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no020:
流れる糸
-odai:26-

 

ソレハ、幸セナ手触リ。

―98.05―

 瑞樹は、病院の公衆電話の前で、ある事実に気づいて硬直した。
 久保田は今日、大学時代の仲間と一緒にキャンプに行っている筈である。佳那子は親戚の法事で岡山だと言っていた。会社の連中で頼みごとができそうなのはあの2人しかいないが、2人とも東京にいない。ことが和臣絡みだから、奈々美に頼むのがベストなのはわかっているが―――そもそも、連絡先を知らない。
 「神崎さんの付き添いの方、いらっしゃいます?」
 ナースに呼ばれ、瑞樹はひとまず公衆電話の受話器を置いた。
 「あ、俺です」
 「先生が、神崎さんの方はもう終わりましたから、あなたも早く診察室に来なさい、っておっしゃってますよ」
 「いや、もうちょっと待って下さい」
 「でも、頭打ってたら大変よ、あなた」
 「打ってません、大丈夫です、すぐ戻りますから」
 まだ心配そうにしているナースを追っ払い、はーっと一息ついて、考える。
 ―――悪いけど、やっぱりあいつに頼むしかないか。
 決断した瑞樹は、再び受話器を取り、暗記している番号を押した。コール2回で、電話は繋がった。
 『はい』
 「ライ? 俺」
 『え…ハル? どうしたの、珍しい。これ携帯じゃないでしょ?』
 「ああ、今病院なんだ」
 『病院!? ちょっと、大丈夫? どうしたの?』
 「話せば長くなるんだけど―――悪い、今からこっち来てもらえるか?」

***

 話は、今から1時間ほど前に(さかのぼ)る。
 この日、瑞樹と和臣は休日出勤していた。土曜日の社内には誰もおらず、また来客や電話もゼロなので、仕事は面白いほどにはかどった。
 「カズ、そろそろ昼飯食いに行くか?」
 パーティションの向こうを覗き込み、提案書を作っているであろう和臣に話しかける。和臣は、瑞樹の声に顔を上げ、笑顔を見せた。
 「うん。下のファミレスにしよっか」
 「…おい、その顔、どうした?」
 思わず瑞樹が眉をひそめる。
 和臣の顔は、妙に青白かった。というより、血の気がほとんどなかった。
 今朝見た時も、少し顔色が悪いな、とは思ったが、それは昨日の後遺症だと思っていた。昨日は久保田の飲み歩きに2人とも付き合わされてしまい、帰宅がかなり遅くなってしまったのだ。飲んでる最中、和臣はいつも通り陽気に酒を楽しんでいるようだったが、いつもならワイングラス1杯で顔が赤くなるのに、昨日は日本酒をかなり飲まされたにも関わらず最後まで白い顔をしていた。今考えると、あの段階で既に体調に異変があったのかもしれない。
 「え? 顔? オレの顔、どうかした?」
 「いや…どうか、っていうか…真っ青だぞ」
 「あー、ちょっと胃が痛いからかなぁ。このところずっとそうなんで、あんまり気にしてなかったけど」
 「昼、食いに行けるか?」
 「甘いものなら食べられそうだから、行く。あ、でも…階段で行ってもいいかな」
 「―――もしかしてお前、吐き気とかしてるんじゃないか?」
 和臣は曖昧に笑うだけで、返事をしなかった。瑞樹に言わせれば、それは肯定以外の何物でもない。
 「…とりあえず、帰る支度しろよ。家まで送ってやる」
 「ええ!? い、いいって! 成田、オーバーだよ。ちょっと胃のへんがムカムカするだけだから」
 「いいから支度しろ!」
 強い口調で言われ、仕方なく和臣は帰り支度をした。瑞樹もパソコンの電源を落とし、荷物を手早くまとめて、和臣を伴って事務所を後にした。
 エレベーターは辛そうな和臣に配慮して、階段で降りることにする。
 「歩けるか?」
 「大丈夫だって」
 全然平気、といった口調で和臣は答えるが、足元はおぼつかない。
 ちゃんと手摺につかまれよ、と瑞樹が注意しようとした瞬間、目の前の和臣の体が、ガクン、と前に傾いた。
 「うわ…!!!」
 瑞樹は慌てて和臣を抱きかかえたが、時既に遅し―――瑞樹の力より、和臣が階段を踏み外して落ちる力の方が勝ってしまい、2人は踊り場から下まで、一気に階段を転がり落ちてしまったのだ。

***

 「ハル」
 待合室でうとうとしかけていた瑞樹が目を開けると、紙袋を持った蕾夏が走り寄ってくるのが見えた。
 「カズん家、すぐわかった?」
 「ん、大丈夫。地図が正確だったから。一応、要りそうな物は全部持ってきたと思うけど…」
 「サンキュ。助かったよ」
 蕾夏は、預かった和臣のアパートの鍵を瑞樹に渡し、紙袋をベンチの上に置いた。中には、和臣の保険証、タオルが2本、パジャマ、洗面道具などが入っている。下着はさすがに家捜しするのがためらわれたのだろう、病院のそばにあるコンビニの袋に、買ったばかりのものが入っている。
 「お前、パジャマなんてどこで見つけてきたんだ?」
 「床の上。脱ぎ捨ててあったから、そのまま回収しただけ」
 「―――あいつの生活ぶりが窺えるな」
 「あはは、ハルも見たら驚くよ。物探すのに、結構手間取っちゃったもん。―――で、ハルは家に帰れるの?」
 「俺は単なる打撲と捻挫だから」
 そう言いつつ、瑞樹は自分の足元を指し示した。ジーンズの裾とスニーカーの隙間から、真新しい包帯が覗いている。
 「階段から人抱えて落っこちて、よくそれで済んだね」
 「悪運が強いんだろ。憎まれっ子世になんとやら、とか言うし」
 「そっか。確かにそうだねぇ」
 「…今のは頷くとこじゃねーだろ」
 「あははははは、冗談だってば。んで、“カズ”君は? 今どうしてるの?」
 「とりあえず検査終わって、ベッドに寝かされてる。十二指腸潰瘍らしい」
 「ふーん。十二指腸潰瘍って、入院しないとダメなんだね」
 「いや、十二指腸潰瘍は、今は外来で十分治る。あいつが入院するのは、栄養失調のせい」
 その病名に、蕾夏の目がまん丸になった。
 「え…栄養失調!? いまどき!?」
 「そ。あいつ、前科もあるしな。前回は自宅アパート前でひっくり返って、一番近かった病院に、近所の人が3人がかりで引きずり込んだらしい」
 「…そんなに貧しい食生活なの? “カズ”君て」
 「貧しいっていうか…乱れてるな。―――さて、病室行ってみるか」
 瑞樹は、紙袋を手に、よっ、と反動をつけて、待合室のベンチから立ち上がった。捻挫した足がズキンと痛んでよろけてしまったところを、蕾夏が慌てて支えた。
 「もー…自分が怪我人だって事、忘れてない? 荷物、貸して。持つから」
 「いてて…サンキュ」
 瑞樹は苦笑し、紙袋を蕾夏に手渡して、ひょこひょこと歩き出した。

***

 ―――あー、つまんないなー。
 これから2、3日ここに閉じ込められると思うと、気分が滅入ってしまう。本でもありゃマシなのに、と考えつつ、和臣はため息をついた。
 だるくなってきて寝返りをうつと、コンコン、とドアがノックされた。医者かな? と思い、首をもたげる。
 開いたドアから覗いた顔は、瑞樹だった。
 「あー、成田。迷惑かけたなぁ」
 「いや。…へぇ、一人部屋なのか、ここ」
 ドアから室内を見渡して、瑞樹が意外そうに呟いた。確かに、いきなり担ぎ込まれて一人部屋に収容されるなんて話は滅多にない。
 「空きがここしかないんだってさ」
 「ラッキーだったな、お前。―――ところで、友達が荷物持ってきてくれたから」
 「ほんと!? うわ、ごめん。入ってもらって」
 和臣は慌てて体を起こそうとした。が、まだ痛みが完全にとれてる筈もなく、すぐに顔を歪めた。
 「あ、バカ、寝てろって」
 「いや、でもさ」
 「病人なんだから、無理しないで寝てて?」
 瑞樹の背後から聞こえた声に、和臣の動きがピタッと止まる。
 その声は、どう考えても女性としか思えない声。
 瑞樹に女友達がいるなんて考えもつかなかったので、当然、荷物を取りに行ってくれたのも男だと思っていた和臣は、予想外の事態に、必要以上にうろたえてしまった。
 「え…あの、まさか“友達”って、女の子?」
 「一応な」
 「こんにちはー」
 瑞樹の右隣から、女の子がぴょこんと顔を覗かせた。
 ナチュラルメークなその顔は、和臣の目には高校生位にしか映らなかった。動揺が更に増す。
 「え…ええ!? 何!? 成田、この美少女誰だよ!? どこから誘拐してきた!?」
 「美少女って…そう呼ばれる顔でも歳でもないぞ」
 「あ、なにそれ。失礼なやつ。だいたいハル、いつまで入口占拠してるの?」
 ちょっと唇を尖らせると、彼女は瑞樹の体をぐいと押しやり、病室内に足を踏み入れた。
 瑞樹とはどう見ても接点のなさそうな女性の登場にまだ呆然としている和臣だったが、ふと、ある単語に2ヶ月ほど前の記憶が甦り、あっと声をあげて彼女を指差した。
 「“ハル”って―――もしかして、間違い電話のあの女の子!?」
 「そーです」
 「う、うわぁ…あの時は、ほんとにほんとに失礼しました。成田の会社の後輩で、神崎和臣です」
 滅茶苦茶恐縮しつつ、和臣は頭を下げた。その下げ方を真似るようにして、彼女も笑いながら頭を下げる。
 「藤井蕾夏です。はじめまして――――間違い電話の“カズ”君が、こんな王子様みたいな人だとは思わなかったなぁ」
 「いや、そんな―――なぁ、成田。一体どういう関係?」
 あたふたとしながらも、どうしてもそれが気になって、和臣はうろたえた顔を瑞樹に向けた。が、当の瑞樹の方は、いつも通り涼しい顔をしている。
 「ん? 前話しただろ。チャットルームで気の合う奴がいて、よく電話で話してるって」
 「え!? だ、だって前にお前…」
 「あぁ、チャットの頃は俺、こいつの事男だと勘違いしてたからな」
 「それが女の子だったなんて、あの後一言も言わなかったじゃないか!」
 「別に訊かれなかったから」
 「訊かなくても訂正しろよ…」
 毎晩のように男と長電話してるのはちょっと問題なんじゃないか、と、実は密かに瑞樹のことを心配していたのだ。なんだ、女の人だったのか、と安堵する一方、あの成田瑞樹と打ち解けられる女がこの世に存在したなんて、と意外な気もした。
 と、無理な姿勢が祟ったのか、胃がズキンと痛んだ。思わず顔を歪める。
 「あ、あいたたた…」
 「とにかく寝とけって」
 しょうがないなあ、という表情で、瑞樹は和臣の不安定になってる体を支え、ゆっくり体を横たえさせた。2人を見てクスクス笑っていた蕾夏は、ふと傍らのテーブルの上に目を止めた。
 「あ、ここ、ちゃんとお茶のセット用意されてるんだね。親切〜。ハル、お茶いる?」
 「飲む」
 「カズ君…は、無理、だよね。私も飲もっと」
 そう言って、蕾夏は、用意されていたお茶セットで、機嫌良くお茶の準備を始めた。

 ―――色、白いなぁ。髪が黒くて長いから、余計そう感じるのかなぁ。
 横になってひと心地ついた和臣は、お茶の用意をする蕾夏を、ぼーっと眺めていた。
 肘のあたりまである蕾夏の真っ黒なストレートロングは、絹糸みたいにサラサラしていて、彼女の動作に少し遅れてついてくる。彼女の動作は決して緩慢ではないのに、その髪の動きのせいで、なんだかスローモーションを見ているような錯覚に陥ってしまう。
 奈々美の髪は栗色で、ミディアムボブの髪はくせっ毛のため耳の下でふわふわとカールしている。あの綿菓子のような髪も好きだが、シャンプーのCMに出てきそうな蕾夏の黒髪も、和臣は結構気に入った。
 ―――なんか、オレの髪とは全然違う物だよなぁ、彼女の髪って。あのツヤツヤぶり見てると、CMに出てくる「天使の輪」とか「キューティクル」って単語、嘘じゃないんだな、って納得いくもんなぁ。
 どんな手触りなんだろう? そんな興味がわいてくる。
 暫し彼女の動きを眺めていた和臣は、ふと視線を感じ、瑞樹の方を見た。いつの間にかパイプ椅子を引っ張ってきていた瑞樹が、和臣と目が合って、ニヤリ、と笑った。
 「なっ…なんだよっ」
 「別に? ただ、お前でも木下さん以外の女に見惚れるんだな、と思って」
 ―――オレ、そんなに見惚れてたかな。
 瑞樹の指摘に、和臣は耳まで赤くなった。

***

 翌日の日曜日も、2人はお見舞いに病室を訪れた。といっても、時間帯はバラバラで。
 瑞樹は午前中にふらりとやってきて、情報誌を1冊置いていった。ちょうど暇だったのでタイムリーなお土産だった。
 蕾夏の方は午後遅くに来て、スズランの花束を持ってきた。
 「ちょうどシーズンだしね。それに、花言葉が“幸福が訪れる”だから」
 枕元に置いた花瓶から、スズランのいい香りがする。
 「ありがとう。なんか、幸せな香りだよね、これって」
 “幸せな”、という形容詞は、和臣がよく使う言葉だ。感動した時などは、食べ物にでも音楽にでも、この形容詞がつく。今の和臣にとって、スズランのどこか清廉でありながら甘い香りは、まさしく「幸せな香り」だった。
 「…あの、1つお願いあるんだけど、いいかなぁ?」
 「ん? 何?」
 和臣は、暫し言いよどんだが、思い切ったように小声で告げた。
 「その髪、触ってみてもいいかな」
 「え? 髪?」
 驚いたように蕾夏が目を丸くする。
 「なんか、昨日見た時から、そういうサラサラツヤツヤの髪ってどんな手触りなんだろう、って気になって」
 「ふーん…いいよ?」
 「ほんと? じゃ、お言葉に甘えて」
 和臣は、少し体を起こすと、おそるおそる蕾夏の髪を手に取ってみた。
 それはやっぱり、絹糸のようにサラサラで、だけど絹糸よりも張りのある、しっとりした手触りだった。手のひらに掬ってみると、微かな音をたててサラサラと流れ落ちる。自分の髪の毛など飽きるほど触っているが、蕾夏の髪は全然違う物で出来ているとしか思えない手触りだ。
 ―――なんか、ちょっと、感動。
 ふと、不思議そうな目をして和臣の様子を見ている蕾夏と目があった。
 何がそんなに面白いんだろう? と思っているような、蕾夏の表情。和臣は、どう表現して良いのかわからず、困ったような笑いを浮かべた。
 「ええと…幸せな手触り、って感じかな」

 その夜、和臣は、スズランの香りに包まれて、幸せな気分で眠れた。
 夢の中で時折、あの髪の感触がよみがえってきた。サラサラした手の感触は、やっぱり「幸せな手触り」としか表現のしようがなかった。


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