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no021:
フレグランス
-odai:2-

 

不安ニサセル、甘イ香リ。

―98.05―

 病室のドアを開けた途端、なんとも言えない優しい香りが廊下まで漂ってきた。
 「よっ、カズ、具合はどうだ?」
 久保田が声をかけると、雑誌を広げていた和臣が頭をあげた。久保田の背後に佳那子と奈々美もいるのを見つけ、嬉しそうに笑う。
 「元気ですよ〜。こんな元気なのに、のうのうと寝ててみんなに悪いなぁ」
 「神崎君、これ、お見舞い。…でも、食べられるかしら」
 そう言って奈々美が差し出したのは、和臣の大好物「いちご大福」だった。
 「食べるっ! 医者が止めるかもしんないけど、食べる!」
 「こら、神崎。医者が止めるんなら、食べちゃダメよ。あんた、十二指腸潰瘍なんだから」
 佳那子がそう言ってたしなめたが、和臣はお構いなしである。さっそく1つ目をご馳走になり、「やっぱりいちご大福って最高!」と幸せを噛みしめた。
 「しっかし、驚いたぞ。瑞樹は脚引きずって会社来るし、カズは救急車で運ばれたって言うし…」
 「すみません、心配かけちゃって。成田、やっぱりまだ脚引きずってましたか」
 「ちょっとだけな。何か用事があるとかで、今日は一緒に来なかったけど」
 時刻は午後6時半。3人とも定時で退社してこの病院に直行したのだ。珍しく瑞樹も定時で仕事を切り上げたが、「俺、用事があるし、昨日も行ったから」とそっけなく答えて、久保田たちより先に帰ってしまった。どこに行くのかは誰も聞いていなかった。
 「ああ…今日は多分、映画行ってると思う」
 2つ目のいちご大福に手を出しながら、和臣があっさりした口調でそう言った。
 「え? そうなのか?」
 「“ジャッキー・ブラウン”がどうのこうの、って、土曜日に相談してたから」
 相談、という言葉に「誰と?」と引っかかりはしたが、瑞樹の映画好きは全員知っていたので、行き先が映画なのは、なんとなく納得した。
 「で、カズはいつ退院できるんだ?」
 「明日には退院しちゃうんですよ。明後日には会社に行けるんで、ほんと、みんなにお見舞いしてもらうほどじゃなかったんだよなぁ」
 「まあ、復帰したらこき使ってやるから、覚悟しとけ」
 「…はぁい」
 久保田は和臣を非常に可愛がってはいるが、彼の可愛がり方は少々スパルタ気味である。こりゃ相当こき使われるな、と覚悟しつつ、和臣はいちご大福をもぐもぐと飲み込んだ。
 「ねえ、神崎」
 さっきからずっとある物が気になっていた佳那子は、話が一区切りついたらしい頃合を見計らい、声をかけた。
 「何? 佳那子さん」
 「あのスズラン、どうしたの?」
 佳那子が言っているのは、サイドテーブルに置かれている花瓶に活けられた、スズランのことだ。奈々美もそれに気づき、ドアを開けた時のあの香りはこの花だったのか、と思った。
 「あー、それね」
 指摘を受けた和臣は、なんだか照れたような笑顔を浮かべた。奈々美関連以外でこういう顔をするのは珍しい。
 「藤井さんが持ってきてくれたんだ」
 「藤井さん?」
 「…って、誰?」
 全員、はてな顔になる。
 「成田の友達。ほら、一時期、寝る時間削ってチャットしてたでしょ、成田。あの相手」
 「へー…成田のチャット仲間なの。随分気のつく人ね。女の人並みじゃない」
 「藤井さんは、女の人だよ」
 「え!?」
 全員、驚愕、という単語をそのまま写したような顔になった。
 「ほ、ほ、ほんとか!? 見間違いなんじゃないか!? あの瑞樹に女の友達なんて、絶対有り得ないっ! 実は男が女装してただけとか、そういう事ないか!?」
 大学時代から瑞樹を知っている久保田の驚愕度が一番凄まじかった。病人だというのに、和臣の胸倉を掴んでガクガク揺さぶっている。が、揺さぶられている和臣の方は、まだ幸せそうな笑顔で頬を緩めたまま、ちがうちがう、と首を振っている。
 「見間違える筈ないですよぉ。すっごい華奢で、可憐な人だもん」
 「可憐…」
 「色が白くってねー、白っていうより透明って感じ。白雪姫って、きっとああいう白さなんだろうなぁ。髪も真っ黒なツヤツヤサラサラのストレートロングで、藤井さんなら髪のCMモデルになれるかも」
 「……」
 ―――神崎のバカ…ナナが自分の癖っ毛を気にしてること、知らないのかしら。
 隣に座る奈々美の気配が微妙に変化するのを感じつつ、佳那子は心の中でそう呟いた。
 「オレの事なんて全然知らないのに、入院準備してくれたしさ。あ、スズランね、花言葉が“幸福が訪れる”なんだって。早く良くなるように、って意味で選んでくれたみたい。優しいよねぇ」
 ―――カズ…お前、ここに木下がいること、忘れてないか? 気のある女の前で、他の女褒めすぎだよ。
 久保田も、一人浮かれまくる和臣の様子にだんだん不安になってきた。
 「ふーん、いい人なんだ」
 表面上ニコニコとした顔をしている奈々美がそう相槌を打つと、久保田と佳那子の背中に冷たいものが走った。奈々美の声色が、自虐モードに入ってしまった時のものに変わりつつあるのに気づいたから。
 なのに、和臣はさっぱりそれに気づかない。病気でセンサーが故障しているのかもしれない。
 「うん! すっげーいい人! 全快したら成田と一緒にお祝いしてくれるみたいだから、奈々美さんも一緒においでよ」
 「……」
 「あれ? …奈々美さん、元気ないね。どうしたの?」
 「あ、あら、もうこんな時間じゃない。そろそろ退散しないと。ナナ、帰り一緒に食事しましょ」
 慌てて佳那子が間に割って入った。
 「そうだな。いくら個室でも、あまり長居すると病院側の迷惑だよな」
 久保田もそそくさと立ち上がる。
 「あ、そーだね。オレももうすぐ点滴の時間だから」
 無邪気にそう言う和臣を、佳那子と久保田がギロリと睨んだ。
 「え? 何?」
 「…別になんでもないわ」
 「そう? あ、そうだ、奈々美さん」
 いい事を思いついた、といった感じに、和臣は傍らのスズランを、2、3本残して全部引き抜いた。それを、複雑な表情を浮かべて席を立った奈々美に向かって差し出す。
 「これ、持っていって」
 「え? 私が?」
 「うん。オレはもう元気になったから、奈々美さんに幸福分けてあげる。なんか、元気ないから」
 フォローになっているのか逆効果なのかわからない和臣の行動に、久保田も佳那子も内心頭を抱えた。が、奈々美はそのスズランの花束を素直に受け取ると、
 「…ありがと、神崎君」
 と微笑んだ。

***

 「スズランって、こんな香りの花だったのね」
 ポツリと奈々美がこぼした言葉に、佳那子の箸が止まった。
 「嫌いな香りなら、私が持って帰ろうか?」
 「ううん、いい。優しい香りで、私も好き」
 奈々美はそう言って、ティッシュを湿らせてスズランの切り口に巻きつけ、自分の席の傍らに置いた。再び箸を手にしたが、あまり食欲はなさそうだ。
 佳那子は、奈々美の食欲がない事以上に、奈々美の目の前に置いてある冷酒の方が気になった。
 奈々美は酒があまり強くない。その事を自分でも知っているから、普段は甘口なワインを(たしな)む程度だ。が、極度に落ち込んだ時や精神不安定な時、キレてしまった時などは、いきなり強い酒を注文し、必ず悪酔いする。過去に何度も経験した悪夢を思い出し、佳那子は眉を寄せた。
 「ナナ、悪い事言わないから、飲むのはよしなさい」
 「いいじゃない、飲んだって」
 少し不貞腐れたような口調の奈々美は、佳那子の忠告を無視して、冷酒の入ったガラスのお猪口に口をつけた。
 「よしなさいって。今までだって、そうやって飲んではグデングデンになって、私や久保田に介抱されてきたじゃないの。今日は久保田がいないんだから、私一人じゃナナを担いだりできないわよ?」
 「いいもん、別に介抱してくれなくたって」
 ―――まずいなぁ、かなりきちゃってる状態だわ、これ。
 決しておいしそうとは言えない表情で冷酒を喉に流し込む奈々美を見て、佳那子はため息をついた。
 「ああ、そう。なら、強硬手段に出るわ」
 「え? あ…ちょっと、佳那子っ!」
 驚く奈々美をよそに、佳那子は奈々美の冷酒セットを横取りすると、お猪口になみなみと冷酒を注いだ。平然とした顔でそれをくいっと飲み干すと、すぐさまお猪口を冷酒で満たす。
 「…焼き鳥屋でヤケ酒飲むおじさんみたいよ」
 「そうさせてるのは、どこの誰よ?」
 佳那子が軽く睨むと、奈々美は少し顔を赤くし、唇を尖らせた。可愛らしい顔立ちの奈々美がやると、小学生が先生に叱られて拗ねているみたいだ。怒っている筈の佳那子も、つい笑ってしまいそうになる。
 「冷酒は私が引き受けるから、ナナはしっかり食べなさい」
 「…佳那子、今度はお母さんみたいよ」
 「ナナが子供みたいな態度とるからでしょ」
 ちょっと不満そうにしながらも、奈々美は大人しく松花堂弁当に箸をつけ始めた。とりあえず、最悪のパターンだけは脱したらしい。佳那子はホッとし、少しだけ冷酒の味を楽しみ始めた。
 「ねぇ…神崎、今ちょっと病気で壊れちゃってるから、あんまり話したことを真に受けない方がいいと思うわよ?」
 「藤井さんて人のこと? うん。わかってる」
 奈々美は、少し寂しそうな笑顔を浮かべ、視線をスズランの方に向けた。
 「でも、実際神崎君が言う通りの人なんだと思うわ、藤井さんて人って。だって、藤井さんの話する時の神崎君の目って、まるで女神様でも(あが)めるみたいな目だったもん。きっと華奢で(はかな)げで優しげな人なんだろうなぁ…」
 「…それは、ちょっと違う気がするんだけど…」
 ―――だって、あの成田の友達よ? そんな霞食べて生きてるような姿だとは思えないんだけど。
 と、佳那子は内心反論していた。理論派な瑞樹の相手をするなら、かなり頭の回転は速いに違いない。いくら友達の頼みとはいえ、面識もない男の家にいきなり行って、家捜しして着替えやら保険証やらを取ってくるなんて、和臣の言葉から想像するような弱々しそうな人には無理だと思える。外見は確かに和臣の言葉通りかもしれないが、実際に会ったら、かなりアグレッシブな人物だったりするのではないだろうか。
 「いいのよ。そういう女の子なら、神崎君にも釣り合うと思うもの。私なんかじゃどのみち釣り合わないわ。横浜行った時も、女の子たちの視線が痛くて痛くて大変だったもの。第一私、神崎君の彼女でも何でもないしっ」
 「また出たわね、ナナの“私なんか”が」
 佳那子はため息をつき、箸を置いた。
 「なんでそんなに卑下するの? ナナ、十分可愛いじゃない」
 「…そんなことないもん」
 「背が低いって気にしてるけど、私から見たら小さい子って羨ましいわよ。守ってあげたいって素直に思える姿してるんだもの、それだけでぐっとおトクな外見じゃないの。その癖っ毛も、フワフワしてて柔らかそうで、会社の女の子の中にも羨ましがってる子が一杯いるのよ?」
 佳那子の言葉も、今の奈々美には逆効果だった。奈々美は箸を置くと、半ば吐き捨てるように言った。
 「綺麗で欠点のない佳那子には、私の気持ちなんてわかんないわよっ」

 苛立ちから、つい発してしまった、一言。
 しまった、と思った。そんな風に思ってなかったのに、つい口をついて出てきてしまった言葉―――奈々美ははっとして、俯いていた顔を上げた。
 驚いたような、ショックを受けたような顔をした佳那子が、そこにいた。
 「…ご…ごめん」
 奈々美の胸に、後悔が次々に押し寄せてくる。奈々美の知る佳那子は、常に奈々美より強くて、奈々美の相談相手で、大人でしっかりしてて―――こんな顔をしている佳那子など、奈々美は知らなかった。
 「ごめんね、佳那子。そんな風に思ってない。ごめん…」
 「…大丈夫よ」
 佳那子は、ようやく笑顔を見せると、また箸を手に取った。残り少なくなった酢の物などに手を伸ばし、暫く無言で食べ続ける。奈々美もそれに倣った。
 「…ナナがそう言うのも無理ないわよね。私がナナに泣きついたり相談事したりした事、これまでなかったから。…でもね」
 少し言葉を切り、佳那子は奈々美の目を見た。
 「私、自分の事、大っ嫌いなのよ」
 「え…」
 「綺麗で真っ直ぐで、間違った事なんて絶対しない佳那子さん―――そんなの、もういらない。私ね、不良になりたいの」
 「ふ…不良!?」
 佳那子が!?
 ただでさえ大きい奈々美の目が、更に大きくなる。佳那子と「不良」―――合わない。水と油以上に、馴染まない感じだ。
 「不良って…たとえば、何がしたいの」
 「そうねぇ―――逃避行なんていいなあ。家の全財産盗んで、世界中を豪遊するなんて、楽しそうよね」
 「…冗談よね?」
 「ふふ、半分位はね」
 唖然とする奈々美を見て、佳那子はいつも通りの美しい笑顔を浮かべた。
 「けど、なかなか難しいのよねぇ…優等生を20年やっちゃうと、優等生な考え方が骨の髄まで染み込んじゃってて。そういう自分も、凄くイヤ。でも、イヤだと思う自分を素直に顔に出せない自分も、凄くイヤだわ」
 「…佳那子がそんな事考えてるなんて、全然知らなかった」
 「―――まぁ、自分に満足してる人間なんていないってことよ。ナナに限らず、私に限らず、ね。誰にだって欠点はあるもの」
 “欠点のない人間なんていない”―――当たり前の事だ。
 自分が佳那子に向けて言った言葉を、奈々美は改めて後悔した。

***

 家に帰り、スズランを花瓶に活けなおした。
 部屋が狭い分、スズランの香りは濃度を増し、奈々美の神経を溶かしていく。和臣の言う通り、幸福が脳に運ばれていくような錯覚に陥った。
 ―――藤井さんて、どんな人なんだろう。佳那子や私みたいに、自分のことがイヤになったりする事、あるかしら。
 ベッドに寝転がり、ぼんやりとそんな事を考える。
 ―――あれだけモテる成田君だもの、やっぱり成田君の事好きだったりするのかな。それとも、神崎君に会って、あの笑顔にノックダウンされちゃったかな。神崎君の笑顔って殺人級だものね。スズランを差し入れしたのも、彼の事が気に入ったからかも。
 …たとえそうでも、別に私には、関係ないけど。
 心の中の独り言とはいえ、最後にそう、念を押しておく。でも、関係ないと割り切れそうにないものが、心の中で燻っている。

 ―――私、神崎君のこと、好きなのかな。
 ふと、そんな考えも浮かんだが、スズランの濃厚な香りに意識が白濁していき、奈々美はすぐに眠りついてしまった。


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