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― 過去からの手紙 -1- ―

 

 手渡された写真の束をめくって、奏は思わず、感嘆の声をあげた。
 「すっげー…! 綺麗に撮れてんじゃん、これ!」
 「…なんか、素人に言うような感想だな、それ」
 向かい側の席に座った瑞樹は、複雑な表情でそう言い、コーヒーカップを口に運んだ。
 こういう時は個人的関係者の特権というものだ。明日、“Clump Clan”に提出する写真を、一足早く見せてもらっているのだから。
 奏自身、ステージの写真というのは、あまり撮られた経験がない。ステージ撮影が皆無な訳ではないが、やはり女性の方が被写体としていいらしく、雑誌などに掲載されるのは大抵女性モデルのウォーキング姿なのだ。だから、改めてこうして写真で見せられると、ちょっと気恥ずかしいものがある。
 「へーえ…、オレって、ステージではこういう顔してんのか…」
 「気に入ったのあったら、持っていけよ」
 あっさり瑞樹にそう言われ、奏は、写真をめくる手を止めて、目を丸くした。
 「まさか。自分の写真集めてどうすんだよ、ナルシストじゃあるまいし」
 「千里さんと淳也さんに持ってってやれ、って意味」
 「……」
 ―――そっか…、母さん達は、送りでもしない限り、見る機会がないもんな。
 本採用された写真は、今月下旬には、パンフレットやパネルとして、店頭に置かれることになっている。が、あくまでそれは日本での話。イギリスにも“Clump Clan”は数店舗あるが、そこには置かれないのだ。
 父はどうだか分からないが、少なくとも母には、色々と余計な心配や迷惑をかけてしまった。一応、まともに仕事もしてたんだぞ、と証明しないとな―――と、奏はめくってしまった写真を戻し、両親に土産として持ち帰るための写真を改めて選び始めた。


 火曜日の夕暮れの、オープンカフェ。
 シチュエーション的にはなかなか洒落ているが、男2人組―――それも、比較的長身の部類に入る男2人は、ちょっと浮いている存在かもしれない。まあ、蕾夏が来るまでの辛抱だ。
 何故こんな中途半端な平日に、顔を合わせているのか。それは―――奏が、この週末を待たずしてロンドンへ戻らねばならない上に、3人揃って時間がとれる夜が今夜しかないせいだ。
 先日のショーで、奏の日本でのモデルとしての仕事は終わった。現在は、黒川の仕事を手伝って、新しくオープンするというメイクアップ・スタジオの準備やら雑誌の仕事やらに付いて回っている。が、それも、金曜に黒川が日本を離れるまでの話。仕事がなくなれば、日本に滞在する意味はない。黒川から「一宮君の分のチケットも一緒に手配するから」と言われても、断る理由が何もみつからなかったのは当然だろう。
 そんな訳で、金曜の午後には日本を発つ奏の、今日はささやかな送別会だ。


 「そう言えば」
 膨大な写真束の、奏の手元にない約半数を手に取りながら、瑞樹がふと思いついたように口を開いた。
 「あいつとは、どうなった?」
 「えー? 誰?」
 「佐野」
 不意打ちだった。
 気に入った1枚を抜き取る手が、ピタリと止まる。目を上げた奏は、少し動揺した瞳を瑞樹に向けた。が、瑞樹の方は、目線は手元の写真に向けられたまま、涼しい表情をキープしている。
 「どう、って?」
 「追いかけてったきり、顛末の報告もねーから、ただ訊いただけ」
 「…報告するほどの顛末がないから、しょうがないだろ」
 ぶっきらぼうに奏が言うと、瑞樹は少しだけ目を上げ、軽く眉をひそめた。
 「まだ、こじれてんのか」
 「…や、そういう訳じゃない、けど。…別にいいじゃん、オレとヒロが喧嘩してようが仲直りしてようが」
 「俺はどうでもいいけど、蕾夏が心配してる」
 「……」
 蕾夏に、心配をかけている。奏にとっては、これはほとんど殺し文句だ。気まずそうに視線を逸らした奏は、選んだ写真をぎこちなくテーブルの上に選り分けて置いた。
 「…あんたこそ、いいのかよ。あのままヒロに、パンチの1発もお見舞いしてやらなくて」
 「言っただろ。殴られたがってるマゾを殴る趣味はねーって」
 「それでも、色々あるだろ? あいつに対して思うところってやつがさ」
 「―――あいつの裏事情、知りすぎたからな」
 思わせぶりなセリフに、奏は、逸らしていた視線を戻した。
 「裏事情って、どんな」
 奏が訊ねると、瑞樹はふっと笑い、軽く首を傾けた。
 「お前が同情したりしたら面白くねーから、秘密」
 「…なんだよそれ」
 興ざめになったような声で、そう言ってはみたが―――でも、同情してしまうような裏事情なら、聞かない方がいいのかもしれない。
 「で? お前は?」
 「―――うん…、凄い意気込んで追いかけてったけど、さ。なんか、顔見たら、何も言えなくなって……そしたら、向こうがいきなり頭下げた。蕾夏の知り合いだってこと、黙ってて悪かった、って」
 「ふーん。良かったな」
 「うん」
 「なら、なんでそういう顔なんだ」
 面白くなさそうな、少し落ち込んだような顔の奏に、瑞樹がそう言うのは当然だろう。
 「…なんか、自分の容易(たやす)さに、ちょっとへこむ」
 「容易さ?」
 「だって、蕾夏があんな目に遭ったのに―――オレに軽蔑されるのが怖かったから黙ってた、って理由聞いて、あっさり納得するなんてさ」

 お前なら言えたか? と訊かれ、初めて、自分ならどうしたかを考えた。
 平然とした顔に慣れた佐野でも、何を訊かれても「ただのクラスメイト」ととぼけ切る自信はなかったほど、佐野にとってあの事件は重い十字架となっていた。1つ認めれば、そこからガラガラ崩れそうで―――黙っているしかなかった。ポツリポツリと告げられた佐野の本音を聞いて、奏は、悔しいけれど認めるしかなかった。きっと自分も、言えなかっただろうな、と。
 佐野が茶化して際どい推理をぶつけてきた時だって、動揺し、半ば震えながらも肯定はできなかった。それは、自分の犯した罪に対する恐れと、異国の地で見つけた気の合う友人に、自分の最も醜い傷を見せたくはない、という思いのせいだ。
 決して、何も知らずに自分を慕ってくる奏を嘲笑っていたとか、黙っていることで現在の蕾夏についてさり気なく聞き出そうとしていたとか、そういう魂胆があった訳ではない。ただ単純に―――怖かった。信頼を得つつある友人の想い人に、過去、自分が何をしたか…それを知られることが。
 奏は、その気持ちを理解し、信じ、納得した。
 そしてあっさり―――「分かった、もういい」と言ってしまったのだ。

 「納得したのは、お前が佐野を理解したからだろ」
 瑞樹は、特に表情も変えずにそう言って、また写真に目を落とした。
 「でも…蕾夏のことを考えるとさ」
 「お前と佐野の問題に、蕾夏は関係ない」
 「……」
 「蕾夏は、自分が受けた傷の分は、自分の手でちゃんと決着つけてる。お前も見ただろ?」
 「…見たけど…」
 それでもいまいち納得いかない顔をしている奏に、瑞樹は小さくため息をつき、軽くその顔を睨んだ。
 「俺が言ったこと、まだ分かってねーのかよ」
 「え?」
 「蕾夏が受けた傷に対する制裁は、蕾夏自身にしか下す権利はない。俺には、俺が受けた傷に対する権利しかない。…そう言っただろ」
 「……」
 「何のために、あの場にお前を呼んで、蕾夏が佐野と決着つけるとこを見せたと思ってんだ」
 ―――そ…っか。
 そうだったのか。
 今になって、やっと納得がいった。自分が何のために呼ばれたのか。
 奏には、奏の権利しかない。信頼を裏切られたという憤りに対する権利しか。それは、瑞樹に言われてある程度理解したつもりでいたが―――感情の部分ではまだ、蕾夏の受けた傷に対する憤りの方が大きすぎて、とても分けて考えることができなかった。
 だから、瑞樹と蕾夏は、あの場へ奏を呼んだのだ。蕾夏と佐野の問題と、奏と佐野の問題。その2つを、きっちり分けさせるために。
 蕾夏の受けた傷の分を、蕾夏自身の手で決着をつける瞬間を目の当たりにして―――奏は、自分でも気づかないうちに、蕾夏の問題が解決したことを理解していた。
 だから、あの時、素直に頭を下げる佐野に、「もういい」と言えた。その言葉で決着をつけたのは、あくまで奏と佐野の間にあった問題―――そういうことだ。
 「…なんだ。そっか」
 理解したら、なんだか、一気に気が抜けた。
 実は密かに、自分の事を結構酷い奴なんじゃないか、なんて考えてしまっていたが…分かってみれば、あっけない。あまりにもあっけないから、逆に理不尽な不満が湧いてくる。
 「そういう魂胆で呼んだんなら、最初からそう説明してくれりゃいいのに…」
 そんな風に、奏がぶつぶつと文句を言っても、瑞樹は肩を竦めて写真をめくるばかりで、まるで取り合う様子はなかった。甘えるな、自分で正解に辿りついてみせろ、といったところなのだろう。

 瑞樹にしろ蕾夏にしろ、結構厳しい。
 結構厳しくて―――…そして、限りなく優しいのだ。2人揃って。

 ―――まいったな…。
 知らず、胸の痛みを伴う複雑な笑みが浮かぶ。

 『瑞樹を理解できて、瑞樹に必要とされている自分が、一番好き。だから―――私は、もう後悔しないの』

 あれほど痛い思いをしたというのに…想いは、毎日、増えるばかりで。
 たとえ正気でいられなくても、たとえその手が血に染まっていようとも、瑞樹と出会えた自分が好き。そう言いきる蕾夏が―――蕾夏にそう言わしめる瑞樹が、眩しくて、羨ましくて、愛しくて、…妬ましくて。こんなギリギリの時になってもまだ、ここに残ることも、全てを切り捨てて帰ることも決意できずにいる。
 …何をやっているんだろう、自分は。
 2人との、新しい関係―――それを見つけるために来たというのに、まだ見つけられない。この3ヶ月、これっぽっちも進歩がなかったような気がして、一体何しに来たんだろう、と虚しい気分になる。

 「今度は何にへこんでるんだ」
 正直すぎる顔が災いして、落ち込みが即座に見抜かれてしまう。呆れたような瑞樹の声に、奏は不貞腐れたように瑞樹を軽く睨み、ふいっ、とそっぽを向いた。
 そんな奏の反応をどう解釈したのか、瑞樹は、暫し奏の顔を眺め―――やがて、また写真に視線を落としながら、ぽつりと呟いた。
 「―――手紙のことなら、悪かった」
 「……」
 手紙?
 一瞬、何のことか分からなかった。が…、瑞樹と奏の間で“手紙”といえば、1つしか思い当たる節がない。北海道から持ち帰った、あの手紙―――三田典子に託された、瑞樹の母からの手紙だ。
 「お前がわざわざ、北海道まで行って持って帰ってくれたのに―――すぐ読んで、結果を話してやるのが筋だってのは分かってたのに、そうしなかった」
 「…そりゃ…、仕方ないだろ。蕾夏があんな状態だったんだから」
 いくら瑞樹だって、人間には処理能力の限界がある。あの状態で自分のことまで抱え込んでしまえば、瑞樹はパンクしてしまっただろう。それは勿論、持ち帰ったその時は、今すぐ手紙の中身を改めて、倖がどんな言葉を残したのかを教えて欲しいと思ったが―――時間が経ってみれば、瑞樹の選択は至極当然だと今は分かる。
 「…で、読んだのかよ」
 少し気遣わしげに奏が訊ねると、下を向いた瑞樹の目が僅かに逸らされた。まだ読んではいないらしい。
 親の過去なんてどうでもいいだろ、と苛立つ部分はあるが…最近、奏も少し、瑞樹の気持ちが分かってきた。自分の時のことを思い出せば、それは案外簡単に理解できるものだった。
 自分だって、時田が実の父だと分かった時、なるほど、と納得しつつも色々と背景を想像して複雑な心境になった。あのサラ・ヴィットが母親だと分かった時には、憎からず思っていた女が自分達を捨てた張本人だったという事実に打ちのめされ、激しくサラを憎んだ。
 まるで一緒に過ごした記憶のない“両親”に対してでも、奏の感じるものは複雑で微妙なものだ。ましてや、瑞樹にとっての“母親”は―――到底、一言で説明のつく存在ではないだろう。だから、あの手紙を読むのを躊躇する瑞樹の気持ちも、実感は伴わなくとも、無理もないことだとは思えた。
 「―――明日の夜、読むことに決めてる」
 ため息混じりにそう言って、瑞樹は写真をテーブルの上に置いて顔を上げた。
 その表情は、ある種の覚悟を決めた顔―――この前、佐野と会う前の蕾夏が見せたのと、どこか似通ったものを潜ませた表情だった。
 「明日、写真を提出すれば、今回の大役もやっと終わりだからな。夜、家に帰ってからでも読むことにしてる」
 「…そっか」
 自分が奔走したことが無駄にならずに済むことに、奏は素直に、良かった、という笑みを浮かべた。
 「蕾夏も一緒に読むんだろ?」
 奏が当然のようにそう言うと、瑞樹は、一瞬目を丸くし、それから苦笑を漏らした。
 「いや。俺1人」
 「えっ」
 「ていうか、なんで蕾夏と一緒に読むと思ったんだ、お前」
 「…なんで、って―――…」
 瑞樹にとっての母親は、鬼門だ。手紙の内容如何によっては、精神的に大変な状態に陥るかもしれない。
 あの日記の過激さや、決して瑞樹以外の人間には読ませたくない、という三田典子の言葉から察するに、手紙がかなりショッキングな内容を含んでいるらしいことは、なんとなく分かる。奏でもそれが察せられるのだから、当然、蕾夏もとっくにその可能性を考えているだろう。
 「…蕾夏なら、あんたがどんな精神状態になってもいいように、傍についていそうな気がしたから。あんたが蕾夏に必ずついてたように、さ」
 ちょっと不服そうに奏が言うと、瑞樹は苦笑を自嘲の笑みに変え、コーヒーカップを手に取った。
 「この年齢で、手紙の1本も1人で読めねーんじゃ、情けないだろ」
 「でも…」
 「大体、俺は蕾夏に依存しすぎなんだ」
 そう言ってコーヒーを口に運び、一口飲む。カップから唇を離した瑞樹は、同時に、小さなため息をひとつついた。
 「―――苦しかったり、やりきれない気分になると、つい蕾夏に逃げたくなる。一緒にいると、とりあえず、蕾夏以外のことはどうでもよくなるからな。俺は」
 「……」
 「…依存しあって生きるのは、楽だと思う。でも…まずは、1人で立てないとな」
 「―――…」
 瑞樹の呟きに、奏の眉が、訝しげにひそめられる。が、瑞樹はそんな奏に気づいていない様子だった。
 「あ…あのさ、」
 怪訝な顔をした奏が、何事かを口にしようとした、その刹那。

 「瑞樹!」

 明るい声が飛んできて、瑞樹も奏も、弾かれたように声の方に目を向けた。
 予定の時間より少し早く到着した蕾夏が、2人に向かって手を振っていた。ニッコリと向けられた笑顔に、2人も自然と、口元が綻ぶ。
 ―――やっぱり、どことなく変わったよなぁ…。
 この前感じたのは、単に久しぶりに会ったせいではなかったらしい。1枚脱皮したみたいな輝きは、3日空けただけの今日も、やはり同じだ。夕暮れの風に髪を靡かせながら駆け寄ってくる蕾夏に、奏は暫し見惚れてしまった。
 「早かったな」
 「うん。取材が結構順調に終わったの」
 穏やかな笑みを見せる瑞樹の隣に腰を下ろし、蕾夏はそう言って、肩に掛かった髪をはらったが。
 「……」
 「? あれ、奏君、どうかしたの?」
 「……いや、なんでもない」
 陰鬱な顔をした奏に、蕾夏が不思議そうな顔をする。が、隣に座る瑞樹は、奏の心境をそれなりに察してか、意味深な苦笑を見せた。
 ―――チキショ…腹たつ。
 腹がたつけれど、2人並んで座られてしまうと、思い知らされてしまう。ああ、似合うなぁ、と。
 外見の問題とか、そういうものとは違う―――たとえば、オーラのようなもの。2人並ぶと、1人ずついる時より、何故かしっくりくる。まるで、2人で1セット、とでもいうように。
 「お店の予約時間まで、まだ少しあるよね。どうする?」
 予定より30分も早く到着してしまったことを気にして、蕾夏が腕時計で時間を確認しながら訊ねた。
 「そうだな―――ちょっと電話してくる。早めに行けるようなら、このままレジ寄って来るから」
 そう言って、席を立った瑞樹が、当然とでも言うように伝票を手に取ったのを見て、奏は慌てて立ち上がった。
 「え…っ、いや、オレが払うって!」
 瑞樹と顔を合わせるたび、毎回奢られている立場なので、結構肩身が狭いのだ。伝票をひったくろうと、思い切り腕を伸ばしたが、時既に遅し。伝票が指先を掠るだけで精一杯だった。
 「また次の機会な」
 勝ち誇ったような笑みと共にそう言うと、瑞樹は悠々とテーブルの間をすり抜け、店の入り口脇の方へと消えてしまった。
 ―――ったく…、次の機会って、いつだよ。
 日本に残ると確信してやがるな、と考え、ちょっと心の中で毒づく。どのみち、一旦はイギリスに戻らなくてはいけないから“送別会”は開くが、これが今生の別れとは、瑞樹は1パーセントも考えていないらしい。奏自身は、日本で仕事はしない、と決めたら、本気で二度と会わない覚悟をする気でいるというのに。
 「大丈夫、気を遣うことないよ。コーヒーの4、5杯で生活難になるほど、今の瑞樹、貧乏じゃないから」
 そんな奏の心の内を知らない蕾夏が、不服そうな奏に、そんな的外れなフォローを入れてニッコリ微笑む。
 誰のせいで、一番心が揺れているのか―――それを全然自覚していないらしい蕾夏に、奏は大きなため息をつき、軽く頭を押さえた。

 「…あ、そうだ」
 こめかみをグイグイ押さえたら、少し眩暈と頭痛も治まった。奏はやっと、向かいに座る蕾夏に目を向けた。
 「蕾夏、成田から聞いてる? 手紙のこと」
 「手紙?」
 突然向けられた話題に、一瞬、頭が追いつかなかったのだろう。蕾夏は、キョトンとした顔をした。
 「いや、なんか…明日、読むらしいから。三田さんから預かった手紙」
 「……ああ、そのこと」
 やはり、聞いていたようだ。蕾夏は、丸くしていた目を細め、小さく頷いた。
 「うん、瑞樹から、大分前に聞いた。“Clump Clan”の仕事が納め終わったら、1人で読む、って」
 「…なあ。1人で読ませて、大丈夫? あいつ」
 「え?」
 「あんまりショッキングな内容だと…さ。1人じゃ耐えられないんじゃないかな、とか思って。いや、あいつが強いのは知ってるけど―――やっぱりほら、あいつにとってあの母親、ちょっと特殊な存在だから…」
 自分がそんな心配をするのも変だよな、と頭の片隅で思いながら、気まずそうにボソボソと告げる。すると蕾夏は、ちょっと意外そうに目を見張った。
 「奏君、そんな心配をしてたの?」
 「う…、ま、まあ、オレが心配しても、しょーがないんだけど」
 「…やっぱり奏君て、千里さんの息子さんなんだねぇ…」
 「……」
 感心したように蕾夏が呟いた言葉に、心臓が、小さく跳ねた。
 前に、瑞樹にも、同じ事を言われた。そして、このセリフは、奏にとっては最大級の褒め言葉なのだ。どうしても、照れたような顔になってしまうのが止められない。
 そんな奏の反応に、微笑ましそうな笑みを見せた蕾夏は、小さく息をついた。
 「―――私もね、ほんとは少し、心配なんだ。瑞樹、あの日記を1人で読んじゃった時も、1週間以上1人で抱え込んで凄く苦しんでたから。でも…瑞樹が1人で読みたい、って言うなら、その気持ちを尊重しようと思って」
 「…オレから見ると、単に、1人でも大丈夫だ、って意地張ってるとしか思えないんだけど」
 「あはは、手厳しいなぁ、奏君も」
 ―――見ちゃったからな。弱くなった時の成田を。
 多分、蕾夏は知らない、瑞樹の姿―――曖昧な世界を漂う蕾夏の傍らで、食べることも眠ることも忘れたみたいに、じっと押し黙って手を握り続けていた瑞樹の、別人みたいな後姿。日頃、あれだけ強い瑞樹でも、事態によってはあれほどに打ちのめされるのだ。そして、瑞樹をあそこまで叩きのめせる人間は、蕾夏と―――多分、倖だけだ。
 蕾夏も、それは分かっているのだろう。笑いながらも、その目は何も心配していない目ではなかった。不安を抱えながらも、あえて瑞樹の望むとおりにしよう、ということらしい。
 「奏君の言うことももっともだけど―――瑞樹の心配は、私の比じゃなかったと思うから」
 「……え?」
 「…佐野君にもう一度会って話をしたい、って言った時、瑞樹も凄く、悩んだと思う。佐野君に“思い切りひっぱたいて”って言った時も、本心では止めに入りたかったと思う。私、瑞樹と違って、ほんとに瑞樹に依存しっぱなしで来てたから。1人で立たなきゃ、って思っても、つい甘えちゃう癖ついてたから―――瑞樹の不安は、私とは比べ物にならなかったと思うの」
 「……」
 「でも瑞樹は、私を信じて、黙って見守っててくれたでしょ。私と同じで、瑞樹も、2人の方が楽なのは分かってても、あえて1人でやり遂げたい、って思ってるんだと思う。瑞樹はその気持ちを尊重してくれたんだから、私も尊重しなきゃ、ね」
 「―――…」

 先ほど、瑞樹から聞いた言葉とシンクロする蕾夏のセリフに、奏の眉が、また怪訝そうにひそめられる。
 微妙な表情で黙っている奏に気づき、蕾夏は不思議そうに首を傾げた。
 「どうかした?」
 「…え、いや…」
 奏の眉が、ますます寄せられる。何かを考えるように少し視線を逸らした奏は、暫しそのままテーブルの隅を見つめ―――やがて、目を上げた。
 「―――さっき、成田も似たようなこと言ってたけどさ」
 「うん…?」
 「1人で立たなきゃ、って、何?」
 意味不明、といった風に眉を寄せる奏に、蕾夏は一瞬目を見開き、それから、困ったような顔をした。
 「何、って…うーん、相手に依存せずに、1人で耐えたり、解決したりすること…、かな」
 「……」
 「辛くなったら、すぐ瑞樹に縋って、頼って、ってしてたら…なんか、一緒にいるのは、1人じゃ辛いから、って理由になっちゃいそうで。だから、2人でいるより前に、まず、1人1人が自分の足でしっかり立てるようになりたい、ってこと。…分かんないかな、抽象的すぎて」
 「…いや、意味は、なんとなく分かるけど…」
 分かる、と言いつつ、奏の顔はやっぱり怪訝なままだった。首を捻った奏は、思い切って、感じたままを蕾夏にぶつけた。
 「―――ていうかさ。あんた達、もう十分、1人ずつ立ってるだろ」
 「…え?」
 「あんた達が自立してないことになったら、他の大多数の人類が“自立できてない奴ら”になっちまいそうな位、あんた達って自立してる気するんだけど」
 「…そう、かなぁ…?」
 今度は、蕾夏が首を捻る番だった。腕組みをした蕾夏は、うーん、というように首を傾げた。
 「あんまり出来てない気、するんだけどなぁ。今回だって私、瑞樹に頼りきっちゃってて、1人じゃこうやって戻ってこれたかどうか怪しい位だったし…」
 「そうじゃなくてさ」
 もどかしげに蕾夏の言葉を遮った奏は、真っ直ぐに蕾夏の目を見据えた。
 「ずっと、1人で立ってきただろ。蕾夏も、成田も」
 蕾夏の目が、少し大きくなった。
 「小さい時から―――母親にネグレクトされて叩かれてた時からずっと、成田、1人ぼっちで全部解決してきたんだろ? 蕾夏だって、ヒロとのことがあってからずっと、痛みも孤独も全部1人で耐えてきたんだろ?」
 「……」
 「これ以上、何をどう自立しろって言うんだよ。もう十分だろ」
 「―――…」

 奏の言葉に、蕾夏は、驚いたように目を見開いたまま、黙っていた。
 まるで、解けなかったパズルが突然解けたみたいな…そんな目をしたまま、動かない。予想外の蕾夏の反応に、何か変なことでも言ってしまっただろうか、と焦りがせり上がってきてしまう。
 「あ…あの、蕾夏?」
 「―――…え?」
 「オレ、なんか変なこと言ったかな」
 恐る恐る、奏が訊ねると、蕾夏はパチパチと瞬きを数度繰り返し、キョトンとした目を奏に向けた。
 そして、暫し奏の目を見つめた後―――ゆっくりと、まるで蕾がほころぶような笑みを、ふわりと浮かべた。
 「―――ううん、なんでもない」
 「……」
 「ありがとう、奏君」
 蕾夏の笑みに魅せられていた奏は、突如向けられた感謝の言葉に「は?」という風に眉を寄せた。
 「…別に、お礼言われるようなこと言った覚え、ないんだけど」
 「ううん。今の話だけじゃなくて、この前からのこと、全部」
 「え?」
 「たくさん、助けてくれたでしょ。瑞樹と私のこと」
 「……」
 ―――オレが?
 大したことなどした覚えがない奏は、やっぱり、要領を得ない顔を返すしかなかった。そんな奏を見て、蕾夏はくすっと笑い、テーブルに頬杖をついた。
 「瑞樹も言ってた。奏君がいてくれてよかった、って」
 「…成田が…」
 「奏君がいたことで、瑞樹は、どうでもよくなっちゃう部分をフォローしてもらえたし、倖さんの問題も諦めずに済んだし。それに、奏君と話をしたおかげで、冷静さをキープできた部分もあった、って言ってた。…奏君の時のことでどれだけ後悔してても―――本音では、佐野君のこと、それこそ殺してやりたいって位に思ってたから、瑞樹も」
 「……」
 「瑞樹は、なかなか本音を表に出さない人だから。もの凄く奏君に感謝してても、その一部分しか見せないと思うけどね」

 思わず、振り返る。
 瑞樹は、ちょうどレジのところにいた。どうやら、この後予約を入れていた店に無事時間を早めてもらえたらしい。
 ―――知らなかった。
 気弱になっていた時、確かに「お前がいてくれて助かった」とは言ってもらえたけれど―――それは、アフターピルの話とか、食事の話とか、そういう現実的な部分だけかと思っていた。なのに―――…。

 「奏君は、この先、日本でやっていくの?」
 蕾夏に問われ、奏は、瑞樹に向けていた視線を、再び蕾夏に戻した。
 「それとも…やっぱり、ロンドンに戻るの?」
 「…まだ、迷ってる」
 「そう。…もし、こっちに残るなら―――私達は、喜んで歓迎するから」
 ドキン、と、心臓が跳ねた。
 頬杖をついた蕾夏は、奏の迷いの理由を見抜いたように、柔らかく微笑んだ。
 「瑞樹と私、2人一緒に、奏君のことは大事に思ってる」
 「……」
 「奏君は、私達の信頼できる、大事な友達なの。だから―――また一緒に仕事できる日を、楽しみにしてるから」
 「―――…」


 ―――信頼できる友達―――…。

 『蕾夏に許しを請うことより、瑞樹の信頼を得ることを考えなさい』

 そんな母の言葉が、脳裏に浮かんだ。
 涙が、溢れてきそうだった。
 あと少し、瑞樹が戻ってきて、ポンと肩を叩くのが遅かったら―――蕾夏の前であることも、大勢の人の目があることも忘れて、本当に泣いてしまっていたかもしれない。


 1万キロを越えて、自分の居場所を見つけに来てから、3ヶ月。

 奏はやっと、ここに、自分の居場所を見つけられたような気がした。


***


 電話の呼び出し音が、受話器から聞こえる。
 灯りを若干落とした、1人きりの部屋。奏は、窓際に置いた椅子の上で膝を抱え、電話が繋がるのを待っていた。
 視線の先には、テーブルの上に置かれたサボテンの鉢植えがある。
 サボテンのてっぺんに、ぽつりぽつりと咲いた赤い花を見て、ちょっと微笑む。瑞樹と蕾夏からこれを貰った時は、花が咲くなんて全然思っていなかったから、数日前、この可愛らしい花に気づいた時は驚いたものだ。

 まだ、恋は、死なない。
 蕾夏を想うと、まだ身の内が震えるほどの渇望を覚える。自分の手には入らないのだと十分理解してもなお…恋は、消えてなくなってはくれない。
 罪悪感も、まだ完全には消えない。いや…完全に消える日など、きっと永遠には来ないのだろう。この恋が、完全には消えないのと同じように。
 あの2人の傍にいると、多分、これからも辛い思いをするだろう。
 手に入らないものを求めて苦しみ、決して自分には立ち入ることのできない世界に嫉妬し、追いつけない存在に自信を失い―――消えることのない罪を思い出しては、胸を痛めるだろう。

 でも。
 でも―――それで、いい。

 呼び出し音は、4回鳴ったところで、途切れた。
 『―――はい』
 少し眠そうな声が、受話器から聞こえる。
 「佐倉さん?」
 『…ああ、なんだ、一宮君? どうしたのよ、こんな時間に』
 時計は既に、午前1時を回っている。健康に気を遣っているらしい佐倉は、とっくに眠っていたのだろう。4コールで電話に出たのは奇跡かもしれない。
 「ごめん。送別会やってもらってたら、この時間になってた」
 『送別会―――そういえば、今週末戻るんだったっけね、向こうに』
 「うん。色々、手続きがあるから、とりあえずは戻らないと」
 『……』
 今の言葉の意味を察して、電話の向こうの佐倉の気配が変わる。あの、ビジネスパートナーを値踏みするような佐倉の目を思い出して、奏は思わず苦笑を浮かべた。

 「―――大事な話がある。明日、時間作ってくれるかな」

 

***

 

 見慣れた部屋が、今日は何故かやたら広く見えた。
 心理的なものだろうか―――そう考えて、瑞樹は苦笑した。

 いつものように、電話台の上に置く。留守番電話は、特に入っていないようだ。いつもなら解除する留守電ボタンを、今日はそのままにして、荷物を床に投げ出した。
 すぐに台所に直行し、冷蔵庫からボルヴィックのボトルを取り出し、蓋を捻じ切る。カクテルバーという選択肢も頭を過ぎったが、それはなんだか卑怯な気がした。第一、瑞樹のレベルでは、冷蔵庫にストックしてあるカクテルバー全部を飲みきったとしても、さして酔いは回らないだろう。
 二口三口飲んで、喉を潤すと、少し気分が落ち着いた。トン、とボトルをローテーブルに置いた瑞樹は、大きく息を吐き出し、ベッドの上に仰向けに倒れこんだ。
 「―――…終わったなー…」
 思わず、口に出して呟く。
 まだ、実際のパンフレットの見本をチェックする仕事が残ってはいるものの、実質、今日が“Clump Clan”の仕事の最終日だった。
 桁違いの契約金に目を回したのが、もう1年も前のことのように思える。あの日から今日まで―――たった数ヶ月の間に、あまりにも色々なことがありすぎたから。でも、何はともあれ…大役を務め上げたのだ。少しぐらい、自分を褒めてやってもいいのかもしれない。
 ―――にしても、驚いたよな。
 『ファッション雑誌の方々から、成田さんを紹介して欲しいって、既に2件オファーが入ってるんですよ。うちに言われても、ねぇ…』
 つまり、“Clump Clan”のポスターを見て、自分の所で写真を撮ってくれないか、という打診が2件入っている、という訳だ。よりによって、ファッション雑誌―――震え上がった瑞樹が即刻断ったのは、言うまでもない。
 ただ―――担当者に言われた言葉だけは、少し、胸に引っかかっていた。

 『成田さんの撮る人物は、なんというか…“温度”があるんですよ。ポートレートも、まるで日常のスナップみたいにナチュラルで飾り気がなくて―――でも、その人の人となりが表に現れた、独特な味のある人物ですよね』

 時田も、以前、似たようなことを言っていた。
 人間が苦手だ、という瑞樹が、何故か魅力的な人物を撮る。それは、瑞樹が人間に対して鋭い感性を持っているから―――その鋭さ故に、人間を苦手だと思う一方で、人間の本質を抉った人物写真が撮れるのかもしれない、と。

 今でも時々、考える。
 初めて家族にカメラを向けた時―――母の目の中に見つけてしまった、あの体の芯まで凍ってしまいそうな暗い感情は、一体何だったのか、と。
 瑞樹がポートレートを撮れなくなった原因―――あの時の、母の目。瑞樹の中では、殺されかけた時の目より、父には言わないでくれと泣いて縋ってきた時の目より、あの時の母の目が一番印象深く残っている。何故あれほどに、母は自分に嫌悪の目を向けたのか…その意味を、今でも時々、考える。
 日記を読み、蕾夏から母の話を聞いて、少し分かった気がした。
 母が嫌悪し、恐れていたのは、瑞樹自身ではない―――瑞樹に、幼い頃の自分を投影し、過去の自分に嫌悪と恐れを向けていたのかもしれない、と。

 過去の母。父も知らない、八代 倖。
 その真実の姿を―――あれを読めば、見つけることができるだろうか…?


 暫し、ぼんやりと、天井を見上げ続ける。
 10分もそうしていただろうか。やがて瑞樹は、寝転がったまま、本棚の上に目をやった。
 ―――前から決めてたことだろ。いい加減、思いきれよ。
 この期に及んでまだ迷いを感じる自分を、心の中で叱責する。蕾夏だって、ああして佐野と向き合い、決着をつけたのだ。もう相手がこの世にいない自分が、何らかの形で区切りをつけるならば―――あの手紙を読む以外、ないだろう。
 たとえ、単なる時候の挨拶や、瑞樹の知る範囲のことしか、そこに書かれていなかったとしても。
 もしくは、読まなければよかった、と後悔するような凄惨な事実が書かれていたとしても。
 日記以外では多分、これが最後の、母の思考―――死を目前にした母の、最期の言葉だ。それを託された人が瑞樹にだけ読ませたいと言うのなら、それを信じて読むしかない。

 弾みをつけて、起き上がる。
 意を決した瑞樹は、手を伸ばし、本棚の上に無造作に置かれていた封筒を手に取った。
 ベッドを下り、ラグの上に座って、テーブルの上のペットボトルを引き寄せる。一瞬、蕾夏のことが頭を掠めたが―――宣言をしたのはかなり前だが、蕾夏のことだ。昨日も何も言わなかったが、きっと今日読むという約束は、きっちり覚えているだろう。今から読むから、なんて意味のない電話をするのは、やめておいた。

 封筒の宛名書きは、この前読んだ日記のものとは、微妙に書体が違っている。が…少し丸みを帯びた柔らかい字は、確かに母の字だ。消印からすると、書かれたのはおととしの10月―――瑞樹が、ロンドンへ行くべきかどうか迷っていた頃だ。
 軽く、深呼吸をし、封筒を開く。
 中から出てきたのは―――とんでもない枚数の便箋だった。横書きのそれは、こんな風に始まっていた。


 ―――三田典子様

 ご無沙汰しています。お元気でしょうか。

 先日、病院の方に送って下さったお手紙、確かに受け取りました。
 長年、不義理を働いている私を最後まで気遣ってくれて、本当にありがとう。けれど、やはりお見舞いはご遠慮下さい。
 私の中で、あなたがいつまでも15歳ののんちゃんのままであるように、あなたの中で、私も15歳のさっちゃんのまま止まっているでしょう。今のこのやつれた姿を、あなたの中の私の最後の姿にはしたくないのです。お互い、15歳のままでお別れしましょう。

 あなたもご存知かもしれませんが、私が侵されている病は、病状の進行と共に記憶も途切れがちになるケースがよくあるそうです。
 幸い、今のところ、私の記憶ははっきりしています。あなたと一緒に歩いた通学路も、あなたの娘さん達の写真の顔も、よく覚えています。けれど、この先、病状が悪化すれば、それらのものも全て忘れてしまう日が来るかもしれません。
 最近、ふと、不安に思うことがあります。
 このまま、全部忘れてしまっていいのだろうか、と。
 私には、忘れてしまいたいことが多すぎます。でもそれらは、みな、決して忘れてはいけないことばかりでした。誰にも話すことなく、内に秘めたまま、もう何年も何年も、毎日のようにそれらのことを考えて生きてきました。このまま私が忘れてしまえば、その全てが私と共に消えます。それで、本当にいいんだろうか―――最近、そんなことを、よく考えます。
 今更、懺悔したところで、私のような者が天国へ行ける筈もありませんが…死を意識するようになって、少しばかりの信仰心が生まれたのでしょうか。
 誰かに全てを告白したい。救われなくてもいいから、誰かに真実を伝えたい。そう、強く願うようになりました。

 本当は、分かっています。
 私が懺悔しなければいけないのは、誰でもない、一樹と瑞樹に対してです。


 突然、自分の名前が出てきて、一瞬ドキリとする。
 父には―――確かに、そうだろう。母は、父を長らく欺いてきた。懺悔せねばならないことは、いくらでもある筈だ。では、自分は―――自分に対して、母が懺悔することなど、あるだろうか? 母の罪の大半を、この身を持って知り尽くしているというのに―――謝罪される覚えはあっても、懺悔される覚えはあまりない。あるとしたら…それが、例の日記の謎の一文のような気がする。
 少し、緊張が走る。瑞樹は、ボルヴィックを一口飲み、便箋を1枚めくった。


 けれど、常に私に真実を語るよう言ってくれていた一樹に、この期に及んで全てを話すのは、卑怯な行為だと思います。彼にはこのまま、何も語らずにおこうと思います。それでいいと、彼は言ってくれる筈です。
 瑞樹は、私の罪の象徴です。彼と向き合う時、私は自分の罪とも向き合わなくてはなりません。その罪を真正面から見つめる勇気が私にあれば、私の人生は、もっと豊かで穏やかなものになっていたでしょう。ましてや、この追い詰められた状況では、ちっぽけな勇気すら持てません。会ってもきっと、何も言えず、お互い目も合わせないままに別れるだけでしょう。
 海晴には、何も話さないと、瑞樹と約束しました。
 窪塚には、仮面を被った顔しか見せたことがありません。

 誰に語るべきかを考えた時、結局、勝手なこととは思いますが、あなたのことしか思い浮かびませんでした。
 何故なら、あなたもまた、私に真実を述べるよう救いの手を差し出してくれた人だったからです。
 頑なに語らず、あなたの友情を欺き続けたことへの償いが、最後に懺悔することで少しでもできるのならば―――そう思い、今、この手紙を書いています。

 たくさんのわがままを聞いてくれたあなたに、これが最後のわがままです。
 あなたが、最後まで読んでくださることを祈って。


 2枚目の便箋は、そこで終わっていた。
 そして、もう1枚めくった3枚目から―――母の、最後の懺悔は始まっていた。

 

 のんちゃん。

 この二十数年、あなたとやりとりした手紙の中で、私は、何ひとつ真実を語らず、あなたを欺いてきました。
 子供のこと、夫のこと、再婚相手のこと……どれも、うわべばかり真実を掠めただけの、私の嘘でした。あなたは既に、それを見抜いていましたが、結局、何度問われても私は答えることができませんでした。
 本当は、全て話したかった。ずっと。
 けれど、私の犯した罪は、あまりに大きすぎて、告白する勇気がもてなかったのです。


 私は、40数年の人生の中で、2つの罪を背負いました。
 死を目前にして、それを、全てを告白します。


 私は、自分がおなかを痛めて産んだ子供を―――瑞樹を、この手で殺そうとしました。

 そして、それよりはるか前―――私は、私の母の命を奪いました。


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