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― 過去からの手紙 -3- ―

 

 頭から一気に被った水が、急激に、沸騰寸前の思考を冷やしていく。
 手探りで水を止めると、ステンレスのシンクを叩く水の音が止み、部屋の中に静寂が戻ってきた。瑞樹は、下を向いて蛇口に手を置いたまま、髪先から落ちる雫がパタッ、という音をたてるのを、暫し眺めていた。

 頭の芯が、グラついている。
 額を、蛇口に置いた手の甲に押し付ける。落ち着け―――大きく吸い込み、吐き出した息は、自分でも心なしか震えている気がして、腹立たしかった。
 軽い、フラッシュバックかもしれない。更に数度、深呼吸を繰り返した瑞樹は、最後に大きく息をついて、水を振り払うように頭を数度振った。


 自分から目を逸らす母親に、心の中で必死に助けを求める、小さな子供。
 泣いて縋る母を、感情の消え失せた顔で見下ろす、少し成長した子供の冷たい視線。
 母が隠し続けた「過去の八代 倖」。その姿は―――寒気がするほど、瑞樹自身の過去の姿と似ていた。
 怒りを表に現して、父親に反撃して叩きのめした佐野の方が、まだマシだった。不服を言うこともせず、問題を解決しようと努力もせず、ただ感情の全てを飲み込んで、押し黙って殻に閉じこもる―――そんな選択しかできなかった部分が、瑞樹と倖とは、嫌になるほど似ていた。
 だから、倖の行動も、その後の後悔も、痛いほど分かる。分かりすぎて…頭が、グラグラする。

 でも。
 もしこれが、自分と倖の物語だったとしたら―――あまり罪の意識はなかったかもしれない。
 たとえそれが幻想でも、倖には、母の愛を信じた時代があった。歪んだ形ではあっても、母を愛し、母親に愛されていると思っていた時代があった。でも、瑞樹にはその記憶が、欠片もない。案外…母を見殺しにしても、死んで当然、と冷めた顔でいられたかもしれない。そう思うと、余計―――頭が、グラつく。

 冷静になれ―――舌打ちした瑞樹は、乱暴に水に濡れた前髪を掻き上げると、洗面所に向かった。
 タオルを1本掴み取り、ずぶ濡れになった頭を適当に拭いながら部屋に戻る。テーブルの上のボルヴィックを一気にあおると、少しだけ冷静になれた気がした。
 テーブルの上には、読み終えた便箋と、まだ読んでいない便箋、ほぼ同じ枚数の束が置かれている。ここまでが“あの事件”の話であったということは、あと半分は、もう1つの罪―――自分に関することがメインなのだろう。そう思うと気が重かったが……。
 ―――半分じゃ、意味ねーよな、やっぱり。
 もう何でも来い、と開き直る。小さくため息をついた瑞樹は、再び床に座り、便箋の束を手に取った。

 続きの手紙は、“あの事件”後について、軽く触れていた。
 母親の遺骨は、横浜にある八代の実家が引き取ったこと、けれど倖自身のことは引き取ろうとしなかったこと、父親と暮らし始めたこと、そして…父親の部屋を頻繁に訪ねて来る女性のこと。


 父と私は、やはりお互い気まずい部分がありました。
 けれど、彼女の存在がクッションとなってくれていたのかもしれません。母が亡くなってからの半年間は、不思議なほど、穏やかな日々でした。
 父と彼女は、年齢差があるせいか、それとも他に理由があるのか、結婚の意志は双方なかったようです。でも、父の表情は、母といた頃より自然体で、安らかでした。そんな父を見ると、安堵と憤り、両方を感じました。父には父の人生がある、と頭では分かっていても、母と別れて他の女性に安らぎを見出している父を、なんとなく許せない気分になってしまうのです。
 けれど、そんな私自身も、母といるより穏やかな心持になっている時間が多いことに、ある日気づきました。
 母を裏切ってしまったような、なんとも言えない罪悪感に胸が締め付けられました。

 このままこうして3人で生活していかないか、と父に提案された時、正直なことを言えば、心は激しく揺さぶられました。父と2人きりの生活は到底考えられませんが、彼女を含めた3人の生活は、私が欲しかった「ありきたりな幸せ」に、とても似ているように思えたのです。
 けれど、母の命を奪っておきながら、父と、いえそれ以上に彼女と穏やかな人生を送っていくことなど、私には許されないことでしょう。
 たとえ父が母を忘れても、私だけは忘れることは許されない。私は、1人になる道を選びました。
 思えばこれが、私が自分で自分のことを決めた、初めての選択でした。
 そして、ついこの前まで―――これが、私が自分で自分のことを決めた、唯一の選択でした。


 ―――選択…か。
 ついこの前まで、というのは多分、窪塚との離婚の話だろう。ショックをもろに受けた顔の窪塚を思い出せば、あれは間違いなく母側の選択だと断言できる。
 ということは…父との離婚に、母の意志は微塵も含まれていなかったのだろうか。父の側から離婚を切り出したとは聞いていたが、母もその方がいいと決断したからこその離婚だと、瑞樹はそう解釈していたのだが―――瑞樹は眉をひそめつつも、読み終えた1枚をめくってテーブルの上に置いた。


 一樹との恋は、初めての激しい恋でした。
 どことなく父と共通する風貌をしながら、常に優しく、温かく、風のようにさりげない一樹は、私にとって絶対に失いたくない相手でした。だからこそ、「あのこと」は絶対に知られてはならない、北海道に置いてきた過去の自分は、その欠片さえ一樹に見せてはならない……と必死になっていました。
 同じ頃、会社に出入りしていた窪塚に、唐突なプロポーズを受けました。
 今にして思うと、彼が私に興味を持ったのは、私が一樹と交際していたからかもしれません。当時の窪塚はかなりの自信家で、一樹はそんな彼のプライドをなんとなく刺激する存在でしたから。
 若くして重責を担い、情熱的な求愛を繰り返す窪塚に、私は、恋愛感情はなくとも、ある種の心地よさを感じていました。そう思ったのは、窪塚が私の外見や表向き見せる性格にだけ興味を示し、日頃隠している暗い感情には一切関心を示さなかったせいもあるかもしれません。
 一樹は、違っていました。私が何かを背負っていることを鋭く見抜き、時々、「何か辛いことがあるなら話してごらん」と、私に手を差し伸べてくれました。
 でも私は、一樹を好きになればなるほど、話すことは出来ませんでした。
 いかに一樹が優しい人でも、実の親を見殺しにした私を許してくれるとは思えません。軽蔑され、人格を疑われ、愛想を尽かされることを考えると、一樹にだけは絶対に言えなかったのです。だから、話してごらんと言う一樹の懐の深さにますます心を奪われれば奪われるほど、その優しさが苦しくて辛くて仕方ありませんでした。

 所詮、私は、流されることしか出来ない人間です。
 一樹との結婚を決めたのも、私ではなく、私の中に宿った小さな命でした。
 そのように運命が決まってしまったのであれば、一樹とこの子と3人で、幸せになろう。過去の自分は完璧に封印して、母には築くことができなかった温かい家庭を築こう。そう覚悟して、一樹と結婚しました。

 でも……現実って、そんな簡単に、理想を手に入れることはできないんですね。
 最近になって、ある心理学者の本を読みました。「子供は、多かれ少なかれ、何らかの形で無意識のうちに親をコピーしてしまうもの」なんだそうです。
 瑞樹が生まれてからの私は、まるで母のコピーでした。
 大学卒業したての一樹が、家族3人暮らしていくために必死に働くのは当たり前のことなのに、寂しくて寂しくて、何かに縋らないと生きられないほどに、寂しくて。
 まだ自我も生まれていない赤ん坊が、自分の意のままにならないのだって当たり前のことなのに、まるで私を困らせるために存在してるみたいに思えて、だんだん腹が立ってきて。

 気がついたら、私は、まだやっと首が据わるようになったばかりの瑞樹に、ヒステリックに怒鳴っていました。
 泣き止まない瑞樹に苛立って、黙らせようとクッションを押し付けていました。
 一樹には甘えるのに、私が抱き上げるとむずかるのが悔しくて、一樹が見ていないところで叩いたりもしました。
 虐待と育児放棄を繰り返す私を心配して、一樹がカウンセリングに何度も連れて行ってくれたけれど、治りませんでした。親身に相談に乗ってくれるカウンセラーも、心配して電話してくる一樹の両親も、私を責めてるようにしか思えませんでした。
 駄目な母親だ、妻失格だ、そう言われるのが怖くて、必死に表面だけでも繕おうとして。

 瑞樹を意のままにしようと焦る姿は、留守がちな父への寂しさから、私を人形のように支配しようとした母そっくりでした。
 そして、カウンセラーや義理の両親の目を気にして体裁を繕おうとする姿は、結婚に反対した実家への意地から病的なまでに「よい母・よい娘」であることにこだわった母を彷彿させました。
 どんどん転落していって、母の歩んだ人生をなぞり始める自分が、怖かった。けれど…どうすることもできませんでした。


 そこまで読んで、次の1枚の冒頭に目を移した時―――瑞樹は、その内容に、思わず目を見張った。


 私と瓜二つの海晴が生まれて、背筋が寒くなりました。
 産むんじゃなかった、と後悔しました。この赤ん坊が成長したら、きっと私みたいな人間になるんだ、そう思ったら、育てるのが怖くなりました。


 「……」
 考えてもみなかった。母が、海晴に自分を重ねていた時期があったなんて。


 あの子が生まれてみて、瑞樹がいかに手のかからない子供だったかを思い知ったほどに、海晴はとても手のかかる子供でした。瑞樹の時以上に苛立ち、上手くいかないもどかしさが暴力へと変化して、私はますます転落していきました。
 精神状態の安定しない私に、一樹はますます、何かあるのなら話せ、と迫りました。自分では駄目なら、せめてカウンセラーに打ち明けてみろ、と。
 私は、どんどん追い詰められていました。
 逃げ場を探して、探して―――そんな状態の時、窪塚が再び現れたのです。

 私は、窪塚に逃げてしまいました。
 一樹を愛しすぎて、一樹を失うのが恐ろしすぎて、そうならないよういい妻・いい母になりたいのに、逆のことしか出来ない自分が嫌で嫌で。そんな苦しさを、ほんの一時でいいから忘れたくて、窪塚に逃げてしまったのです。
 彼は、私の醜い面を、何ひとつ知りません。私を駄目な母親と詰ることも、過去のことを聞き出そうとすることもしません。まるで映画の主人公みたいに、ただ大切にするだけ―――以前より疲れて見える私の変化は、単に、一樹と上手くいっていないからだと都合良く解釈していたようです。

 窪塚との不倫の話は、もう既に、以前のお手紙でお話しましたね。詳しい内容は、以前お話したとおりです。
 ただ、あなたに話していないことが1つだけあります。
 それは、瑞樹が、私と窪塚の関係を知っていた、ということ。瑞樹が、早熟で聡明な子供であることを承知の上で、私は彼に、窪塚とのことは一樹には黙っていて欲しい、と頼んだのです。
 この時期に、叩いたり怒鳴ったり、という暴力は終わりました。
 その代わり、私は、最低な妻、最低な母であるばかりではなく、一樹ほどには愛してもいない人と不倫関係を続け、その秘密を息子に口止めするような「最低の女」になり果てました。


 あの事故が起きたのは、瑞樹が9つになる前の、夏の暑い日でした。


 新たな1枚の冒頭、何の前置きもなく、いきなり核心に触れてきた話題に、さすがに心臓が跳ねた。
 息が、詰まる。瑞樹は無意識のうちに、片手を喉もとに当て、唾を飲み込んでいた。


 窪塚との密会の途中、人だかりが出来ていたので、何だろうと足を止めました。
 そこで目にしたのは、車と接触事故を起こして倒れている海晴の姿と、海晴の手を取って、必死に海晴の名を呼んでいる瑞樹の姿でした。
 瑞樹と目が合って、私は、パニックに陥りました。
 窪塚は、瑞樹と海晴を知りません。ここで瑞樹が「お母さん」と私に助けを求めたら、私が隠してきた本当の私を、窪塚に知られてしまいます。何も知らず、何も問われないことが、窪塚との関係の一番の救いだったのに、それがなくなってしまう、逃げ場を失ってしまう―――その可能性に、私は震え上がりました。

 気がついたら、縋るような瑞樹の視線を振り切って、足早にその場を立ち去っていました。
 息子と娘の危機より、自分の精神の平安を優先したのです。父に叩かれる私を庇うことより、自分の無事を優先して、見て見ぬフリをした母と同じように。

 その場を離れて、少し冷静さを取り戻した時、真っ先に考えたのが、一樹のことでした。
 少なくとも瑞樹は、私と目が合っています。私が自分達を見殺し同然にしたことも、十分理解しているでしょう。男連れだったことも理解していたかもしれません。
 この事実を、一樹に話されてしまったら、どうしよう。
 私が真っ先に考えたのは、そんなことでした。
 事故に遭った息子や娘の状況より、一樹を失ってしまうかもしれないことの方に気を取られたのです。

 でも、現実はもっとシビアでした。
 海晴は、思いのほか軽症でしたが、頭を打っているとのことで入院させられました。瑞樹は腕を折りましたが、帰宅を許されました。
 何も知らないフリをして帰宅した私を、一樹は、この時初めて責めました。窪塚の名前を出して。
 そう…瑞樹が黙っていようが、こういうことは、遅かれ早かれ知れてしまうものなのです。休日だというのに家にいなかった私が何をしていたか、彼は察しがついていたのです。
 瑞樹が助けを求めて家に電話してきたのに不在だった私を、瑞樹と海晴が可哀想だと、彼は責めました。
 けれど、私には想像がついていました。多分…瑞樹は、家には電話していなかったでしょう。家に誰もいないことは、彼が一番よく知っているのですから。

 その夜、瑞樹に一言謝らなくては、と瑞樹の部屋を訪ねました。
 彼が私に向けた目は―――背筋が凍るほどに、昔の私と同じ目でした。
 全ての感情が消え失せた、希望どころか、絶望すら失くした目―――かつて私が、暴力をふるう父や見て見ぬフリをする母に向けたのと同じ目を、一樹そっくりな顔をした瑞樹が、私に向けていました。

 その瞬間、私の脳裏を過ぎったのは、「このままでは“私”がもう1人増える」ということでした。
 いつか瑞樹は、その手で私の命を奪うだろう。私が母を殺したように、瑞樹も私を殺すかもしれない。
 罪の意識に苛まれ、決して両親のようにはなるまいと思いながらも、結局は母のコピーとして生きることしかできない、そんな悲しい人間になってしまうのかもしれない。

 私と同じ人生をこの子に歩ませるのは、可哀想でした。
 瑞樹を殺して、私も死のう―――そう思って、私は、瑞樹の首に手をかけました。
 言い訳はしません。私は、実の子を、この手で殺そうとしたのです。


 「―――…っ」
 喉が、焼け付くように痛い。
 あの時感じた、体が破裂してしまいそうな苦しさが、やたらリアルに蘇ってくる。瑞樹は、シャツの胸元を掴み、襲ってくるものに必死に耐えた。

 思考が乱れたせいで、続きの文章が、あまり上手く頭に入ってこない。
 ただ、ぼんやりと理解できたのは、母の後悔、後悔、後悔―――何の権利があって瑞樹の命を奪おうとしたりしたのか、母親を見殺しにした時の罪の意識はどこへいったのか。正気に戻った母は、ひたすら後悔していたらしい。あれからずっと。
 瑞樹の知らない事実は、更に1枚読み進めた先にあった。


 一樹から、私がこれまで隠してきたことを全て一樹の前で曝け出すか、そうでなければ離婚するか。どちらか好きな方を選べ、と言われました。
 私は、一樹と一緒にいたい、と言いました。窪塚とは別れる、でも、誰にも言わないと決めたことだから、あなたにも言うことはできない、と。
 その結果―――ならば、言わなくてもいい、その代わり別れよう、と言われました。別れた方がきっと、穏やかに愛し合っていける、と彼は言いました。
 その時は、その意味が分かりませんでした。ただただ、彼と離れるのが嫌で、泣いてすがりました。
 その言葉の意味が理解できたのは、離婚して、1年ほど経った頃です。

 彼は、いつも言っていました。「俺を選べ」と。窪塚に逃げるのではなく、流されるのではなく、たとえ血みどろになってもいいから、自分の意志で全てを一樹に打ち明けて、本音を曝け出して一緒に生きよう、と。
 でも私は、「選べない」といつも言っていました。
 一樹を愛して、愛して、だからこそ怖くて、怖くて。一緒にいるためには黙っているしかないと、その部分だけはどうしても翻すことができない人間でした。血みどろになる勇気も、その先にある一樹との未来を信じるだけの自信も、私にはなかったのです。
 愛し合うには、一緒にいることが大前提だと、そう思い込んでいました。だからこそ、一樹と離れることをあれほど恐れ、それ故に過去を隠すことに必死になっていました。

 でも、離れてみて、気づきました。
 愛し合うことに、一緒にいることは、必ずしも必須ではないと。
 一緒にいると、相手を放さないために必死になって、かえって見えなくなってしまう愛もあるのです。それならば、一緒にいて、愛が見えなくなって憎みあい傷つけあうより、離れた所で相手を思いやっている方がずっと幸せです。
 その日から今まで、時折交わす手紙の中に、一樹と私が今もどこか別次元で繋がっている手ごたえを見つけては、日々の支えにしていました。一樹が傍らにいない日常の中、私はそれだけで救われた気持ちになれました。
 そして、思いました。
 母も、あと少し長く生きていれば、父との間に、こんな愛を感じることが出来ただろうか、と。
 それが男女としての愛ではなく、別の形の愛であったとしても、何がしかの手ごたえを感じて生きることが出来ただろうか、と。


 この病に侵され、あまり先が長くない、とわかった時、窪塚との離婚を決意しました。
 海晴も無事結婚し、結婚生活の期間も、一樹との期間とほぼ同じになり、窪塚家での私の役目は終わりました。でも、今更一樹のもとに戻るのは、卑怯すぎる選択でしょう。
 だから、最後は、誰の妻でも母でもなく、ただ1人の人間として死にたい。

 ただの「八代 倖」として―――母の娘として死のうと、そう思ったのです。


***


 食器を洗い上げ終えた蕾夏は、ホッと息をつき、振り返って目覚まし時計を確認した。
 時計は、午後11時を大きく回っている。
 ―――瑞樹…、ちゃんと手紙、読んでるかな。
 連絡があるかな、と思ったけれど、今のところ電話もメールもない。少し心配になって、眉をひそめた。

 手紙の内容については、まるで想像がつかない。けれど、瑞樹が一番気にしている倖の過去に触れているとしたら―――そして、その過去が予想したものをある程度掠めている内容であるなら―――いくら覚悟していても、やはり衝撃を受けるだろう。
 倖に関することになると、日頃冷静な瑞樹も激しく動揺することを、蕾夏は知っている。時には、激しいフラッシュバックを起こして、息を詰まらせることすらある、ということも。
 できれば、傍についていてあげたい。そう思ったけれど。
 『こっちは、相手がもう死んでるんだ。押し倒される危険も、殴り倒される危険もないだろ。1人で大丈夫だ』
 「…そりゃそうなんだけど…」
 瑞樹のセリフを思い出して、蕾夏は思わず口に出して呟き、大きなため息をついた。
 どうにも、落ち着かない。仕方なく蕾夏は、ベッドの上に体を投げ出し、仰向けに寝転んだ。
 自分の方から電話するのはやめよう、と、天井をぼんやり眺めながら、蕾夏は思った。必要があれば、瑞樹の方から電話してくる筈だ。心配だ、心配だ、と自分の不安を瑞樹の目の前にチラつかせるのは、今の瑞樹には迷惑だろう。自分が瑞樹の立場なら、きっとそう感じる筈だから。

 『あんた達、もう十分、1人ずつ立ってるだろ』

 昨日の奏の言葉が、頭をよぎる。
 昨日から、こうしてぼんやりすると、奏の言葉が何度も頭に蘇る。ある意味―――その言葉は、蕾夏にとっては、酷く衝撃的なものだったから。

 『ずっと、1人で立ってきただろ。蕾夏も、成田も。小さい時から―――母親にネグレクトされて叩かれてた時からずっと、成田、1人ぼっちで全部解決してきたんだろ? 蕾夏だって、ヒロとのことがあってからずっと、痛みも孤独も全部1人で耐えてきたんだろ?』

 ―――そっか。
 瑞樹も私も、ひとりだったのか。

 当たり前のことに気づいて、なんだか、拍子抜けしたような清々しいような、不思議な気分になる。
 そう言えば、大学を卒業して、この部屋に引っ越してきた日の夜―――自分以外の気配のないこの部屋の静けさに、ああ、“ひとり”ってこういうことなのか、と妙に納得したのを覚えている。
 でも、納得しながらも、こうも思ったのだ。
 じゃあ、今までに“ひとり”じゃなかった時なんて、あったんだろうか、と。
 両親に愛され、正孝や由井や翔子に囲まれながら―――蕾夏が感じていたのは、常に「孤独」だった。
 元々異質だった自分が、もっと異質になってしまった孤独。もう、誰にも縋ることも、誰に抱きしめられることも許されない。差し出される手を振り解き、ただ己を壊されるのを怖がって、手足を縮めて震えているしかない―――諦めにも似た寂しさを感じながら、生きていた。
 この部屋にきて、物理的に1人になって、この先への不安と期待のほかに、やっと1人になれた、という安堵を感じた。それは、大勢の中で感じる孤独と、1人きりで感じる孤独とでは、前者の方が痛いということなのかもしれない。でも…どっちも、孤独には違いない。

 瑞樹と出会って、2人が1人の人間になれるような、そんな幸せを知ったから。どこかで、忘れていた。それまでの自分が、ずっと“ひとり”だったことを。
 瑞樹も、自分も、生まれてからこれまでの時間ずっと、“ひとり”だった。1人で倒れてるんじゃなく、縋るものを求めながらも、それぞれに地面に足をつけて立っていた。
 その当たり前のことを、すっかり忘れて―――2人で歩く前に、1人1人の力で立たなくては、と思っていた。

 『過去の傷は、痛くて当たり前なの。それを弱さと感じて1人で立とうとする蕾夏を、私は大好きだけど…もっと寛容になっていいのよ』

 「…やっぱり奏君って、千里さんの子供なんだなぁ…」
 そう呟いて、くすっと笑う。が、その表情は、またすぐに、虚ろなものに戻った。
 ぼんやり天井を眺めていた目を、静かに伏せる。
 そっと、右手を耳元に押し当てる。静寂の中―――自分の鼓動だけが、掌の中に反射して、耳元で聞こえた。


 『…このまま帰国から1年間、無事に乗り切れたら、その時は―――』

 蕾夏が音を失い、そして再び取り戻してから、1年経ったら。
 2人で歩いていく前に、1人でも歩けるだけの自信を取り戻すことができたら。
 その時は―――…。


 半年前、言葉にはしなかった約束のことを、考えるともなしに考えていると―――突然、呼び鈴が鳴った。
 「!」
 静かな中に、いきなり鳴り響いた大きな音に、心臓が跳ねた。驚いて玄関に視線を向けた蕾夏は、思わず胸元を手で押さえた。
 ドキドキうるさい心臓を宥めながら、時計を振り返る。午後11時半……普段、人が訪ねてくる時間帯ではない。一体、誰だろう―――体を起こした蕾夏は、ベッドを下り、足音を忍ばせて玄関に向かった。
 催促の呼び鈴は、鳴らなかった。
 もう、誰もいなかったりして―――そう思いながら、裸足の右足の爪先だけを玄関に踏み出して、魚眼レンズから外の様子を窺ってみた。
 そして、その向こうに、見慣れた顔があらぬ方向を眺めてドアが開くのを待っている姿を見つけ、慌てて鍵を開け、ドアを開いた。
 「瑞樹?」
 驚きのあまり上げた声に、ぼんやり廊下の先を眺めていた瑞樹の視線が、ドアを開け放つ蕾夏の方に向き直った。
 目を丸くする蕾夏とは対照的に、瑞樹は涼しい表情で、ニッ、と口の端を上げた。
 「良かった。帰ってて」
 「う、うん、今日は10時位に帰ってきて―――そ、それより…どうしたの?」
 「ん…、ちょっとな」
 曖昧な口調でそう答える瑞樹の手には、見覚えのあるものが握られていた。そのことに気づいた蕾夏の視線が、何か言いたげに、瑞樹の手元に落ちた。
 「―――とりあえず、中、いいか」
 「あ…、うん」
 瑞樹に言われ、我に返った蕾夏は、慌てて瑞樹を玄関に通した。
 蕾夏より先に部屋に上がった瑞樹を、背後から少し観察する。ディパックを床に置く姿は、普段と特に違ってはいないように見える。唯一 ―――ディパックがあるのなら、なんでそんなものを手に握り締めているのだろう、という疑問以外は。
 「…もしかして、終電で帰るの? あんまり時間ないけど…」
 鍵を閉めながら訊ねる。振り向いた瑞樹は、思わず苦笑を浮かべた。
 「ハ…、帰れ、ってか?」
 「ち、違うってば。明日も仕事だから…ちょっと心配しただけ。朝から打ち合わせだって言ってたでしょ?」
 「ああ。だから、明け方には帰る」
 仕事のことが頭から抜け落ちてしまっている訳ではないらしい。少しホッとして、蕾夏は表情を緩めた。
 「…そっか。何か飲む?」
 「いや、今はいい」
 「そう」
 言葉が、途切れる。
 瑞樹から話し出すのを待つべきなのかもしれないけど―――やっぱり、どうしても気になってしまう。
 「―――読んだの?」
 瑞樹の手の中のものに視線を落とし、訊ねる。
 瑞樹も、チラリとそれに視線を走らせ、微かに笑った。
 「ああ。読んだ」
 「…最後まで?」
 「最後まで」
 「……」
 「手に持ってんのは、ここ来る間にも、ちょっと読み返してたから」
 意外な言葉に、蕾夏は少し目を丸くして、顔を上げた。
 読み返してた―――それならば…それほどショッキングな内容ではなかった、ということなのだろうか? あの日記の言葉は、やはりただの思い込みや勘違いで、事実は全く違うところにあったのだろうか?
 瑞樹の表情は、穏やかだった。
 何か1つ、重い荷物をやっとおろし終えたような―――そんな、吹っ切れた表情をしていた。
 「…何が、書いてあったの…?」
 訊ねずには、いられなかった。
 問いかけるような目をする蕾夏に、曖昧な微笑を浮かべた瑞樹は、何かを答えようと口を開いた。
 開いたけれど。
 答えは―――返ってこなかった。

 「―――……」
 瑞樹の微笑が、次第に掠れていき―――消える。
 蕾夏を真っ直ぐに見下ろす瑞樹の目が、ゆっくり瞬きを繰り返し、少し逸らされた。
 言葉を飲み込むように、唇が、引き結ばれる。と同時に、ゆっくりと瑞樹の瞳に浮かんできたものに―――蕾夏は、思わず、息を呑んだ。

 それは―――初めて見る、涙だった。

 うっすらと―――本当に、うっすらと。淡く浮かんだ涙は、ゆっくりゆっくり時間をかけて、瑞樹の瞳を覆って…。
 瞬きと同時に。
 1度だけ、耐え切れず、流れ落ちた。

 「……っ」
 頬を伝う感触で、初めて、自分の涙に気づいたのだろう。瑞樹は少し驚いたように、手の甲で頬に伝った涙を拭った。
 「み…ずき…」
 「……」
 「…そんなに、辛い手紙だったの…?」
 躊躇い気味の蕾夏の問いかけに、瑞樹はふっと笑い、緩く首を横に振った。
 「いや―――これは、そんなんじゃない」
 「…じゃあ、何…?」
 その涙は、何の涙―――…?
 「―――俺にも、よく分かんねーよ」
 「……」
 「でも―――もう、いい」

 そう呟いて、小さく息をつくと。
 瑞樹は、蕾夏の方に向き直り、なんとも言えない微笑を返した。
 悲しみや、苦しさを、全て洗い流した後のようなその微笑に、蕾夏が見惚れていると―――瑞樹の手に、肩を引き寄せられた。
 「―――…」
 抱き寄せられて。
 切ないほどの力で、抱きすくめられて。
 蕾夏にも、よく分からないけど―――ああ、もう、いいんだ。…そんな風に、何故か、思った。

 蕾夏も瑞樹の背中に腕を回し、抱きしめた。
 その背後で、瑞樹が手にしていた封書が、瑞樹の手を離れ、ラグの上に音もなく落ちた。
 その上に、瑞樹がこの部屋に着く直前まで何度も読み返していたせいで、封筒から出されていた最後の数枚だけが、風をはらんでフワリと舞い降りた。

 それは―――全ての罪の告白をし終えた母の、最後の言葉を綴った部分だった。

 

 最近、よく、考えます。
 何故私は、こんな風にしか生きられなかったのだろう、と。
 それに比べて―――何故、瑞樹は、あんな風に生きられるのだろう、と。

 数日前、彼の「親友」だという人が、私を訪ねてきました。
 かつて、父に静かに寄り添っていたあの人にどことなく似た、清楚な女性でした。
 「親友」という言葉が、事実なのか、それとも「恋人」であると告げるのが照れくさかったのか…その辺は、わかりません。けれど、その人が、瑞樹にとって生まれて初めての「心を開くことのできる相手」であることだけは確かです。
 彼女は、全てを知っていました。私の罪も、瑞樹に与えた痛みも、全てを。
 あの子が…たった3つか4つの頃から、誰にも心を見せなくなったあの子が、自らの口で、自分の痛みを彼女に話したのです。私は、信じられない思いで、彼女を見つめてしまいました。

 何故瑞樹は、彼女に全てを話すことができたのでしょう?
 何故私は、一樹に全てを話すことができなかったのでしょう?

 何故瑞樹は、彼女の愛と自分の愛を信じることができたのでしょう?
 何故私は、一樹の愛と自分の愛を信じることができなかったのでしょう?

 あの子は一体、いつ、愛を覚えたのでしょう?
 子は親を無意識になぞるもの、というのなら、彼はもしかしたら、私を一切なぞらず、一樹をなぞったのかもしれません。一樹は優れた心の持ち主です。私への激しい抵抗感から、長い時間を過ごした私より、休日の僅かな時間を過ごした一樹を無意識になぞっていても、不思議ではありません。
 もしくは、海晴がいたから、愛を信じるようになったのかもしれません。海晴は、私が育てたというより瑞樹が育てたようなものです。だから、無条件に瑞樹を信頼し、慕っていました。その純粋無垢な愛を感じ取って、人を愛することを知ったのかもしれません。
 可能性は、色々あるでしょう。でも、答えは、今も出せません。
 ただ、1つだけ、確かだと言えることがあります。

 それは、あの子が、突然何かに目覚めて、彼女に全てを話せるようになったわけではない、ということ。
 瑞樹は、何も変わっていません。
 あの子は昔から、愛を知っていたのです。一樹を愛し、海晴を愛し、彼らを守ろうと、小さい体で必死に私と戦っていたのですから。


 私がもし、人の愛をもっと信じられたなら、もっと早く、一樹に全てを話していたでしょう。
 それさえできれば、私の人生は、もっと違ったものに変わっていたかもしれません。一樹を愛し、瑞樹を愛し、海晴を愛し、ずっと求めていた心の平安を手に入れることができていたかもしれません。

 今からでも瑞樹に伝えられるなら、伝えたい。
 瑞樹。
 ずっとずっと、ひとりきりで、苦しかったでしょう。それは、私の罪です。
 けれど、これから先、あなたは、苦しくなれば支えてくれる人が、すぐ傍にいてくれる。
 何も隠すことなく、自分に正直に、ただ真っ直ぐに彼女を愛することができる―――私とは全然違う、明るい道を歩んでいくことができる。

 私は、あなたが羨ましい。

 瑞樹。あなたのように、私も生きたかった。

 

 ―――あなたのように、生きたかった―――…。


 死を目前にして、母が残した、最後の言葉。
 その一言が、胸に届いた時―――何かが、ゆっくりと融けていくのを感じた。

 許せた訳ではない。仕方なかった、と割り切れた訳でもない。あの日の記憶はまだ続くだろうし、悪夢もまだ暫くは消えないのかもしれない。
 でも、瑞樹は、母の弱さと哀しさを、受け入れた。
 受け入れて―――母を、哀れな人だと、心から思えた。
 母が背負ってしまった罪、母が怯えていたもの、母が後悔し続けていたこと―――その全てを、理解したから。

 “あなたのように、生きたかった”。その母の苦しいほどの懺悔に―――涙することができた。


 ―――“瑞樹は、優しいよ”。
 “秋本さんがどうでも、倖さんがどうでも、瑞樹自身は…最高に、優しい。それはきっと、倖さんや秋本さんより、瑞樹の心が強いからだよ。…強いからこそ、優しくなれるんだと思う”。
 “虐待の連鎖も、暴力の連鎖も、瑞樹なら断ち切ることができる。ううん…もう断ち切ってるって、私は思ってる。瑞樹も、そう信じていいよ”。

 信じて―――“自分”を。


 ―――ああ。信じられる。今なら。
 蕾夏に繰り返し言われても、心のどこかで不安だったけれど…その連鎖の中でもがいていた母から、この言葉を勝ち取ることができた、今なら。


 もう、いい。
 これで―――この痛みとともに、この先、生きていくことができる。誰を憎むことも、恨むこともなく。

 

 瑞樹の手が、そっと、蕾夏の髪を梳いた。
 目を閉じていた蕾夏は、それを合図に、ゆっくりと顔を上げた。
 すぐ傍にある瑞樹の目は、もう、涙を湛えてはいなかった。まるで、あの一瞬の涙が幻だったみたいに―――今の瑞樹の目は、静かで、穏やかだった。
 「…自由に、なれた?」
 「―――ああ。やっと」
 言葉でそう答えを貰えって、蕾夏の顔に、やっと心から安堵したような笑みが浮かんだ。
 長く苦しかった呪縛から、やっと、解放されて。
 まだ、どんなことが手紙に書いてあったのか、分からないけれど―――瑞樹の目を見れば、今はそれで十分だった。やっと瑞樹は、望んでいた自由を手に入れた。そのことを、信じられるから。

 良かったね―――そう、蕾夏が言おうとした時。
 微笑んだ蕾夏の唇に、瑞樹の唇が触れた。
 「―――…」
 まるで、柔らかい羽が触れたみたいな、優しいキス。
 突然の口づけは、ほんの数秒で、すぐに離れた。何かの誓いに似たその口づけに、反射的に瞑った目をパチリと開けた蕾夏は、少し驚いたように目を丸くした。
 「瑞樹…?」
 なんだか、特別なキスだった気がして。
 小首を傾げ、問いかける。すると―――瑞樹の目が、静かに微笑んだ。

 そのダークグレイの瞳に、一瞬、目を奪われる蕾夏に―――瑞樹は、その額に自分の額を合わせ、一言、告げた。


 「――― 一緒に、暮らそう」


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