいたかったのか、その理由を。
 「―――…じゃ」
 佐野の声に、蕾夏は頭を切り替え、佐野を見上げた。
 悪かった、の言葉も、もういいよ、の言葉もないが―――お互い、もう十分だ。蕾夏は微笑を浮かべると、別れの言葉代わりに、ゆっくりと頷いた。
 事務所を出て行く際、瑞樹と目の合った佐野は、少し皮肉を滲ませた笑いに口元を歪めた。
 「…あんたは殴り倒さなくていいのか、俺のこと」
 挑戦的にそう言われ、瑞樹はふっと笑ってみせた。
 「殴られたがってるマゾを殴るほど、特殊な趣味は持ってねーからな」
 「……」
 嫌味な奴、という風に眉を上げた佐野は、面白くなさそうに顔を背け、踵を返した。が、そこに奏がいることに気づき――― 一瞬、足を止めた。
 奏に真っ直ぐ目を見据えられ、佐野の顔が、僅かに動揺する。
 でも、結局…何も言えないまま、佐野は奏の横をすり抜け、歩き出してしまった。
 「―――…」
 奏の目は、佐野の背中を追わなかった。その代わり、前を向いたままのその目に、失望の色が浮かぶ。
 佐野の足音が遠ざかり、階段を下り始めてもなお、階段とは反対方向に視線を逸らしたまま、じっと動かない。そんな奏の様子に、瑞樹が呆れたような顔をして、その頭を軽く叩いた。
 「バカ。意地張ってんじゃねーよ」
 「……」
 あっさり瑞樹にそう言われ、奏の表情が、少し変わる。
 眉を僅かに寄せ、瑞樹の顔をじっと見つめ―――続いて、蕾夏の方を見る。蕾夏が、瑞樹の言葉を後押しするかのように口の端を上げてみせると、一瞬躊躇った後―――奏は踵を返し、佐野の後を追った。

 ―――うん…、きっと、大丈夫。
 奏は、これまでのやりとりを見て、理解してくれただろう。蕾夏と佐野の間にあったものは、今日、終わったのだ、と。
 残るは、奏と佐野の間の問題だけ。信頼する友人に裏切られた痛手を、奏自身が決着をつけるだけだ。
 自分のこととは切り離して、奏と佐野の間のことを解決して欲しい。そう思ったからこそ―――この決着の場に、奏に立ち会って欲しかったのだ。

 長い長い時間が、かかってしまったけれど。
 終わった―――やっと、全てが。

 大きく息をつき、その感慨を噛み締めるように目を閉じる。そして再び目を開けた蕾夏は―――ドアの所に佇む瑞樹に、フワリと、嬉しそうに微笑んだ。
 瑞樹も笑みを見せ、手を差し出してくれる。その手を取った蕾夏は、瑞樹に引き寄せられるままに、その腕の中に納まった。
 「…お疲れ」
 ぽんぽん、と頭を撫でる手に、そっと目を伏せる。蕾夏は、両手を瑞樹の背中に回し、その胸に頬を押し付けた。
 「ただいま―――…」


 やっと―――自由に、なれた。

 解放された。体中をがんじがらめに縛っていた―――“過去”という名の、呪縛から。


***


 バイクのエンジンを切った佐野は、ヘルメットを脱ぐ前に、アパートの階段に佇む人影に、既に気づいていた。
 「―――…」
 いるだろうな、とは、なんとなく思っていた。
 “あたしは立ち会わないからね、1人で決着つけてきな”―――焚きつけるように言い放った彼女の目が、その実、心配でしょうがないといった色をしていたことに、気づいてしまっていたから。

 前から、彼女のことは、よく分からなかった。
 たった1年―――かりそめの家族だったに過ぎない自分に、何故こうも執着するのか。自分に何を求めているのか、どんな見返りが欲しくてあれこれ世話を焼くのか―――佐野にとっては、理解の範疇外にいる女。それが、彼女だった。そして、正直なところ…その理解不能な部分は、今もなお、理解できないままにいる。虐待の事実に気づけなかった罪滅ぼしだ、という本人の説明を聞いても…まだ、いまひとつ納得がいかないでいる。
 でも、よく考えたら―――彼女だけだった。
 何の見返りも与えなくても、冷たい態度を取っても、酷い言葉をぶつけても―――ギヴ・アップという言葉を知らないみたいに、決して佐野から離れようとしなかった女は。
 そして、気づいてみれば自分も―――誰にも心を許さない、と言いながら、この女には結局、随分と甘えてしまっていた。甘えさせてくれる存在が当たり前になってしまって、気づかずにいたけれど―――甘えてきたからこそ、ギリギリの精神状態になった時、縋ることができたのだ。この女に。


 『…こんなオレでもさ。1年前は、すっげー屈折して、捻くれまくってた時期があったんだ。色々と…家族のこととかで、思うようにいかないことがあって』

 1時間ほど前―――自分を追いかけてきた奏が口にした言葉が、脳裏をよぎる。

 『でも―――あいつらに出会って、オレの世界は、変わったから。あんたにもきっと、現れる。あんたの世界を変えてくれる“誰か”が』

 奏―――俺の“良心”の象徴みたいな奴。
 報われない恋に胸を痛め、消えない罪に怯えながらも、自分に正直に、真っ直ぐに生きることのできる奴。
 もしも、誰かを愛することができたら―――俺の世界は、変わるだろうか…?


 キーを抜き、ヘルメットを外す。
 バイクを降りる佐野の様子を階段上から眺めていた桜庭は、佐野が歩いてくるのを見て、立ち上がった。
 「―――お帰り」
 そう言いながら桜庭が向けてくる笑みは、微妙に以前とは違う。
 前のように、どこか意地を張ったような、遠慮したような、妙に凝り固まった部分がない。まるで、家族か何かのように―――こうして出迎えるのが当たり前のこと、というような、自然な笑みを佐野に向けてくる。
 「見たよ。“Clump Clan”のショー」
 「…来てたのか。知らなかった」
 「観客の、一番端っこでね。ねえ、ファッションショーの最初のギター・ソロ。あれ、ヒロの演奏だよね」
 「……」
 正直…驚いた。さして耳が肥えている訳でもない桜庭が―――会社の音響の連中ですら、既成曲だと信じて疑わなかったのに。
 「カッコ良かったよ。すごく」
 ニッ、と笑ってそう言う桜庭に。
 「―――…サンキュ」
 佐野は笑みを浮かべ、そう答えた。

 その笑みは、多分、生まれて初めての笑み。

 長い、長い孤独から解放された―――穏やかで、柔らかな笑みだった。


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