←BACKStep Beat TOPNEXT→

 

no029:
白煙
-odai:25-

 

多恵子トイウ名ノ、禁句。

―98.07―

 手向けられた菊の花と、線香。
 それを見て、久保田は訝しげに眉根を寄せた。
 線香の長さからみて、まだ手向けられたばかりの筈。だが、周囲に人影はなかった。
 ―――佐々木、だよな。
 それ以外の人間は考えられなかった。今日は故人の命日でもなければ、お盆やお彼岸でもない。7月5日に墓参りに来る人間がいるとしたら、それは久保田以外では佳那子しか有り得ない。
 追いかけようか、一瞬そう思ったが、やめた。
 久保田は、既に綺麗に掃除されている墓石に更に水をかけ、持参した線香に火をつけ、静かに手を合わせた。

 ―――“久しぶり、隼雄”
 「…おう。久しぶり」
 ―――“佳那子ちゃんも、さっき来たんだ。また綺麗になったね、彼女”
 「…ああ」
 ―――“成田は? 変わりない?”
 「変わらないよ」
 ―――“大学の中庭にあった銀杏の木は? まだある?”
 「まだあるよ。何も変わってないよ。―――お前がいない事以外は」
 ―――“ふふ…僕がいない事以外は、か”
 「…なあ。1つ、質問してもいいか?」
 ―――“…駄目だよ。隼雄が僕に訊きたい事位、僕にもよくわかってる。でも、その質問には、答えられない”
 「…そ…か」
 ―――“隼雄。僕と出逢った事、後悔してる?”
 「してないよ」
 ―――“僕と佳那子ちゃんを逢わせてしまったことは、後悔してる?”
 「…それは、ちょっとしてる」
 ―――“僕は、後悔してないよ。人生の最後に、彼女に出会えて良かった”
 「…本当か?」
 ―――“うん、本当だよ。だから隼雄も、後悔しないで”
 「―――わかった。お前に佐々木を逢わせて良かった」
 ―――“隼雄。最後に名前、呼んでよ”
 「……」
 ―――“隼雄? 僕、隼雄が僕の名前呼ぶの、好きだよ”
 「…わかった。―――誕生日おめでとう、多恵子」
 ―――“ありがとう―――隼雄、愛してる”

 はっ、と我に返ると、手向けた線香の灰がポトンと落ちる瞬間だった。
 「多恵子」
 返事はない。ある訳がない。多恵子は死んだ。もう随分前に。
 「多恵子―――俺たちのせいか?」
 ―――答える訳、ないよな。
 昔からお前は、そういう奴だった。
 久保田は、少し傾きかけた線香をきちんと立て直すと、菊の花束を手に、その場を去った。

***

 公園墓地の石段を降りたところに、佳那子が立っていた。
 「待ってたのか?」
 「来ると思って、時間つぶしてたのよ。そこの喫茶店でね」
 そう言った佳那子は、久保田を頭のてっぺんからつま先まで一瞥し、可笑しそうに笑った。
 「…なんだよ、失礼な奴だな」
 「ふふふ、ごめん。だって、考えてみたら背広姿以外の久保田って、凄く久しぶりに見るじゃない? そういう格好だと、久保田も普通の若者よね」
 半袖のストライプのコットンシャツに、ベージュのチノパンという服装の久保田は、確かに背広姿よりは歳相応に見えた。仕事の時は、常に実年齢より5歳近く年上に見られている。
 「佐々木も、そういう服着ると普通の女だよなぁ…会社で瑞樹の頭こづいてる女と同一人物とは思えない」
 「失礼ねぇ」
 Tシャツにジーンズ素材のロングスカートの佳那子は、「システム部の才女」から「佳那子ちゃん」に変身していた。
 「久保田、お昼食べた?」
 「いんや、まだ。駅前で何か食うか」
 「そうね―――あら、花、活けきれなかった?」
 久保田が手にしている菊の花束を見て、佳那子が「しまったかな」といった表情をした。佳那子が先に花を飾ってしまったので、花活けに久保田の分が入らなかったのだ。
 「欲しけりゃやるぞ」
 「遠慮しとくわ。花なんて持ち帰ったら、何言われるかわからないでしょ」
 「…道理だ」
 2人は、曇り空の下、駅の方に向かって歩き出した。
 「早いわね。多恵子ちゃんの誕生日祝うの、これで5回目よ」
 「…そうだな。でもお前、ちゃんと約束守ってやってくれてるんだな」
 「そりゃそうよ。久保田も私も、多恵子ちゃんの“恋人”じゃない」
 佳那子がにこっと笑う。久保田は言葉につまった。

 多恵子。
 その名は、2人の間ではずっとタブーになっていた名だった。
 ある冬の夜、自ら命を絶ってしまった彼女―――「僕に命日はいらない、誕生日祝いをやって」。それが、多恵子が久保田と佳那子に残した遺言。
 今年が、3人で祝う、5度目の誕生日。けれど……生きている多恵子と共に祝ったこの日は、最初の1度きりだった。

***

 多恵子は、久保田の大学の同級生だった。
 ツンツンと毛が立ってしまうほどのベリーショートの髪、片耳に大量のピアスをつけた彼女は、学内でも知らない人はいないほどの有名人だった。
 手首を切って救急車で運ばれたのが4回、睡眠薬で昏睡状態になったのが5回。彼女は、筋金入りの自殺志願者である。裕福な家庭に育ち、音楽の才能にも恵まれ、何故自殺なんて思いつくのか、誰にも理解できなかった。が、彼女の望みは常に「死ぬこと」―――他に欲しい物は、何もなかった。
 多恵子は不思議と、久保田になついた。同じジャズ好きだったせいかもしれない。暇さえあれば久保田にまとわりつき、その少しかすれた声で「隼雄」と呼ぶ。エラ・フィッツジェラルドの歌声に憧れていて、よく真似をして歌っていた。軽音楽部が彼女の歌唱力を見込んでよく助っ人を頼んでいたが、とうとう最後まで正式な部員になることはなかった。彼女は自由を愛していたから。
 彼女は決してスカートを穿()かない。自分のことを「僕」と呼ぶ。気に入った人間であれば、男であれ女であれ、構わず平気でキスをする。同性である女性は相当ショックを受けるらしいが、久保田もそれなりにショックを受けた。男子校でひたすら部活動に励んでいた久保田は、実は、多恵子に不意打ちされた新入生歓迎コンパの時のキスが、ファースト・キスだったのだ。
 性別なんて、多恵子の前では無関係なこと。年齢もお金も物も無意味。彼女にあるのは、瞬間的な快楽と、死への渇望だけ―――困った奴だ、と思いつつも、本当にいつかその望みを叶えてしまいそうで、久保田は多恵子を放ってはおけなかった。
 1年生の冬、久保田に彼女ができると、多恵子はふいに姿を消した。いや、大学には来ていたが、久保田の周囲から消えたのだ。その彼女と別れてしまうと、多恵子はまたふいに戻ってきた。その後も、久保田に彼女が出来ると離れ、別れると戻ってくる、というパターンを繰り返した。自分がいては久保田の邪魔になる、と感じているらしい。無茶苦茶な性格なのに、そういうところだけは妙に気を遣う方だった。
 大学を卒業後、彼女はどこにも就職しなかった。ふらふらと六本木あたりをうろつき、たまにアルバイトを見つけては小金を稼いでいた。
 そしてあの日―――社会人1年目の、夏。
 久保田は、佳那子と飲みに行った店で、偶然多恵子に再会した。意気投合した3人は、その日が偶然にも多恵子の誕生日だったので、ささやかなバースデー・パーティーをした。
 佳那子は、多恵子のキスの洗礼を受けた。そう、多恵子に気に入られてしまったのだ。

***

 「隼雄、佳那子ちゃんともう寝た?」
 久保田は、思わず飲みかけのバーボンを吹き出してしまった。真っ赤になってむせている久保田を見て、多恵子は派手な笑い声をあげた。
 「ば、馬鹿かお前! なんてこと訊くんだ!」
 「おっかしー。隼雄ってば真っ赤になってる。相変わらず硬派だよね、そういうとこ。で? 真相はどうよ。イエス? ノー?」
 「どっちでも、お前には教えない」
 「あっそー。じゃあ、僕が寝取っちゃってもいいかなぁ、彼女」
 多恵子がニヤリと笑う。冗談かと思ったが、多恵子ならあり得る、という気がするのが怖い。
 「…やめてくれ。佐々木は俺以上の超硬派だ。お前のテンションについていけるほど柔らかくないんだ」
 「あっははは、冗談だよ。でも、佳那子ちゃんは気に入った。それは本当」
 多恵子は、半ば夢見るような表情で、手にした水割りを一気に飲み干した。
 「綺麗だよね、彼女―――肌は透明感があって、目はきりっとしてて、背筋が伸びてて、健康的で―――女から見ても男から見ても、完璧に美しいもん。あれこそ、僕の理想とする女かもしれない」
 多恵子の言葉に、久保田は眉をひそめた。
 僕の理想とする女―――それは、あんな風に生まれたかった、という意味だ。
 初めてのことだ。多恵子がそうした感情を持つことは。誰にも、何にも執着しない。自分は自分のままで良いと常に思っている、自由奔放な存在―――多恵子はそういう人間だった筈だ。
 一体どうしたのだろう? 他の人間なら当たり前の言葉も、多恵子が口にすると危険信号に変わる。久保田は、だんだん不安になってきた。
 「隼雄。彼女って、隼雄と付き合ってんの?」
 「……」
 見透かそうとするかのように見つめてくる多恵子に、久保田は何も返せなかった。
 久保田と佳那子の関係を説明するのは、結構難しい。付き合ってんの? と訊かれて「そうだよ」と簡単に答えられれば、どれだけ楽だろう。
 「イエス、とは言い切れない関係な訳だ」
 「…ま、そんなとこだ」
 「…そう。じゃあ今回は、僕が消える必要はないよね」
 そう言って多恵子はニッと笑った。

***

 以来、死ぬまでの数ヶ月、多恵子は久保田と佳那子を誘い、よく飲み歩いた。
 多恵子は知人に、久保田と佳那子のことを「僕の恋人なんだ」と吹聴してまわった。多恵子流の親愛の情の示し方だったのだろう。
 3人には、ジャズという共通の趣味があったから、3人で飲んでいても常に楽しかった。ジャズ談義に花を咲かせ、ついつい遅い時間になることもしばしばだった。

 その日も、年末年始にあるジャズ・ライブの話題などで盛り上がり、気づけば結構な時間になっていた。
 「おい、佐々木」
 「え? なあに?」
 「時間」
 久保田が、背後の壁掛け時計を親指で指し示す。終電ギリギリの時間だ。それを見た佳那子は、コートを手に、少し慌てた様子で席を立った。
 「あらら…ほんとだわ。ダッシュすれば間に合うかな」
 「急げよ。もし駄目だったら携帯に電話よこせ。タクシー拾うから」
 「大丈夫よ。タクシー位自分で拾えるから」
 苦笑する佳那子に、久保田は厳しい顔を向ける。
 「駄目だ! 最近はタクシーの運転手にも妙な奴が紛れてたりするんだぞ。女一人じゃバカな企みする輩も、乗る前に男がついてりゃ警戒するもんなんだよ」
 「はいはいはい。大丈夫よ。足には自信あるんだから、ちゃんと終電つかまえて見せるわよ。―――じゃあ多恵子ちゃん、お先にね」
 「ん、またね」
 多恵子も苦笑して、右手を挙げてみせた。こうした光景は、終電ギリギリになった夜は必ず展開される場面だ。多恵子はこういう久保田の様子を「まるで佳那子姫に仕える従者だね」とよく皮肉っていた。
 「隼雄がここまで気を遣うってことは、よっぽど厳しい家なんだね、佳那子ちゃんちは」
 バタバタと店を出て行く佳那子の背中を見送りながら、多恵子が半ば呆れたような声で言った。
 「…ああ。あの家は、尋常じゃねーぞ」
 久保田は、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。佐々木家の厳しさを、久保田は嫌というほど知っている。だからこそ、佳那子以上に終電の時間を気にしている訳だ。
 「―――ねぇ、隼雄」
 多恵子は、佳那子が出て行った店のドアを見つめ、いつもとなんら変わらぬ声音で呟いた。
 「僕が佳那子ちゃんみたいに綺麗だったら、隼雄の恋人になれたかな」
 あまりにも普通なトーンで呟かれた言葉。
 一瞬、そのまま聞き流しそうになったが、言葉の意味にひっかかりを感じ、久保田は多恵子の横顔を凝視した。
 「僕が隼雄みたいに誠実で優しければ、佳那子ちゃんの恋人になれたかな」
 「―――どうした? 多恵子」
 バーボンを飲みかけていた久保田は、唐突な言葉に、思わずグラスをテーブルに戻した。様子がおかしい。多恵子がこういう類の話をしたことなど、これまでなかった。
 多恵子はラッキー・ストライクを1本取り出し、火をつけた。その手が微かに震えている。煙を吐き出すと同時に、怪訝そうな顔をしている久保田に、意味深な笑顔を向けた。
 「知らなかった? 僕、2人とも愛してるんだよ」
 「2人とも?」
 「隼雄と、佳那子ちゃん。両方愛してるんだよ」
 「…なんだよ、そりゃあ」
 頭の中に、たくさんのクエッションマークが並ぶ。いつもの「多恵子流親愛の情の表し方」と言うには、ちょっとムードが違いすぎる。久保田の顔が、ますます怪訝そうなものになる。
 「つまりさ―――僕は終電なんて気にしない、でも、隼雄に終電を気にしてもらえる佳那子ちゃんは、羨ましい。僕は外見なんて気にしない、でも、ネクタイが曲がってると佳那子ちゃんに直してもらえる隼雄は、羨ましい。僕が、2人のうちのどちらかだったら良かったのに。…そういうことだよ」
 話しているうちに、多恵子の顔から笑みが薄れていく。最後には、少し思い詰めたような表情になっていた。
 得体の知れない不安が、久保田の胸にせり上がってくる。
 何故多恵子がそんな事を言うのか―――人を羨ましがったりするのは、多恵子らしからぬ言動だ。彼女が求めているのは「死」だけだったのに。
 まともな感性になった、と喜ぶべきなのか。それとも、また自殺願望を呼び起こさせる危険な兆候ととるべきなのか。5年近く一緒にいる久保田でも、その見極めは難しかった。
 依然、訝しげに眉をひそめて自分を見る久保田を、多恵子はバカにしたように鼻で笑った。
 「隼雄、なんて顔してんの。愛の告白された男の顔じゃないよ、それ」
 「…どうも、愛の告白されたとは思えないんだが」
 「本当だよ。僕は、隼雄も佳那子ちゃんも愛してる」
 多恵子はニッと笑うと、少し寂しげに、視線を逸らした。
 「でも、この体は一つしかない―――つまんないね、同時に2人も好きになるなんて」

 その夜。
 久保田と別れた後、多恵子は、自宅マンションの屋上から、うっすら雪の積もる駐車場へとダイブした。
 多恵子は、今回は失敗しなかった。彼女はやっと、23年間の唯一の望みを成就させたのだ。

***

 「―――多恵子は、答えてくれないなぁ…」
 久保田はポツリと、そう呟いた。傍らを歩く佳那子が、少し眉をひそめて、久保田の横顔を見つめた。
 「何を?」
 「…死んだのは、俺たちのせいなのか、って事だよ」
 佳那子の表情が曇る。
 「確かに多恵子は、自殺志願者だった。いつ死んでもおかしくなかった。でも―――あいつはあの日、俺も佐々木も“愛してる”と言ったんだ。人間、愛があれば、そこに執着心も生まれる筈なのに…なんであいつは、俺や佐々木を置いて死んじまったんだろう。その答えをずっと探してるけど―――見つからない」
 佳那子は、沈んだ表情で久保田の横顔を暫し見つめ続けたが、口にしそうになった言葉を飲み込んで、視線を逸らした。
 言えなかった。佳那子には、多恵子が何故死んだのか、その心理が手に取るようにわかるが、それを久保田に言う訳にはいかなかった。
 “隼雄には何も言わないで”―――それが、多恵子が佳那子にたくした、唯一の遺言だったから。
 「…久保田には、一生かかっても、わからないと思うわ」
 佳那子がそう言うと、久保田は、ちょっと心外といった顔をこちらに向けた。
 「どういう意味だ?」
 「言ったまんまよ。久保田には、多恵子ちゃんの心は、きっと一生わからない」
 「じゃあ、お前にはわかるのか?」
 「わかるわよ」
 佳那子は、久保田の方を向いて、きゅっと口の端を上げて笑ってみせた。
 「―――だって、私も多恵子ちゃんも、“女”だもの」
 「…は?」

 ―――俺は“男”だから、わからないって事か?
 謎の微笑を浮かべる佳那子の傍らで、久保田は、ただ首を傾げることしかできなかった。


←BACKStep Beat TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22