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no019:
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―Side R : 97/11〜98/05―
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心マデ届ク、キミノ言葉。

 レンジから取り出したばかりのマグカップを片手に、蕾夏はノートパソコンの前に座りなおした。
 ホットミルクに口をつけてみたが、まだ飲むには熱すぎた。ちょっと顔を顰め、ふーっと息を吹きかけた。

 『(HAL)こんばんは>ALL』

 ちょうどそのタイミングで、画面に1行表示される。"HAL"―――初めて見るハンドルネームだ。

 『(mimi)今晩は〜>HAL』
 『(猫柳)まいどー>HAL』
 『(江戸川)こんばんは>HAL』

 ほどなく、画面上にこんな3行が表示される。この人物と初顔合わせなのは、どうやら自分だけらしい。マグカップを傍らに置いて、蕾夏はキーボードを叩いた。

 『(rai)はじめまして>HAL』
 『(HAL)こちらこそ、はじめまして>rai』


 そう。それは、平凡な日常の中に起こった、ほんの些細な出来事。


***


 お盆の帰省以来となる住み慣れた町は、東京からさして離れていないのに、やたらと寒かった。電車を降りた途端にさらされた寒風に、思わず身が縮む。蕾夏はコートの襟元をぎゅっと引き寄せて、改札口へと急いだ。
 あまりの寒さに思わず手で頬を覆った時、改札の向こう側に見知った姿を見つけた。
 心臓が、ドキン、と音をたてた。
 「―――辻さん?」
 一瞬、足が(すく)む。が、このまま東京に逃げ帰る訳にもいかない。蕾夏は唇を引き結ぶと、急ぎ足で改札を抜けた。そんな蕾夏の本心を知っているのか、辻は、安心させるかのように、柔らかな笑顔を見せた。
 「おかえり、藤井さん」
 「どうしたの。年末年始って、病院、休みだっけ?」
 「今日は遅番なんだ。時間がとれそうに無いから、せめて駅から家まで位は、と思ってね」
 「どうせ元日に、みんなで辻さんの家に行くのに…」
 「…みんながいる所じゃ話せないような話もあるかと思って。―――行こう」
 まるで当然のように、辻は右手を蕾夏の方に差し出した。
 蕾夏が、眉をひそめてその手を見下ろしているのに気づくと、辻は静かに蕾夏の左手を取り、差し出した自分の右手に繋がせた。その手のあまりの冷たさに、蕾夏はぶるっと身震いした。
 「ねぇ、辻さん―――」
 蕾夏は辻を見上げると、縁なし眼鏡の奥の辻の目をじっと見つめ、小さく首を横に振った。
 「…わかってる。少し、昔を懐かしみたいだけだよ。今までだってずっと、2人きりの時は手を握ってただろ?」
 また柔らかく笑い、辻は手を繋いだまま歩き出した。それに引かれるように、蕾夏も歩き出す。そういえば昔からこの人の手って冷たかったな―――振り解きたい気持ちを我慢しながら、蕾夏はぼんやりとそんな事を思った。
 「辻さん、翔子は? 今年のお正月は日本に帰ってくるの?」
 「もう帰ってきてるよ。お盆の時会えなかったんで、多分いつもの2倍は君とおしゃべりする気でいると思うから、覚悟しといた方がいいよ」
 「わかった。楽しみにしてるって言っておいて」
 翔子は辻の妹で、蕾夏にとっては唯一ともいえる幼馴染だ。アメリカに単身留学していて、もう1年近く会っていない。辻の家に新年の挨拶に行くのは正直言って苦痛だが、翔子に会えるのなら話は別だ。蕾夏の表情が、ようやく和らぎはじめる。
 「藤井さんの方は変わりは無い? 最近連絡がないけど」
 「うん。―――ああ、そういえば、夏頃からチャット始めたんだ」
 「チャット? パソコン通信の?」
 辻が、意外そうな顔をして蕾夏を見下ろしてきた。今の辻は病院勤務で忙しく、パソコンなど触っている暇がない。彼の知るネット世界といったら「パソコン通信」の事なのだ。蕾夏は苦笑し、首を振った。
 「ううん、インターネットの方。寝る前に行ってるんだけど、結構面白いよ。先月かな、もの凄い映画マニアの人と知り合いになって、最近じゃかなり遅くまで映画の話で盛り上がってる」
 「…なるほど」
 辻は、意味深にそう言い、ふっと笑った。その顔を見て、蕾夏は辻の言いたい事を察し、片眉を上げた。
 「僕の代わりが、まさか顔も名前もわからない文字だけの相手とはね。恋人でも出来たのかと思ってたけど、さすがにこれは想像外だったなぁ…」
 「―――そんなんじゃないよ」
 少し憤慨したような声でそう言うと、辻は可笑しそうに笑った。
 「冗談だよ。―――ま、何かあれば、いつでも連絡しておいで。僕はまだ君の“カウンセラー”を降りたつもりはないし」
 「いいよ、別に、降りても」
 「…降りたくないんだよ」
 ―――ほら、また、そうやって寂しそうな顔する。
 「辻さん」
 念を押すように、蕾夏は、もう一度辻を見上げた。
 “駄目だよ”、と。
 「わかってる」
 ―――本当に、わかってる?
 蕾夏の手を握る辻の手が、少し強くなる。まるで“離さない”とでもいうように。

 この手は、私を助けてくれた手。
 でも―――私を今も、苦しめ続けている手。

 振り解きたい。なのに、振り解かせてくれない。蕾夏は、やるせない思いに、唇を噛んだ。

***

 「藤井さーん、応接室にお茶持ってって。1人分ね」
 「はーい」
 課長にそう言われ、蕾夏は、コーディング中のプログラムを一旦セーブし、席を立った。いつもならお茶出しは事務の女の子が一手に引き受けているが、さっき銀行へと出かけていくのを蕾夏も見ていた。
 給湯室で手早くお茶を淹れ、応接室へと運んだ。コンコン、とノックし、ドアを開ける。
 「失礼します」
 「あ、藤井さんじゃない」
 応接室のソファに座っている人物を見た瞬間、蕾夏はお茶を運んだことを後悔した。
 峰岸という名のこの男は、蕾夏がプログラム納品を担当した中堅企業の専務で、蕾夏の仲間うちではすこぶる評判の悪い人物だった。顔だけ見れば確かに、若い頃は女性にもてただろうと想像のつく整った顔立ちではあるが、自分の会社の女子社員にセクハラとしか言えないことを平気で言ってみたり、操作説明をする男性社員に猥談をしかけたり―――今や仲間うちでは、ただの「色ボケ中年」とのレッテルが貼られている。
 「なんだ、社内にいたんだ。たまにはうちにインストにでも来てよ。最近は僕も売上集計を自分でやったりするんだし」
 「インストは先月で完了ですので、あとは社内勉強会でも開いて下さい。事務の田中さんなんて、もう私より扱いに慣れてらっしゃいますよ」
 一応営業スマイルで答え、お茶を峰岸の前に置く。さっさとお茶出しして、早く仕事に戻りたかった。
 だが。
 「相変わらず色が白いねぇ、藤井さん」
 「!」
 お茶を置いたタイミングで、峰岸が蕾夏の手を握った。瞬時に、背筋が寒くなる。
 「な、何するんですかっ!」
 「いや、いつも感心してるんだよ。うちの会社でも評判だよ、キミ」
 ―――こ…の、スケベ親父…っ!
 睨みつけてやったが、峰岸はニヤニヤという笑いを浮かべたまま、当然の権利とでも言いたげな態度で蕾夏の手の甲を撫でている。その感触の気色悪さに、全身に鳥肌がたった。
 「何食べたらこんな白い肌になるのかなぁ。…でも、もうちょーっと太った方が健康的でいいね。今でも十分綺麗だけど」
 峰岸の手が蕾夏の背中に回り、背骨に沿って撫で上げた。

 ―――ドクン。

 蕾夏の心臓が、大きく跳ねる。
 一瞬にして全身が硬直し、冷や汗が背中を伝っていく。大声で助けを呼ばなくては、そういう強烈な焦燥感に駆られるが、声を出すどころか、口を開けることすらできない。

 ―――気持ち…、悪い。いやだ、気持ち悪い。
 やだやだやだやだ、離して、早く離して。こんなの嫌だ。助けて、誰か助けて―――!

 「藤井さん、今日は早く仕事終わるかい? 良ければ食事―――」
 パニックがピークに達した瞬間。
 考えるよりも先に繰り出していた蕾夏の右手の拳が、峰岸の緩んだ頬にジャストミートしていた。

***

 ―――最悪な気分…。
 一人暮らしのアパートで、膝を抱えてぼんやりしながら、蕾夏はいろんな感情に押しつぶされそうになるのに耐えていた。

 あの直後、課長が応接室に入ってきて、ソファから派手に落っこちてる峰岸を見て仰天した。慌てて蕾夏を席に戻らせたが、応接室を出て行く際振り返ると、課長が何度も峰岸に頭を下げているのが見えた。
 結局、蕾夏は早退を命ぜられ、まだ終業まで1時間もあるのに、帰宅する羽目になった。

 『“お客様は神様”って言葉があるだろう? 神様を殴るなんて、君は何を考えてるんだ!』
 課長は、目を三角にしてそう怒った。
 『お客様は“神様”じゃありません! 私や課長と同じ“人間”です! なのに、なんで体を触られて我慢しなくちゃいけないんですか!?』
 『たかが背中を触られた位で何を言ってるんだ! もっと大人な態度をとれないのか、君は!? もう24にもなるんだから、ああいう客のあしらい位できるだろう!?』
 『でも…!』
 『いいから口答えするな! もう帰って、明日までに頭を冷やしておけ!』

 課長のセリフを思い出していたら、吐き気がこみあげてきて、慌てて洗面所にかけこんだ。吐こうとするが、夕飯もとっていないから、何も吐くことはできない。背中に感じた手の感触がまだ残っていて、時折、全身が総毛立つ。
 大人な態度―――課長の言いたい事位、蕾夏にだって理解はできた。たかが背中を触られた位、そう思うのは当然だろう。蕾夏も、できることならそうしたい。でも、久々に襲われたあの感覚は、何度味わっても慣れるものではなかった。
 こんな時、いつも思い知らされる―――結局自分は、いまだに子供で、弱い人間に過ぎないのだ、と。
 ―――でも…辻さんにだけは、逃げたくない。
 テーブルの上に置かれた携帯電話に目をやり、自分を制するように首を振る。でも、こんな状態をたった一人で乗り切れるとも思えなかった。
 じゃあ―――どうすれば、いいのだろう…?
 思考力の低下した脳が答えを導き出すより前に、蕾夏は何故か携帯を手に取って、無意識のうちにリダイヤルボタンを押していた。

 自分が誰に電話をかけたかに気づいた時には、既に受話器から呼び出し音が聞こえていた。無機質な呼び出し音が2、3回続いた後、相手が電話に出た。
 「ハル?」
 元気な声を出したかったが、どこかから力が抜けてしまってるような声に聞こえて焦る。
 『うん、俺』
 いつも通りの彼の声。だが、背後にジャズ音楽と、グラスがぶつかりあうような微かな音が混じっていた。
 「あ…と、ごめん、もしかしてまずかったかな。今どこなの?」
 『今? 女に拉致されて、やっと解放されたから、会社の仲間と飲んでる。そっちは?』
 「…自宅謹慎中」
 『あ、ちょい待って』
 唐突に電話が中断された。歩いているのか、微妙に音楽の聴こえ方が変わってくる。
 『―――お待たせ。で? 何、自宅謹慎って』
 そう促され、一瞬、言うのをためらってしまった。馬鹿じゃないのお前、と言われそうな気がする。でも―――それならそれで、返ってさっぱりするかもしれない。
 「うん、実は―――今日、会社に訪ねて来たクライアントにお茶出ししたんだけど…手とか背中とか触られちゃってさ。ちょっとパニックになっちゃって、気づいたら、思いっきりグーで殴り倒してた」
 『ははははは、お前らしー。いいじゃん、どんどん殴れよ。俺が許す』
 派手な笑い声。こっちは真剣なのに、と、思わずむっとした。
 「笑い事じゃないよっ! 課長ったら全然わかってくれないんだもん! “神様”なお客を殴るなんてとんでもない、って」
 『課長がバカなのは前からわかってたことじゃねーか。セクハラおやじ殴るなんて、お前にしかできない芸当なんだから、絶対謝ったりすんなよ』
 「……」
 その言葉に、蕾夏は声を失った。
 何故か、その言葉を聞いた途端、ガチガチに固まっていた心の中の結び目が、すっとほどけたような気がした。
 何かが、染み透っていく―――皮膚も骨も透過して、体の奥の方まで。閉じ込めていたやり場のない怒りが、彼の言葉に触発されて、ゆっくり溶け出していくのを感じる。
 「…子供じみた反応だ、って思わない?」
 『じゃあ大人な反応って何?』
 「え? えーと、例えば…笑顔で適当に誤魔化す、とか」
 『…お前らしくねー、そんなの。大人とか子供とか関係なく、“お前らしくない”。それが一番気持ち悪い』
 「…私らしく、ない、か」
 『子供じみてる、とでも言われたのか? ―――いいじゃん、言わせておけば。逃げる事が“大人”だなんて言うなら、“子供”で構わないだろ。お前が落ち込む事なんて、1つもねーよ』

 ―――クラクラする。
 あまりの心地よさに、眩暈(めまい)でダウンしそう。

 …ハルは、何も知らない。私の過去も、私の抱える痛みも。
 なのに―――どうして、欲しい言葉をくれるんだろう? 何故私の弱さを、巧みに「強さ」に変えてくれるんだろう?
 ハルの言葉は、まるで見えない光線か何かのようだ。どんな物も透過して、心の底に届いてくれる。
 ―――不思議な人だ。ハルって。

 ふと気づくと、蕾夏の頬を、涙が伝っていた。
 ああ、そうか…私、泣きたかったんだな―――蕾夏は、ようやくそう気づいた。


***


 5月2日の新宿東口。蕾夏は、待ち合わせ時間よりかなり早く到着してしまった。
 東口の外壁にもたれ、暫しぼんやりと行き交う人の波を眺めた。あまりに人が多いので、見ているだけで疲れてきてしまう。10分もそうしていたら飽きてしまい、蕾夏は両腕を挙げて思いっきり伸びをした。
 その時、蕾夏はふと、自分と同じく壁に寄りかかっている男に目を留めた。
 洗いざらしといった感じの黒のダンガリーシャツを羽織り、リーバイスのリュックを片方の肩にかけた彼は、顔は頬のあたりしか見えないが、やっぱり蕾夏同様、誰かと待ち合わせのようだった。
 ―――印象的な人だなぁ。
 第一印象が、それだった。
 蕾夏には何故か、彼一人が、この喧騒から浮き上がってるように感じられたのだ。けたたましい音楽も、人々の声も、彼の周囲ではふっと途切れているような―――そんな感じがする。彼の「何」がそう感じさせるのかがよくわからず、蕾夏は暫く不思議そうにその人物を眺めていた。
 あまりじっと見ているのも失礼なので、蕾夏は目を逸らした。行き場を失った視線は、暫し雑踏や看板の上を掠めた後、空に向けられた。
 蕾夏は、空を見るのが好きだった。でも、東京で一人暮らしをするようになってからは、あまり空を見なくなっていた気がする。新宿に勤めているというのに、新宿の空を見上げたのは、これが初めてかもしれない。
 ―――空が、狭い。
 空が窒息してしまいそう。ビルとビルに囲まれ切り取られてしまった空は、眺めていて悲しくなってくる。昔、家族旅行で訪れた北海道の空は広かった。どこまでもどこまでも―――地平線まで、空は続いていた。
 少し悲しげに眉根を寄せていた蕾夏の目の端に、ふと、気になる光景がひっかかった。
 目の前のビルの窓が、一瞬キラリと光ったのだ。
 なんだろう? そう思ってその窓に視線を定めた蕾夏は、やがて、その美しさに思わず息を呑んだ。
 どこかから夕陽が射し込んだのだろうか。窓ガラスが、少しずつオレンジ色に染まっていく。
 ―――綺麗…。
 綺麗すぎて、涙が出てきそうになってしまう。ビルの窓ガラスが綺麗な位で泣くのはおかしい、と自分でも思ったが、こんな所で“自然”が感じられた嬉しさは、涙でしか表せない気がする。この瞬間を切り取って、大切に取っておきたい―――そう思った。

 その、刹那。
 カシャッ、という、微かなシャッター音が、蕾夏の頭の中に響いた。
 おそらく実際には、極々小さな音。聞こえたのが奇跡に近いような、そんな音。なのに、何故かその音がやたらと大きく聞こえ、蕾夏は反射的に音の方に首を回した。
 さっきの“彼”が、カメラを構えていた。ちょうど蕾夏が見ていたあたりにレンズを向けて。
 「―――…えっ」
 「え?」
 蕾夏の声に、彼も弾かれたようにこちらを見た。
 前髪の毛先の隙間から、ダークグレーの瞳が蕾夏を見つめる。その目を見た瞬間、蕾夏の頭の中でフラッシュがたかれた。
 ―――もしかして。

 「…ライ?」
 「ハル?」

 その瞬間に、これまで想像したこともなかった「成田瑞樹」の顔が、今目の前にいる彼の顔とピタリと一致した。


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