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no026:
朝焼け
―Memories / Kazu Side―
-odai:17-

 

必ズ、手ニ入レル。自由ヘノ切符ヲ。

 ある朝、父さんの怒鳴り声で目が覚めた。
 「馬鹿野郎! もういっぺん言ってみろ!」
 続いて、いろんな物が落ちたり倒れたりする音。朝の弱いオレも、慌てて飛び起きた。
 父さんの怒鳴り声には慣れている。週に3回はにいちゃんに怒鳴りつけてるから。でも、覚えている限りでは、父さんがにいちゃんを殴ったことは、まだ1回もない筈だ。にいちゃんが両親に手を上げたことが無いのと同様に。
 オレはパジャマ姿のまま、冷たい階段を駆け下りた。居間に飛び込むと、殴られてひっくり返ってるにいちゃんと、今にもまた殴りかかろうとしている父さんがそこにいた。
 「にいちゃんっ!」
 思わず駆け寄って、にいちゃんの大きな体を庇うようにした。にいちゃんの口の端からは血が流れていて、見るからに痛そうだった。
 「よせ、カズ。お前まで殴られる」
 「父さん、なんで殴るんだよ! にいちゃんが何したんだよっ!」
 血管をこめかみに浮かせながら、父さんはオレとにいちゃんを見下ろしている。怒りで肩も拳もぶるぶると震えていたし、眼鏡は傾いている。母さんはどうしたんだろう、と視線を彷徨わせると、台所でオロオロしている母さんを見つけた。
 「いいからもういっぺん言ってみろ! え!? 言ってみろ、武次(たけつぐ)!」
 「…俺は高校を中退する。親父さんとこに厄介になって、一人前の大工になる」
 にいちゃんは、低く押し殺した声で、そう宣言した。全く聞いてなかった話で、オレも目を丸くしてしまった。
 「にいちゃん、本当に?」
 「ああ。この家を出る。親父さんとこで住み込みで修行するから」
 「うそ…」
 「―――父さん。頼む。許して欲しい」
 にいちゃんはそう言うと、ゆっくり姿勢を正し、父さんに向かって土下座した。そんなにいちゃんを、オレは呆然と眺めることしかできなかった。

***

 武次にいちゃんは、オレより6つも年上で、ご近所の有名人だった。
 体がでかくて、とにかく喧嘩が強い。中学時代、他校の不良がわざわざ喧嘩をしに来たほどだ。でも、いわゆる不良とはちょっと違っていて、カツアゲやったりシンナー吸ったり、という問題は起こさなかった。ただ、喧嘩が行き過ぎて警察のご厄介にはちょくちょくなっていた。そんな時、父さんが迎えに行って、家でさんざん怒鳴り散らす。オレは小さくてよくわからなかったけど、怒鳴ってる父さんより、むっつり黙って怒鳴られてるにいちゃんの方が好ましく思えた。
 にいちゃんは、オレに対してはすごく優しい。竹馬とか缶ぽっくりとか作ってくれて、その乗り方も実演してみせてくれた。メンコも木登りも天才的に上手い。ローテクな遊びばかりじゃなく、テレビゲームだって上手い。にいちゃんはオレのヒーローだった。
 全然勉強してないから高校には行けないだろう、とにいちゃんは言っていたが、案外あっさり地元の工業高校に進学できてた。2年間、一応真面目に通ってはいたが、2年生の冬休み直前の朝、いきなり中退宣言し、家を出てしまった。
 神崎家から、長男が消えた。オレはとてつもないプレッシャーを感じた。

 「和臣。期末のテストはどうだったんだ?」
 「…別に。いつも通りだよ」
 「うむ。成績を落すなよ」
 うるさいなー、わかってるよ。
 「和ちゃんは大丈夫よね。頭いいもの。この間も買い物帰りに久我先生にばったり会って、いっぱい褒められちゃったわ。和臣君はクラスの人気者ですよ、って」
 知らないよ。勝手に人の話で盛り上がらないでよ。
 夕飯の肉じゃがをやけ食いしつつ、オレは内心うんざりしていた。大体この後に続く言葉が予測できているから。
 「お前は武次みたいにはなるなよ」
 「武ちゃんと和ちゃんは違うわよねぇ」
 オレが11歳のガキじゃなかったら、多分、両親をぶん殴ってたと思う。

***

 にいちゃんが住み込みで大工修行をするようになってからも、オレはにいちゃんとよく会っていた。にいちゃんに、両親の愚痴をこぼしたり、学校のことで相談したりすると、なんとなく心が軽くなった。
 「カズは俺とは似てないからな。俺のアドバイスなんて、役に立たないと思うよ」
 そう言ってにいちゃんは困ったように笑うが、そんなことはない。にいちゃんはオレの憧れだ。にいちゃんみたいな、自立した大人になりたい。オレはずっと、そう思ってきた。

 オレが中学2年のある日、家を出てから一度も帰ってこなかったにいちゃんが、突然家に帰ってきた。
 にいちゃんは、一人の女性を連れていた。小柄だけれど、まるで少女のように愛らしくて、ふわっとした柔らかさを持つ人だった。
 「こんにちは」
 優しげな笑顔で声をかけられ、オレは思わず赤面した。クラスの女の子たちとは全然違う、柔らかで温かい雰囲気―――多分、これがオレの初恋だったと思う。
 ただし、オレの初恋は、そうと気づく前にあえなく散ってしまった。会った瞬間からわかってはいたんだ。大きなお腹を抱えるようにして玄関を上がったその人―――にいちゃんが労わるようにそれを支えている。2人は結婚の許しを得るために来たのだった。
 彼女は、にいちゃんの修行先である親父さんの娘だという。あと1月で母親になる身で、なんとにいちゃんより4つ年上だ。しかも―――お腹の子は、にいちゃんの子ではないと言う。
 「俺は、この人と結婚する。結婚して、親父さんの跡を継ぐ」
 それを聞いた父さんは、狂ったようににいちゃんを殴りつけた。自分より背も高く肩幅も広くなった息子を、涙を浮かべながら何度も何度も殴った。母さんは、父さんを止めない。一人でエプロンに顔を押し付けて泣きじゃくるだけだ。オレが父さんの腕にしがみついて止めたが、なんとか収まるまでに、オレ自身が数回殴られる羽目になった。
 にいちゃんの結婚は、認められなかった。父さんがにいちゃんに言い放った言葉は簡潔だ。
 「二度とうちの敷居はまたぐな。勘当だ!」

 結局、にいちゃんとその人は、結婚した。
 大工仲間や友人たちで開いたささやかな宴席に、両親には内緒でオレも招待された。学校帰りだったので、オレは学生服のまま参列した。
 高砂席の紋付袴姿のにいちゃんと白無垢姿の彼女は、とても幸せそうだった。日に焼けたにいちゃんの黒い顔が、時折彼女の方を見、優しげな笑みを浮かべる。その昔、オレに竹馬を作ってくれた時見せたのと同じ、心がポカポカしてくる笑顔を。彼女もそれに応えるように微笑む。春の陽射しみたいな笑顔で、胸がぎゅっとしめつけられた。
 にいちゃんの人生の門出を祝い、オレは少し祝い酒をもらった。大工仲間の中にはオレと同じ歳の奴もいて、二次会になだれ込んだ親父さんの家で、ついつい真夜中まで語り明かしてしまった。オレが外泊なんてしたのは、この時が最初で最後かもしれない。
 翌朝、初めて体験する二日酔いにフラフラになりつつ外に出ると、空はほんのりと赤く染まっていた。朝焼けだ。今日は雨になるのかな、と思いながら、まだ冷たい空気を思い切り吸い込んだ。
 「カズ君」
 親父さんの家から出てきたにいちゃんの奥さんが、オレに声をかけた。
 彼女は、昨日にいちゃんに見せたようなあの笑顔をオレにも見せ、手にしていた湯のみを1つオレに差し出した。
 「飲む?」
 「う…うん」
 温かいお茶の入った湯のみを受け取り、オレは縁側に腰掛けた。彼女も隣に腰を降ろす。
 2人で、無言でお茶を飲んだ。なんの変哲もない煎茶が、やたらおいしく感じる。
 「カズ君、ありがとね」
 「え…な、何が?」
 「あたしと武次さんの結婚、お祝いしてくれて。カズ君だけだったから、武次さんの家族で認めてくれたのは」
 そう言って微笑む彼女は、どことなく寂しげだった。
 「―――あのさ。訊いていい?」
 「何?」
 「なんでにいちゃんと結婚することにしたの?」
 彼女は、一瞬キョトンとした顔をし、続いてはにかんだような笑いを浮かべた。
 「…だって、武次さん以上の男の人は、あたし、一生かかっても見つけられないもの」
 そう言って笑う彼女の頬は、朝焼けの光のせいなのか照れてるせいなのか、真っ赤に染まって見えた。

 その日は結局、学校から帰る頃になって、大粒の雨が降ってきた。
 親父さんの家から直接学校に行ったオレは、1日半ぶりに家に帰った。帰ってびっくりした。会社に行ってる筈の父さんが、会社を休んで待ち構えていたのだ。
 事情を知る筈もない父さんは、連絡もなしに外泊し、しかもずぶ濡れで帰ったオレを「お前まで武次のように駄目な人間になる気か!」と怒鳴りつけた。

 ―――駄目な人間? にいちゃんが?

 にいちゃんは凄い。やっと20歳なのに、ちゃんと自分の道を見極め、勇気を持って邁進している。あのにいちゃんの、どこが駄目な人間? 家出したから? 大学に行かなかったから? 4つも上の人と結婚したから? 自分の子じゃない子の親になろうとしてるから?
 父さんも母さんも言う。「和臣、お前だけが頼りだ」と。オレは確かに、近所の人にもウケがいい。学校の成績も10番以内を維持してる。友達も多い。
 でも、それが何?
 オレのどこが、にいちゃんより優れてるって言うんだろう?

***

 その後どうしたかと言うと―――別に何も変わらなかった。オレは、地元では一番の進学校に合格し、成績は常に上位をキープした。何も変わらない―――表面上は。
 でもオレは、密かに計画していた。これ以上ない免罪符を手に入れる―――自由になるための。
 にいちゃんの所へは、その後もよく遊びに行った。にいちゃんの奥さんが作るクッキーは、オレの受験勉強の活力源だ。生まれてきた男の子の相手をしたり、にいちゃんの帰宅を待って相談事をしたり…にいちゃんの家は、オレの避難場所だった。
 周囲の友達は、彼女を作ったりして浮かれていたけど、オレはひたすら勉強した。オレに女の子の影があるのを極端に嫌がる母さんは、それを良い傾向とみなして上機嫌だ。本当は、にいちゃんの奥さん以上の女の子がいないって事と、計画を成功させるには女の子と遊んでる時間などないって事が理由だったんだけど。
 恋なんて、将来、いくらでもできる。とにかく、脱出しなくては。

 そして、18歳になった冬、オレはついに手に入れた。
 これ以上望むべくもない免罪符―――東大の合格通知を。

***

 「は!? 金沢を引き払う!?」
 オレは耳を疑った。が、母さんは本気らしい。ニコニコ顔で、食後のデザートのみかんを剥いている。
 「そうよ。東京にいいマンション見つけたから、お母さんとそこで暮らしましょ」
 「父さんはどうなるの」
 「お父さんはこの家よ。4年間だけだもの、久々に一人暮らしも悪くないって賛成してくれたわよ」
 つまり、大学を卒業したら金沢に戻ってくると勝手に計算してる訳だ。そんな気ないのに。
 「冗談だろ!? 母親と二人暮らしなんてどうかしてるよ! オレ、もう18なんだよ!?」
 「駄目よ、和ちゃん、世間知らずに育っちゃったから心配で」
 母さんは、大きなため息をついた。そして、決定的なセリフを吐いたのだ。

 「和ちゃんは、顔も可愛いからねぇ…武次みたいに、悪い女にひっかかったりするといけないから、そばできっちり守ってあげないと」

 この一言に、オレはついに切れた。

 ダイニングの椅子を蹴倒し、母さんの目の前に立って、平手を振り下ろした。
 派手な音がして、母さんが椅子から転がり落ちる。怒りで手が震えていたが、思った以上の力で引っ叩いてしまったらしく、母さんの左頬はあっという間に真っ赤に染まった。
 「いい加減にしろよっ!」
 オレが怒鳴ると、母さんは、魂がどっかに抜け落ちたみたいな表情でオレを見上げた。そりゃそうだろう―――暴力沙汰で警察に厄介になったにいちゃんですら、家族には一度だって手を上げなかったんだ。それなのにオレが―――成績優秀な模範生だったオレが、女である母さんに手を上げたんだから。
 オレだって信じられない。でももう、我慢の限界だった。

 オレは完全にキレた。息子の鏡みたいな役を演じてきたオレに、両親は弱かった。ただオロオロするだけで、にいちゃんにしたみたいに怒鳴ることも泣き叫ぶこともできず、ひたすら呆然としていた。
 授業料とアパート代を振り込むことを条件に「東大生の母」「東大生の父」を名乗ることを許した。断るなら大学には行かないと啖呵を切ったのだ。
 中途半端な大学名じゃ交換条件にならないのはわかってたから、あえて「東大」を狙ったのだ。オレの成績でもギリギリだったけど、これなら文句を言われる筋合いはない筈だと踏んだ。案の定、両親は条件を飲んだ。
 それ以外の生活費は自分で稼ぐ。本当は自活したいけど、オレはにいちゃんみたいに強くない。これはまず第一歩だ。
 ついに手に入れた自由な空間―――神田にある古い学生アパートの一室で、オレは誓った。
 早く大人になってみせる。にいちゃんには大きく遅れをとってしまったけど―――自分で自分の決めた道を、自分の力で進んでみせる。努力すれば不可能じゃないってことを、オレは身をもって知っている。
 これが、オレのスタート地点だ。

***

 そして―――奈々美さんに出会った。
 小さくて、可愛くて、ふわふわとした綿菓子みたいな人。笑うともの凄く可愛いのに、何故か寂しそうな、自信のなさそうな顔ばかりしている人。
 出逢った瞬間に、何故か数十年後の自分と彼女を頭に思い描いた。陽の射すリビングで、ソファの上で2人並んで、のんびりと紅茶を楽しむ2人を。
 それ以来、オレは奈々美さんだけを追いかけている。彼女が、あの可愛らしい笑顔を少しでも見せてくれるようにと、毎日そればかり思っている。
 でも、何故彼女にそこまで惹かれたのか…それを考えた時、「ああ、兄弟って好みが似てるんだな」と、思わず苦笑した。
 奈々美さんが時々見せる困ったような笑顔は、にいちゃんが選んだあのひとが、あの朝焼けの中で見せた笑顔に、どことなく似ていたのだ。


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