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「あら、神崎、出張から戻ったのね」
恒例のクリームパンと牛乳の朝食をとっている和臣を見て、出社した佳那子はそう声をかけた。
「大阪だっけ?」
「そう、大阪。一人旅で寂しかったなぁ。オレみたいな若造を一人でほっぽり出すなんて、部長もどうかしてるよ」
口を尖らせて愚痴る和臣を、この後、真の試練が待っていた。
「そうそう、昨日までやってた幕張のフェアでね。ついに会ったわよ」
「え?」
「藤井さん」
和臣の手から、クリームパンが転げ落ちそうになった。
危ういところでなんとかキャッチしたが、動揺はものの3秒で全身に行き渡ってしまった。
「ふ、藤井さんと? なんで?」
「彼女の会社も出展してたのよ。昨日は成田と3人で打ち上げやったわ」
「そ…そう」
「神崎の言ってた話、あながち美化し過ぎでもなかったわね。透明感のある、可憐な感じの子よ、蕾夏ちゃん。ただし仕事の時は凄いけどねぇ…私の上を行くキャリアウーマンの素質を持ってるわよ。営業のおじさん、すっかり小さくなっちゃってて。あれ、何か仕掛けたのかしら…。後で成田と2人でハイタッチして喜んでたのが、どうも気になるけど」
佳那子が蕾夏を気に入ったらしいことは、このセリフを聞けば十分わかった。人一人について、佳那子がこれほど細かくいろいろ話すのはそんなに無い事だから。だが、和臣の知りたい話は含まれていない。和臣はおずおずと小声で訊ねた。
「―――あの、彼女、何か言ってた?」
「は? 何を?」
オレのこと、何か言ってた?
怖くて訊けない。いや、逆に何か言ってたのなら佳那子が率先して話してくれた筈だ。つまり、彼女は何も言っていないのだ―――瑞樹が何も言わないのと同様に。
「…ううん、なんでもない」
力なくそう言い、和臣は残りのクリームパンを平らげた。
***
あの日―――瑞樹のベッドを占拠して眠り、目を覚ましたら、蕾夏は既に帰った後だった。
瑞樹も「お前、ちょっとは反省しとけよ」と言っただけで、何も言わなかった。
正直、ホッとした。その後も瑞樹の態度は変わらないし、元々蕾夏とは交流がないし、気楽といえば気楽な状況だ。
だが、あれから2週間―――和臣は、23年間の人生でこれほど悩んだことはない、という位、悩んでいた。
奈々美の事は、好きだ。一生かけてでも手に入れる、その気持ちは、2週間前と今を比べても1ミリたりとも減っていない。
なのに―――何故、蕾夏にキスなどしてしまったのだろう?
しかも、何故、また彼女に触れたいと思うのだろう?
たまらなく、嫌な気分だった。
和臣は、恋愛に慣れていない。奈々美を好きでありながら蕾夏も好きだなんて、そんな事はありえないと思っていた。が、考えれば考えるほど、そうだとしか思えない。なんだか自分がひどく不真面目に思えて、嫌でたまらない。
2人の間で揺れている自分を、なんとか落ち着かせたい。それができないと、蕾夏には勿論のこと、奈々美にも何ら行動をとれない気がした。
「久保田さん、一度に2人の人を好きになった事ってありますか?」
営業まわりの車の中で、和臣はふとそんな相談をしてしまった。
ハンドルを握る久保田は驚いた顔をしたが、細かい事は質問してこなかった。眉間に皺を寄せ、うーん、と暫く
「いや、俺はないなぁ」
と答えた。やっぱりね、と落胆したように言う和臣に、久保田は更に続けた。
「でも、昔いたな、一度に2人を好きになっちまった奴が、友達に」
「え…本当に? その人、何か言ってた?」
「体は1つしかないのに―――2人も同時に好きになるなんて、つまらないね、って言ってた」
「…1人に絞ることって、できないものなのかな」
「そいつには、できなかったみたいだよ。そういう奴だったから」
「―――オレ、よくわかんないなぁ…」
和臣はため息をつき、ダッシュボードに頭を預けた。
「奈々美さんは“運命の人”なんだよな。80歳まで一緒にいたい人なんてもう現れないもん。だから、何年待ってでも絶対手に入れる。うん、その気持ちは、全然変わってない」
隣で黙って聞きながら、久保田がバツが悪そうに頭を掻いた。自問自答モードに突入しているらしく、久保田の存在も忘れたような凄いセリフがポンポン飛び出す。
「その気持ちは全然揺らいでないのに―――なんで、藤井さんに触れたいって思うんだろう?」
「…へ?」
藤井さん。その名前に、久保田は眉をひそめた。聞き覚えがあった。つい今朝ほども、佳那子から聞かされた名前だ。
が、和臣は久保田の間の抜けたような反問の声も聞こえていないようだ。
「藤井さんって、甘えやすいんだよなぁ…病気してる時に会ったからかな。頼めば髪触らせてくれたし、頭撫でてくれたし…でもなぁ、一方的にキスしたのは、やっぱまずかったよなぁ…怒ってたもんなぁ」
「……ッ」
ハンドル操作を間違えそうになり、久保田は慌ててハンドルを立て直した。
血の気が引いていく感じがする。こいつ今何て言った!? と頭の中で警報が鳴り響く。
―――佐々木…には、言えねーよな、こんなの。俺一人で抱えろって? しんどすぎる…。
いい加減、俺の存在を思い出してくれないものだろうか―――久保田は、ドキドキする心臓と折り合いをつけつつ、願うような目で隣の和臣の様子を窺い続けた。
「成田に当てつける気持ちもあったけど、そんなのほとんど口実だし。あー、好きだなぁ、と思ったら、もうキスしてたし。オレってこんなに衝動的な奴だったかなぁ。成田は大人だよなー、オレを責めたり
―――瑞樹も知ってんのかよ…どういう話だかよくわからねーな、こりゃ。
大きくため息をつき、久保田は和臣の頭をポン、と叩いた。自分の存在を思い出させるために。
途端、和臣の沸騰気味の頭が、凍りついた。
「―――オレ、今、何か喋ってました?」
「…ああ。面白い事、一杯喋ってたな」
「―――忘れて下さい」
「もう無理だろ」
「…オレって馬鹿…」
ダッシュボードに預けていた頭がズルズルと下がる。深い自己嫌悪の底に沈みこみそうになり、和臣は「あー、本当に馬鹿!」と怒鳴った。
「俺には話がよく見えなかったけど…」
久保田は煙草をくわえて火をつけ、窓を少し開けた。
「お前、木下を大事にし過ぎだろ」
「え…そうですか?」
「手も握ったことないし、悩みを打ち明けたり泣きついたりしたこともないだろ? まぁそれは、木下の方もそうだけどな。お互いに相手よりイニシアティブを取りたくて、でも取れなくて困ってる。そんな感じに見える」
それは本当だった。和臣はようやく、のろのろと頭を上げ、久保田の方を向いた。
「カズが2人とも好きなのは本当だろうけど、木下は完全に別格っていう点は、今も揺らいでないんだろ?」
「…それだけは、自信あります」
「なら、いいんじゃねーの? 藤井さんて子に甘えるように、木下に甘えられる時期が来れば、おのずと木下に気持ちが集約されるさ。木下に甘えられない分のフラストレーションが藤井さんに向いてるんだろう。本来お前は
「…じゃあ、オレ、どうすれば…?」
「藤井さんに謝って、あとは馬鹿な真似しないよう自制してりゃいいさ」
「―――自制、できるのかなぁ…」
「自信がないなら、全て木下を手にいれるためだって考えてみろ。そうすりゃ、大概の事は自制できるぞ」
「なんか、経験者は語る、みたいな言い方ですね」
「…そんなことは、ないさ」
―――だったらなんで、視線が泳いでるんですかっ。
運転中なのでちゃんと前は向いているが、明らかに目が動揺気味な久保田を、和臣は横目で睨んだ。そしてふと、さっき久保田が話した事を思い出し、思わず質問した。
「久保田さん。さっき、同時に2人好きになっちゃった友達の話してましたよね。その人、結局どうなったんですか?」
久保田は、和臣の質問に、一瞬うろたえたような表情を見せた。そしてポツリと呟くように、答えた。
「…死んだよ」
車内の温度が、一気に5度ほど下がった気がした。
***
会社に戻ると、和臣の席に、1枚のメモが置いてあった。
―――何これ。成田の字じゃん。
しかも、コピー用紙を適当にちぎった、という感じ。書かれていたのは、携帯の電話番号だけだった。
この番号にかけろ、という意味だろう。喋るだけでなく、メモまで短い。
誰の電話番号だろう、と一瞬悩んだが、すぐに答えは出た。蕾夏の番号だ。それ以外考えられない。
―――なんで、今頃? あれから2週間以上経ってるのに…。
和臣に、考えるための猶予期間を与えてくれたのだろうか? ―――有り得る、と和臣は思った。なんだかそういうところまで見透かされてる感じで、悔しくなる。
メモを片手に、システム部を覗き込んだ。時計は既に午後8時。システム部も大半は帰っていたが、瑞樹はいつも通り、ディスプレイの前で残業していた。
「成田」
仕事中はまず振り返る事のない瑞樹が、和臣の声に振り返った。ということは、メモを見た和臣が声をかけてくる事も、ある程度予測していたのだろう。ますます悔しくなってくる。
「かけろよ。毎日カズらしくない暗い顔見るのも、もう飽きた」
「…いいのかよ、オレが電話しても」
「いいに決まってるだろ」
「そうじゃなくて―――結果、オレと藤井さんがくっついちゃっても構わないのか、って事だよ」
「いいよ」
じっと瑞樹の目を見たが、あっさりした言葉同様、瑞樹の表情もケロリとしていた。
「好きなんじゃないの? 藤井さんのこと」
「よせよ。俺たちはそんなんじゃねーって。馬鹿にすんな」
ちょっと気分を害したような顔をして、瑞樹は和臣を睨んだ。何故馬鹿にしたことになるのか、和臣にはよくわからない。まだ少し疑わしげな目をしていたら、瑞樹は苦笑いを浮かべた。
「心配すんな。俺には、恋愛なんてできねーよ」
「…え?」
恋愛なんてできない、って…なんで?
和臣はそう訊きたかったが、瑞樹はそれだけ言うと、またディスプレイの方に向き直ってしまった。
***
結局和臣は、携帯電話とメモを持って、屋上に向かった。
7月中旬ともなれば、夜でもそこそこ気温が高い。日中温められた屋上のコンクリートは、まだ微かに熱を帯びているように感じられる。屋上に吹く風が適度に心地良い。金網に背中を預け、和臣はメモにある番号を1つ1つ確認しながら押した。
呼び出し音が2、3回続いた後、電話は繋がった。
『―――もしもし?』
少し警戒したような蕾夏の声が聞こえ、和臣は心臓が跳ね上がった。
考えてみれば、電話を通して蕾夏の声を聞くのは、例の間違い電話の時以来だ。実際に聞く声とは若干異なる声に、妙な焦りを感じる。
「あ、あの…藤井さん? オレ。神崎」
『あ…カズ君? え、どーしたの? 電話番号訊いたの?』
途端、声から警戒の色が消える。見覚えの無い番号からの電話だったので、警戒していたらしい。いつもの蕾夏の声に近くなり、少し安心した。
「うん、まあ、そんなとこ。あの―――今って、電話してても大丈夫?」
『ん、いいよ』
和臣は深呼吸をすると、エレベーターの中でまとめた考えを、もう一度頭の中で復唱した。
「まず…この前は、ごめん。オレ、浅はかだった。許して欲しい」
『あー…あはは、うん。いいよ。カズ君、ショック受けて、ちょっとおかしくなってたんだよね』
「……」
あっさりそう言われると、非常に困る。和臣は、ぽりぽりと頬を掻いた。
「う…うん、それはまぁ、そうなんだけど、さ。それだけじゃないよ」
『え?』
「―――オレ、藤井さんが、好き」
電話の向こう側で、絶句してる気配がする。
「奈々美さんは世界で一番好きだし、それは今も変わらないけど―――藤井さんも、そういう意味で、好き。だから、キスした。…って、意味、わかるよね?」
『……』
返事は、すぐには返ってこなかった。驚いて何も言えないのかもしれない。気まずさに、和臣が空いてる方の手で金網を弄っていると。
『―――ごめんね』
突如、蕾夏が謝ってきた。その声は、何故か小さくて弱い感じがした。
「え? なんで?」
『…私、想われても、想い返せないから…友達にしかなれないと思う』
ズキン、と、胸が痛んだ。
いや、想い返されたら想い返されたで、じゃあ奈々美をどうするんだ、という問題があるのだが。それでも、好きな人に拒否されるのは、やっぱり胸が痛む。やはりこれも「失恋」と呼ぶのだろうか。結構、キツい。
「あ…ああ、うん。それはしょーがないよ。オレと会った回数少ないし、藤井さんから見たらオレは弟みたいなもんだってこと、わかってるし」
『そういう意味じゃないの』
「…じゃあ、どういう…?」
『―――ごめん。私、恋愛できないの』
「え?」
携帯を片手に、和臣は目を瞬いた。
ついさっき、瑞樹からも、ほぼ同じ事を聞かされたばかりだ。でも―――“恋愛できないの”? どういう意味だろう?
『でも、カズ君が奈々美さんの事で悩んだり落ち込んだりした時に、頭撫でる位はできるよ。お姉さん代わりなら、なれると思う』
「藤井さん…」
―――そういう優しいことを言われると、惚れ直してしまうんだけど…。
というか、さっきの“恋愛できない”って話は、どうなったの?
複雑な気持ちが錯綜するが、少なくとも、完全に嫌われてしまった訳ではなさそうだ。
「うん。わかった。ごめんね、困らせるような事言って」
『ううん。がんばって、奈々美さんゲットしてよ』
電話の向こうの声が、やっといつもの調子に戻った。和臣も表情が緩んだ。
『それと、あの、カズ君―――瑞樹と喧嘩しないでね』
「……」
『それが一番心配だったから。瑞樹がカズ君と仲たがいしちゃうと寂しいよ』
「…うん、わかった」
『あ、電車来ちゃうから。じゃ、またね』
どうやら、電車待ちだったらしい。慌しく、蕾夏の電話は切れた。
話し中のツー、ツー、という音だけが耳に届き、和臣はゆっくり電話を切った。
「み、ず、き、…か」
手の中の携帯電話を見下ろし、和臣は呟いた。
気づいてしまった。前とは違う呼び方。
この名で呼びたがる女は、過去に大量にいた筈だ。でも、和臣が知る限り、彼をその名で呼んだ女性は、蕾夏が初めてだ。
恋愛なんて無理だという瑞樹と、恋愛できないという蕾夏―――偶然、なんだろうか。
なんとなく重い空気をまとったまま、和臣はエレベーターに乗り込んだ。
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