Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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玄関に入り素早くドアを閉めたが、誰もいない部屋は、外と大差ないほど寒かった。瑞樹は一人身震いし、部屋の灯りをつけた。
郵便受けに入っていた、くだらなそうなチラシや封筒の数々をローテーブルの上に放り出し、とりあえずエアコンをつける。今日は最高気温が6度位までしか上がらなかった上、日中は恨めしくなるほどの青空だった。放射冷却現象とやらで、夜はフリーザーレベルに冷え込んでる筈だ。
―――にしても、この震えは、ちょっとヤバそうだな。
経験上、これは風邪からくる震えだな、と直感する。時計を見ると既に0時を回っている。風邪薬の買い置きあったっけ? と、寒さで痺れる頭を巡らせた。が、アルコールで体を暖めれば大丈夫か、とすぐに発想を切り替え、滅多に飲まないバーボンの瓶を取り出して、ほんの少量だけグラスに注いだ。
バーボンを一口含むと、喉がチリチリと焼けるように痛んだ。それ以上飲む気にもなれず、瑞樹は着替えもせずにベッドの中に潜り込んだ。
***
目が覚めると、本格的な風邪の症状が全身に襲い掛かっていた。
「…隼雄か。俺」
『瑞樹? どうした? 声、掠れてるぞ』
「風邪」
『え! 大丈夫か?』
「…駄目。部長に休むって伝えといてくれ。会社始まった頃、起きてたら改めて電話入れるから」
『あ、ああ、わかった…で、熱とかあるのか?』
久保田が心配してくれてるのはわかるが、喋るのも億劫なほどなのだ。瑞樹はため息混じりに答えた。
「知らねぇ…起きたくねーから、測ってない。…じゃ、悪いけど、切るから」
『―――わかった。とにかくゆっくり休め』
携帯電話を切ると同時に、それまで耐えてきた頭痛が一気に襲ってくる。思わず携帯電話を床に放り出し、布団をできる限り引き寄せた。寒い。なのに、熱い。熱があるのかもしれない。
半ば、気絶に近い状態で、瑞樹はまた眠りについた。
***
それから、どれ位経っただろう。
急に胸のあたりが苦しくなって、瑞樹は目を覚ました。
思わず、むせる。そのままそれが、咳に変わった。何度か咳き込みながら、掛け布団を押しやる。布団がやたら重く感じられたのだ。
咳が止んだところで、やっと冷静さを取り戻して、枕元の時計を確認する。午後3時過ぎ―――まさに、気絶していたに等しい。
昨日帰ってきたままの服装で倒れこんだが、中に着ているTシャツは汗でぐっしょり濡れている。どうやら、熱のせいでかなりの汗をかいてしまったらしい。でも、汗をかいて少しは熱が下がったのだろうか。頭痛は多少マシになっていた。
食欲はないが、やっぱり薬は飲んだ方がいいだろう。瑞樹は体を起こし、久々にベッドから離れた。
ふらつきながらも着替えをし、買い置きしてあったカロリーメイトを無理矢理2本完食する。まずい。最悪の味だ。熱で味覚がイカれてしまっているのかもしれない。その癖、風邪薬の苦さはしっかり感じるのだ。自分の体が腹立たしい。
口直しのためと汗をかいて失った水分の補給を兼ねて、ウーロン茶をコップに注いだ。日頃あまり眠らないせいか、気絶したような眠りから覚めた頭は、まだ
―――ここまで酷い風邪ひくの、久しぶりだよなぁ…。
床に座って、ベッドにもたれかかるようにしながら、瑞樹はぼんやりそう考えた。こうして座っていると、日頃狭い狭いと愚痴っているワンルームが、妙に広く感じられる。気が弱くなってるのかもな、と、思わず苦笑した。
ふと見ると、昨日帰ってきた時のまま、デイパックは床に転がり、厚手のジャケットはベッドの上に投げ出され、郵便物はテーブルの上に散乱している。ちょっとため息をつき、瑞樹は郵便物をかき集め、手に取った。
大半が、直接郵便受けに投函されたDMやチラシの類だ。1つ1つゴミ箱に放り込んでいた瑞樹は、薄いグリーンの封筒を目にし、手を止めた。
小花柄が全体に散った、乙女チックな封筒。瑞樹の住所と名前が、少し丸っぽい字で綴られている。その字に、なんとなく見覚えがあった。ひっくり返して差出人名を確認した瑞樹は、眉をひそめ、すぐに封を切った。
中身は、封筒とお揃いの可愛らしい便箋だった。やはり丸みを帯びた字が、ちまちまと連なっている。最後にこの字を見たのは、瑞樹が大学進学で東京に出てきた年の冬だった気がする。もう7年位、目にしていない訳だ。
『お元気ですか?
もう二度と手紙は出すな、って言われたけど、今回だけはどうしても書きたかったから、怒られるのを覚悟でお便りします。
実はこの夏、結婚することが決まりました。会社の先輩で、2つ年上です。実直で、真面目な人です。
本当はお式に呼びたいんだけど…無理ですか? お父さんも呼びたいんだけど、それもやっぱり無理ですか?
母には、この手紙のことも、式に呼びたいことも知らせてません。言うのが怖いのです。
でも、来てくれるのなら、私、どんな事してでも母を説得してみせます。
私の晴れ姿、2人にどうしても見てもらいたいんです。
携帯電話を、やっと購入しました。電話番号をお知らせします。
声が聞きたいです。それが無理なら、手紙でも構いません。
お返事、待ってます。』
何度も何度も書き直したらしい、消しゴム跡の残る文面。その跡を指でなぞり、瑞樹はふっと笑った。昔から作文が苦手だったよな、あいつ―――と。
直接顔を見て、祝ってやりたい。その気持ちはあった。でも、行く訳にはいかない。絶対に。
行けば、会わざるをえなくなるから。
―――あの、女に。
束の間心を占めた優しい感情が、一気に冷えてゆく。吐き気がしてきて、瑞樹は便箋をテーブルの上に放り出した。
やっぱり、気が弱くなっているらしい。このままでは、ずるずると暗闇に引きずり込まれてしまう。
瑞樹は、またベッドの中に潜り込み、なかなか訪れない眠りをひたすら待った。
***
―――苦しい。
息ができない。苦しい。
体中の血が暴れまくってる。行き場を失ったものが、出口を求めてうねる。
でも、これでいい。抵抗する気なんてない。だってこれが、正しい結末だから―――俺と、この人の。
痛みを抱えて生きていくよりは、この方が何十倍も、何百倍も楽な筈だ。だから。
早く、終わって欲しい。
早く、早く、早く―――…。
「―――…っ!」
悪夢から逃れるように、瑞樹は目を開け、飛び起きた。
心臓がバクバクと暴れている。熱からくる汗ではない冷たい汗が、背中を伝っている。震える手を口元に置いて、なんとか呼吸を整えた。
部屋は真っ暗になっていた。時計は見えないが、どうやら夕方なんてレベルの時間ではなさそうだ。
真っ暗闇の中、じっと震えが収まるのを待った。悪夢には慣れている。でも、今日のはその中でも最悪の夢だ。一番見たくない夢―――きっと、熱のせいだろう。
頭痛がする。風邪のせいなのか、悪夢のせいなのかは微妙な感じだ。もう一度何か食べて薬を飲むべきだろうか、と、ようやく冷静さを取り戻した脳細胞の一部が考え始める。でも、まだ心臓はキリキリと痛みを訴えて、瑞樹に“普通”の行動を取らせてくれない。大きく息を吐き出し、さらに数分、じっとしている方を選んだ。
と、急に暗闇の中に、携帯電話の着信音が響いた。
音のする方に目を向ける。朝、床に放り出した携帯電話が、その時の位置に、そのまま転がっている。液晶画面が光って、携帯電話の周囲をぼんやりと照らしていた。一瞬、このまま無視しようかとも思ったが、何故かそれも勿体無いような気がして、思わず手を伸ばしてしまった。
「―――はい…」
通話ボタンを押して、掠れ気味の声でそう言う。自分の声の力の無さに苛立つ。
『ハル?』
「…ああ、ライか」
『どうしたの? その声。風邪?』
高くも低くもない透明な声が、瑞樹の鼓膜を震わす。強張っていた体から、ゆっくり力が抜けていくのを感じた。
今更のように気づいた。毎日に近い頻度で聞いているせいか、ライの声にはもの凄く安心させられる、と。
「…風邪。会社休んで寝てた」
『うっわ、ごめん』
「なんでお前が謝んだよ、訳わかんねぇ…。―――今、何時?」
『夜の11時。ごめん、すぐ切るから、早く眠って』
ああ、電話してきた事を謝ってたのか、と、ようやく理解する。瑞樹は力なく笑い、携帯を耳に当てたまま、枕に頭を預けた。
「今起きたところなのに、また眠れって? 無茶言うなよ」
『でも―――ねぇ、ちゃんと食事できた? もし食欲ないなら、果物でもいいし。風邪にはビタミンCって言うから、オレンジとか苺とかさ』
「大丈夫、カロリーメイト食ったし、薬も飲んだから」
『そっか。…まぁ、眠らないまでも、安静にしといた方がいいよ。電話はやめとこ?』
「安静にしてるから、もうちょい付き合って」
『え?』
口にしてから、俺、何言ってるんだろう、と不思議な気分になる。だが、電話を切るのは嫌だった。
この暗闇に、一人で置き去りにされたくない。悪夢を引きずりたくない。実際、ライと話していると頭痛が弱まってくる気がする。
「眠れねーからさ。ライが暇なら、もうちょい電話、付き合えよ」
『―――うん』
ライのその答えを聞いて、瑞樹は微かに安堵の表情を浮かべた。
『なんか、変な感じ』
「何が?」
『こんな弱気なハルって、初めてだから』
「…そりゃあ、病気になりゃ、俺だって弱気にもなるだろ」
『そういうんじゃなくて…』
ライは、何かを言おうとして、曖昧に言葉を誤魔化した。ライは勘の鋭いタイプだ。もしかしたら、瑞樹が呼び止めた理由を、ある程度察してるのかもしれない。
なんとなく、沈黙の間が空く。携帯を握り締めたまま、真っ暗な中空を見つめる。暴れていた心臓は正常に戻り、震えも収まってはいたが、その欠片は瑞樹の体の奥を侵食したままだ。
「―――ライ」
『なに?』
「お前さ―――悪夢にうなされて目が覚めるってこと、ある?」
電話の向こうで、少し、息を呑むような気配がした。
返事はなかなか返ってこなかった。が、やがて、いつもより少し低めの声が返ってきた。
『…あるよ』
「どの位?」
『―――酷い時は、ほとんど、毎日』
日頃のライからすると、別人かと思うほど、硬くて抑揚のない声。その声だけで十分だった。バックグラウンドがわからなくても、言ってる事が事実だと、本能が察知する。
「…俺も、よくある。酷い時は、ほとんど、毎日」
『―――もしかして、さっきまで、見てた?』
「ああ―――最悪のヤツを」
声が、また途切れた。
再び、ピンと張りつめた沈黙の空間が生まれる。何か返して欲しい気もするが、沈黙もそれなりに心地良かった。
『…そういえば、昨日、遅ればせながら“タイタニック”観た』
唐突に、ライがそんな事を言った。180度変わった話題に、普段なら「なんだよ急に」と言うところだが、不思議と頭はその新しい流れにすんなり乗ってしまった。
「へーえ…どうだった?」
『…観てて、恥ずかしくなった。やめようよ、史実を恋愛メロドラマにするのはさ、って感じ』
少々不機嫌なライの声に、瑞樹も苦笑気味に同意した。
「ジェームズ・キャメロンに対する認識が覆るだろ。俺も結構ショック受けた」
『だって、“ターミネーター”のジェームズ・キャメロン監督だよ? やめてーっ、大甘で、体中むず痒くなっちゃう。あれが老夫婦が主人公だったりすれば、もっと重厚感出ただろうに、なんでレオとケイト? ケイトが老け顔でレオが子供顔だから、バランス悪いし』
「ハハ…、女が涙流して感動しまくる超大作も、お前にかかるとボロクソだなぁ…」
思わず、声をたてて笑ってしまった。
それまで、妙に張りつめていた空気が、ようやく緩む。いつもの電話のペースに戻り、瑞樹も、電話の向こうのライも、なんとなくホッとした。
―――不思議な奴。
時に憤慨したような声色で、時に感動をあらわにして“タイタニック評”をするライの声を聞きながら、瑞樹は、そんな風に思った。
どんな栄養素を採るよりも、どんな薬を飲むよりも、こうしてた方が回復が早い気がする。それ位、心地良い。
もう今夜は、悪夢は見ないで済むだろう―――微かに眠気を感じ始めた頭の片隅で、瑞樹はそう思って、久々に安らかな気分になれた。
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