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メールを開いた瞬間、なんだこりゃ? と、瑞樹は思わず目をディスプレイに近づけた。
いつもなら2、3行の文章だけのメール。なのに、何故か添付ファイルがついている。拡張子は「JPG」だ。
不思議に思いつつも、アンチウィルスが反応しなかったし、一応プロであるライからのメールなので、信用してダブルクリックした。
パッと画面に表示された写真を見て、瑞樹は、会社内であることも忘れて、吹き出してしまった。
「…? 成田、どうかしたの?」
隣の佳那子が不思議そうにこちらを見る。慌てて画像を閉じ、
「いや、別に」
と取り繕ったが、まだ佳那子はおかしな物でも見るような目で見ていた。
ライからのメールのタイトルは「こんなの貰いました」。
本文は、「今朝メールチェックしたら、mimiからこんな画像が来てました。ウケたので送ります」。
添付されていた画像は―――ホワイトチョコで「raiさん I Love You !」とデカデカと書かれている、ハート型のチョコレートの写真だった。
―――ああ、そうか。今日は2月14日だったか。
写真を見て、ようやく瑞樹はそれに気がついたのだった。
***
「カズくーん、はい、これ」
最近お気に入りの、高菜の入ったコンビニのおにぎりを頬張っていた和臣は、目の前に差し出された色とりどりの四角い箱を見て、キョトンとした目を、居並ぶ女性陣に向けた。
全部で6人。コール・センターの子と経理の子、それに奈々美の後輩である営業補佐の女の子だ。
「なに? これ」
「やーだ。今日はバレンタイン・デーじゃないのぉ」
「えっ、そうだった?」
土曜出勤であることばかり頭にあって、そんなイベント事などすっかり頭から抜け落ちていた。
「あっ、言っとくけど、私たち全員、義理チョコじゃないからね!」
「そう! 神崎さんにだけ買ったんですからね!」
「うん。オレ、甘いもの好きだから、すんごい嬉しい。ありがとう」
ニコニコ笑いながら、和臣は6つとも受取った。でも、そこでふと不安になり、一言だけ言い添えた。
「でも、オレには奈々美さんがいるから、気持ちには応えられないよ。いいの?」
「もーぉ、やだあ! 神崎さんてば! そんなの、社内中の人間が知ってることじゃなーい!」
経理の女の子がバン! と和臣の背中をはたく。あまりに勢いが良かったので、危うく高菜のおにぎりを落としてしまいそうになった。
「そうそう。カズくんは社内のアイドルだから、誰のものにもなっちゃ駄目なのよ。だから6人揃って渡しに来たの。お返しなんて考えなくていいからね」
「ふーん…なら、ありがたく貰っとくね」
ほっとしたように最上級の笑顔を向けると、それだけで6人は満足そうな笑みを浮かべた。
“誰のものにもなっちゃ駄目”ということは“奈々美さんのものにもなっちゃ駄目”という意味だ、ということに、和臣は気づいていない。
和臣という人間は、とことんトクな性分に出来ているようだ。
***
昼休み後、通りかかった瑞樹が、和臣の目の前に大きな紙袋をどっかと置いた。
「…なに、これ」
「怨念の塊」
「はぁ!?」
藁人形でも入ってるのかと思って恐る恐る覗き込んで見ると、ざっと20個程度のカラフルな箱が、無造作に入っていた。
「…これ、もしかして、バレンタイン・チョコなんじゃないの?」
「当たり」
「どこでこんなに貰ってきたの」
「午前中は事務所で、昼は下のファミレスで。店員から5個、会社の女が13個、見知らぬ人が1個だ」
「……」
見知らぬ人の1個が妙に気になるが、それについての瑞樹の説明はなかった。というより、数そのものに圧倒されて、和臣も説明を求める気すら失せたのだ。
「食うなら全部やるよ」
「オレだってもう10個近く貰ってるのに、食える訳ないだろ? 第一なんでお前が食わないんだよ。失礼だろ、それじゃ」
「チョコレート嫌いなんだ」
涼しい顔で瑞樹がそう言うと、和臣はがっくりと肩を落とした。
「なら断れよ…」
「断ったけど、押し付けられたんだ」
「…お前ってホント、女運があるんだかないんだかわからないよなぁ」
「で? 1個位引き取る? いらねーなら、全部売るよ」
「は!?」
売る!?
「…いらない。さすがのオレも、自分の分だけで手一杯」
「ふーん。じゃ、女子社員一同の義理チョコだけ譲る。どのみち食わねぇし、売れないから」
見覚えのある白い包み紙の箱が、ぽいっと机の上に投げ出された。確かにそれは、女子社員一同という形で男性社員全員に配られたものだった。
そのまま瑞樹はすたすたと自分の席に戻ってしまったが、和臣の頭の中にはクエッションマークがどっかりと居座っていた。
―――売るって…一体、誰に?
***
夕方に、雑用で瑞樹の所にメモを届けに行くと、足元の紙袋の中身は更に増殖していた。
「…なあ、一体何個あるんだ、これ」
「まだ30はいってない」
ディスプレイから目を離さずに、さらりとそう言ってのける瑞樹の横顔を眺める。女を寄せ付けるフェロモンでも持ってるんだろうか。男の和臣には、さっぱりわからない。
「あ、成田っ!」
突如、滅多にシステム部に足を踏み入れない営業マンが顔を出した。
和臣の知る限り、この人物が瑞樹と話をするところなんて、これまでに一度も見た記憶がない。なのに、話しかけてきた彼の顔は、ニコニコの笑顔だ。
驚いて思わず道を明け渡すと、営業マンは身を屈めて小声になった。
「どう、調子は。今年も分けてもらえるかなあ」
「どうぞ。そこにあるから、適当に選んで持ってって。代金はそっち」
瑞樹は、やはりディスプレイから目を離さず、紙袋を指さし、続いて机の上を指さした。机の上にのっていたのは、10枚組のフロッピーディスクについてくる、透明なフロッピーケースだった。
「ええと、じゃあ2つもらってくよ。見映えがいいの選んだから、千円奮発しよう」
営業マンはそう言って、確かに見映えが良さそうなチョコ2つを袋から抜き取り、フロッピーケースに千円札1枚をねじ込んだ。
「今年は2つでいいんですか? 去年ごっそり買いこんでいったのに」
「あはははは、去年はねぇ、ちとやりすぎたな。かみさんがかえって嫉妬しちゃって、浮気してるんじゃないかとか疑われて厄介だったんだ」
「だから止めたのに…」
「ゼロだとバカにされるしねぇ。娘も幼稚園でバレンタイン・デーなんて覚えてきちゃってるし。…じゃ、もらってくよ」
そう言って彼は、チョコを上着のポケットに仕舞いこんで去っていった。その後姿を見送りつつ、和臣はポカンとしていた。
「―――売る、って、このことかよ!」
「そう。需要と供給、結構いいバランス取れてるんだぜ」
「守銭奴…」
「俺は売る気なんてなかったんだ。手持ちのチョコが寂しい連中が“いらないなら買う”って言うから売ってるだけだ」
つまり、実家から通っている独身男性や、既に家庭を持ってる男性社員が、家族に自慢するために購入している、ということのようだ。まぁ…わからないではないが、金を払ってまで欲しいものか? と和臣は首を傾げるしかない。
まさかそんな恒例行事があったとは知らなかった。前からちょっと変わった会社だとは思っていたが―――和臣はにわかに頭が痛くなってきた。
「気の毒だなぁ、女の子たち。せっかくのチョコ、売られる為に成田に渡したってことか」
「バラしてもらってもいいんだけどな、俺は。男共が結託して秘密を守っちまうもんだから、性懲りもなく持ってきちまうんだよ」
「…成田。いつか絶対誰かに殺されるぞ」
本気で不安になって、和臣は少し青い顔で瑞樹をたしなめた。
が、瑞樹はちょっとだけ和臣の方を見て、ふっと口元に笑いを浮かべて言い放った。
「いいよ。別に長生きするつもりないし。どうせなら劇的に死にたい」
―――こういうところが、女を
***
需給バランスがとれている、と瑞樹が言ったとおり、1日が終わる頃には、あれだけ沢山あったチョコレートが、残り2、3個という状態になった。
驚いたことに、買い上げていった中には、女子社員もいた。「彼氏に買い忘れた」と言って買いに来たのだ。呆然と見守る和臣に「ナイショにしてねっ」とウィンクしていったが、渡されたチョコが実は他の男が貰ったものだと知ったら、彼氏はどう言うだろう?
中には、返品されたチョコもあった。事前に開けてみたら、チョコに瑞樹の名前が入れられていたのだという。メッセージカード入りならカードだけ抜き取れば問題ないが、チョコに入れられた名前はなんともしようがない。
「…買うんなら、デパートにいくらでも売ってるのに、なんで成田から買うんだろう」
「割安なのと、男が2月14日に堂々とチョコレート買う訳にもいかない、ってのが理由らしいぜ」
確かに、明らかにバレンタイン・デー仕様な売り場に男が行くのは、かなり気がひける。女子社員は―――多分、定時後に買いに行くだけの時間がないのだろう。
全く―――需要と供給、うまく回っているものだ。
「どう? 成田。今年の売上」
客先に出ていた佳那子が戻ってきて、まだ呆然としている和臣に苦笑しながらも、そう瑞樹に声をかけた。
「えーと…1万円か」
「へぇ。去年より若干少なめ?」
「名前入りチョコが敗因だな。カズ、食う?」
「人の名前入ったチョコなんていらねーよっ!」
「…だよな。しゃあない。3個持って帰るか。ゴミ箱行きだろうけど」
その言葉に、和臣はがっくりとうなだれた。
―――この男にかかると、20数名分の愛は、1万円の価値しかないんだな。
1万円で新作ビデオを2本買うと豪語している瑞樹を、和臣は横目で睨んだ。
***
―――しかし、あの名前入りチョコ、不気味だよなぁ。
アパートの一室でメールチェックをしつつ、瑞樹は、台所のゴミ箱から半ばはみ出しているチョコの箱をチラリと見た。
―――確かあれ、ファミレスでいきなり「食べてください!」って押し付けて去っていった見知らぬ女のチョコだよな。なんで名前まで入ってるんだよ。“見知らぬ女”なのに。
いつもより長めにかかっていたメールチェックがようやく終わり、メーラーが受信終了の音を鳴らした。見ると、プライベート用で使っているメールアドレス宛に、1通メールが届いていた。
誰からだ? と思い開いてみると、それはライからだった。今朝のメール同様、何かのファイルが添付されている。拡張子は「MP3」―――音楽ファイルらしい。
『to HAL : Happy Valentine!』
というメッセージに、添付ファイルを開いてみた。
途端、飾り気のないワンルームの中に、マイルス・デイビスが奏でるトランペットの音が流れる。覚えのあるその旋律に、瑞樹の表情が和らいだ。
添付されていたファイルは、往年のジャズの名曲、「マイ・ファニー・バレンタイン」の音楽ファイルだった。
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