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「奈々美ちゃーん、電話よ」
春巻をせっせと包んでいた奈々美は、叔母の声に顔をあげ、置いておいたウェットテイッシュで手を拭いた。
「誰ー?」
「福岡の
―――ああ、最悪。
いないって言って、と叫びそうになったが、あの叔母が「保留」なんて文明の利器を使っている筈もない。叔母と奈々美のやりとりも、手で塞いだ受話器から沙弥香に筒抜けだろう。ため息をつき、奈々美は台所を抜けて廊下の突き当たりへ向かった。
「…もしもし」
『奈々美? ひさしぶり』
「もう産まれたの?」
挨拶もそこそこに奈々美が無愛想に訊ねると、電話の向こうで沙耶香がため息をついた。
『…あんた、相変わらず愛想ないわねぇ。まだよ。何回言えば覚えるのよ。予定日は5月の半ばだってば』
「ああ、そうだったっけ。で? 何か用? 福岡・東京間の1分間の電話代、わかってるんでしょうね? 下らない内容だったら、無駄遣いしてるってお
会社の仲間が聞いたら仰天するであろうほどぶっきらぼうな喋り方で、奈々美は苛立ったように先を促した。奈々美がこの喋り方になるのは、姉に対してだけだ。
『何か用? じゃないわよ。もうゴールデンウィーク真っ只中じゃないの。いつ静岡に帰るの?』
「…うちの会社はまだゴールデンウィークなんかじゃないわよ。カレンダー通りの休みなの。明日も出勤なのっ」
『え? そうなの? うちはとっくに休みよ。大企業はみんな連休にしてるじゃない。中小でも同じなんじゃないの?』
―――なんでこの人は、こういう嫌味な言い方しかできないんだろう? 自分の発した言葉がどう取られるか、ちゃんと考えて話してるんだろうか。
「うちはお義兄さんとこみたいな大企業じゃないし、中小企業は大企業ほどヒマしてないから休みも少ないの。暇人と一緒にしないで」
『もぉ、あんたってばすぐ
「ううん。ずっと東京にいる」
『どうして? ―――ははぁ、さては、お母さんたちにまた私と比較されると思ってるんでしょ。いいじゃないの、言わせておけば。あんた、少しいじけ過ぎよ?』
「そんなんじゃないわよっ! 勝手な事言わないで!」
『第一、叔母さんたちにだって迷惑かかるじゃないの。たまには休ませてあげなさいよ』
「もー、うるさいなぁ。とにかく、静岡には帰らないから! もうすぐお姉ちゃん静岡に戻るんでしょ? お父さんとお母さんにも言っといて。じゃあね」
まだ何か言いた気な沙弥香を無視し、奈々美はガチャン! と受話器を置いた。
―――最近、連絡もなかったから、穏やかな気分でいられたのに。
久々にかかってきた長距離電話に、奈々美の心はささくれ立ってしまった。
***
奈々美には、沙弥香という名の1つ違いの姉がいる。
背がスラリと高く、美人で、成績も奈々美より1ランク上。スポーツも得意で、クラスの人気者だった。
姉妹が幼い頃から、親は何かにつけて沙弥香を褒めた。奈々美のことも褒めた。しかし、奈々美が褒められるのは、いつも姉を褒めるついででしかなかった。
「凄いなあ、沙弥香、また100点取ったんだ。偉いぞぉ。奈々美もよく頑張ったな。次はもっと頑張って、お姉ちゃんみたいに100点取ろうな」
姉の沙弥香は、全く努力しないで100点を取ってるのに。奈々美は95点だが、毎日何時間も勉強してこの点数を取ったのに―――奈々美には納得がいかなかった。
高校も大学も、姉は1ランク上の学校に進んだ。奈々美はいつも、姉と同じ学校を受けては落ち、滑り止めとして受けた学校に止む無く入学していた。いたたまれなくなった奈々美は、大学卒業と同時に静岡の家を出、東京に住む叔母夫妻の家に身を寄せた。
姉という呪縛から逃れたくて。このコンプレックスから解き放たれたくて。一人になれば、両親も認めてくれるような自分になれるかもしれない…根拠もなく、そんな気がしていた。
だが、そうはいかなかった。
姉は一昨年、勤めていた大企業を退社し、同僚のエリート社員と華々しく結婚した。結婚相手の転勤についていったため、日頃は福岡市内の高級住宅地に建つマンションで優雅に暮らしているが、現在一人目の赤ちゃんの出産を控えており、このゴールデンウィークを利用して実家に帰省する予定である。
「沙弥香はいい人と結婚したわよね。あとは奈々美だけね」
なんの悪意もなくそう口にする母。奈々美のコンプレックスが解消されるチャンスは、全く訪れない。
―――お父さん、お願い。一度でいいから「沙弥香より奈々美の方が頑張ってる」って言って。お母さん、お願い、一度でいいから「沙弥香より奈々美の方が可愛い」って言って。
物心ついた頃からの、奈々美の夢。でもそれは、一度として叶えられることはなかった。
***
「木下さーん、3番に電話」
「はあい」
奈々美は契約書作成の手を止め、受話器を取って、保留されている3番のボタンを押した。
「はい、木下です」
『中本です』
奈々美の表情が強張った。受話器を握る手に、無意識に力が入る。
「…お世話になってます」
『休み中、電話が欲しいって言っておいたのに、なんでくれなかったんだ?』
「奥様が一緒だと思いましたから」
防衛本能が働くのか、声が日頃の半分位に小さくなった。私も結構姑息な人間だな…と、奈々美は皮肉っぽい笑いを浮かべてしまった。
あの日―――屋上で、諦めるために1度だけキスをした。それで奈々美の片思いは終わった―――筈だった。
あの日以来、思い出したように時折、中本から食事の誘いの電話が入る。
最初の2、3回、誘いに応じてしまったのは、やはりまだ諦めきれない恋心があったからかもしれない。だが…ただ食事するだけに留まりそうにないムードになるにつれ、怖くなってきた。
この人は一体、自分のことを何だと思っているのだろうか。妻のことをどう思っているのだろうか。
以来、奈々美は、中本の誘いを断り続けている。まだ胸がときめく部分はかなりあるが、不倫などという関係は恐ろしく、それを示唆するような中本の態度は、奈々美から見ればひたすら怖かったのだ。
『あの…今度の土日、帰省はしないの?』
「…ええ、しません」
『それなら、一度ドライブにでも行かないか? 日帰りだけど』
「―――奥様はどうされたんですか」
『クラス会とか友達とショッピングとか…相変わらず家にはいないんだよ。だから気にしなくていい』
「でも…」
『会いたいんだよ、どうしても』
奈々美の心臓が跳ねた。視線が定まらなくなる。
『2月以来、ずっと会ってない。会いたいんだよ』
胃がキリキリ痛み出した。その痛みに、思わず顔を顰める。
「…考えさせて下さい。行く気になったら、携帯に電話入れますから」
そう答えるのが、精一杯だった。
簡単なやりとりをなんとかこなし、奈々美は疲れたように受話器を置いた。置いた途端、少しだけ胃の痛みが消えた気がする。
と、ちょうどコーヒーを飲みにミーティングテーブルまで来た瑞樹を発見した。
「成田君」
急いで席を立った奈々美は、瑞樹のデニムシャツの袖を引っ張った。声をかけただけでは気づいてくれない事が多いのだ。
振り返った瑞樹は、「何?」といった感じに奈々美を見下ろした。
「ごめん…またちょっと、相談に乗って」
***
「なんで中本関係だと俺に相談するんだよ」
階段の踊り場あたりで、紙コップ入りのコーヒーをすすりつつ、瑞樹がうんざりしたように言う。
「中本さんとの事、知ってるし…それに、真面目な佳那子にこんな話できないし」
「カズにすれば」
「―――神崎君に、こんな私は見せたくない。ただでさえ取り得のない女なのに、不倫に片足つっこんでるなんて知られたら、あっという間に嫌われちゃうわ」
「なんだ。結局あいつに気があるんじゃねーか」
「…そんな訳じゃないけど…嫌われるのは嫌だもの」
俯いてそう呟く奈々美を見て、瑞樹は大きくため息をついた。
「―――まあ、いいけど。で? どうすんの、ドライブ」
そう促されて、奈々美は困ったように眉を寄せた。
「…断りたい。けど、グラついてる。不倫、なんて響き、凄く嫌なんだけど、まだ中本さんのこと好きだし…」
「…ふーん」
「それに、私、いつも相手のいる人ばっかり好きになってきたから、結局不倫レベルの恋愛しかできない程度の女なのかも、なんて思っちゃったり…」
「何だかひがみ根性丸出しにしてるけど、カズは、そんなに無価値でしょーもない女に惚れるほど、バカか?」
「そっ、そんなことない! 神崎君はバカなんかじゃない!」
慌てたように大声でそう答える奈々美に、瑞樹は作戦成功というような笑いを見せた。奈々美の顔が、火がついたように熱くなる。
「ま、俺から見れば、カズは“大馬鹿者”でしかねーけど」
―――持ち上げたと思ったら、一気に落すし。
そうそう、こういう人だったわ、と、奈々美は瑞樹を睨み上げた。
「とりあえず一度、卑下すんのやめれば? 本当は、答えなんてもう出てんだろ」
「…え」
―――答えは、もう出てる?
「あー! また2人で何か相談事してるーっ!」
突如、憤慨したような和臣の声が割って入り、奈々美は飛び上がるほど驚いた。
ちょうど外回りから帰ってきたらしい和臣は、口を尖らせて瑞樹と奈々美の間に割って入った。
「成田、奈々美さんにちょっかい出すなよっ。お前、他にいくらでも女の子の選びようがあるだろっ」
「出してねーよ。木下さんが、連休中ヒマすぎて死にそうだっていうから、相談に乗ってただけだよ」
「な、成田君…」
「だよな?」
そうだと言え、というオーラ全開で、瑞樹が見下ろしてくる。奈々美は慌てて、コクコクと頷いた。
「え? そうなの? 奈々美さんって帰省するかと思ってた」
「じゃ、続きはカズが相談に乗ってくれ。俺は仕事に戻る」
―――えっ!? ちょっと、置いてかないで! まだ、どうすればいいかアドバイスもらってないのに!
焦る奈々美には全く目もくれず、瑞樹はポン、と和臣の肩を叩いて、さっさと事務所に戻っていってしまった。奈々美は、その後姿を呆然と見送った。
答えはもう出てる、と、瑞樹は言った。卑下するのをやめればいい、と。
では、自分が出しているという「答え」は、一体何だろう―――…?
「奈々美さん、本当に帰省しないの?」
和臣の声に、我に返った。和臣は、意外そうな丸い目をして、奈々美を見下ろしている。慌てて笑顔を作り、奈々美は頷いた。
「姉が帰省してるの。あまり仲が良くないし…息が詰まっちゃうから、東京に残ろうと思って。でも、叔母たちもたまには休ませてあげたいし、友達はみんな帰省しちゃってるしで、困っちゃったの」
「佳那子さんは?」
「親戚の結婚式がアメリカであるんだって。アメリカ行くみたいよ」
「なんだ、そっか。―――なら、オレと横浜まで遊びに行こうよ」
無邪気な笑顔で、和臣はそう言った。
「…え?」
「一度行ってみたかったんだ、“港の見える丘公園”! 奈々美さん、海好きでしょ。一緒に行こうよ」
奈々美は、驚いたように目を瞬いた。
「神崎君、金沢に帰らないの?」
「オレ? 帰らないよ。オレ、基本的に帰省しないヒトなの。親のこと大っっっっ嫌いだから」
「でっ、でも、私―――…」
“私なんて”。
口にしかけて、奈々美は思いとどまった。
―――神崎君と歩く中華街、港の見える丘公園、ランドマーク・タワー……。夢見ない女の子なんて、いない。私だって、神崎君に誘われる度、そんなシーンを夢見なかったと言ったら嘘になる。
もうちょっと美人で、もうちょっと背があって、せめてあと2つ年が下だったら、いつだって喜んでOKしてた。ただ自分に自信がないから―――お姉ちゃんと比べちゃうと、神崎君にふさわしくないって、怖くて怖くて仕方なくなるから、断ってただけだ。
いつもいつも、思ってた。誰かに褒められたい。誰かに認められたい。
でも違う。今、気づいた。
私は、自分で自分を褒めた事がなかったんだ。
私が出していた答え―――「中本さんの誘いに乗ってしまうような自分には、なりたくない」。そう、そういう事だ。
なら―――神崎君なら?
神崎君と真剣に向き合えるようになれば、私、自分で自分を褒められるようになるかな…。
「…うん、いいね。楽しそう」
「えっ…」
「行きましょ、横浜。連れてって」
奈々美がにこっと笑ってそう答えると、当の和臣の方がぽかんとした顔をした。なにせ1年間、ずっとノーを言われ続けてきたので、まさかいきなりイエスが聞けるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「あ、あの、奈々美さん、ほんとに?」
「うん、本当。あ、でも、今回の横浜だけね」
「いい! それでいいっ! オレ、すっごく嬉しいっ!」
感極まったような笑顔で、和臣は奈々美の両手をとって“せっせっせ”の要領でぶんぶん振った。何度も「嬉しい!」と言いつつひたすら“せっせっせ”を繰り返す和臣に、つられるように奈々美も笑ってしまう。
和臣の子供のような笑顔を見てるだけで、奈々美のコンプレックスも、少しずつ癒されていくような気がした。
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