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― From Tokyo 〜August 2001〜 ―

 

 どこか遠いところで、目覚まし時計が鳴っている気がした。

 蕾夏は、最大限手を伸ばして、目覚ましのボタンを押そうとした。が、目覚ましを止めるつもりで叩いたものは、時計とは全く違うものだった。
 「―――おい」
 さっきから自分の肩を何度も叩く蕾夏の手を掴み、瑞樹は寝起きの不機嫌な声で呻いた。
 「…だから、俺は目覚ましじゃねーって」
 体を捻り、バシッ、と瑞樹が力任せに目覚ましを叩くと、その勢いで、目覚まし時計の隣に飾られたサボテンのテラリウムまでが、ガタッと音をたてた。
 熟睡状態から、無理矢理覚醒させられた感じがする。片手では蕾夏の手首を掴み、もう片手は目覚ましの上に乗せたまま、瑞樹は暫く動くことができなかった。
 動くことができないまま、頭の片隅で、思った。
 なんだか、もの凄くデジャヴを感じるシーンだなこれ、と。

 「…うう…ねむーい…」
 目覚めに抗うみたいに、蕾夏が気だるそうに寝返りを打つ。その頬を、小窓から射し込む朝の光が照らした。
 やっと動けるようになった瑞樹が蕾夏の方に顔を向けると、ゆっくりと目を開けた蕾夏が、ふわりと微笑んだ。
 「…おはよ」
 白い光の中に溶けていきそうな笑顔に、瑞樹も笑みを返した。
 「―――おはよう」

***

 「やっぱり、平日にビデオとかDVDの荷解きやるのって、危険だと思う」
 きゅうりをスライスしながら、蕾夏はそう言って唇を尖らした。
 その隣で、フライパンに玉子を流し込んでいた瑞樹は、その言葉に軽く眉を上げ、むっとしたように蕾夏の横顔を流し見た。
 「普通に荷解きしてりゃ、何も問題ねーだろ。誰かさんがいちいち“あっ、あのシーンってどうだっけ”とか言って、しまうべきメディアをデッキに突っ込んで再生しなけりゃな」
 「でも、確認して満足したと思ったら、誰かさんが“ちょっと待て、この次のシーンの照明が絶妙だった筈だ”とか言って、更に先まで見ようとするのも、さっぱり荷解きが終わらない原因じゃない?」
 「再生のきっかけがなけりゃ、そもそも見ねーよ」
 「…そりゃ、そうだけど」
 つまり。
 引っ越してきて1ヶ月近く経とうとしているのに、一部、ダンボールに収まったままの荷物があるのだ。
 生活に必要なものから荷解きをしていくので、当然、残ってしまうダンボールは趣味のものと相場が決まっている。本とか、ビデオとか、CDとか。そして、そういう荷物に限って、ダンボールから取り出すたびに読んだり再生したりで、さっぱり荷解きが進まないということも、ほぼ定説で。
 「…まあ、仕事の前日だけは、やめとくか」
 コンロの上で、フライパンをガタガタと動かしつつ、少し気まずそうな口調で瑞樹が言うと、蕾夏も、
 「…うん。次の休みこそ、荷解き優先しないと」
 と言って、包丁を置いた。

 オムレツにきゅうりとトマトの付け合せ、なんて、普段の平日なら面倒だから絶対やらないけれど―――今日は、特別。
 今日は午後から、2人揃っての取材の仕事。そう、あの“カメラとさんぽ。”の取材なのだ。
 正式採用されてから、これが2度目の取材。読者反応がはっきりするのは、まだまだこれからだ。慣れたら手を抜く、なんて考えは微塵はないけれど、やはり半端なものは出せないぞ、と、つい意気込んでしまう。
 だから、こういう朝は、少し早めに起きて、優雅に朝食なども作ってみる。
 間違っても―――間違っても、寝過ごした挙句にパンを齧りながらバタバタと支度をする、なんていう、引越し以来頻繁に繰り返してる情ない朝ではいけない。取材までボロボロになりそうだ。

 「あ、そうだ。奏君のサボテン、出かける前に水やらないと」
 器用にオムレツをひっくり返す瑞樹の手元をじっ、と見つめていた蕾夏は、突如、そのことを思い出して顔を上げた。
 「ああ、そういや、ちょっと元気なくなってたな」
 振り返り、窓際に置かれたサボテンの鉢植えを一瞥した瑞樹も、そう呟く。
 3日前、再び日本にやってきた奏は、現在、一緒に緊急帰国した黒川のプライベートマンションに泊めてもらっている。本当は、空港に出迎えに行った時にあのサボテンを渡そうと思っていたのだが、居候状態であんなものを置かせてもらうのも…ということで、まだ瑞樹が預かり続けているのだ。
 「黒川さん、週末にはロンドンに戻っちゃうんでしょ? 奏君、早く住む所決まるといいのにね」
 「それ以外の雑用が多すぎて、まともに不動産屋も回ってねーらしいからな。…蕾夏、皿」
 「あ、はい」
 オムレツが完成したらしい。きゅうりを白い皿に並べていた蕾夏は、その1つを、コンロ脇のスペースに差し出した。
 焦げ目ひとつない、鮮やかな黄色のオムレツが、白いプレートに映える。
 「きれーい」
 「ま、95点てとこか。そこそこ幸先いいな」
 「…瑞樹、やっぱり、妙に点数辛いよ」
 一体どこで5点マイナスされたのか、蕾夏の目ではさっぱり分からない。首を捻りながら、きゅうりの横にプチトマトを並べた。
 「あらら、1個余っちゃった。…食べる?」
 ザルの中に残ってしまったプチトマト1個の扱いに困り、蕾夏がそう言って瑞樹を見上げる。
 すると、その言葉をある程度予想していたのか、瑞樹は意味深にニヤリと笑った。
 「食わして」
 「―――出たわね、久々に、それが」
 1年ぶりくらいじゃなかろうか。過去数度の経験を思い出し、蕾夏はちょっと眉を顰めた。
 「手、空いてるじゃない」
 「サボテンの水やり、俺がやるから、その手間賃」
 「私がやるからいいよ」
 「遠慮するな」
 遠慮じゃないってば。
 あくまで強引な瑞樹のセリフに唇を尖らせつつも、蕾夏は、水滴の浮いたへたの部分を摘むと、プチトマトを瑞樹の口の中に素早く放り込んだ。
 「はい、どーぞっ」
 「…ほんと、お前って、面白い」
 条件反射的に頬を染める蕾夏を見て、瑞樹は楽しげに笑った。
 「もーっ、いいからっ! ほら、私はパン焼くから、瑞樹はサボテンに水っ!」
 「はいはい」
 蕾夏を宥めるようにぽんぽん、とその頭を軽く撫でた瑞樹は、楽しげな顔のまま、グラスに水を注いで蕾夏の背後を通り過ぎた。
 ますます唇を尖らせる蕾夏は、そんな瑞樹の背中を目で追いつつ、食パンの袋に手を伸ばした。が、そのまま瑞樹の様子を目で追っていたら―――いつの間にか、むくれていた口元が綻んでしまった。

 床にしゃがんで、サボテンと向き合うようにして「元気になれよ」と水をやっている瑞樹の姿が―――なんだか、妙に、微笑ましかったのだ。


***


 「楽しそうだな」
 その一言に、資料をトートバッグに突っ込む蕾夏の手が、ピタリと止まった。
 チラリと隣の席に目を向けると、脚を組み、頬杖をついた瀬谷が、意味深な目つきでこちらを見ていた。
 「…もしかして、鼻歌でも歌ってました?」
 「いや、別に? ただの取材準備に、そんな嬉しそうな顔してれば、楽しそうだな、と思うのは至極当たり前のことだろう?」
 「……」
 しまった―――気まずそうに瀬谷に背を向け、頬を軽く叩く。
 「珍しく警戒心薄いね。社会部からの視線が痛いのに気づいてないのか」
 「…そんな気は、してました」
 机の塊を3つ越えた先にある、社会部デスク。一応コラムにGOサインを出しはしたものの、いまだに納得のいっていない連中が、時折こちらを見ている。今日の取材先を彼らに報告した覚えも義務もないが、とっくにどこかから情報を仕入れているのだろう。全く―――仕事や権力が絡むと、男の方が陰湿かつしつこいかもしれない。
 でも、その位のことは、とっくに覚悟済み。
 やっかみ、妬み、ひやかし、嫌味―――そんなもの、なんでもない。そう思える位に、このチャンスを掴んだことが嬉しいのだから。
 「あれっ、藤井さん、これから取材っすか」
 ちょっと席を外していた小松が、戻ってきてまず、蕾夏の様子を見てそう声をかけた。
 「あ、うん。午後イチで」
 「自分も午後イチで取材あるんすよ。歩きだから、機材抱えて電車に乗らないと」
 「あ、車じゃないんだ。じゃ、途中まで一緒に行こっか」
 「やぁった。ハハ…、なんか、藤井さん、楽しそうっすねー」
 「……」
 ―――そ…そんなに顔に出てるのかな。
 鋭い瀬谷ばかりか、能天気な小松にまで指摘されるとは。笑顔を引き攣らせた蕾夏は、思わず自分の頬を片手で押さえた。斜め下で、座っている瀬谷が肩を震わせて笑いを堪えているのにも気づかずに。
 「何の取材なんすか?」
 「うん…その、ほら、コラムの」
 「あ、“カメラとさんぽ。”? じゃあ、成田さんと一緒なんすね。へーっ、いいなぁ!」
 「…あ、あの、あんまり大きな声で言わないで…」
 小松は、あのレトロな映画館の写真以来、密かに瑞樹のファンとなっているのだ。自分とほとんど変わらない若さなのに、渋くて味のある写真が撮れるなんて、と尊敬している。ただし、瀬谷とは違い、彼が蕾夏の恋人だなどとは微塵も考えていないらしい。
 「今度はどこ取材するんすか?」
 「…青山。表参道で降りて、その周辺を結構広範囲で取材するつもり。何度も足運んでる場所だけど、裏通りとか行って、オシャレな街以外の顔を見つけたいなと思って」
 「いいなぁ。自分もそっちの取材の方が同行したいよなぁ。あ、成田さんに、次のコラムの写真も楽しみにしてますって、伝えといて下さいね」
 無邪気にニコニコ笑ってそう言う小松に「うん、分かった」と言おうとした時。
 「へえ。これからコラムの取材かい」
 と、嫌味たっぷりの声が、蕾夏と小松の間に割って入った。
 ―――うわ、出た。
 “反藤井派”社会部の大ボス、杉山だった。社会部のデスクに姿が見当たらないと思ったら、席を外していて、間が悪く今戻ってきたらしい。
 杉山は、冷ややかな視線で斜めに蕾夏を見下ろすと、馬鹿にしたように鼻で笑った。
 「いいご身分だねぇ、金を貰って平日に堂々表参道デートとは。そういう仕事ができるんなら、僕もライターに転身したいなあ」
 「……」
 さすがに―――こめかみが、引き攣った。
 へっ? という顔でキョトンとする小松には申し訳ないし、お手並み拝見といった顔で事態を静観している瀬谷には格好の楽しみを与えてしまうのかもしれないが―――こればかりは、あっさりスルーなんてしてやる気はない。
 ぎゅっ、と拳を握ると、蕾夏は杉山を見上げ、不敵とも思える目で彼を見据えた。
 「でしたら、杉山さんもご一緒にどうですか?」
 「はっ?」
 ギョッとしたように目を見開く杉山に、久々の、本気モードのニッコリ笑顔で応える。
 「羨ましいんでしたら、是非ご一緒にどうぞ。3キロほど歩き回りますけど、運動不足そうな杉山さんにはお薦めですよ」
 「―――…」
 耐え切れず、瀬谷が吹き出した。
 しかも、追い討ちをかけるように、全然事態を把握していない小松が、
 「ハハハ、そりゃいいっすねー。杉山さん、最近下腹出てきたから、そろそろヤバイっすよ。ほら」
 と言いながら、カッターシャツに包まれた杉山のおなかをぽんぽん、と叩いた。
 返す言葉もない杉山は、頭に血がのぼったのか、少し顔を紅潮させている。ぷるぷる震える杉山を完全無視で、蕾夏はくるりと踵を返し、取材準備を続けた。

 誰が、負けるものか。
 社会で女が生きていくには、“女”を武器にするか、“女”を捨てるしかない。そんな馬鹿なことを信じて疑わない連中になんて。
 親友で、仕事のベストパートナーで、恋人で―――安らぎの場所であると同時に、誰より刺激される相手。そういう2人の関係を理解せずに、“男と女”だというだけで、こんな揶揄を平然としてくる連中になんて。

 たとえ時間はかかっても、いつか……いつか、必ず、認めさせてみせる。
 男とか女とか、そんなカテゴライズではない、“ただの藤井蕾夏”を。
 恋人とか親友とか、そんなカテゴライズではない―――自分達2人を。

 トントン、と書類を整える蕾夏は、背後に憤慨したような杉山の足音を聞き、振り向かずに口の端を上げた。


***


 「ほんとに取材なんですかー?」
 電車の中、先生に質問する幼稚園児のような口調でしつこく訊ねてくる謎の生命体に、瑞樹は眉間に皺を寄せた。
 「そうだ、っつっただろ」
 「えー、ほんとに? だって成田センパイ、事務所出る時すっごい嬉しそうだったものー」
 「……」
 「やだ、もしかしてデートですか? ええ、ショックーっ! 成田センパイに彼女がいるなんてーっ!」
 ―――うるせーよ。
 視界のはるか下―――蕾夏より更に小柄で、かつ、蕾夏ももうちょい見習え、と言いたいほどふかふか丸い体型をしたその生命体を、瑞樹は不機嫌度100パーセントの目で睨み下ろした。
 なのに、謎の生命体は、まるでアイドルタレントとでも目が合ったみたいなリアクションをした。
 「きゃーっ、センパイがあたしの顔見たっ!」
 「…………」
 黙れ、宇宙人(エイリアン)
 頭痛がしてくる。瑞樹は、手すりに額を押し付けて、大きなため息をついた。

 ―――桜庭のやつ…なんでこんなのを置き土産にしてくんだよ。
 心の中で、自分が事務所を抜ける代わりにこのエイリアンを置いていった桜庭を、一頻り詰る。
 なんでも、桜庭の前の職場の後輩らしく、これでもれっきとしたカメラマンだ。今年フリーになったばかりの新人なので、確かに瑞樹を“センパイ”と呼んでも間違いではない。が、大した違いもないだろ、と瑞樹は思う。
 いや、それより。
 ファッション業界でカメラマンとして生きていくことを目指しているこの自称後輩が、“Clump Clan”のポスターで瑞樹に異様に惚れこんでしまい、事務所で顔を合わせるたびにこのテンションでまくしたててくるのが、もの凄く迷惑。

 「あれっ、成田センパーイ? 大丈夫ですか? 病気?」
 ―――貴様が病気にしてんだろ。
 池袋の段階で、地下鉄のドアから蹴り出すべきだった。何が「あっ、同じ方角なんですよー、途中まで一緒に行きましょう」だ。
 早く降りるか目的地に着くかしてくれないか、と本気で願っていたら。
 「あっ。あたし、ここで降りるんだった」
 願いが届いたらしい。自称後輩は、床に置いていたカメラバッグをあたふたと肩に掛けた。
 「じゃ、成田センパイ、お先に失礼します」
 「…ああ」
 いいから、早く降りろ。
 深々と頭を下げる相手を流し見、心の中でのみ急かす。なのに自称後輩は、ぱっと顔を上げると、余計な一言を残した。
 「あ、それと! この後が取材じゃなくデートでも、あたし、別に川上さんにチクったりしませんから、ご心配なく!」
 「―――…」
 じゃ、失礼しまーす、ともう1度頭を下げて、“未知との遭遇”は去って行った。

***

 ―――あれなら、桜庭の方が、少しはマシだったよなぁ…。
 待ち合わせ場所に到着して、瑞樹は、どっと背中にのしかかる疲れにガクリとうな垂れた。
 まあ、でも。
 事務所で初めて顔を合わせた時の桜庭と、事務所を出て行く時の桜庭のサバサバした表情を思いだすと―――エイリアンなあの自称後輩も、いつかは変身するのかもしれない。ミーハーに“センパイ”に憧れてる「なんちゃってプロカメラマン」から、仕事に誇りを持てる本当のカメラマンに。

 蕾夏と約束した時間までは、まだ少しある。
 ディパックからライカと露出計を取り出し、今日の適正露出なぞを確認していると。
 「…あのー、すみません」
 若い男の声が、突如、右斜め前から聞こえた。
 顔を上げると、声のとおり、20代前半とおぼしき男性がそこに立っていた。それと―――その男性の隣に、やはり同年代らしき女性が。
 軽く辺りを見回しても、自分以外、人待ち顔で立っているような人間はいない。今の「すみません」は、やはり瑞樹に向けられたものらしかった。眉をひそめた瑞樹は、軽く首を傾けた。
 「何か?」
 「あの、よかったら、僕ら2人をコレで撮ってもらえませんか」
 「……」
 そう言って男性が掲げて見せたのは、いわゆる“写るンです”だった。
 なるほど。カップルがデートしていて、ツーショット写真を撮りたくなった、ということか。2人きり故にツーショットは無理、だから誰か暇そうな通行人に頼もう―――そう思っていたところに、偶然居合わせたのが瑞樹だったらしい。
 今までなら、この手の「すみません」を、瑞樹は一切断っていた。
 和臣と奈々美の結婚式の時、やむなく撮る羽目になったツーショットのポートレート―――あれと同じで、記念撮影という名のポートレートは、どうしても撮れなかったから。
 けれど―――…。
 「…いいですよ」
 微かに笑みを作り、瑞樹は男性の方から“写るンです”を受け取った。途端、男の表情がホッとしたものになり、彼女の方の表情が嬉しそうなものに変わった。
 「じゃあ、あの、このカフェの看板をバックで、お願いします」
 飛びぬけてオシャレとか変わってるとかではないそのカフェの看板を、2人は記念の写真の背景に選んだ。おそらく、このカップルもついさっきまでこのカフェを利用していたのだろう。簡単な荷物しか持っていないが、案外、旅行者なのかもしれない。
 いそいそと看板の前に並び、それぞれに髪の毛などを軽く直している2人の様子に、“写るンです”片手に車道ギリギリまで下がっていた瑞樹は、思わず小さく笑った。
 そして、気持ちを落ち着かせるように、軽く深呼吸をした。

 カメラを構える前に、一呼吸置く。

 もう瑞樹は、右斜め後ろ5メートルを、目で確認したりはしない。
 見なくても、感じられるから。たとえ姿はなくとも、気持ちだけでもそこにいる存在―――蕾夏の“心”を。

 『瑞樹も、信じて。ファインダーの向こうに何を見ても、ちゃんと私、ここにいるから』

 ―――もう、大丈夫。
 ファインダーの向こうに、どんな感情を見つけても。

 「…じゃあ、撮りますよ」
 瑞樹が、“写るンです”を構えると、彼女の肩を抱いた彼の顔が、少し緊張した。
 見慣れない雰囲気のファインダーの中、初々しさの残るカップルが、寄り添って瑞樹の方を見つめる。瑞樹は、そんな2人の目を、ファインダー越しに真っ直ぐに見据えた。
 感じたのは、この時間が愛しい、という2人の弾むような気持ち。
 この瞬間を、フィルムに永遠に焼き付けたい―――そう願ってカメラの前に立つ、2人の純粋な気持ちだけだった。
 緊張の面持ちの彼氏のことを考え、滅多にやらない掛け声をかける。
 「1たす1はー?」
 「にーっ!」
 そう答えた2人の顔が、楽しげに綻んだ刹那―――シャッターボタンを押した。

 

 振り返りつつ、何度か頭を下げるカップルを見送りながら、瑞樹はぼんやりと、ディパックのポケットの中に入っているもののことを思った。
 一度、うかつに胸ポケットに入れていたせいで、落としてしまってえらい目にあったもの。

 『何、これ』
 『―――お守り』
 『お守り? このフィルムが?』

 多分、蕾夏は忘れてしまっている、瑞樹が初めて撮った、蕾夏の写真。
 カメラがこちらを向いていることも忘れて、まるで子供みたいに大きな口を開けて笑っていた、蕾夏の笑顔―――焼き増ししろ、と迫られたのが癪で、結局、巻き取ったまま現像することなくずっと持ち続けている。だから瑞樹は、あの日見た蕾夏の笑顔を、記憶の中でしか確認できない。
 ―――もう3年近く経つけど…、現像、まだ出来るかな。
 もう、お守りも要らなくなったから。
 どんなに寂しくても、今はすぐ傍に、いつも蕾夏がいるから。
 あの笑顔をプリントして、2人で懐かしむのも、いいかもしれない。意識しすぎてカメラの方をまともに見られなかったあの頃の蕾夏と―――スナップでしか蕾夏を撮ることができなかったあの頃の瑞樹を。


 「瑞樹ーっ!」
 耳に届いた微かな声に、瑞樹は、手元のカメラに落としていた視線を、声の方へと向けた。
 てっきり、一番この場所に近い地下鉄出口から現れるものと思っていた蕾夏は、出口を間違えたのか、横断歩道の反対側にいた。瑞樹がその姿を捉えたことを確認したのか、笑顔になって、手を大きく振っていた。

 青信号になった横断歩道を、蕾夏が真っ直ぐに、瑞樹の方へと駆けてくる。
 その笑顔は―――3年前、初めてフィルムに焼き付けたあの笑顔とは、やっぱりどこか違う。
 愛とか、恋とか、そんなものとは無縁の笑顔しか知らなかった蕾夏。
 けれど、今、駆けてくる蕾夏が湛えている笑みは―――愛しさというヴェールを纏った、柔らかな笑みだ。

 無意識のうちに、ライカM4を構える。
 ファインダーの中、蕾夏の姿を捉え、見つめる。


 この瞬間を、焼きつけたい。

 その想いに衝き動かされるように―――瑞樹は、シャッターを切った。

 

 

 

 二人分の痛みと、二人分の記憶と、二人分の想いを抱えながら。

 ふたりは、これからも、手を繋いで生きていく。

 それぞれの痛みを抱えた人達が、それぞれの人生を生きている、この世界の小さな片隅で。

 

――― "Infinity World 〜Step Beat Final〜"/ END ―――  
2005.12.15


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