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no023:
裸婦の肖像
-odai:57-

 

アナタガイレバ、ソレデ良カッタ。

―98.06―

 駅の改札を出ると、そこに見知った姿があって、瑞樹は一瞬だけ足を止めた。
 「ハァイ、成田君」
 ひらひらと手を振る彼女を興味なさそうに一瞥し、そのまま通り過ぎようとする。当然ながら、彼女は憤慨した。
 「ちょっと! 5年半ぶりの再会の態度が、それ? 何か一言位言ってよっ!」
 「…その頭でよく日本語忘れずに帰ってこれたな。おめでとう。じゃ」
 「ちょーっと、待ってよ」
 ぐいぐいと瑞樹の腕を引っ張って無理矢理足を止めさせ、彼女はわざとらしいほどの笑顔を作ってみせた。
 「あたし、帰国したばっかで家がないの。成田君とこ泊めてよ」
 「やだ」
 「じゃ、ホテル、行きましょ」
 「勝手に行けば」
 「あたしの頭じゃどこにどんなホテルがあるかなんて覚えてないのよっ! 8千円以内で泊まれるいいビジネスホテルに連れてってよっ!」
 「104で教えてもらえよ」
 「ふーん、これ、預かってても?」
 そう言うと彼女は、瑞樹のGパンのポケットから携帯電話を素早く抜き取り、ひょいと飛び退(すさ)った。携帯を人質にとられてはたまらない。自慢げに携帯をかざしてみせる彼女に、瑞樹はため息をついてホールド・アップした。
 「―――連れてくだけな」
 「蒲原(かんばら)さんと別れたの―――愚痴、聞いてよ」
 ニッ、と笑った口元とは裏腹に、彼女の目は笑っていなかった。

***

 「煙草、やめたの?」
 パンプスを脱ぎ捨て、ぺたぺたと素足で歩き回りつつ、彼女は瑞樹の方を見た。瑞樹は、椅子にもベッドにも腰掛けず、壁にもたれかかっている。
 「なんで」
 「煙草の匂いがしなくなったから。大学ん時の成田君て、結構吸ってたじゃない?」
 「会社が禁煙だから」
 「そうなんだ。…で? ずっとそこに立ってる気なの?」
 ボディ・コンシャスの赤いワンピースを脱ぎながら、彼女が呆れたように言う。勿論、服を脱ぎつつも、手には瑞樹の携帯をしっかり握っている。質問を無視して、瑞樹は彼女を睨んだ。
 「早く携帯返せよ」
 「女の下着姿見て、タダで帰る気?」
 「見たくねぇよ」
 「ざーんねん。もう脱いじゃったから、タダで帰ってもらっちゃ困るわ」
 ワンピースを床に落とし、黒のスリップ1枚で彼女はケラケラと面白そうに声をあげて笑った。ストンとベッドに腰掛けて足を投げ出すと、水分の抜けきったような赤毛を掻き上げる。
 「ねぇ、今日、カメラ持ってないの?」
 「持ってる」
 「じゃあ撮ってよ。1週間前まで現役のヌードモデルだったんだから、ポージングはお手のものよ。なんならヌードになってもいいし」
 「ポートレートは撮らない。忘れたのかよ」
 「そうだっけ? あの大学の写真部、あたしが顔出すとどいつもこいつも喜んで撮りまくってたわよ。2人きりでヌード撮らせてくれる現役ジョシコーセーなんて貴重だ、とか言って―――もち、全員、写真なんてどーでもよくて、あたしとヤるのが目的だったけどさ」
 彼女は悪びれる事もなくそう言って、またケラケラと笑った。笑い声を聞いてるだけで頭痛がしてくる。瑞樹は軽く頭をおさえ、うんざりしたように顔を背けた。
 「あのなぁ。てめーの乱交振りなんて今更聞かされても面白くもなんともねーよ。早く携帯返せよ。宿を紹介したんだから、もういいだろ」
 「やだぁ。まだ蒲原さんの愚痴を言ってないもん」
 「なら、とっとと愚痴れ!」
 「ねぇ、あそこの部員で、あたしと寝てないのって、成田君位じゃない? ね、なんで? 他に幾らでもいたから事足りてただけ? それともあたしの胸がAカップだったから?」
 「―――本気で怒った俺、知ってんだろ。さっさと愚痴って、携帯返せ!」
 「あー、あの頃は良かったなぁ。蒲原さんも、優しくて情熱的でさぁ」
 瑞樹の脅しを理解したのかしてないのか、彼女は大きなため息をついて、天井を仰ぐ。もう怒鳴る気も失せた。瑞樹はぐしゃぐしゃと髪を掻き上げると、壁に更に深くもたれかかった。
 「ねねね、夏の合宿って覚えてる? 軽井沢かなんかでやったやつ。田村とかいう、成田君の同期いたでしょ? あの合宿で、彼とヤってる最中に蒲原さんが乱入して、ぼこぼこに彼のこと殴り倒したの。俺の女に手を出すなーって凄い剣幕でさ。あの時、あたし、あの温厚な蒲原さんがキレちゃう位愛されてるんだなーって、すんごい感動した。嫉妬した時の蒲原さんって、情熱的になるから好き」
 ああそう、よかったな、と、瑞樹は心の中でだけ相槌をうった。
 その事件は、瑞樹も覚えている。当時瑞樹は大学1年生。大学生でもないのに写真部に入り浸っていた目の前の彼女は、まだ高校2年だった。蒲原は、1年浪人した上3年留年していて、当時3年生なのに既に25歳。日頃、滅多に激昂しない男だったが、あの時だけは真っ赤になって田村に殴りかかっていた。
 「2人でパリに移り住んでからも、あたしが遊ぶと、蒲原さん、すんごい怒ったの。東洋人のヌードモデルは珍しいから、結構お呼びがかかるじゃない? 蒲原さんに愛されてるって実感欲しくて、怒る顔が見たくて、つい誘いに乗って遊んじゃうんだよね」
 彼女の顔から、笑いが消えた。うつろな表情で壁を見つめ、微かに眉を寄せている。
 「―――まさか、何しても怒らなくなる日が来るなんて、去年までは思ってもみなかったな」
 「……」
 「蒲原さん、あたしより5つも年上の金髪美人とできちゃってさ。今じゃ、あたしが誰と寝ようが、すっかり無関心。…先週、とうとう言われたの。“もう、お前を撮る気はない”って」
 「モデルをクビになった訳か」
 「恋人もクビになっちゃった。金髪美人と結婚するんだって」
 「ハ…、男のために自分を切り刻んだ結果がこれかよ。馬鹿もここまで行くと救いようがねーな」
 せせら笑うように瑞樹がそう言うと、彼女は冷めた笑いを返した。
 「サイテーだよね」
 「俺、お前みたいな女が一番嫌い」
 「あははははは! そんなの、昔っから知ってるわよ」
 のけぞるようにして笑うと、彼女は勢いよく瑞樹の携帯をベッドに叩きつけた。怒りや悲しさを皮肉めいた笑いで覆い隠して立ち上がり、瑞樹の方にぺたぺたと歩いてくる。
 「有名だったもん。自分を慕ってくる女の気持ちなんて、成田瑞樹には1銭の価値もない、って。恋愛に溺れてる女なんて社会悪だと思ってるに違いない、って。鬱陶しいから振り払う、それでもダメなら一番傷つく方法で追い払う。一度でも抱かれたラッキーな女は、よっぽど憐れまれたか、じゃなければよっぽど怒らせたかのどっちかなんだってね」
 「喧嘩売ってるつもりなら、買わねーよ」
 「違うわよ。誘惑してるの」
 彼女は、瑞樹を挑発するように見上げて、腕を首の後ろに絡みつかせた。その時、一瞬だけ、彼女の手首の傷が目に入った。
 「―――捨てられた上に自殺未遂か。とことん落ちたな」
 「蒲原さんは泣いて騒いでうろたえまくったわよ―――どう? こんなバカ女、ボロボロにしてやりたくならない?」
 彼女は不自然に抱きつくと、瑞樹の唇に自分の唇を押し付けた。
 反応が全然ない瑞樹に苛立つように、よりきつく抱きつく。が、そんな彼女を、瑞樹は乱暴に彼女を押しのけた。
 「いったぁい!」
 「悪いけど、同情するほどの思い入れもなければ、憎むほどの義理もないんでね」
 馬鹿馬鹿しい、といった表情でデイパックを拾い上げると、瑞樹は彼女の横をすり抜け、ベッドに放り出されていた自分の携帯電話を掴んだ。
 「え…ちょっと、帰るの?」
 「当たり前だろ」
 「イヤ! 一人にしないでよ!」
 「誰でもいいんだろ。その格好で道端にでも立ってれば、掃いて捨てるほど男が釣れるぜ」
 「誰でも良くなんかないわよ!」
 思わずそう言い返すと、瑞樹は振り返り、ふっと笑った。
 「―――だよな。本音は“蒲原さんだけ”だもんな」
 瞬間、彼女の瞳が、動揺に揺れた。

 そう―――本音は“蒲原だけ”だ。昔から。
 彼の前でだから、平気で服を脱ぎ捨てられた。被写体としてでも、彼が自分を見つめてくれるのが嬉しかった。彼の視線を独占したくて、嫉妬心を煽りたくて、他の男と寝たし、自分を傷つけもした。命や体を削ることでしか彼を繋ぎとめられない自分が本当は嫌だったけど、彼さえ手に入れば、それでよかった。
 その彼は、もういない。
 誰と何をしても、どんなことをしても、彼が怒って駆けつけてきたりはしないのだ。ここは日本、彼のいるパリからは遠く離れている。心も距離も、もう蒲原とはかけ離れてしまった。
 ―――宇宙にたった独りぼっちで放り出されたみたいで、怖い。

 「…見捨て…ないでよ」
 自らの腕を抱く彼女の手が、カタカタと震えている。脚も震えていて、体中が強張っているのが傍目にもわかる。
 瑞樹は知っていた。一時期は彼女も、パリでささやかな成功を収めていたことを。フラッシュを浴びる快感も知っていれば、モデルとしてのプライドもあった筈だ。大学の同期生が偶然見つけた雑誌を瑞樹も見せてもらったが、そこに掲載されていた彼女の写真は、確かに輝いていた。
 でも―――今は、その欠片もない。蒲原を失うと同時に、失ってしまったらしい。
 瑞樹は大きなため息をついた。
 「―――そこに座って」
 ベッドを指差してそう指示すると、瑞樹はデイパックをテーブルに置いて、中からカメラを取り出した。
 それを見て瑞樹の意図を察したのか、彼女は指示通り、ベッドにストンと腰を下ろした。
 「…脱がなくていいの?」
 「脱いだら撮らない」
 あ、そう、というように眉を上げ、彼女はスリップの裾を慎重に直し始めた。着衣のモデル経験はあまりない。どういうドレープが一番体のラインを綺麗に見せてくれるだろうか―――5年半の習慣から、頭がそんな事を考えだす。
 瑞樹は、今入っているフィルムを巻き取り、新しいフィルムをセットした。ファインダー越しに、まだスリップのあちこちをいじっている彼女を捉え、フォーカスを合わせる。
 が、何故か、合わせ終わったところで、手の位置をキープしたまま、ファインダーから目を離してしまった。そんな瑞樹の行動を目の端で捉えていた彼女は、驚いたように顔を上げた。
 「えっ…撮らないの?」
 そう訊ねた瞬間、カシャッ、とシャッター音が響き、まばゆいフラッシュがたかれた。1週間ぶりのまぶしさに、彼女は目を細めた。
 ―――鳥肌がたつような、高揚感。
 フラッシュを浴びた瞬間に襲ってくる、なんともいえない陶酔感。ああ、これが欲しかった。肌でそう感じた。

 瑞樹は、1枚しか撮っていないそのフィルムをすぐさま巻き取ると、カメラから取り出してしまった。それを、まだ放心状態の彼女の手元に放る。
 ベッドの上をコロン、と転がったフィルムが指先に当たると、指先だけがヒヤリと冷たくなった。それに促されたみたいに、放心状態だった彼女が口を開いた。
 「…なんで、ファインダーから目を離しちゃったの?」
 それには答えず、瑞樹は淡々とした表情でカメラをしまいながら、彼女の方を振り返った。
 「まだ、完全に腐りきった訳じゃなさそうだな」
 「……」
 「なら、蒲原さんより上等なカメラマンに“お願いします撮らせて下さい”と言わせる女になって、リベンジしてみろ」

 ―――あたし、わかった。
 あたしが何故、帰国して最初に、他の誰でもなく、ほとんど交友のなかった成田君の所へ向かったのか。
 この人と蒲原さんだけだったんだ―――初対面の時、純粋にあたしを「被写体」として見てくれたのは。“モデルに使って下さい”、そんなあたしの無謀なお願いを、真剣に聞いてくれたのは。

 「…成田君は、撮ってくれないの?」
 「俺はカメラマンじゃないだろ」
 「ならないの? プロに」
 瑞樹はそれに答えず、デイパックを掴むと、もう彼女の方は見ないで出て行った。
 ガチャン! という扉の閉まる音が、一人取り残されたという孤独感を煽る。ずっと耐えていた涙が、頬を伝って流れ落ちた。

***

 ―――あー、気分悪。
 瑞樹は唇を手首でぐいっと拭い、途中で買ったウーロン茶をあおった。
 久々に味わう気分の悪さだった。彼女の自堕落さにもうんざりだったが、それ以上に気分が悪かったこと―――“人”に向かって、カメラを構えたこと。
 やっぱり俺にはポートレートが撮れないんだな、と、改めて実感させられた。遠い日の記憶は日々不鮮明になっていくものと昔は思っていたが、そんなのは幻想にすぎない。カメラを構えれば、また同じ記憶が甦る。
 ポートレートは、二度と撮らない―――もう一度、強く自分に言い聞かせ、瑞樹はウーロン茶を一気に飲み干した。
 空いた缶を自販機の横にあるごみ箱に放り込むと、瑞樹は歩き出しながらポケットを探った。だが、煙草を切らしていた事を思い出し、思わず舌打ちした。
 ―――とりあえず、気持ちをリセットしたい。
 瑞樹は、無意識に携帯電話を取り出し、リダイヤルボタンを押した。
 電話はコール1回ですぐ繋がった。
 『―――はい』
 「俺。今、どこ?」
 『…会社』
 受話器の向こうの声は、意外にも暗かった。何があったのかと、思わず身構えてしまう。
 「なんか、暗いな。どうした?」
 『……明日納品する納品機が、クラッシュした』
 半泣きの声に、瑞樹はつい吹き出してしまった。
 『酷いっ! もー、ショックでショックで、今だって夕飯食べられない位参ってるんだからねっ!? ハルだってこのショック、わかるでしょ!?』
 「はははは、ごめんごめん。わかる。よくわかる。で? なんでそんな事になったんだよ?」
 『課長のせいよっ! 私が“やめて下さい”って言ったのに、課長の奴“大丈夫大丈夫”って、電源入ったまんまのマシンからLANボード引き抜いちゃって―――1台パーよ! 信じられる!? しかもその後始末は私にしろって言うんだから、言ってること無茶苦茶よ!』
 確かに、蕾夏の状況は同業者から見たら悲劇的だが、ついさっきまで瑞樹が置かれていたあの空間に比べたら、はるかに正常で明るい。子供みたいに素直に感情を表す蕾夏の声に、なんだか無性にほっとする。ほっとしたら、笑えてきた。笑いすぎて、涙が出てくる位に。

 憤慨したように愚痴りまくる蕾夏の声を聞きながら笑っていたら、ゆっくりと心がリセットされるのを感じた。


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