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no010:
ビタミンC
-odai:61-

 

モウ少シダケ、声ヲ聴カセテイテ。

―98.02―

 玄関に入り素早くドアを閉めたが、誰もいない部屋は、外と大差ないほど寒かった。瑞樹は一人身震いし、部屋の灯りをつけた。
 郵便受けに入っていた、くだらなそうなチラシや封筒の数々をローテーブルの上に放り出し、とりあえずエアコンをつける。今日は最高気温が6度位までしか上がらなかった上、日中は恨めしくなるほどの青空だった。放射冷却現象とやらで、夜はフリーザーレベルに冷え込んでる筈だ。
 ―――にしても、この震えは、ちょっとヤバそうだな。
 経験上、これは風邪からくる震えだな、と直感する。時計を見ると既に0時を回っている。風邪薬の買い置きあったっけ? と、寒さで痺れる頭を巡らせた。が、アルコールで体を暖めれば大丈夫か、とすぐに発想を切り替え、滅多に飲まないバーボンの瓶を取り出して、ほんの少量だけグラスに注いだ。
 バーボンを一口含むと、喉がチリチリと焼けるように痛んだ。それ以上飲む気にもなれず、瑞樹は着替えもせずにベッドの中に潜り込んだ。

***

 目が覚めると、本格的な風邪の症状が全身に襲い掛かっていた。
 「…隼雄か。俺」
 『瑞樹? どうした? 声、掠れてるぞ』
 「風邪」
 『え! 大丈夫か?』
 「…駄目。部長に休むって伝えといてくれ。会社始まった頃、起きてたら改めて電話入れるから」
 『あ、ああ、わかった…で、熱とかあるのか?』
 久保田が心配してくれてるのはわかるが、喋るのも億劫なほどなのだ。瑞樹はため息混じりに答えた。
 「知らねぇ…起きたくねーから、測ってない。…じゃ、悪いけど、切るから」
 『―――わかった。とにかくゆっくり休め』
 携帯電話を切ると同時に、それまで耐えてきた頭痛が一気に襲ってくる。思わず携帯電話を床に放り出し、布団をできる限り引き寄せた。寒い。なのに、熱い。熱があるのかもしれない。
 半ば、気絶に近い状態で、瑞樹はまた眠りについた。

***

 それから、どれ位経っただろう。
 急に胸のあたりが苦しくなって、瑞樹は目を覚ました。
 思わず、むせる。そのままそれが、咳に変わった。何度か咳き込みながら、掛け布団を押しやる。布団がやたら重く感じられたのだ。
 咳が止んだところで、やっと冷静さを取り戻して、枕元の時計を確認する。午後3時過ぎ―――まさに、気絶していたに等しい。
 昨日帰ってきたままの服装で倒れこんだが、中に着ているTシャツは汗でぐっしょり濡れている。どうやら、熱のせいでかなりの汗をかいてしまったらしい。でも、汗をかいて少しは熱が下がったのだろうか。頭痛は多少マシになっていた。
 食欲はないが、やっぱり薬は飲んだ方がいいだろう。瑞樹は体を起こし、久々にベッドから離れた。
 ふらつきながらも着替えをし、買い置きしてあったカロリーメイトを無理矢理2本完食する。まずい。最悪の味だ。熱で味覚がイカれてしまっているのかもしれない。その癖、風邪薬の苦さはしっかり感じるのだ。自分の体が腹立たしい。
 口直しのためと汗をかいて失った水分の補給を兼ねて、ウーロン茶をコップに注いだ。日頃あまり眠らないせいか、気絶したような眠りから覚めた頭は、まだ(しばら)く冴えたままのようだ。眠くなるまで、少し起きている事にした。
 ―――ここまで酷い風邪ひくの、久しぶりだよなぁ…。
 床に座って、ベッドにもたれかかるようにしながら、瑞樹はぼんやりそう考えた。こうして座っていると、日頃狭い狭いと愚痴っているワンルームが、妙に広く感じられる。気が弱くなってるのかもな、と、思わず苦笑した。
 ふと見ると、昨日帰ってきた時のまま、デイパックは床に転がり、厚手のジャケットはベッドの上に投げ出され、郵便物はテーブルの上に散乱している。ちょっとため息をつき、瑞樹は郵便物をかき集め、手に取った。
 大半が、直接郵便受けに投函されたDMやチラシの類だ。1つ1つゴミ箱に放り込んでいた瑞樹は、薄いグリーンの封筒を目にし、手を止めた。
 小花柄が全体に散った、乙女チックな封筒。瑞樹の住所と名前が、少し丸っぽい字で綴られている。その字に、なんとなく見覚えがあった。ひっくり返して差出人名を確認した瑞樹は、眉をひそめ、すぐに封を切った。
 中身は、封筒とお揃いの可愛らしい便箋だった。やはり丸みを帯びた字が、ちまちまと連なっている。最後にこの字を見たのは、瑞樹が大学進学で東京に出てきた年の冬だった気がする。もう7年位、目にしていない訳だ。

『お元気ですか?
もう二度と手紙は出すな、って言われたけど、今回だけはどうしても書きたかったから、怒られるのを覚悟でお便りします。
実はこの夏、結婚することが決まりました。会社の先輩で、2つ年上です。実直で、真面目な人です。
本当はお式に呼びたいんだけど…無理ですか? お父さんも呼びたいんだけど、それもやっぱり無理ですか?
母には、この手紙のことも、式に呼びたいことも知らせてません。言うのが怖いのです。
でも、来てくれるのなら、私、どんな事してでも母を説得してみせます。
私の晴れ姿、2人にどうしても見てもらいたいんです。

携帯電話を、やっと購入しました。電話番号をお知らせします。
声が聞きたいです。それが無理なら、手紙でも構いません。
お返事、待ってます。』

 何度も何度も書き直したらしい、消しゴム跡の残る文面。その跡を指でなぞり、瑞樹はふっと笑った。昔から作文が苦手だったよな、あいつ―――と。
 直接顔を見て、祝ってやりたい。その気持ちはあった。でも、行く訳にはいかない。絶対に。
 行けば、会わざるをえなくなるから。
 ―――あの、女に。

 束の間心を占めた優しい感情が、一気に冷えてゆく。吐き気がしてきて、瑞樹は便箋をテーブルの上に放り出した。
 やっぱり、気が弱くなっているらしい。このままでは、ずるずると暗闇に引きずり込まれてしまう。
 瑞樹は、またベッドの中に潜り込み、なかなか訪れない眠りをひたすら待った。


***


 ―――苦しい。

 息ができない。苦しい。
 体中の血が暴れまくってる。行き場を失ったものが、出口を求めてうねる。

 でも、これでいい。抵抗する気なんてない。だってこれが、正しい結末だから―――俺と、この人の。
 痛みを抱えて生きていくよりは、この方が何十倍も、何百倍も楽な筈だ。だから。

 早く、終わって欲しい。
 早く、早く、早く―――…。


 「―――…っ!」
 悪夢から逃れるように、瑞樹は目を開け、飛び起きた。

 心臓がバクバクと暴れている。熱からくる汗ではない冷たい汗が、背中を伝っている。震える手を口元に置いて、なんとか呼吸を整えた。
 部屋は真っ暗になっていた。時計は見えないが、どうやら夕方なんてレベルの時間ではなさそうだ。
 真っ暗闇の中、じっと震えが収まるのを待った。悪夢には慣れている。でも、今日のはその中でも最悪の夢だ。一番見たくない夢―――きっと、熱のせいだろう。
 頭痛がする。風邪のせいなのか、悪夢のせいなのかは微妙な感じだ。もう一度何か食べて薬を飲むべきだろうか、と、ようやく冷静さを取り戻した脳細胞の一部が考え始める。でも、まだ心臓はキリキリと痛みを訴えて、瑞樹に“普通”の行動を取らせてくれない。大きく息を吐き出し、さらに数分、じっとしている方を選んだ。
 と、急に暗闇の中に、携帯電話の着信音が響いた。
 音のする方に目を向ける。朝、床に放り出した携帯電話が、その時の位置に、そのまま転がっている。液晶画面が光って、携帯電話の周囲をぼんやりと照らしていた。一瞬、このまま無視しようかとも思ったが、何故かそれも勿体無いような気がして、思わず手を伸ばしてしまった。
 「―――はい…」
 通話ボタンを押して、掠れ気味の声でそう言う。自分の声の力の無さに苛立つ。
 『ハル?』
 「…ああ、ライか」
 『どうしたの? その声。風邪?』
 高くも低くもない透明な声が、瑞樹の鼓膜を震わす。強張っていた体から、ゆっくり力が抜けていくのを感じた。
 今更のように気づいた。毎日に近い頻度で聞いているせいか、ライの声にはもの凄く安心させられる、と。
 「…風邪。会社休んで寝てた」
 『うっわ、ごめん』
 「なんでお前が謝んだよ、訳わかんねぇ…。―――今、何時?」
 『夜の11時。ごめん、すぐ切るから、早く眠って』
 ああ、電話してきた事を謝ってたのか、と、ようやく理解する。瑞樹は力なく笑い、携帯を耳に当てたまま、枕に頭を預けた。
 「今起きたところなのに、また眠れって? 無茶言うなよ」
 『でも―――ねぇ、ちゃんと食事できた? もし食欲ないなら、果物でもいいし。風邪にはビタミンCって言うから、オレンジとか苺とかさ』
 「大丈夫、カロリーメイト食ったし、薬も飲んだから」
 『そっか。…まぁ、眠らないまでも、安静にしといた方がいいよ。電話はやめとこ?』
 「安静にしてるから、もうちょい付き合って」
 『え?』
 口にしてから、俺、何言ってるんだろう、と不思議な気分になる。だが、電話を切るのは嫌だった。
 この暗闇に、一人で置き去りにされたくない。悪夢を引きずりたくない。実際、ライと話していると頭痛が弱まってくる気がする。
 「眠れねーからさ。ライが暇なら、もうちょい電話、付き合えよ」
 『―――うん』
 ライのその答えを聞いて、瑞樹は微かに安堵の表情を浮かべた。
 『なんか、変な感じ』
 「何が?」
 『こんな弱気なハルって、初めてだから』
 「…そりゃあ、病気になりゃ、俺だって弱気にもなるだろ」
 『そういうんじゃなくて…』
 ライは、何かを言おうとして、曖昧に言葉を誤魔化した。ライは勘の鋭いタイプだ。もしかしたら、瑞樹が呼び止めた理由を、ある程度察してるのかもしれない。
 なんとなく、沈黙の間が空く。携帯を握り締めたまま、真っ暗な中空を見つめる。暴れていた心臓は正常に戻り、震えも収まってはいたが、その欠片は瑞樹の体の奥を侵食したままだ。

 「―――ライ」
 『なに?』
 「お前さ―――悪夢にうなされて目が覚めるってこと、ある?」
 電話の向こうで、少し、息を呑むような気配がした。
 返事はなかなか返ってこなかった。が、やがて、いつもより少し低めの声が返ってきた。
 『…あるよ』
 「どの位?」
 『―――酷い時は、ほとんど、毎日』
 日頃のライからすると、別人かと思うほど、硬くて抑揚のない声。その声だけで十分だった。バックグラウンドがわからなくても、言ってる事が事実だと、本能が察知する。
 「…俺も、よくある。酷い時は、ほとんど、毎日」
 『―――もしかして、さっきまで、見てた?』
 「ああ―――最悪のヤツを」
 声が、また途切れた。
 再び、ピンと張りつめた沈黙の空間が生まれる。何か返して欲しい気もするが、沈黙もそれなりに心地良かった。

 『…そういえば、昨日、遅ればせながら“タイタニック”観た』
 唐突に、ライがそんな事を言った。180度変わった話題に、普段なら「なんだよ急に」と言うところだが、不思議と頭はその新しい流れにすんなり乗ってしまった。
 「へーえ…どうだった?」
 『…観てて、恥ずかしくなった。やめようよ、史実を恋愛メロドラマにするのはさ、って感じ』
 少々不機嫌なライの声に、瑞樹も苦笑気味に同意した。
 「ジェームズ・キャメロンに対する認識が覆るだろ。俺も結構ショック受けた」
 『だって、“ターミネーター”のジェームズ・キャメロン監督だよ? やめてーっ、大甘で、体中むず痒くなっちゃう。あれが老夫婦が主人公だったりすれば、もっと重厚感出ただろうに、なんでレオとケイト? ケイトが老け顔でレオが子供顔だから、バランス悪いし』
 「ハハ…、女が涙流して感動しまくる超大作も、お前にかかるとボロクソだなぁ…」
 思わず、声をたてて笑ってしまった。
 それまで、妙に張りつめていた空気が、ようやく緩む。いつもの電話のペースに戻り、瑞樹も、電話の向こうのライも、なんとなくホッとした。

 ―――不思議な奴。
 時に憤慨したような声色で、時に感動をあらわにして“タイタニック評”をするライの声を聞きながら、瑞樹は、そんな風に思った。
 どんな栄養素を採るよりも、どんな薬を飲むよりも、こうしてた方が回復が早い気がする。それ位、心地良い。
 もう今夜は、悪夢は見ないで済むだろう―――微かに眠気を感じ始めた頭の片隅で、瑞樹はそう思って、久々に安らかな気分になれた。


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