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― 過去からの手紙 -2- ―

 

 夏の、暑い1日だった。

 靴を履き替え、トン、と爪先で地面を叩く。俯いた頬に、切り揃えた髪が張り付いて―――倖は、鬱陶しそうにそれを掻き上げた。

 「さっちゃーん」
 歩き出してすぐ、後ろから名を呼ばれて振り向くと、典子が校舎から駆け出してくるのが見えた。
 「のんちゃん」
 「補習終わったの?」
 「うん。のんちゃんは、部活は?」
 「終わった。一緒に帰ろ」
 「うん」
 セーラー服姿の少女2人は、互いに笑いあうと、並んで歩き出した。

 校庭では、野球部の部員達がキャッチボールの練習をしていて、その周囲を陸上部の選手が走っている。夏休みでも、中学校は生徒の姿が多く見られる。特に体育系の部活は、東京オリンピックの余韻か、なんとなく盛り上がりを見せていた。
 「高坂(こうさか)さん、八代さん、バイバーイ」
 典子と同じ吹奏楽部の数名が、典子と倖の帰る姿を見つけ、2階の音楽室の窓から手を振る。男女入り混じったそれらの顔は、倖とも顔見知りの生徒達だ。典子は、にこやかに彼らに手を振り返したが、隣の倖は、彼らの視線を避けるように目を逸らした。
 典子は、決して太っている訳ではないが、身につけたセーラー服がはちきれるような、そんな10代らしい体つきをしている。ふっくらした頬やはきはきとした声もあいまって、快活で明るい少女、といった印象を誰もが持っている。そんな典子は、平凡な顔立ちながら、学校でも人気のある女子生徒の1人だ。
 一方、倖は、セーラー服の中で体が泳いでしまいそうなほど、痩せて小柄だ。愛らしい顔立ちなので、男子生徒の中には密かに興味を持っている者も結構いるらしいが、倖は自分の外見にコンプレックスを持っていた。
 『倖は小さい頃から好き嫌いが多くて、背も全然伸びなくて』
 昔から、母がそう言ってため息をつくのを何度も聞いてきた。友達になった典子を見て「高坂さんの娘さんと並ぶと、まるで姉妹ね」と母が言ったのも1度や2度ではない。
 健康的で、明るくて。典子は、倖にとって、大好きな友達であると同時に―――羨望と嫉妬の対象でもあったのだ。

 「昨日ねぇ、お父さんの同僚の人が遊びに来て、トランジスタテレビ買った、って自慢してたんだ」
 隣を歩く典子が、少し羨ましそうな口調で、そんなことを言った。
 「持ち運べるやつ?」
 「うん」
 「へええぇ…、凄いねぇ」
 やはり羨ましそうに相槌を打つ倖の家には、テレビはない。といっても、テレビのある典子の家より極端に貧乏な訳ではない。母が、そういう方針なだけだ。
 「のんちゃんちも、買うの? トランジスタテレビ」
 「まさかぁ。テレビだって月賦でやっと買った位だもん。その人、単身赴任で札幌に来てるんだって。ほら、今流行りのサッチョン族ってやつ。埼玉の実家にもテレビがないから、お盆や正月はトランジスタテレビ持って札幌と埼玉を往復するんだって。かっこいいでしょ」
 「かっこいい。私も働くようになったら、そんなの買おっと。狭い家でも、持ち運びできるテレビなら置けるよね」
 「あたし達が社会人になる頃には、もっともっと小さいテレビが出来てるよ、きっと」


 昭和40年。
 遠く離れたベトナムの地では戦争がまた起きて、それでも日本の若者は、アイビールックに身を包み、ビートルズに熱を上げ―――戦後から高度経済成長へ、時の流れが急激に速まっていった時代。
 15歳の八代 倖は、そんな時代に生きていた。

 一見、今時の少女らしい明るさを見せて。

 その裏で―――たくさんのどす黒い感情を、密かに隠し持ちながら。


***


 そもそも、結婚自体が間違いだったのではないか―――父と母について、倖はそう考える。

 比較的裕福な旧家に生まれた母とは対照的に、父は素性の知れない人物だ。
 貧しい家に生まれ、10歳の時、横浜の写真館に養子に出され…「秋本」という苗字と引き換えに、実の両親や兄弟との縁は途切れた。戦争のさなかに養父母をも失い、生き残るためにどんな生活を送ってきたかは定かではないが―――戦争が終わり、母と出会った時点では、父は既にカメラマンとして活躍していた。
 天涯孤独、実の親も定かでない若造との結婚を、母の実家が許すわけもなかった。倖を身篭ったことで、渋々了承はしたものの―――過去に2度訪れた母の実家を、倖は本能的に嫌っていた。祖父母や叔父・叔母が見せる侮蔑の目を、幼いながらに感じ取っていたからだろう。

 そういう経緯があるから、母にも、意地があったのだと思う。
 でも、それ以上に―――母の方が、より多く、父を愛してしまったのだと思う。
 いや…、愛なんて陳腐な言葉は似合わない。倖が感じたままに表現するなら、執着心―――父の母に対する執着心より、母の父に対する執着心の方が強かった。つまりは、そういう事だと思う。

 倖の知る父は、一言で言うなら“仕事人間”だった。
 決して家庭を蔑ろにしている訳ではないが、家の中で彼を見ることは稀なこと―――仕事が面白いくらいに順調に行っていて、夢中になっている時期だったせいもあるだろう。家族に恵まれない半生を送ってきたから、家族というものへの憧れはそれなりに持ち合わせていた筈の父も、撮りたいという欲求には勝てず、家族より、健康より、カメラを優先していた。
 倖は、父親とはそういうものだと思っていたので、それを寂しいとは感じなかった。それどころか、寡黙で、ハンサムで、静かな自信に満ちた父の風貌を、娘として密かに自慢には思って満足していた。
 けれど―――母は、寂しかったのだろう。
 その寂しさを紛らわせようとするかのように、母は倖を溺愛した。

 …いや、そうではない。
 溺愛しているのだと、倖はそう信じていた。

 ―――あの日までは。


 父が目を患い、仕事を失って酒に溺れるようになった時。不思議なことに、最初、母は少し嬉しそうに見えた。
 まだ10歳にもならない倖には、その心理はよく分からなかったが、多分―――母は、カメラに嫉妬してたのだと思う。父の突然の不幸は可哀想だし、家計のことを考えると深刻な問題だが、それ以上に、自分の孤独を埋められる事の方が、母には重要だったのだろう。
 母は、嬉々として父の世話を焼き、嬉しそうに父を励ましていた。
 そして、その分だけ、倖に対する関心は薄れていった。

 倖はこの時までずっと、母の“人形”だった。
 礼儀作法から勉強、友人関係、学校の教師、好き嫌い、果てには外見に至るまで―――可愛いお人形さんとして、母に世話を焼かれ、母の言う通りに振る舞い、それを鬱陶しいと少し思いつつも、さして疑問も感じずにいた。
 より母の言う通りの子供になろう、より母に愛される存在になろうと、盲目的に母を信じ、母に従ってきた。

 それが、母の愛情だと思っていたから。
 母は、倖を愛しているからこそ口うるさく言うのだ。その証拠に、母はいつも「さっちゃんのためよ」と言うではないか。朝から晩まで、倖のことしか見ていないではないか。
 私は、愛されている―――倖は、母親の愛情を信じて疑わなかった。

 それが、あの瞬間、崩れた。

 平手を振り上げる父から母を庇おうと、必死の思いで飛び出した時。
 邪魔するな、子供は引っ込んでろ、と父に怒鳴られ、腹いせのようにその平手を頬に振り下ろされた時。
 母は、倖を助けようとはしなかった。
 父の目が倖に向いている隙を見て、部屋の隅っこに逃げ込み、体を丸めて震えていたのだ。

 それから、約2年間―――父は、突然降りかかった己の不幸を忘れようとするが如く、酒に溺れた。
 親に手をあげられたことなど1度もなく、戦時中も比較的苦労を知らずに暮らした母は、あのたった1度の父の暴力に、すっかり恐れをなしてしまっていた。母は、もう父を励ますことはしなくなった。父が荒れてくると、さりげなくその場を離れて、どんな愚痴もどんな泣き言も耳に入っていないようなフリをするようになってしまった。
 憤りをどこにもぶつけられなくなった父は、物に当たり、そして倖に当たった。
 それは、徹底的な虐待というよりは、破れかぶれな暴力だった。それでも、長身な父が手加減なく手をあげれば、小さな倖など1発で部屋の隅まで吹っ飛んでしまう。それが、一晩に2度3度と繰り返されると、時には気を失うことさえあった。

 そんな父の暴力を、母は青褪めた顔で、黙って見ていた。
 そんな倖の痛々しい姿を、母は強張った顔で、黙って見ていた。
 あの瞬間に崩れたものが―――1日、1日、更に崩れ落ちて見えなくなっていくのを、倖は感じた。

 愛されていた訳ではなかったのだ。
 ただ、父に顧みてもらえない寂しさを紛らすための、お人形遊びの人形に過ぎなかったのだ。
 自分を甘やかしてくれた両親の反対を押し切ってまで貫いた結婚が、失敗だったとは意地でも認めたくなくて―――その唯一の拠り所として、倖を「いい子」に育て上げて、反対した親族達を見返したかっただけなのだ。

 倖がそう理解できたのは、父が自分の堕落した姿に気づき、なんとか立ち上がろうとあがき始めてから。
 父に対する思いも、母に対する思いも、徹底的に破壊され―――ただ、痛めつける者とそれを黙認する者へ対する「殺意」だけしか残っていない状態になってからだった。


 酒乱状態から目覚めた父は、3年間、歯を食いしばった。
 慣れない仕事に苦労し、職を転々としながらも、なんとか新しい道を見つけようと、必死にもがいていた。
 後悔に打ちひしがれ、倖の前でもうな垂れたままでいる父は、かつての自信に満ちた父とは別人のようだった。ついこの前まで、酒の力を借りて倖を殴り倒していたなんて信じられないほどに、その姿は、弱々しかった。
 そんな父の姿を、3年間、目の当たりにし続けて―――倖は、一度は「殺してやりたい」と心の底から憎んだこの男を、何故か、哀れに思った。
 中学生になり、人間の弱さとか、大人だって完璧じゃないんだ、なんてことに少しずつ気づき始めていたからだろうか。到底、許したり、かつてのような思慕の念が戻ったりすることはなかったが、それでも―――情けない、という憤慨と、気の毒に、という憐れみが半々といった感じだった。時には、申し訳なさそうな父の顔を見て優越感を覚えることすらあった。

 その一方で―――母への思いは、冷たく凍ったままだった。
 愛されていると信じてきた分、その信頼が粉々に砕かれたショックは、父の暴力以上の衝撃だったのだろう。同じ弱い人間と分かっていながらも、父には感じられた憐れみも、母に感じることはできなかった。
 母が、まるで暴力を黙認していた時期を取り繕おうとするかのように、優しい態度に出れば出るほど―――怒りが、心の中に蓄積していって。
 「ごめんね、さっちゃん、本当にごめんなさい。お母さんが弱かったばっかりに…」
 泣いて謝罪する母を、どうしても、許せない。どうせ口先だけだ、また同じ事が起きれば、この人は、自分可愛さに平気で娘を危険に晒すだろう――― 一度裏切られた信頼は、もう取り戻せそうになかった。


 離婚を決めたのが、父なのか、母なのか。
 母が、父の愛を得ようとすることを諦めたからなのか、それとも、父が、自らの罪の清算に母に自由を与えたのか―――その辺は、いまだによく分からない。
 何にせよ、離婚も、どちらが倖を引き取るかも、倖が決めた訳ではないことだけは確かだ。

 「…すまなかった」
 最後の日。あんなにも倖を叩いた筈の父は、まるで体の半分を引き裂かれるような辛そうな表情で、倖の体をぎゅっと抱きしめた。
 「どこにいても、お前の幸せを祈ってるよ、倖」
 どうか、元気で。
 その言葉を残して父は去り―――倖は、母と2人暮らしになった。


***


 「さっちゃん」
 心配そうな典子の声に、倖は、ハッとして我に返った。
 慌てて典子の方を見ると、眉根を寄せた典子が、不安げな視線を倖に向けていた。去年、倖の両親が離婚してからというもの、時折典子が見せる類の視線だ。
 「え…っ、な、何?」
 「また、ぼーっと考え事しちゃって…。何かあったの?」
 典子が想像する“何か”は、言葉にしなくても分かる。家族のことで何か、という意味だ。それが分かっているから、倖は、それ以上典子が踏み込む前に、笑顔を作って首を横に振る。
 「ううん、大したことじゃないの。補習で、どうしても分かんなかった問題あったから、そのことぼーっと考えてただけ」
 「ほんと?」
 「うん。…あ、ねえ、のんちゃん。数学のテキスト、どの位までやった?」
 「宿題の? うーん…まだ3分の1位」
 「明日って部活ないんだよね。一緒にやらない?」
 「ええー、どうせなら遊ぶ方がいいなぁ」

 ―――他愛ない。
 物思いを誤魔化すべく倖が振った話題に、あっけないほど簡単に乗ってしまった典子の笑顔に、冷めた感情が湧いてくる。

 今、倖が考えていたのは、補習のことでも、夏休みの宿題のことでもない。
 昨日、偶然見てしまった、母の姿のことだった。
 明け方―――夜の仕事から帰った母は、倖が寝付いているものと思って、こっそり1枚の写真を引き出しから取り出し、随分長い時間、それに見入っていた。
 セルフタイマーを使って、父のカメラで撮ったという、家族3人の写真―――倖がまだ赤ん坊だった頃の…恐らくは、まだ幾分かの幸せが秋本家にあった頃の写真だ。
 最近、母は、ああして古い物をよく眺めるようになった。離婚して約1年…少し生活が落ち着いてきたところで、昔を懐かしんだり後悔したりする余裕が、ほんの少しだけ心に出来たのかもしれない。父の名を呼んですすり泣く声も耳にしたことがある。母は―――まだ、父に恋をしたままなのだ。
 可哀想、という感情は、倖には生まれてこなかった。
 職を転々とする父を詰る母も見てしまったし、自暴自棄になった父も見てしまった。破綻すべくして破綻したんだ、としか思えない倖には、当然の結果に涙する母は、ただ愚かとしか言いようがなかった。

 ―――何だったんだろ。うちの家族って。
 恋や独占欲はあっても、愛はなかったのかもしれない。そんな、ちょっと哲学的なことを考えて、倖は殺伐とした気分になっていたのだ。

 「じゃあ、明日、お昼過ぎにのんちゃんちに行くから」
 「うん、分かった。また明日ね」
 「また明日」
 いつも別れる十字路に差し掛かり、倖と典子は、そう言って笑顔で手を振り合った。
 が、倖が少し歩き出したところで、突如、典子が背後から呼び止めた。
 「―――さっちゃん!」
 少し驚き、振り向く。そこには、心底心配げな様子の典子の、心細そうな表情があった。
 「何かあったら、真っ先に、あたしに相談してね」
 「……」
 「他の子じゃなく、絶対、あたしね。幼馴染なんだから」
 「―――…うん」
 眩しげに目を細めた倖は、どこか寂しげな、けれど、幼馴染の好意だけは素直に受け止めた、そんな笑顔を典子に返した。
 「ありがと。心配してくれて」
 「ん。じゃ、バイバイ」
 いつもの明るい笑顔になって手を振った典子は、くるん、と制服の裾を翻して、歩き去って行った。
 そんな典子の背中を見送って―――倖は、小さく息をついて、やや重い足取りで家路についた。

***

 ただいま、と言いながら、ドアを開けようとした。
 が、いつもならすんなり開くドアが、この日は開かなかった。
 「―――…」
 ドアノブを握ったまま、倖は、訝しげに眉をひそめた。
 学校を出たのが3時頃だったから―――今は多分、3時半ちょっと前だろう。普段なら、母が確実にいる時間だし、倖の帰宅時間は母も大体把握しているので、その頃に合わせて玄関の鍵を開けておくのが常なのに…。
 「お母さん?」
 ドアを、トントン、と拳でノックしてみる。
 6畳2間の狭い家だ。どこにいたって、ノックすれば母には聞こえる筈だ。なのに、玄関の内側では、何の反応も起きていない。
 ―――お買い物にでも行ってるのかな…。
 でも、買い物は午前中に行くのが母の日常なのに―――途方に暮れた倖は、所在なさげに視線を彷徨わせた。
 どこかに出かけているか、でなければ、家の中で手の離せない状態にあるのかもしれない。少し様子を見よう―――そう考え、倖は学生カバンをドアの横に置き、格子のはまった台所の窓の脇にもたれた。

 こんな風に、母の出迎えを待っている自分が、嫌だった。
 いっそ、高校進学なんてやめて、就職してしまおうか―――母から独立して、1人で生きていこうか。そんな風に、壁にもたれながらぼんやり考えた。


 なんだかんだ言いながらも、母との生活は、そこそこ上手くいっている。
 勿論、一度芽生えた大きな失意と憤り、そして、殺意―――それらは、今も倖の中で燻り続けている。でも倖は、そうした気持ちを、一切表に出したことはなかった。反発するどころか、幾分口うるささも控え目になった母に、倖は以前以上に従順な娘であり続けた。
 別に、無理をしている訳でも、母に好かれたいと思っている訳でもない。
 人間、厳しい状況に置かれると、だんだん思考力が低下する。そういう時は、たとえ納得がいかなくても、物心つく前から刷り込まれたものに従う方が、新しいことをやるよりずっと楽なのだ。倖の場合も、結局はそういうことだ。
 そんな倖の様子に、母は安堵しているようだ。
 傷ついた倖を助けることも庇うこともしなかったことで、倖に背かれるものと予感して怯えていたのだろう。でも、最近では、倖が自分のもとを離れないと確信したのか、母の表情は随分穏やかになり、倖に対する態度も柔らかなものになりつつある。
 ただし、執着心は、離婚前より格段に増した気がする。
 離婚から間もない頃、典子の家に泊りがけで遊びに行きたい、と言ったら、狂ったように泣き叫んで反対された。以来、母は、典子の名前には異様に神経を尖らせる。家庭の事情なんて話しちゃダメよ、親切な顔してたって、結局他人なんだから―――まるで、典子が倖を母の手から奪い取ろうと画策してるみたいに、母は警戒しきった顔で、典子やその家族の悪口を言うようになった。
 実際―――倖を取られてしまう、と本気で思ってるのかもしれない。
 母は、孤独が、死ぬほど苦手なのだ。

 ―――鬱陶しい。
 泣いて縋る母。倖を経済的に保護しながらも、精神的には倖に依存しきっている母。その癖、痛みには弱くて、いざとなれば倖より自分の平安を優先してしまう、ずるい母。
 切り捨てたい。こんな人間。
 それが、倖の本音の、一方。
 なのに―――そう思う一方で、倖はこうも考えていた。“切り捨てられない”、と。
 あの人は、私がいないと、ダメなのだ。
 父のいない今、私が見捨てたら、あの人は生きていくことすら出来なくなるだろう。私がいることで、あの人はなんとかやっていけているのだ―――そんな風に思う倖が感じているのは、母に対する苛立ちと侮蔑、そして…何故か、満足感だった。
 それは、必要とされている、という満足感かもしれない。
 母親に必要とされている自分―――そこに、倖は無意識のうちに、自分の存在価値を見出そうとしていたのだ。勿論、そんなことを、倖自身は知る由もないが。

 “共依存”なんて言葉が、まだなかった時代。
 倖は、母と自分がその“共依存”の関係に陥っていることを自覚しないまま、ただ漠然と、この関係の異常さだけを感じ取って、曖昧な不安を覚えていた。


 ―――お母さん…、どうしちゃったのかな。
 時計がないから分からないが、もう3分ほど経ったと思う。やはり、留守なのだろうか―――倖は、不安げに眉根を寄せ、壁に預けていた体を起こした。
 鉄製の格子と網戸のはまった台所の小窓は、いつも15センチほど開けてある。爪先立ちした倖は、格子と格子の隙間から、網戸越しに部屋の中の様子を窺ってみた。が、予想通り、見慣れた部屋の様子が僅かに見えるだけで、そこに母の姿は見つからなかった。
 ちょっとがっかりして、ため息をつきかけた時。
 「……」
 何かが、心に、引っかかった。
 何だろう? その正体が分からないまま、倖はもう一度、伸び上がって部屋の中を覗いた。
 一番手前に見えるのは、ヤカンの置かれたコンロ。その向こうに、板張りの台所と、畳敷きの部屋、いつも食事をしている丸いちゃぶ台―――朝見たのと変わらない、いつもの部屋が、そこにある。
 ただ、1点だけ。
 僅かに違和感を覚える部分があった。
 綺麗でロマンチックなものを好む母は、こんな古いアパートに似つかわしくない、洒落たレースのカーテンを掃きだし窓に掛けている。西陽の射し込む午後などは、そのレースのカーテンを引いて陽射しを遮っているのだ。
 その、レースのカーテンが―――風に、微かに、靡いていた。
 風にカーテンが靡くのは、窓が開いているからだ。
 きっちりしている母は、窓を開けっぱなしで外出するなんて、絶対にしない。母は、やはり家にいるのだ。夏だから、窓を開けているのは当然かもしれないが―――だったら、窓際で涼んでいる筈の母の姿がそこにないのは、何故なのだろう?

 ふわふわと、視界の端に辛うじて映る白いカーテンに、なんだか鼓動が嫌な風に乱れだす。
 今朝、家を出る時、洗濯物を干していた母の姿を思い出し、余計、鼓動が乱れる。いってらっしゃい、と振り返った母が立っていたそこは、日頃、母が倖には「危ないから絶対に使うな」と言っていた、年季の入った木製のベランダだったから。
 時刻は、ちょうど、洗濯物を取り込む時間。母は、今、あのカーテンの向こうにあるベランダに出ているのではないだろうか。でも、ベランダにいたって、倖の声やノックの音は聞こえる筈だ。
 では―――何故、出てこないのだろう…?

 何を予感したのか、自分でも、よく分からない。
 ただ、何かを予感して―――倖は、アパートの階段を、大急ぎで駆け下りた。

 どきどき、どきどき、心臓が、壊れそう。
 静まり返ったアパートに、鉄製の階段を駆け下りる自分の足音だけがこだまして、何故か、焦る。誰もいないの、誰も気づいてないの、誰もお母さんを見ていないの、と。
 夏の暑さからくる汗とはちがう汗が、セーラー服の下で、肌の上を流れ落ちる。脚に纏わりつくプリーツスカートが億劫で、倖はその裾近くを掴んで、階段を駆け下りていた。
 たった十数段のことが、酷く時間がかかった気がした。地面を蹴った倖は、1階の廊下を突っ切り、アパートの角に置かれたアサガオの鉢に躓きそうになりながら、アパートの裏手へと急いだ。
 そして、やっとの思いで、アパートの裏に回った途端。
 目に飛び込んできた光景に―――世界が、一瞬にして、真っ白に凍った。


 辺り一面に飛び散った、バラバラになった、ベランダの残骸。
 ブロック塀に引っかかった、洗濯したての、真っ白なシャツ。
 下敷きになって、惨めにぺしゃんこになってしまった向日葵の花。

 その中央に―――母が、仰向けに倒れていた。


 母の顔は、血の気を失って、青白くなっていた。
 乾いた地面の色が、母の背中の下からじわじわと色を変えていたが、倖はあえてその部分は見ないようにした。青紫色になった母の唇を見れば、その正体など確かめるまでもないから。
 声が、出なかった。
 何が起こったかは、想像がついた。そして今、何が起こりつつあるのかも…想像が、ついた。でも―――声が、出なかった。
 口元を、手で覆う。倖は、フラリ、と、よろけるように1歩踏み出した。

 砂を踏む、倖の足音に、ほとんど閉じかけていた母の目が、開いた。
 虚ろに視線を彷徨わせ、やっとのことで、その目が倖を捉える。浅く速い呼吸を繰り返す母は、薄く開いた唇をなんとか動かそうとするが、あまり上手く動かせないようだった。
 「…さ……っ、ちゃ…」
 風に消えそうな、儚い声。
 苦痛に、母の顔が、僅かに歪む。投げ出された手が、震えながら、倖の方へと伸ばされた。が、その指先は、倖の爪先まであと20センチほど足りなかった。
 「…さ、っちゃん…」
 「……」
 「さ…っちゃん、助、け……」
 「―――…」

 助けて。

 悲痛な、その叫びを―――倖は、凍りついたような表情のまま、それ以上1歩も動けずに、見下ろしていた。

 この時、倖の中に吹き荒れていた感情が何だったのか……倖にも、よく分からない。
 驚きと、ショック。勿論、この2つが一番だった。けれど、この事態に驚愕し、怯える一方で―――妙に冷静な自分が、冷めた目で母を見下ろしているのを、倖は感じていた。
 助けなくちゃ―――その、当たり前すぎる言葉で倖を揺さぶる自分と。
 放っておけばいいのよ―――そんな信じられない言葉で倖を揺さぶる自分と。
 2つの“自分”が、倖の心を、両側から引っ張って、掻き混ぜて。
 …目が、回る。
 ぐるぐる、ぐるぐる、夏の陽射しにあてられたみたいに、思考がぐらつく。なのに…体の奥が、冷たい。冷たい。冷たい。

 倖の口元を覆っていた手が、力を失くしたように、僅かに落ちる。
 震える唇を、ゆっくりと、開く。やっとの思いで搾り出した声も、体の中の冷たさが伝わったせいか、小刻みに震えていた。

 「―――わ…たし、だって…」
 「……」
 「私、だって…ずっと、助けて欲しかった」
 ずっと、ずっと。
 感情を忘れたみたいに、涙を己の奥底に呑み込んで―――繰り返される痛みに耐えている間、ずっと。
 「助けて、助けて、お母さん助けて……いつだって、心の中で叫んでた。お母さんの背中に」
 「……」
 辛うじて開かれた母の目に、うっすらと、涙が浮かぶ。
 何からくる涙なのか―――つられるように、倖の目にも、涙が浮かんだ。
 「でも……お母さんは、助けてくれなかった」
 「……」
 「あの時の、私の気持ち―――今なら、分かる? お母さん」
 涙が、一筋、頬に伝う。
 「愛されていると信じていた人に、見殺しにされる気持ちが……今なら、分かる……?」
 「―――…」


 緩やかに―――時が、流れる。

 母は、涙が薄く幕を張った目で、ずっと、倖の目を見上げていた。
 倖もまた、涙を湛えた目で、ずっと、母の顔を見下ろしていた。
 母の呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
 その速度も、少しずつ遅くなっていく。
 なのに―――母は二度と“助けて”とは言わなかったし、倖も、母に手を差し伸べようとはしなかった。2人は、黙ったまま、お互いの姿を見つめ続けていた。

 そうして…どれほどの時間が、経ったのだろうか。
 緩やかだった時の流れが、唐突に、途切れた。


 母の目が、悲しげに、細められる。
 その弾みに―――母の両目から、静かに、涙が零れ落ちた。

 「……さ…っ、ちゃ…」
 「……」
 「…ご……めん、ね……」
 「―――…」

 微かな、微かな、呟きに。
 倖は――― 一瞬にして、現実に引き戻された。

 「―――お母、さ、ん…?」
 驚いたように、目を、大きく見開く。
 掠れた声で母を呼ぶと―――母は、それに応えるように口元に僅かに笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。
 再度、母の目から零れ落ちた涙を見て―――倖の背筋を、冷たいものが、一気に走り抜けた。
 「…お母さん…?」
 「……」
 「お母さんっ!」

 母の傍らに、倒れこむように膝をつく。
 自分に向かって伸ばされた手を、慌てて両手で掴むと、倖は必死にその手をさすった。
 「し…っ、しっかり、してっ! お母さん! お母さん!?」
 「……」
 骨ばった白い手は、力なくではあるが、倖の手を握り返した。けれど、母の目は閉じたままだし、呼吸のための胸の動きもたよりなかった。
 違う。
 違う、違う。
 こんなの、違う。こんなこと、本当に望んだわけじゃない。
 「だ…だめ……、駄目、駄目、駄目っ!」
 狂ったように首を振った倖は、母の手を握ったまま、うろたえた目で周囲を見渡した。

 「誰か…」

 ―――お願い。

 「誰か…っ」

 お願い、お願い、神様。

 「誰か―――誰か、助けて―――…!!」

 

 

 

 

 どれだけ、祈ったか、知れない。
 死なないで、死なないで―――母の手を握りながら、何度その言葉を繰り返したか知れない。

 小さな体のどこに、これほどの涙があったのか…そう思うほどに、泣いて、泣いて、泣いて―――泣いて。


 「―――お気の毒です」

 沈痛な面持ちの医師の言葉を、倖は、すぐには理解できなかった。
 「……」
 呆然とした目が、医師の顔から肩へ落ち、白衣を辿り、白いシーツの上を滑る。
 そうしてたどり着いた先には―――目を閉じ、唇を緩く結んだ母の、青白い顔があった。

 眠っているように、見える。
 そのくらい、母の顔は、穏やかだった。
 でも―――その唇の色も、頬の色も、その下に流れる温かい血の存在を感じさせないものなのは、疑いようもなかった。
 命の火の消えた母の顔を……倖は、悪い夢でも見ているような気持ちで、ただ呆然と見下ろした。

 「あと5分早く、救急車が到着していれば―――本当に、お気の毒としか言いようがありません」

 ―――5分。
 医師が口にしたその数字は、倖にとどめを刺した。

 これ以上、残っているとは思えなかった涙が、次々に倖の大きな目から零れ落ちる。倖は、悲痛の声をあげると、その場に崩れ落ちて泣いた。


 私が、殺したんだ。

 私の痛みを見て見ぬフリしてた、お母さんへの復讐に―――今度は私が、お母さんを見殺しにしたんだ。


 倖は、泣いて、泣いて―――声も涙も涸れ果てるまで、泣いた。
 けれど、取り縋り、気が違ったように揺さぶった母の体は、二度と動くことはなかった。


 この日、八代 倖は、1つの罪を背負った。

 倖の中に残ったのは、この先、この罪をたった1人で抱えて生きなければならない、という絶望的な孤独と―――取り返しのつかない罪に対する、深い深い、どこまでも深い後悔だけだった。


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