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金曜日。
東京上空は、雲はありながらも、まずまず穏やかそうな空だった。
「肝心の黒川さんが来てないって、どういうことよ」
奏と同じ飛行機でロンドンに戻る筈の黒川の姿は、まだ空港ロビーにない。呆れ顔の佐倉に、奏は苦笑いを返した。
奏は、黒川が昨日からどこへ行っているのか、その事情を知っている。
三行半突きつけられた元妻と、中学生になる娘。離婚したとはいえ、娘を挟めば今も“両親”だ。帰国前日の夜を、親子3人で過ごした黒川は、今頃大慌てでタクシーを飛ばしている頃だろう。
でも、そんな話は、佐倉にすべきではないだろう。黒川の離婚の件だって、知らない業界人が多いのだ。
「…まぁ、まだ時間あるし。ギリギリまで忙しいから、師匠は」
能天気に奏が答えても、佐倉の、ちょっと眉をひそめたような表情は変わらなかった。
「このまま、黒川さんがフライト時刻過ぎても来なかったら、一宮君はどうするの」
「オレ? 帰るよ、黒川さん置いて」
「…師匠なんて思ってないでしょ、実は」
「まさか。ちゃんと敬ってるって。ただ、あの人のアバウトさは、これまでの付き合いで嫌ってほど実感してきたから」
立て替えた煙草代が、まともに返ってきたのは、たった1回だ。最初は頭の中で煙草の箱数を足し算していた奏も、途中から、もうどうでも良くなってきた。古本の“婦人画報”の代金を下手に立て替えたりしなくて正解だったな、と、つくづく思う。
「全く―――いいように手懐けられてるわねぇ。ロンドンに戻ったはいいけど、そのままズルズル、向こうでこき使われて続けて、こっちに来る機会を逃しゃしないか、心配だわ」
軽く睨んで、そう愚痴る佐倉に、
「ご心配なく。オレ、約束は絶対守るから」
奏はニッと笑い、そう答えた。
まだ両親や累にはこの件は伝えていない。ロンドンに戻ったらまず、一番ゴネそうな千里の説得から入らなくてはいけないだろう。更には、世話になった広告代理店への挨拶回りなども待っている。場合によっては、そこで魅力的なオファーに出会える可能性だってあるだろう。
でも、もう、決めたのだ。
誰が何と言おうと、28歳の誕生日までの約2年、モデルとしての残りの時間を、
佐倉の事務所も、奏がロンドンに帰国している間に本格的に動き始める。7月の末には、再び日本に戻って来るので、佐倉とのエージェント契約はその時に、という約束になっている。それ以外の具体的なことは―――まあ、今後、黒川や佐倉と相談することになるだろう。出発までの2日間では、とてもじゃないがそこまで手が回らなかったのだ。
「まあ、一宮君が覚悟決めてくれたのは、万々歳だけど」
そう言って佐倉は、ロビーのソファにストン、と腰掛け、意味深に首を傾げて奏を見上げた。
「肝心のあの2人は、今日、見送りには来ないの?」
「……」
奏の眉が、僅かに動いた。
「キミの迷いも決断も、あの2人故でしょうに―――せめて、会社勤めじゃない成田位は、見送りに来てあげてもいいと思うんだけどなぁ」
薄情な、とでも言いたげな佐倉の表情に、奏は苦笑した。
「成田も、仕事だから。それに―――もう別れの挨拶は、済んでるし」
昨日の電話の一言は、正直を言えば、ショックだった。
今更、ショックを受けるような話ではない筈なのに…なんだか、たった1人取り残されたような、強烈な寂しさを覚えて、携帯電話片手に立ち尽くしてしまった。
でも、それに続く説明を聞いて、今度は、微妙な気持ちになった。
そして、その微妙な気持ちを、胸の中で転がしていたら―――だんだん、納得できた。ああ、あいつららしいな、と。
『それってやっぱり、あの手紙の影響?』
急な展開とも思える話に、奏がそう訊ねると、電話の向こうの瑞樹は、
『中身も知らねーのに、いいとこ突いてくるよな』
と苦笑した。
あの、三田典子から託された手紙の内容を、奏は今も、はっきりとは知らない。
「知りたいなら教えてやる」と瑞樹は言ってくれたのだが、あえて詳細は訊ねずにおいたのだ。
勿論、知りたくない訳じゃない。たとえば、倖が、かつて本当に人を殺していたのか、とか。秋本の人生の後半を支えた女性についての話とか―――いまだに気になる部分は、一杯ある。が、それは、推理小説を読んでいて犯人が気になるのと似た心理だ。
奏が訊ねたのは、ただ1つ。
『読んでみて、あんたは、どう思った?』
瑞樹の答えは、シンプルだった。
『読んで良かった、と思った』
俺の代わりに持って帰ってきてくれて、感謝してる―――そう言われ、もう十分だと思った。
「ふーん…」
「…なんだよ、ふーん、って」
「なんだか、覚悟決めちゃったような顔してるなぁ、と思っただけ」
そう言って、佐倉は口の端をつり上げた。
「泣いて落ち込んでボロボロの一宮君も可愛いけど、その、泣き疲れちゃって開き直ったみたいな顔も、素材としては悪くないかもね」
「―――ひでー言い草」
酷いけれど、佐倉の言う通りだ。
泣いて、落ち込んで、ボロボロになって。挙句に泣き疲れて―――開き直った。でも、開き直れるようになった分、一歩前進だ。
罪は、消える筈もないけれど―――2人にとっての自分という存在が、忌まわしい記憶の一部だけではなくなったから。
やっと勝ち取った信頼と友情を、奏自身も今、信じることができるから。
「…やっぱ、来て良かった」
「え?」
無意識のうちに呟いていた一言に、佐倉が怪訝そうな顔をする。奏は慌てて首を振り、曖昧な笑みを返しておいた。
「おおーい、一宮君ーっ!」
ちょうどそこに、はるか彼方から、奏を呼ぶ黒川の声がした。
2人して声の方向に目を向けると、びしっとした黒いスーツに身を包んだ黒川が、スーツケースをがらがら引っ張りながらこちらに走ってくる姿が見えた。
「…あのスーツ姿には、何か意味あるの?」
「ロンドン着いてすぐ、取材が1件入ってるんだってさ」
「空港で着替えればいいじゃないの。10時間のフライトで、せっかくのスーツもよれよれになるわよ」
「面倒なんだって。写真はブレストショットしか許さないから、上着さえ脱いどけば問題ない、とか言ってた」
スタイリストとして、その考えはどうなんだ、と少々突っ込みたくなるが―――あのアバウトさが、黒川の困った所であると同時に、ありがたい所でもある。ああいうあっけらかんとした人でなければ、本業を持つ奏に弟子入りを許したりなんかしなかっただろうから。
スタイリストになるのか。メイクアップアーティストになるのか。黒川のように二足のわらじを履いていくのか。それとも…全く違う職業に就くのか。
先の見通しは、まるっきり、不透明。
でも、それでいい。あと、2年―――それだけの猶予があれば、それで十分。
―――あいつらだって、2年前は、今の仕事をやることになるなんて、夢にも思ってなかったんだろうからな。
そう考える奏の口元に、微かな笑みがふわりと浮かんだ。
たとえ、痛くても。
たとえ、苦しくて逃げたくなっても。
ここで、探し続ける。自分だけの“答え”―――自分が望む未来を。
奏が機上の人となって、数時間後。
「―――…」
帰宅した瑞樹は、玄関のドアノブに掛けられている紙袋を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
赤いチェック柄の手提げタイプの紙袋は、結構な大きさがある。まさか、こんな素人の家に危険物を仕掛ける訳もないだろう、と手に取ってみると、その中身は、意外に重たかった。
何が入ってるんだ? と中を覗き込む。そして、その正体が分かると同時に―――瑞樹は、少し目を丸くした。
中に入っていたのは、サボテンの鉢植え。
奏が日本に来て間もない頃、瑞樹と蕾夏が選んで、奏に贈った、あの鉢植えだった。贈った当時とは違い、サボテンの頭には、可憐な花がいくつかついている。その変化に、無意識に口元が綻んだ。
これを置いていったのは、当然、奏だろう。今朝はなかったということは、瑞樹が家を出た後、空港へ向かう前にここに立ち寄った、ということだろう。一体、なんだってこんなものを―――そう思った瑞樹は、その時、サボテンの脇に白いものが添えられているのに気づいた。
引っ張り出してみると、それは、二つ折りされたA4サイズの紙だった。
『成田へ
オレが苦しむかもしれないって心配してるなら、大きなお世話。
今でも十分、苦しいんだって。日本に来て、オレ、あいつのこと余計に惚れ直したから。
この恋は、多分、この先もずっと死なない。
でも、遠く離れて全部忘れたフリして生きていくなんて、もうオレにはできないから。
もう、覚悟を決めた。
血まみれになっても、ボロボロになってもいい。
オレは、ここで、あんた達の傍で、手に入らない恋にもがきながら、新しい恋と将来の夢を探す。
必ず戻って来るって決意表明に、こいつを置いていく。
オレが戻ってきたら、こいつを持って、オレに会いに来て欲しい。
今度は、怯えた顔も、罪悪感いっぱいの顔も、絶対しない。
世界一大事な“友達”に再会できたのがうれしくてしょうがない、って顔しかしないって、誓うから。
追伸:ムカつくけど、明日のミッション、成功するようロンドンで祈ってる。Good
Luck!
一宮 奏』
「……どっちが大きなお世話だよ」
思わずそう呟いて―――瑞樹は、苦笑を口元に浮かべた。
***
「―――…え…っ?」
瑞樹と蕾夏の前に並んで座った2人は、同時にそう声をあげ、固まった。
たっぷり、10秒。蕾夏の父と母は、そのままフリーズし続けた。そして、やっと我に返った途端―――2人がしたことは、困惑気味の表情で、お互いの顔を見合わせることだった。
「……ええと…」
結局、父の方が確認を取ることになったらしい。気まずそうに首を少し傾けつつ、蕾夏の父は、瑞樹と蕾夏の顔を見比べた。
「一緒に暮らす、っていうのは、つまり―――結婚する、ってことなのかな?」
至極、当然の疑問だ。
いい年齢の交際している男女が、「一緒に暮らすのを認めて欲しい」と両親に申し出てきたら、普通はそれを結婚の承諾を得に来たものと思うだろう。かなりぶっとんだ両親ではあるが、その辺の感覚はそこそこ標準的らしい。
「…いえ。当面は、籍を入れる予定はありません」
「……」
瑞樹の言葉に、蕾夏の両親は、返す言葉が見つからない様子で、黙り込んだ。
立場上、瑞樹から説明したのでは、心証が悪くなるばかりだろう。蕾夏は、瑞樹が更に説明しようとするのを軽く制して、自ら口を開いた。
「私達は、“一緒に暮らしたい”んであって、“結婚したい”訳じゃないの。むしろ今は、結婚すると不都合な部分の方が多いから、結婚はしたくないの」
「不都合、って―――どんな不都合があるの?」
より納得がいっていないらしい蕾夏の母が、眉根を寄せて蕾夏に訊ねる。父の方は、困惑気味ではあるが、動揺している風ではなさそうだ。
「契約の関係上、入籍したら、それを編集部に伏せたままにするのは不可能だし―――そうなれば、これから一緒に連載をやっていこう、っていうこのタイミングは、ちょっとまずいでしょ」
「じゃあ、コラムが軌道に乗ったら結婚するってこと?」
「それは…まだ、分からないけど」
「ちょっと、蕾夏。そんな無責任なことでいいの? あなたも瑞樹君も、いわゆる結婚適齢期じゃないの。それなのに、結婚の可能性も考えずに同棲なんて」
「まままま、夏子さん」
少し感情的になる母を、隣に座る父が宥める。ごほん、と咳払いすると、父は、まず瑞樹の方に目を向けた。
「瑞樹君は、それでいいのかい?」
「え?」
「いや、蕾夏は昔から、結婚とか恋愛とかに後ろ向きでね。社会人になっても“ずっと1人でいい”とか“キャリアウーマンとして生きてくんだもん”なんて言ってて、将来大丈夫かねぇ、って、僕らも心配してたんだよ。だから、もし、瑞樹君がプロポーズしたのに蕾夏が“同棲はいいけど、結婚はイヤ”なんて言ったんだとしたら、申し訳ない話だからね」
「い、いや、そんなことは」
―――そんなこと、言ってたのか。こいつ。
慌てて首を振りながら、瑞樹はチラリと、蕾夏の顔を窺った。むっとしたように唇を尖らせた蕾夏は、それでも、父の言葉に抗議する様子はなかった。ということは―――事実なのだろう。
まあ、蕾夏がそうなってしまった事情を、瑞樹は知っているので、無理もないなと思うのだが―――何も知らない両親からすれば、心配するのも当然かもしれない。
「俺も蕾夏も、離れているより一緒に暮らす方が自然だと思ったから、そうしようと決めただけです。結婚って形を取った方が認められやすいのは分かってるけど―――そこにこだわる気はないです」
「ってことは、僕らが“結婚しない限り、一緒に住むなんて認めない”って言い張ったら?」
「その時は、一緒に暮らすことを優先して、結婚します。この先、結婚することがあるとしたら、相手は一生、蕾夏だけですから」
迷うことなく即答する瑞樹に、蕾夏は少し視線を彷徨わせ、テーブルの上に目を落とした。勿論―――そういう“もしも”の場合も事前に話し合ってはいたが、両親を前に宣言されると、かなり恥ずかしい。
「うーん…つまり、一緒に暮らせることが第一で、結婚はどっちでもいい、しないと一緒に暮らせないんなら結婚するけど、って感じか…」
瑞樹の返答を聞いて、父は腕組みをして、ソファに深々と沈み込んだ。
「正直を言うと、僕は、蕾夏と瑞樹君が一緒に暮らしてくれるのは、万々歳なんだよねぇ」
「え?」
「蕾夏が、都会のど真ん中で一人暮らし、って状態は、あんまり心臓にいい状態じゃないからね。蕾夏はなかなか弱音を吐かないから。この前みたいに熱出したりしても、意地張って帰ってこないで、一人暮らしのあの部屋で倒れて、若くして孤独死とかになっちゃったら嫌だしね」
「…極端だよ、お父さん」
呆れ声で蕾夏が突っ込みを入れるが、父の表情はいたって真面目だ。この前、蕾夏が聴力を失って大騒ぎになった後だけに、本気でそういう心配をしていたらしい。
「籍の件も、どっちでもいいよ。2人が決めたことなら。ただ…夏子さんが、ねぇ」
「あら、酷い。私だけ悪者にするのっ」
父の言葉を受けて、母もムッとした様子で口を開いた。
「言っておくけど、私も、同棲に反対な訳じゃないのよ? ふしだらだ、って頭ごなしに拒絶する親もいるみたいだけど――― 一緒に住んでみないと分からない長所短所ってあるでしょ。結婚してからそれを見せつけられて後悔する位なら、模擬結婚、って感じで同棲して、結婚してから上手くいくかどうか確認するのも一案だと思うから。でも、そういう同棲なら、ちゃんと期限を切って“何ヶ月経ったらちゃんと籍を入れる”って約束をするのが筋なんじゃないかと思うのよ」
「……」
それは―――確かに、一般論でいけば、そうだろう。
眉をひそめた2人は、チラリとお互いの顔を窺った。どちらも、母の言い分は分かるが、自分達の中では納得がいっていない、という目だった。
小さくため息をついた蕾夏は、一度唇を引き結ぶと、しっかりと顔を上げた。
「お母さんの話は、分かるけど―――2人での生活が上手くいく、って確信できたとして、その先にあるのがどうして“結婚”なの?」
「……えっ」
「何のために、結婚するの?」
「……」
「結婚て結局、婚姻届を出すことでしょう? それが“一生を共に過ごす”っていう宣誓の意味なら、そんなもの出さなくたって私達は一生一緒にいるつもりだし。お互い、他の人なんてあり得ないから、誓うまでのこともないし」
これには、さすがに―――父も母も、言葉を失った。
「ごめん―――私には、結婚の意味が、まだ見つからないの」
「……」
「たとえば、もし子供ができたら、家族になる意味があると思うから結婚すると思う。それ以外では…今のところ、ちょっと思いつかないけど。でも、結婚した方がいいって思えたら、迷うことなく結婚できる。でも、今はまだ、その意味が見つからないの。見つからないまま―――ただそれが“世間一般の当たり前のこと”だから結婚するのは、嫌なの。私達の望みは、あくまで“一緒に暮らすこと”だけだから」
「―――…」
蕾夏の勢いに呑まれたように、父も、母も、目を丸くしたまま黙っていた。
それぞれに、結婚の意義というものを頭に思い描くものの―――蕾夏の言葉を覆すことのできるだけの意義は、なかなか浮かんでこないらしい。
そのまま、1分ほど、過ぎただろうか。
「……あらやだ。お茶しか出してなかったわね」
唐突に、母がそう言って、立ち上がった。
「お茶も冷めてきたみたいだから、コーヒー淹れてくるわね」
「えっ」
逃げる気か、と、父が焦ったような顔で母を仰ぎ見た。それを見て、蕾夏も意を決して立ち上がった。
「お母さん、私も手伝う」
「蕾夏はいいわよ」
「ううん。手伝う」
そう言って蕾夏は、母の背中を少し押して「ほら、早く」と急かした。母は、怪訝そうな顔をしつつも、蕾夏に急かされるままキッチンへと向かった。
ちらっと振り向いた蕾夏の目が、瑞樹の視線とぶつかる。
―――正直に、説明するしかないよ。
事前打ち合わせで決めた、最終手段。2人は、互いに、目だけで頷いた。
***
「―――ほんとにいいの? 蕾夏」
コーヒーサーバーの準備をしながら、母が、小声で心配そうに言う。
「婚約だけでも、しといた方がいいんじゃないの? 結納とか堅苦しいこと言わないから、口頭でだけでも」
「…いつするか分からない、その気にならなかったら一生しないかもしれない結婚の約束するのに、何か意味あるの?」
「そりゃあ、決まってるじゃないの!」
何寝ぼけたこと言ってるの、といった顔をして、母の肘が、コーヒーの缶を手に取る蕾夏の脇腹を、軽く小突く。
「フリーの立場じゃ、いつ瑞樹君に逃げられてもおかしくないのよ? あーんなに見た目も中身も素敵な人、二度と現れないわよ、きっと。せっかく両思いでうまくいってるんだから、気持ちが冷めないうちに、がっちり捕まえておかないとっ」
「……」
―――そ…それが、本音ですか。
やたら“普通の母親”っぽく渋い顔をしていたと思ったら―――まあ、この方が、母らしいと言えば、母らしい。脱力し、はぁ、とため息をついた蕾夏は、軽くこめかみを押さえた。
「…大丈夫だってば。すんごい性格のいい美女連れてきても、瑞樹を私から引き剥がしたりできないから。逆に、見た目も中身も満点の男連れてきても、私も根性で瑞樹にしがみつくし」
「あらやだ。言うわね」
蕾夏がのろけるなんて、とでも言いたげに、母が口を尖らす。
「でも、人の心なんて分からないわよ? 今は自信満々でも、半年先、大喧嘩で別れちゃってたりして。その時後悔しても遅いわよ〜?」
「…そんなに、瑞樹をグルグル巻きにして捕獲しとかないと、安心できないの? お母さんは」
夫婦揃って表現がオーバーなんだから…という口調で、蕾夏はぱかっとコーヒー缶の蓋を開けた。コーヒー豆の香ばしい香りに、ちょっと勇気付けられる。
「第一、ダメになる時は、結婚しててもしてなくても、ダメになるでしょう? 結婚して、籍が入っちゃえば、それで一生安心って考えるのもどうかと思う」
「でも、恋人は簡単に別れられるけど、夫婦はそうもいかないでしょう?」
「そう? 簡単に離婚してるじゃない。今時の人達」
「…今時の、簡単にくっついて簡単に別れてるカップルは、また別問題として、よ」
「でも、瑞樹の両親も」
本当は、この話をするのは、胸が痛い。
けれど、瑞樹と約束をしたから―――分かってもらうためには、ギリギリの線まで話して、訴えるしかないと。
「瑞樹のお父さんとお母さんも、10年以上連れ添って、結局、離婚したし」
「……」
母が、口を噤む。
瑞樹の両親が、瑞樹が中学生の時に離婚した事実は、蕾夏の両親も知っている。そこに不倫が関わっているらしいということも。根堀葉堀訊くような真似はしなかったが、瑞樹の自嘲気味の口調から、相当もめた話だろう位の見当はついているだろう。
一生を共に過ごす宣誓が結婚ならば―――瑞樹の母は、一体何だったのか。それが決して特殊な話ではないことを分かっているだけに、母も反論のしようがなかった。
「…最近、分かったの。瑞樹の両親が、離婚したいきさつが。それで、結婚してた時より、離婚してからの方が、ご両親がお互いを思いやれるようになってたんだ、って事実を知って―――2人して、思ったの。結婚って一体なんなんだろう、って」
「……」
「瑞樹が結婚にこだわらないのは、無責任だからじゃない。…瑞樹は、子供の目線で、お母さん達より沢山沢山、結婚の汚くて痛い部分を見てきたから。だから、結婚に意味を見出せないんだと思う。私も、元々、結婚て何なんだろう、って思ってたけど…知れば知るほど、分からないの。ただ一緒にいるだけじゃダメなの? 夫とか妻って名乗ることに、どれだけの意味があるの? って」
父と母の離婚だけじゃなく、母と窪塚の再婚も。
打算と計算、プライドと意地、そして少しばかりの罪悪感。そんなものの果てに結ばれた婚姻も、死を目前にして、あっさり解かれて。
結婚って、何だろう―――今、2人にその答えは出せない。
「いつかはね、答えが出るのかもしれない。ううん、答えが出なくても、ただなんとなく結婚して同じ苗字を名乗りたくなる日も来るかもしれない。でも―――それは、“今”じゃないの」
蕾夏はそう言って、微かな笑みを作った。
「今はただ、一緒にいたいだけ―――それだけなの。私も、瑞樹も」
***
「―――ほんとに、いいのかい?」
蕾夏と蕾夏の母が去ったリビングで、蕾夏の父は、念を押すように瑞樹に訊ねた。
2人の去ったキッチンの方を眺めていた瑞樹は、心配そうな蕾夏の父の顔に、ちょっと苦笑いを返した。
「結婚の約束もしない不誠実な男、って責められるならまだしも、そんな心配そうな顔されるのは、ちょっと意外なんだけど…」
「そりゃあ、瑞樹君がいい加減な人間じゃないことをよく知ってるからだよ」
にっこりと笑った藤井氏は、まるでついでのように、付け加えた。
「それに―――君は、家庭の愛情に飢えてるように見えたからね。ずっと」
「……」
―――やっぱり、蕾夏の父親だよな。
以前から、時々、思う。この人の直観力の鋭さは、蕾夏に通ずる部分がある、と。軽い動揺に息を呑みつつも、瑞樹は努めてそれを顔に出さないようにした。
「まあねぇ…。僕は、籍が入ってようが出てようが、あんまり気にしないんだけど―――夏子は、蕾夏のウェディングドレス姿を想像してヘラヘラ顔を崩しちゃうタイプだからね」
「…はあ」
「それと、瑞樹君から“お父さん”て呼ばれないのも、ちょっと寂しいかもなぁ」
「……」
“お父さん”。
違和感ありまくりな呼び方に、思考がストップしかける。父以外を父と呼ぶのが、こうも妙なことだとは、想像だにしなかった。
「ああ、ウェディングドレス姿なら、似合う年齢のうちに、とりあえず写真だけは撮っとくって手もあるね」
「…ま、そうですね」
「それにしても―――自信失くすねぇ。僕と夏子を見て育った筈なのに、なんであの子は、ああも結婚に対してネガティブなんだか…」
ため息をついて、少し残念そうな顔をする蕾夏の父に、瑞樹は僅かに眉根を寄せた。
真相をはっきりと確かめずにはいられない蕾夏の母親には、ちょっと、話せないけれど。
この人には―――蕾夏と同じ、1つの言葉からその裏の思いや事情を察することのできるこの人にならば、話してもいいかもしれない。
「…蕾夏がネガティブなのは、藤井さんのせいじゃないですよ」
ぽつりと呟くように瑞樹が言うと、気落ちしたムードで視線を流していた蕾夏の父が、少し驚いた顔をして瑞樹の顔を凝視した。
「え?」
「―――あいつ、ちょっと男性恐怖症なところがあって。あいつのそういう性格知ってる奴に…昔、プロポーズされたことが、トラウマになってるんだと思う」
「…トラウマ?」
「ひとり立ちしようとしてる蕾夏が、自分から離れていくのを恐れて―――“愛されてなくてもいい。一生、眺めて過ごすだけでも構わない。ただ、誰にも奪われたくないから、せめて婚約だけでもしてくれ”って言われた、って」
「……」
「俺もそういう話聞いて―――蕾夏を逃がさないために結婚持ち出すような情けない奴にだけは、なりたくないって思ったし」
「―――なるほど…」
どこか、心ここにあらずな声で、父が相槌を打つ。
多分、彼には、それが誰の話かなんて簡単に推測がついているだろう。勿論、男性恐怖症の正体は知らないだろうし、プロポーズの事実も今日知ったばかりだろうが…正孝と蕾夏の間が不自然なものになっていたこと位は、おそらく、とっくの昔に気づいていたのだろうし。
「後ろ向きになったのは、そういう男のエゴを見せ付けられたせいで、親を見てたせいじゃないですよ」
「…エゴ、かぁ…。でも、瑞樹君はそういう独りよがりは言わないタイプだろう?」
「言わないけど―――なんだろう。逆に、変な自信かな。そんな体裁なんて、俺達には必要ねーよ、っていう。俺もそうだけど、蕾夏も」
「言うねぇ」
愉快そうに笑う蕾夏の父に、瑞樹も苦笑を返し、ちょっと息をついた。
「―――俺は、蕾夏には、自由でいて欲しいんです」
そう。それが、一番の真実。
「“籍”を盾にがんじがらめに縛らなくたって、蕾夏は自分の意志で、俺の傍にずっといてくれるって、信じられるから―――法律からも、世間体からも、自由でいて欲しいんです。お互い、結婚に、それ以上の意味を見つけられるまでは」
それぞれの呪縛を解き、やっと心の自由を得た今。
結婚しているから、一緒にいるのではなく。
2人でいないと駄目になるから、一緒にいるのでもなく。
1人では半人前で、2人でやっと一人前になれるから、一緒にいるのでもなく。
1人1人、自分の足でしっかりと地面を踏みしめた“個”として、「一緒にいたい」―――その想いだけで繋がっていたい。
それが、2人が見つけた、“今”の自分達の、一番の真実。
***
約1年ぶりに見る、高台から望む神戸の街は、少し曇っていた。
「あんまり、海がよく見えないね」
石段の上から振り返り、蕾夏が、少し残念そうな口調で呟いた。
「夕方には雨になるかもな。…足元、気をつけろよ」
「うん」
瑞樹が差し出した手を素直に握る。2人は、足元に注意しながら、1段1段石段を上がっていった。
蕾夏の両親に承諾をもらいに行った翌日の、日曜日。
早朝の新幹線で、2人は神戸へ向かっていた。
目的は、2つ。1つは、瑞樹の父に一緒に暮らすことの報告をすること。そしてもう1つは―――倖の日記を、彼に渡すことだった。
「日記?」
「ああ。窪塚さんが取っておいたらしい。海晴の旦那から貰った」
意外そうな顔をする父に瑞樹が差し出したのは、紺色の表紙の日記1冊だけだった。
「2年位前から死ぬ直前まで書いてたやつらしい」
「…それじゃあ、俺が貰うのも、ちょっとまずくないか?」
窪塚と婚姻関係にあった時代と重なっている点で、少々気が引けたのだろう。父はそう言って、少し眉を顰めた。まあ、そう思うのも無理はない。すぐに、蕾夏が補足説明を付け足した。
「日記だけど、一樹さんへのラブレターみたいなもんですよ、これ」
「は?」
「ごめんなさい。2人で、ぱらぱらっとだけ読んじゃいました」
「……」
申し訳なさそうな笑みで軽く頭を下げる蕾夏に、父は、暫し不思議そうな顔で日記を見下ろしていたが―――やがて、最初のページを躊躇いがちに開いた。
斜め読みした日記は、かつての夫への想いが、頻繁に綴られていた。
手紙で、海晴の結婚に関する相談などもしていたらしく、その返事に救われた、といった記述もあった。何故結婚していた頃にこのような穏やかな関係が築けなかったのか、と後悔を滲ませている文章もしばしば見られた。愛を綴った文面も、時折、まるで誰かに見つかるのを恐れるかのように、ページの片隅に忍ばせてあった。
窪塚に関して書かれているのは、そのほとんどが「申し訳ない」ということばかり―――自分の身勝手で彼を利用し続けていた、彼には酷いことをした、結婚し、跡継ぎを彼に与えたことでその罪は少しでも償うことができたのだろうか。
『社長は、最初の数ページだけ読んだ、とおっしゃってました。…酷く、憔悴されてました。多分、読みたくないようなことが書かれていたのでしょう』
海晴の夫の言葉を思い出し、無理もないな、と瑞樹は思った。
勿論、母だって、窪塚を欠片も愛していなかった訳ではないだろう。けれど、最初の数ページを読んだだけで、父に対する想いと窪塚に対する想いの差はあまりにも歴然としすぎだ。最終的には自分が母を手に入れたのだと自負していたであろうあの男からしたら、それは愕然とする事実だったに違いない。
紺色の日記の一番最後は、母が亡くなる1ヶ月前―――記憶障害と闘いながら書いた、短い言葉だった。
『いつき
あのとき あなたがいったことば いまなら よくわかる
はなれても どこにいても あなたとわたしは いっしょにあるいてる
はなれているからこそ おだやかに あいすることができる
いつき いつき いつき
あいしてる こころから』
「―――分かってたけど」
最後の一文を読み終えて、父はそう言って、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「言葉で聞くと、やっぱり、嬉しいもんだな」
「はー…、疲れたぁ…」
やっと辿り着いた母の墓には、少々しおれてしまった菊の花束が供えられていた。
「海晴…な訳、ないか」
「海晴さんが来たのは、1ヶ月も前でしょ。いくらなんでも、そこまで持たないよ」
「…ってことは、親父か」
瑞樹と蕾夏が、墓参りに行く、と言ってマンションを出た際には、最近墓参りに行った話など一切しなかったのに―――思いのほか日常的に、ここに足を運んでいるのかもしれない。
くたびれてしまった菊の花束を取り除き、新しい花を手向ける。そんな蕾夏の隣で、瑞樹は線香を準備した。
「でも――― 一樹さんて、ロマンチストなんだね」
「親父が?」
「ほら。さっき話してたこと」
「……ああ」
昼食を一緒に食べた時、蕾夏が「何故倖さんと結婚したんですか?」と訊ねると、父は、少し照れながら、以前瑞樹に答えたのと、ほぼ同じことを答えたのだ。
「出会いも別れも運命だと思えるって、素敵だよね。…なんか、分かる気がする」
瑞樹から線香を1本受け取りながら、蕾夏はくすっと笑った。
「たとえどんなに壮絶でも―――1つの愛を貫いたからこそ言える言葉なんだろうな、って」
―――足音を、聞いたんだ。
それぞれの道を、それぞれの速さで歩いていた筈なのに―――ある日ふと、足音がピッタリと、重なるのを聞いた。不思議に思って隣を見ると、そこに倖がいた。…それだけのことだ。
瑞樹も、出会えばきっと、わかるよ。俺の子だもんな。
手を繋いで歩くのも、愛の形で。
遠く離れた場所で、それでも足音を重ねて生きていくのも、また1つの愛の形で。
傷つけあって、苦しんで、迷って迷って、その果てに別れを選んで―――それでも、今、心から愛し合っていたと信じられるなら、それでいいのかもしれない。
沢山の後悔と、沢山の罪悪感の上に積み上げられた“今”の自分が、幸福を感じられているのなら―――もしくは、きっとこの先に幸福を感じられる瞬間がある筈だと確信できるのなら…それで、いいのかもしれない。
「…さてと」
線香を手向け終わり、一応の墓参りを済ませると、瑞樹は立ち上がり、ジーンズをぽんぽんと叩いた。
「ほんとに、やるの?」
「ああ。この機会を逃すと、また迷っちまいそうだからな」
「…ん、そうだね」
まだ少し迷いを残していた蕾夏も、よいしょ、と立ち上がり、傍らに置いていた紙袋を手に取った。
中から取り出したのは、新聞紙の束と、赤い表紙の日記―――倖が、苦悩の日々を混乱の中で綴った、あの日記だ。
新聞紙を適当に丸め、地面に置いた蕾夏は、いい? と確認するように瑞樹を仰ぎ見た。
それを合図に、瑞樹は、蕾夏から受け取っていた赤い日記の表紙を、びっ、と音を立てて引き裂いた。
丸めた新聞紙に、ライターで火をつける。途端、めらめらと上がる火の中に、瑞樹は引きちぎった日記の表紙を放り込んだ。
1枚、引きちぎって、放り込む。
また1枚、引きちぎって、放り込む。
何かの儀式のように、何かを見送るように―――瑞樹は、母の悲鳴を封じ込めた日記を、1枚ずつ焼いていった。
この日記に綴られたことの大半は、父も知っているような内容だろう。
でも、最後のあの1ページは―――母が犯した2つの罪の告白は、母が血の滲むような思いで父から隠し通した事実だ。
いずれ、海晴や海晴の夫から、この日記の存在を父が耳にするかもしれない。その時、下手に手元に置いておいたら、また迷ってしまうかもしれない。だから、そうならないためにも―――自分の手で葬った方がいいと、瑞樹はそう思ったのだ。
「…送り火みたいだね」
蕾夏が、ぽつりと呟き、
「―――ああ、そうだな」
瑞樹が、そう答える。
海側からの風が、炎を揺らす。燃え落ちて、黒い煤の塊となった日記の一部が、その風に煽られて、空へと舞い上がった。
いつき。
あいしてる。
愛してる―――心から。
舞い上がり、空へと還っていく母の言葉を仰ぎ見ながら、どちらからともなく、指を繋いだ。
たとえ、それが運命であっても。
秘密を飲み込み、離れて歩くことしかできなかった母の愛の形は、悲しすぎるから。
やっぱり自分達は、こうして指を繋いで、歩きたい―――そんなことを思いながら、2人は、ずっと空を仰ぎ続けていた。
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